日韓関係論文
創氏改名の真相



  東大の五月祭において、当時の自民党政調会長・麻生太郎氏は「当時朝鮮の人達が日本人のパスポートを貰うと名前に『金』とかが書いてあった。それを見た満州の人達が、『朝鮮人』だと言って仕事がしにくかった。そこで朝鮮の人達が『名字』をくれと言ったのが始まりだ」と言い、朝日新聞等の非難を浴びた。

 この発言を受け、雑誌『正論』八月号に創氏改名についての座談会が開かれ、コメンテーターとして招かれた。又その後宮田節子氏の講演会を聞くチャンスを得た。その間に得た知識を、この問題についてのオピニオンリーダーである宮田節子氏への反論という形でまとめてみた。尚同氏は早稲田大学、日本女子大の教授を歴任され、現在は両大学の講師をされている。

 東京都立図書館の蔵書検索で「創氏改名」を検索すると、全部で六件ヒットした。一位で宮田節子・金英達・梁泰昊共著『創氏改名』明石書店であり、五位に時野谷滋著『日本制度史論集』国書刊行会が出てくる他、すべてが金英達氏のものである。金英達氏の論調は、宮田節子氏との共著で作った枠組みの中に止まっている。そのように見ると現在の創氏改名の研究は宮田節子氏の作った枠組みの中で、金英達氏が深めたものと言える。その金英達氏は二〇〇〇年に早世している。

「創氏改名」と「改姓名」

 宮田節子氏の論点で、最大の問題は皇紀二六〇〇年の紀元節に同時に施行された、台湾の「改姓名」と朝鮮の「創氏改名」に関する民事令の改正が、内容・目的が全く異なり、無関係のものだと言っていることである。常識的に考え、そんな馬鹿な事があり得るはずがない。内閣の方針は只一つ、「この目出度い日を祝い、希望者は日本式の姓名に変えることを許す」という事であろう。まさに麻生氏の言う通りである。

 宮田氏は朝鮮総督は総理大臣と同格であり、独断で制令を施行できるようなことを言って居られたが、「朝鮮に施行すべき法令に関する件」(明治四四年制定)では

第一条、朝鮮においては法律を要する事項は朝鮮総督の命令を以て規定することを得。
第二条、前条の命令は内閣総理大臣を経て勅裁を請うべし。

となっており、内閣との調整を必要とするのである。梁泰昊氏は「当初の予定では一月一日から施行する筈であったが、「皇紀二六〇〇年の紀元節」にわざわざずらし、同じ日に台湾でも改姓名制度が実施された」と書いている。恐らく台湾総督府との調整により、遅れたものであろう。

 この内閣の方針を受けて、とった台湾総督府の対応と朝鮮総督府の対応は宮田氏の主張通り全く異なる。 台湾総督府では許可制をとり、日本語常用家庭、神道崇拝者、家庭清白者(犯罪者がいない)の三条件を満たすものしか許可されなかった。その結果許可されたものは二%にも満たなかった。
当時は支那事変の最中である。日本人か台湾人か区別がつかなくなることが、最も懸念されたのである。

 一方朝鮮では、「古来心を整える第一の道は形を整えることにある」と言っている。又日本の家制度の良さを主張し、家族単位の氏を創り、日本式の氏名にすることが皇民化の第一歩とした。その結果六ヶ月の期間内に創氏の届を出した人が八〇%に達した。形を整える事が極めて重要だと言うことは、例えば礼儀作法を教えるに当たり、衣服を整える事が第一歩である等首肯できる意見である。又日本式の名になることにより、帝国臣民の一員になったと感じることも否定し難い。

「創氏」の目的

 宮田氏はこの創氏改名の目的について、内務省機密文書中に次のような文書が見つかったとして、徴兵制の導入が目的だったと主張している。その文書には「もし軍隊中に金某、李某等混じりたりとせばに思いを致さば、その利弊又自ら明らかなるものあり」と創氏改名の成果を謳っているという。

しかし当時は既に支那事変は始まっていた。北支戦線では金錫源少佐が大活躍し、後に中将まで栄進した洪思翊も現役で活躍していた。又志願兵制度が既に始まっており、この前年の昭和一四年には六〇〇人の採用に対し、一万二千人も応募している。軍隊の中に朝鮮姓の人がいても何ら支障がない。むしろ台湾で心配したように、日本式の姓名でありながら、反日的な思想の持ち主がいることの方がよほど危険である。名前を変えたからといって、簡単に心まで変わるものではない。

 朝鮮総督府でも、台湾総督府と同じ理由で三橋警務局長は大反対で、南総督から「強制はしない。警察は協力しなくて良い」との言質を取ったと言われる。この事は宮田氏も認めている。徴兵制との関係は考えすぎだと思う。

 台湾との関係で今ひとつ見逃せないのは、台湾では改姓名であり、朝鮮では創氏改名だったことである。何故台湾では改姓名であり、朝鮮では創氏改名であったのか。台湾も朝鮮も夫婦別姓であり、日本のような家族単位の姓ではない。違うのは朝鮮では同姓の男女の結婚を認めていないことである。

所が朝鮮民事令の改正を子細に見ると、制令一九号で創氏に関する件を定め、二〇号で改氏名の事を定めている。改名ではなく、改氏名である。一九号では、氏は自分の好きなように決めたい人は六ヶ月以内に届で(設定創氏と言う)、今の戸主の姓をそのまま氏にしたい人は届出なくて良い(法定創氏という)としているのである。一方二〇号では氏又は名を変えたい人は許可申請書を出して下さいと言うもので、無期限である。これは台湾の改姓名と同じである。即ち朝鮮では姓の他に全員が氏を新しく決めなければならなかったのである。姓を氏に変えたのではなく、姓名と氏名の二つの名前を持たなければならなくなったのである。

朝鮮に於ける「姓」と「氏」

 ここで朝鮮の姓の制度について説明する。朝鮮における姓とは男系の血族集団である。同じ姓でも始祖の発祥地により、例えば金姓の場合、金海金とか光山金等に分かれる。この始祖の発祥地を本又は本貫といい、同じ本で同じ姓(同本同姓)を持つ人を一つの血族集団とする。この一族の系図を族譜といい、大切にされた。

この姓は「姓不変」「同姓不娶」「異姓不養」の三大原則により引継がれてきた。「同姓不娶」とは同本同姓の男女の結婚禁止である。近親結婚の禁止との見方もあるが、母系でのこのような厳しい規定はない。かわいい女の子がいても、つきあう前に姓と本を確認しなければならない無粋な法律である。 この制度を維持するためには、「姓不変」でなければならない。好きな子が出来たので、姓を変え結婚したのでは意味がない。即ち「日本式の姓に変えること」と「同姓不娶」を認めるという事は両立しないのである。そこで発明されたのが、姓の他に氏を作ると言うことであった。氏とは日本式の名字で家族単位、夫婦同氏である。

 即ち朝鮮人はすべて朝鮮式の姓名と、日本式の氏名という二つの名前を持つことにした。これが創氏である。姓とは何か、氏とは何か、婚外子等についての姓の決め方、氏の決め方等について明細に決められた筈である。

創氏に当たり、李を朴とするように、自分の姓以外の朝鮮式の名字を、「氏」に設定することは認められなかった。これは姓が朴だと思ってつき合っていたら、氏は朴だが姓は李であるため、「同姓不娶」により、結婚できないと言うような事を防ぐためであろう。又歴代天皇の名称や皇族の名称を「氏」とすることを禁止した。最近の有栖川事件を見ると妥当な措置であろう。

又二つの名前を持つとしても使い分けが必要となる。

公式には氏名を使うことになった。日本の法律延長の趣旨からも当然であり、非公式に認めるとなれば、通称と何ら変わらず、制令の改正の意味がない。姓名は結婚時に必要であり、戸籍に残った。

 台湾では「同姓不娶」がないため、改姓名で何ら問題がない。台湾姓の人は夫婦別姓であり、日本式に改姓した人は夫婦同姓であった。北朝鮮は共産化が確立したとき、「同姓不娶」を廃止しており、韓国でも一九九七年廃止された。日本もこの時の民事令の改正で、「同姓不娶」を廃止しておけば、創氏のような訳の分からない制度を発明する必要がなく、改姓名で十分だったのである。現在多くの教科書で、「日本は朝鮮人の大切にしていた姓を奪った」としているが、そのような事実は全くなかった。逆に朝鮮の姓を大切にし、「同姓不娶」を残したため、氏という無理な制度を作らざるを得なかったのである。そしてこの事が姓名から氏名への強制と非難されているのである。

 又「異姓不養」とは、養子は「同本同姓」の男子に限られた。この事は女の子しかいない場合、「同姓不娶」の原理から、娘と養子は結婚できないことになる。即ち娘は嫁に出さなければならない。これはやはり不合理だということになり、娘に異姓の婿を取り養子とする事を認めた。この事は女の子しかいない家の人には大変喜ばれ、戦後もこの制度は残った。即ち朝鮮人にとって悪いことだけではなかったのである。 このような朝鮮の姓の制度が出来たのは新羅以降である。日本書紀を見ても新羅以前に今のような一字姓は見あたらない。新羅以降次第に華夷秩序に組み込まれる中で、賜姓等によりすべての人が中国式の姓を名乗るようになったのである。又百済亡国時等多くの帰化人は日本式の名字を名乗るようになった。従って当時盛んに言われた日鮮同祖論から、日本式の名字を名乗ることは、古に戻ることにすぎないと主張する、多くの論客もいた。

創氏届の強制

 南総督が皇民化の第一歩として、意気込んで始めた創氏改名であったが、創氏届の提出者は三ヶ月後で僅か七・六%にすぎなかった。それが六ヶ月後に約八〇%まで行ったのであるから何らかの強制力が働いたことは否定し難い。

 まず四月五日に改名願いの手数料を一人五〇銭から一家族五〇銭に値下げした。更に六月三日に各種事務手続きを簡素化した。又創氏届の提出状況を時々刻々詳細に発表し、地方官僚の競争心を煽った。

宮田節子氏によるとこの強制力の最たるものは昭和一三年発足した国民精神総動員朝鮮連盟の活用であったという。国民精神総動員朝鮮連盟とは、一〇戸を一班として地域での連帯感を深めると共に、職場では職場単位で、学校ではクラス単位で愛国班を作った。その目的とするところは、皇国精神の顕揚、内鮮一体の完成、生活の革新、戦時経済生活の協力等であった。

 その日常・普段に実践することとして、毎朝宮城遙拝、神社参拝、機会あることに皇国臣民の誓詞朗誦、国旗の掲揚等である。

 ある部落の例として毎朝六時に集合して宮城遙拝をし、皇国臣民の誓詞を朗誦してから、その日の仕事を始めたと言われる。毎月一日の興亜奉公日には行事の後墓参し、男子は奇数日、女子は偶数日に夜学会に集まったとのことである。

 皇国臣民の誓詞とは、児童用と一般用があったが、児童用は次のようなものであった。

一、私どもは大日本帝国の臣民であります。
二、私どもは互いに心を合わせて、天皇陛下に忠義を尽くします。
三、私どもは忍苦、鍛錬して立派な強い国民になります。

このような誓詞を毎朝斉唱し、日本国民の意識を確立しようとした。このように朝鮮人は次第にマインドコントロールされたのである。

又総督府塩原学務局長はこの創氏改名の発案者と言われ、この普及に熱心であった。それにより、先生が創氏の普及に熱心になり、子供同士で創氏しない子供に対するいじめが出たであろう事は否定しがたい。

 この国民精神総動員朝鮮連盟の活用或いは子供の利用については、私は同感である。問題はそれがどの程度国家権力により強制されたかである。

強制のルートとして考えられるのは、警察のルート、先生のルートと地方官僚のルートの三つである。
警察機構が動かなかったことは宮田節子氏も認めている。先生には強い勧奨力はあっても強制権はない。問題は地方官僚のルートである。当時地方官僚のトップである、日本の県知事にあたる道知事は一三人居た。その内五人が朝鮮人であった。その中で孫永穆全羅北道知事と兪萬兼忠清北道知事は創氏していない。終戦時には孫永穆江原道知事、金大羽慶尚北道知事、鄭僑源忠清北道知事の三人、朝鮮人と分かる名前がある。地方官僚のトップが創氏せずに、地方行政が組織として創氏改名に動いたとは思えない。宮田節子氏も高位にいる人ほど創氏の率は低かったと言われている。高位にいた人で設定創氏しなかった人としては李王垠、衆議院議員朴春琴、洪思翊中将等がいる。

 私は強制の力は朝鮮人の民族性にあると考える。新しい歴史教科書問題等で示される反日の大合唱と同じ構図である。このムード作りに大きく貢献したのが、李光洙を筆頭とした親日派ジャーナリストの活躍である。李光洙は三・一独立運動に先立つ二・八独立宣言文の起草者である。三・一独立運動により二年半の実刑判決を受けたが、釈放後親日派に転じた。彼等の主張は「参政権・義務教育等日本人と同じ権利を獲得するには、兵役・徴用・納税等日本人と同一の義務を果たすと共に、創氏改名・神社への参拝等・日本人と同化している実績を示すことが必要である」。或いは「現在の姓は新羅以降のものである。元々は同祖同根であり、日本式の姓に変えることに何の問題があろうか」と言うものであった。三・一独立運動のリーダー崔麟は松村紘一に、李光洙は香山光郎に、貴族院議員の尹致昊は伊東致昊に、金文輯は大江竜之介にと次々に創氏した。

 又多くの人は一族の長老の指示や一族の会議により、金光(光山金)金本等一族揃って改姓している。朝鮮の姓の数は三百余りしかないので、一族の宗親が創氏する事により、数万人のオーダーで創氏されることになる。 この事が急速に創氏した人の比率を高めた原因の一つになっている。

日本人の意見

 尚日本人は全体的に反対であった。古谷栄一氏等は「日本の姓氏を紊乱し、国体の原理を破壊する」として、国会へ反対の請願書を出している。元小野田セメント社長の安藤豊録は「いわば安藤をフランクリンにするようなことだから自然に運ぶはずがない」と先輩の南総督に直接進言したとのことである。中学まで朝鮮で育った川上氏は「あの総督の祖先は南(なん)という朝鮮人だからしょうがない」とか、「朝鮮姓を堂々と名乗る朝鮮人こそ、真に頼もしい朝鮮人だ」と言った意見が聞かれたとの事であった。

結び

 最後に言えることは、本来姓名と氏名は同義語である。これをむりやり定義を変え、朝鮮人に姓名と氏名の二つの名前を持たせた。その為の誤解が極めて多い。多くの教科書で朝鮮人の大切にしている姓を奪われたと書いてあるが、そのような事実は全くない。むしろ大切にしたからこそ、改姓名ではなく創氏改名だったのである。

又、薛鎮永は創氏を拒否して、抗議の自決をしたと言われる人である。金英達によれば、薛鎮昌なる人物が一族協議の上玉川と創氏する事になったが、これに抗議して「誓不改姓」と題した遺書を残し自決した。創氏しても姓は変わらないのだから、「誓不改姓」は全く意味がない。この話は、鎌田澤一郎が『朝鮮新話』に書き、梶山季之が『族譜』で小説化し、映画やテレビでも取り上げられた。しかし姓名と氏名についての無知からスタートした悲劇であり、その意味を正すことなく、世間に拡がり、誤解を増幅したことは極めて遺憾である。