大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
耳塚


耳塚は文禄・慶長の役( 朝鮮出兵 )の朝鮮人戦死者の供養施設で、豊臣秀吉の宗教心の発露であり、残忍さの象徴であると非難するのは見当違いもはなはだしい。
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
◇『 耳塚 』は敵国戦死者の慰霊塔

京都・東山の方広寺前に、朝鮮出兵した日本軍が朝鮮軍兵士から切り取った鼻を埋めた『 耳塚 』という小さい丘があり、その上に五輪塔が建っている。日本の教科書にも載っており、『 朝鮮侵略 』のむごたらしさを表す教材になっている。韓国からの観光旅行者も、この場所には大半の人が訪れ、中には土下座して祈る人もあるという。

この塔をいつ頃から『 耳塚 』と呼ぶようになったのか、明らかではないが、実はこれは『 耳塚 』ではなくて『 鼻塚 』なのである。戦国時代は功績を競うために、敵の首級を挙げるのが習いであった。何人の首をとったかが、論功行賞を左右した。朝鮮の役ではそれができず、首に代えて敵の鼻の数で戦果を量ることになった。死体とは言え、人体の一部を斬りとって集めたと聞けば、その酸鼻に眉をひそめるであろう。しかし戦場にあって戦果を確認し、功を競うのは、近代戦でも同じことなのである。近代戦では、軍艦を何隻撃沈・大破したか、航空機を何機撃墜したか、が評価の対象となる。だから戦果を確認するために色々の配慮がされている。

もっとも日本では、秀吉以前に、敵の耳をそいで遺髪の代わりに供養した例があった。平安時代の中期、すなわち前九年の役( 1056-64年 )のことである。源頼義・義家父子は、国司の命令に従わない阿倍頼時を討伐するために、陸奥の国に出かけた。それは足かけ九年に及ぶ戦いであった。頼義は死力を尽くして戦う敵に敬意さえ覚えた。戦いが終わって帰京する時、頼義は敵の死者を慰霊するために、死者たちから斬り取った耳を乾かし固めて皮製の籠の中に入れて持ち帰った。そして六條坊門の北西洞院の西に耳を埋めて堂を建て、等身大の阿弥陀仏を安置した。京都人はこの堂を耳納堂と呼称するようになった。しかし応仁の乱か戦国時代に焼失して今はない。秀吉の『 耳塚 』も『 耳納堂 』から連想したのではないか、と言われている。

わが国では古来から、戦いが終われば、敵を弔う伝統があった。秀吉も同じであった。彼は卑賤の中から身を起こし、人間の悲しみや苦しみを知悉( ちしつ )していた。死者に対する仏心も篤く。戦争でも残虐な手段を嫌った。彼は慶長2年の9月28日、敵( 朝鮮 )の戦死者を慰霊するために持ち帰った鼻を京都大仏の前に埋めて、盛大な法要を催行した。当時秀吉の信任が厚く、側近であった相国寺の住職に西笑承兌( さいしょうしょうだい )がいた。承兌は日記の中に当日の様子を詳しく書き、秀吉の心中をおよそ次のように述べている。( 原漢文、相国寺資料第一部 )

大相国命( 豊臣秀吉のこと )はこの鼻を見て憐れみの心を深くし、敵味方を超えて平等に供養しなければならない、として禅宗の五山の僧に命じて山海の珍味を供えさせ法要を営んだ。そして怨みを越えた平等の心を持って墓を造る。この墓を名づけて鼻塚とし、尚塔婆一基を建てる

承兌は秀吉の意を受けて、塔婆に「 清風明月本同天、干時龍集丁酉秋九月二十又八日敬白 』と書いた。清風も明月も、もともと同じ天にあって敵味方を超えて恩恵を施している、というほどの意味であろうか。法要の当日は供物が山のように盛られ、幟が立ち、おびただしい数の僧俗が集まって焼香した。承兌の書いた言葉は、秀吉のみならず、集まったすべての人の心でもあった。

◇敵国の死者を弔う日本の伝統

我が国には古来から、たとえ敵国人であっても戦いが終われば戦死者の慰霊を行うという風習がありました。( 中略 )外国の敵を弔う例は、元寇の時にもありました。…文永・弘安に及ぶ2度の元寇が終わると、弘安5年( 1282 )、時宗は鎌倉に円覚寺を建て、水没した10万の元軍の死者のために一千体の地蔵尊を作って奉納しました。その時、開山の僧・祖元は、その語録の中に、「 前歳及往古此軍及他軍戦死与溺水、万象無帰魂 」と記録しています。「 前歳 」とは文永の役のことであり、「 往古 」とは弘安の役のことです。「 此軍 」は日本、「 他軍 」は蒙古を意味することは勿論で、敵味方の慰霊であることは説明するまでもないでしょう。
( 中略 )
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時にも、各地で敵兵の屍を埋めて弔いました。そのことを当時朝鮮政府の要職にあった柳成龍が、「 懲ひ録 」という著書の中で明らかにしています。日本軍が全羅道に進撃した時、朝鮮軍は熊嶺で防戦し、激戦の末、鄭堪、辺応井らの武将は戦死しました。それに対して成龍は『 日本軍は、熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、その上に標柱を立て、「 弔朝鮮忠肝義胆 」と書き署した 』と紹介し、『 これは恐らく、わが軍の力戦を賞賛してのことであろう 』と結んでいます。

もうひとつ、島津義弘の例を挙げましょう。義弘は朝鮮の役に出陣し、泗川の戦いで勇名を馳せました。彼は戦場では赤い鉢巻をしていたので、朝鮮の記録では『 紅頭倭最悪 』( 赤い頭をした日本人が最悪であった )と書かれています。しかし実際は『 勇将涙あり 』というべきでしょうか。戦いが終わると従軍僧に命じて、敵味方の陣歿者を弔う卒塔婆を立て、法要会を行いました。( 日韓併合後の大正7年になると鹿児島県の有志が現地を探査して、味方の陣亡者碑と、唐兵供養塔を建てました )。凱旋すると慶長4年( 1599 )、高野山の奥の院に、『 高麗陣敵味方戦死者供養碑 』( 高さ2.3メートル )を建立しました。この碑に刻まれた文章によれば、『 慶長2年8月、全羅道・南原の戦いで明兵数千のうち、島津で討ちとったのは428人、同年10月、泗川の戦いで明兵8万余を斃した。ここに味方の戦死者三千余を含めて供養する 』という趣旨のことが書かれています。

◇ロシア将兵の慰霊塔を先に建てた乃木将軍  昨日の敵は今日の友

日露戦争において、乃木希典将軍はロシアの要塞旅順を陥落させて、敵の将軍ステッセルと水師営で会見した( 明治38年1月5日 )。この会見の様子は後に、佐々本信綱作詞、岡野貞一作曲で「 水師営の会見 」というあまりにも有名な歌となった。この水師営の会見の時、乃木将軍はステッセル将軍に対して、ロシア将兵の墓を整備することを約束した。そして明治40年( 1907 )6月、日本軍はロシア将兵の墓地をつくり、墓地の中央に「 慰霊塔 」( 高さ13メートル )を建立した。日本側の「 表忠塔 」が建てられたのは、それより2年半後の明治42年11月28日であった。敵の戦歿者を慰霊する我が国の伝統はここにも見ることができる。乃木将軍は、ロシア将兵の慰霊塔除幕式を挙行するにあたって、北京からロシア正教の僧侶十数名を招き、ロシア側にも案内した。ニコライ2世皇帝は感激して、自身で参加することを望んだが、結局、待従武官長チチャコフ中将以下20名が出席した。

◇敵の戦没者を慰霊した昭和の日本人

 北支戦線で建てた「 中国無名戦士之墓 」
支那事変勃発に伴う日中戦争において、いわゆる「 南京大虐殺 」に代表されるように、旧日本軍は悪逆非道の限りを尽くしたことになっています。戦争ですから、残虐行為もあったでしょうが、同時に武士道精神に基づいた素晴らしい行動もあったのです。例えば、昭和12年( 1937 )7月7日、支那事変が勃発して間もない頃の朝日新聞( 第18545号 )によれば、日本軍は戦闘が終れば、各地に「 支那( 中国 )軍無名戦死者之墓 」を建てたといいます。従軍記者の小川特派員は、日本軍兵士が中国人兵士の墓標を建てている光景を撮影し、「 無名戦士よ眠れ 」と題して、次のようにコメントしています。

  〈 無名戦士よ眠れ抗日の世迷ひ言にのせられたとは言ヘ、敵兵もまた華と散ったのである。戦野に骸( むくろ )を横たへて風雨に曝された彼等。が勇士達の目には大和魂の涙が浮ぶ。無名の敵戦士たちよ眠れ!白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫( しば )し渋る優しき心の墓標だ。――北支戦線にて( 小川特派員撮影 ) 〉

 オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍
昭和16年( 1941 )12月8日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であって、翌年の1月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。シンガポールの中学2年用教科書は、その時の模様を次のように書いています。

  〈 オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは( 日本軍に味方して )、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『 私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために 』と書かれた。〉

私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。杉田氏は、「 当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている 」とのことでした。続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏( ASEANセンター代表 )に聞きました。氏はこう返答してきました。

  「 そんなことはいくらでもあった。だいいち山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は12月10日に英国戦艦プリンスーオブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではないか。日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。 」


韓国人に日本人の野蛮さの象徴だとして非難されている耳切りだが、文禄慶長の役以前に朝鮮でも敵兵の耳を切り取る風習があったのだ。日本の豊臣秀吉が始めたのではないのである。
「 歴史民俗朝鮮漫談 」 今村鞆 昭和三年 南山吟社
( 灰色文字は注 )

耳塚の事

あの戦の時( 文禄慶長の役 )、在鮮の諸将から、首を送る代わりに耳を送り、太閤は耳塚というものを大仏の前に造って供養した、あれは実は鼻塚だという者もあるが、自分は耳もあることを信ずる。この耳塚を、後年徳川時代に日本へ往った信使( 朝鮮通信使 )が実見して、供養もし、又これを見て大いに憤慨して居る。しかし、耳を取る事は朝鮮の方が元祖だ、宣祖王の九年( 1576年 )に、日本の海賊が、慶尚の南岸に寇し、辺将( 国境守備の将兵 )がこれと戦い、勝って殺した時に、首の代りに京城へ耳を送って居る。また文禄の役のときに黄海道辺で日本軍に勝った時に、矢張り耳を切って送って居る。日本の諸将が耳を切って送ったのは、実は朝鮮に学んだのではあるまいか、もっとも昔し後三年の後に( 後三年の役 1083〜87年 )、源義家が耳を切って送った事もある。

敵兵の耳を切り取る風習は、漢字の生み出された古代シナの時代にまでさかのぼるのだ。
「 取 」という漢字は、敵兵の耳を切り取る風習を文字にされ意味を持たされたものなのです。

  耳+又( 手 )の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを示す。
 学習研究社「 学研漢和大字典 」
  昔は人の首をとる代わりに、耳を切り取ってそのしるしとした。ゆえに耳と又( 手 )を合わせる。
 講談社「 新大字典 」
  討ち取った敵の左耳を切り、その数によって戦功を数える。
 平凡社「 字統 」


耳切りは東アジア地域に古代シナから現代まで続く伝統か、 ベトナム戦争で韓国兵が記念品としてベトコンの耳を切り取る。
Link 韓国・ハンギョレ21日本語版  --->  キム・ギテ 予備役大佐 インタビュー から
『 片方の耳だけを切って集めて針金に通して、幕舎前に掛けたりもしていました。 「 何故そんなことをするのか 」と聞いたところ、帰国する時に記念に持っていくと言いました 』