大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
外国への侵略と被侵略


韓国人は「 韓国( 朝鮮 )はこれまで他国から侵略されたことはあっても、他国を侵略したことは一度もない 」と主張し被害者の面を強調するが、加害国として日本に攻め込んだ過去もある。隣り合う国は侵略したり侵略されたりするものだ。
「 日韓共鳴二千年史 」名越二荒之助 平成14年 名成社
韓国の歴史教科書にみる「 他国征伐 」の記述

韓国の中・高用教科書は、まず高句麗の最盛期を築いた広開土王( 374−412 )の侵略行為を讃えているのです。彼は百済を圧迫し、朝鮮半島に拠点を築いていた日本を追い払い、満州一帯から沿海州まで領土を広げ、大帝国を建設した、と誇らしげに書いているのです。韓国人に聞けば広開土王は韓国十大英傑の一人です。大王の業績は、かつて高句麗の旧都であった吉林省( 満州 )に建つ「 広開土王碑( 好太王碑 ) 」( 高さ6、3メートル、朝鮮最古最大の碑 )に刻まれています。その碑文には、「 百済征伐 」の模様が最も大きく書かれています。広開土王と秀吉は、時代は変わっていても同じことをやっています。広開土王は成功して大帝国を創りましたが、秀吉の場合、緒戦は華々しかったのですが、最後は撤退してしまいました。その他教科昔の中から韓国が行なった他国への「 征伐 」用語を紹介しましょう。

  ( 1 ) 前後5回にわたる蒙古( 元 )の侵攻に耐えた高麗でしたが、攻略されると、高麗は元の尖兵となって日本に侵攻( 2回 )してきました。韓国の教科書は、元は日本を征伐するために、高麗の軍隊を徴発した 」とか、「 元が日本征伐のために開京に征東行省をその後も残した 」というように、元の立場で書いています。
    その他「 征伐 」用語を拾えば、
  ( 2 ) 崔瑩( さいえい )による倭寇征伐( 1376年 )
  ( 3 ) )朴○( ぼくい )は倭寇の巣窟である対馬を征伐した( 1389年 )
  ( 4 ) 崔瑩笙による遼東征伐( 1392年 )
  ( 5 ) 清から要請され、満洲北部に侵攻してきたロシア勢力を撃退するため、わが国は2回にわたって鳥銃部隊を出動させた。これを「 羅禅征伐 」という( 1650年 )
    以上のように「 征伐 」用語はたびたび出てきます。

「 韓国はこれまで他国から侵略されたことはあっても、他国を侵略したことは一度もない 」とよく聞かされました。ところが、韓国の国定教科書『 国史 』は、他国に「 遠征 」し、他国を「 征討 」し、領土拡張に奔走していることを誇らしげに書いているのです。自分のことは棚にあげて、日本にだけ訂正を要求するのは如何なものでしょうか。一方、日本側も抗議されたからといって、それに従うのは卑屈というものです。相互の立場を理解した対等の交流こそ、親善を深めることをお互いに知りたいものであります。

「 龍を気取る中国 虎の威を借る韓国 」 黄文雄 1999 徳間書店
外国を侵略したことが一度もないという自慢話も大嘘である。北方諸民族は、たいてい一度は長城を越えて京師を占領、あるいは中国を征服して王朝をつくったことがあった。唯一それをしなかったのが韓人である。韓人にとってはくやしい史実かもしれないが、力が及ばなかったというのが本当のところだろう。それでも、外国への侵略をまったく行わなかったわけではない。

新羅時代に新羅人はよく日本列島を侵寇していた。もしそれが侵略ではないとしても、韓国の教科書では、元寇を日本「 征伐 」として教えている。そのとき日本を侵略したのは高麗軍だった。高麗軍が壱岐対馬を襲ったときは、島民を虐殺して200人の童男童女を強制連行し、忠烈王と公主に献上した。高麗軍への評価には尾ヒレがつき、モンゴル軍に抵抗したことで日本が征伐されるのを救った。日本が無事だったのは、高麗軍の働きがあったからだと嘘の歴史を教えている。

高麗朝にはユンクアンの女真征伐や李朝時代の「 応永の外寇 」( 1419年 )のように対外侵略もあったが、李朝では朝鮮人の満州人いじめから起こった満州人とモンゴル人の逆襲や復仇のための戦争である「 丙子胡乱 」で、朝鮮は清の属国になった。しかしその後も、満州人とともに2回の羅禅( ロシア )遠征や3回の明への侵略を行った。後述するが、明人を大量虐殺したのは、朝鮮軍だったのだ。

第二次大戦後も韓国軍は米軍の先頭に立って海外派兵を行い、ベトナム戦争ではベトコン叩きに躍起になったのだった。

事大したアメリカに従ってベトナム派兵し凄惨を極めた韓国軍の戦いぶり
ベトナムの韓国兵 『 週刊アンポ 』第6号( 1970年1月26日号 ) 亀山 旭
◆この事件はベトナム人が韓国をどう思っているかがよくわかる

 サイゴンの中心街の一角にBというバーがある。その薄よごれた店でみた体験から紹介しょう。

 私が最初にサイゴンに赴任した年の、雨期明けの近いころだったから、多分六六年の十月初旬だったと思う。雨期明けが間近いことを知らせる強い雨が降っていた。まだ宵のくちだったが、そこで若い韓国の兵隊と米兵との間で争いが起きた。まだ童顔の韓国兵はアオザイを着た小がらなホステスの肩を抱いてベトナムビールを飲んでいたが、カウンターに坐っていた米兵( 前線帰りであろう。カウンターの上にライフルを置いていた )が彼女を強引に自分の隣りに坐らせてしまった。きまじめそうな韓国兵はかなり上手な英語でしきりに抗議していたが、そのうち振り向いた米兵にあっという間になぐり倒されてしまった。起き上った韓国兵をこんどは数人の米兵がなぐる、蹴るの暴行を加えて、店の外にほおり出してしまった。

 泥まみれになった韓国兵はそれでもまだ店に入ってきて、大声で叫び始めた。「 私はなにも悪いことはしなかった。こんなひどいことがあるか。アメリカ兵の皆さん、あなた方は見ていただろう。どっちが悪いのか 」――。その兵隊は口惜し泣きに泣きながらなおも訴え続けた。彼は、韓国兵はなにも好きこのんでベトナムにやってきたのではないと言った。米国の要求でベトナムに来て、旧式な兵器で、何分の一かの給与で戦わされている。米国のために血を流しているのにこの仕打ちはなにか――。

 米軍と韓国軍のMPがやって来た。そして彼は韓国のMPになだめられて店を出ていったのだが、私に不可解だったのは二十人ばかりいたベトナム人のホステスたちの態度であった。彼女たちの多くはデルタや中部から戦火を逃れてサイゴンに流れこんできた難民だったが、その多くがこの、“哀れな”韓国兵を嘲笑し、バトウしたのである。兵士の訴えに対し、彼女たちは口々にののしり、彼が出ていくと喚声を挙げたのだった。非は明らかに米兵にあり、たとえ彼の訴えを理解できなくても、韓国兵は同情されるべきだった。しかし私の横にいたホステスは「 なにも韓国兵がベトナム人を殺しにベトナムにやって来る必要はない 」と冷やかにいいのけた。

 この事件はベトナム人の韓国に対する感情を知るうえで象徴的な事件のように思われる。私は前後二回、二年半にわたるサイゴン特派員の経験を通じて、ベトナム人の対韓国感情が左右いずれの立ち場を取る人にもこのうえなく悪いことをはっきりと知った。解放戦線に近い人たちは当然だとしても、学生、仏教徒、ジャーナリストから反共の政治家、そしてバーのホステスにいたるまで韓国人をきらう。彼らがどんなに勇敢に戦い、学校を建て、道路を建設しても、ベトナム人に心から受け入れられることはほとんどない。私は一年余り、ソウル特派員をした経験から、韓国人特派員にも友人が多かった。それで私は支局に出入りするベトナム人に対して、なぜ韓国人の友人が多いか、そして韓国人一人々々には秀れた人たちも多く、韓国軍のベトナム派兵についても当時ほとんどすべてのジャーナリストが反対したのだと説明しなければならなかった。

◆韓国兵の闘いぶりは“少し殺しすぎた”

 ベトナム人は誇り高い民族である。彼らは韓国軍が米国の経済援助と引き換えにベトナムにやってきたのに、反共十字軍といった気負い立った“正義感”で戦い、行動していることに強い反発を感じるようである。そしてまた本質的には住民をまきこんだ政治闘争というベトナム戦争の特殊性のなかで、せん滅作戦を続けた韓国軍は住民の心に致命的な傷あとを残した。

 現在南ベトナムにいる韓国軍部隊は歩兵二個師団( 猛虎、白馬 )海兵一個旅団、補給一個旅団、それに工兵隊の計五万五千。猛虎師団の先遣部隊が初めて中部ベトナムのビンディン省クイニョンに上陸したのは六五年十月だった。当時ビンディン省から、その北のクアンガイ省の豊かな農村は解放戦線の支配下にあったが、猛虎師団は海岸線に沿った一号国道とクイニョンからプレークに至る十九号国道沿いに、激しいせん滅作戦を開始した。この作戦は数カ月続いたが、韓国軍の戦いぶりはせい惨をきわめたようである。私が初めてビンディン省の猛虎師団を訪れたのは六六年八月だったが、クイニョン周辺の村々はほとんどが破壊されつくし、人影はまったくなかった。サイゴンと異なり、中部ベトナムは乾期で、明るい太陽にさらされた無人の廃墟は、いまなお白昼夢のように私の記憶に残っている。

 このときすでにサイゴンでは韓国軍の戦いぶりがベトナム人の間で評判になっていた。韓国軍は解放戦線支配下の村を攻撃するとき、住民もいっしょに殺すとか、娘たちはみんな暴行されたとか、韓国軍の待ちぶせ攻撃で無実の住民が多数殺されたという話しが、ささやかれていた。解放戦線の放送もまた韓国軍による虐殺事件、暴行事件などを連日報じていた。

 猛虎師団の司令部で私は率直にこの間題をぶつけてみたが、ある参謀は解放区の部落を攻撃する場合、敵の発砲があればその部落を潰滅させるのはゲリラ戦の基本だといった。またある大尉は平定状況を説明した際、待ちぶせ攻撃で住民を殺したことはある、しかしそれは水牛を引いた女、子供のあとに解放戦線のゲリラが続いている、かわいそうだが止むを得ないと主張した。猛虎師団は先遣隊が到着した十月かち七月までの間に三十キロ平方の地域を確保したが、この間二千六百人を殺し、六百人を捕虜にしたが、韓国軍の損害は百九十人に過ぎなかった。M広報参謀は「 韓国軍の攻撃ほどこわいものはないと住民はい う。しかしこんどは韓国軍に防衛されればこれほど安心なことはないと思うだろう 」といったが、これも、当初の韓国軍の戦いぶりを示していよう。また猛虎師団に続いてニャチャン地区に進攻した白馬師団は、カムラン、ニャチャン、ツイホア地区の作戦に従事し猛虎師団との戦功争いを開始したが、同師団を訪間した私に一将軍は「 白馬師団は戦いの結果を捕獲した武器の数によって判断する。殺した数で戦果を競い合った猛虎師団は殺し過ぎた 」といっていた。

◆殺しすぎたあとで宣撫工作にはげんでもそれは役にたたなかった

 戦闘が終わり農村を文配すると、韓国軍は住民工作に力を注ぐ。工兵隊が学校を建てたり、橋を作ったり、ときには寺院の改修工事を手伝うこともある。難民たちに残飯を分け与え、医療班は無料で手当てをする。映画会や敬老会を開いたり、また子供たちと戯れている韓国兵の姿も見ることができる。

 治安維持に当たる場合の韓国軍の規律は厳格である。あるとき猛虎師団の一兵士が、村の娘を強姦した。この兵士は軍法会議で死刑の求刑を受けた。死刑はあまりにもかわいそうではないかというわけで韓国のジャーナリズムが騒ぎ出し、結局は本国で刑を受けることになったが、戦闘後の韓国軍の規律は政府軍はもとより、米軍を含む各国部隊のなかでももっともきびしい。

ある韓国兵士がベトナム人の娘に子供を産ませたまま捨てて帰国した。これを知った韓国軍司令部は本国に連絡して再志願の形で再び彼をベトナムにもどし、結婚式を挙げさせた。

 韓国の兵士は月約六十ドル、士官は二百ドル程度の給与を米国から受けているが、ほとんどの兵士たちは故国の貧しい家族たちに仕送りしているので、遊ぶ金はない。サイゴンはともかく、クイニョン、ニャチャンなど彼らの駐留している都市でバーやキャバレーで遊んでいる韓国兵を見たことはなかった。韓国軍の広報参謀たちは同じアジア人であり、朝鮮戦争を経験している韓国軍はベトナム人を理解できるし、その苦しみにも共感を持っており、米軍と異なって民心をつかむことができると胸を張る。

 しかしこれだけ宣撫工作に力を入れ、厳格な規律を維持しても、彼らが農民たちの心をつかんだとは思われない。

 これも六七年夏のことだったが、カンボジア国境に近い中部高原で、防塁を守る韓国軍二個中隊が解放戦線の奇襲攻撃を受け、激しい戦闘を交えたことがあった。解放戦線部隊は鉄条網を突破してなだれこみ、肉弾戦となったが、韓国軍は解放戦線側に打撃を与えて、これを撃退した。この韓国軍部隊にサイゴン政府から勲章が授けられることになり、その生き残りの勇士たちが師団司令部にもどることになった。

 彼らが帰って来る十九号国道には南ベトナム国旗と韓国旗を持った学童たちが並び、これも動員された住民たちが集まった。やがてトラックを連ねて兵士たちが現われた。アオザイを着た娘が、通過するトラックに花束を贈り、学童たちは旗を振って「 ダイハン( 大韓の意 )ダイハン 」と叫んだ。もどってきた若い小尉の破れた戦闘服に、親友らしい同じ小尉がかけ寄った。ことばも出ずにひしと抱き合った二人のほほを涙が流れている。九死に一生を得た戦友を迎える感激的な光景である。私自身、その、感動のなかに引きずりこまれようとしたが、そのとき農民たちの彼らを見る視線に気がついた。いわれるままに旗を振っている子供たちの、背後にある住民たちの目ほど冷い目を私は見たことがない。

◆韓国兵のまじめさが、救いようのない悲劇だった

 私は幾回となく、韓国の士官や兵士たちと話しをする機会を持ったが、彼らは共産主義と戦うために南ベトナムにやってきたのであり、それは、自由諸国の義務だと強調した。またある連隊長は「 韓国が北朝鮮の侵略を受けたとき、自由諸国は国連の旗の下に援助してくれた。こんどはその恩返しだ 」ともいった。しかし公式的な“反共”とか“自由”とか、“民主主義のために”とかといったうたいもん句はベトナムではいかに空虚に響くことか。南ベトナムの農民たちにとってなにが共産主義であり、なにが自由であるかはさして重大な問題ではない。彼らが心から求めていることは反共のために戦い抜くことではなく、家族がなにがしかの田畑を持って平和に過すことである。解放戦線の兵士たちには彼らの息子や娘たちもいる。

 また作戦のたびにニワトリや女の子を追いかけ廻し、水牛を盗んでいく政府軍の兵士たちと、きびしい軍規のなかで戦っている解放軍の兵士たちのいずれが支持を受けけているかは明らかである。それなのに、解放戦線の兵士たちを殺すことに血道をあげ、場合によっては住民をまきこむことも止むを得ないという韓国軍の行動がベトナム人の憎しみを受けても止むを得まい。ベトナムを訪れたある韓国の著名な言論人は「 韓国軍がまじめに戦っているということは一つの救いだ 」といったが、それはまさに逆であり、彼らが共産主義者だと称して、解放戦線の兵士やその家族たちをまじめに殺したことが、救いようのない悲劇であった。

 色の違う米軍に殺されるのと、同じアジア人でドルのためにやってきた韓国軍( 彼らはそう信じている )に殺されるのを、ベトナム人は区別する。韓国軍はヘリや火器に依存する米軍を臆病だといい、政府軍はまったく戦意がないとけなす。そして猛虎師団のようにわずか十カ月の間に一万一千回の待ちぶせ攻撃をしたり洞くつのなかにも飛びこんで、そのなかにひそむベトナム人を短剣で刺し殺す。韓国の特派員たちは本国の新聞に対してこうした韓国軍を“神州鬼没”とたたえ、さすがの“ベトコン”も韓国軍だけには手が出ないと報じたのである。

 確かに政府軍の戦意は低い。サイゴン周辺の作戦に従事していた二十五師団のごときは、一年間に殺した“ベトコン”は百に満たなかった。しかし彼らは同じベトナム人どうしであり、殺し合いを避けることはそれなりに意味があろう。ベトナム人にとって韓国軍の気負い立った使命感やひとりよがりの正義感は、迷惑というより、むしろ憎しみの対象だったといえる。

 韓国軍の戦いぶりは悪意をもって南ベトナムに拡がった。私はサイゴンで一部のベトナム人に韓国軍の規律は厳格だと弁護したことがある。彼らはあなたは一部を見ただけに過ぎず、宣伝だと主張して止まなかった。あるベトナム人記者は私が韓国軍を訪問するといったら態度をかえて同行を断った。解放放送が韓国軍の残虐行為について述べると、ふだんは放送を信用しない反共の人たちすら、それを素直に信じるのだった。

◆金のもうけ方でまた韓国人はよく思われないことになる

 いま南ベトナムには韓国軍のほかに出かせぎに来ている民間人が一万五千から二万人いる。サイゴンの街頭では間断なく韓国人の姿を見ることができる。RMKなどの建設会社などに働く韓国人労務者も多い。高級クラブから売春バーにいたるまで韓国人の客でにぎわっている。またタンソンニェット空港内にあるゴフクラブの外国人メンバーの第一位は韓国人である。

 六五、六年ごろ、まだ少なかった韓国人はバーやレストランでよく日本語を使つていた。日本人ならテロに狙われることもなく、また韓国人よりはベトナム人の受けがいいと考えたからであろう。しかしいまはそんな“卑くつ”韓国人はいない。韓国レストランは増え、そこで韓国ビールが飲める。韓国から輸出された商品もいたるところでお目にかかる。韓国にとって初めての海外進山である。

 しかしこれもまたベトナム人の反感を招いている。タイやシンガポールなど東南アジアでは“醜い日本人”の存在が問題となっているが、ベトナムでは韓国人が“攻撃目標”とされている。

 サイゴンでは一昨年のテト攻勢以降非常時ということでダンスを禁止されているが、韓国人専用の秘密クラブではダンスをすることができる。相手のホステスはすべてベトナム人であり、ネオンもなにもない入り口は同じくベトナム人の警官が警備している。このクラブの上はトルコぶろで、マッサージ・ガールはそのまま売春婦にもなる。このようないかがわしい職種で金もうけに狂奔する韓国人も多く、また韓国軍の兵士たちと異なり、女性関係のいざこざも多いようである。

 このような事態を憂えている韓国人もいる。サイゴン視察に来たある新聞の論説委員は、真剣にベトナム戦後の韓国と南ベトナムの友好が可能だろうかと心配していた。またある韓国人記者は韓国高官のレセプションの席上、毎日何百というベトナム人が死んでいるなかで金もうけに躍起となっている者がいる、だれのための戦争なのかと演説して、本国送還になった。サイゴン特派員のなかでもなにを母国に伝えるべきかについてまじめに考えた人たちもいたが、彼らの書いた原稿の多くは使用されなかったようである。

◆ベトナム派兵で韓国が失ったものは大きすぎはしないか

 韓国の南ベトナム派兵が決定された六四年末、私は特派員としてソウルにいた。厳重な報道管制のなかで、私が打った電報はスクープとなったが、このニュースを確認したときの韓国人記者たちの表情を忘れることはできない。ある政治部記者は「 こんなバカなことが…… 」といって頭を抱えた。某編集局長は私の幾つかの質問に答えず、天井を仰いでただ一言、『 韓国という風船はいったいどこに飛んで行くのかなあ…… 」といった。

 それから数日後、韓国政府はとりあえず支援部隊二千人の派兵を発表しだが、韓国の有力紙はこぞってこれに反対した。朝鮮日報は「 ベトナム派兵と韓国 」という連載記事を掲げ「 これまで朝鮮民族は中国、日本などの長い侵略に苦しめられてきた。しかしいまだかつて他国を侵略したことはなかった 」と報じ、「 この派兵で北朝鮮を刺激し、ベトナムで朝鮮民族が再び戦う恐れがあるのではないか 」と結んだ。

 その恐れはなかったが、これをきっかけに北朝鮮と韓国の緊張は激化し三十八度線の危機は一段と高まったのである。数週間後、ソウル運動場で先遣の支援部隊二千人の壮行会が華やかに開かれ、十月には猛虎師団が出発した。このあと韓国は変わっていく。聖戦、非常時という名の下に言論統制がしかれ、韓国の新聞は、派遣軍と兵士たちの武勇伝で埋まるようになる。南ベトナムの韓国軍を批判したり、ベトナム戦争に反対する者は非国民とされた。日韓条約反対闘争が激しかった六四年、韓国では統一論議がさかんだった。日本との政治、経済関係を強めるよりは、統一を現実的問題として考えようではないかという意見は政府与党にすらあった。しかし統一論議もタブーとなった。

 いま韓国はベトナム特需による一時的な活況を示している。国民所得も上り、ソウルはビルラッシュといわれる。確かにベトナム派兵は米国の経済援助を増やし、六四年にはわずかに総額一億ドルに過ぎなかった輸出を数倍に増やした。

 しかし、派兵によって失われたものがいかに大きいか。今年から来年にかけてベトナム戦争の政治解決が可能になろう。それはおそらく朴政権にとってきわめて不面目な形での解決であろう。いかなる形での解決が行なわれるにせよ、韓国人は南ベトナムから立ち去らざるを得なくなろう。たとえ民間人であっても。

 韓国はベトナム人の心を失った。他国へ軍隊を派遣し、他民族を殺したことの代償は、日本人が三十六年の朝鮮支配の民族的責任から逃れることができないように、韓国人自らが支払わなければなるまい。

「 龍 」を気取る中国「 虎 」の威を借る韓国 1999 黄文雄 徳間書店
明の前朝である元の時代、モンゴル人が高麗朝を支配していたころ、高麗人は競ってモンゴル人の氏名を名乗る「 創氏改名 」が流行り、モンゴル風を学ぶ動きが風靡した。高麗朝の多くの貴族はモンゴル名を持っていた。しかし、モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。明が遼東半鳥に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。そのため、満州人の朝鮮人に対する大規模な逆襲である「 丁卯胡乱 」( 1627年 )と「 丙子胡乱 」( 1636年 )が起こり、朝鮮は清の属国となった。

明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅( ロシア )遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。「 韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝( シナの異称 )、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと… 」( 恒屋盛服著「 朝鮮開化史 」博文館、明治34年 )。

明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。満州では、朝鮮人は「 二鬼子 」として中国人から恐れられ嫌われていた。

壱岐対馬の住民を惨殺し鬼にも等しいと記憶されていた元寇の朝鮮人
SAPIO 2001年9月26日号
「 鬼にも等しい 」殺戮ぶりをつたえる言葉や地名が今も残る 「 蒙古襲来 」で壱岐・対馬を蹂躙した高麗軍の蛮行は忘れられたのか  東北女子大学教授 太田弘毅

日本人は反省していない 」「 歴史の現実を直視せよ 」‐−歴史教科書問題では韓国側から日本への激しい抗議が相次いだ。反省すべき歴史とは、植民地統治ばかりか豊臣秀吉による朝鮮出兵、倭寇などまでさかのぼるという。しかしその一方で、日韓関係史において韓国人による日本人虐殺の歴史があったことは意外と知られていない。蒙古襲来時に起きたその歴史的事件をアジア軍事史を専門とする東北女子大学の太田弘毅教授が遺された史料をもとに読み解く。

13世紀後半に起こった元帝国( 蒙古・モンゴル )による日本侵攻を、日本側では蒙古襲来とか、元寇と呼ぶ。ヨーロッパとアジアにまたがる大帝国を建設した蒙古人は、中国本土にも攻め入り元帝国を創始した。高麗( 918〜1392年、現在の韓国・北朝鮮の位置に存在していた王朝 )を征服後、日本を服属させようと、使者を送ってきたのである。しかし、鎌倉幕府の拒否にあい、武力征服を決意するに至る。第1次蒙古襲来( 文永の役 )は、文永11年( 1274年 )に、第2次のそれ( 弘安の役 )は、弘安4年( 1281年 )に実行された。なお、蒙古襲来の意味は字義の如くである。元寇とは、元帝国が日本へ「 寇 」――あだをなす――するという意で、日本を侵略することにほかならない。

◇女は手に穴を開け縄を通して連れて行った

しかし「 蒙古 」とか「 元 」という表面の文字に惑わされてはいけない。日本を襲撃しその残虐さをもって日本人を恐怖のドン底に陥れた「 元軍 」は、「 蒙古 」人のみから構成されていたのではなかった。日本遠征軍は、蒙古人・高麗人・漢人( 北部中国在住の漢民族、旧金国の支配下にあった )・女真人( 満州人 )により組織されていた連合軍だった。そして、高麗連合日本遠征時には、朝鮮半島から出発した艦船隊の建造に従ったり、兵員や船乗りとして、日本へ来たのだ。そして他の民族よりも日本襲撃に大きな役割を果たした。実際、2回にわたって日本遠征軍を迎え撃った日本軍、あるいは日本人の脳裏には、各民族部隊の中で蒙古人部隊と、高麗人部隊の乱暴狼藉ぶりが深く印象づけられた。そして、蒙古人と高麗人は、鬼にも等しい、と恐怖した結果が、この時に生まれた「 むくりこくりの鬼が来る 」とい、う言葉に表われている。「 むくり 」とは蒙古人を指し、「 こくり 」とは高麗人を意味する( 語源は高麗 )。「 辞苑 」( 博文館、1935年 )を引くと、次のようにある。

  むくり・こくり「 蒙古高句麗 」
  ( 1 ) ( 蒙古及び高句麗の名から来た話 )蒙吉のことを一に蒙古高句麗の鬼が来るといって怖れたから、転じて小児の泣くのを止めるのに「 むくりこくり、鬼が来る 」と威す風習となった。
  ( 2 ) 無埋・非道なさま。この言葉で「 小児 」を「 威す風習 」は北海道を除く日本全国に流布している。また、「 無理・非道なさま 」とあり、極悪非道の人々というイメージが、「 むくりこくり 」には存在する。

このようにして見てくると、蒙古襲来は、高麗襲来とも呼んでもよいし、元寇は高麗寇と言い換えても大きな誤りとは言えない側面をもつ。高麗人の襲来であり、高麗人の侵略でもあったからだ。蒙古人の陰に隠れた形になってはいるが、高麗人の残暴行為を看過してはならない。では、高麗人が行なった残虐行為とは具体的にどのようなものだったのだろうか。これは、「 伏敵編 」所取の「 高祖遺文録 」に、次のように残っている。この「 遺文録 』は、日蓮の遺文を集めた記事集である。

  《去文永十一年( 太歳甲戊 )十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉( そうまじょう )等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取( いけどり )ニシ、女ヲハ或ハ取集( とりあつめ )テ、手ヲトヲシテ船ニ結付( むすびつけ )或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是( またかくのごとし )、》

「 百姓 」=一般人は「 男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ 」ている状況とともに「 女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス 」とある。そして、「 男 」と「 女 」に懸かるのであろうか、「 一人モ助カル者ナシ 」と書かれている。壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた。この史料を取めている「 伏敵編 」には、「 按( あんずるに ) 」として、編者のコメントがある。

  《索( さく=ひも )ヲ以( もっ )テ手頭ト手頭トヲ連結シタルニ非ズシテ、女虜ノ手掌( たなごころ )ヲ穿傷( せんしょう )シ、索ヲ貫キ舷瑞( ふなべりはた )ニ結着シタルヲ謂( い )フナリ。日本書紀天智帝二年紀ニ、( 百済王豊璋嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛( かわうがちたなごころしばる )、 )トアリ、以テ證スヘシ、》

ここでは、高麗の前身の国家である「 百済 」を引き合いに出し「 手掌ヲ穿傷…… 」( 手の平に穴をあけてそこへ縄を通す 」の意 )云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『 高祖遺文録 」の各個所で言及している。

  《皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給( たま )はん事思ひやり候へば涙も留まらず。》( 「 類纂高祖遺文録 」、改題「 類纂日蓮聖人遺文集平成版 」 )

「 涙も留まらず 」とあり、惨劇を悼むとともに、将来の不安の言辞なのだ。また他所で、

  《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒( と )られ或は海に入り或は崖より堕( お )ちし者幾千万と云ふ事なし。》( 同右書 )

とある。なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。「 八幡愚童記 」( 伏敵編 」所収 )には、

  《同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺( あたり )の男女多く捕( とらわ )らる。松浦党敗北す。》

とある。「 男女 」が「 捕らる 」のだから、捕囚され強制連行されたことにほかならない。高麗人部隊も、これに関与していたと考えられる。

◇高麗人への恐怖から親は子どもを殺した

弘安の役時、壱岐・対馬における「 高麗ノ兵船 」による残虐行為は、当時の日本人にとっては衝撃的出来事であった。
そもそも「 高麗ノ兵船 」は、「 高麗 」から出発したところの「 兵船 」の意味もある。だが、やはり「 高麗 」人が多く乗り込んだ「 高麗 」入の「 兵船 」とする解釈の方が、ずっと重いと考えてよいだろう。「 八幡愚童訓 」( 『 日本思想大系}、甲本 )は、弘安の役に参戦した「 国々 」を次のように明記している。

  《弘安四年ノ夏比( なつごろ )、蒙古人、大唐・高麗以下ノ国々共ノ兵ヲ駈具( かりぐし )テ、十万七千八百四艘ノ大船ニ数千万人乗連( のりつらね )テ襲来ス。》

そして、「 国々共ノ兵 」と言い、「 国々 」そして民族の「 兵 」に焦点を合わせている。したがって、「 蒙古人 」の「 兵 」と、「 大唐 」の「 兵 」そして「 高麗 」の「 兵 」という意識が、ここには存する。『 八幡愚童訓は、蒙古人、大唐・高麗以下ノ国々共ノ兵 」として、参加国の兵の国籍を挙げているのだが、明確に唯一つ例示して「 高麗ノ兵船 」の残虐行為を強調する。

  《其( その )中ニ高麗ノ兵船五百艘ハ壱岐・対馬ヨリ上り、見ル者ヲバ打殺( うちころ )ス。人民堪難( たえかね )テ、妻子ヲ引具( ひきぐ )シ深山へ避入処( のがれいる )ニ、赤子ノ泣声ヲ聞付テモ押寄ケレバ、片時ノ命モ惜ケレバニヤ、褊( さしも )愛スル緑子( みどりご )ヲ我ト泣々害シツツ、世ノ中ニ最( もっとも )惜キ物ハ子也( なり )ケリ其( それ )ニ増( まされ )ルハ我身也ケリト詠ジケル、人ノ愛( すさみ )ゾ思出ラルル。是ヨリシテ、高麗ノ船ハ宗像( むなかた )ノ沖ニヨル。蒙古・大唐ノ船共ハ対馬ニハ不寄( よらず )、壱岐ノ嶋ニ着。》

ここでは、日本人狩りをしている元上陸軍の掃討作戦の光景を描いており、自分の居場所を元上陸軍に知られまいと、「 泣々害する( 殺す )あさましい親の姿を、子供にも「 増( まさ )ルハ我身也( わがみなり )ケリ 」と、冷めた文で結んでいる。もっとも、このような行動を、親に採らせるに至ったのは、まぎれもなく高麗人部隊への恐怖なのだ。加えて、逃げ場のない島嶼部という地理的制約が、これに輪をかける。「 蒙古大唐ノ船共 」は、「 対馬ニハ不寄 」して、「 壱岐ノ嶋 」のみに「 着 」と記しているが、これは江南軍主力は別隊の「 高麗ノ兵船 」とは、異なったルートを辿っていることを示している。しかし、単なるルートの差異のみを言っだけではなく、出会った日本人に対する行為にも相違があったとのニューアンスを表現しているようである。「 高麗ノ兵船 」が特に〃残虐的〃だった可能性が高い。

長崎県北松浦郡鷹島町には、蒙古襲来にまつわる地名、あるいは悲劇の話が存在する、弘安の役時、この島の沖を含む伊万里湾・平戸方面で、合同した東路軍・江南軍両艦船隊が大暴風雨によって壊滅した件によって、有名な島でもある。この島は弘安の役も勿論だが、文永の役時にも寇掠を受けていた。地名には、首除・伊野利( 祈り )の浜・刀の元・供養の元・地獄谷・血崎・血浦・胴代・鬼塚・遠矢の原等々がある。また、鶏が鳴いたため元上陸軍に発見され、一家皆殺しにされた開田という所では、今でも鶏を飼わない風習が残っている。
日本による韓国・中国への侵略だけが操り返し糾弾される昨今だが、彼らによって日本が受けた傷跡が今もなお残っていることも憶えておく必要があるだろう。


捕虜の手に穴を開けて縄や針金を通し連行するのは現在まで続く朝鮮の伝統のようだ。
「脱北者の鼻を針金で刺し通して送還 」 朝鮮日報 記事入力 : 2002/04/24 12:31
 今月16日、豆滿( ドゥマンガン )江沿いの中国圖們地方で、制服姿の朝鮮民主主義人民共和国( 北朝鮮 )保安員( 警察 )たちに逮捕された脱北者( 北朝鮮を脱出した住民 )100人余りが、鼻と手を針金で刺し通された状態で、トラックで北朝鮮に連れて行かれたと、現場を目撃したある米国人が23日、明らかにした。

 1990年代後半、脱北者たちが鼻と手を刺し通され、送還されたという噂が流れたことはあったが、これを直接目撃したという証言がマスコミに公開されたのは今回が初めて。

 中国の福建省で合作会社を経営している米国人のビリー( 仮名/45 )さんはこの日、国際電話でソウルの内外信の記者らとインタビューを行い、「 先週の火曜日( 16日 )、圖們のある警察署の庭で、北朝鮮の保安員たちが脱北者100人余りをトラック2台に乗せる場面を目撃した 」としながら、「 脱北者たちの鼻にはリングが刺し通されており、北朝鮮の保安員たちはリングに通した1メートルほどの針金を引っ張って、脱北者たちを建物から連れ出し、トラックに乗せた 」と話した。

 ビリーさんは「 脱北者たちのほとんどは30〜40代の男性で、20代序盤の女性や年寄りの女性、子供も何人かいた。鼻にリングを通されてから時間が経ったのか、血は止まっていた 」とし、「 子供たちは疲れ切った様子で、泣いたり、逆らったりもしなかった 」と話した。

 脱北者たちは針金を刺し通された手を後にし、プラスチックの手錠をかけられたままトラックに乗せられたという。北朝鮮の公安員たちは鼻に刺し通した針金を一々トラックに結びつけたと、ビリーさんは伝えた。

 ビリーさんは「 道行く中国人さえも残酷な状況に顔をしかめた 」と話した。また、中国公安の話として、「 脱北者25人事件の直後、北京から『 北朝鮮保安員に協力せよ 』という指示があった。中国公安の協力を得て、北朝鮮保安員たちが褐色の制服に銃を所持したまま、脱北者の捜索に乗り出している。先月の1カ月の間に、圖們地方などから700人余りの脱北者たちが逮捕され、北朝鮮に送還された 」と話した。

 ビリーさんは、脱北者には最高4万元( 5000ドル )の懸賞金がかけられており、脱北者をかくまったことが発覚すれば、1万元( 1250ドル )の罰金を課せられるという話を聞いたと伝えた。

 ビリーさんは1970年代、韓国で大学院に通っており、1999年からはソウルで外国系会社の支社長として勤務、韓国語を流暢に話す。昨年9月から中国で勤務しており、脱北者出身の女性と結婚している。

金イング記者

ベトナム戦争における残忍無比な韓国人兵士たちの暴行・略奪・殺戮
「 朝鮮 ―新しい危機の内幕― 」 D.W.W.コンデ 岡倉古志郎訳 1969年 新時代社
1965年の9月と10月に“ファイアス・タイガー”日本語では猛虎師団( 朝鮮語ではメンホサタン )と“ブルー・ドラゴン”日本語では青竜師団( 朝鮮語ではチョンヨンサタン )の両師団がベトナムへ上陸した。“索敵殺害”――“殺し尽くし、焼き尽くし、破壊し尽くせ”という作戦―のなかでも最も残忍無比なことをやってのけたのは、他ならぬこれら両師団だったのである。次に掲げる詳細なリストは、ハノイの日刊紙ニャンザン( 人民 )を含む、ハノイを通じて中継された解放民族戦線の報道に基づいたものである。

1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村で、韓国軍は、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩り立て、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害した。1966年1月11日から19日の間、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省では、韓国軍は300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。1965年12月から1966年1月の間に、韓国軍は、ビンディン省のプレアン村では数百戸の家々を炎上させ、一方キンタイ村を完全に掃討した。同じ省の九つの村々で韓国軍は、民間人に対して化学兵器を使用したのである。

1966年1月1日から同月4日までの間に、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で、韓国軍は、住民たちの所有物を残らず略奪したうえ、住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺したのである。「 ある村が、わが軍の支配下に陥ると、その次の仕事はベトコンから村人たちを分け離すことなのだ 」――こう言ってのけたという一韓国軍将校の話しが引用された。ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を、防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で、殺したのである。1966年2月26日、韓国軍部隊は、137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に、防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。

1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。8月までに、“勇猛な”朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。ブガツ省では、3万5千人の人たちが、“死の谷”に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦した、との報道もあった。かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、3人の女性を川の中へ投げ込んだ。

放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪――こんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。これは、たった一都市に起きた“南京大虐殺”どころの話ではないのだ。これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、中国の南京で起こった話を語ることのできない、今日の“ベトナム民族大虐殺”なのである。つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、事実が明るみに出るのを妨げているのである。
( 中略 )
なぜ在ベトナム韓国軍がかくも攻撃的で残酷であるかという理由は、彼らが、アメリカが与えてくれた“援助”に対してお返しをするためであり、さらにまたそれは韓国民に対して彼らが、アジアにおいて“平定”の役割を演ずることができるのだという“誇りと確信”の感情を与えるためである、と1967年5月、ソウル政府当局は日本人記者に説明した。在ベトナム韓国軍の行動は、ソウル政府がワシントンと“取引きする”うえでの立場を向上させた、とも伝えられた。最後にまた、“韓国兵たちがベトナムから送ってくる金”が兵士の家族ばかりかソウル政府の国庫を潤しているとも伝えられた。( 在ベトナムの韓国軍兵士は月額60ドル――米兵士の約半額の支給を受けている。月に平均10ドルを使い、残額を南朝鮮へ送金しているのである )。しかし、在ベトナムの“猛虎”がこのように特に尽くしたことに対して、南朝鮮に与えられた非常に大きな“ごほうび”、すなわち南朝鮮の“輸出”を増やし“工業ブーム”の錯覚づくりに寄与した、数百万ドルに達するセメント、鉄、その他戦争に必要な機材などの購入については、語らずじまいであった。

SAPIO 2001年9月26日号
「 被害者史観 」韓国を揺るがす ベトナム民間人虐殺の「 加害責任 」  佐藤和

戦争といえばまず「 被害者 」だった韓国が、いま揺れている。ベトナム戦争時に従軍した韓国人兵士の「 民間人大量虐殺 」が報道され、長年のタブーだった「 歴史の恥部 」の解釈を巡って激しい議論が起きているのだ。それは虐殺か戦争か。謝罪はするべきか不要か。どこかで聞いたような議論は、しかしベトナムが謝罪も補償も求めていないことで、むしろ国内の政治問題となる可能性もでてきた。ことの経緯と一般韓国人の認識をレポートする。

「 償いの必要はない 」といった元司令官

ベトナム戦争が終わり、南北ベトナムが統一して既に四半世紀が通ぎた。そして韓国ではここ数年、あの戦争をめぐり長らくタブーとされてきた過去について、かつてない議論が進められている。その過去とは、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によるベトナム民間人の虐殺問題だ。最初にタブーを破ったのは、韓国のハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『 ハンギョレ21 』だった。同誌は99年、韓国軍がべトナム戦当時に起こした虐殺事件について記事を掲載したのだ( 5月6日号/韓国の民主化の中で生まれたハンギョレ新聞社は88年創業、現在新聞発行部数は韓国第4位 )。この記事を書いたのは、韓国人歴史研究者のク・スジョン。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めたのだ。ある地域で、猛虎部隊( 韓国軍部隊 )等による1か月間の作戦で1200名もの住民が虐殺されたという66年当時のベトナム側の報告を紹介しながら、同時に生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。

例えば、生存者の証言からは韓国軍による民間人虐殺の方法にいくつか共通した類型があったようだと、同記事には記されている。以下、その部分を略して引用すると‐‐大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。女性を強姦してから殺害。妊産婦の腹を、胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す−−等々だ。日本の戦争責任を追及してきた韓国の人々にとって、自国軍も虐殺をしていたのだという告発は、苦いものであったに違いない。

続いて同誌の2000年4月27日号には、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。しかし同時に、今やその行為に罪悪感を感じ、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も、同誌では伝えられた。これと前後して米誌「 ニューズウィーク 」が「 暴かれた英雄の犯罪 」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた( 2000年4月21日号 )。ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「 8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々 」が明らかにされつつあると、7ぺージにわたり大々的に報じたのだ。タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し、韓国国内では激しい反撃が起きた。同年6月27日には、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2000人余りがハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊した。彼らは「 大韓民国枯葉剤後遺症戦友会 」のメンバーで、国のために闘った戦友を冒涜( ぼうとく )されたと激しく抗議したのだ。

ベトナムへの韓国人派兵は64年に始まり、延べで30万人以上の兵士を送り込んだ。米国に次ぐ大派兵であった。この戦争で約5000人の韓国人が死んだ。ハンギョレ新聞社に乱入した元兵士たちがそうであったように、アメリカ軍が散布した枯れ葉剤の被害に苦しむ元兵士らが、今も韓国には多い。ベトナム戦争当時、韓国軍総司令官だった蔡命新は、先の「 ニューズウィーク 」でのインタビューで「 誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった 」と明言している。アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、韓国軍による虐殺行為については、こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。冷戦時代、反共産主義が優先された韓国では、自国の恥部となり得る問題は隠されてきた。それどころか自国民が被害者となったケースでも、問題は隠されてきた。例えば朝鮮戦争下での米軍による韓国避難民大量虐殺の事実でさえ、韓国メディアで報道されたのは金泳三政権になってからの94年である。また全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。では韓国のごく一般の市民はこの問題をどう受けとめているのだろう。

「 世代によって、受けとめ方はかなり違うでしょうね。若い世代であれぱ、さほど反発もなくふつうに考えられるでしょうが 」
そういうのは、米国の大学に留学中の韓国人男性( 28 )だ。
「 自分たちの世代にとって、ベトナム戦争といえば、まず韓国が高度成長を遂げた時代という、明るいイメージとセットになっている。そもそもベトナム戦争について学校で習ったり、語り合ったりした記憶もない。よく『 忘れられた戦争などといういわれ方もされましたが、本当にそのとおりでしたから 」
実際に、韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。中学生向けの国定教科書に記されているのは「 そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した 」の約1行のみだ( 『 入門韓国の歴史‐国定韓国中学校国史教科書明石書店より )。

そして、教科書以外での「 認識 」としては、やはり「 経済成長 」の方が先にくるというのも一般的な認識のようだ。ベトナム戦争時、韓国からベトナムへは兵士のみではなく、多くの労働者や技術者、ビジネスマンなどが渡っていった。兵士らにアメリカから支給された手当や労働者らの賃金、韓国企業の得た利益などは約10億ドルにものぼり、それらは本国に送金されて韓国経済を潤した。かつて日本が朝鮮戦争の特需を契機に高度経済成長したように、韓国がこの「 ベトナム特需 」を契機に「 漢江の奇跡 」と呼ばれる驚異的な経済発展を遂げたことは、広く知られるところだ。ソウル在住の会社員( 35・男性 )は、こう語る。
「 虐殺のことはメディアに取り上げられて知りました。でも詳しく読んだわけでもないし、どこまでが事実なのかわからない。ベトナムと韓国はいい関係にあり、日韓関係とは違うと思う。問題化しないかぎり、このままそっとしておきたい気特ちです。ベトナム戦争では被害にあった韓国人兵士も多く、自分の家族に戦争での負傷者がいれば、複雑な気持ちだと思いますよ 」

「 日本人の友人の微妙な表情がわかった 」

そして「 虐殺 」と「 責任 」となると、どうしても「 日本 」が出てきてしまうところも、この議論を複雑にしている。ソウル在住の大学生( 24・男性 )は「 徴妙な気持ち 」と語った。
「 自分としては( 虐殺の報道は )ショックでした。ベトナムは観光ブームになったときに行きたいな、と思っていたけど、現地の若者と話すときにどういう態度を取ったらいいか迷いますね。同じ世代の日本人と会ったとき、彼らが徴妙な顔付きをしていたのが、わかったような気もする。教科書や靖国で激しい日本批判があるけれど、自分たちだって同じようなことをやったじゃないか、日本だけを責められるのか、という気持ちにもなる。もっとも、それを日本からいわれれば、やっぱりムカつくけれど 」
ソウル在住の会社員( 24・女性 )も「 日本を非難するなら、韓国ももっとベトナムに謝罪するべき。きっぱりした態度をとらないと、逆に日本につけこまれる恐れがあるのではないでしょうか 」と、日本を意識した発言をした。
ちなみに、ベトナム政府はこれまで謝罪や補償は一切求めていない。98年、韓国大統領として初めてベトナム訪問をした金大中は「 遺憾の意 」を表明。韓国外交省も「 謝罪ではない 」とコメントしていた。しかし、この8月24日、ソウルで行なわれた首脳会談で、ベトナム大統領として初めて訪韓したルオン大統領に対し、金大中大統領は「 我々が不幸な戦争に参加し、不本意ながらベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思うと、「 謝罪 」に一歩踏み込んだ発言をした。
「 うまいやり方ですね。意図はともかく、これで日本から「 韓国は謝ってさえいないじゃないか 」と突っ込まれるスキをなくしたわけだから 」と、韓国攻治に詳しい韓国人ジャーナリストはいう。「 だが、これで韓国人全体が「 自分たちも加害者だった 』と認識したと考えない方がいい。むしろ、この謝罪は日本に向けた外交力−ドとみた方がいいでしょ 」
歴史認識が世界中で「 外交ツール 」となってしまった時代に、しかもベトナムだけでなく、そこに「 日本 」も絡んでくるだけに、この問題、韓国内では難しい議論詮となりそうだ。

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.24
私の村は地獄になった   ロン・モロー( バンコク支局長 )

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ( 71 )は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「 あまりに悲しすぎて 」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省( ビンディン、クアンガイ、フーイェン )から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン( 共産ゲリラ )の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン( ク・スジョン )が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ( 46 )もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「 みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ 」。トアイはそう言って泣きだした。「 でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった 」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「 肉片しか見つからなかった 」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「 父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった 」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「 首を切り落としてやる 」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「 殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない 」と、チャウは言う。「 韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる 」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン( 47 )は66年のテト( 旧正月 )のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「 67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた 」と、サンは語る。「 韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった 」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「 韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ 」と、フーイェン省のある当局者は言う。「 私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように 」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

当時の韓国軍総司令官が語る
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.26
償いは必要ないあれは戦争だった    ウェアフリッツ・李炳宗

 蔡命新( チェ・ミョンシン )は1965〜69年、ベトナムにおける韓国軍の総司令官を務めた。
 若いころに北朝鮮( 朝鮮民主主義人民共和国 )から逃げてきた蔡が指揮した韓国軍は、南ベトナム支援のため朴正煕が送り込んだ兵士5万人で構成され、ベトナム戦争における外国軍としては2番目の規模だった。
 韓国軍部隊は多数の民間人を殺戮したと非難されているが、蔡は共産主義政権のプロパガンダだとして否定している。すでに退役した蔡に、本誌ジョージ・ウェアフリッツと李炳宗( イ・ビョンジョン )が話を聞いた。


 私はウィリアム・ウェストモーランド将軍の索敵撃滅戦術( 敵がいると思われる地域に進軍し、敵を捜索し、制圧する )には強く反対した。
 軍服を着ていないベトコンを、どうやって見つけるのか。南ベトナム軍にもできなかったことだ。代わりに、われわれは小さな拠点を築き、水田地帯とベトコン支配地域の防衛に努めた。
 夜間、動くものはすべて殺すつもりなので、日没後は出歩かないようにと地元住民に伝えた。
 われわれは医療チームを送り込み、井戸も掘った。やがて住民はわれわれに好意をいだくようになった。夜になると、道路沿いで攻撃態勢をとって待ち伏せた。来る日も来る日も同じことの繰り返しだった。
 ベトナムでは、誰がベトコンで、誰がそうでないかを見分けることなどできなかった。子供や妊婦が、手榴弾をポケットに隠し持っていた。ときには村全体が攻撃してくることもあった。
 アメリカ人の偵察隊が到着すると、村人は歓迎の態度で迎える。果物を差し出すので、兵士たちは武器を置いて食べようとする。そこへベトコンが手榴弾で兵士の命を奪うのだ。
 われわれの殺した相手が無実の民間人だったと、ベトナム側はどうやって証明するのか。われわれの側では5000人の兵士がベトコンに殺されている。
 ベトナム側は、われわれが殺した人々の名を刻んだ碑を建てたが、そのうち何人が無実の民間人で、何人がゲリラだったのか。両者を区別することは不可能だ。
 あるとき、わが軍の兵士が偵察に出て、ある村を探索した。ベトコンは見つからなかった。そこへ、誰かが手榴弾を投げて、小隊長が殺された。隊員たちはひどく腹を立てた。指揮官が殺されたので、兵士たちは銃撃を開始した。
 罪のない人々を殺したと言われれば、そうかもしれない。だが連中も、われわれを殺した。
 生き残るためには、撃つしかなかった。誰がベトコンで、誰がそうでないかは、とてもデリケートな問題だ。
 ウィリアム・カリー中尉のソンミ村の虐殺( 非武装のベトナム人504人を殺害した罪で殺人罪に問われた )を例にとろう。あれがどのように起こったか、私には理解できる。
 カリーは自分の仲間の死に対して、復讐しようとしたのだ。戦争では当たり前の話だ。
 誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった。ベトナム政府は、われわれが民間人を殺したと非難する。それでは共産党政権樹立後に殺された人はどうなるのか? 200万のカンボジア人は? ベトナムから脱出しようとして海に沈んだ10万人のボートピープルは?
 私は元軍人の組織や退役将校たちに連絡をとって、この問題を話し合おうとしている。若い世代が歴史の現実を理解しようとしないことに、私は深い懸念をいだいている。

韓国人はベトナム戦争で突如残虐性を発揮し始めたのではない。遡れば万宝山事件後の中国人虐殺・壬午軍乱の日本人虐殺などいずれも残忍な殺され方をしたのである。李朝末期の朝鮮を訪れた外国人を嘆かせたのも朝鮮人の野蛮な残虐性であった。
「 朝鮮の悲劇 」 F.A.マッケンジー 1908年 ( 渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫 )
( 灰色文字は注 )

( 時は閔妃暗殺事件の後、金弘集を中心とする親日内閣が組閣され数々の改革政策が実行された。しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で発令された断髪令は大きな反発を呼んでいた。そのような時に、高宗国王が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ。高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じソウルで暴動が起こった。 )
その日の夕刻、第二の詔勅が天下に公布され、兵士たちに、自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王のところにそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は、集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。二人の大臣( 前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏との二人 )が、街路にひきずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。そのうちの一人は、首の後ろから耳の前にまでわたる酷い深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声をはりあげた。群集は、その死体に向かって石を投げつけ、あるいは踏みつけ、またある者はその四肢をずたずたに切り裂いた。一人の男は、自分の小刀を抜き放って、死体の内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「 さあ!奴らを食おうではないか 」と叫んだ。しかし、これは逆上していた群衆にとっても、さすがにあまりにも酷すぎたので、群衆は恐怖のあまり後ずさりしたのであった。

「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
日中の一番暑い盛りにわたしたちは発展中で活気のある町元山( 朝鮮半島中東部にある )の、汚れて狭い路地とでこぼこした商店の屋根がひしめき合う街道に着いた。推定人口1万5000人のこの町は… 路地の悪臭は凄まじく、土ぼこりは全く酷いもので、哀れな犬は大量にいる。また大量の血のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのには完全に胸が悪くなった。屠殺方法の違いが肉をこうさせてしまうので、ソウルでも他の町でも外国人は肉は日本人の肉屋で買わざるをえない。朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧( ちょうな )を取り、牛の尻を死ぬまで殴る。これには1時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売り手には得というわけである。
( 中略 )
わたしたちは松都( 朝鮮半島中西部にある )に着いた。松都は開城ともいい、朝鮮第二の都市で、いまをさかのぼる5世紀前までの前王朝時代には国の首都であった。人口6万人のこの都市は… ここには定期市に似たざわめきと活気と小商いの光景があった… 低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品が並んでいる。その中にはイギリス製の雑貨もかなりあれば、血を大量に含んだ牛の干し肉もある。朝鮮で屠殺した肉を見れば、誰だって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわすというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首に縄をかけて振りまわし、その後で血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛については前に述べた。暑い日差しの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。

「 朝鮮亡滅 」 ホーマー・ハルバート( 「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社 より )
( ハルバートは李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあった。 )
動物がひどく苦しがっていることが判るときでさえ、一般の朝鮮人はまったく関心を示さない。道路に病気になった猫や犬や、けがをした鳥などがいると、子供も大人も老人も手に手に棒や石を持って、この哀れな動物をいじめ殺してしまう。路上で不運な犬が首に縄をつけて犬肉店に引っ張られていくとき、子供の群れがガヤガヤ騒ぎながらその後について行く。子どもたちは、かわいそうな犬が首を絞められ、最後のあがきをするのを見たいという期待に胸をふくらませている。
韓国の独立記念館・西大門刑務所歴史館( 旧京城監獄 )などでは、日本を悪者扱いしようと日本人の残虐性をことさら強調する館内展示がされているが、日本人や外国人も目をそむける残虐性を発揮した自民族の蛮行も歴史の教訓として展示してもらいたいものである。


朝鮮が日本統治時代であった頃、上海にあった大韓民国臨時政府の主席であった金九は、李奉昌や尹奉吉を使ったテロ事件を指揮した人物として知られているが、彼もまた日本人を殺しているのだ。( 李奉昌は東京・桜田門で天皇の馬車に爆弾を投げた。尹奉吉は中国・上海の虹口公園での日本の天長節( 天皇誕生日 )祝賀式で爆弾を投げ多数を殺傷した。 )
「 白凡逸史 -金九自叙伝- 」( 梶村秀樹訳 1973年 平凡社東洋文庫 )
( 灰色文字は注 )

波瀾万丈の青年時代
( 時は閔妃暗殺事件の後、開化派の金弘集を中心とする親日内閣が組閣され数々の改革政策が実行された。しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で発令された断髪令は大きな反発を呼び反日・反開化の動きを武装闘争へと導く契機となった。そのような時に、高宗国王が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ( 1896年2月 )。高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じソウルで暴動が起こっていた。著者の金九は外国行きの予定を変更し時勢の様子を見るため黄海道の安岳に行く途中であった。 )
冷たい風の吹く夜道を歩いて鴟河浦の舟宿に入ると、風浪のため航路を閉ざされて滞留していた客が三間の大部屋にいっぱいおり、いびきをかいて寝ていた。われわれ一行もその隙間に割り込んで、やっと寝付いたかと思うと、もう先に寝ていた人たちが起き出して、「 きょうは天気が良いから、明け方に船を出してくれ 」などと騒々しくなった。続いて、アレッバン( 台所に近いほうの部屋 )からもう食膳が出され始めた。わたしも、しかたなく起き上がって座り、自分の膳が来るのを待ちながら部屋の中を見回した。まん中の部屋に、一人断髪した人がいるのが目についた。その人が、誰か他の旅行者と挨拶を交わしているのを聞いていると、彼は姓は鄭氏で長淵に住んでいるというたしかに、長淵では、早くから断髪令が実施され、民間人でも髪を切った人が多かった。しかし、その言葉遣いは長淵の方言ではなく、ソウルの言葉だった。朝鮮語が随分上手だったが、わたしの見るところでは、彼は明かに倭奴だった。よく観察してみると、彼の白い周衣( トゥルマギ )の下には、軍刀の鞘が見えた。「 どこへ行くのか 」と声をかけられると、彼は「 鎮南浦へ行くところだ 」と答えた。「 普通の商売人や工業家の日本人ならば、このように変装、変名するわけがないのだから、これはきっと国母( 閔妃 )を殺した三浦梧楼のやつかそうでなければその一味の者に違いない。もしいずれでもないとしても、わが国家と民族に害毒を流す者であることは明かなのだから、あいつを殺して少しでも国の恥をそそごう 」とわたしは決心した。そして私は、私の力と周囲の条件を頭の中で計ってみた。三間の大部屋の40余名の客のうちに、そいつの仲間がまだ何人いるのかどうかは分らなかったが、その男のそばには17、8歳に見える青年が一人従っていた。私は考えた… あの倭に髪の毛ほどの疑いも起させずに安心させておいて、私一人だけが自由自在に振舞えるような方法を取ることにした。

なにぶん寝覚めの口に早朝の食事のこと、他の客たちがまだ三分の一も食べ終わらないうちに、彼らより後から膳を受け取った私は、たった4、5匙で一杯の飯を平らげてしまい、立ち上がって主人を呼んだ。そして、「 私は、きょうは日のあるうちに700里( 朝鮮の1里は0.4キロメートルなので280キロ )の道を歩かなければならないので、食事をあと7膳用意してこい 」と言いつけた。37、8歳になるらしい骨格たくましい主人は、私の言葉に答えず、部屋にいる他の客たちを見回しながら、「 若いのに、かわいそうに、頭がおかしいんだな 」と言って、行ってしまった… しかし、あの倭は、別に私に注目する気配もなく、食事を終えると外に出て行き、戸口の敷居のところにもたれて室内を覗き見ながら、お供の青年が「 煙価 」( 宿賃 )の支払いを済ますのを見ていた。わたしは、「 時は来た 」と思って、ゆっくり起き上がり、「 この野郎! 」と叫びながら、足でその倭奴の胸を蹴ると、そいつは、たっぷり一丈もある入り口の石段の下に落ちていった。わたしは、飛ぶように後を追って下りていって、そいつの首根っこを踏みつけた。三間の大部屋の四つの窓が一斉に開き、そこから人々の首はにょきにょきと突き出された。わたしは、追っかけて出てくる群衆に向かって、「 この倭奴を助けようとわたしに近づく奴は、誰でもみな殺すぞ。わかったか? 」と宣言した。この言葉が終わらないうちに、わたしの足で蹴られ押さえつけられていた倭奴が、身をよじって刀を抜き、それをピカピカ光らせながらわたしに斬りかかってきた。わたしは、わたしの顔面に振り下ろされる刀をよけながら、足を上げてそいつの脇腹を蹴って倒し、刀を持つ手首を力いっぱい踏みつけると、自然と、刀が凍った地面に音を立てて落ちた。私はその刀を拾って、倭奴の頭から足の先まであちこちを切りつけた。2月の寒い明け方のことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血をすくって飲み、またその倭の血をわたしの顔に塗り付け、血がぽたぽたしたたり落ちる長剣をさげて部屋に入って行き、「 さっき、倭奴を救うおうとわたしに近づこうとした奴は誰だ? 」とどなった。逃げそこなった旅行者たちは、みな床に這いつくばり、ある人は、「 将軍さま、お許し下さい。わたしは、あいつが倭奴とは知らず、普通の人かと思って止めに出たのです 」といい、またある人は、「 わたしは、きのう将軍さまと一緒に海で苦労した者です。倭奴と一緒に来たのでありません 」と言い、みな怖がってぶるぶる震えていた…
( 中略 )
わたしは主人に、「 あの倭は誰か 」と尋ねた。その答えによれば、あの倭は黄州( 黄海道北部の都市 )で朝鮮舟を1隻借り、それに乗って鎮南浦へ行くところだったということだった。わたしは主人に命じて、その舟の船員を呼ばせ、舟にあったその倭の所持品を取り揃えて持って来るようにさせた。やがて船員たちがその倭の持ち物を持ってきて、「 手前どもは、ただ船賃を貰ってあの倭を乗せた罪だけしかありませんから、許してください 」と懇願した。所持品によって調査したところ、その倭は陸軍中尉土田譲亮という者で、葉銭800両がその荷の中に入っていた。私はその銭の中から船員たちの船賃を払ってやり、残りはこの村の貧しい人々を救うようにと言いつけた。主人の李先達が、ちょうど洞長( 村落の長 )でもあった。死体の処置については、わたしは次のように言いつけた。「 倭奴は、単に我が国と国民の仇であるばかりでなく、水の中の魚たちにとっても仇なのだから、この倭の死体を河に沈めて、魚たちに国の仇の肉を食わせるようにせよ 」と。

主人の李先達はすこぶる機敏に立ち働いて、一方では洗面道具を持ってきたりした。一方では7杯の飯を一つの膳に乗せもう一つの膳に麺類やらおかずやらを載せて持ってきたりした。わたしは洗面をし、顔や手に付いた血を洗い取ってから、食膳を引き寄せて食べはじめた。1杯の飯をすっかり平らげてから十分しか経っていなかったのだが、激しい運動をしたために1、2杯は食べることができるにしても、7杯はすっかり平らげることはできなかった。だが、さっき言ったことが嘘になるのも恥ずかしく、ヤンブン( 真鍮の上の広い鉢 )を一つ持ってこさせ、そのヤンブンに飯とおかずを一緒に入れてかき混ぜ、匙ももう一つ頼んで二つの匙を横に並べて持ち、一匙の飯が沙鉢( 陶器の鉢 )ほどにもなるように、形よく大きくすくい取り、2、3杯分ほど食べてから、匙を投げ出し、「 きょうは飲みたかった倭奴の血を存分に飲んだので、飯が入らんわい 」と独り言をいって、涼しい顔をしてみせたものだ。
この 人を殺しても平然としている「 吸血鬼 」のような男が、驚くことに伊藤博文を暗殺した安重根と並ぶ韓国近現代史の英雄なのである。