日韓関係論文
アメリカのフィリピン統治
日本の植民地統治との比較
    杉本幹夫


概略の歴史

フィリピンは16世紀末からスペインの植民地となった。1898年米西戦争が始まるとアメリカは独立運動のリーダーで、香港に亡命中のアギナルドに資金を提供し、共に戦うことを要請した。しかしスペイン軍が降伏するに当たり、未開人に降伏する屈辱だけは我慢できないとするスペイン総督に、米軍司令官は理解を示し、フィリピン軍の排除が決められた。フィリピン軍はマニラ入城を拒否された。更にパリにおける講和会議にも参加を拒否された。1898年12月のパリ講和会議でフィリピンは米国に2千万ドルで売却された。正式にアメリカの統治が始まったのは1899年4月で、日本の台湾領有の4年後、韓国併合の11年前である。

アメリカのフィリピン統治はアギナルド軍との戦いから始まった。1901年7月民政に移行するまで3代の軍政監が任命されたが、第3代軍政監のアーサー・マッカーサーは後に連合軍総司令官として日本に君臨したダグラス・マッカーサーの父である。当時のアメリカ大統領マッキンレーは基本政策について何点かの訓令を出している。その一つは教育の重視で、「教育こそ最大の武器である」とし、大量の教科書と、600人余りの教員をアメリカから持ち込み、無償で初等教育を普及させる事であった。マッカーサーは治安の回復したところから学校を開校し、現地人教育に力を入れた。更にアメリカは歴代副総督を教育長官と兼務させ、この教育重視の姿勢はあまたの植民国家の中で、日本と双璧であった。

マッキンレーの今ひとつの指示は、「地方自治は町村制より州政へと、小より大へと順に組織化すること、町村制は最大限の地方自治を許容すること」を指示している。その指示に従い、町村の役人はすべてフィリピン人が任命された。又司法制度では軍政を阻害しない限り、在来法に従う事とした。1900年5月大審院が設けられたが、9人の判事の内6人がフィリピン人であった。尚この後はアメリカ人判事が一人だけフィリピン人判事より多く任命された。このような融和策により、治安は急速に回復した。台湾では漢民族の平定に7年かかったのに比べ大変な好成績であった。

1901年民政への移行により、初代総督(当初は民政監)に任命されたのは後にアメリカ大統領となったタフトである。立法の最高機関であるフィリピン委員会には民政監タフトと4人のアメリカ人行政省長官と3人のフィリピン人が任命された。州政は知事、検事、書記官、財務官、及び監督官で構成されたが、書記官、検事はフィリピン人が任命された。又この時制定された町村法では、町村長、町村議会議員はすべて選挙で選ばれることになった。日本の朝鮮統治にて村長に当たる面長は朝鮮人を任命したとはいえ、集会、報道を規制し、地方自治を認めなかった政策と大きく異なった。

タフトは教会、修道会が大土地を所有し、実質的に農民を支配している事を嫌い、スペインと交渉し、700万ドル以上の大金を払い、買い取った。同時に大土地法を制定し、アメリカ資本の大土地所有も禁止した。1906年には独立戦争で中断していた鉄道建設を再開し、1908年には早くもフィリピン大学を設立している。日本の韓国併合前である。

1907年にはフィリピン議会が設置され、州知事は直接選挙となり、監督官の代わりに同じく直接選挙によって選ばれる州委員が新たに設けられることになった。このようにフィリピン政治は当初よりフィリピン人が大きく関わってきた。これに対し、朝鮮では初代総督寺内正毅は13人の道知事(州知事相当)の内6人朝鮮人を任命し、村長に当たる面長は全員朝鮮人を任命したが、報道の自由、集会の自由を禁じ、韓国併合に多大な貢献をした一進会までも解散を命じた。議会に相当する物は総督府から村会レベルまで存在しなかった。朝鮮では総督府の設置と共に中枢院を設置している。これは議長、書記官長、書記官の一部を除き、すべて有力朝鮮人であった。しかし諮問に答え、旧慣を調査するだけの諮問機関に過ぎなかった。

1912年アメリカでは民族自決で有名なウィルソンが大統領に当選し、ハリマンが総督に任命されるに及び、急速に政治のフィリピン化が進んだ。フィリピン委員会は9人の内5人がフィリピン人となり、それまでアメリカ人が占めていた高級官僚のポストを大幅に現地人に与えた。これと共に現地人の下で働くことを嫌ったアメリカ人官僚は600人以上もフィリピンを去った。

1916年ジョーンズ法が制定され、将来の独立が約束された。この時フィリピン議会は2院制となり、21歳以上の男子すべてに選挙権が与えられた。フィリピン政府の現地化が急速に進んだのである。その後共和党政権下に多少の揺り戻しはあったが、大きな流れは変わらなかった。尚日本で普通選挙が実施されたのは1925年であるから、日本より早い。又この法律で米国議会に2名の駐在員の派遣が認められた。

このように将来他国になると決まった所に、アメリカ人は積極的に投資するだろうか。この頃を機にアメリカの投資意欲が減退した。それに対し朝鮮は日本との一体化を目標として積極的な投資が進み、今日の近代国家の基礎が次第に築かれたのである。

1919年朝鮮ではウィルソンの民族自決宣言に触発され、3.1独立運動と言われる大規模な反政府運動が勃発した。この収拾に当たった斉藤実総督は前任者に比べ穏和な政策をとり、1920年と1930年の2回に分け大幅な地方自治制度の改革を行った。これにより民心を次第に安定させた。それでもフィリピンのレベルにはほど遠く、特に朝鮮議会の設立、国政への参加はならなかった。

フィリピンでは1934年タイディング・マクダフィー法により、1946年の独立を認められると共に、自治国(コモンウェルズ)が発足した。アメリカの代表は総督から、拒否権を有する高等弁務官となり、全面的にフィリピン政府の自治に委ねられることになった。大統領選挙によりケソンが当選、初代の大統領になった。この独立は勿論フィリピン人の独立要求に応えたものであるが、アメリカ側からの要求も強かったのである。当時は世界的な大不況の時期である。フィリピンからの無関税、無制限な砂糖、椰子油の輸入はアメリカ農民やキューバへの投資家に大きな打撃を与えていた。又フィリピンからの移民に職を奪われた労働者から強力なフィリピン切り捨て要求が出たのである。

所が1931年朝鮮総督に就任した宇垣一成は、朝鮮からの米の移入抑制を求める農林省の要求をはねつけ、朝鮮農民の利益を守った。同時に農村振興運動を立ち上げ、産金奨励金を引き金として、朝鮮の産業革命を引き起こし、今日の韓国発展の基礎を築いた。この時期以降朝鮮のマスコミは日本を賛美し、日鮮一体化を叫ぶようになった。

このようにフィリピンの政治はフィリピン人の手に次第に委ねられるようになったが、アメリカ国政への参画は許されなかった。一方日本では朝鮮在住の日本人も含め、朝鮮居住者の国政への参加は許されなかったが、内地では朝鮮人に選挙権、被選挙権を共に認めていた。1932年貴族院議員に朴泳孝が任命され、衆議院には朴春琴が東京から1932年と1937年の2回も当選している。更に1945年には貴族院議員に朝鮮人を7人任命し、次期総選挙で朝鮮に衆議院の議席を18人与えた。但し終戦で実現はしなかった。

このように日本は併合当初こそ朝鮮人の政治への参画に否定的であったが、次第に認める方向に変わっていたのである。

土地・農業政策

植民地支配で一番問題になるのは、宗主国農民による土地の収奪である。その点アメリカは前述の如く、アメリカ人にも大土地所有を禁止した。それでも1024ヘクタールまでの所有は許されたのであるから、日本的な感覚では大変な大地主である。しかし灌漑設備を整備し、合理的な大規模経営とするには小さかった。その為砂糖業者も自分で農園を経営するより、フィリピン人農家への委託栽培又は購入の道を選んだ。

又領有当初の軍司令官で後に総督となるウッドの勧めにより、当時未開のミンダナオ島に入植した多数のアメリカ兵は思うように現地人労働力が得られず、次第に撤退し、1914年には殆ど撤退した。従って農業移民による現地人とのトラブルは少なかった。その一面農業技術の進歩も少なく、米の面積当たり収量は台湾・朝鮮の半分くらいしかなかった。又二毛作の適地でありながら、灌漑設備の未整備により、二毛作比率は1割以下に止まった。尚台湾の水田は殆ど二毛作であり、一部三毛作まで行われていた。

台湾では嘉南大しゅうと言う大灌漑設備を作り、台中から台南までの大平原を穀倉地帯に変えた。これは北の自然湖・日月潭、南の人造湖・珊瑚潭の間を縦横に水路で結んだ、洪水に強い一大灌漑設備である。因みに用水路総延長は6800kmに達し、地球の半径より長い。朝鮮でも産米増殖計画により、遠浅の黄海沿岸を干拓したり、灌漑設備の整備に大金を投じている。フィリピンにはこのようにスケールの大きな設備は作られなかった。

台湾では内地人移民は東海岸の未開地に、若干の開拓移民が行われた程度で現地人との摩擦は殆どなかった。
一方朝鮮は日本に近く、気候も似ている上に、農業技術が未熟で、開発の余地が多かったことより、積極的な移民が図られた。日本政府は韓国王室に土地を現物出資させ、1908年合弁で東洋拓殖株式会社を設立し、日本人移民を募集した。その他にも細川元首相の先祖である細川公爵家を始め、民間で土地を買収し、進出するものが多数いた。

特に失敗だったのは土地調査で、韓国王室と農民の所有権を巡る係争地を韓国王室所有と裁定し、又所有者不明地を接収し、日本人に払い下げたことである。これらの事は朝鮮農民と摩擦を起こし、恨みを買い、3.1独立運動の要因の一つとなった。尚韓国高校教科書には土地調査により日本は農地面積の40%以上を接収したと記述しているが、これは明らかに間違いで、3%程度である。1913年寺内総督はこの弊害に気づき、朝鮮人からの農地取得に自制を求めた。それにより日本人農家の移民はほぼお終いとなった。日本人農家の移民所帯数はピーク時で約1万所帯、所有農地面積約25万ヘクタールであり、全農地の約6%であった。

インフラの整備

朝鮮とフィリピンの地図を見て明らかな事は、朝鮮には鉄道が縦横に走っているのに対し、フィリピンではルソン島に1本とパナイ島にあるだけである。初代総督タフトは独立戦争で中断したルソン島の鉄道建設を復活させた。1907年にはセブ島、パナイ島にも鉄道は建設されたが、1937年セブ島の鉄道は破産し、結局廃止された。

フィリピンでは早期に自動車の時代に入った。その為幹線道路は整備されたが、末端道路の整備は悪く、面積当たりの道路亙長は朝鮮の半分くらい、人口当たりでほぼ同程度に過ぎなかった。鉄道や舟運を含めた交通機関の整備は台湾・朝鮮より遅れていたと言わざるを得ない。

朝鮮は1930年代鴨緑江を中心に素晴らしい電力開発を行った。ルーズベルトのニューディールの目玉であるTVAに匹敵する規模であり、朝鮮の産業革命の原動力となった。この詳細は「韓国の戦後発展の理由」を参照していただきたい。しかし朝鮮の電力は工業中心であり、電灯の普及は台湾より10年以上遅れていた。それでも1943年頃の電灯普及率は15−16%で、当時のフィリピンの9%を上回っている。

しかし朝鮮の発電設備は北部に偏っており、おまけに朝鮮戦争で送配電設備は破壊された。1955年頃の韓国とフィリピンの電力使用状況はほぼ等しい。

工業の発展

フィリピンの工業は砂糖、ココ椰子、マニラ麻、煙草等、農産物加工に止まり、近代的工業といえる物は僅かにセメント工場が2工場あるだけであった。そのセメント工場の生産量は2工場合わせ、1939年時点で僅か17万トンに過ぎない。それに対し朝鮮では1936年時点で、4工場、年産56万トンに達している。

フィリピンの製糖工場も粗糖製造段階に止まっていた。それに対し台湾では1909年白糖までの一貫工程に成功し、かなり普及していた。

フィリピンはアメリカが領有してから、金鉱山の発見が続き、フィリピンの重要産業となった。その他鉄、銅、クローム等の産出も多かったが、製錬技術が未発達で鉱石のままの出荷が多かった。

台湾・朝鮮は1930年代から工業が急速に発展し、今日の台湾・韓国発展の基礎となった。しかるにフィリピンではなぜ工業が発展しなかったのだろうか。ひとつはアメリカの投資意欲の問題であり、今ひとつはフィリピン側の投資意欲の問題である。

まずアメリカ側の問題としては、1913年以降の政治のフィリピン化と、将来の独立を決めた1916年のジョーンズ法の制定である。これにより将来に不安を感じたアメリカの投資家の多くは、1920年代後半までに撤退したのである。今ひとつは白人に共通した、高級な技術は現地人に無理だという、現地人蔑視であろう。

フィリピン側の問題としては資金の不足と、強烈な意欲の欠如である。日本は明治維新以降、資金の不足を強烈な意欲と知恵でカバーし、先進国の仲間入りを成し遂げた。その点では日本に次ぐのが、台湾の資本家であった。彼らは日本の力を利用しながら、自らの力をつけ、戦後も着実な発展を遂げたのである。

教育問題

この問題については「韓国の戦後発展について」の中で述べているので、そちらを参照いていただきたい。

反政府運動

朝鮮では1919年3.1独立運動という大規模な反乱が起きた。この最大の原因はウィルソンの民族自決に触発された彼らのナショナリズムであった。第2は寺内・長谷川両総督の言論・集会の自由を押さえた武断政治である。第3は寺内総督の土地政策の失敗である。この事件では200万人が参加し、死者8000人、負傷者16,000人、被検挙者47,000人に達したと言われる。この対策として斉藤総督は2回の地方制度の改善により、民心を和らげた。宇垣・南両総督は農村振興運動と、産業革命により、所得を大幅に改善し、内鮮一体化の気運を呼んだ。しかし南総督の行きすぎた同化策は朝鮮人の反発を呼んだ。

台湾では1930年10月、霧社事件と言われる高山族の大規模な反乱が起きた。険しい山中で、飛行機まで動員する事件となった。政府側の死者は現地人を含め52人、反乱者の死者は800人以上に達した。原因は道路、橋梁、水路等の建設作業に対する過重な労働動員に、それまでの討伐についての宿怨が重なったものと言われる。しかしその後の順撫により、太平洋戦争では高山族は日本軍に積極的に参加し、大活躍した。

一方フィリピンではアギナルドの独立運動を鎮圧後、大きな反乱はなかったが、1935年5月ラグナ州、ブラカン州、カビテ州でサクダール党による大規模な反乱が起きた。このリーダーのベグニノ・ラモスはアメリカ人の持つ差別意識への反発からサクダール党を組織したと言われる。この暴動では参加したもの3500人、死者53人を出している。

未開民族問題

フィリピンにおける重要な問題点としてモロ族の問題がある。かれらはミンダナオ島、スールー諸島などに住む回教徒で、長らくスペインの支配に服しなかった。ほぼ鎮撫が終わったのが1887年と言われる。施政がアメリカに移管された後も1913年カーペンター知事の外交手腕が奏功するまでは大いに手を焼いた。1916年のジョーンズ法にて改革されたフィリピン議会には、上院で2名、下院で9名モロ族の代表者が任命されることになった。このような対策により、アメリカ統治時代はほぼ平和を保てた。しかしアメリカの統治が終わると再び紛争が絶えない。

アメリカの施政当初のモロ族は、台湾の高山族同様、首狩りの風習を持つ、未開のどう猛な種族であった。又キリスト教とイスラム教は共に一神教で、相容れないところがあり、世界各国で争いが絶えない。

日本では台湾の高山族平定は1909年の理蕃5ヶ年計画に始まる。それまでは漢民族との抗争に追われ、高山族は山中に封じ込め、出来るだけお互いに接触しない政策がとられていた。1906年就任した佐久間総督は高山族による首狩りの被害が絶えないことから徹底的な平定を決意し、70才近い高齢にも関わらず、平定の先頭に立った。現在台湾観光の目玉の一つ、タロコ峡谷での戦いで、崖から転落重傷を負っている。

日本が素晴らしかったのは、その後の対策である。警官を人跡まれな山中に高山族と共に家族で住まわせ、彼らに読み書き、野菜や農作物の栽培、裁縫等の家事を教えた。彼らの首狩りの犠牲となった人も多い。このように彼らと共に苦労した事が、彼らと一体感を醸成した。戦後長らく彼らの共通語は日本語だったと言われる。

今日霧社事件以降、台湾では高山族の集団的な反政府運動の話は聞かない。モロ族との違いは何であったのだろう。第一は台湾の豊かさである。生活が苦しくなると、そのしわ寄せはエスニックに行きやすく、反政府運動の始まりになる。第2は日本人警察官の献身的な努力ではなかろうか。彼らの努力により、高山族の風習を変え、文明の素晴らしさを教えたことが大きかったように思う。

結論

アメリカの植民地政策と、日本の植民地政策を比較して感じることは、アメリカの放任主義と日本の干渉主義である。アメリカは施政当初こそ統治に熱心であったが、ウィルソンが大統領になるに及び、急速にフィリピン人の自治のウェートを強め、1934年遂に1946年の独立を決め、政策の立案をすべて自治政府に委ねた。財政の応援も自治政府発足までしていない。自治政府発足時、アメリカ本土でかけられていたフィリピン産椰子油の物品税等、アメリカ側の事情で、フィリピンがアメリカの植民地であるために発生した幾つかの税・基金がフィリピンに還元された。このようなアメリカの政策はフィリピン人の自尊心を満足させ、反政府運動も少なかった。しかしその反面、アメリカ人の投資意欲を減退させ、台湾・韓国に比べ、経済が停滞している原因となっている。

それに対し、日本は現地人の生活向上を図り、日本との同化を目指した。併合当初より巨額な財政援助をし、インフラの整備、産業の育成に努めた。朝鮮併合当初人権的には問題があったが、3.1独立運動以降次第に修正された。同じ国と考えるからこそ投資が進み、今日の発展の基礎を築いた。

アメリカは教育には力を入れたが、教育の理念に問題があり、今日のフィリピンの停滞の一因となっている。

一言で言えば甘やかされて育ち、未熟なまま放り出されたフィリピン。厳しすぎたため色々非難されるが一人前の国に育てた日本、と言うことであろうか。