韓国併合を決定づけたもの




アジア近代史と韓国の命運

 1905年( 明治38 )11月に第二次日韓協約( 乙巳保護条約 )が結ばれ、韓国が日本の保護国となって以後、日本による韓国併合に至るまでの主な経緯は、年表にもあるように、次の通りである。

1906年( 明治39 )2月、日本公使館を統監府に改め、国内12ヵ所に理事庁を、11ヵ所に支庁を設置。 3月に伊藤博文が統監府に入り諸外国の公使たちが撤収。 日本は、宮城を守備する一個大隊の陸軍兵力を除いてすべての韓国軍隊を解散させた。
李完用( 学務大臣 )・李根沢( 軍務大臣 )・李趾鎔( 内務大臣 )・朴斉純( 外務大臣 )・権重顕( 農務大臣 )などが条約締結に賛成。 閔泳煥ミンヨンファン( 侍従武官長 )が自殺。
高宗皇帝は米人ハルバートを通じてアメリカ大統領に条約無効を訴えたが回答を得られなかった。
11月、南満州鉄道株式会社設立。
1907年6月、ハーグ密使事件。 オランダのハーグで開かれていた第二回万国平和会議に高宗が密かに特使を派遣し、日本が韓国の主権を侵害していると訴えようとした。 ロシア代表の平和会議議長は韓国に外交権がないからと韓国人の出席を拒否。 日本は韓国政府に抗議し、高宗は7月に自ら譲位し皇太子の純宗が皇帝となる。 各地で反日暴動が起こり、日本は歩兵一個旅団と騎兵隊を派遣。
同年7月24日、第三次日韓協約。 主な内容は次の通りである。
 統監は韓国政府が行なう施政の改善を指導し、法令の制定や行政上の重要な処分について監督することができ、官吏の任免にも干渉することができる。
 従来からの日本人顧問を廃止し、統監府参与官の日本人を韓国政府の各部の次官に任命させる。 次官以下日本人官吏の総数二千余名。
これによって数千の群衆が宮門前で日本兵と衝突。
1908年12月、東洋拓殖株式会社設立( 土地の買収 )。 韓国銀行設立。 反日義兵運動、愛国啓蒙運動勃興。
1909年6月、伊藤博文が統監を辞職。 副統監の曾禰荒助が第二代統監に就任する。
同年7月、韓国の司法警察事務を日本に委任。 九月、満州間島で日本と清国が衝突。 日清協約。
同年10月、安重根が伊藤博文をハルピン駅で暗殺。 日本は反日義兵討伐作戦を展開。
1910年( 明治43 )5月、大逆事件。 7月、日英同盟更新( 軍事義務の解除 )、日露新協約調印( 満州の現状維持 )。
同年8月22日、日韓併合条約調印。 8月29日に併合発布。 条約の内容は、 「 韓国皇帝は統治権を日本国皇帝に永久に譲与し 」 「 日本国皇帝はその譲与を受諾して韓国を日本国へ併合する 」 というものであった。
同年10月、朝鮮総督府設置。 寺内正毅が総督に就任。

 日本による韓国併合の翌年、1911年( 明治44 )に辛亥革命が勃発する。 またこの年、日本は日米・日英・日独修好通商航海条約をそれぞれ成立させ、ようやく関税自主権の確立をみている。
 さらに翌年ので1912年には清朝が滅亡して中華民国が成立する。 孫文が臨時大総統となったが、すぐに袁世凱が大総統に就任。 そして明治天皇逝去、寺内朝鮮総督暗殺未遂事件と続く。
 日本による韓国の併合は、ちょうどアジア近代史の大きな転換点にあたっている。 それはまったく偶然のことではなく、韓国の命運もまたそうした大きな流れとともに変転していったのだといえるだろう。


日本に韓国併合を決定させたもの

 日本がそれまでの韓国保護国化政策から併合へと方針を転換させたのは、あくまで保護国化の立場をとる伊藤博文統監が辞任した直後の1909年( 明治42 )8月、古くから中朝国境の紛争地帯だった間島へ、日本が韓国政府の要請を受けた形をとって統監府臨時派出所を設置し、事実上の韓国の領土権を主張したことにはじまるといえるだろう。 間島には古くから多くの朝鮮人が居住して大部分が農業に従事しており、当時でその数約10万といわれた。
 日本の間島進出の狙いは、いうまでもなくロシアの再進出に備えて日本の拠点を築くところにあった。 と同時に、ロシアに脅威を与えて韓国併合を認めさせようとの心づもりがあったのではなかったかと思う。
 この間島問題をめぐって日清は対立したが、紆余曲折あって、1909年9月、日本が間島の領土権で譲歩することと引き換えに、清国が満州に対する日本の権益を確定・承認するという 「 日清協約 」 が成立したのである。
 この日清協約にロシアは大きな脅威を感じ、急速にアメリカとの接近を開始した。 その結果同年11月にアメリカ駐露大使ロックウェルが、ロシアに対して日本の勢力拡張を抑制する目的をもったロシアとアメリカとの同盟を提案し、ロシアはアメリカの要請を受けて東清鉄道をアメリカヘ売却する意向を固めた。
 と同時にロシア外相のイボルスキーは、同じ月に駐露日本大使本野一郎による新たな日露協約の提案を受けて、その話し合いの過程で、日本による韓国の併合を承認する、と表明している。
 このようにロシアは、間島問題を契機として、アメリカとの同盟をもって日本の軍事的な脅威に対抗するか、それとも日本との間に良好な関係を築いて日本からの攻撃の可能性をなくすかの選択で、大きく揺れ動いたのである。
 そして翌12月、アメリカは関係諸国に対して満州鉄道中立化を提案した。 この提案は、満州に対するロシアの権益を否定するものでもあった。 そのためイボルスキーは、アメリカにはロシアと対日攻守同盟の性格をもった条約締結の意思がないと判断したのである。
 アメリカの提案は、賛同国が中国に借款を与えて中国に諸鉄道を買い戻させ、その鉄道を賛同国が共同で経営しようというものだった。 日露がそれに反対するならば、賛同国はロシアが保有する東清鉄道の対抗線となる錦愛鉄道を独自に敷設し、満州鉄道を中立化する、というものである。
 ロシアはこのアメリカの提案に大きな反発を抱き、アメリカとの提携を断念し、逆に日本との友好関係樹立を選択したのである。
 アメリカの提案は日本やロシアだけではなく、ヨーロッパ諸国からも大きな反発を招き、結局は挫折するしかなかった。 当時のアメリカには、アジアやヨーロッパの国際情勢がまったく理解できていなかったのである。
 こうして日露は、満州における日本の権益の確定と日本による韓国の併合で基本的な合意をみて、翌年の1910年( 明治43 )7月に第二次日露協約を締結した。 日韓併合条約はその翌月に結ばれたのである。


親日派韓国人を売国奴とする韓国

 戦後暦代の韓国政府および韓国を代表する知識人たちは、合邦運動を進めた李容九ら、併合条約に調印した総理大臣李完用らをはじめとする多数の 「 親日派 」 ならびに 「 併合推進派 」 の人々に 「 売国奴 」 の恪印を押したまま、いまなお許そうとはしていない。
 ただ金玉均については、北朝鮮の方が早かったが、韓国でも大分前から高く評価するようになっている。 ただ、そこでの金玉均は 「 日本の侵略を助けた親日派なのではなく、日本の裏切りによって政治改革を挫折させられた、朝鮮で初めて近代的な改革を推進した人物 」 とされている。
 もちろん韓国でも、当時の李朝-韓国政府のあまりに無残な頽廃ぶりへの批判がないわけではない。
 しかしながら、李朝-韓国の側の 「 併合への道をもたらした原因 」 を徹底して解明していこうとする動きは、少なくとも韓国内部からは現在に至るまで出てきてはいない。 ようするに、自らの側に外国による統治を招来させてしまった要因を探り当て、そこに深い反省を寄せて現在から未来への展望をもとうとする気持が、解放直後の韓国知識人の間に生まれることもなく、いまなお欠落したままなのである。
 李朝-韓国の積極的な改革を推進しようとしなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。 彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自に独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった。
 韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった。 李朝はいずれの場合も自らの手をもって、それらの国内改革の動きを潰したのである。 前者は清国をたのみとし、後者はロシアを恃みとして行なわれたものである。
 以後の李朝-韓国に独立への可能性はまったくなかった。 そこで登場したのが、李容九率いる一進会だった。 彼らは国家への絶望から出発し、民族の尊厳の確保を目指して日韓合邦運動に挺身した。 その結果は日本による韓国の併合だった。
 しかしながら、少なくとも民族の尊厳の確保に賭けて大アジア主義を掲げ、国内で最大限の努力を傾けた李容九らを売国奴と決めつけ、国内では表立った活動をすることなく外国で抗日活動を展開した安昌浩や李承晩らを愛国者・抗日の闘士と高く評価するといったバランスシートは、まったく不当なものと思える。


李朝の亡霊の呪縛

 李容九らが日韓合邦運動を進めたのは、李朝-韓国の政治指導層に対する根底的な不信があったためである。
 かといって彼らは日本政府を信じて運動を進めたのではない。 あくまで日韓合邦から大東亜の合邦へという自らの理想をもって進めたのである。 彼らが頼りとしたものがあったとすれば、そうした方向に共感を寄せる日本の民間志士やジャーナリズムに表されていた民意・民情だったと思う。
 彼らはそうした民意・民情が国家意志を大きく包括し、合邦国家内部で民族の尊厳が確保されるものと考えたのだろう。
 しかしながら、併合後には、東学=天道教の指導者孫秉煕が三・一独立運動後の予審調書で述べているように、 「 日韓併合の際の勅語には一視同仁とあるのに併合後朝鮮人は常に圧迫を受けて …… 」 という現実がもたらされたのである。
 民意・民情は、韓国人を二級国民とする国家意志に大きく左右されざるを得ず、 「 良心的な日本人 」 が多数あったにせよ、それをもってするだけでは、民族の尊厳を十全に確保することはできなかったのである。 だからこそ三・一独立運動が起きたのであり、そこで提起された 「 民族自決 」 に大きく影響されて、李承晩らによる上海臨時政府が生み出されたのである。
 三・一独立運動の評価について、姜在彦氏は次のように述べている。

 「 …… 三・一独立運動は、かつて反日義兵運動と結合していた衛正斥邪思想を止揚し、甲午農民戦争と結合していた東学=天道教には開化思想が浸透して、基本的には開化思想の系譜の延長上に、それをさらに発展させた近代的民族主義を定立させた。 その思想の内実は、対外的には民族自決主義であり、対内的には民主共和主義である 」
( 姜在彦 「 思想史からみた三・一運動 」 / 飯沼二郎・姜在彦編 『 植民地期朝鮮の社会と抵抗 』 未来牡、1982年刊より )

 ようするに、韓国の知識人中枢は、併合後10年の体験を通してようやく、近代民族国家の成立のほかに民族自立を確保することが不可能なことを自覚したのである。 そしてその自覚は、金玉均らにはじまる 「 開化思想の系譜の延長上に 」 もたらされたものであった。
 このような流れからしても、東学=天道教の思想を現実政治の場で推し進めた李容九らの日韓合邦運動をもって、日本に祖国を売り飛ばした売国行為と決めつけることはけっしてできないだろう。 韓国人の内部に近代民族国家の建設というテーマが生まれるには、日韓合邦論は避けて通ることのできないプロセスとしてあったと、位置づけることができるのではないだろうか。
 ただ、そのように位置づけることができるにせよ、解放後の朝鮮半島に成立した近代民族国家は、北朝鮮にしろ韓国にしろ、実に対外的な民族自決による形式的なものに過ぎなかった。 そこから実質的な対内へ向けての 「 民主共和主義 」 の体裁を形づくっていくには、さらに50年を要したのである。
 現在の韓国は、ようやく対外的にも対内的にも近代民族国家の体裁を整えたところであり、金大中政権の成立によってさらなる改革が推し進められている。 日本に対する硬直した姿勢も徐々に変化しつつある。
 とはいえ、先に述べたように、いまだ併合をもたらした自らの側の要因への徹底的な解明への動きがはじまってはいない。 それは韓国がいまなお、 「 李朝の亡霊の呪縛 」 から完全に脱することができていないことを物語っている。
 韓国が自らの側の問題解明に着手し、さらに反日思想を乗り超え、小中華主義の残存を切り捨てたうえで、日本統治時代についての徹底的な分析に着手したとき、韓国にようやく 「 李朝の亡霊の呪縛 」 から脱出したといえる状況が生まれるだろう。
 日本はそうした方向へと韓国が歩むことに期待すべきであり、その方向にしか正しい意味での日韓の和解はないことを知るべきだろう。


農民の疲弊から遊離した知識人たちの責任

最初に述べたように、李朝は次のような政治的伝統をもっていた。
世界に類例を見ない硬直した文治官僚国家体制。
中華主義に基づく華夷秩序の世界観。
大国に頼ろうとする事大主義。
儒教国家を保守する衛正斥邪の思想。
 こうした李朝正統の流れに対して、唯一改革への可能性を示し続けたのが実学の流れだった。 実学の流れは金玉均らの急進開化派と金弘集らの穏健開化派の流れに分かれ、両派壊滅以後は、東学の流れと愛国啓蒙運動の流れに命脈を保った。
 それらに対して李朝正統は、儒生らの衛正斥邪派が義兵の中心勢力として最後まで力をもち続けた。
 併合を前にして、この三つの流れはついに大同団結することがなかった。
 それは李朝の統一が、 「 横のつながりを失った無数の極小集団がそれぞれ自己の利益を目指し、中心へ向かって猛然と突き進む力学の統一性 」 によって維持されていた伝統と、けっして無縁ではなかった。 またヘンダーソンが言ったように、 「 すべての非正統的活動を執拗に排除しようとする嫉妬深い中央集権主義 」の伝統とも無縁ではなかった。
 李朝-韓国は最初から最後まで、この二つの伝統を乗り超えることができなかった。 上からの改革の芽を自ら摘み取り、なおかつ下からの改革の条件である挙国一致体制を生み出すことができなかった。
 韓国併合ではなく韓国独立への道を自らの手で開くことができなかったのは、何よりもそのためである。
 下からの改革を巻き起こす第一の条件は、当時の大衆である農民の幅広い団結を生み出すところにあったのは言うまでもない。 この条件もまた、ついに達成することができなかった。
 日本の保護国となってから併合されるまで、最も強固な抵抗を示したのは、儒生や旧将兵らが農民を組織した義兵闘争だった。 それ以前には、伝統的な農民一揆があり、大院君派の儒生らが農民を糾合して起こした初期義兵闘争があり、また東学が指導した甲午農民武装蜂起があった。
 農民蜂起の根本にあるのは生活の疲弊である。 だからこそ時の権力に対して命を賭けた武装闘争を展開した。 政権が親清だろうと親日だろうと親露だろうと、あるいはそれらの国が政治の実権を握っていようとも、農民たちが疲弊していることには何らの変わりもなかった。 油が注がれればいつでも爆発した。
 彼らは伝統的に書院を根拠地とする地方儒生や地方両班たちの影響下にあった。 そして地方両班たちもまた疲弊していた。 しかしながら、彼らはその共通の疲弊によることなく、衛正斥邪の大義によってしか農民たちに決起を訴えることがなかった。 しかも地域に根を張る彼らは、ついに地域を超えた有効な横の連帯を生み出すことがなかった。
 この根強い伝統のために、東学にしても旧将兵らにしても、儒生らに完全に取って代わって農民たちをリードすることができなかったのである。 そのため農民たちの蜂起は、本質的に暴動のレベルを超えることができなかった。
 守旧派から改革派に至るまで、農民たちの命を賭けた蜂起を全国的に組織することができない知識人たちがいた。 また呼応しようとすらしない知識人たちがいた。
 抗日闘争をした、独立運動をしたということで愛国者とされてきた人々については、そうした意味からの責任が強く問われなくてはならないだろう。 なぜなら、それもまた日本に併合される事態を招いた李朝-韓国側の大きな要因だからである。


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日韓併合問題を考える

 戦前、朝鮮半島(現 韓国、北朝鮮)は日本の植民地だったとよく言われるが、これは間違いだ。
1910年の日韓併合条約によって 朝鮮は日本に併合され、朝鮮半島は日本の一部になっていたもので植民地ではなかった。 また、武力で侵略したり、強制的に併合したものではなく、双方の合意によるものであった。
 それを理解するためには、当時の朝鮮の実状とそれを取り巻く国際情勢(特に日本、清国、ロシア)を正しく認識する必要がある。

 それまで 李王朝の朝鮮は、長らく清国(今の中国)の属国であった。 当時 内部では改革を求める革命勢力が台頭し、あくまで清国に従属し 専制独裁支配体制に固執する政権側との激しい抗争が繰り広げられ、李王朝の政府側は、清国に反対勢力鎮圧のため出兵を求めるなど 混乱を極めていた。 即ち李王朝の政権に統治能力はなかったのである。
 一方、日本は、明治維新により 近代化を成し遂げ、日清、日露戦争に勝利する等、国力を高めていた時期でもあった。
 朝鮮では、改革を求める革命勢力は、短期間に近代化を成し遂げた日本をモデルに、立憲君主制の近代国家を目ざして政権側と激しい抗争を展開していた。
 ロシアは、このような内乱や内ゲバに明け暮れる不安定に乗じて 朝鮮半島に不凍港を求めて進出を企てていた。
日本は、このロシアの企図に危機感を抱くようになった。
 当初、日本は 朝鮮を併合することは毛頭考えてもいなかった。
ただ、朝鮮がロシアの進出を阻み得るような まともな独立国になることを期待していたので、腐敗した不安定な専制独裁政権よりも 近代国家を目ざす改革勢力の方を支援する側にまわったのである。
 1897年 朝鮮は国号を大韓帝国とし、形だけは独立国家になっていたが、実態は相変わらず内部抗争に明け暮れる内乱状態で、ほとんど国としての体をなしていなかったと言ってよい。
1904年には 大韓帝国政府は、弱体化した清国に替わって 今度は日本政府に革命勢力の武力鎮圧のための出兵を要請してきたが、日本側は これに応じなかった。
この一件を見ても 当時 朝鮮半島がどんな状況にあったかが よくわかる。
このように、朝鮮の混乱状態は自己収拾がつかなくなり、特に改革 革命勢力の中に、日本の保護下に入るべきだとの気運が芽生え、1905年には 日本の保護国となり、1910年の日韓併合条約締結に至るのである。

 勿論、日本の保護国になり日韓併合に至る過程には、これに反対する勢力があったことも、日本側の圧力があったことも事実だろう。
 しかし、当時置かれた状況の中で、これがベターだと朝鮮側が 選択したことも事実なのである。
実際に1905年に大韓帝国が日本の保護国になった時は、反対する勢力も かなり居たようだが、日韓併合に際しては多くの朝鮮人は、当時の列強 日本の一員になることに賛同し、反対する者は少なかったのである。
もし 日韓併合が朝鮮側の意向に反し、強制的に行われたとするならば、当時の状況からみても、激しい抗議行動などが発生したはずなのだが、そんな事件は起こらなかったことからみても、日韓併合は、武力を背景に強制的に行われたものでないことは明白である。
現に、欧米諸国は全て 日韓併合を承認している( 当時まともな国は、欧米しかなかったのだから、全世界が認めていたことになる ―当時 欧米諸国以外は 大部分が欧米の植民地だった。 アジアで独立国と言えたのは、わずかに日本、清国、タイくらいしかなかった )
 日本の保護下に入るということは、外交権や軍隊も剥奪された状態だから、植民地になるということだ。
しかし、日本への併合となると事情は全く違ってくる。
これまで長く 明や清の属国であった朝鮮人が 名誉ある日本人になる、即ち当時の言葉で言えば、三等国民から一等国民になるということだ。
だから日本の保護国になる時は、反対勢力も居たが、併合については賛同する者が多く、反対する者は ほとんど居なかったというのは頷ける。

 日韓併合は 日本の国益に叶うものとして行われたものだろうが、朝鮮半島を植民地にするか、併合するかでは大違いだ。
 植民地という概念は、そこに資源を求め( 収奪し )、市場化して本国の利益に資するためのものだ。 欧米のアジア、アフリカ、南米などの植民地政策は全てそうだ。
 ところが、併合となると、日本が朝鮮を吸収合併するもので、朝鮮半島を 日本の一部として統治していかなければならない。 千万人単位の異民族を 日本国民として受け入れねばならない。 立遅れている朝鮮の経済や仕組みを本国並みに近代化しなければならない。
しかも 朝鮮には、本国に貢献できる資源や産業があるわけではない。 全ての面で遅れている朝鮮を建て直すためには、莫大な投資が必要になる。 日本の将来に関わる大事業だ。
植民地なら簡単だ。 収奪に必要な範囲で 投資をすればよいだけだ。
 したがって、日韓併合の是非については、日本政府内でも相当議論があったものと思われる。
韓国統監府初代統監だった伊藤博文は、日韓併合には消極的だったといわれる。 ( 伊藤博文は1909年現中国東北部のハルピンで安重根という青年に暗殺され、これが結果的に日韓併合を早めたと言われている )

 尚、本稿作成に当たっては、金完燮( キム・ワンソプ )氏( 韓国人作家 評論家 )著作の『 親日派のための弁明』を参考にした。
ちなみに韓国では本書は有害図書に指定され、店頭では販売されていないようだ。 韓国では、まだ言論や表現、出版の自由は保証されていない。
 金完燮は、ドイツは敗戦により 連合国から東西両ドイツに2分割されたが、日本は5分割されたと言う。 本州 四国九州 北海道、南朝鮮、北朝鮮、台湾、樺太に分割され、南北朝鮮は 夫々独立させ、台湾は中華民国へ、樺太はソ連に夫々帰属させた。 面白い見方だと思う。

 日韓併合後、日本政府は、全ての面で立遅れている朝鮮の近代化に力を注いだ。
道路や橋梁の建設、鉄道の敷設等のインフラの整備。 鉄道は内地は狭軌だったが、朝鮮では広軌を採用し 内地よりも近代的な列車を走らせた。
産業や農業の育成、振興等々。
教育制度については、本土並みに小学校の義務教育化を行い 各地に学校を建設した。 小学校はもとより、中学校、師範学校をはじめ国立大学( 京城帝国大学 )も作り、教育の振興普及を図った。
 朝鮮人でも有能な者は、役所や会社でも管理職等の要職に登用された。
日本の朝鮮への力の入れようは、例を挙げるときりがないが、日本政府は多い時では 国家予算の20パーセントもの資金を投入したと言われている。
今、日本では、遅れているといわれる北海道や沖縄に 夫々開発庁を設けて支援しているが、当時 朝鮮や台湾の振興策はその比ではなかっただろう。
かっての欧米諸国が、植民地に対して こんな政策を採っただろうか。

 当時、日本が行なった朝鮮半島の振興策は、着実に成果を挙げたと思うし、その後の朝鮮半島 ( 特に韓国 ) の近代化にも貢献しているものと思う。
朝鮮戦争で建物や施設等は、大方は破壊されてしまっただろうが、意識するとしまいと、有形無形のかたちで韓国の近代化に受け継がれているはずである。

 歴史をどう認識し、評価するかは、評価する人の立場や国によっても、また時代によっても違うだろう。
しかし、歴史上の事実だけは 正しく認識されなければならない。 誤った事実認識は正されねばならないし、まして為にするために 真実を故意に捻じ曲げるが如きは、決して許されてはならない。
 日韓併合は、日本の立場から見ると、結果的には国益を著しく害し、失敗だった。
しかし、朝鮮の人々にとっては、別の見方もできるだろう。

 最後に、韓国の朴正煕元大統領( 在任期間1961~1979 )が、石原慎太郎氏( 現東京都知事 )との会合で、韓国要人達を前に語った要旨を紹介する。
 『 日韓併合は、我々が自分達で選択したんだ。 即ち私達の先祖が選択した。 日本が侵略したのではない。 もしその時、清国を選んでいたら 清はすぐ滅びて もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こっただろう。 ロシアを選んでいたら 半島全体が共産主義国家になっていた。 日本を選んだということは ベストとは言わないけれどセコンドベストとして私は評価している。 石原さん! 大事なのは教育だ。 このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育を この朝鮮でもやった。 これは多とすべきだ。 私がそのいい例ですよ 』 と言い、更に『 私は貧農の息子で、学校に行きたいと思っても行けなかった。 日本が義務教育の制度を敷いてくれたお陰で学校に行くことができた。 その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よく出来るな。 日本の市谷の陸軍士官学校に推薦するから行けと言われて入学。 首席で卒業し、生徒を代表して、答辞を読んだ。 私はこのことを非常に多とする。 白人がやった植民地支配に比べて 日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う 』 と述べている。







 戦後50年目の平成7年、自社さ政権の 村山富市内閣が出した村山談話 と平成5年、宮沢喜一内閣でのいわゆる従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官談話撤回をやらねばならぬ

 平成7年6月9日、衆議院本会議で 「 歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案 」 が起立採決により可決され、同じ年の8月15日に村山談話がだされた。 そこには、植民地支配と侵略に対する反省とおびはあるが、日本を守るために命をささげた240万の靖国の英霊に対する感謝と敬意、また国際法違反の原爆投下や空襲などで犠牲になった同胞80万人に対する追悼の心の片鱗へんりんもない。

 いかなる歴史観にたとうとも、命を賭けて自分の国を守る行為は理屈ぬきに尊い。 いやしくも日本の政治家なら同じ思いで政治をしているはずであり、政治家が戦後50年目に何よりも先に思うべきことは、命とひき換えに国を守った英霊と原爆投下に象徴される許すことのできない非道かつ不法な攻撃で殺戮さつりくされた民間人への哀悼の念以外にはありえない。 当時どのような政治判断によってなされたのかは知らないが、このばかげた、中国、韓国、北朝鮮におもねるだけの 有害無益な村山談話を引き継がないことを日本国の総理が宣言することがわが国再生の第一歩だ

 平成5年8月4日の河野談話は、朝鮮人慰安婦を強制連行したという吉田清治なる人物の話をきっかけに広がった日本軍関与説を認め、「 心からお詫びと反省 」 をのべ、これを歴史教育にも生かすと表明した。 ところが後日この吉田の話がうそであることが明らかになり、談話にかかわった石原信雄元官房副長官も強制を認めたものではないと語ったが、歴代内閣はこの談話を検証しようともせず、漫然と引き継いできた。

 その不作為と事なかれ主義により、日本がいわゆる従軍慰安婦を強制連行したという不名誉な嘘が事実として世界に流布され、平成19年7月30日、アメリカの下院で非難決議がなされた。 そのなかで日本は 「 強制的軍売春である 『 慰安婦 』 制度 」 をつくり、 「 その残忍さと規模において、輪姦りんかん、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないものであり、身体の損傷、死亡、結果としての自殺を伴う20世紀最大の人身売買事案 」 と書かれている。 とうとうわが国は人さらいの強姦殺人国家に仕立て上げられたのだ。




 このような事実無根のいわれなき非難について、日本国政府はまともな反論をしなかったが、作曲家のすぎやまこういちさんは私財約2千万円を投じてワシントン・ポストに意見広告を出した。 心ある言論人と一部の政治家が名を連ねた。 本来自国の名誉を守るのは政府の仕事である のにそれをせず、この崇高な行為について政府はコメント一つださなかった。

 悲しいことに、これらは自民党政権下のことである。 下野して反省すべきことは多くあるが、「 ( カルタゴの滅亡が示すように )自らの安全を自らの力によって守る意志を持たない場合、いかなる国家といえども独立と平和を期待することはできない 」 ( 塩野七生著 「 マキアヴェッリ語録 」 )。 事なかれ主義が日本の政治をだめにしてきたことを自覚すべきだ。

 菅直人首相は日韓併合100年にあたり、反省と謝罪の談話を発表するらしいが、一体何のためにするのか。 仙谷由人官房長官は戦後個人補償に前向きとも受け取れる発言をしたが、戦争被害で国と国とが最終決着した平和条約( 日韓基本条約 )を無にするようなもので、国際法上の正義に反した、不用意かつ不見識というほかない。 のみならず、平和条約が締結された以上個人補償は認められないとする最高裁判決に反した、法的にも間違った発言である。

 何よりもサンフランシスコ平和条約で課せられた前例のない苛酷な賠償条件を受け入れて、独立を回復して国際社会に復帰し、賠償を誠実に履行したわが国の戦後の歩みそのものを否定するものであり、日本の政治家として絶対にあってはならない発言だ

 一体この国はどこへ行くのか。 そして何を目指すのか。 靖国の英霊に恥じない 「 自らの国は自らが守る 」 という気概を政治家が取り戻すことなくして、この国の将来はない。