日韓関係論文
韓国の戦後発展の理由


1.朴正煕大統領と韓国の発展

 今では信じ難いことだが、1961年朴大統領が政権を取ったとき、韓国は北朝鮮やフィリピンより貧しかったのである。一人当たり国民所得の推移を第1表に示す。

 韓国の発展は1965年以降である。従って韓国の発展は明らかに彼ら自身の懸命な努力の成果である。1965年は韓国がベトナム戦争に参戦した年である。そして日韓基本条約を締結した年である。ベトナム特需により韓国経済は急激に進展した。しかし何故その時、フィリピン経済は韓国経済のように伸びなかったのであろうか。フィリピンはかってのアメリカの植民地であり、ベトナムには韓国より近い。フィリピンにおけるベトナム特需は韓国より多かったはずである。しかし韓国はこのチャンスを生かし、フィリピンは活かせなかった。この理由は韓国とフィリピンの潜在能力の差(工業の発展、インフラ整備の度合い、教育の欠陥等)である。と同時に日本とアメリカの植民地政策の差である。これらのことについてこれから論じる。

第1表 1人当たり国民所得 単位ドル
 19581965197019751980
日本320760192044509020
韓国1211202505801450
北朝鮮190330450
フィリピン198150210380710

ベトナム戦争が始まった年日本は韓国と条約を結んだ。その結果政府資金だけでなく、大量の民間資本が韓国に流れ込んだ。当時日本経済は急激に成長しており、それと共に人件費が急激に高騰していた。距離の近さ、教育の普及、日本語が通用する、人件費の安さ等、日本企業が韓国に進出するのは当然である。その結果、資本と知恵の流入により韓国経済は急激に立ち上がったのである。

 その結果農業部門の停滞が目に付くようになった。1970年朴大統領はセマウル運動を立ち上げた。このスローガンは自立、勤勉、共同であった。このスローガンの下、道路の改修、屋根の改良、倉庫の建設、等が農家の共同作業で行われた。この運動は都市に波及し、生産性向上運動と結びつき、産業の発展に貢献した。まさに韓国の発展は彼らの努力の賜であった。
 しかしこの朴大統領の成功は次に述べる宇垣総督の統治と極めて似ている。

2.宇垣総督就任時の社会情勢

 1931年6月宇垣一成が朝鮮総督に就任した頃は、世界的な農村恐慌で有名な時期であった。農産物の価格は軒並み暴落した。代表的な産物である米の価格は1919年をピークとして、3分の1近くまで下がった。収入が3分の1に減少したのである。衣類、農機具、肥料そして冠婚葬祭と食料以外に色々費用を要する。昨年の収入をベースに借金でもしたなら、返済不能となるのは当然である。自由経済の弊害が大きく現れた時代である。

 この対策として、世界各国は高関税で他国からの輸入を抑えた。アメリカ、オーストラリアはアジアからの移民を禁止した。イタリア、ドイツではムッソリーニ、ヒトラーが台頭し、計画経済が次第に取り入れられた。
 日本でも東北の農村では、農家のみならず、役場の職員、教員の給料が払えず、遅配、欠配が続いた。農家では自分の作った米を食べず、市場に出すため、ますます米の価格が低下し、売るものがなくなり、娘の身売りが続出した。この年9月に満州事変が勃発した。この原因の一つは、この農村の疲弊対策として、農民の移民先を求めたことである。

 朝鮮の農民も自分で作った米は食べることができず、粟か稗しか食べられなかった。日本の農林省は「米の価格低下は、朝鮮米の無制限な移出が原因」と非難し、出荷の自粛を求めた。しかし他に有用な作物がない朝鮮では、農民の生活を維持するためには、高価な米を内地へ移出するしか方法がなかった。陸軍の応援で辛うじて米を自由に日本へ移出する事が認められたのである。

 尚、この時期アメリカではフィリピンからの砂糖、椰子油の無制限な輸入に、アメリカ本土の砂糖や食料油の製造者が反発した。更にフィリピン労働者のアメリカ進出に危機感を抱く労働組合が同調し、フィリピンの十年後の独立が決定した。フィリピンの切り捨てである。日本とどちらが民衆の事を考えた施策だったであろうか。

3.宇垣総督の農村振興運動

 宇垣総督は着任後直ちに農村を視察し、農村振興運動をスタートさせた。日本における農村自立更正運動より僅かながら先行している。この運動で宇垣が最も主張したのは「心田開発」即ち心の持ち方であった。又宇垣に呼ばれ指導に当たった山崎延吉の指導理念は「奉公の精神、協同の精神、自助の精神」であった。セマウル運動との違いは奉公が勤勉に代わっただけである。

 この運動の日本との最大の違いは個人レベルを指導の対象としたことである。適当な農村指導者のいる部落を指導部落に選定し、各戸に家計簿を付けさせた。当時は殆どの人が読み書きが出来なかったので、村の吏員が聞き取り記帳を代行したのである。その過程で読み書き算盤を教え、「入るを量り出るを制す」経営の基本を教えたのである。全くプライバシイの侵害であるが、小なりと言えども、一個の企業の借金の補助をし、家計をバランスさせるためには当然の処置である。尚この文盲対策として1934年簡易学校の制度を発足させている。学校へ行けなかった青年に読み書き・算盤を教えるものである。生徒は農業の暇なときだけ来て、勉強するというやり方で、普通学校に併設し、普通学校の先生が兼務で教えたのである。

 当時の朝鮮農家の最大の問題は労働時間の少ないことであった。田の除草、施肥、更に堆肥作り等に、内地の農民並に働くことを求めたのである。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花等を奨励し、畜産、民芸品製作を奨励した。この方針の民間への徹底を図るため、青年団、婦人会を積極的に組織化したのである。ここで注目すべき事は、これらの団体は反日運動の温床になるとして、それまでは極めて抑制的な対応をしていたものを、積極的に活用を図ろうとしたことである。これらの会合は正規の会議も重要であるが、会議の前後に交わされるインフォーマルな会話、交際が極めて重要であり、反日運動に対する自信がなければ実施できない政策である。

 朝鮮の女子は在来屋外作業の習慣がなかった。それを屋外作業に引き出すと共に、家計簿記入、迷信打破、冗費節約、副業指導等により生活改善の指導を行ったのである。
 この結果内地の五〇〜六〇%しかなかった米の面積あたり収量が急速に増え、家畜が殖え農村経済は立ち直った。

 この宇垣の農村振興運動は南総督になっても一応継続したが、次第に変質し、1941年国民総力運動に合体化する形で終了した。  尚、この頃宇垣のブレーンであったジャーナリスト・鎌田沢一郎は戦後セマウル運動の発足に当たり、韓国に何回も呼ばれ指導に当たったのである。

4.朝鮮の産業革命

 戦前の朝鮮で特筆されるのは電力の発達であった。大正末期、後に日本工営社長として、世界の水力開発に大きく貢献した久保田豊は朝鮮を旅行し、大量の地図を買ってきた。その地図から鴨緑江上流の赴戦江、長津江をせき止め、流れの方向を変え、逆方向の日本海に落とす事により、大変有利な発電が出来ることを発見した。その計画は当時日本最大の蟹寺発電所の出力が4万5千キロワットの時代に10万キロワット以上の計画である。

如何にに有利な発電計画でも使ってくれるユーザーがなければどうしようもない。彼はパートナーの森田一雄と共に、森田の友人の野口遵を口説き落とした。野口は化学肥料メーカーの日本窒素の社長で、化学肥料は当時最大の電力消費産業だったのである。彼らの熱意により1929年(昭和4年)赴戦江第一発電所13万キロワットが完成した。それと共に興南に一大化学工場を建設した。これより久保田と野口の二人三脚による鴨緑江の開発と、大化学工業の発展が始まった。この開発が如何にスケールの大きなものであったか、日本の発電所、アメリカのルーズベルトがニューディールの目玉として始めたテネシー川開発(TVA)との比較を第2表に示す。  この電力開発こそ朝鮮産業革命の起爆剤となったものである。

第2表 電力開発比較
朝鮮大発電所日本大発電所
完成分 戦前完成分 戦前
赴戦江第113.0万KW国鉄千住12.0万KW
長津江第114.4万KW東電信濃川16.5万KW
長津江第211.2万KW中電奥原8.7万KW
虚川江第114.5万KW黒部川第38.1万KW
水豊70.0万KW
工事中 戦後工事中 戦後
雲峰50.0万KW佐久間35.0万KW
義州20.0万KW黒部川第433.5万KW
新高瀬128.0万KW
田之倉38.0万KW

朝鮮電気事業史による
朝鮮年間発電量 アメリカTVA年間発電量
終戦時完成分114.0億KW水力122.0億KW
工事中70.0億KW火力43.0億KW
陸軍工廠14.0億KW
アメリカンアルミ18.0億KW

 電力開発と共に産業革命の起爆剤となったのは、鉱業の発達である。
 宇垣総督は古来朝鮮に金の飾り物が多いことに目を付け、金の採掘に奨励金を出した。この結果うち捨てられていた鉱山が復活し、又副産物として多様な有用鉱物が発見された。朝鮮は鉱物の標本室と言われる位土地である事が分かった。鉱山の開発に伴い道路が付けられ、電化が進んだ。鉱山ではボタまで日本に持ち込む馬鹿はいない。選鉱・精錬事業が発達し、セメントその他必要資材の製造、機械の修理等工業が急速に発達したのである

 更に1931年の満州事変とそれに続く満州国の建設も、丁度ベトナム特需と同様の効果をもたらした。この時代の工業の発展について韓国高校歴史教科書では「日帝は大陸侵略を画策して韓半島を兵站基地に仕立てようとした。その為に発電所や軍需工場が建設され、鉱山の開発や重化学工業の導入、発展に力が入れられた。しかしこれらはすべて日帝の戦争遂行の為であり、韓半島の経済を植民地経済体制により、徹底的に隷属させるためのものであった」と非難している。しかし最初に立ち上がったのは肥料工場であり、セメント工場等必ずしも軍需工場ではなかった。それと共にこの時代の機械工業、化学工業の発展があったからこそ、ベトナム特需を生かす事が出来たのである。

 この宇垣時代に始まった農業の生産性の向上、工業の急激な発展は、第3表に示すような急激な社会変革を起こしたのである。強盗件数の減少、就学率の向上は生活レベルの向上を窺わせ、、電力消費量の急激な上昇は、今日の韓国発展の原動力と言えよう。

第3表 朝鮮産業革命の成果
 昭和2年昭和7年昭和12年昭和17年
農業生産高千万円8686112
工業生産高千万円313587
1人当り国民所得89.978.1110.7
発電量百万KWH2,698(4,860)
就学率17.418.230.749.6
強盗件数1,7711,261727394
農業・工業生産高:1934−1936年平均価格表示
1人当り国民所得:溝口他『旧植民地経済統計』
発電量:昭和17年記載数値は昭和16年分 朝鮮総督府殖産局『電気事業要覧』
就学率:正規学校就学率 古川宣子論文より作成
強盗件数:朝鮮総督府『統計年報』


5.教育について

 国の経済の発展を論ずる時、教育の問題は避けて通ることが出来ない。私が常々不思議に思うことは、戦前の非白人植民地で今日先進国入りしているのは、日本に統治された台湾と韓国だけである。シンガポール、香港をあげる人もいるが、この両者は都市国家で成長力の弱い農村部を持たないので、台湾・韓国と同等に論じる訳にはいかない。戦後あらゆる面で日本の先生格であるアメリカが統治したフィリピンも、開発途上国の地位に停滞している。フィリピンがアメリカの統治下に入ったのは1898年で、台湾が日本の統治下に入った3年後であり、朝鮮が日本の統治下に入る12年前である。なぜ台湾・韓国の2国だけがこのように成長できたのであろうか。教育の面から日本とアメリカの政策を比較してみる。

アメリカはフィリピンを統治するに当たり、教育は最大の武器であるとして、アメリカから七百人以上の教師と、大量の教科書を持ち込み、無償で初等教育を始めた。又歴代副総督を教育長官に任命し、教育に力を入れた。従って初等教育の普及は1930年代半ばまでは朝鮮を上回っていた。朝鮮の就学率がフィリピンを上回ったのは、日本の統治末期である。高等教育に至っては、国立のフィリピン大学を設立したのが、韓国併合前である。更にそれ以前からセントトーマス大学等キリスト教関係の大学・専門学校が、フィリピン大学を上回る生徒を教育していた。これらの大学・専門学校に学ぶ学生は1937年現在、人口百万人当たり1900人もいた。日本には及ばないものの、朝鮮の130人とは桁違いである。朝鮮の場合内地への留学生は朝鮮で学ぶ人より多かったが、その数を勘案してもフィリピンには遠く及ばなかった。

 フィリピンの教育について、日本がフィリピンを占領した時の比島調査委員会の報告の中に次のような記述がある。
 初等教育については「大東亜戦争直前の就学率は84.7%に達している。(この頃の朝鮮の就学率は約43%)但しこの就学率は五才から一八才のものまで漫然と集計したもので、正規の年齢層のものに限れば二〇%前後に過ぎない。1940年度において初等学校一学年に既に14才に達した生徒が1%強もいたのである。その教師のスタッフの如きも極めて貧弱で、大部分が中等学校卒業者及び中途退学者を以て占められている」
又中途退学の多さも指摘されている。

中等教育については「高等教育への進学の為の予備科のへの進学者が六六%以上を占めている」実業教育の例として「比律賓工業学校では自動車修繕科・船舶機関士養成科・ラジオ装置科・ラジオ操作科・定置汽機操作科といった学科が大半で、工員の養成以外に一歩も出ていない」

 高等教育については「単に白襟職業に対する不健全な憧れを刺激する結果となった事も欠陥の一つとして挙げられねばならない。又徒に法・文・経といういわゆる自由教育に堕し過ぎて技術教育の方面が等閑に附せられていた憾みがある」
 日本から見て技術教育、特に将来の発展の基礎となる理論面の軽視が指摘されている。

 しかし私は、これだけ教育が普及していたフィリピンの今日の停滞については、教育の理念に問題があったように思う。即ちアメリカ式教育と戦前の日本式教育の違いであり、今日の日本の教育荒廃に繋がる問題である。

 まず一点目は国家と個人の利害のどちらを優先するかである。公と私、忠と孝、チームワークと個人プレー等いずれも共通の問題である。又協同の思想も共通なテーマである。日本は公を優先し、アメリカは私を優先する。朝鮮も又儒教の教えで何よりも孝を重視した国であった。

 二点目は自力更正の思想である。日本は「為せば成る」と自立の精神を徹底的に叩き込んだ。この事こそ台湾・韓国の発展の原動力ではなかろうか。今日の後進国はおおむね「なるようになるさ」と自立更正の意気の欠如を感じる。

 三点目は勤労の精神である。日本では小学校から掃除は児童の役であり、金持ちの子も貧乏人の子も一致協力して作業することを教えた。工場では大学卒も工員と共に油にまみれ、問題の解決策を考えた。朝鮮では、支配層である両班は極度に労働を軽視し、煙草に火を付けることまで召使いにさせたと言われる。この両班こそが近代朝鮮停滞の根本原因であった。又欧米でも士官と兵は食堂は別であり、ホワイトカラーと工員の身分は大きくこの風習はフィリピンにも引き継がれ、前述のように技術軽視の風潮が一般化した。

 日本の戦前教育の神髄は教育勅語である。私はこのフィリピンと韓国の対比より、日本の戦前教育の良さ、特に教育勅語を見直すべきだと考える。

6.農村指導者の育成

 朝鮮における戦前教育で見逃せないのは、一連の皇民化教育である。この過程で学校へ行けなかった青年に夜学教育が行われたり、農村指導者の養成、工場における職場訓練等が行われ、学校教育の統計では出てこない社会人教育が行われた事である。この皇民化教育の内、農村指導者の養成について述べる。

 この農村振興運動が始まる数年前から自力更正が叫ばれ、京畿道を中心に普通学校(小学校)の卒業者に対し課外指導が行われていた。親から田の一部を借りさせ、先生と共に耕作法の研究が行われていたのである。彼らの熱心な農業への取り組みは周辺農家の2倍以上の収量を得たのである。最初馬鹿にしていた親もその成果に次第に脱帽し、彼らは若き農村指導者に育ちつつあったのである。この卒業生指導は1927年京畿道に始まり、1935年には普通学校の6割で13千人の卒業生を対象として、一人3年から5年間に亘り実施されていた。

 この卒業生指導をより組織的に実施するため、1933年京畿道に農事訓練所を設置したのを皮切りに、1935年以降全道に農村青年訓練所・女子訓練所が設置された。この運用は各道に任せられたため、名称・実施要項等、多少道により異なる。多くは1ヶ月の短期コースと1年間の長期コースに分かれ、長期コースでは寄宿舎に入れ、合宿訓練した。道によっては卒業生指導を受けた者を入所資格としている所もあり、これにより卒業生指導が止められたわけではない。ここで重視されたのは農業実習と共に精神指導であった。この精神指導について日本への隷属意識を植え付けるものであったと非難されている。しかし私はここで植え付けられた「為せば成る」「協同の精神」と言ったものがセマウル運動の成功に繋がったのではなかろうかと考えている。日本の戦後成長もこの精神なしには考えられない。

 1938年になると内地との交流が始まった。岩手県の青年道場に50人派遣したのを皮切りに、1944年6月までに女子約3百人を含む約3千人が、約1ヶ月内地の訓練所や農家に派遣され、内地の農業技術を実習した。この中には内地の人手不足をカバーする目的のものもあったが、農具の違い等を身を以て体験した事は、速効性はなかったとしても、必ず得るものがあったと確信する。

7.結論

 以上、韓国の今日の発展は、勿論韓国人が「日本に負けるな。為せば成る」と努力した成果である事は明らかである。しかしその起点となった朴大統領の成果は、宇垣総督の施策なくして考えられない。この二〇世紀後半は人類史上最も所得格差が開いた時代であり、この時代に間に合った国と間に合わなかった国との開きは大きい。多くの開発途上国が貧苦に呻吟している中、韓国は辛うじて間に合ったのである。この韓国の発展こそ世界に胸を張って「良いこともした」と言えるのではなかろうか。

 経済発展の根本は資金と知恵であり、後進国では自国での調達は困難である。又その活用にはそれまでに培った潜在能力があって始めて活用できる。その点韓国は成功し、フィリピンは失敗した。「ローマは一日にして成らず」、宇垣の政策は彼の時代には十分の成果を上げるまでには行かなかったが、当時養成した青年指導者は、朴大統領の時代にはまさに働き盛りとなり、セマウル運動の成功に活躍したと確信する。又当時築いた工業化・インフラの差が、今日の韓国の成功、フィリピンの失敗につながったと思う。

 私は第2次オイルショック当時勤めていた会社で、省エネ対策実行委員長をした経験がある。その時「為せばなる 為さねばならぬ 何事も ならぬは人の 為さぬなりけり」を痛感した。日本は現在非難されている皇民化教育により、この精神力を叩き込んだ。韓国はこの精神と民族主義の高揚によって今日の発展を勝ち取った。しかし行きすぎた民族主義は国際的な資金と知恵の導入にはマイナスである。近年の反日政策により、日本からの資金と知恵の導入は減少し、韓国発展にブレーキをかけてきたように感じる。