怒!サハリン残留韓国人への支援問題


 現在、日本では不可思議な支援が未だに続いている。 サハリン残留韓国人支援共同事業体への日本の支援がそれだ。 この支援事業は、冷戦などによって帰国を許されなかったサハリンの残留韓国人が家族と再会する事業として約20年前に、日本にいる民間人によって始められた。
 当初は公的な支援もなく、個人で負担するしかない。 少しでも国庫で負担しようというのが、支援の趣旨だったが、一部の勢力によって起こされた裁判などの過程で、 「日本によって4万3千人がサハリンに強制連行された」 、 「日本人だけがサハリンからさっさと引き揚げ、韓国人を置き去りにした」 などと 事実と全くかけ離れたことが声高に叫ばれ続けていた。
 国会でも旧社会党議員による 「こうした間違った認識を前提とした質問」 が繰り返され、日本が支援を行っても 「まだ足りない」 、 「責任は日本にある」 と追求した。 これに呼応して、韓国側やサハリンの韓国人からも、日本の責任や補償を求める声が高まり、支援はいつのまにか 「日本の戦後補償」 の位置づけにされて、野放しに増えていった。
 結局、日本政府は何の検討もせず、一部の偏向勢力に押された形となり、支援をますますエスカレ-トさせ、各種施設の建設など、驚くような額の支援を行ってきた。

 もともと、この支援金というのは、当時、国境がなかったソ連( サハリン )と韓国の家族を日本で再会させる為の滞在費の負担金であった。
 それを旧社会党が主導して発足させた 「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」 が、1990年( 平成2年 )前後にその支援金を旧社会党の強い圧力によって、 「戦後補償」 のように位置づけをしてしまい、さらにその支援金の額を、年々つり上げて国庫から引き出させてきた。
 同年7月、村山内閣の 「戦後50年の謝罪」 政策で、それは頂点に達している。

 こうした支援活動は1989年に日韓の赤十字によって設立された 「在サハリン韓国人支援共同体」 によって行われている。
 共同体といっても、永住施設の建設費や一時帰国者の渡航費などを負担しているのは日本なのだ。
 これまでの日本の拠出総額は64億円を越すという。 この支援事業とはサハリンに在住する朝鮮民族が一定の条件さえ満たせば里帰りと称して、韓国とロシア( サハリン )の間をタダで往復できるという、人々がうらやむ結構な制度である。
韓国への一時帰国は、すでに何年も前から本来の目的であった家族再会は隅っこにおしやられ、付き添い役の2世、3世が主体となった 「買い物ツア-化」 が指摘されている。 また、残留韓国人の帰還運動を続けた支援者は 「本当に祖国へ帰りたがったお年寄り達はもう殆どいない。 日本が支援するお金があったら、他の困っている方々に回すべき」 と話している。
 しかし、ここで重要なのは、サハリンにいる韓国人( 朝鮮族 )は日本統治時代に戦時動員された人々ではなく、日本にいる在日 「韓国・朝鮮」 人同様、戦前にすでにサハリンに自らの意思で渡った人々ということである。 そして、サハリンに取り残された韓国人の帰還については、日本に法的責任はなく支援はあくまで人道的なものである。 ということであるが、 「理由のない支援」 に今も日本人の血税がムダに支払われ続いている。

いまだにマスコミによる 「強制連行」 の吹聴姿勢は続いている。
 H17年5月18日の 朝日新聞 「サハリン残留朝鮮人 来日の2世、補償を訴え」 と記事を載せており、内容は 「日本が植民地として支配していた朝鮮から戦前、戦中に徴用などでサハリンに渡った朝鮮人は6~8万人。 終戦後日本人は大半が帰国したが、約4万3000人の朝鮮人は引き上げ枠からはずされ、……」 とあり、マスコミが日本国内同様に 「韓国・朝鮮」 人がサハリンへ 戦前に自ら渡った事実 は報道されない。
 また、2005年( H17年 )6月20日の日韓首脳会談( 韓国のソウル )では、前小泉総理がまたしても韓国側の言いなりの 「サハリン在住韓国人」 の支援強化に積極的に取り組む考えを伝えている。





( 2007.04.05 )

  


 戦後、冷戦のために長くサハリン( 旧樺太 )から出られなかった朝鮮半島出身者( サハリン残留韓国人 )のために、日本がいまだに支援を続けていることを、いったいどれだけの国民が知っているだろうか。 これまでの日本の拠出総額は60億円以上。 「人道的支援」 がいつの間にか 「戦後補償」 にすりかわり、相手方の要求はとどまることをしらない。



 「サハリンの残留韓国人」 とは、日本時代に朝鮮半島から、企業の募集や徴用で、サハリン( 当時は樺太 )に渡り、戦後も韓国などへの帰国が許されなかった約1万人のことである。 当事者の一人で、昭和33年に日本へ帰還した朴魯学氏( 故人 )と妻の堀江和子さん( 77 )らが民間人の立場で帰還運動を続け、50年代後半以降、日本での家族との再会( 一時帰国 )、韓国への永住帰国が順次、実現したが、それまで数十年間、異郷の地であるサハリンにとどまらざるを得なかった。

 長く家族と引き裂かれ、祖国に帰れなかった人たちには、本当に同情を禁じ得ない。 ただ、彼らが、サハリンから出られなかった最大の理由は、冷戦の対立が続くなかで、当時のソ連が、国交のない韓国への帰国を認めなかったからである。 友好関係にあった北朝鮮への配慮もあったという。 また、ソ連、韓国、日本などの関係各国が関心を示さず、当初は積極的に対応しなかったことも、この問題の解決を遅らせる要因となった。

 この問題に対する日本政府の見解は一貫して、 「法的責任はない」 というものであった。 だがやがて、主として、日本人の側から、日本の責任を問う声が上がり始める。 それは 「日本が強制連行で4万3千人を無理やりサハリンに連れて行き、過酷な労働につかせた。 だから、日本の責任で帰国させねばならない」 「日本人だけがさっさと引き揚げ、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」 などという批判であった。

 もちろん、これらは事実ではない まず、再三、マスコミなどで登場した 「4万3千人」 という人数だが、これは戦後、ソ連や北朝鮮地域から、派遣労働者などとして、サハリンに渡ってきた約2万人の朝鮮族などを加えた数字が “ひとり歩き” してしまったものである。 意識的か、無意識か、この混同はずっと続き、 “日本糾弾キャンペーン” で使われた。 戦後になってサハリンに来た人たちが日本と何の関係もないことは言うまでもない。

 戦時中、企業の募集や官斡旋、徴用によって、朝鮮半島からサハリンに渡った人数は、明確ではないが、終戦前後の朝鮮半島出身者数の各種統計(約7千8百−2万3千人 )から判断すれば、2万人前後とみられている。 しかも、強制力をともなう徴用が、朝鮮半島で実施されたのは、昭和19年9月からで、ほとんどの人は企業の募集や官斡旋によるものであった。

 当時の樺太は内地( 日本 )よりもはるかに賃金が高く、それにひかれて新天地を目指す人が後を絶たなかった。 一度行っても、 「もう一度行きたい」 と希望する人も少なくなかったという。 これは朴氏らが帰還運動を進めるにあたって、サハリン残留韓国人から聞き取り調査を行った結果、明らかになった事実である。 もちろん、 「強制」 ではなく、 「自分の意思」 であった

 朴氏自身は、今の韓国の地域で理髪師をしていた昭和18年に、新聞広告でみた樺太人造石油の募集に応じた。 給料は理髪師の3倍以上だったという。 貯金などによって給料の全額が支払われたわけではなかったが、それでも朴氏は数年の間に、家一軒建つぐらいのまとまったお金を故郷( 韓国 )の家族に送金している。 妻の和子さんによると、朴氏は戦後、何が何でも “強制連行” を主張しようとする仲間たちに対して、 「そうじゃなかっただろう」 とたしなめることがあったという。

 もちろん、戦時下のことであり、徴用による朝鮮半島からサハリンへの戦時動員がなかったわけではない。 募集などでサハリンに渡った人が、現地で徴用されたケースもある。 しかし、どう大げさに見積もってみても 「4万3千人」 という数字にはなり得ないのだ。

 『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』 の著者、新井佐和子氏は、日本やサハリン側の公文書を調べたうえで、 「正式な徴用で( サハリンに )行った人は数百人に過ぎないだろう。 徴用でも内地より高い給料がもらえたし、強制的に連行するようなものではなかった。 そもそも、残留韓国人自身が “強制連行” という言葉を知らなかった」 と指摘している。

 一方、 「朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」 という批判も事実ではない

 終戦時に40万人以上いた日本人は、21年11月に締結された 「米・ソ引き揚げ協定」 によって、24年までに、そのほとんどが帰国した。 だが、終戦後、ソ連が実施した人口調査によって 「無国籍者」 と分類された朝鮮半島出身者は、引き揚げの対象に含まれていなかった。 その理由は必ずしも明確ではないが、当時、米占領下にあった日本は 「この決定」 に関与していない。 というより、関与できなかったのである。





 サハリン残留韓国人問題が政治問題化したのは、昭和50年12月に東京地裁に提訴された 「サハリン残留者帰還請求訴訟」 がきっかけだった。 裁判は、残留韓国人4人を原告にし、日本国を相手どって、 「日本へ帰還させること」 を求めたものである。 原告側は総勢18人の大弁護団を結成。 その “仕掛け人” は、後に 「従軍慰安婦」 訴訟などで中心的な役割を果たす人物高木健一であった。

 訴状の 「請求の原因 原告らの身の上」 の項にはこう書いてある。
「被告国( 日本 )は1938年、国家総動員法を制定し、人道無視の政策をとり、 『聖戦完遂』 の美名の下に大量の市民をかり立て、強制労働に従事させた。 原告らは当時、日本の領土であった韓国の地を故郷とする一農民に過ぎなかったところ、被告国の政策の犠牲者として 『南樺太』 の地に強制連行され、日本の敗戦後は同地に置き去りにされて、被告国のなんら外交的保護も受けられないまま、同地にとどまることを余儀なくされている …」 ( 一部省略 )。
 また、 「原告らの法的地位」 の項では、こうあった。
「『内地人』 は、1946年から逐次日本領土内に引き揚げることができたにもかかわらず、被告国は不法にも原告らの引き揚げの機会を奪い、日本国に帰国させない措置をとってきた」。 さらに、 「日本人として日本領土であった 『南樺太』 に連行され、出身地の主権国のなんら法的保護も直接受けられないままに放置された原告らは、法律的には少なくとも本邦に帰国するまでは、いまだに日本国籍を喪っていないものと認めざるをえない。 日本国籍を喪ったとして原告らを引き揚げの対象から除外した被告国の行為は違憲、違法のそしりを免れない」 ( 同 )。
 つまり、 「日本が “強制連行” で連れて行ったのに、終戦後、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした。 日本の責任で帰せ」 と主張しているのだ。 訴状は、まさに日本糾弾のオンパレードだが、これらが事実でないことはすでに述べた通りである。

 さらに、奇妙なことがいくつかある。 残留韓国人が帰りたいのは 「韓国」 であるはずなのに、原告側は 「日本へ帰せ」 と訴えていた。 その後、どうしようとしていたのか。 また、原告が本当に 「日本国籍を喪っていないこと」 を争おうとしていたのか …。 どう考えても無理がある。 当時、この裁判にかかわっていた関係者によると、 「原告として “選ばれた” 残留韓国人の中には、帰国の意思がない人すらいた」 という。 原告の意思など、そっちのけで、裁判を起こすこと自体が目的だったことがうかがえるエピソードだ。

 この裁判で、原告側はさまざまな証人を法廷に立たせている。 日本に帰還した残留韓国人や原告の韓国人妻、家族などだ。ある妻は、法廷で 「夫を返せ」 と絶叫し、裁判官にコップを投げつけた。 ナイフで指を切り、血を流してみせる人もいた。 国会議員や報道陣のカメラの前でも同じようなパフォーマンスが繰り返され、ある国会議員は、自分の足にすがって絶叫する韓国人妻の姿を見て、 「本当に悲惨なことだ。 何とか解決してあげたいと思った」 と振り返っている。

 ところが、そのうちに、妻たちのみんながみんな、心底から夫の帰国を望んでいるわけではない、ということが分かってくる。 「夫を返せ」 とさんざん泣きわめいた女性が、いざ夫の帰国が実現する段になって、会いに来なかったり、 「日本に来られるから( 泣きわめいた )」 とこっそり本音を漏らす人もいた。 年月がたち過ぎたゆえの 「悲劇」 ともいえるのだが、こうしたパフォーマンスは、間違いなく日本糾弾キャンペーンに一役買っていた。 先の関係者によると、証言する人たちには必ず、 「強制連行でサハリンに連れて行かれた」 と主張するように “指導” が行われていたという。

 そして、極め付きが57年に2度にわたって証言台に立った “慰安婦狩り” の捏造証言で有名な吉田清治氏である。

 この裁判で、吉田氏は、 「昭和18年に済州島で2百4人の若い女を狩り出し、女子挺身隊として軍に提供した」 などと証言した。 吉田氏とサハリン残留韓国人問題とは何の関係もない。 “強制連行” を印象づけるために証言台に立たせたのである。 このことだけを見ても、この裁判の目的が透けて見えるようだが、実際、 「吉田証言」 を機にこの問題は、 “強制連行” や日本の責任が一気にクローズアップされることになってしまう。

 裁判は提訴から14年後の平成元年6月、原告の4人が死亡または帰国を果たしたことで、訴えの理由がなくなり、原告側が訴えを取り下げることで終了した。 だがこの間、こうした事実ではない証言や過剰なパフォーマンスが繰り返されることで、 「すべて日本が悪い」 という論調ばかりが印象づけられる結果となった。 そういう意味では、この裁判の 「日本糾弾キャンペーン」 は確かに成功したのである。





 朴・堀江夫妻らの努力によって、サハリンの残留韓国人が日本で韓国の家族と再会する道が開かれ始めていた昭和62年7月、超党派の衆・参国会議員約120人によって 「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」 ( 議員懇 )が結成された。 議員懇の事務局には、 「サハリン残留者帰還訴訟」 の原告側弁護士も加わっていた。

 もちろん、議員らは問題の解決を願って議員懇に参加したのであろう。 ただし、一部の議員の主張は、裁判で展開された “日本糾弾キャンペーン” そのままであった。 「4万3千人の強制連行」 など、誤った認識を前提とした質問を繰り返し、政府の対応をやり玉にあげた。 日本が支援を行っても、 「まだ足りない」 「責任をどう感じているのか」 などと再三にわたって、突き上げた。 こうした一部議員の行動が、後に日本の支援を野放図に膨らませる一因となるのである。

 この問題で日本政府が最初に支援を行ったのは63年のことだ。 日本での再会は実現したものの、日本での交通費や滞在費は朴氏らが負担するしかなかった。 それを国庫からの補助金で少しでも肩代わりしようという趣旨で支援が始まったのである。 ところがその後、日本を経由せず、サハリンから直接韓国へ行けるようになったのに、日本の支援は減るどころか、逆に増額された。 その背景に議員懇の一部議員の働きかけがあったことは間違いない。

 日本が支援を始めたころに、議員懇の中心メンバーだった社会党代議士( 当時 )が、家族との再会のために来日していたサハリン残留韓国人たちの前で 「来年から補助金の額をアップさせる」 と不用意な発言をしてしまったことがあった お金の話にはみんな敏感だ。 この話はたちまち、サハリン側に伝わり、その結果、それまで関心がなかった人が来日の申請をしてきたり、一度来た人が二度、三度と申請してくるケースが相次いだ。 そのうちに、本来の家族再会はそっちのけで、日本での買い物ばかりに熱心な人たちが目立つようになるのである。

 平成元年には、日韓の赤十字によって支援を行う 「在サハリン韓国人支援共同事業体」 が設立されている。 共同事業体といっても、資金を拠出するのはもっぱら日本側だった。 当時の事情を知る国会議員によると、 「日本政府が直接お金を出すのはまずいので共同事業体の形をとった。 最初から韓国側に資金を出してもらう計画はなかった」 という。

 「日本が悪い」 という声が身内から上がるのだから、日本政府の外交姿勢も弱腰にならざるを得ない。 平成2年には国会での答弁で、当時の中山太郎外相がサハリン問題で韓国に謝罪。 平成4年には、宮沢喜一首相( 当時 )が日韓首脳会談において 「従軍慰安婦」 問題で謝罪している。 平成6年には、河野洋平官房長官( 同 )が 「従軍慰安婦の強制連行」 を認める発言をした。

 そして平成7年、 「戦後50年記念事業」 として、周辺国への謝罪や補償問題ばかりに熱心だった村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国への永住帰国者が入居する5百戸のアパートや療養院の建設など、計約33億円にも及ぶ巨額の日本の支援( 韓国側は土地や年金などの形で永住帰国者の生活費を負担 )が決定されるのである

 サハリン残留韓国人問題に対して、 「法的責任はない」 としている日本の支援は、あくまで 「人道的な支援」 のはずだった。 そして、一時帰国( 家族再会 )や韓国への永住帰国が実現したのだから、 「問題は解決した」 と主張しても良かった。 ところが、一部の政治家・勢力はこれを、まるで 「戦後補償」 のように位置付け、どんどん日本の支援を引き出そうとした。 そして、政府の答弁も 「歴史的、道義的責任」 と微妙に変化し、韓国側やサハリンの残留韓国人側からも、日本の支援強化を求める声が強まっていくのである。 「( 一部の )日本人が責任を認めているのだから …」 というわけだろう。 彼らもまた日本の支援を、はっきりと 「補償」 と位置付けていた。

 平成4年にサハリンの残留韓国人の団体が日本政府宛てに提出した要求書にはこう書いてある。 「一、過去、日本から受けた肉体的、精神的な損害の補償を日本政府に対し、強く要求する。 二、在サハリン韓人の永住帰国を韓国政府に促し、帰国に対しての一切の費用を日本側が負担する。 ( 略 )」。 まるで、 「すべては日本が悪いのだから、日本側が費用を負担するのは当たり前だ」 と言っているかのようではないか。





 日本の支援は現在も続いている。 その 内容 はまさに至れり尽くせりといえるものだ。

 一時帰国( 家族再会 )は、 「何らかの理由で韓国への永住帰国はできないが、韓国にいる家族・親族と会いたい」 という人たちのために、サハリン・韓国の民間定期便を使って行われている。 平成元年のスタート以降、希望者が一通り、一時帰国したため、数年後には二回目が、そして現在は三回目が実施されている。 往復の渡航費、滞在費はすべて日本側の負担だ。 逆に、韓国への永住帰国者がサハリンに残る家族・親族を訪問する 「サハリン再訪問」 も3年前から始まった。

 韓国への永住帰国者の住居から、たびたび行われる一時帰国の交通費、果ては療養院のヘルパー代まで、日本側が負担しているのだ。 今年8月末には、サハリンの韓国人のために日本の費用で建てられる文化センターの起工式が行われた。 総工費は約5億円。 「サハリンの朝鮮民族の伝統保存のため」 として、要望が出されていたものだが、センターにはホテルの機能やレストランも設けられるという。

 共同事業体への日本の拠出額はこれまでに約64億円に達している。 だが、政府内に支援を見直す動きはないようだ。 支援事業を行っている日赤国際救援課は、 「『支援を見直した方がいい』 という声は聞いていない。 日本政府が人道的見地から始めた支援であり、 『帰りたい』 という人がいる以上、今後も続けていきたい」 と話している。





 日本の支援については、もうひとつ大きな問題がある。 支援の対象者が極めてあいまいになっていることだ。

 サハリンに渡った朝鮮民族には、大きく分けて3つのグループがある。(1)戦前の早い時期に、新天地での成功を夢見て渡り、そのまま住みついた(2)戦時に、企業の募集、官斡旋、徴用によって渡った(3)戦後、派遣労働者などとしてソ連や北朝鮮地域から渡ってきた …… の3つだ。  いうまでもなく、(1)、(2)、(3)のうち、日本政府がかかわっているのは(2)の一部だけである。 当初、日本側には、 「税金を使って支援を行う以上、対象者をはっきり区別すべきだ」 という意見もあったが、結局はうやむやになった。 共同事業体で設定している支援対象者の条件は、 「1945( 昭和20 )年8月15日以前にサハリンに移住し、引き続き居住している者」 というだけである。

 この条件なら、終戦までに誕生していれば、一歳でも二歳でも対象者に含まれることになる。 実際、韓国へ永住帰国した人たちのなかには、 「本当に祖国へ帰りたかった」 一世だけでなく、当時、幼児だった子供たちが多く含まれている。 彼らの多くはサハリンで結婚し、新たな家族が出来ていた。 韓国には長年待っている家族など、ほとんどおらず、父祖の土地でしかない。 その永住帰国まで日本が支援しなければならないのだろうか。

 一時帰国者の中にも、韓国に縁者がいない 「無縁故者」 が数多く含まれていたことが分かっている。 数年前にサハリンを訪れた産経新聞記者は、ある韓国人から 「私たちは戦前、毛皮の商売をするためにサハリンに来た。 なぜ、日本が韓国へただで連れて行ってくれるのか」 と不思議そうに尋ねられたという。 支援の対象者が(1)、(2)、(3)のどのグループに所属するのかは問われないのだ。 しかも、昨年からは、 「終戦前サハリンへ渡り、残留を余儀なくされ、終戦後、ロシア本土などに渡った韓国人」 にも支援の対象が拡大されることになった。 こうした複雑な経歴を、だれが、どうやってチェックしているのだろうか。

 また、60歳以上の一時帰国者については、付き添い一人が認められている。 このため、かなり前から、本来の家族再会の趣旨は隅っこに押しやられ、付き添いの二世、三世が主体となった韓国への “買い物ツアー化” が指摘されている。 新井佐和子氏は平成7年にサハリンへ行ったとき、80歳を超える一世の老人から、 「一度一時帰国したので、もう十分なのだが、子供たちが韓国へ行きたがるので二度目の申請をした」 といわれた。 「飛行機の座席の権利を数百ドルで売る人がいる」 といった話も聞いたという。 運賃がかからないため、 「一回、韓国へ行き、買いこんだ商品を( サハリンで )売ればいい商売になる」 という人もいる。 それなのに、支援の対象者を選ぶのは韓国やサハリン側に任されており、日本側はチェックする手段もない。

 間もなく戦後60年になる。 夫とともに長く帰還運動を続けてきた堀江和子さんは、 「本当に祖国に帰りたかった一世たちはもうほとんど残っていない。 支援は打ち切るべきだ」 と訴えている。 実際、現在、支援を求めているのは二世や三世が主なのだ。

 サハリン残留韓国人への日本の支援に対して、ある官僚が 「元々、それほど大きな予算ではない」 と漏らしたことがある。 “大きな額ではない” 予算を出し惜しみして韓国などから、反発を招くのを心配しているのか、それとも、一度獲得した予算を手放すのが嫌なのか …。 64億円はもちろん、小さな額などではない。 そして何よりも、 「理由のない支援」 を許していいのか。

 サハリン残留韓国人問題について、 「日本の責任はゼロだった」 というつもりはない。 本当に支援が必要だった一世たちへの 「人道支援」 まで否定しているわけでもない。 だが、 「すべて日本が悪い」 などと “あしざまにののしられた” あげく、日本とほとんど関係のない人たちが支援を受けるのでは、国民も納得しないだろう。






( 2007.08.22 )

    

        




 「サハリンから( 韓国へ )永住帰国を希望している同胞がまだまだたくさん残っている。 日本政府の、より一層の支援を御願いできないだろうか …」

 昨年11月17日、東京都内で、年に一度の日韓議員連盟( 森喜朗会長 )の合同総会が開かれた。 韓国側の参加者から、 「サハリン残留韓国人問題」 での追加支援の要望が出されたのは、この一連の会議の中である。 サハリン残留韓国人問題についてはここ数年、日韓議連で話題になったことさえもなく、日本側の参加者は、 「唐突な話だな」 と感じたという。 実際、永住帰国者への追加支援の話は、在韓国の日本大使館にとっても “寝耳に水” の話だった。

 だが、それから数ヵ月後に国会で成立した平成19年度予算には、サハリン残留韓国人への特別基金への拠出金として計約3億円がしっかりと、盛り込まれていたのである。 その金は、今年7月以降、サハリンから新たに韓国へ永住帰国することが決まった人たち( 順次、6百人を帰国させる計画 )の渡航費( 航空運賃 )や住居確保支援費などに充てられる、という。 これは、日韓両政府が、サハリン残留韓国人の永住帰国者受け入れ拡大で合意し、 「今後も支援を続けていく」 という意思表示をしたに等しい行為だった。
              ※
 サハリン残留韓国人とは戦時中、当時、日本が支配していた朝鮮半島から、サハリン( 当時は樺太・日本領、現在はロシア領 )へ労働者などとして渡り、戦後、故国( 韓国 )へ帰れなくなった人たちを指す。 その数は約1万人。 やがて存在すら忘れられ、故国に帰れなくなった人々とその家族の悲しみ、苦しみは理解できる。 ただし、彼らが故国へ帰れなかったのは、当時のソ連が “友好国” 北朝鮮への配慮もあって、国交のない韓国への帰国を認めなかったためであり、決して日本の責任ではない

 尤も、彼らの存在に長く 「無関心」 であったのは、ソ連も韓国も日本も変わりがなかったのだが …。 この問題で日本が 「人道的支援」 という曖昧な名目で、多額の資金拠出をせざるを得なくなったのは、一部の日本人が彼らを煽って裁判を起こし、 「戦時中、日本によって4万3千人が強制連行され、戦後は朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」 と、事実も人数もまったく異なる “デタラメ” をアピールし続けたためである 「日本人がそういうのだから …」 と勢いづいた彼らは要求をどんどんエスカレートさせ、韓国との外交問題にまで発展させてしまう。

 そして、 「( 韓国から )うるさく言われるぐらいなら、金を出した方がいい。 謝ってしまえばいい」 という日本外交の “悪いクセ” がここでも顔を出した。

 平成2年には、サハリン残留韓国人問題で、当時の中山太郎外相が国会答弁で韓国に謝罪。 平成7年には、村山富市内閣 のもとで、サハリンから韓国へ帰国する( 永住帰国 )人のために、日本の資金で( 韓国に )巨大アパートや療養院を建てることなどを盛り込んだ巨額の支援が決定されるのであるこの止めどもない支援は、戦後60年以上が過ぎた現在も続いており、平成元年以降、これまでに日本が拠出した額( 平成19年度予算分を含む )は70億円近い

 今回の話は、 「それでも、まだ足りないから、( 日本は )もっと出してくれ」 という要請である。

 永住帰国者の住居としては、その村山内閣時に決定された巨大アパートや療養院がすでにある。 日本政府が建設費約27億円を出して( 土地代・管理費用は韓国側が負担 )、2000年2月、韓国・安山市に完成した8棟のアパート群 『故郷の村』 ( 約5百世帯・1千人が入居 )と、医療設備を併設した療養院( 2ヵ所、入居者約2百人 )である。 日本はそれら施設の建設費はもちろん、ヘルパーの人件費・光熱費まで負担しているのに、だ。

 韓国側は、サハリンの残留韓国人が 「まだ約3千2百人も残っている」 とし、このうち、永住帰国を希望している1世約6百人を今年7月から順次、帰国させる計画という。 しかし、先に挙げた永住帰国者の居住施設は現在、ほとんど空きがないため、ソウルや仁川にある公営住宅を借り上げて新たな帰国者に割り当てる。 当初は、その借り上げ費用も 「全額日本側で面倒を見てくれないか」 という話だったのだ。

 これを日本の外務省から聞いた、財政当局は、 「( サハリン残留韓国人問題なんて )もうケリが着いた話ではないか」 と、さすがに予算化を渋った。 日韓両政府の担当者が交渉を行い、住居の賃貸費用は韓国側が負担することになったものの、日本側は、永住帰国にかかわる家賃以外の諸経費( 渡航費など )を出さざるを得なくなった。 その額だけでも、約2億1千6百万円( 韓国側は住居の家賃などを負担 )。 そのほか、仁川療養院のヘルパー人件費・光熱費約2千8百万円、事務局経費約3千3百万円などを含めて、19年度予算には約3億円が盛り込まれたのである。

 しかも、来年度以降の日本側の支援については、曖昧になったままであり、今後、さらなる 「追加支援」 の要請が韓国側から出されるのは必至であろう。 日本外交の “事なかれ主義” は結局、国民にツケを回すことになった。

 こうした永住帰国者の受け入れ拡大における日韓両政府の合意について、日本ではまったく報道されていない( 4月20日現在 )。 詳細な内容が明らかにされていないからだ。 支援事業を行っている日本赤十字社国際部は、 「外務省の了解が得られない」 ことを理由に回答を渋っていたが、 「日本政府の予算により、永住帰国者の渡航費や移転費を支援することを計画しているが、永住帰国者の受け入れ先となる施設については韓国政府が用意する予定である」 と事実関係だけは認めた。





 そもそも、戦後60年以上も経っているのに、 「いまだに韓国へ帰りたい人が6百人もいる」 というのは、おかしな話ではないか? 戦時中に労働者などとしてサハリンへ渡った当事者を 「一世」 と呼ぶとすれば、彼らこそが、本当に故国へ帰りたかった人たちである。

 だが、彼らは現在、80代から90代。 故国を夢見ながら、帰国を果たせず、サハリンの土になった人も多い。 サハリン残留韓国人の帰国運動に生涯を捧げた朴魯学氏( 故人 )・堀江和子さん( 80 )夫妻らの尽力によって、韓国への一時帰国、永住帰国が実現したのは、戦後約40年が過ぎた1980年代半ば以降のこと、なのだ。

 一世たちはその間、サハリンで生活の基盤を築き、結婚をし、子孫を増やした。 子供たちにはロシア人との混血も多い。 帰国が始まった80年代ですら、 「( 現地生まれの )子供たちの反対でサハリンを離れるわけにはいかない」 として、帰国を断念するケースが多かったのである。 当然であろう。 サハリンで生まれた二世、三世にとって、韓国は単なる 「父祖の地」 に過ぎないからだ。

 それなのに永住帰国希望者がいまだに後を絶たないのには、ちょっとした 「カラクリ」 がある。 支援を行うにあたって、サハリン残留韓国人の団体は日本に対し、 「( 終戦の年である )1945年末までの出生者を 『一世』 として取り扱い、補償すること」 を強く求めていた。 つまり、終戦の年までに生まれてさえいれば、サハリンで生まれた者も、旧ソ連で生まれた者も 「一世」 とせよというわけだ。

 結局、支援対象者の条件は、 「1945年8月15日( 終戦 )までにサハリンに移住し、引き続き居住しているもの」 と規定されることになった。 平成15年度からはさらに、 「終戦前サハリンへ渡り、残留を余儀なくされ、終戦後ロシア本土などに渡ったという事実が客観的に証明できるサハリン以外のロシア本土及び旧NIS諸国に居住する 『韓国人』」にも対象が拡大されている。 この条件なら、終戦時に一歳の赤ちゃんだった人も対象になってしまう。

 実際、サハリンから韓国への一時帰国や永住帰国で支援の “恩恵” を被っているのは、今やサハリンで生まれた 「二世」 以降が主になっているのだ。

 一時帰国支援は、何らかの事情で永住帰国できない人たちを、韓国の家族と再会させる目的で平成元年からスタートした。 日本政府が往復の渡航費と韓国での滞在費を負担し、19年3月末までに延べ約1万6千人が一時帰国を果たしている。 日赤によると、現在3巡目( 同じ人が3度、韓国へ行ったという意味 )に入っているというが、昨年までは、60歳以上の一世夫婦に子供1人の付き添いが認められていたため、むしろ彼らの方が 「主」 となり、 “買い物ツアー化” しているという批判が絶えなかった。

 永住帰国者にも二世は多い。 2000年2月、妻とともに、日本が建てた安山の 『故郷の村』 のアパートに入居した男性( 70 )は、1936年にサハリンで生まれた二世である。 父親がサハリンへ渡った経緯は不明だが、徴用( 朝鮮半島では1944年から実施 )でないことだけは確かだ。 この男性は、 「( アパートが )日本政府のお金で建てられたことは知っているが、 『( 日本は )1945年以前はすべて面倒を見る』 と言ったのだから、私たちが入居するのは当たり前でしょう」 と話す。 この男性は、サハリンに子供たちを残しており、暑い夏の3ヵ月間はサハリンへ帰るという。

 二世以降の世代が、韓国へ来たがるのは、支援によって住居や生活費が保証されていることが大きい。 『故郷の村』 アパートの場合、永住帰国者に割り当てられる標準的な住居( 夫婦2人 )は、洋風の2LDK( バス、トイレ付き、約66平方メートル )。 小ぎれいなマンションといった趣だ。 テレビやオーディオセット、パソコンまで持っている人もいる。 入居の権利を子孫が引き継ぐことはできないが、当事者夫妻は、ここに最長30年間まで住むことが認められている、という。 生活費については、韓国政府から月額70万ウオン~90万ウオンが支給されている。 日本円で平均10万円ぐらい。 住民は 「ぜいたくをしなければ、十分な額だ」 と口をそろえる。

 それでも彼らは不満だ。 サハリンで生まれた二世以降の世代は、韓国に知人や縁者がほとんどいない。 ロシア語しか話せない人もおり、仕事を見つけるのは容易ではない。 彼らはみな、 「サハリンに残した家族に会いたい」 と訴える。 そのための支援をもっとしてほしいというわけだ。

 だが、日本はすでに十分過ぎるほどの支援をしている。 先に書いた一時帰国支援のほか、逆に、永住帰国者がサハリンに残した家族に会いに行くための渡航費の支援も行った。 サハリンに残る韓国人の 「伝統文化を保存するための施設がほしい」 と言われれば、約5億円をかけて、ホテル機能が併設された文化センターまで建設( 2003年 )したのだ。

 また、永住帰国した 「一世」 の住居を “拠点” にして、サハリンの子供たちや親類たちが、韓国との間を行ったり、来たりしながら、貿易などの仕事をしているケースや、ひそかに子供や孫を呼び寄せ、同居させている人までいる。 永住帰国をして住居は貰ったものの、しょっちゅうサハリンへ里帰りするため、部屋の中には、ほとんど家具や生活用品がなく、 「永住帰国施設を “別荘がわり” に使っている」 といわれても仕方がないような住人もいた。

 さすがに、3ヵ月以上を留守にすれば、その間の生活費は支給されないシステムになっているが、 「ほかの( 永住帰国 )施設では、支給されている」 として、不満を訴える住人までいるのだ。 確かに、家族と会えないのはつらいに違いない。 ただ、酷な言い方になるが、それならば、韓国への帰国を思いとどまれば良かったのではないか。 何度も言うが、二世以降の世代にとって、韓国は 「父祖の地」 に過ぎないのである。

 夫とともにサハリン残留韓国人の帰国運動に取り組んだ堀江和子さん( 元サハリン再会支援会共同代表 )は、 「一世が支援を受けるならいいが、本当に国へ帰りたかった一世は、ほとんどの人が亡くなってしまった。 支援がほしいときには支援をせず、今さら支援を行っても、日本とは関係のない二世や三世らが恩恵を受けるだけ。 彼らには日本に感謝するという気持ちすらない」 と批判している。





 支援の対象者については、もっと驚くべきことがある。 『故郷の村』 の住人の証言によれば、 「アパートには、戦後、北朝鮮などからサハリンへ渡ってきた人たちまで入居している」 というのだ。

 サハリンへ渡った朝鮮系民族には、大きく分けて3つのパターンがある。
① 戦前の早い時期に新天地での成功を夢見て渡り、そのまま住み着いた。
② 戦時中、企業の募集、官斡旋、徴用によって渡った。
③ 戦後、北朝鮮やソ連などから、派遣労働者として半ば強制的に連れられてきた。
 の3つである。 住人が指摘しているのは、③のケースで、その数は2万人とも5万人とも言われる。 彼らが、日本とまったく関係がないのは言うまでもない。

 かつてサハリン残留韓国人団体の役員を務めていた70代の住民の一人はその経緯について、こう話す。 「永住帰国がスタートした当初は、我々( サハリンの残留韓国人 )の間でも、待遇面の不安が大きく、希望者が少なかった。 そのため、戦後、北朝鮮や旧ソ連からサハリンへ来た人たちも、ロシア国籍を持っていた人に限って入れたんだよ。 だからこのアパートにも、たくさん住んでいるのは確かだ。 ただ、彼らの多くは “素性” を隠して生活しているので、実際に誰がそうなのかは、よく分からない」

 また、彼らの多くは、旧ソ連共産党員で、 「アパートの自治会組織にも睨みを利かせている」 と声を潜める70代の女性住人もいる。 日本政府から 『故郷の村』 に寄贈されたマイクロバスがいつの間にか、姿を消してしまったり、詐欺まがいの被害にあった住人もいるという。

 戦後、北朝鮮などからサハリンへ渡ってきた人たちが、支援の対象者に入っているという 「疑惑」 は、かねてから関係者によって指摘されていた。

 『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったか』 の著者で、堀江さんらとともに帰国運動を行った新井佐和子氏によると、90年代に一時帰国をした残留韓国人の約半数は、 「韓国内に縁故者がまったくいない 『無縁故者』 だった」 という。 戦時中に②のケースで、サハリンへ渡った人の多くは現在の韓国地域から行った人たちであり、戦後40年( 当時 )経っているとはいえ、縁故者が一人もいないとは考えられない。 つまり、彼らは、残留韓国人の団体や韓国政府が主張する “強制連行” などとはまったく無縁の①か③か、その子孫ということになるのではないか。

 現地の韓国政府関係者も、 「永住帰国が始まったときは、韓国がソ連( 当時 )と国交を樹立した直後であり、対象者の選定に多少の混乱があったのは仕方がない。 国交がないときは情報がほとんどなく、彼らの調査をきちんと出来なかったからだ。 今さら、彼らに( アパートから )出て行けとは言えない」 と対象者に彼らが含まれていることを事実上、認めているのだ。 ただし、残留韓国人の間では、支援の対象者について、 「1945年8月15日以前に生まれた者なら誰でも対象になる」 と受け取られているフシがあるから、実際は、それほど問題視されていないのだろう。

 日本では、支援を始めたときに、 「税金を使う以上、はっきりと区別するべきだ」 と “正論” を主張した国会議員もいたが、結局はウヤムヤになってしまった。 支援者の選定は、韓国側の赤十字とサハリンの団体に任されており、日本側は事実上、チェックする手段がないこれでは日本はカネだけ出して支援事業を “丸投げ” している、と批判されても仕方がないではないか





 ここで、この問題の経緯を詳しく振り返ってみたい。

 終戦時、サハリンには約40万人の日本人がいた。 昭和21年に結ばれた 「米ソ引き揚げ協定」 によって、日本人については順次、引き揚げが許され( 24年までに約30万人が帰国 )たが、ソ連によって終戦と同時に 「無国籍者」 とされた朝鮮半島出身者については、ソ連が出国を認めなかったために、サハリンへの残留を余儀なくされた

 これについて、 「日本人だけが、さっさと帰って朝鮮半島出身者だけを見捨てた」 という悪質なプロパガンダが流されたが、当時、占領下にあった日本は、そうした決定に関与すらできなかったのである。 先にも書いたが、彼らがサハリンに留め置かれたのは、ソ連が国交のない韓国への出国に難色を示していたからだ。 背景には北朝鮮への配慮があったという。 2005年に、韓国政府が公開した外交文書によれば、1974年にサハリンから日本経由で韓国へ帰国しようとしていた残留韓国人約2百人が、やはり北朝鮮に配慮したと思われるソ連の拒否によって出国が認められなかったケースが明らかになっている。

 各国政府が無関心を決め込むなか、当事者の一人で、昭和33年に日本へ帰国していた故・朴魯学氏・堀江和子さん夫妻ら、日本にいた民間人の力によって、一時帰国、永住帰国の道が開かれたこともすでに述べた通りだ。 そのままなら 「美談」 で終わるはずの話が、政治問題・外交問題になってしまったのは、50年12月、残留韓国人4人を原告にして東京地裁に提訴された 「サハリン残留者帰還請求訴訟」 がきっかけである18人の大弁護団の中心的な立場にいたのは、後に 「従軍慰安婦」 訴訟でも “活躍” した人物( 高木健一 )だった

 日本政府の見解は一貫して、 「法的責任はない」 というものだったが、やがて 「人道的支援」 を行うことに追い込まれる。 そしてこの問題はやがて、人道的支援から、 「戦後補償」 へとすり替えられて行くのだ。

 日本政府に法的責任がない、というのはまったく正しい。 昭和40( 1965 )年の日韓条約で、 「解決済み」 の問題であり、先の韓国の外交文書公開では、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることも明らかになっている。

 しかも、 “そもそも論” で言えば、戦前、戦時中に朝鮮半島からサハリンへ渡った人たちの多くは、外地手当などによる 「高給」 に魅力を感じて企業の 「募集」 に応じて、自分の意思で行った人たちである。 つまり、日本政府に無理矢理連れて行かれたわけではない。 先の新井佐和子氏は、 「私たちが帰国を支援した人たちも、ほとんどが 『募集』 でサハリンへ渡った人たちでした。 ( 1944年から朝鮮半島で実施された )正式の徴用令状で行った人は数百人にも満たないでしょう。 当時は 『強制連行』 なんて言葉すら無かったのです」 と断じている。

 実際、安山の 『故郷の村』 に住んでいる住人( 一世 )に聞いてみると、多くの人は 「募集で行った」 と答えている。 帰国運動を行った朴魯学氏( 故人 )も、昭和18年に樺太人造石油会社の募集に応じて、サハリンへ渡った一人だ。 朴氏は、サハリンで貰った給料で、韓国の家族に、家一軒が建つほどの仕送りが出来たという。 妻の堀江和子さんによると、何が何でも日本政府の責任を主張する仲間( 残留韓国人 )に対して、 「強制連行などではなかったじゃないか」 と、朴氏が咎めることがたびたびあった。

 韓国政府や残留韓国人の団体は、こうした見解を認めようとはしない。 「たとえ募集や官斡旋で行ったとしても、日本支配下のことであり、事実上の強制であった」 ( 韓国政府関係者 )というのである。 そして、理論上、苦しくなると、 「人道的支援」 を持ち出すのだ。

 だが、新井氏は、 「私たちが世話をした人の中には、募集でサハリンへ渡り、お金を稼いで、いったん戻ってきた後、ばくちでスッテンテンになって、もう一度、自らサハリンへ行った人もいました。 もちろん、強制などではありませんでした」 と反論している。

 結局、日本は外交的摩擦を怖れるあまり、求められるままに、 「理由なき支援」 を続けてきたのだ。 もちろん、国際社会で責任ある立場として、日本が 「人道的支援」 を行うのはいい。 だが、70億円は、明らかにその範囲を超えている。 しかも対象者はすでにほとんどおらず、使命は終わったのにである。 こうした理不尽な支援が続いていることを、どれだけの日本人が知っているのだろうか。



調

 サハリン残留韓国人問題は、別のチャンネルでも動いている。 2005年に公開された韓国の外交文書で、こうした “被害者” には、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることが明らかになり、彼らによって、韓国政府の責任が問われる事態になった。

 このため、韓国政府は、 「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」 という物々しい名称の組織を作り、 “強制連行” の実態調査に乗り出したのである。 韓国政府関係者によると、 「日本によって強制連行された」 として、すでに約20万人の “被害者” や遺族が手を挙げているという。

 調査の目的は、 「経済支援金」 などの名目で、 “個人補償” を行うことにある。 現在、政府案と超党派の議員案の二つの法案が準備されており、議員案の方は一人当たり最高5千万ウオン( 約6百20万円 )、政府案でも同2千万ウオン( 約2百50万円 )が支給されるという。 現在、二つの法案の調整がつかず、成立の見通しは立っていないが、実現すれば、巨額の資金が必要になるのは言うまでもない。

 韓国政府は、サハリン残留韓国人を、この問題の主要な対象者のひとつに位置づけており、現在、調査員が韓国、サハリン、日本でも調査を進めている。 ただ、当然のことだが、戦後60年以上も経っており、事実関係を明らかにするのは容易な作業ではない。 調査員の一人は、 「登録者のヒアリングをしていると、曖昧だなと思うこともあるが、こちらにもそれに反論すべき資料がない。 日本政府はその資料を持っていると思うが、見せてもくれない」 と不満を募らせる。

 だがすでに、残留韓国人の間では、この話題で持ちきりだ。 安山の 『故郷の村』 の住人の男性( 78 )は、 「死んでから貰っても仕方がない。 とにかく早く法律が成立してほしい」 としきりに訴えていた。 韓国政府関係者は、この問題について、 「韓国政府が行うことであり、日本政府はまったく関係がない」 としている。 ただ、その言葉は “額面通り” には受け取れない。 2005年の外交文書公開のとき、韓国政府は、日韓条約交渉時に被害者として認識されていなかったなどとして、慰安婦問題や在外被爆者問題とともに、サハリン残留韓国人問題も例外扱いすることを示唆していたからだ。

 しかし、堀江和子さんが、かつて、駐日韓国大使館の幹部に聞いたところによると、その人物は 「サハリン残留韓国人問題も日韓条約の対象に含まれる、と明言した」 という。 それでも、調査が済んだ後、またもや、 「人道的支援」 を突き付けられないとも限らない。 日本は、注意深くこの問題を見守っていく必要があるのだ。

 『故郷の村』 には、かつて、日本が支援を行うきっかけとなった裁判で弁護人をつとめた人物が、今も度々、出入りしているという。 住人によると、彼は、戦時中、不払いになっていた郵便貯金を 「5倍にして返還させる」 と持ちかけ、再び裁判を起こすことを勧めている。 堀江さんは、 「この問題が、強制連行や慰安婦問題、戦後補償の問題など、本来、関係がないものに結びつけた “張本人” が彼なのです。 いい加減に、サハリン残留韓国人を利用することはやめてほしい」 という。

 堀江さんは毎年、韓国・忠州にある朴魯学氏のお墓参りを欠かさない。 『故郷の村』 には、朴氏夫妻の尽力によって、帰国が実現した人たちがたくさんいる。 それなのに、 『故郷の村』 には、サハリン残留韓国人団体の元会長の銅像はあっても、朴氏らの功績を顕彰するものはない。 日本政府が建設資金を出したことを示す記念碑なども、どこにも見当たらなかった。





( 2010.08.15 )



 菅直人首相 が 「歴史の事実を直視する」 として10日に発表した首相談話に含まれていた 「在サハリン韓国人支援」 は、かつて仙谷由人官房長官 自身がかかわり、国会などでも 「日韓の和解のモデルケース」 と言及してきたテーマだ。 だが、産経新聞のインタビューに応じた元サハリン再会支援会代表の新井佐和子氏( 80 )は、仙谷氏の個人的な思い入れの矛盾点を指摘。 逆に新たな問題を引き起こしかねないとの懸念を示す。

―― 仙谷氏の一連の発言をどう受け止めるか

  「サハリン韓国人残留問題には( 仙谷氏の友人で、韓国での対日慰安婦補償請求訴訟などを推進してきた )高木健一弁護士が深くかかわっていた。 仙谷氏は高木氏とずっとコンビを組んでいたので、官房長官就任時から、私は戦後補償問題の再燃を懸念していた」

―― 残留韓国人問題は戦後補償の代償行為として受け止められてきたが

  「この事業はもともと、サハリンから昭和33年に日本に帰還した韓国人の故朴魯学パクノハク氏が始めたものだ。 朴氏は現地に残る韓国人に頼まれ、帰還支援運動を開始した。 朴氏はサハリンの同胞たちはソ連に抑留されているとの意識で、日本の戦後補償問題とは考えていなかった。 だが、高木氏らはこれを安保闘争の延長の反政府運動として利用し、韓国人の帰る自由を奪ったのは日本、帰国させる責任も日本にあるとした」

―― 「韓国人4万3千人がサハリンに強制連行されて戦後置き去りにされた」 との主張もあった

  「戦前戦中を通し、サハリンは暮らし向きが内地よりよく、給料も高かったため、自ら渡ってきた韓国人がほとんどだ。 『強制的』 といえるのは終戦直前に徴用された少数だけ。 『4万3千人』 という数字も、戦後にソ連の友好国だった北朝鮮から来た労働者らが含まれており、根拠はない」

―― 日本の責任は

  「まったくない。 日本が帰そうと思っても、ソ連が労働力が必要だとして帰さなかったのだから。 ソ連には、韓国と対立していた北朝鮮を刺激したくないとの配慮もあった。 韓国の家族との再会のためにサハリンから日本に呼び寄せた韓国人が、韓国大使館で 『なぜ今まで自分たちを放っていたんだ』 と訴えたこともある。 韓国人には韓国政府を批判する人が多かった」

―― 帰還支援運動は、仙谷氏もかつて所属した旧社会党が熱心に見えたが

  「在サハリン韓国人を家族と再会させ、韓国に帰すことが活動の目的なのに、彼らはサハリンから韓国人を日本に招く際の招請人になることに消極的だった。 社会党は、すでに活動の道筋がついた段階で急に乗り出してきた。 五十嵐広三元官房長官は朴氏の死去前日に病床を突然訪れ、感謝状を贈呈してマスコミに取材させるなど政治利用はみえみえ。 朴氏の妻、故堀江和子氏も活動を横取りされたとくやしがっていた」

―― 日本政府は首相談話で今後もサハリン韓国人支援事業を行うと表明した

  「打ち切るべきだ。 本来は韓国とソ連の問題であり、日本の役割は両国の国交樹立( 1990年 )で終えている。 もうサハリンに戦争当時の人はほとんどいない。 日本の負担で永住帰国者のために韓国に建設したアパートには、戦後になってサハリンに行った北朝鮮人まで入居している」

―― だが、仙谷氏は日韓間の 「和解」 の成功例として何度も引用している

  「残された韓国人が気の毒だからといって、情緒的に問題を持ち出すのは疑問だ。 過去に個人的に動いたのはそれぞれの生き方だから構わないが、官房長官として国益を損ずることを起こすのはいかがか」





( 2015.04.24 )
簿
  


 第2次大戦の終結後、旧ソ連によって南樺太・真岡まおか( 現サハリン南部ホルムスク )と中国・大連の送還収容所に抑留され死亡した日本人の名簿が、ロシアに保管されていたことが分かった。

 読売新聞はこのうち、188人分を入手した。 ソ連が作成した抑留死亡者名簿を巡り、シベリア抑留以外のデータが明らかになるのは、朝鮮半島の興南( 現在の北朝鮮 )にあった 「第53送還収容所」 の869人分に次ぐものとなる。

 南樺太、大連の死亡者名簿について、日本政府はすでにロシア政府から提供されており、今回の入手資料に掲載された死亡者情報の一部を保管している。 日本政府はシベリア抑留以外、死亡者名簿の存在を公表してこなかったが、興南や南樺太などの存在が相次いで明らかになったことを受け、ソ連やロシア政府から提供されたすべての死亡者名簿を、近く公開する方針を決めた。 すでに公開された分も含めた公開規模は1万人分を超える見通しで、抑留の全容解明に向けた大きな一歩になりそうだ。

 読売新聞が入手したのは、南樺太・真岡の 「第379送還収容所」 と大連の 「第14送還収容所」 の、死亡者名簿の一部。 第53送還収容所と同様にロシア連邦国立公文書館( モスクワ )が保管、読売新聞の請求を受け、このほど公開した。

 南樺太と大連は1945年8月の終戦まで日本が統治し、多くの民間人が住んでいた。 戦後にソ連が占領し、日本人は帰還を許されずに抑留された。 南樺太では千島列島や現在の北方領土も含め、約1万人が強制収容所に抑留され、2000人が死亡したとされる。 大連の抑留規模や死者数は現在も分かっていない。

 名簿を見ると、9割近くを軍人・軍属が占めた第53送還収容所と違って、民間人の割合が高い。 死亡者にも乳幼児と高齢者が目立つ。 5歳以下の割合は真岡で36%、大連で21%、60歳以上は真岡で42%、大連で18%を占めた。

 死因は乳幼児では栄養失調や肺炎、ジフテリアなどが多く、高齢者では心臓病や老衰が多かった。

 真岡の死亡者名簿には47年11月から12月までの44人と、48年4月の1人の計45人が記録されている。 埋葬区画の番号はない。

 大連の名簿は46年11月から47年3月までに死亡した108人分で、埋葬地の区画番号も書かれている。 ロシア側はこれとは別に、大連で埋葬された35人の死亡者名簿も公開した。

 南樺太や大連、北朝鮮での抑留の実態解明や遺骨調査は、ほとんど進んでこなかった。 名簿を所管する塩崎厚生労働相は今月3日、 「シベリア抑留者の対応が先になってしまい、申し訳ない」 と述べ、これまでの政府の対応に不備があったことを認めた。