29 韓国の歴史歪曲検証:閔妃の真実 「世紀の悪女伝説」


 閔妃と言えば、韓国では 「明成皇后」 としてその名が伝わる李朝後期の高宗の后である。
 日本でも中央日報を始め、韓国系新聞の日本語サイトを見ている人にはおなじみの名前であろう。
 即ち、最近この閔妃を題材にした 「明成皇后」 なるテレビドラマが韓国で話題となったのである。
 実際、閔妃と言えば韓国では、悪辣なる日帝と戦った悲劇の王妃として持てはやされているのが現状である。
 彼女の実際の姿は後述するが、何故このように閔妃が韓国で持てはやされるのであろうか?
 先に結末を言うようで申し訳ないが、この閔妃は日本の三浦公使の指揮の元、日本の公使館員、領事館員、警官などが動員され1895年10月8日、殺害されたとある。
 もう後は続ける必要がないだろう。
 悪辣なる日帝は、日本に逆らう閔妃の暗殺を企て、宮殿を襲い彼女を惨殺してしまったのである。
 まさに悲劇の王妃。 朝鮮国民は涙を流してその死に哀悼を捧げるのであった。
 と、まあこんなところが韓国に伝わる閔妃の生涯である。
 しかも日本の進歩的知識人と韓国で称される作家や研究家達も同様な形で閔妃を 「悲劇の王妃」 として持ち上げているのである。

 確かに、 「暗殺」 は悲劇であったかも知れない。
 だが、この閔妃なる女性は本当に韓国で評されるような聖女然とした人物であったのだろうか?
 実は、李朝後期の知識人達は、閔妃について 「悪女」 と評していたのである。
 言葉は悪いが、少なくとも彼女の政治家としての面を見れば、この評価は決して間違っていない。
 それでは閔妃の真実の姿を見ていこう。

 当時の朝鮮では大院君が摂政として朝鮮国内の政治を握っていた。
 息子の高宗は王位についてはいたが、実際に政務を執ることは殆どなかった。
 その高宗に后を娶らせようとしていた大院君は、妻の閔氏の実家の紹介で、兄弟も姉妹もいない15歳の閨秀( 後の閔妃 )のことを知った。
 閔妃は困窮した家庭の育ちで、8歳で父母と死別している。 しかし、極めて頭が良いとの評判だったという。
 そこで大院君はこの親も兄弟もない閔妃を高宗の后に決め、王妃とした。
 閔妃は王妃になって宮中に入ったものの、王妃とは名ばかりの存在だった。
 夫の高宗が愛妾李氏を溺愛し、ついには李氏との間に完和君と命名された男子を作ることになった。
 しかも、愛妾であるはずの李氏が出産したことに大院君が怒るどころか、満足する姿を見て不満と嫉妬を爆発させた。
 これをきっかけに閔妃は大院君への策謀を張り巡らし、その追い落としを図っていくのである。

 大院君の閔妃に対して無警戒ぶりに閔妃は乗じて大院君の反対勢力を糾合して、自分の勢力を構築するかたわら、夫の高宗の愛を独占しようと、あらゆる努力を傾けたのである。
 そして、1874年に、男子を出産した。 後の純宗王となった王子拓である。
 大院君は、ようやく閔妃の・戚族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君が長男であったことから、世子にしようとしたのである。
 ここから閔妃と大院君との闘争が激化し始めた。
 閔妃は側近の李裕之を北京に派遣して、清朝から拓を嫡子として承認してもらうことに成功している。
 閔妃は、摂政の大院君から嫌われて権力の座から遠ざけられていたあらゆる階層と連絡をとり、不満勢力を抱き込んだ。
 自分を中心とする政治勢力を形成したうえで、儒生の崔益鉉を煽動して、大院君の攘夷鎖国政策を弾劾させた。
 崔益鉉は国王に上訴した。 閔妃と大院君との溝は日増しに深まり、爆発寸前に追った。
 だが、ここでは国王の意志が絶対だった。
 国王を掌中に入れていたのは閔妃のほうだった。
 1873年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。
 閔妃の勝利であった。

 これより高宗の親政となるのだが、相変わらず酒と女に溺れる高宗に代わり、閔妃の独裁政治が始まったのである。
 閔妃一族が実験を握り、李朝政権の隅々まで閔妃の一族によって埋め尽くされ李朝後期の腐敗と汚職にまみれた政治がここから始まったのである。
 閔妃は王子拓を世子とするために莫大な資金を費やした。
 そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、 「巫堂ノリ」 を毎日行なわせた。
 「 巫堂ノリ」 は巫女たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。
 そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。
 つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施したことになる。
 当時の李朝の国家財政は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。
 これは法外な浪費だった。 宮廷の重職者たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて 「巫堂ノリ」 に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。
 閔妃は、狂気に満ちた宮廷に君臨する最悪の女王だったのだ。

 また、独裁政治家としての閔妃の行動は常軌を逸していた。
 ある時は清国に接近し、ある時は日本に擦り寄り、親清かと思えば、親日に変わり、日本を捨てると、ロシアと結んだ。
 当時のロシアは南の不凍港を求めて周辺諸国への侵攻を勧めており、言うなればオオカミの前にウサギが単身乗り込んでいくようなものである。
 またこのロシアへの接近が、当時ロシアを仮想敵国としていた日本にとってどれほど脅威また恐怖であったか言うべくもないだろう。
 一歩間違えれば、日本の目と鼻の先にロシア軍が大挙して押し寄せて来かねない状況だったのだ。
 確かに日本の実力行使は誉められたものではない。
 だが、それは単に日本に反抗した王妃を殺したのではなく、日本に脅威をもたらし朝鮮を貧困のどん底においやった悪女閔妃を殺したのである。
 その手段は非難されるべきだが、行為自体はやむを得ないものであったと考える。

 庶民の生活を思いやることが全くなかったのは、李朝の支配者の通弊であったとしても、高宗の実父であり、恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕させるなど、智謀家ではあったが、その行ないは倫理に大きくもとったものだった。 閔妃の生涯は 「恩を仇で返す」 生涯であった。
 結局、高宗も閔妃も大院君も、ただ権力を維持するために、その時々の力がある外国と結んで利用し政治をもてあそんだに過ぎなかったのだろう。
 閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。

 長くなったが、以上が閔妃の本当の姿であり、李朝後期の知識人達が 「悪女」 と呼んだ女の生涯である。
 現代の韓国人達が自らを偽り、歴史を歪曲し、閔妃を悲劇の王妃に仕立て上げる事自体は韓国内だけなら彼らの勝手である。
 だが、その歪曲された閔妃の姿を世界に向けて発信しようとするのは、あまりにも歴史を馬鹿にした態度だと言わざるを得ないのである。