日韓関係論文
創氏改名


 東大5月祭における自民党麻生政調会長の発言が大変な波紋を呼んでいる。そこで問題となった創氏改名について考えてみる。

(1)創氏の必然性

 今回は何故創氏と言う分かり難い制度を作ったかについて、考えてみる。一般に日本は朝鮮人の大切にしていた「姓」・族譜を奪ったと思われている。しかしこの制度を子細に調べると、逆に族譜を守るために、「氏」というややこしい制度を作らざるを得なかった事が分かる。その点梶山季之の『族譜』は全く誤解から始まっており、日韓両国民に大変間違ったイメージを与えた。

 当時の朝鮮民事令では、朝鮮の風習である、「姓は変わらず、同姓は娶らず、異姓養わず」の三原則を守っていた。 それに対し次のような要求が出てきた。まず「姓は変わらず」に対し、麻生氏が主張するように、満州や内地に進出した朝鮮人の中に日本式の名字にしたいという希望が多かった。これは就職、下宿の問題を考えると当然の要求であり、特に満州・支那に進出した朝鮮人に強かった。又姓の数が326しかなく、従って同姓同名が多いという問題があった。

  「同姓は娶らず」とは同姓且つ同一本貫の男女の結婚禁止である。本貫とはその一族の祖先の出身地であり、戸籍に明記してある。この条項は若い男女には不満であったが、朝鮮の家族制度の根幹であり、問題の一九四〇年の朝鮮民事令改正(創氏改名)でも残された。

 「異姓養わず」とは養子は同姓の者に限られると言う事である。この事は女の子だけの家では大変な問題であった。自分の娘に家を継がせる事が出来ないのである。即ち「同姓は娶らず」の規定により、娘は同姓の男と結婚できない。しかも同姓の男しか養子に出来ないのである。従って娘を嫁に出し、親戚から養子を貰わなければならないのである。

 一九四〇年の朝鮮民事令の改正では「異姓養わず」は削除されたが、「同姓は娶らず」は残った。因みに戦後も韓国では「異姓養わず」は削除されたままである。又「同姓は娶らず」についても、北朝鮮は独立後間もなく廃止され、韓国でも1997年廃止された。

この改正で「同姓は娶らず」を残したことが、此の制令を分かり難くし、色々の誤解を生む最大の原因となった。即ち「同姓は娶らず」を維持するためには、「姓は変わらず」でなければならない。姓が変わっても良ければ同姓の人を好きになった時、改姓すれば結婚できることになる。これでは何のための「同姓は娶らず」か分からない。

即ち日本式の名字に変更することを許し、且つ「同姓は娶らず」を維持するためには、新たに「氏」と言う制度を作り、「姓名」と「氏名」という2つの名前を持つ必要があったのである。即ち「創氏」である。「創氏」をしなければならない最大の理由は、麻生氏が主張するように「日本人と同じような名字にしたい」と言うことであった。

 因みに同じ皇紀二六〇〇年の紀元節台湾で施行されたのは「改姓名」であった。台湾では夫婦別姓であったが、「同姓娶らず」の習慣がないので、日本式の名字に改姓した人は夫婦同姓で、台湾式の名字のままの人は夫婦別姓で何ら差し支えなかったのである。

又朝鮮では「創氏」に関する制令と「改氏名」に関する制令の2本立てとなり、「改氏名」に関する制令は、台湾に於ける「改姓名」の制令とほぼ同じである。即ち「同姓娶らず」を維持しながら、日本式の名字にするためには「創氏」という手順を踏まなければならなかったのである。

 この事が分かると何故法定創氏が必要であったか、六ヶ月という期間が何故定められたかが分かる。即ち「同姓は娶らず」を維持するためには「姓」と「氏」の二つの制度が論理的に必要であり、どちらかが主でどちらかが従でなければならない。その為に「氏」を創設させたのが法定創氏であり、制度の切り替えが六ヶ月後であった。尚姓及び本貫は戸籍に残った。

「姓」を主とし、「氏」を従とすることは朝鮮人には日本式の名字を名乗る事を認めるが、それはあくまで通称としてとなり、差別と非難される。帝国民法上の差別を少なくする意味より、「氏」が主となり、「姓」が従となるのは当然である。

 宮田節子氏、金英達氏はこの制令の目的は、皇民化ひいては徴兵制であったと主張している。その論拠としては、内務省極秘文書に「もし現在軍隊中に金某、李某等混じりたりとせばに思いを致せば、その利弊又自ずと明らかなり」との文書が見つかったことをあげている。

しかし当時は金錫源少佐が北支戦線で大活躍した後であり、後に中将まで栄進した洪思翊が現役で活躍している。更にこの前年の一九三九年の志願兵に対する応募率は二〇倍であり、一九四〇年には定員を五倍にしたにも関わらず、二八倍の応募率となっている。朝鮮名の兵士の存在は何ら支障がないと思われる。宮田氏の考えは、一寸勘ぐりすぎではないだろうか。名前が変わったくらいで心が変わるものではない。

(2)創氏の強制

 前述の如く、皇紀二六〇〇年の紀元節に朝鮮では創氏改名についての制令が、台湾では改姓名に関する制令が同時に施行された。それに対し、朝鮮では六ヶ月の期限内に八〇%の人が創氏の届を出したのに対し、台湾では僅かに一・六%の人が許可されたに過ぎない。

 何故このような違いが出たのであろうか。いつにかかって総督の考え方の違いであろう。台湾では当時支那事変の最中であったこともあり、「日本人と区別が付きにくくなる」として、厳しい資格審査を行った。許可される条件は、@日本語常用家庭、A神道崇拝者、B家庭精白(犯罪者がいない)等である。

 一方朝鮮では、施行時、南総督は出来るだけ多くの人が創氏改名することを希望し、次のような総督談話を発表している。「古来心を整ふる第一の捷径は、まず形を整ふるにあるとも謂われ、心構えの上に及ぼす形の影響は洵に重大なものであると信じる。……故に内鮮一体の理想から謂へば、全半島民衆が近き将来に於いて往時の渡航半島人の如く、形容共に皇国臣民化する日の到来することが望ましい次第である」

所が前半の三ヶ月を終わった所で創氏の届が出されたのは僅か七・六%に過ぎなった。がっかりした南総督を見た部下が強い勧奨策に乗り出したと思われる。残り三ヶ月で創氏の届が八〇%にも達した。何らかの強制が働いたことは否定できない。

しかし二〇%の人が創氏の届を出さなかったことより、強制ではなかったことも事実である。特に強制の中心となるべき十三人の道知事の中に、朝鮮名の知事が二人もいることが注目される。一人は全羅北道の孫永穆であり、終戦時は江原道の知事であった。今一人は忠清北道の兪萬兼であり、その後中枢院参議として遇されている。この当時、朝鮮人知事は五人おり、その内二人が創氏届を提出していない。自分が提出しなくて、部下に創氏届の提出を強要できるわけがない。

又終戦時は3人朝鮮名の知事がいる。創氏届を提出しなくても、何ら差別されなかった事の明らかな証拠である。

 強制のルートとして考えられるのは地方官僚、警察、学校の先生、マスコミの四つのラインである。 警察のラインは台湾総督府同様「日本人と区別が付かなくなる」として、警務局長・三橋孝一郎以下絶対反対であった。

 学校の先生のラインは当時の総督府学務局長塩原時三郎がこの制度の発案者と言われ、創氏改名の推進の原動力だったと言われる。しかし強制する権限はなく、せいぜい「日本名に出来るのはこの六ヶ月だよ、将来のことを考えるとこの機会に創氏した方が良いのではないですか」と言うくらいである。

尚補足すると6ヶ月後は創氏届を出さなかった人も、法定創氏により氏が定まっていた。従って改氏願いにより、日本式の名字に変えることが出来たのである。

宮田節子氏によるとこの強制の主体は国民精神総動員朝鮮連盟の活用だったと言われる。この団体は10戸を1班として地域での連帯感を強めると共に、職場では職場単位で、学校ではクラス単位で愛国班を作り、国民精神の高揚・生活の革新等に努めた。

ある部落の例として、毎朝揃って宮城遙拝をし、皇国臣民の誓詞を朗誦してから、1日の作業に入ったと言われる。祝祭日には国旗を掲揚させ、折に触れ勉強会を開き、日鮮一体化を煽った。このようにしてマインドコントロールしたのである。

宮田節子氏によると、3ヶ月後の届出状況に危機感を覚えた総督府は、改名願の手数料を一人50銭から1家族50銭に値下げし(創氏届は無料)、手続きの簡素化を図った。更に地区別の届出状況を発表し、地方官僚役員の競争心を煽り、国民精神総動員朝鮮連盟への働きかけを強化したとのことである。

又この頃一族の長老会議や、地域の長老の指示により、一族揃って創氏届を出すことが流行った。朝鮮の姓は326しかない。一族全員が同じ氏に創氏すると平均7万人一挙に創氏することになる。一族でも幾つかのグループに分かれたと思われるが、この事も創氏届が後半に大きく伸びた理由であろう。

 朝鮮のマスコミは現在の歴史問題でも見られる如く、反対を許さない。三・一独立運動の発端となった二・八独立宣言書を書いた李光洙を始めとする論客が次々に創氏改名し、その必要を論じた。そして当時の「内鮮一体化」のムードの中創氏改名が急速に進んだと思われる。

 尚ここで注目すべきは国会議員の存在である。当時は衆議院に朴春琴、貴族院に尹徳栄が在籍していた。朝鮮人がこの制度に本当に反対であったなら、何故彼らを利用しなかったのか。台湾では当時「寺廟整理」と言う在来宗教の圧迫政策が行われていた。しかし台湾人は国会にその不当を訴え、「寺廟整理」を中止に追い込んでいる。二人も国会議員を擁した朝鮮が、国政に何らの発言権が無かったとは信じがたい。