日韓関係論文
搾取は幻想


 1943年カイロ宣言で連合国は「奴隷状態に置かれた朝鮮を解放、独立させる」と言っている。又一般に「日本の搾取は極めて厳しかった」と言われ、韓国・北朝鮮は日本に謝罪と補償を求めている。本当に朝鮮人はそのようなひどい扱いを受けたのであろうか。以下に検証する。

1.栄達した朝鮮人

 1910年日本は韓国を併合すると、韓国の王族を日本の皇族とし、併合に貢献した人を貴族とし、爵位を与えた。併合当時の首相李完用は伯爵(後公爵)に任じられたのを始め、76人の功労者に爵位が授与された。又13人の道長官には、日本人7人朝鮮人6人が登用された。1924年には総督府の学務局長にも朝鮮人が任用されている。

 一寸驚くのは陸軍中将の洪思翊と衆議院議員の朴春琴である。特に衆議院議員は選挙に当選しなければならない。朴春琴は東京で2回も当選したのである。
朝鮮人だからといった差別がなかった何よりの証拠である。尚朝鮮では日本人・朝鮮人共に選挙権も被選挙権もなく、逆に内地では朝鮮人も日本人と全く同じ選挙権・被選挙権を持っていたのである。1945年には選挙法が改正になり、次の選挙には朝鮮にも18人の定員が割り当てられたが、敗戦で実現に至らなかった。

 貴族院議員には1932年朴泳孝が任命されたのを始め、数人任命されている。

 公爵・伯爵・陸軍中将・国会議員を輩出している朝鮮人が奴隷状態とは、戦時プロパガンダに過ぎない。 

 
2.米の飢餓移出

 韓国の高校歴史教科書には、米穀生産量と収奪量の推移の表を掲載し、「生産量の増加を上回る収奪量の増加により、朝鮮人は米を食べられなくなった」と日本を非難している。

朝鮮の米の生産量と移出量(単位:万石)
19201922192419261928193019321933
生産量12701432151714971730137015901630
移出量185340475544742540760870

このことは事実であり、当時の農民の苦痛は大変なものであったことも事実である。しかしこれは自由経済のもとで、価格が暴落した為であり、当時の日本の東北地方も同じ事であった。しかし当時は米は自由売買であり、決して強制されたものではない。

 昭和初期は昭和恐慌として名高い時期である。1925年(大正14年)から1931年(昭和6年)にかけ米の価格は3分の1に暴落した。内地では価格の暴落は、朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であると言われ、農林省では内地農民の保護のため、朝鮮、台湾からの移入制限を主張した。それに対し朝鮮総督府は朝鮮農家の保護を要求し、陸軍の応援を得て、移入制限を拒否し通したのである。これに怒った石黒忠篤農林次官は辞表を出している。

 即ち米騒動のあった大正時代は、日本は米不足で、台湾、朝鮮からの米を欲したが、昭和に入ると各地とも増産体制が整い、不況による消費の減少もあり、米余り時代に入っていたのである。朝鮮では米に代わる換金作物が無く、衣類その他を買うためには米を売る以外に方法はなかったのである。

 この時代アメリカでは同じように砂糖、椰子油等をめぐり、フィリピンとの貿易摩擦が問題となっていた。更にフィリピンからの移民と労働組合との労働摩擦が加わった。この圧力により、1935年(昭和10年)フィリピン自治政府が発足し、10年後の独立が決まった。アメリカは総督に代わり、拒否権を持つ高等弁務官がいるだけで、殆ど独立に近い形になった。即ちフィリピンは独立を勝ち取ったが、実質はアメリカのフィリピン切り捨てだったのである。日本でも議会等で朝鮮切り捨てを主張する人がいたとの事である。 即ちアメリカはフィリピンを植民地と考え、自治政策をとり、遂には独立させた。つまりあくまでアメリカとは違う民族、国と考えたのである。それに対し日本は朝鮮を併合し、将来的には完全に一つの国となるよう運営した。その違いがインフラ整備の違いとなって現れ、工業化の度合いの違いとなって現れたのである。

日本は水深の浅い黄海の干拓、荒蕪地の開墾による農地の拡大、水利施設の整備による灌漑面積の拡大等に補助金をつけ奨励した。しかし計画年度の前半はインフレのため、予算が不足し計画が進まなかった。1925年更新計画を立て軌道に乗ったが、今度は逆にデフレとなり、韓国が非難するとおり、返済不能となった水利組合が続出した。1935年これらの水利組合を解散させるもの、金利の減免等で救済するもの等に分類し救済した。即ちこの危機を乗り越えられなかった農民は土地を失い、大変な苦難に陥ったが、この危機を乗り切った農民はその後のインフレにより、大変な利益となったのである。

 朝鮮の人口は衛生の改善により、日本統治下で倍増しており、このように多額な投資を行っても農地の拡大は、人口増に追いつけず、日本・満州への進出は不可欠だったのである。

3.強制連行の嘘

 日本では支那事変が始まった翌年の1939年、軍需工場への徴用制度が始まった。一方朝鮮では労働力はまだまだ豊富だった。朝鮮では人口の増加により、土地を貰えない農家の次男、三男は内地への移住を熱望していた。所が昭和恐慌時、彼らの内地移住は日本人労働者の職を奪うとして制限されていた。特に内地の企業は朝鮮で従業員を募集することが禁止されていた。それがこの年自由に従業員を募集することが許されたのである。

労働需給が逼迫してきた1942年自由募集から官斡旋に変わった。この時から斡旋とは言いながら、実質的に強制であったと言われている。しかしこれは、法的にはあくまで斡旋であり、強制力はなく、逃げても金銭面さえ解決して居れば罰則はなかった。内地並に徴用が始まったのは、戦争も終わりに近づいた1944年からである。この官斡旋、徴用は強制連行と言われているが、手錠をかけ、拉致したのではなく、徴兵と同じように、所定の場所に出頭を命じられ、そこから係員に引率され、所定の労働場所へ行ったのである。当時の鉱山や土木現場はまだ機械化されていなかったので、大変な重労働だった。更に戦争末期には食料配給機構が崩壊し、大変な苦労をかけた。そのため今日でも怨嗟の元となっている。

 尚従軍慰安婦問題は別項で述べるが、ABC of Modern Japanese Histry でも色々記述されているので、参照されたい。

4.熱狂的な志願兵の応募

 1937年支那事変の勃発により、内地から戦場に出動する日本軍の大部分が、朝鮮半島を汽車で通過した。それに伴い、沿線の主要駅での湯茶の接待や、慰問品の受け渡しを、朝鮮人も日本人と一緒に行った。各駅は連日連夜、万歳の声が轟くようになった。軍隊に通訳その他で随伴していく朝鮮人の軍属も少なくなく、送る者、送られる者の美談は数知れず、涙と笑いの交歓が何ヶ月も続いたのである。

丁度その頃金錫源陸軍少佐は、千名の日本人部下を指揮する大隊長として、支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として始めて「金鵄勲章功三級」が授与された。少佐クラスでしかも生存者での「功三級」は全く破格でした。このビッグニュースは朝鮮の新聞に連日、「金部隊長奮戦記」「戦塵余談」等がでかでかと紹介された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったのである。

支那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。それと共に朝鮮人は自信と誇りを持ち、内鮮一体の空気が強まった。民族主義者尹致昊、天道教の崔麟等の大物が朝鮮神宮に参拝し、戦勝祈願祭の式典をあげ、総督府のお偉方を驚かされたのもこの頃であった。このような雰囲気で1938年実施された志願兵制は、400人の採用に対し、3千人も応募があった。この倍率は年々増加し、1942年には62倍を超えたのである。翌1943年の応募者数は30万人で、恐らく朝鮮人男子の18才から22才位迄の健康な青年の大部分が応募したと思われる数字です。(当時の人口約2400万)これは現在の日韓双方の青年は信じられない事だと思います。

後の駐日韓国大使、崔慶禄も志願兵の一人であった。彼は陸士への合格が決まっていたにも関わらず、所属部隊がニューギニアへ出征が決まったとき、「学校で何年も過ごしていては、第一線でご奉公の時を失する」と言い、第一線へ出征したのである。兵役を嫌った人がいたであろうことは否定しないが、このように日本人と同じように、自ら進んで兵役についた人も多数いたのである。これらの状況から朝鮮にも1944年徴兵制が敷かれたのである。
徴兵制を敷くことは朝鮮人の忠誠心を信じなければ出来ないことである。反日的なムードの中では、彼らに持たせた銃の筒先がいつ自分に向けられるか分からない。

朝鮮人指導者は相次いで朝鮮人青年の奮起をうながした。各指導者の共通した主張として、朱燿翰(後の韓国国会議員)の「ルーズベルトよ、答えよ」と題する演説の一部を紹介する。
「正義の仮面をかぶり、搾取と陰謀をほしいままにしている、世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文面を挿入しようとした時、これに反対、削除したのはどこの国か。黒人と東洋人を差別待遇して、同じ席につかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。しかし君らの悪運は最早尽きた。一億日本同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならん事を誓う!」と朝鮮青年に訴えましたが、アパルトヘイトに言及しているのが共通した特色である。

5.日本より少なかった税金

併合直後の1911年の予算を見ると、歳入5200万円の内、日本政府からの補充金1200万円、公債1000万円であり、日本政府の援助なしには運営不能な状態であった。この補充金の比率は次第に減少するが、最後まで残った。終戦時日本が朝鮮に残した資産は色々な試算があり、明確ではない。その内連合軍総司令部の調査では民間資金を含め、52億5000万ドル(790億円)に及ぶ。国家予算の比率で、今日の価値に換算すると80兆円を超える巨額である。

又個人所得税が朝鮮に導入されたのは、1934年であり、この時の税率は内地の半分であり、その後次第に格差は縮まったが、それでも内地より低率であった。又酒税でも内地の税率より低く、決して搾取したとは言えない。
大体植民地は植民地住民は搾取され、宗主国の国民の利益になると考えられているが、矢内原忠雄によると「植民地が本国政府に利益を与えた例は極めて少ない」との事であり、かっては利益を生んだ場所でも民族主義の台頭と共に、むしろ搾取するより、保護する必要に迫られたのである。この事は戦前、石橋湛山も主張していたが、戦後植民地のくびきをとれた事が、戦後発展の一因となった事で立証される。そのことに気づいたアメリカはフィリピンを切り捨て、独立させたのである。

6.労働搾取

マルクス経済学では資本家は労働者から搾取するものと決めつけ、特に植民地労働者は低賃金で、苛酷な労働を強いられたと言うことが常識となっている。本当にそうであろうか。朝鮮の労賃は日本の50%から70%の間で変動していた。溝口他『旧日本植民地経済統計』によると、不況時の1910年代及び30年代は50ー60%であり、好況時の20年代、30年代末以降になると60ー70%に上がっている。決して次第に引き下げていない。

しかし日本に比べ低賃金であることより、常に搾取と非難される。その様に考える人は人件費の低減を目的とした、今日の日韓企業の東南アジアへの進出をどの様に考えるのであろうか。誰も搾取に行っていると考える人は居らず、受入側も経済発展のため歓迎している。この事と日本の朝鮮への進出と何処が違うのであろうか。その様に考えると低賃金イコール搾取と考えることは間違いである。

現在の経営学では最大利益を求めるには、低賃金や苛酷な労働条件の押しつけは決して得策ではない。それは労働者の労働意欲を削ぐからである。そのことは当時の経営者も知っており、一流企業ほど労働者に働く意欲を持たせるよう工夫していた。

 労働者の賃金は生産性によって決められる。私はかってプラント輸出の仕事をしたことがあるが、その時、労賃の安い所は労働生産性も悪く、コストは日本で作るのと大差がないと言うことを聞いた。それでなければ日本の輸出業が勝てるわけがない。当時の調査でも、1944年炭坑における一人当たり年間出炭量は朝鮮100トンに対し、日本は160トンであった。ほぼ日当と比例している。

尚ここで特記すべきは高級官僚の俸給である。1919年の給与規定で、同一資格者は日本人も朝鮮人も同一俸給と定められた。但し内地人は在勤加俸(僻地手当)がつき、恩給開始年齢が引き下げられた。この在勤加俸は奏任官(軍隊では少尉から大佐)以上では本俸の50%、判任官(軍隊では下士官)で60%という高額であった。やはりへんぴな所に優秀な人を呼ぶためには、これだけ高給を払う必要があったと言うことである。この在勤加俸でもって内地人の優遇と批判されるが、内地人が内地で勤務するのと、朝鮮人が朝鮮で勤務するのとは同一待遇だったのである。所が1944年奏任官以上、四五年判任官の待遇改善が行われ、内地人と全く同じとなった。即ち朝鮮人も朝鮮で勤務する場合は、内地人が内地で勤務するより手当分だけ高給となったのである。

7.搾取は幻想

 朝鮮等植民地からは搾取したと思っている人は多い。土地の収奪については間違えて報道されている事が多いことを説明した。鉱物、林産物の収奪については、眠っているだけでは何の価値もない。人間に有効に活用されてこそ有益となるのである。特に林産物は再生可能な資源である。

6項でも述べたが、今日低開発国から盛んに企業誘致が為されている。そして低賃金の魅力で多くの企業が進出している。しかし誰も搾取しているとは考えていない。この事と日本統治下の朝鮮進出と何が違うのであろうか。日本企業は朝鮮で得た利益を、朝鮮で再投資し利益を還元したのである。

 又人材の育成についても、これらの企業が戦後無難に操業できる程度には育てていたのである。従って朝鮮動乱の後もこれらの企業は無事生き残っている。

 日本人が大量に進出し、おいしい仕事を独占し、朝鮮人を使用人として使っていたため、誰もが朝鮮人を搾取したと考えているが、以上述べた如く、どの点でも搾取はしていないのである。その証拠に搾取していた筈の日本人が居なくなっても、1960年(昭和35年)迄は、国民所得・労賃とも格差は殆ど縮まらず、それ以降逆に拡大したのである。即ち搾取は幻想であり、実際は知恵と金を出すことにより、経済を上手く運営し、その報酬を得ていたと考えるべきであろう

宇垣総督による産業革命が本格化し、大東亜戦争が勃発するまでの1930年代後半は、朝鮮経済が発展し、最も日鮮一体化が進んだ時代である。

 大東亜戦争開戦の2日後の1941年12月10日三・一独立運動の中心人物であった崔麟は「この日の来るのをどれほど待ちこがれていたことか。……半島の民衆は創氏を行い、喜んで帝国軍人となり、どこから見ても皇国臣民となったのである。これからは全力を尽くして錬磨育成に励み、君国の楯として恥じることのないよう心身を鍛えなければならない」と毎日新報で語っている。

当時はこのように朝鮮でも内地と同様「打倒米英」で燃えさかっており、決して朝鮮は奴隷状態ではなかったのである。