日韓関係論文
韓国併合と高宗の責任


 韓国併合では日本側の責任ばかり非難されている。しかし韓国が併合されなければならなかった真の原因は、高宗のわがままにあったのである。

 まず日清戦争に日本が勝って、清に頼れなくなった高宗はロシア大使館に逃げ込んだ。そして鉱山等さまざまな利権をロシアに譲り渡した。その結果、朝鮮の覇権を巡っての日露戦争が始まったのである。

 日露戦争の初戦でロシアを制した日本は、1904年8月第一次日韓協約を締結し、外交顧問と財政顧問を送り込んだ。外交顧問は列強にも配慮し、アメリカ人のスチーブンスに委嘱したのである。日本は外交と財政を押さえ、親日的で、健全な政権が出来れば十分だったのである。

 当時は台湾での反日活動がようやく終結したばかりであった。台湾の反日活動は激しく、長期にわたった。その処理に手を焼いた日本ではフランスへ売却を真剣に検討したくらいである。従って伊藤博文や、当時の大蔵大臣で後に伊藤の後任として第二代の韓国統監になった曽祢荒助は、韓国の直接統治には絶対反対であった。理由は日露戦争で多額の費用を使ったので、韓国統治につぎ込む金がないということであった。

 所が1905年2月韓国皇帝がロシア皇帝に密使を派遣したのである。ロシアとはまだ交戦中であり、明らかな裏切り行為である。その全貌がほぼはっきりした4月、日本は閣議で将来的には韓国に対する保護権を確立することを決定した。

 更に6月から8月にかけ次々とアメリカや国際会議への密使の派遣が露見してきた。そこで9月に日本は保護権確立を目指して、列強との根回しに入ったのである。その後もフランス・ロシア・イギリスへの密使の派遣が相次いで露見した。

 11月伊藤博文が特使として韓国に派遣され、武力で高宗を脅迫し、第二次日韓協約が締結された。高宗はこの密使事件を追及され、合意せざるを得なかったのである。又この密使事件の存在により、何故武力でこの協約の締結を迫ったかが明確になる。

 所がこれに懲りないのが高宗である。1907年6月ハーグの国際会議に際し、又密使を派遣し、日本の暴虐を訴えようとした。日本の暴虐と言うより、自分の思うままに出来ない事への不満である。一般にはこの事件の責任を追及され、日本により退位させられたことになっている。

 しかしこの事件に怒ったのは日本だけではなかった。韓国内閣も勝手なことをして貰っては困ると怒ったのである。韓国内閣が、閣議で国王の責任を追及し、退位させたのである。丁度この後の方針について林外相が、閣議の意見を持って伊藤統監と協議するためにソウルへ着き、伊藤との会談に入った直後であった。尚閣議では皇帝の譲位を主張したのは、寺内陸相等少数で、多数は皇帝の譲位には反対であった。この翌日高宗は前日の詔書の意味は退位ではなく、摂政に政務を委ねただけだと言い出した。そこで伊藤は内閣を支援し、高宗を退位に追い込んだのである。

 尚この時の首相李完用は、この時自宅を放火されている。又第一次日韓協約の時も家を焼かれ、その後暴漢に刺され重傷を負った。それにも拘わらず、首相として韓国併合をまとめ上げた。彼は以前は親露派であったことから、オポチュニストとして日本では余り評価されていなかった。しかし単なるオポチュニストではここまで一身を犠牲にできない。彼はアメリカ公使として、アメリカ文化を体験した。その経験から、韓国の自力更正は難しく、他国の支援が不可欠と判断したからではなかっただろうか。私は彼こそ真に国民のことを考えた政治家だったのではないかと考えている。

 倒産寸前の会社が身近にあった。日本は業務提携により、その会社を支援することにした。それと共にその会社の業務に色々干渉し始めた。その為、社長は色々なことが、自分の自由にならなくなってきた。そこで復権を目指して、役員に無断で色々画策した。そこで日本は社長を会長に棚上げし、社長を送り込んだ。それでも会長の陰謀は止まらない。そこで社長不在時の役員会で、会長を退位させた。その事が原因で内紛が続き、業績がなかなか改善しなかった。遂に合併することにより、体質を根本的に改善することになった。これが韓国併合への道筋だったのである。