「千年属国」

 韓国人の歴史歪曲捏造は余りにも酷く、目に余るものがある。 これが日韓の感情的なもつれの根本的な要因であり、双方に摩擦を生み出す元となっているのだ。
 韓国人はよく日本の歴史歪曲を指摘するが実際は韓国で教えられる歴史こそがそもそも歪曲と捏造に満ちたものだから話にならないのである

 近代史からの因縁の日韓の歴史の齟齬は 「日本は朝鮮の独立を奪ったのか?」 という点から始まる。
 結論から言うが、奪ったも何も、元々朝鮮は中国歴代王朝の千年属国 であり、主権さえ認められていなかった国なのだ

 日本が下関条約の第一条で初めて朝鮮の中国からの独立を明記するまで、千年の長きに渡り朝鮮は、中国の属国となっていた事実 を、韓国人達は決して認めたがらない。
 その千年属国の真実を示すこと で韓国人の歴史認識がいかに歪曲されたものであるかを証明したい。





 朝鮮の歴史を紐解くと、初期の高麗朝を除きほぼ全てに渡って中国歴代王朝の属国としての地位に甘んじてきた。
 その有様は、事大主義( 小国が大国に媚びへつらって生きていく主義 )に代表されるように千年属国朝鮮の悲惨な姿を現している。
 しかしながら 当の朝鮮は事大主義に生きることを選択し、それを誇りとしている のだから何をかいわんやである。

 朝鮮のこの事大主義は、時には何と朝貢を受ける中国王朝の方が、迷惑がる事もあった。
 例えば、宋の時代に、宋王朝は北方の契丹人や女真人に国境を脅かされており、その為莫大な貢ぎ物を契丹人の遼王朝、女真人の金王朝へ送ることにより国境の安定を図っていた。 ところが、こんな時代でも当時の朝鮮高麗王朝は、宋に対し朝貢と册封を要請しにきたのである。 自分から宋に朝貢させて欲しい、册封して欲しいと頼んでくるなど、これぞまさに 筋金入りの属国根性 である。 宋王朝は先の北方の強国から誤解を受けかねないと、この朝鮮の朝貢に難色を示したことが当時の史書に記されている

 さらに朝鮮の事大主義は益々エスカレートしていく。
 高麗王朝から王位を簒奪し、李氏朝鮮初代の王となった李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの 明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。 この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号 「朝鮮」 と李成桂の生地 「和寧」 の2つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から 「朝鮮」 の国号を使うことを許されている。
 世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ1ヵ国である。
 本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。

 さて、韓国人が誇るものの中に 「東方礼儀の国( 邦 )」 とういう朝鮮を指し示す言葉がある。
 この言葉の本当の意味を知っている韓国人は少ないのだが、これは中国王朝から朝鮮へ贈られた言葉である。
 ち、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽くしてきた朝鮮へ中国が上記の 「東方礼儀の国」 という言葉を贈ったのである。
 直訳すれば 「中国の属国として礼節を尽くした国」 という意味なのだが、この意味を韓国人は全く理解していないのが、皮肉である。
 中国王朝の属国における歴代国王は、原則皇帝の臣下と見なされる。 朝鮮国王は中国皇帝によって任命され、中国の朝廷は朝鮮の王妃や王太子の廃立に至るまで、その権限を振るうことが出来たのである。

 ちなみにこの当時、朝鮮を実質的に指揮監督していたのは、中国王朝の北洋大臣や直隷総督などである。
 つまり国王というのは形ばかりのものであって、決して主権国家の元首として扱われていたのではないのである。

 さらに朝鮮国王の中国王朝からの使節の出迎えは余りにも屈辱的である。
 満州人の使節が来ると、朝鮮国王は自ら高官を引き連れて 迎恩門まで歓迎に赴いて、地面にひざまずいて使節に敬意を表し、宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった。王太子は慕華館( 迎賓館 )で使節に酌の礼をするのが最大の役目だった。

 ここまでくればこれ以上の説明は必要ないだろう。誰がどう見ても朝鮮は、中国の属国若しくはそれ以下の扱いを受けていたのである。現実に 韓国以外の各国では歴史の教科書で、朝鮮関連の記述( これ自体殆ど記述されていないのだが )において、全て例外なく 「朝鮮は中国の属国であった」 と記している。

 韓国が敬う中国でさえ朝鮮が中国歴代王朝の属国であったと明示している。
 韓国がよく引き合いに出す亜細亜のみならず世界各国が朝鮮は中国の属国であると認めているだ。

 確かに、他国の属国であったという歴史は不快なものであろう。だがそれは決して恥じることではない。
 現に、日本の殆どの歴史学者の言によれば 「もし、日本海という壁がなければ日本も朝鮮のような中国の属国となっていただろう」 と明言している。
 これはまともな教育を受けた日本人なら誰もが認めるところだ。
 運悪く海という壁がなかった朝鮮は、中国の属国として生きるしかなかっただけであり、それを認めることは何の恥でもない。いや、真実の歴史を覆い隠そうとすることこそが恥なのである

 千年属国として余りにも歪みきった朝鮮民族の精神は、日本によって独立を得られた100年では矯正出来ないかも知れない。
 だが、事大主義・属国根性に染まった現代の韓国人の精神を健全なものとするには、まず 最初の一歩として歴史の事実を認めることから始めなければならない のである。
 韓国人よ、今、歴史の事実を認めることができないのなら、 「亡国」 の道しか残されていないのだ。






 ソウルに 「独立門」 ( 地下鉄3号線 )という駅がある。 名前の由来はズバリ、 「独立門」 ( トンニッムン )があるからだ。 韓国の史跡第32号である。

(1) 近年の 「独立門」 (2) 1898年竣工直後の 「独立門」

 先だって、30歳代の韓国人女性に尋ねた。 彼女はソウル市内の中学校で、日本語を教えている。
  「『独立門』 って、どこの国からの独立の意味か、知ってますか?」
  「日本からの独立? そうじゃないんですか?」
 予想通りの答えだった。 僕はこう説明した。
  「違いますよ。 独立門が建てられたのは1898年。 つまり日清戦争の後。 日清戦争に日本が勝利したとき、韓国が中国の支配から解放され、その記念として造られた門 なのです。 当時、あそこには 『迎恩門』 と言って、中国からの使節を迎える門が建っていました。 それを開化派の 『独立協会』 の人たちが壊し、自主独立の決意を込めて 『独立門』 を建てたのです。 だから、日本からの独立( 1945年 )とはまったく関係はない のです」

 中学の先生でこういう状況だから、 「独立門 = 日本からの独立門」 と誤解している韓国の若者は、少なくないようだ。
 日清戦争後に建てられた 「独立門」 、 なぜ独立なのかは、清から独立した( …… と言うより、中国の支配から解放された )からなのです。

 1898年竣工直後のもう一枚の写真があります。

 …… で、その前にある石柱が残っているでしょ?
 それが何の建造物の跡かと言うと …… 『 迎恩門 』 なのです。

 清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門なのです。
 ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて ( 九叩三拝という屈辱的な礼 )、ひれ伏し、清の使者を迎えました。
 朝鮮は屈辱の歴史を隠蔽するため、
 迎恩門を取り壊し、同じ場所に独立門を立てたのです。
 しかし 「朝鮮王朝屈辱の歴史」 、まさにそう呼ぶにふさわしい遺跡が、ソウルには残っていたのです。
 ソウルの南、松坡区石村洞。 地下鉄8号線の石村駅の5番出口を出ると、すぐにソウル銀行があり、そこを左に折れて直進すると左手に公園が見えてくる。 目指す遺跡はそこにあり、その名前は 三田渡碑サムジョンドビ

 時は1636年。
 朝鮮王朝では、仁祖が即位して14年目にあたる。
 中国では、明がまさに滅ぼうとする時期で、清は太宗の時代である。
 文禄慶長の役の後始末も一段落し、ほっとした朝鮮王朝であったが、ここに新たに勃興してきた清の太宗が攻め込んできた。
 朝鮮の仁祖は基本的に親明であったが、清の攻撃をまともに受け、ソウルもあっさり陥落。
 仁祖は、ソウルの南、現在のカンジュ郡にある南漢山城に籠城し、40日間抵抗を試みた。 しかし、ついに耐えきれなくなり、1637年、現在のソウル市松坡区三田洞で、空しく降伏することになる。
 その時に清の太宗が要求したのが、九叩三拝という屈辱的な礼だ。 要するに、頭を地にこすりつけて、土下座して謝ったのである。
 それに飽き足らない太宗は、朝鮮王朝がこれを忘れないようにと、わざわざ、モンゴル語、満州語、漢語の碑文を作って、その場所に建てさせた のだ。 (エグぅ~)

 碑文は、もともと、現在の場所から少し離れたところにあったらしい。 その後、1895年洪水で漢江に流されたが、1913年に、日帝の陰謀( ? )によって復活。
 そして、第二次大戦が終了した1945年に、付近の住民が碑文を埋めてしまう。 やっぱり恥ずかしかったのだろう。 しかし、1963年の洪水で埋めた碑文が再び姿を見せたため、文化財として保護されるようになったという。

 ただ、碑文以外に、石のレリーフが作られていた。 絵を見てびっくり。 仁祖が太宗に土下座している場面が彫り込まれているのである。
 迎恩門はブチ壊しているくせに、わざわざ屈辱の歴史を掘り返して、レリーフまで作ったりして ……、朝鮮人のやることはいまいちよくわからん。






 先ずは古い昔の話で、朝鮮国の公文書。

光緒の年号は 清国の年号 である
光緒11年は日本では明治18年( 1885 )にあたる。

明暦1年( 1655 )朝鮮使来日。 家綱襲封祝賀
 この時の朝鮮国王の国書には明国の年号を記載するのを止めて干支のみを用いている。 当時の朝鮮はすでに清国に降り清国の属国として朝鮮内部の公文書には清国の年号を使用している。 干支のみを使うのは日本向けであった。 寺島宗則外務卿は 「清が韃靼( モンゴル族 )から出ているので 朝鮮がそのことを忌避し、日本には秘するため である。」 と言っている。


 次に最近の話から。
 日本版朝鮮日報( http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/01/26/20040126000072.html )に
朝鮮日報( 2004.01.26 )


最古の太極旗の絵が発見

 太極旗が韓国の国旗として使用された過程を示す最古となる太極旗の絵が発見された。

 1882年7月に米海軍省( Navy Department )航海局( Bureau of Navigation )が発行した 『 海上国家の旗 』 ( Flags of Maritime Nations )に収録されたこの太極旗は、青、赤の太極模様と黒の4卦など、現在の太極旗の原型を保っている。

 これは 「4卦太極旗」 を初めて製作して使用されたとされる朴泳孝パク・ヨンホの渡日( 1882年8~9月 )時期より2~3ヵ月早いことから、多くの関心が寄せられている。

 …… という記事が載っていました。

 朝鮮版朝鮮日報( http://www.chosun.com/w21data/html/news/200401/200401260260.html )にも同じ記事が載っていました。 ……が、写真は以下のものでした。


 なぜか 清の属国というキャプションが、消えてます!
  「隠蔽・捏造・改竄は朝鮮の文化だ!」 と威張らないで、
 大極旗が、清の属国旗である事を隠さず正しく教えましょう。





( 2011.02.08 )
韓国の青少年


 韓国青少年連盟が1月11日から20日にかけて、全国の小・中・高校生1790人を対象に、自己同一性や安保意識に対する実態調査を行ったところ、半分以上の青少年が韓国国旗( 太極旗 )をうまく描けなかったことが明らかとなった。

 調査対象者のうち、89%の青少年が 「韓国人であることを誇りに思う」 と答えたが、太極旗がうまく描けなかったり国歌をうまく歌えない青少年が52%にも達した。 韓国メディアは同結果について、青少年たちの自国への自負心は高いが、国家の象徴( 太極旗 )に対する理解や認識を高める必要があることを説明していると指摘した。

 調査ではまた、延坪島砲撃事件や哨戒艦沈没事件に関して、88%の青少年が 「よく知っている」 と答えており、北朝鮮との対立が韓国社会と経済に悪影響をおよぼすという認識のある青少年が77%に達した。

 一方、韓国行政安全部が2010年6月23日、青少年を対象として実施した朝鮮戦争( 6.25戦争 )がぼっ発した年およびその過程に対する調査で、知っているとの回答はわずか41%にとどまった。 青少年連盟は、 「延坪島砲撃事件後、国家安保に対する青少年たちの関心と価値観が大きく向上した」 との見方を示している。

 韓国メディアによると、創立30周年を迎える青少年連盟は、高まっている青少年たちのアイデンティティや共同体意識をより正しい方向に導くため、 「太極旗を愛する運動」 、 「竹島( 韓国名:独島 )を愛するキャンペーン」 などの愛国活動を全国的に推進する計画だという。





( 2011.08.15 )



 韓国の教育専門インターネット新聞の 「ニュースエデュ」 と克己訓練団体の 「海兵隊戦略キャンプ」 は15日、小中学生310人を対象に行った調査で、7割以上の学生らが太極旗を正確に描けなかったことを明らかにした。 複数の韓国メディアは、同件について 「衝撃だ」 と相次いで報じた。

 報道によると、両団体は7月25日から8月10日まで海兵隊キャンプに参加していた小学生184人、中学生126人に太極旗を描かせた。 その結果、小学生127人( 69% )と中学生73人( 57.9% )が太極旗をうまく描けなかった。 太極旗を正確に描け上げたのは、3割を少し超える程度だった。

 小中学生らは 「描き方を学んだことがない」 という意見や、太極旗の四卦である 「乾坤坎離の“離”」 について良く分からないとして 「太極旗は複雑すぎ」 との意見を明かした。 さらに 「簡単に作り直してほしい、日本国旗は描きやすいのに…」 との意見も上がったという。

 一方、小中学生らにもっとも描きやすい国旗について聞いたところ、一番簡単な国旗として日本国旗を挙げた。 それに次ぎ、フランス、スイス、ベトナムの国旗の順で回答した。

  「海兵隊戦略キャンプ」 の関係者は、小中学生らが成績だけに没頭しており、自国の国旗さえも描けないことを批判し、学校や家庭では青少年らに基礎的な民族観を高めるよう教育すべきとの見解を示した。





「下国の下国」 扱いだった朝鮮王朝

 朝鮮は、 「君子の国( 邦 )」 や 「礼儀の国」 と称されるのを誇りにしているが、それは正しく属国としての誇りに外ならない。
 もともと 「君子の国」 や 「礼儀の国」 とは、宗主国である中国が、天朝冊封体制下の中で臣属した夷狄に対して下賜する褒辞であった。中国では、上国と下国、宗主と属国の礼を忠実に守る国に対して、忠実な属国である証としてこうした称号を与えるシキタリだった。つまり 「礼儀の国」 を現代語訳すれば、 「韓国は中国の属国」 であると言う宣誓なのだ。
 実際、洪翼漢の 「尊周彙編」 によれば、 「列聖相承、世藩職を修め、事大一心」 とある。要するに、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽してきたと言う事だ。中華帝国からすれば、この 「千年属国」 の朝鮮こそが最も忠実な模範属国であった。執拗に抵抗し、一筋縄ではいかないベトナムに比べれば、正しく 「礼儀の国」 そのものだったろう。
 中華帝国の属国に於ける歴代の国王は、原則として天朝皇帝の臣下と見なされ、皇帝によって任命される。天朝の朝廷は、属国の王妃や太子の廃立に至るまで権限を振るう事が出来た。朝貢は中華帝国の礼部が管轄していた。
 属国であった朝鮮王国を実質的に指揮、監督していたのは、天朝の北洋大臣や直隷総督、或いは任命を受けた代理人である。つまり、国王とは形だけのものであり、決して主権国家の元首としての役割は果たしていなかったのだ。
 満州人( 韃靼人・タルタル人 )支配下の17世紀初期の朝鮮半島事情については、ヘンドリック・ハメル著 「朝鮮幽囚記」 に比較的詳しく記述されている。その内容は、ハメル一行の抑留記である。ハメル一行を乗せたオランダ東インド会社の帆船は1653年、バタヴィアから出帆した。そして台湾の台南から商品を積み、日本へ向かう途中、台風に遭い済州島に漂着してしまう。そのまま朝鮮政府に捕われ、1668年にオランダ商館に引き渡されるまで、半島の幽囚となったのである。
 救出後のハメルの報告によれば、朝鮮国王は絶対的権力を持っているが、後継者を決める際はタルタル人( 満州人 )の汗( 王 )の同意を得なければならない。また、タルタル人の勅使や兀良哈( 韓満国境の少数民族:オランカイ )は、年に三回貢物を徴収に来る。朝鮮高官はタルタル人に怯え、ワイロを送って口止め料を支払う。
 朝鮮国王は、満州人の使節が来ると、自ら高官を従えて迎恩門まで歓迎に赴き敬意を表し、宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった。太子は慕華門で勅使に酌の礼をするのが最大の役目だった。
 勿論これは、現在行われている様な、国賓を出迎える為空港に儀杖隊を整列させるといった儀礼とは全く異なる性質のものだった。
 併し、これだけ天朝に尽した朝鮮だが、逆に朝鮮の使節が北京詣でをする際は、朝臣が出迎えの儀礼を受けるどころか、諸侯の礼さえ受けられない粗末な待遇だった。宿泊先も迎賓館などではなく、百官と同じ粗末な宿である。
 そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国の中の下国 であった。天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使節だけは 黒色の丸首の衣 である。
 また、琉球の使節は駕籠に乗って宮廷に入る のに対し、朝鮮の使節は駕籠に乗る事を禁じられていた と、尹の 「渓陰漫筆」 に書かれている。 李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けていたと歎いている。
 何れにしても、韓国人は統一新羅の時代から自ら事大主義である事を決め、属国に甘んじていく道を選んでいたのだ。そして朝鮮は 「礼記」 にある 「天子七廟、諸侯五廟」 の規定を守り、天神( 天帝 )を祈る事を避けて五廟だけを祀って来たのである。
 古礼に従って天神を祀る事が再開されたのは、実に統一新羅時代から1000年余も後の事である。日清戦争後の下関条約により、朝鮮が開放され独立を果たした1896年、国王の高宗が大韓帝国の帝位に就いてからの事だった。
 これこそ、朝鮮が中国の 「礼儀の国」 のくびきから開放された証であり、韓国が 「千年属国」 から開放され主権国家となった象徴であろう。
( 「韓国は日本人がつくった」  黄文雄 著 )



東北大学附属図書館 狩野文庫画像DB
http://www.chosun.com/w21data/html/news/200401/200401260260.html

坤輿萬國全圖( こんよばんこくぜんず )




 イタリア人のイエズス会士、マテオ・リッチ(1552-1610)が、中国でのキリスト教伝道にあたって作製した世界図。鎖国時代の日本にも舶載され、新井白石の 『 采覧異言 』 など、江戸中期の世界認識に絶大な影響を与えた。 リッチは、1584年にヨーロッパ製地図を漢文に移した最初の世界図を作製しているが、これは現存せず、明の高官・李之藻の力添えで1602年に作製した 「李之藻版」 が 「坤輿萬國全圖」 である。 原本は単色であるが、伝来した版本から何本かの写本が作られており、その際彩色が施されるとともに地名の一部は書き改められ、仮名が振られた。 また、版本は六幅より成るが、この写本は東西に大きく2つに分割されている。





 戦後、コリア( 韓国・北朝鮮両国 )は、戦前の日本植民地時代 ── いわゆる 「日帝36年支配」 を事ある毎に引っぱり出して来ました。 それに対して日本も、これ又事ある毎に歴代の総理( 政権 )が 「謝罪」 を繰り返してきました。 しかし、考えてみればある意味でこれは非常におかしな事なのです。 なぜなら、コリアは、668年の新羅シルラによる朝鮮半島統一から ── 1897年、大韓帝国( 旧称・李氏朝鮮 )の成立に至る1200年間、実は 「独立国」 ではなかった からです。 こんな事を言うと、コリア人は逆上するかも知れませんが、残念ながらこれは 「事実」 です。 百済( ベグジェ,くだら )、次いで高句麗( コクリョ,こうくり )を滅ぼし朝鮮半島を統一( 668年 )した新羅は、その過程で東アジアの 「超大国」 唐の軍事力を利用しました。 それが災いして、 「戦後」 、唐は新羅一国となった朝鮮半島を自らの領土にしようとしたのです。 つまり、 「新羅をも滅ぼして朝鮮半島を我が領土に」 と言う訳です。 しかし、新羅の抵抗等によって唐は朝鮮半島の領有( 直接統治 )を断念せざるを得ませんでした。 ただ、その過程で新羅に対して、唐は自らの 「属国」 になる事を呑ませました。 つまり、唐は新羅と言う 「属国」 を通して朝鮮半島を実効支配( 間接統治 )する道を選んだのです。 こうして、唐に始まる歴代支那王朝( 政権 )を 「宗主国」 と仰ぐ 「属国」 コリアと言う関係 ── いわゆる 「朝貢関係」 が成立したのです。

 さて、こうして始まった 「宗主国」 支那と 「属国」 コリアの関係ですが、これは現代コリア人が考える以上に非常に厳しいものでした。 例えば、国王。 コリア( 新羅・高麗・李朝の歴代王朝 )では、たとえ 「世子」 ( 皇太子 )だったとしても、支那皇帝の承認がなければ王位を継承する事が出来ませんでした。 又、コリア王の地位は、支那皇帝は元より、朝鮮駐箚ちゅうさつ官( 支那がコリアに派遣した駐在官で、コリアの政治・軍事全般を監督させた )よりも、 「下位」 でした。

朝貢制度におけるコリア王の地位
( 江戸時代の日本・清朝・李氏朝鮮 三国を例として )

清朝皇帝 
(支那皇帝)
日本天皇
朝鮮駐箚官
(コリアを監督)
朝鮮国王
(コリア王)
─( 朝鮮通信使を派遣 )→ 徳川将軍
(日本国大君)

 次に元号( 年号 )。 日本では一般に 「大化」 に始まった( 実際にはもっと起源は古いのだが …… )日本独自の元号が連綿と現代迄続いていますが、コリアでは支那の元号を使わなくてはなりませんでした。 と同時に、政治・文化全般においても、支那の 「国教」 とも言える儒教思想を規範としなくてはなりませんでした。 更に、朝貢制度によって コリアは支那に定期的に使節団を派遣、支那皇帝への忠誠を再確認させられると共に、膨大な貢ぎ物を献上しなくてはなりませんでした。 こう言った事が数百年も続くと恐ろしいもので、いつしか 「屈辱的」 共言える朝貢制度に何らの疑問も持たなくなり、自らを 「小中華」 と号し、 「本家」 支那以上の 「中華主義」 に徹したのです。 そして、支那( 明王朝 )が満州族の建てた清朝に征服され、漢民族の 「中華」 が死滅すると、 「中華主義の本家( 明王朝 )が滅んだ以上、中華主義を厳格に守るのは我々しかいない!!」 と言う変な使命感を抱き、ますます 「小中華」 に徹してしまったのです。 そして、時代は激動の19世紀を迎えたのです。

 欧米列強による植民地獲得競争の波は、19世紀の中頃ともなると東アジアに迄広がって来たのです。 まず、その標的となったのは東アジアの 「超大国」 清朝でした。阿片戦争(1840-1842)において清朝がイギリスに敗れた事により、 「眠れる獅子」 がその実、 「張り子の虎」 である事が白日の下にさらされてしまったのです。 この事件が契機( 衝撃 )となり、日本は幕末・明治維新と言う難産を経て、近代国家への離陸を果たす事となったのですが、清朝は相も変わらず鈍重な 「眠り獅子」 を決め込み、その 「属国」 である李氏朝鮮( 以下、 「李朝」 と略 )も時代遅れな 「小中華」 に浸ったままだったのです。

 近代国家へ変貌を遂げた明治日本は、欧米列強による東アジア植民地化を阻止する為、隣国である李朝に 「開国維新」 を迫りました。 つまり、日本と李朝が連携して一足先に近代化を達成し、清朝をも加えて東アジアから欧米列強勢力を駆逐しようと考えたのです。 しかし、 「小中華」 に腰からどっぷりと浸かり、両班( ヤンバン:コリアにおける特権階級貴族 )による政治腐敗の極致にあった当時の李朝は、世界情勢 ── 東アジアの植民地化の波が目の前に迫っている事が理解できず、日本との連携を拒絶してしまったのです。 これによって日本は 「対話」 から 「砲艦」 ( 軍事的圧力 )による問題解決 ── いわゆる 「征韓論」 へと方針を転換、明治8( 1875 )年の江華島カンファド事件を契機に、翌 明治9( 1876 )年、日朝修好条規を締結し、李朝を 「開国」 させたのです。

 日朝修好条規を締結した日本は、李朝をれっきとした 「独立国」 として承認しました。 よくコリア人は、 「日帝( 日本帝国主義 )は朝鮮の独立を奪い、挙げ句の果てには韓国併合( 日韓併合 )と言う暴挙に出た」 と声高に主張します。 しかし、当時、清朝は李朝に対する 「宗属関係」 ( 宗主国と属国の関係 )を主張し、欧米列強も李朝を 「独立国」 として認めず、清朝の 「属国」 ・ 「属領」 として認知していました そんな中、日本だけが唯一、李朝を 「独立国」 として承認したのです そんな気持ちを知ってか知らずか、李朝は相も変わらず清朝を 「宗主国」 として仰いだのです。 その後、日本は朝鮮半島政策を巡って、 「宗主権」 を主張する清朝と対立、明治27( 1894 )年、遂に日清戦争へと発展したのです。 結果は日本の圧倒的勝利に終わり、清朝は遂に李朝に対する 「宗主権」 を放棄、明治30( 1897 )年、李朝は国号( 国名 )を 「大韓帝国」、国王を 「皇帝」 と改称し、遂に 「独立」 を達成したのです。

 言い換えれば、日清戦争における日本の勝利が無ければ、李朝は 「独立国」 となれなかった( 裏を返せば、 「属国」 のまま )訳で、コリア人はその事実を直視すべき だと思うのです。

ー 余談( つれづれ )ー
 コリアは、伝説の三韓( 馬韓・弁韓・辰韓 )時代から日韓併合に至る長い歴史の中で、二人の 「皇帝」 を輩出しました。 李氏朝鮮 改め 大韓帝国の高宗( 第26代 徳寿宮李太王:在位 1863-1907 )・純宗( 第27代 昌徳宮李王:在位 1907-1910 )父子です。 しかし、この2人の 「皇帝」 も、コリア人の憎むべき存在 ── 「日帝」 ( 日本帝国主義 )が李朝を 「独立」 させなかったとしたら、この世に存在し得なかった訳で …… 「歴史」 とは、何とも皮肉なものです。

 

参考文献




江戸図屏風( 江戸時代に描かれた江戸の様子 )
朝鮮通信使の部分を拡大

さらに拡大2( 城に入る朝鮮通信使達 )


この絵から分かる朝鮮通信使の真実
江戸の庶民達は朝鮮人を見世物のように見ている。 日本人と違う服を着た珍しい奴等が来たと思って見ていたのだろう。
中央の赤い物がある部分に注目。 朝鮮通信使達が日本の将軍へ朝貢するための贈り物を出して準備している。 虎の毛皮や陶器など。
朝鮮通信使達が城へ入る門に注目。 裏門である。江戸の城や大きな家には門が多くあり、人の位により、入場できる門が変わる。 下の大きな門を見て欲しい。 位の高い人は下図(↓)のような門から入る事になる。



 朝鮮通信使達は日本へ朝貢に来る 「下の民族」 として日本からの扱いを受けていた。 朝鮮通信使達が城に入っている門が裏門である事を見れば理解できる。

 日本の一部の儒教の関係者だけが朝鮮通信使に寄って行った。 しかし他の日本人達は見世物として見ていた。 韓国人は朝鮮通信使に多くの日本人達が 「文化を教えてくれ!」 と近寄って来たと妄言を言うが、大きな間違えである。

 朝鮮通信使は日本へ朝貢するために来ていたのである。 日本の将軍が交代する毎に、贈り物を持って、何度も長い距離を歩いて、朝鮮と江戸を往復した事を考えれば理解できる。

 ありがとう、朝鮮朝貢使!!