日韓関係の近現代史
3.日本の朝鮮統治期 U


 昭和十一年、南次郎が朝鮮総督に就任以降は皇民化時代として、その圧政が統治当初の武断政治と共に最も非難されている時代である。しかし同時に経済が最も伸張し、豊かになった時代でもあった。朝鮮人論客が如何に日本統治を褒め称え、内鮮一体を叫んだか全く報道されない。

兵役

 昭和十二年支那事変が始まった。ここで決定的な役割を果たしたのは金錫源少佐であった。彼は千名の日本人部下を指揮する大隊長として、支那の大軍を山西省で木っ端微塵に撃破した。彼の活躍は朝鮮の新聞に連日でかでかと報道された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったので、早速「金少佐を思う」「正義の師に」等の歌になった。支那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。この空気の中、血書をもって従軍を希望する青年が相次いだ。

 このようなムードの中で、南総督は「朝鮮人特別志願兵制度」の創設を本国政府に提案した。翌一三年に四〇〇名を採用し、訓練の上、在鮮の日本部隊に入隊させるようにした。その後五年に亘って志願兵を募集したが、応募者は初年度の七・七倍から次第に増え、昭和十七年には六二・四倍、昭和一八年には定員が増えたので倍率は下がったが、応募者は三〇万人を越えた。当時の人口が二四〇〇万人であった事を考えると、驚くべき数字である。

 昭和一六年大東亜戦争が始まると、朝鮮人論客は一斉に米英打倒と朝鮮人の決起を訴えた。その中で朱燿翰(後の韓国国会議員)の「ルーズベルトよ、答えよ」と題する演説の一部を紹介する。〈正義の仮面をかぶり、搾取と陰謀をほしいままにしている、世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文面を挿入しようとした時、これに反対、削除したのはどこの国か。黒人と東洋人を差別待遇して、同じ席につかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。しかし君らの悪運は最早尽きた。一億日本同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならん事を誓う!〉*1と朝鮮青年に訴えた。

大東亜戦争の激化により、昭和一九年三月より朝鮮人徴兵制を実施することを決定した。反日運動、独立運動が盛んでは朝鮮人に武器を持たせる事は出来ない。何よりも朝鮮兵の忠誠心に確信を持てたからであろう。

 徴兵された人は陸軍四万五千人、海軍一万人、計五万五千人である。しかしこれら徴兵による兵士達は、訓練期間中に終戦となり、殆ど前線に動員された人はいなかった。

後に駐日韓国大使になつた崔慶禄は抜群の勤務成績を買われ、陸軍士官学校へ推薦され、入学も決まっていた。しかし彼の入学直前に、所属部隊がニューギニアへの出動を命じられた。その時彼は「学校で何年も過ごしていては、第一線でご奉公の時を失う」と言って、士官学校への進学を勧める上司を振りきり、ニューギニアに出征した。激しい戦闘で瀕死の重傷を負い、危うく一命を落とす所であった。*2当時はこのように朝鮮でも内地と同様「打倒米英」で燃えさかっていたのである。

 このようにして出征した兵士の内、二万二千余名の人が日本兵として戦死した。中には二〇人近い人が特攻隊として戦死している。我々は子々孫々に日鮮青年が共に戦った一時期があったことを、永久に語り伝えなければならない。

創氏改名

 今日、労働者の強制連行と共に、最も非難が多く、誤解されているのは創氏改名である。

 当時、朝鮮人・台湾人の中で、日本式の姓名に替えたいとと言う希望者が多数いた為、皇紀二六〇〇年(昭和一五年)の紀元節を祝して、日本政府は朝鮮人及び台湾人に、日本式の姓名に替えても良いとの政令を出した。それが朝鮮では創氏改名であり、台湾では改姓名の制度である。所がこの同じ政策に対し、朝鮮では強制により、約八〇%の人が創氏改名し、先祖伝来の姓を奪われたとの非難が多いのに対し、台湾では厳しい資格審査により、僅か一・六%が改姓名したに過ぎない*3。台湾人の目から見ると、朝鮮人は随分優遇されていたのである。台湾人は地方自治の点でも、高等教育への入学の点でも大変冷遇されている。しかし現在になってみると、神経を使って接した韓国人と、冷遇した筈の台湾人の国民感情が逆になっているのは、何とも不思議な気がする。

 創氏改名の制度は分かり難い事が多く、到底与えられた頁では説明できない。詳細は小著「植民地朝鮮の研究」(展転社)等を参照して頂きたい。

  著名な作家・李光洙(二・八独立宣言文起草者)は香山光郎と創氏改名したが、彼の主張は「参政権・義務教育等日本人と同じ権利を獲得するには、兵役、徴用、納税等日本人と同一の義務を果たすと共に、創氏改名、神社への参拝等、日本人と同化している実績を示すことが必要である」と言うものであった。*4

 一方、当時の在鮮日本人の間では、「創氏改名」は朝鮮人と区別が付かなくなるとして歓迎されなかった。中には「あの総督の先祖は南(なん)と言う朝鮮人だからしょうがない」との不平を言う人もいた。このような内地人の環境の中で、創氏改名を担当する地方の内地人役人が、総督の再三に亘る強制禁止の通達に逆らってまで、朝鮮人に無理強いする筈がなかった。

一般の人に強制するラインとしては、地方官公署、警察、学校の三つのラインが考えられる。警察のラインについて、朝鮮総督府の警務畑を歩んだ八木信夫は、「当時の警務局長の三橋孝一郎はこの政策に絶対反対であった。従って警察官だけは、一部の地方の末端では若干例外もあったらしいが、非協力の態度で終始した」と書いている。*5 。

 教員の立場で考えてみると、「将来の内地や満州での就職を考えると、創氏改名した方が明らかに有利」であり、「チャンスはこの半年だけだよ。よく考えなさい」と強く勧奨したことは当然の行動だったように思う。しかし教員には強い勧奨は出来るが、強制権はない。又教員が如何に強制的発言をしても、役場から強制では無い旨PRすれば問題は生じなかった筈である。そのように考えると、強制の中心は地方役人であったと推察される。

当時の郡守、面長(日本の村長に相当)は原則として朝鮮人であった。彼らの中には自分の点数稼ぎの心理から、必要以上に強圧的な態度で臨んだ人もいたようである。筆者は、前述李光洙の発言や、マスコミに登場する有力朝鮮人の主張に煽られた朝鮮人役人が、朝鮮人特有の熱しやすく、激しやすい気風により、行き過ぎた強制になったと想像している。

 尚、地方行政の長である道知事では終戦時三人朝鮮名の人がいる。道知事が創氏改名せずに、部下に強制させる事などできるはずがない。

強制連行

 強制連行については、この論文の冒頭で触れたが、まさに歴史の歪曲の最たるものである。自分の欲せざる所へ、強制的に動員されたことから、強制連行されたと非難するが、戦時の徴兵・徴用はどの国でも行われる制度であり、これを強制連行というなら、今日も韓国では二〇歳になった男子は板門店に強制連行される事になる。

 日本で徴用が制度化されたのは、昭和一三年支那事変が始まった翌年である。国家総動員法により、帝国臣民を徴用することができる事となり、昭和一四年から実施された。台湾でも同年一〇月府令で施行規則が制定され、台湾本島の他、内地や南方占領地に徴用された。

ところが朝鮮では同年には徴用令が施行されず、自由募集が始まっただけである。それまで朝鮮人の内地への移住は、労働市場を乱すとして、制限されていたのを、積極的に募集してよろしいとなった。一五年には労働需給が逼迫し、自由募集といいながら計画的な運営が図られた。一七年自由募集が官斡旋に切替り、実質上の徴用が始まった。内地同様の徴用令が施行されたのは、戦争も終わりに近づいた一九年である。

 一七年始まった官斡旋以降、強制連行と言われる。しかし官斡旋と徴用の決定的な違いは罰則の有無である。官斡旋では予定企業に就職後、逃げ出し、先輩のいる企業に就職したケースも多い。この場合前渡金、食費、未払い賃金等、金銭的な精算さえされれば、何の犯罪にもならず、食料の配給も貰えたのである。

 強制連行されたと言われる人の例を示す。鄭忠海は一九年一一月徴用令状を受け取り、一二月八日集合場所である永登浦区役所前広場に出頭した。点呼が終わると盛大な見送りの中、商工会議所前まで行進し、各地で動員された人と共に壮行会が開かれた。釜山で日本から来た東洋工業の責任者に引き継がれ、広島に渡った。広島では新しい寝具が支給され、食事の量と質はまずますであった。鄭は中隊長に任じられ、月給一四〇円支給された。当時の巡査の初任給が四五円だから相当高給である。鄭はそれ迄の経験を買われたものであろう。但し奈良で一ヶ月のリーダー訓練を受けたときの食糧事情は劣悪で、栄養失調になったとしているので、東洋工業の待遇が特別良かったのであろう。*6 一般に言われている強制連行のイメージとかなり違うことが分かる。

 一方当時、炭坑や、建設現場等では、今と違い建設機械など全くないに等しく、すべてが人力であり大変な重労働であった。又作業環境は劣悪だった。更に食糧配給機構の崩壊、それに伴う食糧不足が、中国人、朝鮮人にしわ寄せされた可能性は高い。この厳しい労働条件に不満を募らせていた労働者は、終戦の日、歓呼の声を挙げ給料も受け取らず、さっさと退去した。場所によっては社宅や寮を襲い、係員、寮長を殴打し、米、酒を強奪し、窓ガラスなど片っ端から叩き壊したりした所もあったという。このようにして発生した未払い賃金は、労働省の行政指導により原則として法務局に供託された。昭和四〇年日韓基本条約の締結で、三億ドルの無償協力と五億ドルの借款で韓国は日本に対するすべての請求権を放棄した。これに伴いこの供託金は国庫に納められ、この無償協力金の一部となったのである。即ちこの時点で日本企業は韓国政府に支払い済みで、この取扱は韓国政府に委ねられたのである。

従軍慰安婦

 従軍慰安婦の問題は朝日新聞の誤報から起きた、戦後の問題である。日本では昭和三三年売春禁止法が施行されるまでは公娼制度で、大きな町には娼家があり、娼婦がいた。軍隊の後を娼婦を抱えた商人が追いかけ、開業することは世界共通の現象である。娼婦は貧困な家庭の娘を、前借金を両親に支払うことにより集められた。

 平成三年一一月頃から朝日新聞は、韓国人の日本政府を訴える訴訟に呼応して、従軍慰安婦についての猛烈なキャンペーンを始めた。その中のハイライトは吉田清治による慰安婦狩りの記事であった。彼によると「済州島で軍の協力により、一週間で二〇五人の女性を強制連行した」とある。真に許せない話で、これを読んだ人はすべてが怒りを感じた。と同時に各マスコミが後を追っかけ、一大問題となったのである。

 所がこの朝日の記事の元になった吉田清治の『私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行』*7について、済州島の地元紙が独自調査の結果、でっち上げだと断定した*8。更に千葉大教授・秦郁彦が現地調査の結果、事実無根であることを確認した。その結果吉田清治も創作であったことを認めたと伝えられている。又同じような慰安婦の強制連行の事実を書いた千田夏光の『従軍慰安婦・正篇』*9についても『現代コリア』平成五年二・三月号加藤正夫論文により否定されている。*10

このような状況の中、宮沢首相が訪韓し、謝罪発言をしたため、韓国政府は「慰安婦問題の徹底調査と、適切な補償」を日本政府に要求した。平成四年七月日本政府は中間報告として、「強制連行を立証できる資料は出てこなかった」と報告した。しかしこれは韓国政府の合意を得られず、五年八月河野官房長官は「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧など、本人の意向に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等がこれに加担したした事もあった事が、明らかになった。」と「官憲による強制連行」を認め謝罪した。

 ところが当時の石原信雄官房副長官は後日、「調査した書類からは一切強制連行した証拠は見つからなかった。根拠となったのは、彼女らからの聞き取り調査と証言だけである。これは強制連行がなかったとすると、韓国世論を押さえられない。賠償は請求権協定により、一切要求しないから、あったと言うことにして欲しいと依頼され、政治的に認めたものである」と証言している。事実、彼女らの公表された証言は、すべてが前後でつじつまが合わなかったり、貧乏からの身売りであった。

 彼女らは多い日は五〇人も相手にしたと言われるが、収入もすごい。平成四年五月一二日の毎日新聞に、ある慰安婦の預金通帳についての記事が載っている。その通帳によれば、昭和一八年から二〇年の約二年の間に一二回振り込みがあり、その預金残高は二六、一四五円に上っている。これは今の金額にすると数千万円に相当する。当時日本軍の陸軍大将の年俸は六、六〇〇円だった。従って彼女は陸軍大将の約二倍稼いでいたことになる。

国連の「女性に対する暴力」をテーマにしたクマラスワミ報告では、彼女たちを性奴隷としているが、軍の最高峰である陸軍大将の年俸の二倍も稼ぐ人がどうして奴隷なのか。又彼女は秦郁彦教授を参考人として意見を聞きながら、全く彼の意見を取り入れず、彼の抗議にも関わらず、歪曲して記載している。この事は恐らく河野洋平官房長官が政治的に認めたことを、事実と認定したことが出発点と思われる。全く日本の国益を損ねた長官である。

脚注 
*1名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』轄総ロ企画平成九年
*2古野直也『朝鮮軍司令部』国書刊行会一九九〇年
*3山本有造『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会 一九九二年
*4『昭和史研究所会報平成一三年九月一〇日』林鐘国・大村益夫訳『親日文学論』昭和五一年による
*5八木信夫『日本と韓国』日韓文化出版社昭和五八年再版
*6西岡力「朝鮮人強制連行の虚構」『月曜評論平成一二年一〇月、一一月』原典は鄭忠海著・井上春子訳『朝鮮人徴用工の手記』河合出版平成二年
*7吉田清治『私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行』三・一書房一九八三年
*8済州新聞八九年八月一四日
*9千田夏光『従軍慰安婦・正篇』三・一新書一九七八年
*10以降すべて西岡力『コリア・タブーを解く』亜紀書房 一九九七年及び西岡力『日韓誤解の深淵』亜紀書房一九九二年による