大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
朝鮮通信使


韓友好の名のもとに、現在進行形で歴史を美化しつつ歪曲されているのが「 朝鮮通信使 」である。
「 日韓・歴史克服への道 」 下條正男 平成11年 展転社
日本を「 島夷 」と蔑視していた通信使

なにかとトラブルの絶えない日韓関係を見ていると、互いに感情的になるために、本来見えるはずの問題点が視野に入らず、それが結果として次なる誤解の種となることが少なくない。そのため、過去の歴史の中に少しでも善隣友好の痕跡を発見すると、いつの間にかそれを拡大解釈し、気づかぬうちに歴史の事実が歪められてしまうことも、日韓関係史の中にはある。いずれも心情的に過去に接近したために、問題の本質を見る眼が曇っているからだ。そのような状況の中で、これまで日韓友好の格好の事例として取り上げられ、誤解されてきたものの一つに朝鮮通信使に対する評価がある。特に、日本で出版された朝鮮通信使に関する著書の一部には、通信使の往来を善隣友好のシンボルとして必要以上に強調し、過去の歴史に対する著者自身の贖罪意識が前面に出ているものがある。「 不幸な歴史 」続きの日韓にも、このような時があったとでもいいたいようで、それは読むたびに辟易とさせられる。それというのも、歴史的事実を借り、研究者自身の良心を代弁する手段として通信使の歴史を利用しているからなのだが、そのような演繹的な歴史認識は、結局、無理な歴史理解につながり、歴史の歪曲を助長することになる。

一方、現在の韓国の高等学校で使われている歴史教科書等では、「 日本は通信使一行を通じて、先進の学問や技術を学ぶために苦労した 」とし、自国文化の優越性を強調していて、その姿勢は日本側の歴史認識とも対照的な違いを見せている。それでは、朝鮮通信使を通じた日韓交流は、実際にどのようなものであったのだろうか。そこでまず注意しなければならないことは、当時の朝鮮通信使一行が、自ら小中華思想に拠って日本を「 島夷 」と蔑視し、中国的な文化尺度で日本を評価していた事実である。はじめから文化の相互理解など考慮の内にはなかったのである。この現実を知らずに、詩賦の唱和があったから、さぞ相互理解が進んでいただろうと考えるなら、それは通信使一行に群がった日本人たちとあまり違わない。

英祖三十九年( 1763年 )に通信使一行の漢通事として日本を訪れた呉大齢が、その『 溟槎録 』で、「 最近、倭人は専ら文教に事( つか )えている。先ず漢字の音を学んだ後に経書や史書を学び、賦詩を作文して、隷書や草書を習っ 」ている。この「 文章の盛りはどこまで発展するか分からないほどだ 」と日本文化を評した時も、その評価基準は中国文化にあった。この日本観は、慶長の役で捕虜となった姜[シ+亢]( きょうこう )が「 倭人で能文と言われる者は、ただ諺訳( 日本語 )で書いており、文宇( 漢文 )は知らない。ただ倭僧だけが多く支字を解す 」と評した態度にも通じている。彼らにとって日本語で書かれたものは、最初から文化の範疇に属しておらず、尹順之が兵庫の宿所で「 郵館嘲啾として蛮語沸く 」と聞いたように、日本語は一時の小鳥の囀りでしかなかった。朝鮮通信使たちにとっての関心事は、日本側がどれだけ漢詩や漢文の素養を持っているかにあった。これを今日的な感覚でいえば、日韓のどちらが英語の駆使能力に優れているかを競い合うのと同じ発想だと思ったらよい。

日本の技術を学んで帰った通信使

では、日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「 日本の農人水車の設けあり 」として、学生の金慎に「 造車の法 」を精査させて模型を作り、鍍銀( 銀めっき )、造紙( 紙漉 )、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「 倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし 」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。だが残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「 倭楮の軽沢精緻に如かず 」と、日本の楮( こうぞ )である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し維持するだけの土壌が整っていなかったことを示している。これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『 徒然草 』( 第五十一段 )に記されている。その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。したがって、韓国の歴史教科書にあるように「 技術を学ぶのに苦労していた 」のは、日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。

このことは技術に限らず、文化一般についても言えた。通信使一行の中で公式的に日本側と文書の交換をした書状官の人選が重視されたのは、日本側にも朝鮮側に劣らない文章力があったことを示している。朴端生の十数年後、申叔舟が書状官として日本に渡った際、その人選が遅れた理由を、「 その国俗、詞章を喜び、書状官を擬してその人を難ず。かつ風濤嫌悪、人皆行くを憚 」ったからだ、と姜希孟が「 文忠公行状 」の中で述べているのは、その事実を伝えるものである。これは15世紀のことであったが、その現実はその後も変わりがなかった。宣祖二十年( 1586年 )、日本からの使臣を迎えることになった朝鮮側では、「 況んや日本人、詩を能くし、酬唱( 詩を作って互いにやりとりすること )の際もし或いは未だ尽くさざれば必ずその国に伝笑す。関する所軽きにあらず。宣慰使は職秩の高下を論ずることなく、一代の文章の士を極めよ 」とし、日本に対する対抗意識を露にしていた。韓国の歴史教科書では、これらの事実とは関わりなく、通信使らが「 先進の学問 」を日本側に伝えたと記述しているが、それは歴史的な現実や学問的な立場の違いを無視した、皮相な見方である。

明和元年( 1764年 )12月、朝鮮通信使を迎えた長州藩の儒者瀧鶴台が正使書記の成龍淵や副使書記の元玄川等と筆談した内容からも、そういった事実を伺い知ることができる。話が日本の儒学者に及び誰が著名かということになると、瀧鶴台は伊藤仁斎、荻生祖徠等の名を挙げただけで、朝鮮側が期待する朱子学者の名を列挙しなかった。そこで成龍淵は、福岡藩の竹田春菴を朱子の正統とし、なぜこの名を挙げぬのかと瀧鶴台に質している。朱子学を正統とする朝鮮側では「 程朱( 朱子学 )を篤信しようとしない者は、皆異端である 」という立場で、日本の学問を評価したからだ。さらに、瀧鶴台が貝原益軒の名を記し、「 はじめ朱子学を学んだ貝原益軒が晩年に『 大疑録 』を著したのは、程朱の言が経典の趣旨に背馳しているからだ 」と言うと、すかさず元玄川は、「 それは経典を正しく読んでいないからだ 」と瀧鶴台に反駁している。これに対して瀧鶴台は、福岡藩の竹田春菴は朱子学批判をした貝原益軒の弟子であると応酬して、その日の筆談を終えている。

日本では科挙がなかったため儒教は学問の対象になり、朱子学もすでに17世紀前半から批判が加えられ、後には儒教そのものが批判されていた。したがって日本では、朱子学は「 先進の学問 」という位置にはなかったのである。むしろ瀧鶴台の場合のように、江戸、京都、長崎等の地で学び、その学問の範囲は中国( 儒学 )に限らず洋学( 蘭学 )にも及ぶものであった。学問に対する姿勢が日本と朝鮮とでは根本的に違っていたのである。それでも成龍淵はその瀧鶴台に対して、「 日本には木下順庵、室鳩巣の正派があるが、なぜそれを学ばぬのか 」と質問を続けていた。あくまで朱子学を正統と見做していたからだ。これに対する瀧鶴台の返事は「 人、おのおの心あり 」、学問は己の為にするもので、唯一絶対として信奉するものとは違う。学問を求める自己こそが大切である、という主張であった。この成龍淵と瀧鶴台の筆談には思想としての儒教と、学問としての儒学の差が歴然と現れている。そのため、日本側の筆談には朱子学に関する内容よりも、事前に下調べをし、朝鮮側がどのように答えるかを試すものが多かった。いわば、意地の悪い質問をして相手側を困らせ、通信使一行の力量を図ることを目的としていたといえる。『 桑韓筆語 』によると、1764年( 明和元年 )、弱冠十九歳の儒医山田正珍は、科挙合格を鼻に掛けて仰々しく構えていた慕斎李佐国に「 この草葉の名いかん 」と、植物の名を尋ねたが、彼は「 我博物の君子にあらず。何を以て弁ぜん 」と、答えに窮してしまった。山田正珍は初めから答え難い質問をして、ついに相手を感情的にさせてしまったのだ。

筆談や詩賦の交換という側面だけで見ていると、通信使一行と日本側の交流は一見学術的であったようにも思われるが、実際にはそれほどのことでもなかったのである。その上、朱子学だけを学問と考える朝鮮側と、朱子学を儒学の一派とする日本側の学問的態度との違いがあっては、学術的な対話など望むべくもなかったのである。それは、朝鮮の事情に詳しかった雨森芳洲が「 韓人、わが国の学者を待つこと、徒に詩賦を以てするのみ 」と言い、朴斉家が「 我が国の人、学は科挙を出ず。目は彊城を踰( こ )えず 」と述べていることでも明らかである。ただ、朝鮮通信使一行が詩賦に優れていたのは、たまたま詩賦が科挙の試験科目であったからである。それに対して、日本では詩賦を儒者の本義とはせず、むしろ厳格な経学者たちの間では詩を遊興の具として蔑視する傾向があった。学問風土の違いがある日本と朝鮮との間でなされた詩賦の酬唱を見て、善隣友好が実現できたとするのは、早計にすぎるのである。それよりも、日韓では互いに相手側を理解する手段を持たなかったために、かえって詩賦の交流が活発になり、逆にそれが重視されたという方が事実に近い。それにも拘わらず、通信使の許には日本人が押しかけて詩文を求めていた。だがそれは、摩長松南が『 娯語 』の中で、「 清の商人が長崎に来ると 」「 詩を求めた 」日本人を指弾しているように、朝鮮通信使に群がる日本人の幼稚さにも問題があった。それも、純祖九年( 1809年 )十二月、朝鮮の訳官玄義洵の言によれば、大名も朝鮮の「 書画を欽歎せざるはなし、視ること金玉のごとく、これを得れば便( すなわ )ち珍蔵 」したというから、正にサインを求めてスターに群がるファン心理のそれであった。はじめから相互理解が不十分な中で、詩賦が尊重された、懸額が求められたといったところで、それを過大に評価し、日韓友好の証として喋々するのは当たらない。

それよりも、通信使たちは小中華思想に基づき、自ら「 礼義の邦 」を誇って日本を蔑む反面、元玄川や成龍淵と同行した漢通事の呉大齢が、品川から江戸城までの三十里ほど( 約12キロメートル )が人家で埋まっている姿を目撃し、かつて見た北京にも劣らないと驚嘆していた事実こそ忘れてはならない。朴斉家の『 北学議 』によると、当時のソウルは繁華街である鍾閣から「 市楼連接するもの一里( 朝鮮の1里は約400メートル )に満たず 」という状況であった。これは、江戸の人口が百万をはるかに越えていたのに対して、ソウルの人口は20万人に満たない現実からすれば当然といえた。また、呉大齢は『 溟槎録 』の中で、「 街巷廛肆( てんし )、井々( せいせい )として度有り、左右一つの如く、少しも参差なし 」と、日本の家並みの正確さを強調しているが、それは朴斉家の『 北学議 』でも述べられていることは先に述べたとおりである。朴斉家は呉大齢と同行した元玄川の言葉も引用しているので、日本の実態はこれら朝鮮通信使たちによって、実学者たちに伝えられていたことがわかる。このように、朝鮮通信使の一行として日本を訪れた人物の中には、日本の風俗を見て「 真に禽獣なり 」とした金世濂や、「 真に百蛮の冠た 」りとする尹順之のような捉え方がある反面、日本の社会の発展を驚きの眼で見る者たちもいた。それが朝鮮側に伝えられなかったのは、詩賦の出来不出来を文化の基準とし、朱子学以外を認めない朝鮮の人士たちが見た日本の文化や社会であったからである。いわばそれは、一面の歴史を伝えた日本像だったのである。

善隣友好どころか独善的なモノサシで日本を蔑視していた朝鮮通信使たち
「 韓国の「 民族 」と「 反日 」 」 田中明 1988年 朝日文庫
第二回通信使( 1764年 )に随行した金仁謙は「 日東壮遊歌 」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「 倭ノム 」( ノムは「 奴 」といった意味 )という言葉がしばしば出てくる。さらには、倭と音が通ずるので「 穢ノム 」という言葉までが使われている。

  館舎は本国寺、五層の楼門には
  十余の銅柱、天に達するばかりなり
  水石も奇絶、竹林も趣あり
  倭皇の住む所とて、奢移をば極め
  帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
  犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
  四千里六十州を、朝鮮の地となし
  王化に浴せしめて、礼儀の国に作りたし。

筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白( 将軍のこと )に国書を奉ずる儀式に出ると、前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「 堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外 」と、参席を拒み通している。したがって、その日本観察は蔑視と自尊のサイクルのなかに閉じこめられて終る。『 海游録 』の著者、申維翰( しんいかん )もそうだが、日本の都市や建築物の壮大さとか商業の盛んな様子は詳しく述べつつも、なぜそうなったかには関心が向わず、日本の風俗の淫靡なことや学の未熟さなどに目が転じてしまうのが特徴である。「 日本は儒学は輸入したが儒教は入れなかった 」という言葉がある一方、朝鮮はそれと反対に、習俗すべてを儒礼にそうよう言動を磨き上げることに努めた。したがって、家庭の秩序、男女の関係、衣冠制度など、儒家的な基準に合わぬことをする日本人は、朝鮮の知識人の目には全くの野蛮人に見えたのであった。

「 「 日帝 」だけでは歴史は語れない 」 呉善花 1997年 三交社
日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使

1719年( 享保4 )、日本を訪れた第8回朝鮮通信使一行の製述官( 文人官僚 )申維翰は、同行した日本側の接待役、対馬藩士雨森芳洲が、自分に向かって次のように言ったと記している。『 日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。…しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦( 日本 )に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼籍、言うに忍びないものがある。…こんにち諸公たちは、この意を知るや否や 』『 今でさえ諸従者( 通信使一行の者たち )は、敵邦( 日本 )の人を呼んで必ず倭人という。また望むところにあらず 』( 申維翰『 海游録 』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社 )これに対して申維翰は、『 それは壬辰の乱( 豊臣秀吉の朝鮮侵略 )以降に書かれた文章だろう 』と言い、『 秀吉は我が国の通天の仇であり、我が国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない 』と応じている。申維翰の主張は、『 豊臣秀吉が韓国を侵略したから日本人を蔑称してよい 』というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「 壬辰の乱以降 」というのはまったくのウソなのである。

韓半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで、「 倭 」あるいは「 倭国 」と書き習わし、「 倭賊 」とか「 蛮夷 」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行なわれていた。その点では李朝も同じことだったのである。この雨森芳洲と申維翰のやりとりは、ほとんど現代にも通じるものだ。いまでも、韓国人どうしで日本人の悪口を言うときには、「 日本奴( イルボンノム ) 」「 倭奴( ウェノム ) 」「 猪足( チョッパリ ) 」( 日本人の足袋( たび )が豚の足のようであることから )などの蔑称を用いることは珍しくない。また、日本人との間に労使紛争や政治的軋轢などが生じると、日の丸を焼いたり侮蔑的な言葉を投げつけては抗議をする。日本人が「 このような侮辱を受けるいわれはない 」と言えば、韓国人は「 日本人はかつて韓国を侵略し我々を苦しめたではないか 」と応じる。申維翰の昔から同じパターンなのである。

通信使の時代より後の話だが朝鮮人の価値観の独善性を物語るエピソード
「 韓国人の経済学 」 室谷克実 昭和62年 ダイヤモンド社
( 灰色文字は補足 )

メガネに関しては、こんな史実が伝えられる。日本の朝鮮統治時代、ある独立運動家が日本の官憲から出頭を求められた。彼は日本の官憲を最大限に侮辱しようと思い、ダテのメガネをかけて出頭した。しかし、日本の官憲がメガネに頓着するはずもなかった。それで彼は拍子抜けしたというのなら、この話は日本人にもわかりやすい。しかし、この話のオチは違う。『 日本の官憲はカだけは強いが、礼節を知らね島国の野蛮人だ。侮辱されていることにも気づかない 』と、彼は溜飲を下げたというのである。人前ではメガネも無礼という独特の礼節をもつ民族が、メガネをかけて異民族の前に進み出ることで、「 やはり礼節を知らぬ野蛮人だ 」と優越感にひたれる。これは、当時の朝鮮民族が自分たちの儒教価値だけを絶対至高と信じて疑うことのない小世界にいたことを物語る。

( 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事から 『 眼鏡を掛けたまゝ挨拶したのが因で/鮮人が同郷人を袋叩き/今度は亦自分が殴らる( 伏見町尼ヶ崎、朝鮮人同士の喧嘩に別の男が介入 ) 』 京都日出新聞 1921/8/20 夕 京都伏見区 )