日韓関係論文
古代朝鮮半島と日本の関わり


 古代朝鮮と日本の関わりについて、東京書籍の中学教科書では、「大和国家は、百済や、小国が分立していた加羅(任那)地方の国々と結んで、高句麗と戦いました。5世紀には、大和国家の大王は、倭の国王としての地位と、朝鮮南部を軍事的に指揮する権利とを、中国の皇帝から認めて貰うために、中国の南朝にたびたび使いを送りました」「朝鮮半島では、6世紀に百済や新羅が勢力をつよめ、このため大和国家は朝鮮半島での力を失いました」と書いてあります。日本が白村江で新羅・唐の連合軍に敗れ朝鮮半島から完全に撤退したのが663年です。

 又扶桑社の「新しい歴史教科書」では、広開土王碑以降の朝鮮半島との関わり、562年の任那の滅亡、663年の白村江の敗戦による半島からの完全撤退までを詳細に述べています。

 航海技術がそれ程発達していたとは思えない時代に、300年近くも朝鮮で戦い続け、それなりの力を持っていたのでしょうか。色々な物証と日本書紀の記述と合わせ説明します。日本書紀は戦後連合軍の意向により、前半部は神話・荒唐無稽な話として否定されました。その影響で軽視する傾向がありますが、「百済記によれば」といった引用が多く、百済新撰、百済本記と共に日本書紀の編纂に利用されています。なお朝鮮で現存の最古の歴史書は1145年に作られた三国史記で、百済記、百済新撰、百済本記は残っていません。

 日本書紀が編纂されたのは7世紀後半から8世紀初めですが、5世紀初めの応神朝以降の天皇はほぼ実在と見られています。かなりの史実を含んでいるのではないでしょうか。

七支刀
 古代朝鮮半島と日本の関わりが、始めて明確な形で立証されているのは、奈良県の石上神宮に所蔵する七支刀です。この刀には表に概略次のような事が彫られています。「泰和4年(369年)5月良く鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀は多くの災厄をさけることができ、侯王が持つのにふさわしい。……」

 た裏面には「先世以来このような立派な刀はなかったが、百済王の世子奇生が倭王のためにわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい」との銘が彫ってあります。即ち百済王が倭の国王に贈ったものであることが分かります。

 又日本書紀の神功記52年に「百済からの使者がやってきて、七支刀他種々の宝物を持ってきた。それ以降百済は毎年朝貢した」との記録があります。この神功記52年は西暦372年と比定されています。即ち百済が倭との国交を樹立するためにこの七支刀を造らせ、献上した事が分かります。この事は朝鮮側の資料である百済記にも記載されています。

広開土王碑
 その次に出てくるのは、高句麗の広開土王碑の記述です。広開土王碑とは中国と北朝鮮の国境近くで、中国側に所在する高さ6メートルの偉容を誇る巨大な石碑です。その中には広開土王の輝かしい業績が書かれています。その一部に倭との戦いの記録が残っています。何分古い碑ですので、欠けて読めない字があったり、改竄説があったりして、読み方にも幾つかの説がありますが、最も妥当と言われている読み方を下記に記します。

 「もともと百済・新羅は高句麗の属民で高句麗に朝貢していた。ところが、倭が辛酉の年(391年)以来、しばしば海を渡って百済を破り、新羅を〇〇し、両国を倭の臣民としてしまった。そこで広開土王は396年に自ら水軍を率いて、倭の臣民となった百済を討伐した。」以下404年まで倭との戦いを記録しています。

 広開土王の在位した4世紀後半から5世紀初めは、日本の応神天皇の治世で、丁度ラップしていたと考えられています。神功皇后は応神天皇の母なので、荒唐無稽な話とされた神功皇后の朝鮮征伐も実際にあった話ではないでしょうか。

倭の5王
 420年に建国された南朝の『宋書』には倭の5王が朝貢し、官爵を授けられた事が記されています。下記にその年次、官爵名を記します。

421年叙爵
438年安東将軍・倭国王
443年安東将軍・倭国王
451年安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年安東将軍
478年安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

これを見て分かることは百済を除く南朝鮮に何らかの権限が認められていることです。なお百済は日本が朝貢する前から、南朝に朝貢しており、その実績を認められていたためであると思われます。

又武はこの叙爵の為の上表書で、国内での平定実績、朝鮮での平定実績を主張し、高句麗を非難し、百済は倭の隷属国だと主張しています。

この5王は血縁関係より、済が允恭、興が安康、武が雄略天皇とするのが定説になっています。讃又は珍が仁徳天皇とする説が有力ですが、定説はありません。

日本書紀では仁徳天皇の時と、雄略天皇の時に呉国から使節が来たことを記述しています。『宋書』の宋は漢から唐に代わる間、色々な国が興り、滅びました。その間かなりの期間中国は南北に分かれ、対立していました。南北朝時代と言われます。宋は南朝の3代目であり、初代が呉です。倭の5王の時代は南朝の国名は宋で、宋が建国されたのが420年です。従って呉国とは南朝政府を昔の名で記録したものと思われます。

任那問題
 昨年の教科書騒動では、韓国が任那を認めず大きな問題となりました。任那とは百済・新羅の南、朝鮮半島の南端部分です。日本ではその地に任那日本府を置き、加羅諸国を支配したと主張しています。しかし韓国ではその地域は加羅又は加耶と呼ばれ、それぞれ独立した小国の総称であるとして、任那日本府の存在を認めていません。

 しかし広開土王の碑には「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」との記録があります。又倭の5王が認められた勢力範囲として任那の文字が明記されています。当時朝鮮半島南部に任那と呼ばれる地域があったこと、そこに日本が大軍を置いていた事は確実ではないでしょうか。

 尚、珍は安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓6国諸軍事を要求していますが、認められたのは安東将軍・倭国王のみでした。ここで注意すべき点は以前、南朝鮮は秦韓・慕韓・弁韓の3韓があったことです。その内弁韓が消え任那になっています。次に済以降では任那が任那・加羅の二つに分かれていることです。当時この地域は大加耶国、金官加羅その他多くの小国に分裂していたと見られています。この場合加羅が大加耶国と見られ、任那で金官加羅その他多くの小国を代表しているのではないかと見られています。

 六世紀にはいると任那は次第に百済、新羅に圧迫されました。この頃から色々な国名が出、日本府の名前が出るようになりました。遂に欽明23年(562年)任那は新羅に滅ぼされました。その記録の中に任那とは加羅、安羅等十カ国の総称であるとしています。任那は百済・新羅からの圧迫により、次第に小国に分裂していったのではないでしょうか。

 又多数の日本兵が派遣され、駐留しているわけですから、日本側の司令部が当然必要であり、その司令部を日本府と言ったのではないでしょうか。日本という名は対外的にこの頃から使われるようになったのですね。

 その後も高句麗からの圧力に対抗するため、新羅・百済は日本に朝貢し、時には王子を人質として日本に残しています。又任那の使者も新羅と同行して日本に朝貢していることから、新羅は任那の名を残したことが分かります。同時に日本の任那回復の願望がかなり強かったことも記録されています。

 推古天皇の御代、600年と623年の2回新羅に出兵しています。

 最後に663年百済の要請により、百済救援の為出兵し、白村江で大敗し、それ以降朝鮮との国交は途絶えました。

出土品から分かること
 まず朝鮮での出土品で日本との関連が明らかなものは、加耶地域から多数発掘されています。特に洛東江河口の金海地方には多数の出土品があることからも、この地区に日本の本拠があったことは確実です。興味深いことは2−3世紀の遺跡から出るものは北部九州で製作されたと思われる品が多く、4世紀以降の遺跡からは近畿地方に分布している品が多くなることです。即ち日本の統一がこの時期急激に進み、交易の主体が北九州の政権から大和政権に代わったことが分かります。

 日本書紀には神功皇后39年に「魏志倭人伝によると」として、倭の女王が魏に使節を出したことを記しています。「魏志倭人伝によると」としている事は天皇家にはこの事実の伝承がなかったと考えられます。魏志倭人伝が伝える3世紀後半の倭国大乱と重ねて考えますと、北部九州の政権が近畿地方へ移ったことを想像させます。即ち神武東征による政権交代がこの時期にあったのでないでしょうか。

 次に日本での出土品では、韓式土器が注目されています。4世紀後半から5世紀初めのものが多く、この時期に朝鮮から多くの人が流入したことが窺われます。不思議なことにこれらの土器が出土するのは、北九州より、大阪府特に河内地方が圧倒的に多いことです。 応神天皇陵を始めとする古市古墳群の存在を合わせ考えると、広開土王が引き起こした朝鮮動乱で追われた人々が、政府により計画的に河内平野に土地を割り当てられたのではないでしょうか。又その土器の形状から、彼らの出身地の大半は加羅南部の金海地区の人と考えられます。

朝鮮進出の目的
 この朝鮮半島での戦いは663年白村江の戦いに破れるまで、200年以上300年近くに亘り継続します。

 それでは日本が朝鮮に進出した理由は何だったのでしょうか。鉄を求めてという説がありますが、熊谷公男は倭と加羅の特別の関係によるものではないかと言っています。「4世紀末から5世紀初頭の日本への移民は、戦場となった新羅・百済の人ではなく、殆どが加羅の人であった。永年の間に築かれた太いパイプにより、加羅人は抵抗なく日本に移住したのではないか」と言っています。そして「先進技術を持った彼らは政権を強化し、政権に発言権を持った。彼らの祖国に対する思いが、その後の任那に対する強い執着となったのでないか」と言っています。

 そこで思い出されるのは戦前日本が朝鮮を統治したとき、強く言われた日鮮同祖論です。「日本人のルーツは満州から朝鮮半島を経て日本に渡った。従って日本人と朝鮮人のルーツは同じである」との説です。寺内総督や小磯総督は「すさのおの命の生地は朝鮮の江原道だ」と言っています。そうすると高天原は朝鮮にあったことになります。即ち任那こそが高天原だったのではないでしょうか。そのように考えて始めて、航海技術の未発達の中で、東北地方の平定を後回しにし、朝鮮にこだわった理由が分かるように思います。



東京図書教科書関連項目
5.古墳文化と渡来人 中国・朝鮮との交流
索引項目 加羅(任那)、百済、高句麗、新羅、倭、

参考図書
八木荘司「古代からの伝言第6部」『産経新聞』平成14年2月連載中
熊谷公男『日本の歴史3 大王から天皇へ』講談社2001年
宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』講談社学術文庫1988年