日韓関係の近現代史
2.日本の朝鮮統治期 T


韓国高校歴史教科書(日本語訳)*1はA五判五〇〇頁を超え、その内高宗の即位(一八六三年)から日本統治の終了まで一三〇頁を使っており、その大半を日本非難に徹している。この教科書は一九九六年に改訂されたが、それまでのものに比べ、より詳しく、ますます民族主義の色を濃くしている。それに対し明成社の最新日本史*2では判が一回り大きいとは言え、明治維新(一八六八年)から終戦まで八〇頁弱であり、その内朝鮮関係はほんの二ー三頁に過ぎず、台湾に至っては数行に過ぎない。これで韓国や台湾・樺太・パラオ等の人達と付き合っていけるのだろうか。今少し日本の植民地統治について頁をさくべきではなかろうか。

三・一独立運動

 日本統治前期の最大の問題は、やはり三・一独立運動であろう。日本の教科書も大きく取り上げ、日本の植民地統治を非難している。

大東亜戦争末、カイロ宣言に記載された「世界で最も苛酷な圧政を受けている朝鮮人」とは、三・一独立運動を非難した、朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』*3に紹介されている上海西報の記事の題名である。この本で主張されている事柄は、今日の韓国の主張の根幹であり、この本、そして三・一独立運動が世界の対日観に、非常に大きな影響を与えた。

 この本によると大正八年三月から翌年九月までにアメリカ各新聞は九千回以上も朝鮮問題を記事にし、アメリカ国会で二度も議題として提出されたとの事である。この本の中には上院に於ける報告が一六件の証拠書類と共に記述されている。尚提出された証拠書類は三三件もあり、日本の弾圧、拷問の厳しさが述べられている。どうもこの頃から日本は情報戦で、朝鮮に負けていたようである。

 この本による犠牲者数は、朝鮮総督府発表の一〇倍以上であり、韓国高校教科書始め、自虐派の本にはこの数字が記載されている。所がこの著者・朴殷植は亡命中であり、あちこちでの聞き取りを集計したものであり、且つ反日を煽るための本である。面(村)毎、月別に集計された総督府の数字より信頼性が高いとは思えない。下に両者の数値を示す。*4

 参加者死者負傷
朴殷植203万名7,509名15,961名
朝鮮総督府106万名553名1,409名
憲兵・警官 8名158名

 ここで驚くべき事はこれだけの大事件でありながら、誰一人として死刑になっていないことである。主犯とされた孫秉煕・崔麟等八人でたったの懲役三年に過ぎず、有罪となった人は三七人に過ぎない。中でも崔麟は刑半ばで仮釈放され、アイルランドを視察させる等話し合いを行い、親日派の論客に育て上げている。二年六月の刑を受けた崔南善、独立宣言の起草者、李光洙、一〇五人事件(寺内総督暗殺未遂事件)の主犯とされた尹致昊等の活躍で、戦前日鮮一体が大いに盛り上がったのである。

 それに対し、戦後人口わずか二〇ー三〇万人の済州島では、パルチザン運動で七年間に、五ー八万の島民が虐殺されたと言われる。四人に一人が殺されたことになる。それに先立つ大邱の暴動では、検挙者四千五百人、内死刑に処せられたものが一〇人に達している。 日本の統治は世界一厳しい所か、世界一穏和で、「和を以て尊とし」としたように思われる。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議におけるアメメカ大統領・ウイルソンの民族自決論を聞いた在日朝鮮留学生達は、東京に集まり大正八年二月八日決起集会を開き、祖国朝鮮の独立要求書を日本政府に提出しようと図った。

 同年三月一日、高宗の国葬に全国から群衆が京城に集まった。パゴダ公園で独立宣言書が読み上げられ、デモ行進が始まった。更にストライキ・電車打ち壊し・鉱区破壊等の暴力的行為に発展した。同時に運動が主要都市から地方へ広がると共に、農民達は武装して面事務所(日本の村役場に相当)、憲兵事務所、親日派地主等を襲撃する迄に変質して行った。更に学校への焼き討ちに加え、在所日本人に「日本に帰れ」と投石を以て脅迫行為を行った。このような不特定多数の市民が武装して警官隊に抵抗する場合、此れを平定出来るのは軍隊のみである。

 韓国教科書が非難する堤岸里の虐殺事件は、数人の憲兵隊が住民二〇人余りを教会に集めて、学校への放火事件を取り調べようとした事から起こった。集められた彼らが暴れ出したので、自衛のため、教会の扉を閉め、放火したものである。前日巡査二人が殺され、学校が放火され、日本人住民が受けた暴行、そして憲兵隊の数倍の容疑者の反抗を考えると、一方的に憲兵隊を非難するのは如何なものか。

農地の略奪

 韓国の高校歴史教科書には「土地調査事業によって不法に奪い取られた土地は全国土の四〇%にもなった」と書いてある。所が土地調査の終わったわずか四年後の大正一一年、日本人保有農地はわずか六%にすぎない。その中には細川侯爵家のように、正当に買収した農地も多い。何故このような食い違いが起きたのであろうか。

 土地調査事業は韓国歴史教科書では「その目的は全国的な土地略奪にあった」としているが、韓国が主体的に行った乙未改革の継続事業であり、統治者として現状調査は、課税の公平・今後計画の立案のため、必須の事業であった。

この事業で接収された耕地は十四万七千町歩であり、持ち主不明の荒蕪地約九〇万町歩を加え、約一〇五万町歩である。一方実測計画面積は納税台帳より、二七五万五千町歩とされた。従って分母は、国土ではなく計画測量面積とし、分子は耕地ではなく土地とすれば約四〇%となる。

  しかし実測の結果、全耕地面積は四百五十万町歩であることが判明した。従って接収した耕地は約三%にすぎない。この三%の土地は乙未改革以来、官と民で所有権争いをしていた、かっての公有地である駅屯土、王室関係の宮庄土が殆どであった。

朝鮮の土地調査による土地の接収は裁判によるものであり、どちらに理があるのか、専門家でない筆者には分からない。しかしこの結果接収した土地を日本人に払い下げ、三〇万人以上の農民に不満を残したことは、寺内総督の失政であったと言わざるを得ない。

 又平成一三年改訂前の清水書院・中学教科書*5では「国と少数の地主しか土地の所有権を認めなかった」と書いているが、当時の農家戸数は約二七〇万戸で、土地調査完了時、土地所有を認められた人は一八七万人もあり、明らかに間違いである。

しかしこの土地の多くを日本人農家に払い下げた事により土地を奪われた朝鮮人農家が多数あったことは否定できず、殆どの教科書では「土地調査により土地を奪われた農民は、内地や満州への移住を余儀なくされた」と記述している。この事はその時点をとれば事実であるが、施政三六年を通じて考えれば間違いである。

 下に各十年間の移住者数を示す。*6併合により移住者数が急増したことは確かであるが、土地調査とは無関係に移住者数が増えていることが分かる。これは朝鮮の人口の増加によるものである。統計がほぼ正確になったと思われる、一九一六年から一九四〇年までの人口増を内地と比較する。内地では三四%の増加に対し、朝鮮では四二%増えたのである。この間日本人は朝鮮に約三〇万人 移住したのに対し、朝鮮人は満州、内地に合わせて二〇〇万人以上移住した。もし朝鮮人の内地、満州への移住がなかったら、人口増加率は更に一〇%近く増える。 医学の進歩と、衛生の改善により死亡率が減り、農業以外に生活の手段がなかった当時、これだけの人口増を支えるためには移住しか方法はなかったのである。
内地、満州への移住者数
1910年まで112千人
1911-1920年388千人
1921-1930年526千人
1931-1940年472千人

米の収奪

韓国歴史教科書では大正元年から昭和一二年までの米の生産量と日本への移出量の表を提示し「増産量を遙かに超過した量を収奪していったのである。そのためにわが農民の大多数は飢餓線上にあえぎ」と非難している。日本の植民地支配の厳しさの証拠として盛んに言われる問題である。

 大正一四年から昭和六年にかけ、内地の米の価格は約四〇%に暴落した。これでは農村はたまったものではない。農村部では、役場の吏員や学校の先生の給料が払えず、娘の身売りが続出した。内地では価格の暴落は、朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であると言われ、農林省では内地農民の保護のため、朝鮮、台湾からの移入制限を主張した。これに対し米の移出の自由を求める朝鮮総督府が鋭く対立した。

 即ち米騒動のあった大正時代は、日本は米不足で、台湾、朝鮮からの米を欲したが、昭和に入ると各地とも増産体制が整い、不況による消費の減少もあり、米余り時代に入っていたのである。朝鮮では米に代わる換金作物が無く、衣類その他を買うためには米を売る以外に方法はなかった。

 この時代アメリカでは同じように砂糖、椰子油等をめぐり、フィリピンとの貿易摩擦が問題となっていた。更にフィリピンからの移民と労働組合との労働摩擦が加わった。この圧力により、昭和一〇年フィリピン自治政府が発足し、一〇年後の独立が決まった。アメリカは総督に代わり、拒否権を持つ高等弁務官がいるだけで、殆ど独立に近い形になった。即ちフィリピンは独立を勝ち取ったが、実質はアメリカのフィリピン切り捨てだったのである。日本でも議会等で朝鮮切り捨てを主張する人がいたとの事である。

 即ちアメリカはフィリピンを、あくまでアメリカとは違う民族、国と考えたのである。それに対し日本は朝鮮を併合し、将来的には完全に一つの国となるよう運営した。その違いがインフラ整備の違いとなって現れ、工業化の度合いの違いとなって現れたのである。

差別問題

カイロ宣言では「世界で最も苛酷な圧政を受けている朝鮮人」と記載され、差別の厳しさが非難されるが、本当だろうか。

 当時の白人社会では、有色人種は一流レストランやホテルには、客として入ることは許されなかった。唯一日本人は日露戦争に勝ったことにより、準白人として遇されたにすぎない。

 アメリカでジャッキー・ロビンソンが、黒人初の大リーガーとなったのは戦後の一九四七年である。それまではどのように素晴らしい選手でも、大リーガーにはなれなかった。それに対し、日本では朝鮮人ではないが、台湾の呉昌征がプロ野球で、呉清源が囲碁界で大活躍していた。戦後熱狂的なプロレス人気を引き起こし、国民の英雄となった力道山は在日朝鮮人であった。

 日本人が朝鮮人を蔑視し、差別したことは否定しない。それは彼らの大半が文字を読めず、貧しく、不潔だったからである。特に両班は貧乏なくせに、気位だけは高く、働こうとしなかった。これでは差別されても仕方がない。しかしまじめに働き、栄達した人には惜しみない拍手を送っている。その代表が力道山であり、元衆議院議員・朴春琴であった。

 一般に朝鮮人には参政権が認められなかったと思われている。しかし日本は属地主義で、朝鮮に住む人は、日本人も朝鮮人も参政権が認められなかった。一方内地に住む朝鮮人は日本人同様参政権が認められていたのである。朴春琴は東京の深川地区で二回も衆議院議員に当選している。日本人にも人気がなければ当選できるはずがない。

 アメリカで黒人に参政権が与えられたのは、一九六五年である。朝鮮では終戦直前の一九四五年、内地同様参政権が与えられた。但し選挙の機会がないまま終戦を迎えた。アメリカより二〇年も早いのである。

貴族院議員には通算一〇人も任命されている。最初は一九三二年の朴泳孝である。彼は親日改革派の領袖であったが、高宗退位問題では日本に敵対し、済州島に流罪になっている。一九四五年三月任命された貴族院議員の中には尹致昊の名がある。彼は寺内総督暗殺未遂事件、別名一〇五人事件の主犯として懲役六年の刑に処せられた人である。大正天皇即位の大赦により釈放され、三・一独立運動では、日鮮融和、闘争無用論を主張、一九三〇年代にはキリスト教皇民化運動の先頭に立った。

地方政治では道知事一三人中五ー六人は朝鮮人であり、郡守、面長(村長)は原則として朝鮮人であった。地方自治は斉藤実総督の二回に亘る改革により、ほぼ達成された。軍では洪思翊が中将まで昇進している。日本の差別は一般に思われているより遙かに少なく、朝鮮人が奴隷状態に置かれたというのは、戦時プロパガンダに過ぎない。

脚注 
*1大槻健、君島和彦、申奎燮訳『韓国の歴史』明石書店二〇〇三年第二版
*2村尾次郎、小堀桂一郎、朝比奈正幸他『高等学校・最新日本史』明成社平成一四年
*3朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』平凡社東洋文庫昭和四七年
*4名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』国際企画平成九年
*5一九九六年文部省認定、清水書院『中学校歴史・日本の歴史と世界』
*6杉本幹夫『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』龍溪書舎