日韓併合


 日韓併合は侵略でも、植民地支配でもない

 併合前の朝鮮は王室の家計と国家の財政の区分なく、無際限に浪費し国家予算を組めず、諸外国にも借金しまくり倒産状態。

 当時の1円が現在の3万円の貨幣価値。 日本の保護国化された1905年時、朝鮮の歳入は748万円。

 朝鮮の国家予算に必要な額が3千万円( 9千億 )と試算するも必要な金額の3千万円にはとても足りない。 1912年の日本の国家予算が約6億円( 18兆円 )。

 そのため日本国民が働き、日本が毎年無利子で朝鮮に借款し続け、1910年に日韓併合されると1億円近い借金をチャラにしてあげた。

 日韓併合条約は両国合意で侵略ではないし、日本の投資額は中川八洋教授( 筑波大学名誉教授 )の計算で63兆円以上

 35年間の併合期間に朝鮮近代化のため日本は終始大赤字西洋の植民地政策は本国に莫大な利益をもたらし黒字経営


「売国奴」 のレッテルを貼られた李完用りかんよう

[ 画像をクリックすると拡大 ]
 1910年( 明治43年 )8月22日、「 韓国併合に関する条約 」 が、大韓帝国の首相・李完用と日本の統監・寺内正毅てらうちまさたけとの間で締結された。
 これに先立つ1905年の日韓保護条約( 韓国では乙巳ウルサ保護条約 )締結の際も、李完用は学部大臣としてこの条約に賛成し、このとき、ともに賛成した他の四人の閣僚とともに、「 乙巳五賊オジョク 」 と呼ばれたが、これによって韓国における彼の「 悪名 」 は完全に定着した。
 今日でも彼の名は「 売国奴 」 の代名詞であり、その業績を一部でも評価しようとすれば、その人間はたちまち激しい糾弾きゅうだんを浴びて、社会的に抹殺されてしまいかねない状況である。
 だが、政治家として彼がとった選択は、それほどに非難されねばならないものだったのだろうか。
 李完用は1858年、京畿道キョンギドク広州アンジュ生まれ。 24歳で、科挙文科に合格し、1886年、最初の英語学校である育英公院に入学した。 当時より秀才の誉が高かった。
 1887年、米国駐在公使館に参事官として赴任し、翌年には駐米代理公使に就任した。
 1895年より外部( 外務 )大臣、学部( 文部 )大臣、農商工部大臣を歴任、翌年、徐戴弼じょさいひつらと独立協会( 最高愛国集団 )を結成、初代委員長に選出された。
 1898年、独立協会会長として、万民共同会を開催し、ソウル都心部で独立鼓吹の街頭講演会も多数開催していた。
 1905年、日韓保護条約( 韓国では乙巳保護条約 )に賛成。
 1910年、大韓帝国全権委員として、日韓併合条約に署名。 併合後は朝鮮貴族に列せられ、明治天皇より伯爵を賜与しよ。 その10年後、侯爵に叙せられた。
 こうした彼の履歴を一覧すれば、外交畑を歩み、対日観においては、一貫して親日的であったことは確かである。 だが、あらゆる文献を通じて調べた結果、彼は稀代きたいの愛国者である ことを認識した。
 1910年8月22日、彼が総理大臣として日韓併合条約に調印したのは、朝鮮の専制王朝が最後まで文明開化を拒み、過度の浪費で、極貧と飢餓に疲弊する民族を放置していることを見るに見かねて、日本の全面的協力を得て民族の再興を期するため であった。
 彼ばかりではなく日韓保護条約、日韓併合条約に賛成した大臣たちは、民族の繁栄を希求し、滅亡を事前に防ぎたいという念願から、合邦に賛成している のである。
 彼らは当時の朝鮮国内の状況から、やむにやまれぬ政治選択をしたのであって、むしろ政権担当者の責任として、当然の行ないをしたまでである。
 日韓併合の是非は、当時の朝鮮王朝がどのような体制にあり、庶民の生活、社会の状況がどうなっていたのかを、正しく見つめなければ、何も論じられない
 それはともかく、李完用は売国奴と呼ばれ、死後、墓が暴かれる剖棺斬屍ブグァンチャムシという極刑にまで処されたが、彼は韓民族としての誇りを失わず、日本に対しても無条件で阿諛追従あゆついしょうしたわけではなかった。
 それは次のような点からも明らかである。
1.生涯日本語を使わず、英・韓語を常用して民族の自尊心を高揚し、一般の百姓たちから厚い尊敬の的であった。
2.東洋で最高の名筆家として、明治天皇からも親筆の額を要請されたほどで、今も独立門の額や王宮などに、彼の筆跡を目にすることができる。
3.高邁こうまいな人格の所有者で、外部大臣在任中は、ロシアの朝鮮併合政策を挫折させた。
4.政策面で彼は貞洞派ジョドンパ( 日中と距離を置き英米露に親近感をもつ )に近く、親日派や売国奴にはほど遠い存在で、近代化と民族の繁栄をひたすら願っていた。
 李完用は1926年、68歳のとき、李在明イジェミヨンから受けた傷がもとで死去した。  斎藤実さいとうまこと総督( 当時 )は弔辞の中で「 李完用侯爵は東洋一流の政治家であり ……、彼の人格はあらゆる人たちの欽慕きんぼの的であり、彼の死は国家の一大損失である …… 」 と述べた。 彼の葬礼は高宗こうそうの国葬のとき以来の規模で、大勢の人が参列し、彼を慕う人波が10里( 朝鮮の言い方で約4キロ )も続いた。


初代統監・伊藤博文の功績

 同じく、日本の朝鮮支配を導いた最大の「 悪玉 」 とされる日本人は、伊藤博文である。 明治日本を築いた最大の功労者である彼の出自は、現在の山口県にあたる長州であり、この地の開祖が、百済聖明くだらせいめい王の子、琳聖太子と、その系列の後裔こうえいであることに留意すべきである。
 彼は64歳で、韓国の統監として赴任し、「 日韓保護条約 」 ( 1905年 )、「 日韓新協約 」 ( 1907年 )を結んだが、当時の韓国の財政は破滅的状況で財源は涸渇し、政財界には不正と腐敗だけが蔓延まんえんしていた。
 伊藤が統監として赴任した3年間、彼は祖国日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、水道、土木工事、鉄道、病院建設にこれを充当した。
 彼は韓国および韓国人のために、中央政府の大臣と、地方長官には韓国人を任用し、日本人はその下の補助役に就かせるにとどめた。 そればかりではなく、日本人には荒蕪こうぶ地の開発などの難しい仕事をやらせた。 だがこうした事績は、韓国では( あるいは日本でも )、不当にも抹殺されて、顧みられることもない。 もしも安重根あんじゅうこんが伊藤の出自と真の功績を知っていたら、歴史は変わっていただろう。
 李朝当時の韓国は、両班ヤンバンという堕落した不労所得者の貴族集団 が、良民、農民たちから財産と生産物を奪い、百姓たちは瀕死の状態にあえいでいた。
 李朝の500余年間、正式の学校もなく、名ばかりの国立( 官立 )学校が4校あるにすぎなかったが、伊藤は、教育の重要性を考えて「 普通学校令 」 を公布し、統監府時代( 1906~10年 )には、すでに日本の資金で100校以上が築造され、合邦以後もそれは続き、1943年には5000校に達した。
 また 李朝の腐敗した統治にあってインフレーションに悩む民衆のために、朝鮮を 「円通貨圈」 に統合した。 朝鮮史上、紙幣が流通しだのは、実はこれが初めて のことで、これによって物価が安定し、朝鮮に 「現代的貨幣制度」 が確立された ことも、伊藤の功績である。
 李完用と同様、伊藤博文の功績も、冷静な視点で、いま一度、見直されるべきである。


自主独立の道を自ら拒んだ李王朝

 李朝成立後、484年が過ぎた1876年2月に結ばれた「 日朝修好条規 」 は、全文十二条から成る。
 この修好条規の第一条に「 朝鮮国は自主の国 」 とあることは、きわめて重要な意義を持つ。 1392年の李朝開国は、高麗こうらいの重臣であった李成桂りせいけいが、みんとの戦いで遼東りょうとう地方奪回に出陣し、密かに敵と通じて、威化いか島( 鴨緑江おうりょつこう下流の島 )で軍をひるがえし( 回軍 )、逆にときの高麗王( [示+愚]王 )と上官の崔榮さいえい( 総理兼参謀総長 )将軍を殺し、政権を簒奪さんだつした結果によるものである。
 敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の季朝が明の隷属国家に転落したのは必然である。 国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。 李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ちつづけた国際的自尊心を放棄し、明の属国として堕落が始まった
 このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。 こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算案すら存在しないという無軌道ぶりだった。 いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。
 それを考えると、「 日朝修好条規 」 第一条の「 朝鮮国は自主の国 」 との言葉の持つ意味の重大さがわかってくる。 だがしんと朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、実際には実現にほど遠く、清の保護下にある李朝の専横は変わることなく、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わいつづけていた。 近代化と自主独立の道を拒否しつづける李朝の存在は、東アジアの情勢に不穏な種を宿していたのである。
 李朝は1897年、国号を「 大韓帝国 」 とあらため、年号を「 光武 」 とした。 王を皇帝と称し、表面的には510余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国家を形成したが、実態は、変わるところがなかった。
 1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎めがたたねたとう( 1853~1926年 )を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやくちょにつくことになった。
 目賀田財政顧問と統監府は、朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金 「立替え」 を実施した ほか、直接支出で援助した。
 たとえば1907年度で、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
 1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。

日本の朝鮮への財政負担[ 併合前 ]
年度日本の立替金※日本政府の直接支出合計
1907117万円約2500万円約2700万円
1908526万円約2600万円約3100万円
1909465万円約1600万円約2100万円
1910260万円2242万円約2500万円
1428万円約9000万円約1億400万円
※旧韓国政府の歳入に計上

 統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にのぼった。
 そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達している。 現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ、将来は開けない。
 1910年8月29日には、明治天皇から臨時恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そっくり棒引きにされた。
 李朝には元々、予算の編成能力などはなく、目賀田顧問の指導、監督の下で初めて予算が編成された。 いかに李朝が非社会的な存在であったか、わかろうというものである。 飢餓には食糧と金が必要であって、名義と暴力では解決しない。


歳入の3分の2を日本政府の持ち出しで賄った朝鮮

 日韓併合後の補充金と称する日本政府の持ち出し( 日本人の税金 )は、1911年が1235万円で、それ以前の平均2500万円の半額に減った。 これは残りの半分を日本政府発行の公債と、日本からの借入金で補っており、毎年日本から約2000万円前後を調達するという状況は変わっていなかった。
 これは朝鮮自体の税収入の倍額に及んでいる。

日本の朝鮮への財政負担[ 併合後 ]
年度公債・借入金補充金合計朝鮮人自体の
税金と印紙収入
19111000万円1235万円2235万円1330万円
19121490万円1235万円2725万円1468万円
19131110万円1000万円2110万円1526万円
1914764万円900万円1664万円1854万円
朝鮮の歳入の3分の2を日本が負担していたことがわかる。

 つまり朝鮮は、 財政の過半から3分の2を日本人の税金によって賄った結果、 ようやく近代化に向かって出発することができたのである。
 終戦後、 独立した韓国・朝鮮の教育は、 日韓併合を日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾するが、 これがいかに歴史の実態を無視した身勝手、 自己中心的解釈であるかは、 いうまでもない。
日韓併合によって、 搾取され呻吟しんぎんしたのは、 韓国・朝鮮国民ではなく、 日本国民であった事実を認めるべきである。


【 朝鮮大使 『 併合は豚の境涯から脱して人間の幸福を受ける道 』 】

 現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。 亡国は必至である。 亡国を救う道は併合しかない。 そして併合相手は日本しかない。 欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。 日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。 そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。 それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。 日韓併合が問題になるのは、変な話だ。 我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。

朝鮮全権大使 李成玉 『 李完用侯の心事と日韓和合 』

 私の見るところをもってすれば、伊藤侯の統治は最大なる賞賛に値するべきものであり、大変満足しております。 韓国国民は今やようやく、彼をもって自分達の友人であると知って、これを事実の上に現し始めました。 過去三年の間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして統監政治の最も熱心な支持者であることを告白せしめます。 私は伊藤侯の必ず成功すべきことを信じて疑わないものであり、また、すべての宣教師及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は、等しく伊藤侯の統治を支持しなければならないと思います。

宣教師 ハリス博士韓国学長の言葉 「 戦わざる者は自ら滅ぶ 」

ソウル大教授
「日本による収奪論は作られた神話」

 日本による植民地時代に韓国が土地と食糧を収奪されたという韓国史教科書の著述は歪曲されたものだという主張が提起されている。
 韓日問題を論じるシンポジウムでソウル大学の李栄薫( イ・ヨンフン )教授が発表した内容だが、李教授は過去の「 従軍慰安婦は売春業 」 発言に続き、再び論争を呼び起こしている。
 「1910年に日本は大韓帝国を強制的に併合した」
 「日本は韓国が植民地だった35年間に、韓国の土地の40%以上を収奪し、膨大な米を略奪していった」

 これらが韓国が独立後、40年以上にわたり中学・高校の国史教科書に記載されている 内容だ。
 しかしソウル大学経済学科の李栄薫教授はこうした収奪論が歪曲された神話だと主張した。
 収奪という表現は太平洋戦争末期を除き、被害意識から出てきた言葉だと李教授は話している。

 以下はYTNによるインタビュー。

 李教授「 日帝( 日本帝国主義 )が韓国の米を供出、強制徴収したとされているが、実際には両国の米市場が統合されたことにより、経済的 『 輸出 』 の結果だった 」
 客観的数値で見ても、奪われた土地は10%に過ぎなかったと説明している。李教授は韓国の歪曲された教科書で学んだせいか、反日感情の根がかなり深くなっていると話した。
 李教授「 私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ 」
 こうした主張について市民団体は植民地状況自体が不法であるという点を見過ごしていると反発している。
 李教授「 植民地時期全体を見れば、労働力搾取だとか、状況が …… その中に不法もあり、そうでなかった場合もあり、様々な次元があるため …… こうした状況を通称し収奪と表現するのでしょう 」
 李教授の主張がメディアを通じ知れ渡るとインターネットの各掲示板でも熱い討論が展開された。植民地史観の先兵と変わりがないと非難する書き込みが殺到した。
 一方で李教授の理論にも一理あるとし、教科書を客観的に見るべきという声も少なくなかった。
 李教授は2ヶ月前にテレビの討論番組で従軍慰安婦を売春業と関連付けた発言を行い、物議を醸した人物だ。
 日本による収奪論を否定する李教授の発言は、韓国で新たな熱い論争を巻き起こしている。
- 朝鮮日報 -

 私は平素学生に対して、韓国人としての自覚を促している。 日本の韓国併合に抗議する前に、韓国人自身が考えなければならないこと がある。

 日本の韓国併合に対してアメリカもイギリスも誰一人反対しなかった。 世界は当然のような顔で受けとめていた。 それは何故か。
 清国軍がソウルを占領しても韓国人は戦わなかった。 だから日本軍が戦って清国を追い払ったロシアが入ってきたときも我々は戦わなかった日本軍が血を流して戦い、朝鮮からロシアを追い出した。 だから日本はこれ以上トラブルはいやだと、朝鮮を併合してしまった。
 これに対して世界の列強は、日本がそうするのも無理はないとして、ひと言も文句を言わなかった。 このことを忘れてはならない。 日本の悪口を言い、責任を日本に押し付ける前に、我々は戦わなかったから滅びたこと を知らねばならない。
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助編著

 韓国は多年、その自主独立の政治ができなくて、過去数世紀の間、支那の宗主権を承認 していた。 日本がこれを、その境遇から救った 後は、日露の係争の地であった。 次いで、日本は又々、これを ロシアの圧迫から脱けさせる や、財政に行政に日本の忠言指導を受けることになり、外交の事は、挙げてこれを日本に委せた。 それ以来韓国は少なくとも、露、仏、英諸国が、その付属国民に対すると同様の恩恵に浴するにいたった。 けれども近来、韓国は徒らに名を無実の独立国に借りて、陰謀、奸計を弄し、隣国の激怒を招き、威圧、否戦火を蒙った。 これが実に日清・日露の二大戦役を実現したゆえんである。
 ここでこそ韓国の地位に、根本的な改革を加え、それによって禍根を除去するより以外ない。 ゆえに我々は、日本保護下における韓国に対し、そのいわゆる韓国の独立に永遠の離別を告ぐるものである。
アメリカ・ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙

 昭和17年5月末の段階で、学校数は4945校、朝鮮人生徒数も187万6455人に達し、就学率も約60パーセントにまで上昇した。 この数字は併合直後の約42倍であった。 この一点だけをとっても 日本の統治は植民地の就学率を僅か数パーセントに据え置く愚民政策を採用したイギリスやオランダの統治とは全く異なるもの だった。
 日本は中等以上の教育制度の確立にも多大なる力を注いだ。 昭和19年5月末現在で各種学校の数はおのおの、中学校75、高等女学校75、実業学校133、実業補修学校145、師範学校16、専門学校24、大学予科1、大学( 京城大学-現在のソウル大学 )1であり、その総計は470校に達した。
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 より





   


 多くの韓国人にとって伊藤博文は極悪人である。
 かつて日本の千円札に伊藤博文の肖像が書かれていることを韓国人は苦々しく思っていた。
 一方、日本ではその伊藤博文を暗殺したテロリストとして知られる安重根について、韓国では彼を「 義士 」 と呼びその「 業績 」 を賞賛している。
 まずはこの二人の経歴を辿ってみたい。

伊藤 博文( いとう ひろふみ ) 
生没 1841年10月16日生~1909年10月26日没
 山口出身 初名は利助、のち俊輔 号は春畝
 萩・松下村塾に学ぶ ヨーロッパに留学
 政治家 公爵 大日本帝国憲法制定に参与
 内閣総理大臣・枢密院議長・貴族院議長( いずれも初代 )を歴任
 首相就任4回 歴代最年少総理( 44歳で就任 )
1885年12月22日~1888年4月30日 総理大臣
1892年8月8日~1896年8月31日 総理大臣
1895年3月20日~4月17日 下関講和会議における日本全権弁理大臣
同年4月17日 下関条約調印
1900年10月19日~1901年5月10日 総理大臣
1905年 朝鮮初代統監に就任
1909年10月26日 ハルビン駅でテロリスト、安重根の銃撃を受け死亡
1909年11月4日 国葬
 
安 重根( アン ジュングン ) 
生没 1879年生~1910年3月26日没
 朝鮮の独立運動家 カトリック教徒 学校を設立 義兵を組織 左利き
1909年10月26日 ハルビン駅で朝鮮初代統監の伊藤博文を射殺
 銃撃にはブローニング社製の自動拳銃( 7連発 )を用い、6発を発射、その場で逮捕される
 旅順地方法院で死刑判決をうける
1910年3月26日 旅順監獄で死刑執行

 度々指摘されていることだが、韓国人の多くは伊藤博文へとんでもない誤解をしている。
 初代統監であった伊藤博文は、当時の第二代朝鮮統監、曽祢荒助( 日露戦争時の大蔵大臣 )らと共に朝鮮併合反対派でった。
 ちなみに、このとき朝鮮併合賛成派は山県有朋や寺内正毅陸軍大臣などであった。
 別に朝鮮半島のことを思ってではなく、「 朝鮮併合後の維持には日本の国力を超えた莫大な金が掛かる 」 事を伊藤博文らは主張し併合に反対したのである。
 実際、伊藤博文らの朝鮮併合反対派の主張は正しかった わけで、1945年の敗戦までに日本が朝鮮半島につぎ込んだ資本・資産は現在の価値になおして80兆円以上のとんでもない額 になったのだ。
 先見の明を持った、というより常識的な判断が出来た日本の数少ない政治家だったのかも知れない。
 結局、伊藤博文の暗殺後、1910年に曽祢統監は胃ガンで倒れ、同年解任、そして朝鮮併合賛成派の寺内正毅が第三代朝鮮統監に任命される事となり、この時点で朝鮮併合が事実上決定したのである。

 この歴史の流れの中で、テロリスト安重根の役割りを考えたとき、彼が本当に韓国人の賞賛を浴びるに足る人間であったか甚だ疑問である。
 第一、彼が行ったのは思想信条はどうあれ、間違いなくテロである
 これを認めない人間はこの世には存在しないであろう。
 そして、結果的に安重根は伊藤博文という朝鮮併合反対派の重鎮を暗殺することによって、朝鮮併合への道を加速させただけに過ぎなかったのである。
 確かに、韓国人が言うとおり仮に安重根が伊藤博文を暗殺しなくても朝鮮併合は行われたかも知れない。
 だが、それは歴史の≪ IF ≫に過ぎず、論評の価値はない。
 上記の通り、朝鮮併合の道を加速させ、決定付けさせたのは間違いなくテロリスト安重根である。
 これが、安重根の暗殺により朝鮮併合が為されなかったというなら、彼のテロにはまだ意味があっただろうが、結果がこれでは意味もへったくれもないものである。

 さらに韓国人の誤解或いは認識不足の一つに、朝鮮併合には朝鮮人自身が積極的に関与していた事実である。
 朝鮮併合に賛成する多勢の朝鮮人の中でもその筆頭は当時の朝鮮首相、李完用であった。
 彼は反日派の群衆に2回も自宅を焼かれながら、日本の力により、韓国を近代化しなければならないとの信念で当時の韓国政府をリードしたのである。
 又、当時の最大の政治勢力は一進会であり、ピーク時会員数100万人と称している。( 韓国人はこの数を認めないが )
 彼らは日露戦争時、命を懸けて日本に協力したが、第二代朝鮮統監の曽祢とは不和を生じており、併合時はかなり減少して20万近い勢力になっていたと思われる。
 1909年末、彼ら一進会の提出した、合邦についての請願書が併合に大きく寄与したと言われている。
 現在の韓国では「 李完用 」 「 一進会 」 とくれば「 親日 」 「 売国奴 」 「 国賊 」 でその論議は終わってしまう。
 韓国人は当時、少なくとも朝鮮を代表し、或いは朝鮮の一大勢力であった彼らの真実の姿を見ようとせず思考停止してしまうのだ。

 確かに、朝鮮併合に対し反対した朝鮮人も多くいたことは想像に難くない。
 この意味で、朝鮮併合反対の延長線上にテロリスト安重根が存在したことも十分理解出来る。
 だが、だからといって安重根のようなテロリストを聖人君子のように崇拝し、そのテロ行為を賞賛するが如きは極めて危険極まりない ものであり、また元勲、伊藤博文をテロによって失った日本への挑発行為でもある。

 韓国人も理性が今だ存在するならテロリストを賞賛する自国のあり方をもう一度考え直すべきである。
 そしてまた、 李完用のように朝鮮の未来を考え、 日本との併合を推進した朝鮮の先人達も多く存在したことを韓国人は忘れるべきではない。
 今現在の韓国人がどう思うと、 彼らは朝鮮の未来のために命を懸けて戦ったのである





( 2010.08.18 )
 

 日本の歴史教育では、小学生段階から日清戦争を扱い、日本はこの戦争に勝って清から賠償金を取り、台湾を日本の領土にしたことを教えているが、日本が日清戦争をたたかった真の目的を教えていない。

 戦争に勝った国は、講和条約の最初の条文にその国が最も欲することを書き込む。 日清戦争の戦勝国である日本が日清講和条約( 下関条約 )の第一条に書き込んだのは、領土でも賠償金でもなく、「 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス 」 という文言だった。 日本が最も求めていたのは、朝鮮国の清国からの独立だったのである。 なぜか。


半島に自主独立国家を期待

 欧米列強の脅威にさらされていた明治の日本は、自国の安全を確保するため、朝鮮半島に自主独立の近代化された国家が成立すること を強くねがった。 福沢諭吉は次のように論じた。

 「 いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。 この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。 近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬかれないからである 」

 日本、朝鮮、清国という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでもわが家に等しい石造りの家をつくらせることが必要である、というのが福沢の考えであり、明治政府の考えでもあった。 近代日本の置かれた立場を理解させない歴史教育は教育の名に値しない。


朝鮮語を 「奪った」 との謬論

 李朝時代の朝鮮 が「 粗末な木造家屋 」 であったことは、朝鮮の外交顧問であったアメリカ人のスティーブンスさえ、日露戦争のあとで、次のように述べていたことからわかる。
 「朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財産を略奪している。 そのうえ、人民はあまりに愚昧ぐまいである。 これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう」
 朝鮮の近代化は、日韓併合後の日本統治によって初めて実現した。 日韓併合100周年に当たっての菅直人首相の謝罪談話を推進した仙谷由人官房長官は8月4日、日本の 「植民地支配の過酷さは、言葉を奪い、文化を奪い、韓国の方々に言わせれば土地を奪うという実態もあった」 と発言した。 あまりの無知に開いた口がふさがらない ここでは、日本が朝鮮人から 「言葉を奪った」 という官房長官の妄想についてだけとりあげる。

 日本統治時代、朝鮮半島に在住した日本人は、人口の2%に過ぎない。 2%の人間がどうして他の98%の人間から、土着の言葉を 「奪う」 ことができるのか。

 仙谷氏は、日本統治下の学校で日本語が教えられたことを、誤って朝鮮語を 「奪った」 と一知半解で述べたのかもしれない。 それなら、この謬論びょうろんを粉砕する決定的な事実を対置しよう。

 韓国人が使っている文字、ハングルを学校教育に導入して教えたのは、ほかならぬ日本の朝鮮総督府なのである。

 李朝時代の朝鮮では、王宮に仕える一握りの官僚や知識人が漢文で読み書きをし、他の民衆はそれができないままに放置されていた。 ハングルは15世紀に発明されていたが、文字を独占していた特権階層の人々の反対で使われていなかった。 それを再発見し、日本の漢字仮名まじり文に倣って、 「漢字ハングル混合文」 を考案したのは福沢諭吉だった。


先人の苦闘の歴史冒涜するな

 朝鮮総督府は小学校段階からハングルを教える教科書を用意し、日本が建てた5200校の小学校で教えた。 日本は朝鮮人から言葉を奪うどころか、朝鮮人が母国語の読み書きができるように文字を整備したのである。

 併合当時、韓国の平均寿命は24歳だったが、日本統治の間に2倍以上に延び、人口の絶対数も倍増した。 反当たりの米の収穫量が3倍になり、餓死が根絶された。 はげ山に6億本の樹木が栽培され、100キロだった鉄道が6000キロに延びた。 北朝鮮が自慢げに国章に描いている水豊ダムは、日本が昭和19年に完成させた、当時世界最大級の水力発電所だった。

 これらのめざましい発展は、統治期間に政府を通じて日本国民が負担した、現在価値に換算して60兆円を超える膨大な資金投下 によってもたらされた。 本国から多額の資金を持ち出して近代化に努めたこのような植民地政策は世界に例がない。 日本の朝鮮統治はアジアの近代化に貢献した誇るべき業績 なのである。

 日韓併合100年の首相謝罪談話は、このような歴史的事実を無視した虚偽と妄想の上に成り立っている。
 それは、わが国の先人の苦闘の歴史を冒涜ぼうとくするものであると同時に、日本統治下で近代化に努力した朝鮮の人々の奮闘をも侮辱するものであることを忘れてはならない。





( 2010.08.16 )


 今年は日韓併合100年記念ということで、韓国で日韓併合条約無効論が盛りあがりを見せ、日本の非良心的・反進歩的知識人が5月に、それに同調する声明を出した。 今回、自信喪失内閣が、首相談話で 「無効」 論に荷担しなかったことは、ひとまず慶賀しなければなるまい。




 遠く異朝をとぶらえば、朝鮮王朝などという王朝はなかった。 朝鮮国の李朝である。 この李朝は高麗武将のクーデターによる簒奪さんだつ王朝である。 国名は明に決めてもらった。 米ハワイ大学図書館には朝鮮から中国への書状の写しが残されているが、17世紀から18世紀までの4人の王の賀状が含まれている。 即位の年には、 「朝鮮国、権署国事、臣李某」 から始まり、 「国事をかりに処理する臣下の李」 とはっきり書かれている。朝鮮は中国の属国 であった。

 19世紀に入り、日清戦争の結果、下関条約により朝鮮は独立し、大韓帝国となった。 その後、1910年に日韓併合されて日本植民地となるのだが、2001年の国際会議で英ケンブリッジ大学の国際法学者、J・クロフォード教授が主張されたように、 強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない

 しかし 韓国では、併合条約は強制されたもので、不義不当であり、ゆえに不法無効であると言いつづけている。 無効では勿論もちろんないが、かりに無効だとすれば、かえって困ることになるのではないか。 下関条約以降、今日までずっと独立国だったということになる。 さすれば、当時の大韓帝国の主権であった王権は一体いつ消滅したのか 民権にいつ移行したのか。 27代の王、純宗が1926年に逝去する。 子の李垠は戦後まで王宮に帰らなかったので、純宗の死と共に王権は消滅したのである。 大韓民国が民権をもってスタートするのは、1948年の建国以降であるから、それまでの22年間、主権の空位が生じてしまう。 「日本国権署国事期」 とでもするのであろうか。




 韓国の歴史が不幸であったことは認める。 中国の属国から、近代日本にもぎ取られて植民地となり、国権は失ったものの、ようやく白衣貧窮の古代経済から解放された。 年平均3.7%の経済成長を遂げ、近代日本によって移植された民法典と私有財産制は朝鮮人すべての財産を守った。 コメは増産され、経済法則にのっとって日本に輸出された。 これらはすべて、韓国の経済史学者らによって実証されたこと である。

 しかるに、戦後、38度線で体制が北と南に分裂した。 北はソ連の傀儡かいらい国家から始まり、主体思想により自立の道を歩もうとしたが、経済の不振はふたたび朝鮮を中国の半属国の地位におとしめてしまった。 中朝の歴史をフラッシュバックするように、北はしょっちゅう中国へお伺いを立てに行く。

 韓国は一層努力した。 前身は、属国と植民地だけの歴史である。 独立は自力で勝ち得たものではなく、アメリカから棚ぼた式で降ってきた。 そして三方を海に囲まれ、北方には行けず、いわば 「島化」 したのだが、この困難な状況下で国民国家として何とか自立しなければならなかった。 そのため他律性そのものであった歴史を自立的な歴史に書きかえようと奮闘した。 それを 日本の左派学者たちが虚偽の学説で支援しつづけた。




 彼らは言った。 朝鮮の農村マニュファクチュアは1860年代に成立していた、と。 日本では桜田門外の変の頃である。 あり得べくもない話だが、 その資本主義の萌芽ほうがを植民地日本が摘んでいったのだと、 韓国の左派学者は主張した。 ちなみに現在のイギリス史では、 農村マニュファクチュアが資本主義の萌芽になることを既に否定している。 毛織物では寒い地方しか着ないから販路が狭すぎる。 独立自営農民たるヨーマンは、 もうけると皆地主になった。 資本主義は綿織物をもってインドとの三角貿易に従事したジェントリーが起こしたものである。 これを現在のイギリスで 「ジェントルマン資本主義」 と称している。

 韓国は立派に資本主義国家として自立し、 歴史上初めて中国の影響下を脱することができたのである。 最早もはやこれ以上、 歴史を改竄かいざんする必要がどこにあるのだろうか。

 もうよい、韓国人よ、正気にもどれ!
 韓国の歴史教科書がひどい内容であることは、韓国の心ある人々はもうみんな知っている日本人も、非良心的・反進歩的知識人以外はみんな分かっている
 教育がこれ以上悪くなれば、 推計300万といわれるアメリカ等への脱南移民はさらに増えることだろう。 タイムマシンに乗ったつもりで、 過去の事実を書きかえれば書きかえるほど、 現在との矛盾に苦しむのはむしろあなた方なのだ。

 最後に、 日本人の優しさから今回貴重な図書を渡すが、 どうか行方不明の例をこれ以上作らぬよう、 保管力を是非高めていただきたい。





( 2010.08.27 )


 韓国併合( 日韓併合 )条約は1910年8月22日に調印され、同29日に発効した。 併合100年を機に菅直人氏の首相談話が、過日発表された。 往時の日韓関係についての事情を顧みることなく、謝罪自体を自己目的としている がごとき談話 であった。




 「 当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。 …… この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのおびの気持ちを表明いたします」

 ここまで踏み込んでいいのか。 談話はさらにこういう。 「 私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。 歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います」

  併合条約を有効だとする日本が、条約自体を無効だと言い張る韓国に謝罪の言葉をいくら積み上げたところで、相手を満足させることなどできはしない。 道義において自国がいかに劣っていたかを強調すればするほど、姑息こそくと卑屈にみずからを深くおとしめるだけである。 現在の価値観で過去を論じることのいかがわしさに、もうこのあたりで気づかねばならない。




 李朝時代末期の韓国は、時に清国、時にロシア、時に日本と、周辺の大国に依存しようという 「 事大主義 」 の傾向を強め、自立と近代化への展望を欠いて政争に明け暮れた。 当時の韓国は清国と君臣関係( 清韓宗属関係 ) にあり、韓国内で内乱が起こるたびに清国に派兵を要請した。 日本がこれを脅威と見立てたのは当然であり、清韓宗属関係を断ち切るための戦争が日清戦争であった。

 シベリア鉄道が完成してしまえば、ロシアが朝鮮半島の占領へと向かう可能性は十分にあった。 当時、ロシアは満州( 中国東北部 )に強大な軍勢を張っており、日本人の多くがロシアを「 北の脅威」とみていた。 ロシアによる朝鮮半島の占領は、すなわち日本の亡国の危機である。 そうであれば併合によって韓国の近代化を図り、半島の守りを固めることは日本にとってどうしても避けられない安全保障上の戦略であった。

 日露戦争とは、ロシアの南下政策に抗して、日本が韓国の 「 自由裁量権 」 を獲得しようとして戦った戦争である。 自由裁量権とはいかにも “あけすけな” 表現だが、弱者に 「 安住の地 」 がなかった帝国主義時代の用語法である。

 日本の韓国における自由裁量権は、ポーツマス条約でロシアにより、また日英同盟下のイギリスにより認められた。 さらには日本は米国との間でも、日本が米国のフィリピン領有を承認し、米国が日本の韓国統治を承認するという桂・タフト協定を結んでいた。 日本の韓国統治は幾重にも国際的に承認され、併合への道を阻止するものはなかった。 各国との合法的な条約や協定に則って日本の韓国統治が展開されたのである。




 併合は韓国人にいまなおつづく鬱屈うっくつであろう。 日本人にとってもこんな手荒なやり方ではなく、別の方法を選択することができなかったかという思いはある。 日本が韓国の独立を承認して韓国の近代化を助力し、2国の善隣関係を保ちながら 「 共に亜細亜を興す 」 ( 福澤諭吉 )友邦たりえたとすれば、それに越したことはなかったであろう。 しかし、現時点に立って判断してもそれは不可能事であったといわねばならない。

 1つには、日本の開国維新のような、近代化へと向かう挙国一致の政治的凝集力が韓国の中から生まれてくる可能性を期待することはできなかった。 2つには、相当の軍事力を温存したまま敗北を余儀なくされたロシアが対日報復の挙に出ることを日本人は恐れていた。 日本人がこの恐怖から解放されるには、革命によってロマノフ王朝が完全に崩壊するまで待たなければならなかった。

 韓国は日本の強圧によって結ばされた併合条約は無効だというが、往時の韓国民の中にも自国のみで韓国の近代化を図ることは無理であり、日本との 「 合邦 」 により日本の支援を受けながら近代化を実現するより他なしと考える一群の有力な人々が存在したことは指摘しておかねばならない。 李容九、宋秉畯などをリーダーとする 「 一進会 」 に集った人々である。 統監府の資料によっても参加者は14万人、実際には数十万人に及ぶ当時の韓国最大の社会集団であった。 首相桂太郎をして併合を決意せしめたものが彼らによる合邦への要請にあった。

 しかし、いくらこういった議論を重ねても、併合条約が有効か無効かの議論を日韓で一致させることは期待できそうにない。 ならば、語られるべきは過去ではなく、現在と未来でなければならない。





 日本国は世界でただ一国、植民地に対して国家予算を持ち出した国である
 白人の植民地支配は殺戮と搾取、不統一と無学化がその基本であった。
 宗主国に対する敵愾心や反対行動を抑止するために、土着言語の禁止、教育の停止、集会や団体の禁止などを徹底し、その土地で得られた作物や工業・工芸品、鉱物などは統べて祖国へ送られ、それをもとに奴隷を買うという悪魔のごとき蛮行であった。
 だが日本が進駐した台湾や朝鮮( 現韓国 )はどうか。
 日本は台湾、満州、朝鮮に対して多額の予算を投入。
 学校の建設、インフラの整備、農地の開墾、工業力の発展に尽力してきた。
 また土着言語を尊重し、民族の誇りを教育してきた。
 現在朝鮮にハングル文字が定着しているのも、台湾がアジア有数の工業国に発展したのも、韓国がオリンピックを開催できるほどになったのも、遡れば日本がおこなった徹底した整備と教育に繋がるのである。
 これは日本人が強く持っていた民族の誇りと自立を決して自国に対してのみ用いなかったことを意味し、ひいては民族同士の調和を望んでいた現れでもある。




  


 戦後の韓国人は 「 帝国主義支配36年 」 の 「 加害者 」 として執拗しつように日本を糾弾する。 韓国人は高度な文明に生きてきて日本に文化を与えた善なる民族なのに、低級な日本が野蛮にもその善なる民族に悪逆非道の限りを尽くした、こんなことがあってよいのかとハンを嘆く。 現在の朴大統領は一段と激しく諸外国に恨を嘆く訴えである 「 告げ口外交 」 を繰り広げている。

 韓国や日本の左翼言論人は 「 韓国併合 」 で国王を奪い、主権・生命・土地・資源・国語( ハングル語 )・姓名を奪ったと非難するが、すべては捏造ねつぞうである。 日本人の中にも声高に同様の主張をする学者やマスコミ関係者は多い。 彼らは 「 強制連行 」 「 従軍慰安婦 」 「 南京大虐殺 」 等々と虚偽をネタにして自らの祖国・日本をおとしめ悪者にするばかりでなく、日清・日露・大東亜戦争を侵略戦争と決めつけ、戦前の日本を 「 悪 」 一色に塗りつぶす。 そんな歴史教科書で日韓両国は教育しているのが現状である。

 しかし、 「 韓国併合 」 は植民地支配ではない。 「 植民地支配 」 は英語ではコロナイゼーション( Colonization )といい、虐殺・略奪・収奪する支配を意味し、原住民の生活向上という精神はなく絞り取るだけである。 それに対し、 「 併合 」 「 合邦 」 は現地の人々の生活向上を目的とし、アネクゼーション( annexation )と表現する。

 例えば、英国のイングランドはスコットランドを併合したのである。 日本は中世の生活であった韓国を日本人並みの生活に向上させようとしたのであり、言うならば 「 収奪型 」 ではなく 「 投資型植民政策 」 というべきである。 お米の生産高も人口も倍増している。

 両者は異なる概念であるにもかかわらずわざと混同させ、台湾も韓国も植民地支配し、収奪・略奪したと糾弾する。 ならばなぜ、台湾国民は日本に感謝しているのか、日本は韓国にも台湾同様多額の国家予算をつぎ込み、5千余の小学校や大学、治山治水、電気、病院、鉄道・道路・港湾を作り、 「衛生観念を育成し世界一不潔な首都」 ( 英国の女性旅行家・イザベラ・バード )を市内電車が走る近代的都市にし、韓国の近代的国家づくりに努力したのである。




Link

 
[ 寄稿 ] 日本の植民地時代を顧みて
 
韓国併合を決定づけたもの
 
日韓併合は言われるほどの 「悪」 だったのか?
 
合邦は 「七奪」 どころか七大貢献だ