日韓関係論文
拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風


 天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアッピールしている。

 又ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『朝鮮の悲劇』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難しているている。その一部を左記に示す。

 地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。

 しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。

 朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。

 「 許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6−2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問 」

 つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。

 1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「裁判所構成法」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。

 この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。*1

 監獄の改善もこの時期に始まった。それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。*2

 朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「朝鮮笞刑令」として正式に採用された。この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師(米人)の強い要望により廃止された。*3

 次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。

 シャルル・ダレ 「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」

 マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」

 日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。当然日本の民衆は激高した。前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。しかし日本は彼を「義士」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。*4

   朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。*5

脚注 
*1『法政 二〇〇〇年六月号』「法政大学の歴史三一 韓国統監府に於ける法政大学出身の法務補 佐官」巻末
*2『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一六九−一七一頁
*3日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一五〇−一五一頁
『斉藤実伝』
*4日韓二〇〇〇年の真実
*5日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一三二−一四二頁