逆から教える歴史授業
歴史に学ぶ歴史教育


序文

 私は歴史教育の目的は「何時どのような事があったか」を覚えさせるものでなく、「何かの出来事に対し、原因は何か、どのような対策をし、その結果どうなったか」とか、他のやり方がなかったか等を考え、これからの人生の参考にする一助にすることだと思っている。そしてその為には参考になる事の多い現在から遡って教えるべきだと考えている。

 そこでその具体化のため、平成10年12月制定の中学校学習指導要綱を調べてみた。まず基本方針として示されている事項は次の通りである。

(ア)日本や世界の諸事象に関心を持って多面的に考察し、公正に判断する能力や態度、我が国の国土や歴史に対する理解と愛情、国際協力・国際協調の精神など、日本人としての自覚を持ち、国際社会の中で主体的に生きる資質や能力を育成することを重視して内容の改善を図る。
(イ)児童生徒の発達段階を踏まえ、各学校段階の特色を一層明確にして内容の重点化を図る。又網羅的で知識偏重の学習にならないようにすると共に、社会の変化に自ら対応する能力や態度を育成する観点から、基礎的、基本的な内容を厳選し、学び方や調べ方の学習、作業的・体験的な学習や問題解決的な学習など児童生徒の主体的な学習を一層重視する。

 次に標準授業時間は週5日制の実施により、歴史は在来より35時間少なく105時間となっており、1,2年で学ぶことになっている。

 ここで強調されているのは、日本人としての自覚、世界史との関連、生きる力の養成、時間の短縮に伴う主体的な学習であろうか。いずれも私の主張と合致する。この目的の為にも私は真っ先に「戦後のどん底の生活から、今日の隆盛に至った経過」を調べさせ、何故可能であったかを考えさせる事が望ましいと考える。特に技術・経済の発展の経過等については、両親や祖父母等の協力を要請することにより、親子の会話を促進し、主体的な学習能力の育成に繋がる。世界が狭くなり、国際問題が重要になったのも、近現代である。この目標の達成には戦後から始めることが最も適正と考える。

 次に目標として次の4項目が上げられている。

(1)歴史的事象に対する関心を高め、我が国の歴史の大きな流れと各時代の特色を世界の歴史を背景に理解させ、それを通して我が国の文化と伝統の特色を広い視野に立って考えさせると共に、我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる。
(2)国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を、その時代や地域との関連に置いて理解させ、尊重する態度を育てる。
(3)歴史に見られる国際関係や文化交流のあらましを理解させ、我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深く関わっていることを考えさせると共に、他民族の文化、生活などに関心を持たせ、国際協調の精神を養う。
(4)身近な地域の歴史や具体的な事象の学習を通して歴史に対する興味や関心を高め、様々な資料を活用して歴史的事象を多面的・多角的に考察し公正に判断すると共に適切に表現する能力と態度を育てる。

 ここで要求されているのは歴史の大きな流れの把握と、世界史・人物史・地域史であろうか。この中で人物史は宿題として、伝記・歴史小説等で主体的に学ばせるのが良いと思う。宿題という負担を余り感じさせず、学べるのではなかろうか。郷土史については郷土の資料館の活用が重要である。

 次に内容として5つの大項目と、21の中項目が示されている。大項目は最初に、歴史の流れと地域の歴史が据えられ、以下古代・中世・近世・近現代の4項目の時代史となっている。最初に郷土史を持ってきているのは、小学校の歴史教育とのつながりと、歴史への興味を持たせる為となっているが、私は現代の技術史の方が遙かに生徒の興味を引き、歴史に興味を持たせると考えるので、現代史を先行させる。誰しも身近なことほど関心が深く、学んで役立つ。
又昭和初期の金の解禁、江戸時代の貨幣の改鋳の意義は為替レートの変更、インフレ政策と考えれば非常に分かりやすい。このように現在の政策と結びつけて、過去の政策を考えた方が、歴史の本当の理解に結びつくのである。従って現代史から次第に遡る授業を行いたい。歴史を逆から教えると言っても、あらゆる事象は原因、経過、結果から成り立つ事、教科書が年代順に記述してあるので、教科書の利用の面からもある程度まとまった年代単位で、年代順に教える方が教えやすい。 郷土史としては各年1回、地域の資料館見学等を中心に学ぶこととする。又地方の偉人についてはその時代の人物史の一環として取り上げる。歴史の大きな流れについては、最終授業の総括として学ばせるのが良いと思う。

 次に各時代での中項目数は古代4項目、中世2項目、近世5項目、近現代8項目である。そこで近世から幕末を近現代に移すと古代から近世まで10項目、近現代9項目となる。従って近現代を1年で、古代から幕末までを2年で教えるような授業計画を立てたい。又近現代は、終戦後・日露戦争終了後から第2次世界大戦まで、幕末から日清戦争までの3つの時代区分に従って教えたい。

 以上の観点より各項目についての時間の配分案を別紙に示す。

 尚内容の取り扱いとして全般的な事項を5点と、内容の各項目別に方針が出されている。この中で、生徒の発達段階を考慮して難しいことを教えるなとしているが、私は教師の経験がなく生徒の発達段階がよく分からない。又世界史では日本史と直接関わる事項に留めるとしているが、日本のその時代の発展程度と、世界の比較といった点より、ある程度の常識を教えたい。地理、公民との連携に留意する事についても教育の実態を知らないので、この内容の取り扱いについては無視し、私ならこのような事を教えたいと言うことをベースに授業作り案を作成する。是非ご意見、ご批判を賜りたい。少しづつ発表するが、1回発表した物も不具合に気づいた都度修正する。

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第1章 戦後の発展(1945−2000年)

第1節 戦後の変革(1945−1955年)

第1回、序、戦後の混乱、インフレの克服

1.目標

1.戦後の苦しさを教え、今日如何に豊になり、住みやすくなったかを感じさせる。
2.この時期のインフレの発生、それに対する対策と効果について考える。景気対策等、経済政策の原点を教える非常によいサンプルである。
3.生活防衛のため、労働運動はどのように行われたかを教える。この項は時間の関係上苦しければ第3回に回す。

【挨拶】

 今日から歴史の授業をします。私は歴史を学ぶ目的は、一つの出来事・例えば戦争が何故起きたか、その結果どうなったか、或いはなんらか困難に遭遇した時、先輩はどのように対処し、その結果どうなったと言った事を学び、自分の生き方の参考にする為だと思います。いつ、どんなことが起きたかを覚える、単なる暗記物であってはならないと思っています。その為には現在に近いところから勉強した方が、身近な話題も多く、参考になることも多いと思います。そこで普通とは逆に教科書の後ろの方から勉強したいと思います。

 終戦直後の状況 今から50−60年前日本は大変大きな戦争をして負けました。その時の状況が?頁に書いてあります。Aさん読んで下さい。終戦直後は本当に大変な時代でした。食料の配給が欠配、遅配となり、お米の代わりに砂糖が配給になったこともあります。サツマイモの葉柄やイナゴ等も良い食料でした。

【現在との違いについて生徒の感想を聞く】

 豊になったこと、便利になったことを引き出す。

【一人当たりGNP、平均寿命の国際比較を示す】

一人当たり国民総生産 単位ドル 世界国勢図絵
 日本アメリカソ連(ロシア)(西)ドイツイギリス
19501321,881468745
19604602,8521,3011,387
19701,9204,7602,9302,270
19809,02011,59012,3208,520
199025,84021,8103,43022,36016,080
199738,16029,0802,68028,28020,870

平均寿命 <男>
 日本アメリカフランスイギリススウェーデン
1950頃59.665.663.866.0
1960頃65.366.667.268.371.7
197069.367.168.568.872.1
198073.370.870.471.172.9
199075.971.872.874.8
1997(男女)80.076.078.077.079.0

【宿題を出す】

 それでは皆さん明治以来何がどのように変わったか、分担して調べてみましょう。次の6つの班に分けます。

1.家庭にある電気器具:照明、電話、炊事・洗濯・掃除等家事関係、クーラ ー、テレビ・ラジオ、パソコン・ゲーム機その他
2.電気器具以外の家庭生活:衣食住、燃料
3.交通関係:自動車、道路、鉄道、飛行機、人工衛星、荷車
4.医学:薬、診断技術、衛生問題
5.産業、企業等:大企業・高収益企業の変遷、農業から商工業への変遷等
6.その他:芸能、スポーツ、文芸、遊び、漫画、アニメ、ゲーム機その他

 戦後の変化、それぞれの分野で活躍した人・企業・製品等について、明治から第2次大戦までの3回に分けレポートの提出、代表者の発表をお願いします。
 1回目のレポート提出期限は1月後、その他は後日指示します。

2.戦後の混乱

 1945年8月15日戦争が終わりました。日本が負けたのです。8月30日マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、連合軍による占領が始まりました。それから7年連合軍による支配を受けました。連合国は日本を直接統治せず、日本政府を使って間接的に統治しました。

 日本では戦争中から食料品を始め、殆どの品物が配給制となっていました。これは戦争で若い青年が殆ど戦場へ動員され、労働力が不足し生産能力が足りなくなっていたからです。更に終戦の頃には空襲によって工場、輸送機関が破壊され、肥料や農機具も不足していました。そこへ軍隊で戦地に行っていた人約350万人、外地に進出していた人約300万人が帰ってきました。1割近く人口が増えたのです。

 おまけに1945年の米の生産高は平年作が6千万トンに対し、4千万トンしか取れませんでした。 又、今まで朝鮮や台湾から買っていた食料の輸入が途絶え、大変な食糧難になりました。配給される食糧だけに頼っていたのでは餓死してしまいます。事実、職掌柄闇で食料を買うことを拒否した裁判官が栄養失調で死亡する悲惨な出来事もありました。闇と言うのは配給以外のルートで品物を買うことです。当然配給の値段より高くなります。すると農家は配給に回す品物を、出来るだけ闇ルートに回す事になり、配給の食糧は益々不足します。

 そこで米国は食料の援助をしてくれました。ガリオア資金を日本に貸与し、アメリカで余剰食料品を買い、日本に持ってきたのです。食料の援助といってもお米の代わりに、小麦粉・とうもろこし粉などが主体ですが、中にはアメリカで余った砂糖が、米の代わりに配給になって、どうして食べようかというので、砂糖だけで作るお菓子の作り方が、新聞なんかで紹介されたこともありました。大変な食糧難の時代でした。又エロア資金と言うのがあり、これは羊毛や綿花などの原材料をアメリカで調達し、日本に貸し付けるもので、いずれも貸与で後日返還したのですが、当時は大変助けになり感謝されました。

 又闇で品物を買うのですから、当然高くなります。品物が足りないほど高くなります。大変なインフレーションになりました。44年から49年までの5年間で小売物価指数は100倍になったのです。尚このような動乱期にはどこでもインフレーションになります。第1次大戦の後のドイツでは1兆倍になったと言われますから、まあ上手く運営した方でしょう。

 大量の引揚者や軍需工場の閉鎖で大変な失業者がでました。彼らは生きていくため、色々な仕事を工夫して始めました。どこからか品物を手に入れ、焼け跡にバラックを建て、開店した人も多数居ました。闇市です。東京の主要な駅の周辺には殆ど闇市があったのではないでしょうか。当時は皆が生活苦に陥りましたので、犯罪が多発し、警察力だけに頼るわけに行きません。この闇市の色々なトラブルを巡って暴力団が力をつけました。

 又サラリーマンの給料は毎月賃上げと言うわけにはいきません。一方物価は毎日のように上がっていきます。闇で食料を買おうとしてもお金がありません。農家もお金を貰っても、お金の値打ちがどんどん下がるので、代わりの品物を要求します。そこで今まで持っていた着物を持って行き食料を分けて貰いました。1枚づつ着物がはがされていく事から竹の子生活と言いました。

 食料と共に不足したのは石炭です。当時鉄道は殆ど蒸気機関車でした。その為列車の回数が少なく、どの列車も超満員でした。客車に乗れず、石炭車にまでよじ登ったり、窓から乗り降りする人も大勢いました。バスなどでは石油が不足し、木炭車が使われました。元々木炭で走るように設計されたものではありませんので、坂道では乗客が後押ししなければならない事もありました。石炭、石油がないのですから、電力も不足しました。当時電力は水力が主でしたが、水力だけでは不足し、どうしても石炭が必要だったのです。

3.インフレ対策

ここでなんでこのようなインフレになったのか考えてみましょう。まず品物が不足したことです。何故不足したか、1つは引き揚げ等で人口が増えたことです。2点目は戦争で工場等が破壊されたことです。工場の生産高は1935年頃の20%位まで落ちました。又後に話しますが、アメリカは日本の工業力が強くなることを恐れ、大企業を解体し、軍需工場から機械類を賠償として中国・イギリス・フィリピン等へ持ち出したことも、復興を遅らせた要因となりました。3点目は朝鮮・台湾・満州等からの輸入が止まったからです。これにより、米等の食料品・石炭等が入らなくなったのです。4点目は1945年が異常な不作だったことです。最後の問題は一時的な問題で、1946年の収穫が始まると多少は緩和しましたが、前3者の解決には時間がかかりました。

 さて原因は品物の不足だけでしょうか。今一つお札の流通量が増えたことです。品物が無くなってもお金も無ければ、物価のバランスが崩れ、生活必需品は値上がりしても、他の物価が値下がりし、全体としてインフレはそれ程大きくならない筈です。政府は戦地からの引き揚げ、米軍の占領に伴う諸施策、最低限度の戦災の復興、兵器等発注をキャンセルした企業に対する補償等、どうしても支出しなければならない予算外の支出がかさみました。政府は日銀から後で支払うからと借金しました。このような動乱期ですから、日銀に貸したり預けたりする人はいません。日銀は輪転機を回してお札を刷ったのです。

東京小売物価指数 総平均
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
1945年指数2.3692.4132.5082.5702.6932.8112.8073.1013.1183.1593.1896.174
前月比1.021.041.021.051.041.001.101.011.011.011.94
1946年指数6.9138.34512.10016.09018.09020.65021.55021.14022.47025.09026.28028.470
前月比1.121.211.451.331.121.141.040.981.061.121.051.08
1947年指数29.54029.87031.34034.94036.55037.07044.86049.91057.40076.33088.9395.140
前月比1.041.011.051.111.051.011.211.111.151.331.171.07
1948年指数97.570101.100106.000106.800112.200113.300141.000171.600195.800209.000218.900220.900
前月比1.031.041.051.011.051.011.241.221.141.071.051.01
1949年指数228.500230.300230.800247.3244.000235.200245.200253.900259.000252.900249.700143.600
前月比1.031.011.001.070.990.961.041.041.020.980.990.98

 そこで物価の変動を今少し詳しく見てみましょう。これを見ますと、終戦から11月まではそれ程大きな変動はありません。急激なインフレが始まるのは11月からです。11月から12月にかけ2倍になったのをきっかけに46年6月くらいまで急上昇しましたが、7月くらいより47年3月くらいまでは割合落ち着いています。物価の急上昇はこの年未曾有の不作だったことから、食料の不作でしょう。6月くらいになると、ジャガイモ、小麦等の収穫、米軍の援助物質等により、食糧事情がやや緩和したのではないでしょうか。

 しかし労働界の賃上げ要求状況を見ますと、10月、11月には早くも2倍とか、4倍の賃上げ要求が出ています。これは統計に闇価格をどのように反映させるかの問題だと思います。やはり政府としては闇価格をストレートに反映することに抵抗があり、遅れる事は止むを得ないことと思います。又食料品等生活必需品は急激に価格アップしているのに対し、贅沢品は価格低下している事が、全体の指数の急上昇を押さえていると思います。統計を見る場合、無条件にその数値を信じるのではなく、周辺事情を勘案しながら見ることが大切です。しかしある程度の期間では矛盾が出てきたり、信頼性が損なわれますので、何時までも闇価格を無視するわけには行かなくなるのです。

 46年度後半の物価の安定は、46年2月の新円の発行と、預金の封鎖が効果を出してきたと考えます。新円の発行とは、政府は新しいお札を発行し、在来のお札は一切使用停止としました。但しお札の印刷が間に合わないので、切手くらいの大きさの証紙を貼ったものは新円として扱われました。預金の引き出しは標準所帯1ヶ月当たり500円しか引き出しを認めず、これによりお金の流通量を押さえようとしました。物価の上昇と共に500円の預金引き出しでは殆ど買えなくなりました。しかしお金がないのでお金を大切にせざるをえません。即ち物が出回ってきたのに対し、お金が不足し、インフレが小康化したのです。

   この時期日本は戦災等により鉱工業生産能力は極端に落ちていました。1935年ー36年の水準に対して鉱業は半分、工業は4分の1まで落ちたのです。なかでも石炭、肥料等の生産力の低下の影響は大きいので、46年12月に傾斜生産方式が採用されました。これは最重要業種として鉄鋼・石炭・電力・肥料の4業種を指定し、この4業種に資材・資本を集中させ、その生産力の回復を図るものでした。この資金源として日銀引き受けで復興金融債を発行しました。これも政府がお金がないのに、後で何とかするから、銀行にお金を貸してやってくれというものです。いわば何の裏付けもなく輪転機をじゃんじゃん回してお札を印刷するような物です。大量のお金が出回り、新円によるインフレ防止対策は殆ど効果のないものになりました。47年7月、48年7月からのインフレはこの予算の執行によるものでしょう。

 1948年12月GHQは経済安定9原則を指示してきました。この趣旨は予算の均衡を図り、徹底的なデフレ策により、インフレを抑えろと言う趣旨のものでした。その具体的な実行策の立案のため、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジを派遣してきました。ドッジは1949年度予算で支出を徹底的に押さえ、収入を大幅に下回るものにしました。この対策をドッジラインと言います。これは今まで経済発展にアクセルを踏んでいたものが急ブレーキをかけたようなものです。当然各企業は資金繰りに行き詰まり、倒産が続出し、大変な不況となりました。企業や政府関係機関は大幅なリストラをよぎなくされました。しかしこの荒療治により、インフレは抑えられたのです。
 更に1ドル360円の単一レートを設定し、企業が自主的に貿易出来る下地を作りました。9月にはコロンビア大学のカール・シャープにより、税収の増加を目的とした税制勧告案が出され、今日の税制の基礎が出来上がりました。
 日本の経済が立ち直り、本格的に浮上し始めたのはこの翌年1950年6月朝鮮戦争が勃発してからです。

4.労働運動

 この生活苦に当然ながら労働運動は激化しました。

 マッカーサーは施政改革の第1段として、10月東久邇終戦処理内閣から引き継いだ、幣原首相と会見し、5大改革指令を出しました。その一つは労働組合の奨励であり、又共産党員等政治犯の釈放もありました。その結果10月10日には投獄されていた共産党の指導者が一斉に釈放されました。それと共に労働組合の結成が相次ぎ、10月には各地でストライキが始まりました。この頃の要求は賃上げの要求で2倍から5倍という激しいものでした。会社側はストライキに対し、ロックアウトで対抗しました。ロックアウトというのは、組合員が会社へ入ることを禁止し、ロックアウト期間は賃金を支払わないというものです。そこで組合側は実力で会社に押し入り、経営者の入場を阻止し、かってに会社の機械や原料を使って操業しました。これを組合による生産管理といいます。今では考えられない力と力のぶつかり合いでした。1946年5月19日の米寄こせデモでは30万人が参加し、その一部は首相官邸になだれ込みました。この鎮圧に占領軍は装甲車を出すほどでした。この余りにも行きすぎた闘争にマッカーサーはこれを集団暴動と呼び警告を発しました。6月に政府は「生産管理は正当な争議行動と認めない」と声明を出しました。この頃国連でも米ソの対立が次第に表面化してきました。

 1947年2月1日に公務員を中心にゼネストを決行することを決めました。参加人員は全官公260万人に、民間労組で同調するところが続出したことから、空前の規模が予想されました。この前日の1月31日、GHQはゼネスト中止命令を出し、このストは中止されました。

 これまでのGHQは二度と戦争を起こさせないよう、日本の経済力の弱体化を進めてきましたが、この頃から米ソの対立の中、日本をアメリカ側の一員として、日本の経済力の建て直しをすべきだと言う意見が出始めてきました。GHQの内部で共産主義に近い意見のグループと、自由主義を目指すグループの対立が始まったのです。

 1948年7月に国家公務員法を改正し、官公庁組合のストライキ権を剥奪しました。労働争議権は労働者の権利を守るものとして、戦後のマッカーサー改革の目玉の一つだった訳ですから、この頃には占領政策が大きく変わってきたことが分かります。同時に公務員の賃金等の権利を調整するため人事院が作られました。

 1949年に入るとドッジラインによる緊縮政策により、政府機関、民間とも、大幅なリストラを要求されました。この時人員整理の対象となったのは、総勢で100万人近いといわれます。その最大のターゲットは国鉄でした。1次、2次合わせて10万人近く解職されたのです。この人員整理と平行して下山国鉄総裁が怪死した下山事件、中央線で無人電車が暴走した三鷹事件、東北線で列車が転覆した松川事件が起こりました。これらの事件は未だに真相が分かっていません。尚この年の1月の総選挙で躍進した共産党は50年9月革命による政権獲得を呼号し、過激な闘争を指導していました。この事から、これらの事件は組合の関与が疑われ、組合側に不利に働きました。又連合軍も生産力の回復を阻害するとして、組合の弾圧に走りました。

 民間でも首切り反対の過激な闘争が続きました。民間の場合「これでは会社がつぶれる。会社がつぶれては元も子もなくなる」と組合のリーダーに反発する動きが勝ち、組合のリーダーが整理の対象となる企業が続出しました。

 1950年6月マッカーサーは共産党の幹部の追放令を出し、彼らは地下に潜ったのです。


第2回 国連の成立と米ソの対立、領土の喪失とアジア情勢

【目的】
1.国内政策は国際情勢により大幅に変わる。その為まず国際情勢の変化を教える必要がある。
2.ポイントはソ連の台頭、米ソの対立とアジア情勢、特に日本の支配下にあった地域の戦後の動向である。

1.ソ連の台頭

 第2次世界大戦はアジアにおける太平洋戦争と共に、ヨーロッパではドイツとイタリアがアメリカ、イギリス、フランス、ソ連(今のロシア)と戦っていました。1939年9月太平洋戦争の勃発より2年程早く始まりました。

 ドイツは1940年6月にはフランスを降伏させ、フランス全土を支配下に置きました。1941年6月にドイツは一方的に独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵入しました。1941年12月太平洋戦争が始まると、独伊がアメリカに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まったのです。

 ソ連は一時モスクワの近くまで押し込まれましだが、1943年2月スターリングラード(今のボルゴグラード)攻防戦で形勢が逆転し、東部戦線はソ連が一手に引き受け、ドイツに侵攻しました。一方西部戦線はフランスは崩壊し、僅かにドゴール将軍に率いられたゲリラ活動があるだけで、アメリカ・イギリスの連合軍がドイツ・イタリア連合軍に対抗しました。連合軍がイタリアに上陸したのは43年9月、フランスのノルマンディーに上陸したのは44年6月でした。いずれも東部戦線でドイツが不利になった以降です。

 1945年5月ドイツの無条件降伏でヨーロッパ戦争は終わりました。ヨーロッパ戦線勝利の最大の貢献者はソ連だったのです。この為戦後政治でソ連は大変大きな発言権を得ました。更にソ連は戦線を立て直し、8月9日日ソ不可侵条約を一方的に破り、満州(現中国東北部)に攻め込みました。広島に原爆が落とされ、日本の敗北が決定的になった後です。ソ連は一気に朝鮮まで侵入し、北朝鮮を占領しました。又終戦後も南樺太、千島列島に次々に侵攻し、その地を占領しました。

2.国連の成立と米ソの対立

 1945年4月、戦後世界の平和維持について、サンフランシスコに50カ国が集合し、会議を持ちました。この50カ国は6月26日国際連合憲章に調印、国連が発足しました。この国連では安全保障理事会の権限を強力にし、米、ソ、英、仏、中の5大国が拒否権を持つことになりました。

 ソ連は占領下の東欧諸国に次々と共産党政権を樹立して、実質的にソ連の支配下にしました。この状況に対し、46年3月イギリスのチャーチル首相は鉄のカーテンが引かれていると非難しました。1947年になるとアメリカのトルーマン大統領はトルーマンドクトリンを発表、「反ソ、反共、封じ込め」を表明しました。更にマーシャルプランで西ヨーロッパ諸国の経済再建を始めました。このような動きにソ連は反発し、東欧諸国でコミンフォルムを結成し対立しました。1949年には西欧諸国は集団的防衛機構としてNATO軍を組織し、米ソの対立は次第に激化し、東西冷戦時代が始まりました。東西ドイツがそれぞれ別個の政府を作り、独立したのもこの年です。

 このような米ソ対立の中で、アメリカにおける共産党批判は次第に強まりました。1949年10月アメリカ共産党幹部が、政府の暴力的打倒を扇動した罪で罰金刑と禁固刑にふせられました。50年3月には上院議員マッカーシーの共産党批判が始まり、次々に多くの人が共産党のシンパとして政界から追放されました。マッカーシー旋風と言われる激しさでした。この中には国務省の高官として国連創設に活躍したアルジャー・ヒスのような大物も含まれています。

3.中国情勢

 現在の中国の東北部には、日本は満州と言う国を作り、間接的に支配していました。当時ソ連(現在のロシア)とは不可侵条約を結んでいましたが、ソ連は一方的にその条約を破棄し、日本の敗戦がほぼ確定的になった8月9日、長崎に原爆が落とされた日に攻め込んできました。日本軍は南方に全兵力を注ぎ込んでいましたので、殆ど軍は空っぽでした。その為一気に攻め込まれました。満州に進出していた日本人農家の人たちは、軍の保護もなく、ひたすら歩いて逃げたわけですが、止むに止まれず小さい子供を中国人預けたりしましたが、その後外交が断絶したりして、残留孤児の問題が残っています。満州はその後中国に引き渡されますが、その後の内戦により、荒廃しました。

 敗戦時中国には3つの政府がありました。蒋介石の国民党政府、毛沢東の共産党政府、日本が占領した地区を統治していた汪精衛(兆銘)政府です。日本の敗戦により、汪精衛政府は自動的に崩壊しましたが、国民党と共産党は内戦に突入しました。この両者は元々戦争状態だったのが、日中戦争が始まった頃、日本と共に戦う為休戦したのです。しかし日本との戦争が終わると、11月にはもう内戦に突入しました。1949年末蒋介石は台湾に逃げ込み、今日まで2つの政府の対立は続いています。蒋介石が台湾に移った後も、国連では全中国の代表として認められていました。現在の中国が全中国の代表として認められたのは1971年です。

 尚台湾は日本が1895年以来50年統治した所で、敗戦により中国に移管された所です。大変日本時代を懐かしがつている人の多い国です。これはあまりにも蒋介石軍がお粗末だったからです。台湾では犬が去って豚が来たと言われています。中国は広い国です。台湾の言葉と北京の言葉は全く通じません。日本も異民族ですが、蒋介石軍も異民族だったのです。従ってこの二つの政府を公平に比較し、評価出来るのです。そして同じような条件にあった海南島との対比で日本の統治を評価してくれています。

4.朝鮮情勢

 朝鮮は1910年韓国併合条約により、日本の一部となったところです。

 終戦により、北半分はソ連が、南半分はアメリカが占領しました。両国はそれぞれ政府を作り、何とか統一政府を作ろうと話し合いが行われましたが、1948年遂に決裂して、それぞれ国の成立宣言を行いました。その後も統一に向け、色々な動きがありましたが、1950年6月突如として北朝鮮軍が南朝鮮に攻め込みました。これはアメリカがもう戦時ではないとして、駐留軍の撤退の動きを見せたことが原因です。軍隊がなければ戦争にならないと考えるのは間違いです。今なら南朝鮮を制圧できると金日成が考えたことが、朝鮮戦争の原因となったのです。最も南朝鮮が直ちに降伏すれば戦争にならなかったでしょう。その代わり今日の豊かな韓国はなく、現在の北朝鮮のように自由は抑圧され、食糧不足で毎年餓死者が大勢でる悲惨な状況になったでしょう。一時的な戦争による苦しみとどちらが良かったでしょうか。

 ふいを突かれた韓国は敗戦を重ね、釜山の近くまで攻め込まれました。アメリカは韓国を失うことはソ連との対抗上、重要な拠点を失うことになりますので、反撃に転じ、仁川に上陸しました。背後を突かれた北朝鮮軍は一挙に崩壊し、今度は米軍が、中国国境の鴨緑江付近まで攻め込みました。すると中共軍が介入し再度ソウルを占領しました。その後アメリカ軍は元々の境界線である38度線まで押し戻したのです。(1951年)ここで戦線は硬直し、1953年休戦協定が成立し、今日に至っています。尚アメリカ軍と言いましたが、正式にはアメリカは国連の賛成を取付、多国籍軍を編成していますので、国連軍と言うのが正しい表現です。

 尚この朝鮮戦争の開始により、アメリカはそれまでの中国への不介入主義を捨て、台湾を積極的に応援するようになりました。

5.北方領土

 ソ連は満州に攻め込むと共に、樺太、千島にも攻め込みました。ソ連軍は8月15日以降も日本軍の停戦要求に、停戦を認めず、多くの犠牲者を出しています。南樺太、千島列島は共に日本の領土でした。その内南樺太は日露戦争の結果日本の領土となった所なので、サンフランシスコ条約でも放棄したところです。従ってソ連の領有は問題になっていません。

 それに対し国後島、択捉島、歯舞、色丹諸島は昔から日本の領土であり、サンフランシスコ条約で放棄した千島列島の範囲外として、ソ連・ロシアと対立し、今でも返還要求しています。

6.南洋諸島

 日本は敗戦と共に奄美群島、沖縄列島、小笠原諸島、第1次世界大戦でドイツから獲得した南洋諸島(正式には国連委任統治領)をアメリカに取られました。1953年奄美群島が、1968年小笠原諸島が、1972年沖縄が返還されました。1981年パラオ諸島が独立し、現在に至っています。尚パラオの国旗は日本の国旗とそっくりで、中央が太陽に代わり、黄色の月、周囲が太平洋を表す青となっています。

7.東南アジア諸国の独立


 戦前の地図と戦後の地図をを比べて下さい。戦前独立国だったのは僅かにタイ国だけで、他はすべて欧米諸国の植民地でした。但しフィリピンは戦前から1946年に独立することがアメリカとフィリピンの間で約束されていました。戦後の混乱からどうするかが議論になりましたが、予定通り1946年に独立しました。

 独立に向け最初に行動を起こしたのはインドネシアです。8月17日にはインドネシアが独立を宣言しました。戦前の宗主国オランダは当然再びインドネシアを植民地にする積もりで戻ってきました。そこで独立戦争が始まりました。

 日本はインドネシア占領と共にインドネシアの独立をスローガンとして、教育を始めました。まず「祖国防衛義勇軍」PETAを組織し、軍事訓練を始めました。隊員3万8千人、後にこのメンバーが独立軍の主力となり、国軍の主力となったのです。スハルト大統領もそのメンバーの一人です。日本軍は敗戦により、武器は一切連合軍に渡すことになったが、暗黙の了解のもとで、インドネシア軍に武器を奪われたり、置き忘れたりして、かなりの武器がインドネシア軍にわたりました。更に日本兵の中に脱走してインドネシア軍に加わる人も多数いたのです。1949年12月4年間の独立戦争を戦い抜き、遂に独立が承認されたのです。

 ビルマ(現ミャンマー)もインドネシアと同様の経過をたどりました。1948年1月独立が認められました。ここでも多くの日本兵が独立軍と共に戦っています。

 インドは戦前から独立運動が激しかった所です。日本は開戦3ヶ月前にF機関を作り、インド独立連盟IILと友好関係を結びました。彼らはマレー作戦で投降してきたインド兵に対し、インド独立戦争への参加を呼びかけました。そしてインド国民軍INAの組織化に成功しました。シンガポール陥落時にはINAへの参加者は1万5千人に達しました。彼らはビルマ戦線でビルマ独立軍と共に先頭に立って戦いました。戦後彼らの指導者を戦争犯罪で裁判に掛けようとしたところ、猛烈な反対運動が起き、遂に1947年8月インドが自治領として独立が認められました。完全に独立したのは1950年です。

 最も困難を極めたのは仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)です。1945年9月にベトナムが独立宣言をし、フランスと戦争に入りました。その後アメリカとの戦いや、南北ベトナムの戦い、カンボジアの内戦等、つい最近まで動乱が続いていました。

 ではこれらの諸国が何故独立できたのでしょうか。第一は彼らの強い独立に対する願望と、一丸となった戦いです。それと共に日本の影響を無視するわけには行きません。1905年日本が日露戦争でロシアを敗ったことが、世界の植民地の住民に強烈な印象を与え、我々もやればやれるのだという強い希望を与えました。その結果世界各国で独立運動が始まりました。日本は第一次世界大戦後のパリ平和会議で、人種差別の撤廃を訴えています。第二次世界大戦の目的の一つとして、アジア諸国の植民地からの解放があげられました。緒戦の圧倒的な勝利は、イギリス、オランダの力もそれ程ではないことを教え、彼らに希望を持たせました。決定的だったのは日本軍による訓練と、武器の供与です。日本は降伏したとき、連合軍に武器を引き渡すことになっていましたが、前述のようにある程度の武器を独立軍に流したのです。更に彼らを応援する日本兵は脱走兵となり、彼らを指導してイギリス、オランダ軍と戦ったのです。

 インドネシアで50年間歌い継がれてきた「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」の歌詞を紹介します。

“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”

 1968年、ビルマの元首相バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表しました。このとき「ロンドンタイムス図書週報」1968年5月23日号では次のように紹介しています。「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。

 それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。

 そしてミャンマーでは3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんと!このパレードは日本の“軍艦マーチ”から演奏し始めるとのことです。

 この東南アジアの独立はアフリカに飛火し、アフリカ諸国の独立に繋がりました。そして人種差別の撤廃へ繋がったのです。第2次大戦で日本は負けましたが、人種差別撤廃の原動力となったことが第2次大戦の最大の意義だと思っています。


第3回 戦後の大改革

1.占領当初

 1945年8月30日連合軍総司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、アメリカ軍の占領が始まりました。アメリカ軍は直接統治せず、日本政府を使って間接的に統治することにしました。それは直接統治するには大勢の人員を必要としますので、日本のように行政機構がかっちり出来上がっているところでは、その方が遙かに効率的だからです。又日本人の天皇に対する絶対的な服従を見て、天皇を訴追するより、存続させ、利用することが得策だと考えたこともあると思います。尚国体の護持はポツダム宣言受諾の条件だったという意見もあります。

 連合軍総司令部をGHQ(General Head Quarter)と言い、連合軍と言っても実質的にはアメリカ軍でした。連合軍の当初の施策は日本を二度と戦争出来ない体質にすることでした。その為には支配構造を破壊し、経済力を弱め、精神構造を変えることでした。連合軍には色々な組織がありましたが、日本の統治に最も関係したのは民政局(GS)と参謀第2部(G2)でした。当初リーダーシップをとったのはGSでした。GSの主力は開戦時のアメリカ大統領ルーズベルトを支えたニューディーラーと言われた革新的なグループで、日本をその実験台にしようとしました。アメリカには民主党と共和党という二大政党があります。民主党は計画経済により、貧富の差を少なくしようという党で、共和党は自由経済で、経済力を強くしようと言う党です。ニューディーラーはその民主党の中でも最も先鋭的なグループで、共産党に近い考え方をしていました。一方G2は共和党に近くGSとG2の対立はアメリカ本国の対立を持ち込んだものでした。

 マッカーサーが最初にしたことは軍隊の解体、軍需産業の操業停止、戦争犯罪者の逮捕、連合国にとって不利な報道についての徹底的な規制でした。戦争犯罪者として開戦時の首相だった東条英機等の戦争指導者の他、捕虜虐待、戦地における不法行為などで多くの人が訴追されました。年が明けた46年の1月には軍国主義者の追放、軍国主義団体の解散が命じられ、2月にはこれらの人の公職追放令が出されました。職業軍人、中央・地方政治のリーダー、大会社の幹部等所定の条件に該当する人は公職を追放されたのです。大会社の幹部はすっかり若返りました。

2.5大改革指令

 9月27日天皇陛下はアメリカ大使館にマッカーサーを訪問しましたが、その時の写真を掲載した新聞を山崎内相は発行禁止にしました。この事に対し連合軍は反発し、その写真の掲載を命令しました。更に天皇制の自由論議、政治犯の釈放、思想警察の全廃と全員の罷免を要求しました。この要求についていけないという理由で、東久邇宮内閣は総辞職しました。尚東久邇宮首相は終戦の処理に当たり、民間首相では国民を押さえることが難しいとして、選ばれた皇族です。

 東久邇宮首相の後任に選ばれたのは幣原喜重郎でした。彼は親欧米派の元外務大臣として有名な人で、既に74才、現役を退いてから15年も経った人です。内閣成立直後幣原首相はマッカーサーに挨拶に出かけました。そこで命令されたのが、5大改革です。5大改革とは婦人の解放、労働組合の結成奨励、教育の自由化、秘密警察の廃止、経済機構の民主化です。それと共に憲法改正について検討することを要求されました。

2.1 秘密警察の廃止

 真っ先に実行に移されたのは秘密警察の廃止と、政治犯の釈放です。10月10日共産党員などが一斉に釈放されました。10月中に国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法・治安維持法・思想犯保護観察法が廃止され、11月には治安警察法が改正されました。形の上で言論の自由が保障されたのです。その一方プレスコード指令を発令し、米軍の施策に反するものは禁止されました。チャンバラ・時代劇・柔道・剣道等、忠義や武を奨励するものです。尚共産党が戦前弾圧され、政治犯として逮捕されたのは、「目的の達成のためには暴力革命が必然である」とする綱領によるものでした。

2.2 労働組合の結成奨励

 次に労働組合はこの連合軍の指令、共産党幹部の釈放により、各地で次々に結成されました。この指令も生活に苦しむ一般サラリーマンの強い支持を得ました。それと共に激烈な労働運動が始まったのです。この詳細については前回説明しました。

2.3 婦人の解放

 婦人の解放ですが、12月に衆議院の選挙法を改正し、男女同権としました。これは女性から圧倒的な支持を得ました。日本でも戦前から平塚雷鳥、市川房枝等が婦人参政権の要求をしていました。これによる選挙は1946年4月に行われ、女性議員は39人も当選しました。なおこの頃は参議院がなく、貴族院がありました。貴族院は選挙ではなく任命制でした。貴族院は新憲法の制定により廃止され、代わりに性格の異なる参議院となったのです。

2.4 教育の自由化

 教育の自由化とは教育を通じて日本の弱体化を図ろうというものです。アメリカは日本軍の強さの原因として、強力な天皇崇拝による国民世論の統一、忠君愛国主義、武の尊重にあると考えました。そこで天皇陛下に人間宣言を出させ、神道に対する国家の援助を禁止しました。又日本神話も否定されました。又これらの日本精神を築いたものは教育勅語とそれに基づいた修身教育であるとし、これを禁止しました。歴史や地理の教科書で問題のある部分は墨を塗って読めなくしたのです。尚それでも不十分として45年12月には修身・日本史・地理の授業のていしを命じ、教科書を回収しました。

 46年3月にアメリカから教育使節団が来日し、アメリカ型の6.3制採用を勧奨する報告書を作成しました。これに基づき47年から義務教育が3年延長される大改革が実施されました。あの経済困難の中、アメリカ軍からの強制がなければ絶対実施不可能だったと思います。尚この詳細については後で説明します。

2.5 経済機構の民主化

 アメリカは日本の財閥が軍部と手をくんで、中国へ進出したことが、この大戦の最大原因と考えていました。従って財閥を解体しなければならないと考えていました。軍需工場は連合軍の進駐と共に操業停止され、機械は賠償として外国に持ち出される事になりました。しかし財閥解体の方針は発表されましたが、なかなか具体的な明細が決まりませんでした。46年9月三井・三菱等5社が指定持株会社に指定されたのを皮切りに、第5次指定までで83社が指定されました。47年7月には三井物産、三菱商事が解散を命じられました。12月には「過度経済集中排除法」が制定され、対象として325社が指定されました。これらの企業では、会社幹部の追放、持ち株の放出、会社の分割、会社株式の相互持ち合いの禁止等の処分が為されました。しかしこの方針は、すべての企業の審査が終わる前の、48年になると米ソ対立の影響を受け、早くも緩和されたのです。それでも大変な数の企業が影響を受けたのです。

3.農地解放

 経済機構の民主化の一環となるのが農地改革です。耕作しない地主が多数いることは、余剰資本による軍需産業等への投資が進み、強大な日本復活の一因となる恐れがあると言うことでした。所が驚くことに、農地改革の発端は日本側から出たのです。45年幣原内閣の農林大臣に就任した松村謙三は就任の記者会見の直後、農政局長の和田博雄に農地改革について立案を命じました。その僅か4日後には農林省原案が出来上がったのです。これは昭和の初め、大問題となった農村恐慌以来の農林省の宿願だったのです。この案では地主の保有限度3町歩、小作料は物納をやめ金納にする、農地委員は選挙で選ぶ、地主の土地買い上げは農地委員会の承認を必要とする、地主の土地を小作人に引き渡すに当たっては地主と小作人の間で協議させ、まとまらない時は県知事の裁定に委ねる等でした。この案を持って和田局長はGHQに説明に行きました。びっくりしたのはGHQでした。GHQでは判断のしようがなく、回答を保留しました。そこで閣議に出したところ他の閣僚から異論が出て、地主の保有農地限度を5町歩に修正され、国会に提出されました。しかし国会はまだまだ地主の利益を守る議員が大勢を制していました。審議未了で廃案となる直前に、GHQは、より徹底的な農地改革を要求し、翌年3月までに改革計画を提出するように指令したのです。この結果第1次農地改革法案が国会を通りました。但し実行に入ったのは金納制だけで、他は第2次改革案確定後実施されることになったのです。

 GHQは急遽アメリカから専門家を呼び検討させると共に、対日理事会に諮りました。当然ソ連は、より強硬な案を主張しました。最終的にイギリス案が通り、地主の保有農地は1町歩に制限され、余った農地は一旦すべて政府が買い上げ、耕作者に払い下げることになりました。この農地改革は農家の働く意欲を増進させ、貧富の差を少なくしました。この事は農民階級にも上級学校への進学意欲を高め、激烈な進学競争の原因の一つになったのです。しかし今日になると、このような小規模農業は機械化、省力化を妨げ、日本の農産物の競争力不足の原因となっています。

4.憲法改正

 大改革の最後は憲法の改正でした。これ以降米ソの対立が次第に激化し、アメリカは日本を極東の防波堤として、或いは工場としての役割を果たすことを求めるようになってきました。

 憲法の改正は45年10月幣原内閣の発足に当たり、マッカーサーから改正について検討するよう指示された事から始まります。幣原松本蒸治を担当大臣として検討に入り、翌46年2月松本私案をGHQに提出しました。所がこの内容はGHQにとって全く不満なものでした。そこでGHQは民政局(GS)に命じ、1週間で草案を作らせました。3月には政府は「憲法改正草案要綱」を発表し、議会に付託しました。しかし議会では基本的な事項についての修正は一切認められず、僅かに認められたのは、2院制の採用と、字句の修正だけでした。しかしそれを日本の国会で正当に論議され、日本人の手で作られたように演出されただけです。11月3日に公布され、翌47年5月3日に施行されました。それで5月3日を憲法記念日として祝日となっています。

 この憲法は国民主権、戦争放棄、基本的人権の尊重の3原則で作られたと言われています。これらの事を中心に明治憲法とどのように変わったか、その結果日本がどのように変わったか、考えてみたいと思います。

4.1 国民主権

 新憲法では前文に「主権は国民に存することを宣言し」と国民主権を宣言し、第1条に「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」となっています。それに対し明治憲法では第3条に「天皇は神聖にしてにして侵すべからず」第4条に「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行う」第5条に「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」となっています。形の上からは明らかに天皇主権から国民主権に明確に変わりました。しかし実質は第5条に明記しているように、立法権は明治憲法時代も実質的に議会が持っていました。昭和天皇は立憲君主制の立場から、自らのご意見は極度に押さえられ、明確なご意志を表明されたのは、2.2.6事件の時と、終戦の時だけと言われています。

 又日本の歴史を翻ってみても、天皇が政治の表面にたたれたのは、極めて例外的だったと言えます。その意味では実質的には殆ど変わっていないと言えます。しかし国民の感情から考えますと、「天皇陛下は神様」何でも「天皇陛下の為に」と教えられ、戦死するときは「天皇陛下万歳」と言うよう教えられた国民にとっては大変な変革でした。皇室に対する尊崇の念は大きく低下しました。

4.2 戦争放棄と自衛隊の創設

 戦争放棄は新憲法の最大の特色であり、最も議論の集中する点です。第9条に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」とあります。この条文の最大の論点は自衛権を認めるかどうかと言うことでした。衆議院で共産党の野坂参三が「戦争一般の放棄ではなく、侵略戦争の放棄とすべきだ」としたのに対し、吉田茂首相は「近年の戦争の多くは国歌防衛権の名において行われたことは顕著な事実であります。故に正当防衛権を認めることが、偶偶戦争を誘発する所以となります」と言っているのは、近年の両党の主張との関連で面白い事実です。現在は自衛のための戦争と、その為の戦力の保有は合憲であるとの憲法判断が確立されています。

 この戦争放棄は戦争の悲惨さを身を以て体験している多くの人に受け入れられました。それは敗戦により進駐した米軍の思いの外の善政によるものでした。あんな苦しい思いをして、一体何のために戦ったのかと言う思いを多くの人が持ちました。軍備を持っていたから戦争になったのだ、軍備を持たなければ、相手もあまり残酷な事はしないだろうと考えたのです。しかし満州での退却時の悲惨さ、ソ連に併合されたバルト三国の悲劇、今日の北朝鮮の悲惨さを考えると、相手がアメリカだったからこのような発想が出ることを認識しなければなりません。

 1950年朝鮮戦争が勃発した2週間後、マッカーサー元帥は吉田首相に書簡を送り、75,000人の警察予備隊の創設と海上保安庁の8,000人増員を命令しました。この警察予備隊は1952年保安隊に、1954年自衛隊に改組され、同時に防衛庁が発足しました。

 この戦争放棄の条項はこの朝鮮戦争勃発時と、1952年のサンフランシスコ条約が発効して、日本の独立が認められたときの2回、改正のチャンスがありました。しかし吉田首相は軍備の拡充より、憲法を楯に、米国の要請を拒否して、経済復興を優先したのです。戦前の国家予算に占める軍事費の比率は、平時の1925−30年でも30%近くあったのです。それが戦後は10%以下になつています。日本の経済発展にこの戦争放棄は非常に貢献しました。一方世界各地の国際紛争に際し、PKOとかPKFとか言われますが、人的貢献を要請される事が多々あります。このような時日本は憲法を理由に極めて消極的で、「日本は金は出すが、血を流そうとしない」と国際的な非難を浴びています。又尚武の気風の喪失は、先日のバスジャック事件の時も、ただ1人のナイフしか持たない少年の前に、大勢の男子がいながら全く何にもできない、軟弱な気風の国になりました。

4.3 基本的人権

 国民の権利・義務については第3章として第10条から第40条に亘り、細かく規定されています。特に第11条には「この憲法が国民に保証する基本的人権は、侵すことの出来ない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」としています。それに対し国民の義務としては第12条に「国民はこれ(権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と一応バランスをとっています。しかしその後の第40条までの各条項は殆どが個人の権利であり、全体的なトーンは個人の権利に偏りすぎているように思います。その事が天皇陛下に関する諸条項と合わせ、国という意識を低下させ、個人優先、公共軽視の風潮を招いているように思います。

4.4 憲法改正

 最後に憲法の改正の問題ですが、各議院の3分の2以上の多数決で国会が発議し、国民投票で過半数の賛成を必要とします。この条項は厳しすぎ、実質的な憲法改正の禁止条項だと言う意見があります。しかしドイツでは日本と同じ2院制で、各議院の3分の2以上の賛成を要します。国民投票の規定はないものの、この厳しい条件の中で、1949年制定以来、なんと46回も改訂されているとのことです。日本は明治憲法以来、憲法改正に余りにも消極的になっているのではないでしょうか。この変化の激しい時代です。常に時代に即応して、時代にマッチした憲法にする必要があるように思います。

 現在の憲法は明らかに押しつけられた憲法です。しかしこの憲法を今まで維持した事は、日本人の選択だったと思います。

5.教育改革

 ここで改めて教育改革について今少し詳しく見てみましょう。

5.1 教育基本法

 戦前の教育の基本は教育勅語と修身でした。教育勅語は下記の通り短いものですが、人間として守るべき徳目が簡明に述べられています。これを修身の時間に色々な寓話によって繰り返し教えられたのです。

教育勅語  朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト広遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我ガ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭謙己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ成務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ悖ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 GHQはこの勅語の皇室尊重を嫌い禁止しました。しかし今読んでも一部を除き現代に通じる素晴らしい内容だと思います。

 日本政府ではこの教育勅語に代わる何らかの教育の基本となる理念が必要だとして、1947年3月教育基本法が制定公布されました。この作成に当たったのは羽渓了諦(元京大教授)天野貞祐(一高校長)等でした。こちらは法律らしく、前文と11条の条文と付則よりなっています。第1条から目的、方針、教育の機会均等、義務教育、男女共学、学校教育、社会教育、政治教育、宗教教育、教育行政、補則となっています。なかなか素晴らしい内容ですが、教育勅語が教えるべき徳目を示しているに対し、教育の仕方を規定しています。従って教えるべき徳目と言った点では物足りない感じがします。又政治教育・宗教教育については特定政党・特定宗教の平等を主張する余り、政治教育・宗教教育そのものについて抑制的な感じを受けます。

 最近の青少年犯罪の多発を考えるとき、やはり道徳教育、宗教教育の充実が必要と思います。私は基本法としては現在の法律をベースに見直し、微修正をすることが望ましいと思っています。それと共に教育勅語や、古今の宗教家の言動を道徳教育の基本に据えることが望ましいと思います。

 戦後教育を考えるとき、戦後の教育界、マスコミがいわゆる進歩的学者一色に染まったことの悪影響を感じざるを得ません。彼らは戦時中の日本が「天皇陛下のため」「国のため」と言う美名のもと、多くの人が亡くなったとして国が個人生活に関わることを極度に嫌いました。又当時の社会全般の貧困から、貧富の差を無くする事を主張する共産主義に対する思いこみにとりつかれました。当時学生生活を送った人で、多少政治的関心のあった人は殆ど共産主義にかぶれました。実社会で色々学ぶにつれ、共産主義から離れましたが、実社会でもまれることが少なかった、学者・マスコミ・教育界では共産主義に対する幻想が延々と残りました。それが今日の公共軽視に繋がっています。本当に教育の影響は恐ろしいと思います。

5.2 学制

 1947年4月6.3制が実施されました。この改革で義務教育は6年から9年に延長されました。あの生活苦の中で何故このようなことが出来たのでしょうか。実は戦前既に義務教育の2年延長が決まっていたのです。但し戦争のため実施されませんでした。従ってGHQの義務教育の延長要求は日本側としてはそれほど抵抗はありませんでした。しかし費用の面からGHQの強い要求がなれば実施出来なかったと思います。

 戦前の学制は小学校6年の後、中学5年、高校3年、大学3年でした。中学入学時に入学試験があり、上級学校への進学を目指す中学校の他、女学校、商業学校、工業学校などの実業学校へ分かれました。その他小学校に併設された高等科があり、高等科は無試験・2年制で、ここを義務教育化しようと言うものでした。戦後出来た新制中学は実業学校へ分かれることなく、小学校を卒業したものが全員同じカリキュラムで学ぶことになりました。そこで旧制の中学はすべて高校に、高校・専門学校は大学に昇格しました。

 それと共に大きく変わった点は男女共学でした。戦前は小学校はクラス編成の都合上止むを得ず共学にしたクラスもありましたが、基本的に別学でした。例えば1学年3クラスの場合1クラスは共学でした。しかし中学以上は別学でした。私は旧制中学最後の入学生ですが、中学3年の夏休み終了後突如として共学になりました。因みに1年下は1947年新制中学に入学しましたが、入学時から男女共学でした。

 中学に入学しても新しい校舎を建てるお金がありません。当初は小学校、旧制中学校等に同居し、1年は小学校、2年は旧制中学校に分かれて通学したりしました。旧制中学校の校舎では禁止になった武道場を仕切って教室にしたり、大変な苦労でした。村民が勤労奉仕で学校を作ったという話を聞いたこともあります。尚GHQは日本の義務教育2年延長を過大評価しており、小学校の高等科の教室、青年学校の教室、中学が高校に昇格するとき5年から3年間に短縮されることによる教室の余剰により、校舎の新築はそれ程必要ないと錯覚していたようでした。その為49年ドッジラインによる緊縮財政で中学校校舎の新築を認めず、2部授業や廊下を教室にしたり大変な苦労だったのです。

 戦前は入学試験は小学校6年の時と中学5年の時でした。中学4年からの飛び級もありましたが、基本は中学5年からです。高校から大学へは学校さえ選ばなければ比較的容易だったと言われています。これは小学校6年で将来の方向がある程度決まるので、大器晩成型には不利です。その代わり中学5年間入試がないので、運動部など落ち着いて練習に励める利点があります。又エリート教育には向いていると思います。尚このエリート教育をGHQが嫌い、新制度にした訳ですが。今多様化が叫ばれています。公立でも中高一貫教育の学校が出てきても良いのではないでしょうか。

 高等教育では、旧制の高校・専門学校が一斉に大学になり、在来の大学と同格になったのですから、一気に大学卒が増えました。卒業までの修学期間は、在来の専門学校より2年長く、大学卒より1年短くなりましたが、旧制大学卒の数は専門学校卒に比べ少なかったので、全体的にはレベルは上がりました。修学期間は義務教育は3年長くなり、中等教育卒業生が1年長くなったわけです。更に農地解放で貧富の差がなくなり、昔なら小学校か、農業学校までしか行けなかった子供が、大学まで行くようになりました。国民全体の教育レベルが上がったのです。この事が戦後の日本の驚異的な経済成長につながったと思います。

5.3 道徳教育

 GHQは日本の強さは強烈な愛国心にあると感じ、その原点となる、修身、歴史、地理教育を禁止しました。1946年には新しい教科書により歴史・地理教育の復活は許されました。47年には歴史・地理・公民が統合され、社会科として教えられる事になりました。道徳については特に教材など作らず、社会科の中でその都度教えられる事になったのです。

 1952年講和条約が発効した頃から、吉田首相は道徳教育復活に意欲を示しました。しかし学者・マスコミ・日教組等の反対が強く、教育課程審議会の合意をなかなか得られませんでした。彼らの主張は「天皇陛下のため」「国のため」といった価値観の否定でした。その為個人の自由に偏し、公共の利益は極小化されました。

 1958年ようやく道徳の時間が認められました。しかし未だに道徳の教科書は作られていません。この経過からその後も道徳教育は軽視されてきました。この道徳教育軽視の時代に育った子供が現在親となり、青少年犯罪が多発しています。道徳教育をどうすべきか是非議論して欲しいと思います。

 今最大の問題は国の存在価値の否定、公共の利益を無視した個人の権利の主張です。まさに連合軍の意図した「日本を再び戦争に立ち上がらせない」目的は見事に達成されました。しかし続発する国際紛争に対処する国際協力について日本の貢献はこれで良いのでしょうか。

第4回 第2次世界大戦の精算

【目標】

 戦犯問題、サンフランシスコ平和条約、その後の各国との交渉について述べ、国際社会への復帰までの道筋について考える。

1.自決者相次ぐ

 ボツダム宣言が受諾されることが決まると、徹底抗戦を叫ぶ軍人による反乱が何件か起きました。その一つは近衛師団の畑中健二少佐等による玉音レコード盤の奪取計画です。ボツダム宣言の受諾を天皇自身の声で、国民に放送して貰うことが決まり、14日にレコードに収録されました。この放送を阻止しようと畑中少佐等は、計画に反対する森赳師団長を殺害し、近衛歩兵第2連隊を使い、皇居を占拠し、このレコード盤を探しましたが見つからず、遂に二重橋と坂下門の間で自決しました。このような動きは多少ありましたが、全体的には極めて整然と戦争を止め、米軍に武器を引き渡しました。この整然とした態度が又アメリカをして、戦後の統治に天皇陛下を利用した間接統治を採用した一因と言われています。

 終戦と共に、陸軍大臣の阿南惟幾陸軍大将、元参謀総長杉山元陸軍元帥、特攻隊生みの親大西滝治郎海軍中将等多くの軍人が、それぞれの責任を感じ自決しました。お粗末だったのは東条元首相の自決失敗でした。戦犯に指定され、米軍が逮捕に来たのを知った東条は、ピストル自殺を図りますが失敗しました。戦陣訓で「虜囚の辱めを受けず」と指導した当人が虜囚の辱めを受けることになったのです。

 12月には近衛文麿元首相等が戦犯に指定されました。マッカーサー元帥に憲法改正を検討するよう指示されたとして、幣原内閣と別個に調査会を作り張り切っていた、近衛元首相はこの訴追により自殺しました。

2.戦争犯罪者の訴追

2.1 BC級戦犯裁判

 連合軍は終戦による武器の引き渡しが終わると、直ちに戦争犯罪者の訴追を始めました。戦争犯罪者とは戦時国際法違反者で、例えば捕虜虐待、住民に対する不法行為等があります。その他新たに「平和に対する罪」「人道に対する罪」を追加しました。その上でこの戦争の計画・開始・遂行を行った主要犯罪者をA級戦犯、戦時国際法に規定された通例の戦争犯罪者をB級、殺害・虐待等の非人道的行為を犯したC級戦犯に区分しました。B・C級については戦場となった各地で訴追されました。アメリカは横浜を始め6箇所、イギリスは11箇所、オーストラリアが9箇所、オランダが12箇所、フランスが1箇所、フィリピン1箇所、中国10箇所です。その他ソ連、中共も行いました。この裁判で訴追された人は4830人に及び、920人が死刑に処せられ、無罪となった人は640人に過ぎません。更に裁判中に死亡した人を含めると1054人に達しました。この裁判は殆ど1949年中に終わっていますが、オーストラリア関係は51年4月までかかりました。(阿南工専紀要19号、ソ連・中共関係を除く)

 中共・ソ連での裁判はハバロフスク・瀋陽・大原で行われました。ハバロフスクの裁判では細菌戦を行ったと非難されている731部隊が裁かれたとのことです。1949年12月末結審しています。中共ではソ連から引き渡された戦犯、中国で逮捕されたもの、計千人余を裁きました。この裁判では改悛の情顕著な者は不起訴釈放との方針をとられた結果、1017人が不起訴釈放となり、45人が裁判に掛けられ、25年以下の懲役刑に処せられています。不起訴釈放が決まったのが1956年4月ですので、不起訴と言っても11年近く抑留された訳です。(『争論・東京裁判とは何だったか』96頁)

 これらの戦犯容疑者は一応弁護士も付け、形式的には一応整っていますが、「捕虜虐待を裁く」という名の捕虜虐待そのものであり、全くずさんな証言に基ずく、一方的な押しつけ裁判だったと言われています。現在南京その他各地の虐殺事件が非難されていますが、その容疑者は既に処刑されているのです。

2.2 東京裁判

 開戦時の首相東条英機等、A級戦犯容疑者の逮捕が始まったのは45年9月でした。39人逮捕されました。12月には元参謀総長の梨本宮守正王、元首相近衛文麿、内大臣木戸幸一等9人にも逮捕命令が出されました。
この裁判で最大の問題は天皇を訴追するかどうかでした。連合国の中でも意見は分かれましたが、アメリカ政府は「日本統治には天皇を利用すべきである」とし、天皇の訴追は行われませんでした。

 この裁判はオーストラリア人のウェップが裁判長、アメリカ人のキーナンが主席検事となり、46年5月30日に開廷されました。第1回目の被告は28人でした。この裁判は思ったより長引き48年11月迄かかりました。25被告が有罪となり、その内東条等7人が死刑となりました。裁判の途中で松岡洋右と永野修身が病死し、大川周明が精神異常で免訴となっています。この裁判では日米合同の弁護団が組織され、開廷早々事後法による裁判は無効であると主張したり、検事団の訴追理由を強力に反証をあげ、抵抗したため、裁判は予定より長引きました。その結果、裁判はこの1回のみで終わり、残った人はすべて釈放されました。

 この裁判では11人の判事中、インドのパル判事は全員無罪を主張したほか、3人の判事が少数意見を述べています。

3.サンフランシスコ講和条約

 戦争の終結は講和条約です。講和条約が締結されて始めて戦争状態が終わります。第1次大戦の時は1918年11月休戦されて翌年の6月にヴェルサイユ講和条約が調印されています。今大戦でもイタリアが43年9月に連合国に降参し、他の枢軸4カ国と共に46年10月パリで講和条約が調印されました。

3.1 経過

 この講和会議では日本とドイツだけが除外されました。日本とドイツがが残されたのは朝鮮の独立問題、中国における国共内戦、ドイツの戦後体制をめぐってのアメリカとソ連の確執でした。

 まず朝鮮では46年2月南北にそれぞれ政権が樹立しましたが、統一を目指して色々模索されていました。国連主導による総選挙も計画されましたが、不調に終わり、48年それぞれが独立宣言しました。中国では45年11月には内戦に突入し、49年10月中華人民共和国の成立宣言をし、12月には蒋介石政権は台湾に撤退しました。ドイツも49年に東西ドイツがそれぞれ独立を宣言しました。そこで49年頃から単独講和への動きが出てきました。1950年朝鮮戦争が勃発するに及び、アメリカはソ連を含めた全面講和は難しいと判断し、ソ連を除外した講和を模索し始めました。日本の場合はそれが可能でしたが、ドイツの場合はドイツ自体が分裂しているため、単独講和もできず、今日に至るまで講和条約は締結されていません。その戦後処理が近年ようやく始まり、ドイツはきっちりお詫びしているのに、日本は詫びていないと非難されています。しかし日本は1952年の講和条約発効により、きっちり戦後処理はすんでいるのです。

 1950年アメリカは国務省顧問にジョン・ダレスを起用し、講和条約とその後の日米安全保障条約の検討に入りました。日本では政府はアメリカとの単独講和を主張し、多くの文化人やマスコミは非武装中立・全面講和を主張しました。政府は米英と講和することにより、一日も早く国際社会に復帰すべきだという意見に対し、マスコミはアメリカと単独講和すると、米ソが戦争に突入した場合、戦争に巻き込まれる恐れがある、特に軍隊を持ち、アメリカと安全保障条約を結ぶことは危険この上もないとの意見でした。ここで皆さんに考えて欲しいのは、マスコミの主張通り、全面講和が出来るまで待った方が良かったのか、政府の主張通り米英と単独講和した方が良かったかです。結果は明らかです。アメリカとの結束を固めたからこそ、早々と国際社会に復帰することが出来、今日の発展に繋がったのです。マスコミはどのような報道をすれば新聞がよく売れるかが大きな問題となります。どうしても大衆に迎合しがちです。支那事変の開戦、大東亜戦争の開戦に当たって大衆を扇動したのはマスコミの責任です。マスコミの意見に左右されず、自分で考える人になって欲しいと思います。

 ダレスはマッカーサーとの協議、日本との協議をもとに条約案を作成し、「空飛ぶ特使」と言われるほど世界を飛び回り、各国の意見の取りまとめに努力しました。講和会議は1951年9月4日から9月8日まで開かれましたが、参加国は52カ国に及んでいます。日本との最大の交戦国だった中国は、アメリカが国府(台湾)を呼ぶべきだとし、一方イギリスは中共を呼ぶべきだとして対立し、どちらも招請されませんでした。インド、ビルマ、ユーゴスラビアは米軍駐留の継続を不満として欠席しました。参加国の中ではソ連が占領軍の撤退、非軍事化を求めた修正案を出しましたが、議題とすること自体が否決され、チェコスロバキア、ボーランドと共に欠席しました。結局調印したのは49カ国でした。

3.2 内容

この条約では27条に亘り、細かく戦争の終結に伴う諸問題について規定していますが、主な点は次の通りです。

 領土・個人財産を含めた在外資産の放棄
 占領軍の撤退と米軍の駐留承認
 役務による賠償は各国との個別交渉
 別段の定めのない連合国の賠償請求権の放棄
 日本軍の捕虜であった人に対する償い

等です。

 この条約では連合国の賠償放棄が大きく報道され、日本は賠償していないように思われていますが、在外資産の放棄により、巨額の賠償を行っています。その他軍需工場の施設を海外へ持ち出した中間賠償、個別交渉による賠償、連合軍捕虜に対する補償も行っているのです。以下この詳細について補足します。

3.3 在外資産の没収

 第14条で日本が没収された在外資産がどれだけあったか正確なことは分かっていません。日本政府は引揚者や各種機関に報告書を提出させ、日銀に集計を依頼しました。その結果通貨別に集計し総額千百億ドルという数字が明らかにされていますが、折からのインフレによる外貨の換算率をどうするかといった問題があり、又資料が余りにも膨大となり、地域別資産額といった分析がされていません。

 一方GHQの調査では非軍事用220億ドル軍事用90億ドル合計310億ドルとなっており、更に地域別に明細が記述されています。又大蔵省が在外財産調査会に委託し、GHQに報告した数値は軍事資産・個人資産を除き237億ドルですので、軍事資産、個人資産を加えると300億ドル余りとなります。この二つの数値が共に300億ドル余りと見ていることから、日本が没収された在外資産は300億ドル余りと見て良いのではないかと思います。単純に現在の1ドル百円で換算しても3兆円です。その後のインフレを考えると大変な金額を賠償したことになります。下記にこの明細を記します。

終戦時在外資産明細(単位:百万ドル)
 非軍事資産軍事資産合計
南洋・沖縄117371488
北朝鮮29712573228
南朝鮮22756012876
朝鮮計52468586104
台湾18985892487
千島樺太ソ連534192726
満州8630266211292
中国本土472620566782
香港
フィリピン126345471
仏印30121151
タイ25145170
マレー112221333
ビルマ44280324
蘭印128825953
その他8585
アメリカ92100
その他連合国71299370
枢軸中立国1414
合計21880897930859

 この表によると中国へは180億ドル、北朝鮮には32億ドル、韓国には29億ドル支払っているのです。1965年締結された日韓基本条約で韓国に供与されたのは、無償援助3億ドル、有償援助2億ドル、民間借款3億ドル、てすから、大変な資産を供与したことが分かります。

3.4 中間賠償

 終戦と共に日本に上陸した占領軍は、賠償資産として軍需工場の機械類を差し押さえました。45年11月アメリカからボーレー使節団が来日し、約1ヶ月の調査により報告書を提出しました。この案をもとに46年5月以降逐次業種別に明細が決定されました。所がその配分が揉め、なかなか実行されませんでした。そこで47年4月取りあえず全体の30%を撤去する事になりました。配分は中国15%、フィリピン5%、オランダ5%、イギリス5%でした。

 所が米ソ対立が次第に激化し、日本を早急に自立させ、日本を共産主義に対する防壁とすべきだという意見が出てきました。47年以降ストライク使節団、ドレーパー使節団等が来日調査をし、遂に49年5月中間賠償の取立中止が決定しました。

 その間に持ち出した賠償資産は中国2000万ドル、フィリピン800万ドル、イギリス700万ドル、オランダ500万ドルでした。

3.5 連合軍捕虜に対する補償

 サンフランシスコ平和条約では16条で連合軍捕虜に対する補償が明記されました。中立国、同盟国に日本が持っていた資産は、個人資産を含めすべて没収され、国際赤十字はこの資産を処分して連合軍捕虜に補償金として配分する事になりました。国際赤十字は56年と61年の2回に分け、ドルとポンドで支払っています。円換算で一人当たり2万8千円ないし2万9千円です。少ないようですが、当時の大学出の初任給の3ヶ月分弱です。

 今回トイツが合意したと伝えられる補償金額は、一般の強制労働者に5ー6千マルク(30万円前後)ユダヤ人等、強制収容所で奴隷労働に従事した人には1万5千マルク(約80万円)との事です。一般の強制労働に従事させられた人に対する補償金は、大学出の初任給の2ヶ月分にまでは達しないでしょう。勿論それぞれの国のインフレ率や給料は違いますので、その時の価値観は国によって異なったと思いますが、決してたったそれだけ?と言う補償金ではないと思います。

 尚イギリスではこの補償金に加え、日本が放棄させられた在外資産の処分益を加え、一人76ポンド(76000円)補償しています。(マークス寿子『戦勝国イギリスへ日本の言い分』草思社)

 又アメリカは国際赤十字による配分を辞退していますが、日本から接収した資産を原資として、一人一日1ドル、開戦直後のフィリピン戦で捕虜になったとすると1300ドル(約47万円)の補償を受けたのです。

3.6 個別賠償

 サンフランシスコ条約では連合国の賠償放棄が協議されましたが、フィリピン等戦場となった国は、賠償放棄に合意しませんでした。そこで14条で個別交渉により、役務でもって賠償することが決められました。

 55年のビルマを皮切りに次々と妥結しましたが、当時の日本の経済力は極めて弱かったので、相手国にとって不満の残るものでした。そこで日本は経済力が付くに従い、ODAでその後も経済協力を続けています。

賠償支払一覧表
 支払い年次支払額(億円)
フィリピン1956−751,980
ヴェトナム1960−64140
ラオス1959−6010
カンボジア1959−6115
マレーシア1968−7029
シンガポール1968−7029
ビルマ 賠償1955−64720
無償協力1965−76504
インドネシア1958−69803
オランダ1956ー6036

 賠償交渉で最初にまとまったのはビルマでした。しかしビルマは他国との交渉結果に基ずく見直し条項を付けていました。その条項により65年無償協力504億円追加されることになりました。

 オランダに対する賠償はインドネシア占領時の抑留オランダ人に対する個人補償です。一人当たり3万3千円に相当します。

 マレーシア、シンガポールに対するものは、大戦中おきたと言われる、シンガポールにおける中国人虐殺事件に対する補償です。

 サンフランシスコ平和条約に調印しなかった諸国との交渉は、サンフランシスコ平和条約調印後直ちに始まりました。まずサンフランシスコ平和条約発効の52年4月28日、中国との間に日華平和条約が締結されました。この時中国を代表していたのは、台湾しか領有していない蒋介石政権でした。蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」という有名な言葉を残して、賠償を放棄しました。とは言っても日本が残した在外資産や中間賠償は受け取っているわけです。中国本土を支配していた中共との国交の回復は1972年までかかりました。

 朝鮮を代表する国として日本は韓国と交渉しましたが、この交渉は難航を重ね、妥結したのは1965年です。現在第2次世界大戦の整理がついていないのは、ソ連と北朝鮮だけです。

4.国連への加入

 サンフランシスコ平和条約締結後、国際社会に復帰するために必要な事は国連への加盟です。この為には拒否権を持つソ連の賛同が絶対条件です。1954年吉田内閣の後を継いだ鳩山内閣はソ連との国交の回復を目指しました。ソ連との間には国連加盟の他、シベリア抑留者の解放、漁業権をめぐる争いがありました。日本が失った北方領土周辺は魚の宝庫です。ソ連側の一方的な線引きにより、多くの漁船が拿捕されました。又アメリカ一辺倒の外交を非難する平和運動グループ、更にソ連との貿易を望む実業界等国民世論もソ連との国交回復を求めていました。

 一方ソ連では1953年スターリンが死亡し、ソ連も平和共存路線に向かっていました。55年6月ロンドンで交渉が始まりました。この交渉の最大の問題は領土問題でした。日本は歯舞、色丹、択捉、国後の四島返還を求めました。それに対しソ連は歯舞、色丹の返還には合意しましたが、択捉、国後の返還は拒否しました。又アメリカのダレス国務長官は「日本がソ連の千島領有を認めるなら、アメリカも受益権がある」と日本を牽制しました。アメリカの言い分は「日本が放棄した領土を他国に勝手に引き渡す権限はない」と言うことでした。

 1955年の国連総会では、ソ連の支持する外蒙古を含む十数カ国と一括加盟が審議され、ソ連の合意も得られそうなムードになりました。しかし中国が外蒙古の加盟に拒否権を武器に絶対反対し、結局日本・外蒙古を除く16カ国の加盟が承認されました。ソ連との交渉は56年10月、鳩山首相が病躯を押してモスクワを訪問、領土問題を棚上げして国交回復の共同宣言に調印しました。この結果今日まで平和条約は成立していません。

 このソ連との国交回復により、12月国連への加盟が認められたのです。

第5回 1945−50年

 ここで改まってこの間の出来事を、政治経済と社会史に分け、年代順に振り返ってみる。

政治経済

■1945年(昭和20年)

 8月15日日本はボツダム宣言を受諾し、降伏しました。同時に鈴木貫太郎内閣は総辞職しました。8月16日後継内閣首班として東久邇宮稔彦王が任命されました。東久邇宮の妃は明治天皇の9女であり、その長男盛厚王の妃は天皇陛下の長女という、最も天皇陛下に近い皇族でした。皇族を首相とすることにより、降伏に伴う混乱を最小限に押さえようとするものでした。又、王はよく言えば自由奔放、悪く言えばわがままで、陸軍大将にはなりましたが、軍の主流から外れた人だったことも選任の一因だったと思います。

 8月30日マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、9月2日東京湾上戦艦ミズーリ号ので降伏の調印式が行われ、連合軍の占領下に入りました。マッカーサー元帥の父は第3代のフィリピン軍政長官で、少年時代マニラに住んだことがあり、更にフィリピンが1935年(昭和10年)自治政府が成立した時、当時米軍参謀本部長でしたが、1937年退職後フィリピン軍の創設を指導した人です。日米開戦と共に米軍の総司令官にカムバック、緒戦に敗れフィリピンを脱出するとき「I shall return」の声明を残しました。フィリピンには特別の思い入れのある人です。

 戦後の混乱については先に述べましたが、最初に立ち上がったのは、徴用等で日本に連れてこられた中国人や朝鮮人でした。戦争末期には海上輸送の断絶、戦災による輸送手段の壊滅により、食糧配給機構が崩壊しました所があちこちに出てきました。そのような事業所でしわ寄せを食ったのが、中国人や朝鮮人だったのです。終戦の報を聞くと共に、彼らは一斉に蜂起しました。彼らの中には賃金も貰わずさっさと帰国した人もいました。それが未払い賃金として、長く懸案事項として残りました。又朝鮮人の中には、「我々は戦勝国の人間だ」と称し、警察の指示に従わない人も出ました。彼らはそれまでは日本人でしたが、法的地位が決まるまで、日本人でもなく、外国人でもないことから、三国人と呼ばれ嫌われました。在日朝鮮人が三国人と呼ばれることを、差別用語として嫌う理由はここにあります。悪いことをした人は極めて少数と思いますが、怖いことですね。

 先にも述べましたが、東久邇内閣は10月には早くも辞職に追い込まれ、幣原内閣に代わりました。幣原は1924年(大正13年)加藤内閣の外相を勤めてから、1931年満州事変が起きるまで外交の第1線にあり、英米協調路線の「幣原外交」として名を売った人です。

 この時戦後の政治を背負って立った吉田茂が外相として入閣しました。彼は戦前外相、文相、農商務相として活躍した牧野伸顕の女婿です。尚牧野伸顕は大久保利通の次男です。吉田は天津、奉天総領事、外務次官等として幣原の軟弱外交に対し強硬路線を主張していました。しかし満州事変では国際連盟脱退に反対し、1932年から35年まで、待命となり第一線から退きました。1936年(昭和11年)から38年(13年)までイギリス大使としてロンドンに勤務しました。丁度支那事変が始まった頃ですが、戦争の沈静化に努力しますが、大した成果は上げていません。退職後も戦争の拡大防止に色々画策しました。大東亜戦争の雲行きがおかしくなった頃、小磯内閣打倒に向け画策し、憲兵隊に逮捕されたが拘留45日で釈放されました。貴族趣味の頑固親父でエピソードの多い人でした。

■1946年(昭和21年)

 幣原内閣は選挙法を改正し、45年末に衆議院を解散しましたが、GHQは選挙の延期を指令して、多くの人の公職追放をしました。これにより戦前の指導者は一掃されました。この選挙は4月に、大選挙区、制限連記制で実施されました。この制度は何人かの候補者の名を連記できるので、女性や新人に有利な制度でした。この結果、始めて参政権を得た女性は39人も当選できました。尚この制度は一回で終わり、次の選挙からは最近まで続いた中選挙区制になりました。この選挙で第一党になったのは鳩山一郎が率いる自由党でした。自由党は戦前の政友会系です。しかし過半数を制することが出来ず、第2党の幣原首相が率いる進歩党(旧民政党系)を中心に連立工作が行われましたが、上手く行きませんでした。所が5月に入ると鳩山が追放されたのです。そこで鳩山は幣原内閣の外相吉田茂に後任を託し、5月22日ようやく吉田を首班として、自由党と進歩党の連立内閣が発足しました。尚この内閣で農林大臣に就任したのは農政局長の和田博雄ですが、彼は進歩的な官僚として知られており、後に社会党左派の領袖となった人です。吉田総理はこちこちの保守派でしたが、進歩的な学者をこの後も閣僚に起用しています。

 尚日本では共産党・社会党に近い考えを持った人を進歩的と称しましたが、その後の経過を見ますと何が保守で、何が革新か全く分かりません。

 この年から翌年にかけ、憲法を始め、マッカーサー改革が最も進んだ時でした。11月に新憲法が公布され、農地解放、財閥解体、要人の追放、東京裁判の改訂等次々と改革の嵐が吹き荒れました。

■1947年(昭和22年)

 戦後共産党の復活、生活苦から労働運動は大変激化していましたが、2月1日を期して大規模なゼネストを敢行することになりました。その前日マッカーサーはゼネストの禁止を指令しました。それまでの政策の基本は、「日本が2度と戦争できないようにする」為、日本の経済力を弱めることでしたので、アメリカ政策の大きな転換でした。

 4月には6.3制で新制中学が発足しました。因みに新制高校は翌48年、新制大学は翌々49年の発足です。但し日本女子大等一部の私立大学はこの年に発足しています。

 5月3日の新憲法実施にあわせ、4月には各種選挙が実施されました。この選挙で第一党になったのは社会党でした。しかしやはり過半数に達しないため、民主党、国民協同党との連立内閣となりました。総理は社会党の片山哲でした。片山は敬虔なクリスチャンで、比較的穏健な右派のリーダーでした。民主党は進歩党がモデルチェンジしたもので、党首はやはり外交官OBの芦田均でした。国民協同党は後に総理となる三木武夫を中心とする弱小政党で衆議院議員31人にすぎません。

 この年、前内閣の時設立された復興金融金庫の活動が始まり、大変なインフレになりました。給与が固定されているサラリーマンは大変な生活苦になりました。経済復興を優先する民主党と労働者の生活を優先する社会党の間で、片山内閣は大変苦労しました。社会党の政策で実施できたのは、厚生省から労働省の分離と、石炭の国家管理でしたが、石炭の国家管理は民主党や資本家の反対により、骨抜きにされました。翌年2月補正予算案の採決に左派社会党が反対し、予算案を通すことが出来ず、僅か8ヶ月で総辞職したのです。

■1948年(昭和23年)

 この年2月前述の経過で片山内閣が総辞職しました。後継内閣の首班は民主党の芦田均で、政党の組み合わせは変わりませんでした。芦田内閣は「経済再建には外資の導入が不可欠であり、その為には労働運動を押さえ、安定した社会秩序を保つことが重要である。」とし、成立早々から労働攻勢に対決姿勢をとりました。

 この年はアメリカの占領政策が根本的に変わった年です。まず1月早々アメリカのロイヤル陸軍長官は、サンフランシスコで「日本の占領目的を、非軍事化から反共防壁に転換すべきだ」と演説しました。この影響は2月には早くも現れ、ストライク賠償調査団が来日し、「日本を強力な工業国にする方が、極東の平和と繁栄に対して危険が少ないとし、指定賠償工場の緩和を主張し、実現しました。6月には6000万ドルの対日綿花借款が実現しています。

 この政策の転換は労働問題にも現れ、3月の全逓のストに対し、GHQはスト禁止を指令し、違反した労働者を逮捕し、軍事裁判に掛けるなど、弾圧したのです。又8月の東宝のストでは、戦車や飛行機までも動員し、組合を弾圧しました。これに先立つ7月には政令により、国家公務員の団体交渉権と争議権を否認したのです。

 芦田内閣の破綻は極めて早く、10月に来ました。それは昭電疑獄事件です。復興金融金庫融資をめぐり、昭和電工(現在も存続する大手化学会社、化学肥料を作っていた)の日野原社長が、融資の見返りに、政官界に賄賂をばらまいたとされる事件です。農林次官の重政誠之、大蔵省主計局長福田赳夫(後の総理)、前蔵相来栖赳夫、別の収賄事件で辞職したばかりの前副総理西尾末広が相次いで逮捕され、芦田内閣は総辞職に追い込まれました。12月には芦田自身も逮捕されたのです。この事件の関係者は64人に及んでいます。所が4年間も続いた裁判の結果、有罪となったのは日野原社長と、来栖前蔵相だけで、他は無罪となりました。この事件の裏には、参謀2部のウィロビー少将と革新路線のリーダー・民政局次長のケーディスとの暗闘があったと言われています。

 この総辞職の後、第2次吉田内閣が発足しました。民主自由党の少数内閣です。尚自由党は3月に民主党を飛び出した幣原グループの民主クラブを吸収し、民主自由党となっていました。この内閣で最初に行ったことは、7月に政令で実施された公務員のスト禁止を法令化することでした。社会党の反対の中、民主党の賛成を得て、11月30日国家公務員法を可決、公布しました。更に12月には公共企業体等労働関係法を成立させ、国鉄、専売公社等のストライキを禁止しました。これらの案件を処理した後、12月23日国会は解散されました。

 尚この国会解散の日、東条元首相他A級戦犯7人が処刑されました。

■1949年(昭和24年)

 前年末の解散を受けて行われた総選挙では、民自党は地滑り的に大勝し、過半数を獲得しました。一方社会党は惨敗で、111から48と解散前の半数も取れませんでした。又この選挙の今ひとつの特徴は、官僚出身者が62人も当選したことで、この中には後に総理になる池田勇人、佐藤栄作などがいました。吉田総理は初当選にも拘わらず彼らを重用したので、党内に官僚派と党人派の対立が生じました。

 この年は経済的には大変重要な年です。ドッジの指導による超緊縮財政、シャープの勧告による税制改革、円の単一レートの決定等です。これらの事は第1回にも述べました。

 前年の解散直前GHQから本国からの命令として、インフレ克服のため、経済9原則を指示してきました、徹底的な緊縮財政です。2月にはデトロイト銀行頭取のドッジが来日し、来年度予算について徹底的な緊縮予算に修正させました。ドッジラインです。これは今まで踏んでいたアクセルから急ブレーキに切り替えたものです。その結果あれ程激しかったインフレは急激に沈静化しました。

 なおGHQは企業倒産の激増対策として、オーバーローンを認めました。オーバーローンとは銀行が預金以上の貸し出しをすることです。この原資として、ガリオア・エロア資金で調達し、日本に売却した食料等の売り上げ金をアメリカに回収せず、その資金を銀行に貸し出し、銀行から企業に貸し出したのです。これを「見返り資金」と言います。

 この財政均衡を至上命令とするドッジラインの中、如何に税収を上げ、日本の再建費用を確保するかが、大きな命題となりました。そこでGHQはコロンビア大学教授のシャープを団長とする税制調査団を派遣し、税制勧告案を提出しました。この時の税制改革の大綱は未だに引き継がれています。

 この基本は所得に課税する直接税中心で、高所得者ほど税率を高くする制度が基本です。尚間接税とは売り上げにたいし課税する制度で、今の消費税がその代表です。又この勧告によりサラリーマン以外の人は自己申告制が採用されました。又高率の相続税が採用され、3代相続税を払うと財産はなくなると言われるようになりました。

 ドルの単一レートとは、当時は品物によってレートが違っていたのです。即ち輸入品は必要なものを政府がすべて買い取り、国内で売れる値段で売りました。その輸入代金を支払うため政府は外国で売れそうなものを国内でその時の相場で買って外国へ輸出していたのです。即ち品物によってレートはすべて違っていたのです。これを政府は貿易資金特別会計で運用していたのですが、この会計が大赤字だったのです。そこでドッジは1ドル360円の単一レートで企業が自己責任で輸出入をさせることにしたのです。これにより企業は、損する危険と、もうけるチャンスを与えられ必死に努力するようになりました。この結果日本商品の競争力は次第に付いたのです。尚この頃の日本商品の国際評価は、安いが品質が悪いというもので、今日とは全く逆のイメージでした。繊維製品、玩具等が主な輸出品でした。

 このような超緊縮政策は、同時に大きな社会不安をもたらしました。この事については既に最初の時間に述べましたが、下山事件、三鷹事件、松川事件等が起きたのです。この陰には共産党を排除しようとする、GHQの裏工作もささやかれています。

 この年4月に団体等規制令を法令ではなく、GHQの命令としてボツダム政令で出しました。これは指定した団体の構成員の住所氏名を届け出させるものでした。この対象として共産党や左翼団体が指定されました。これに対し、共産党は敵に圧力をかけるためとして党員を届けたため、翌年のレッドパージで大打撃を受けました。

 この年7月教育顧問イールズは新潟大学で共産主義教授の追放を声明し、9月には、この団体等規制令により、在日朝鮮人連盟等4団体に解散命令が出されました。このように次第に共産党への圧力は強くなりました。

 民間でも東芝争議、他大きな争議が多発しました。しかし「このような事をしていたら、会社がつぶれる。それでは元も子もない」といった良識派も生まれ、闘争至上主義の共産党系組合幹部を馘首することにより、次第に沈静化しました。

 尚6月にソ連からの引き揚げ船の第1船がようやく舞鶴に入港しました。ソ連は日ソ不可侵条約に違反して参戦、満州で降伏した多くの将兵をシベリアに移送し、4年間も酷使し、多大の病死者を出しようやく帰国が許されたのです。

 11月1日アメリカの国務省当局は対日講和条約を検討中と言明しました。これにより、日本は政府の主張する単独講和論と、マスコミの主張する全面講和論に大きく割れました。政府は米ソの対立の厳しい中で、全面講和を言っていると、何時まで経っても講和できないので、アメリカ側とだけでも講和すべきだと言い、マスコミはソ連・中国を含めた講和をしないと、米ソが戦争になったとき、その戦争に巻き込まれるという意見でした。

■1950年(昭和25年)

 単独講和を主張する吉田総理は地盤を強化するため、民主党連立派に合同を呼びかけ、3月にこの勢力を吸収し、自由党となりました。勢力が半減した民主党野党派は国民協同党やその他の少数勢力を吸収し、国民民主党となりました。党首は苫米地義三です。

 一方社会党は前年1月の総選挙で大敗してから、左右両派の抗争が激化していましたが、この年1月の大会で遂に分裂しました。しかし参議院議員選挙を前にした4月には一旦統一を回復しましたが、講和問題をめぐり、翌51年10月再分裂したのです。

 米ソの対立が激化する中で、遂に6月マッカーサーは共産党中央委員24名の公職追放を指示し、翌日『アカハタ』編集関係者17名も追放されました。この措置により、その後官公庁やマスコミ、民間会社でも公然と共産党員の追放が始まったのです。これをレッドパージと言います。8月には全国労働組合連絡協議会(全労連)が団体等規制令によって解散命令を受け、その幹部12人は公職追放となりました。こうして50年中に12,000人追放となりました。言論の自由を保障した憲法が施行されて僅か3年で、同じ連合軍の手により崩壊したのです。地下に潜った共産党は極左冒険主義に走り、火炎瓶闘争をすすめ、国民の支持を急速に失いました。

 一方先に追放された戦前の指導者は10月に1万人、翌51年8月には鳩山一郎等14,000人の追放が解除されました。

 これらの一連の動きを逆コースと言いました。

 この年6月朝鮮戦争が勃発し、日本経済は急激に回復しましたが、この事については別項で述べました。この朝鮮戦争勃発により、7月マッカーサーは吉田首相に75,000人の警察予備隊の新設と、海上保安隊要員の8,000人増員を指令しました。日本の再軍備の始まりです。これは朝鮮へ動員する米軍の穴埋めの為でした。集められた隊員は空き家になった米軍の宿舎に入り、アメリカ軍の武器や被服を貸与され、米軍により、訓練を受けたのです。

社会史

■1945年(昭和20年)

 戦後初の総理となった東久邇稔彦王は1990年、100才を超えるまで長生きされ、色々話題を作った人でした。1947年10月秩父、高松、三笠の3宮家を除き他の宮家は皇籍離脱が決められました。この時この宮様はなんと新宿西口のマーケット街に間口2間の食料品店を出したのです。『週刊朝日の戦後史』によれば、「店内の品物も少なく寒々とした印象を受けた。まあ言えば露天に毛が生えたくらいの乾物店で、これが宮様のお店かとちょっと驚いたほどだ」とあります。尚この時各宮様は退職金とも言える一時賜金を貰いましたが、財産税も大変でした。まさに激動の時代です。殆どの皇族は今日、我々平民並になったのではないでしょうか。今各地にプリンスホテルがありますが、その内これら皇族の屋敷跡に建てられたものがかなりあります。

 松竹の戦後始めての映画は、レビューを扱った娯楽映画「そよ風」でした。この中で歌われた並木路子の「リンゴの唄」は大ヒットしました。又東宝の第1作は音楽喜劇「歌え太陽」です。戦後の大変な時代にただ一つ明るさをもたらしたのです。尚この頃はテレビはまだありません。最大の娯楽は映画とラジオでした。映画も白黒映画だったのです。

 11月には大相撲が早くも復活しました。10日間でしたが、復員力士の坊主頭が目立つ場所でした。横綱土俵入りの太刀持ちの持つ太刀が意外に軽そうなので聞いてみると、本物はGHQに没収され、中身は竹光との事でした。

■1946年(昭和21年)

 この年の元旦天皇陛下の人間宣言が出されました。戦前は現人神とされていましたが、天皇も人間だと宣言したのです。そして全国巡幸に出られ、国民を激励されました。国民の熱狂的な大歓迎と共に国民は復興への大変な励ましとなりました。なんと半年の内67日も旅行されたのです。銚子では沖から帰ってきた漁師に大声で「どうだ、獲れたか」と声をかけられ、漁師は獲れた魚をかかげ、「うんと獲れましたよ」と答える、ほほえましい光景もありました。しかし巡幸を受け入れる地方の側に一種のお祭り騒ぎや、便乗等の弊害も出て参りました。1947年12月岡山県から兵庫県入りしたとき、沿道の小学生が日の丸の小旗で歓迎したことが、GHQのご機嫌を損ね、翌48年は中止させられました。

 又天皇はこの年来日したアメリカの教育使節団の団長に依頼して、皇太子の家庭教師を紹介して貰いました。この要請により来日したのがヴァイニング女史で、この年の10月から4年も家庭教師を勤められました。尚皇太子は中学1年でした。

 証証寺の狸囃子のメロディに乗り、「Come come eyery body …」で始まる英会話のラジオ番組は、2月に始まりましたが、堅い番組に珍しい人気番組になりました。

 2月には戦後初の文化勲章が受賞されました。3月には日展、9月に芸術祭、11月に国民体育大会が始まり平和の喜びが次第に実感されるようになりました。

 又この年の始め、「中央公論」「改造」が復刊され「世界」が創刊されました。活字に飢えていた国民は争って本や雑誌を買い、空前の出版ブームとなりました。それに伴いそれまで許されなかった、いかがわしい雑誌が次々発行されました。いかがわしいと言っても、それまでヌード写真など全く禁止されていた時代ですから、今から見ますとこのどこが問題なの?と言うくらいのものです。ストリップショーが始めて上演されたのは翌年の1月でした。額縁の中でちらと乳房を見せる程度のものです。又翻訳漫画ブロンディの連載が始まりました。(週刊朝日?)アメリカの夢みたいな家庭生活の豊かさに驚き、あこがれたものです。

 NHKではのど自慢が始まり、リンゴの唄が大流行となりました。岡晴夫の「東京の花売り娘」「泣くな小鳩よ」、菊池章子の「星の流れに」。田端義男の「帰り船」等もこの年のヒット曲です。映画では戦時中上映禁止となっていた外国映画が輸入され始めました。グリア・ガースンの「キューリー夫人」チャップリンの「黄金狂時代」イングリッド・バークマンの「カサブランカ」ビング・クロスビーの「我が道を往く」等が次々と上映され、華麗な外国の生活にあこがれたものです。

 プロ野球もこの年4月に再開され、苦しい生活ながら次第に彩りが出てきました。戦後最初の優勝は鶴岡(当時山本)が率いる南海でした。後に巨人に引き抜かれた別所投手が大活躍しました。

 配給の酒では足らず、薬用アルコールが闇で出回り、それを水で割って飲む人も多数いました。所が悪い人がいるもので、その中に塗装や燃料用のメチルアルコールを混入しました。これを大量に飲むと死んだり、目がつぶれたりします。そのため、京都府だけで5ヶ月間に105人が中毒にかかり、85人が死んだそうです。このメチルアルコールの問題は京都だけではなく全国的な問題でした。(昭和世相史51頁)

 煙草は紙不足から葉だけ配給されました。家庭では手巻きの道具を作り、自宅で煙草を巻きました。その紙は辞書の紙が薄くて良いと言われました。

 この頃は電産スト、石炭ストで停電が続発しました。一般家庭も計画的に停電されました。そのため、蝋燭やランプが必需品でした。『週刊朝日の昭和史』には、蝋燭屋さんが成金になり、別荘、自家用車を買い、豪勢な暮らしをしている話が載っています。夕刊紙の「今夕の停電」欄には「一般用は昼間は全面停電、夜間が5時から8時までの内30分のみ送電、8時から翌朝5時までの内3時間送電」「夕5時から8時まで6分の5制電、8時から翌朝5時まで3分の2制電」と言う厳しい状態でした。

 12月21日高知県、和歌山県に南海大地震が発生し、死者は1000人に及びました。

■1947年(昭和22年)

 1月に新興宗教の教祖「爾光尊」が金沢で逮捕されました。この信者に名横綱「双葉山」、囲碁界の巨峰「呉清源9段」がいて驚いたものです。

 2月には埼玉県の高麗川で八高線の列車転覆事故で死傷者1000人余という大惨事を引き起こしています。

 7月に連続放送劇「鐘の鳴る丘」がスタートしました。孤児院を舞台に、戦災孤児が多かった時代に、孤児たちが明るく、たくましく育つ姿、明るいテーマソング「…とんがり帽子の時計台…」で、大ヒットとなりました。

 この暗い世相に希望を与えたのは、日大水泳部の古橋広之進でした。400メートル自由形で世界記録を出したのです。翌々49年(昭和24年)には全米水上選手権に招かれ、古橋広之進、橋爪四郎らが世界記録を4回も作り、水上日本の黄金時代を開きました。この後数年彼は400メートル、1500メートルの自由形に世界記録を連発し、続く橋爪選手はいつもわずかの差で古橋に破れましたが、やはり世界記録でした。オリンピックに出場を許可された52年(昭和27年)のヘルシンキオリンピックでは、最盛期を過ぎ、期待された成績を残せませんでした。

 朝日新聞の連載小説「青い山脈」が終了しました。その後映画化され、その主題歌と共に大ヒットとなりました。又笠置シズ子の軽快なメロディにのった「東京ブキウキ」もこの年初演され、大ヒットとなりました。暗い歌より明るい歌が好まれたようです。平野愛子の「港が見える丘」、川田孝子の「みかんの花咲く丘」などもこの年のヒット曲です。「安城家の舞踏会」では没落する貴族の最後の夜の舞踏会で、そこに展開する家人や使用人のエゴイズムを描き出し、戦後思想をかいま見させました。洋画で記憶に残っているのは、ガーシュインの伝記「アメリカ交響曲」記憶喪失の元兵士を描いた「心の旅路」、ジョン・フォードの「荒野の決闘」等が思い出されます。ソ連製の「石の花」は民族童話の映画化ですが、戦後初の色彩映画として評判になりました。

■1958年(昭和23年)

 1月26日午後3時、都内の帝国銀行椎名町支店に区役所の腕章を巻いた40才くらいの男が訪れ、「このチフスの予防薬を飲むように」と薬を差し出しました。丁度外出中の支店長以外の17人の行員が素直に飲んだところ、なんとこれが青酸カリだったのです。たちまち一同昏倒、苦しみ始めました。死亡者は12人に達しました。この男は10数万円を盗み逃走しました。犯人として平沢貞道という、日展にも通ったことのある画家が逮捕され、死刑となりましたが、今ひとつ確たる証拠に欠けたため、歴代法務大臣は死刑執行の判を押さず、90才を超えるまで生存し、獄中で病死しました。

 又この年から4年間、1951年(昭和26年)までサマータイムが実施されました。現在も欧米諸国で実施されていること、省エネ対策として今でも時々実施を求める声が上がっていますが、日本でもこの時期実施されていたのです。当時日本では農業や土建関係の労務者は日が暮れるまで働く習慣のため、労働強化になるとして、サンフランシスコ平和条約締結と共に廃止されました。当時私は高校生でしたが、夕方8時過ぎまでボールを追いかけていました。当時とは事情が変わってきていますので、再検討しても良いのではないでしょうか。

 又歌謡界のスーパースター美空ひばりが、横浜国際劇場でデビューしたのもこの年で、小学校5年生・僅か11才でした。こまちゃくれて大人の歌を上手に歌い、人気となりました。49−50年(昭和24−25年)には「東京キッド」「越後獅子の唄」等自分の歌を持つ、一流歌手になりました。又映画の出演も相次ぎ、昭和25年度の所得は歌手の中では、笠置シズ子、岡晴夫、灰田勝彦、近江俊郎、二葉あき子につぐ第6位となったのです。

 ソ連からの引き揚げ船の第1船がようやく函館に到着しました。日ソ不可侵条約を一方的に破り、無抵抗の日本兵を3年もシベリアに抑留し、強制労働で酷使したのですからひどいものです。51万人余りの抑留者中、この間亡くなった人は52,700人に及びます。(陸海軍事典)この悲痛を歌った「異国の丘」は帰国者が増えるにつれ、のど自慢では毎回必ず1人は歌う大ヒットになりました。ところが最初、作詞者、作曲者は全く分かりませんでした。NHKでこれを尋ねる放送をしたところ3人も名乗りをあげました。吉田氏の友人の日記が証拠となり、吉田正氏の作曲と認定されました。吉田氏によると、歌詞は最初は軍国調のものだったのが、いつの間にか捕虜の身をいとしむものになったとのことである。なお吉田正はその後数々の名曲を世に出して作曲界の大御所の1人になりました。

 尚この年のヒット曲としては近江俊郎の「湯の町エレジー」、平野愛子の「君待てども」等があります。又映画では「酔いどれ天使」「手をつなぐ子ら」「我が生涯のかがやける日」などがあります。この年からはフランス映画、イギリス映画、ソ連映画等も数多く輸入されるようになりました。ジャン・コクトー脚本・演出の「美女と野獣」、「我らの生涯最良の年」、ソ連製バレー映画「眠れる美女」等が封切られました。

 小説家太宰治が、井の頭公園付近の玉川上水で入水自殺しました。彼が戦後に書いた小説「斜陽」は「斜陽族」という流行語をうんだ人気作家でした。近年も彼を偲んで命日の6月19日には桜桃忌が開かれています。

 6月28日福井を中心とした大地震が発生し、3000人も死亡しました。

 この年両国で川開きが11年ぶりに再開されました。徐々に生活にゆとりが出てきた証でしょうか。

 電球、万年筆など111品目の公定価格が廃止されました。

■1949年(昭和24年)

 4月に9年ぶりに野菜類が自由販売になりました。食糧不足もかなり改善されたようです。ビヤホールも6月に解禁になり各地で復活しました。

 この年8月東海道線に特急が復活しました。東京ー大阪間が9時間です。現在は3時間くらいですから、随分早くなったものです。

 この年の最も明るい話題は湯川秀樹のノーベル賞受賞です。日本人としての第1号であり、大変な勇気と希望を与えました。

 この年10月サンフランシスコ・シールズが来日し、日米親善野球を行いました。シールズはマイナーリーグの3A級でしたが、日本のプロ野球は全く歯が立ちませんでした。その中で東京6大学選抜が法政の関根投手の大活躍で、破れはしましたが、1−0と大活躍したことが印象に残っています。

 11月プロ野球はセントラルリーグとパシフィックリーグに分裂しました。毎日新聞がプロ野球に進出しようとしたことによるもので、毎日は阪神から若林監督、別当薫等有力選手を大量に引き抜き旗揚げしたものです。この翌年大毎(毎日)はパシフィックリーグで優勝し、松竹ロビンスと初の日本選手権を争い、優勝しました。

 この年「青い山脈」が映画化され、藤山一郎・奈良三枝が歌う明るい主題歌と共に大ヒットしました。この年当たった映画には小津安二郎監督の「晩春」、板東妻三郎主演の「破れ太鼓」などがあります。歌謡曲では藤山一郎の「長崎の鐘」高峯秀子の「銀座かんかん娘」久保幸江の「とんこ節」などがあります。この年にはイタリア映画も輸入され、そのリアリズムが大きな話題となりました。この年話題となった洋画は、ルー・ゲーリックを描いた「打撃王」、ヴィヴィアン・リーの「哀愁」、総天然色で美しい「仔鹿物語」、ローレンス・オリヴィエの「ハムレット」等があります。

■1950年(昭和25年)

 6月イギリスのDHロレンスの翻訳本「チャタレー夫人の恋人」がわいせつ文書に指定され、発行禁止処分を受け、大きな問題になりました。現在では問題にもならないでしょう。

 朝鮮戦争の勃発で軍需株を中心に、株価が暴騰し、この後の高度成長の第一歩となりました。

 7月には後楽園で初のナイターが行われました。停電に悩んだ2−3年前が嘘のようです。

 8月には黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演の「羅生門」が封切りれました。後にベニスの映画祭でグランプリをとり、日本映画を世界に認知させる快挙となりました。また映画スター相手にキッスの講習会が開かれ、話題となりました。それまで日本映画にはキスシーンはなく、これより前ハリウッドに視察旅行をした山口淑子は「アメリカで何を勉強してくるか」と問われ、「キスの仕方を教わってくる」と言い、外人に笑われた時代です。講師は東京ロケで来日中のフローンス・マリーというハリウッド女優、生徒は松竹の安部徹と高橋貞二だったとのことです。

 アメリカ映画はこの年からカラーの時代に入りました。これまでも「子鹿物語」等何本かはカラーでしたが、この年は135本中22本がカラーとなったのです。ボップ・ホープの「腰抜け二丁拳銃」、エリザベス・テーラー等豪華キャストを揃えた美しいカラー映画「若草物語」、イギリスのバレー映画「赤い靴」、敗戦イタリアの現実を描いた「靴磨き」「自転車泥棒」、ベニス映画グランプリをとったフランス映画「情婦マノン」等懐かしく思い出されます。

 9月にはジェーン台風が関西を襲い、死者225人、家屋の全半壊4万戸に達しました。尚この頃、アメリカ式に台風には女性の名が付けられていました。その年の1号からアルファベット順です。

 この年のヒットソングは岡本敦郎の「白い花咲く頃」、二葉あき子の「水色のワルツ」、山口淑子の「夜来香」等です。映画では「羅生門」の他、「又逢う日まで」「帰郷」などです。「又逢う日まで」では岡田英二と久我美子のガラス越しのキスが話題となりました。

 この記述を見ても1950年には貧しいながらほぼ正常な社会に回復してきたことが分かります。