大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
文禄・慶長の役と朝鮮の民衆


文禄・慶長の役( 韓国では壬辰倭乱という )に対しての歴史評価は、韓国人の言う「 世界の戦争史上、前代未聞の罪行と汚点を残した秀吉の朝鮮侵略 」( 朴春日著朝鮮通信使史話から )というのは極端としても、韓国人と同調する日本の学者・マスコミなどは日本側の蛮行のみをクローズアップして非難しているが、李朝の圧政から解放される好機ととらえて、秀吉軍に呼応して反乱を起した朝鮮の民衆も多数いたのである。李朝の王宮である景福宮の焼失もその際に民衆に焼き討ちされたもので秀吉軍とは直接関係ないのである。
「 韓国・中国歴史教科書を徹底批判する 」 勝岡寛次 2001 小学館文庫
さて、韓国の教科書は朝鮮に出兵した日本軍に抵抗する朝鮮人民の姿を、「 義兵の活躍 」の項で次のように描く。

  『 全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。当時の代表的な義兵将としては、郭再祐、趙憲、高敬命、休静、惟政などを数えることができる。 』

朝鮮人民は一致団結して日本軍に抵抗したという記述だが、果たしてそうか。あまり知られていないことかもしれないが、実際には日本軍の中には、これに呼応した朝鮮の民衆が多数含まれていたのである。支配階級の両班は党派抗争に明け暮れ、『 宣祖実録 』によれば、「 人心怨叛し、倭と同心 」するような社会状況の中で、明軍が朝鮮軍支援にかけつけてみると、「 斬る所の首級半ば皆朝鮮の民 」といったふうだったという。

また、江戸時代末期に日本で書かれた『 征韓偉略 』によれば、秀吉の軍隊が京城に入城した時、兵士の半ばは朝鮮の民であったという。また、韓国の教科書には「 文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した 」と書かれているが、火をつけたのは朝鮮の民であり、秀吉の軍隊が京城に入る前に、既にそれらの建物は焼け落ちていたのである。宣祖の京城脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が略奪・放火をほしいままにしたのであり、「 虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映った 」との指摘すらある( 下條正男、『 日韓・歴史克服への道 』 )。

韓国の教科書は、そうした点については完全に無視し、もっぱら日本の悪と、これに対する挙国的な朝鮮人の抵抗だけを延々と書き連ねている。

韓国人、大反省 」 1993 金容雲 徳間書店
壬辰倭乱当時、首都漢陽( ソウル )を固守すべしという民衆の願いを押しのけ、蒙塵( 王が乱を避けて都を退くこと )の口実のもとに、王と大臣らが都を逃げ出すと、彼らに石を投げつけた民衆は、腹いせに宮殿に火をつけた。普段えらそうなことを言って何事もいい加減に行なっていた連中が、民衆の叫びを背に逃亡したのだから、民衆の間に「 なんだ、この野郎 」といった気分が高じたのも無理はなかった。実際にそのころ朝鮮の二人の王子は逃亡中に民衆に捕らわれ、日本軍に引き渡された。民を守らぬ王は、もはや王ではないのである。
( 中略 )
[+]は、壬辰倭乱を、豊臣秀吉の侵略欲のせいでなく、朝鮮内部の党争が自ら招いたものであると言った。もしそのころ、全国民が君主を中心に団結さえしておれば、あのような侵略はありえなかったろうと断言している。
  壬辰倭乱の時、京畿以南には義兵が至る所で決起したが、西北三道( 朝鮮半島北部地域 )には義挙した者が見られなかったばかりか、当時北関では王子と大臣を捕らえて倭賊に投降した者さえいた。
   『 星湖[+]説 』

なぜ京畿以北地域( 朝鮮半島北部地域 )にはたった一度の義挙もなかったのか。その地方出身者は、官職はいうまでもなく科挙に応じる資格すら与えられておらず、最初から徹底して中央から遠ざけられていた。それゆえ李朝が自分たちを守ってくれるとはつゆにも考えられなかったし、当然国のため命を捧げる者も出てこなかった。

「 龍を気取る中国 虎の威を借る韓国 」 黄文雄 1999 徳間書店
モンゴル軍が侵入してくると、西北や東北地方の官吏は、競って土地を献上して順民を誓う。韓人は逆に、侵入軍の先頭に立って自国の軍隊を叩く、もしくは城を明け渡して逃げ惑う。ときには抵抗する儒者や僧侶も出てくるが、その頻度は極めて低く、秀吉軍の京城( 漢城 )入城のように、奴婢はむしろ侵入者を解放者として敵を迎え入れた。

それだけでなく、多くの「 韓奸 」や「 売国奴 」といわれる人々が必ず現れて敵についていく。民衆は敵軍に従軍する。壬辰倭乱のときに、ついさっきまで自分の国王( 仁祖 )だった人ヘ、都落ちの国王として石を投げたり、王子を捕えてまで敵軍に献上することもある。あるいは、宮城攻めに民衆が協力して城攻めや攻囲をする場合もある。

その結果、敵の軍門に下り、属国となることを誓う。この点が韓国の他のアジア諸国と異なる部分だ。これは中国人によく似た習性である。つまり、儒教国家としての特色なのだ。統一新羅以後の韓国は、高麗朝初期の数年間を除いて唐以後、中華帝国歴代王朝の属国として正朔( 宗主国の年号 )を奉じてきたというのが本当の史実だ。

景福宮などの焼失は、大部分の韓国の観光案内板によれば、「 壬辰倭乱( 文禄・慶長の役 )の兵によるもの 」と書かれているが、それは嘘だ。李恒福の『 白沙集 』によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。それが歴史の史実だ

「 月刊朝鮮 」 1982年8月号 李炳注( 「 日本のイメージ 」 鄭大均 1998 中公新書 より )
わが国の歴史は極端にいうと、同族殺し合いの歴史でした。三韓時代がそうであり、三国特代もそうであり、朝鮮王朝における党争も法冶の枠を越えたものです。いつも不安な政情だったんです。だれかが自分を陥れる投書を一通投げ込めば、破滅です。どこでだれが自分を陥れるために剣を磨いているか分からない。枕を高くして眠ることもできないのです。高枕短命という言葉を私は健康法のことだとばかり考えていましたが、「 王朝実録 」を読んで、それが政治的な戒めであることを知りました。( 中略 )日本社会でも上下の階級があったが、彼らは下人を使う前に下人の生活は最低限保障してやりました。しかしわが国では、とくに朝鮮王朝時代には、両班が常民の生活を保障するどころか収奪していました。壬辰倭乱のとき、倭の側についた叛徒が大変な数にのぼったといいますね。王が避難するや叛徒が王城に火をつけ、はなはだしくは王子をつかまえて倭将に差し出し、地方官をむち打って敵陣に引っぱっていった例もありました。

「 秀吉が勝てなかった朝鮮武将 」 1992年 貫井正之 同時代社
日本軍は朝鮮上陸後わずか二十日間で首都漢城を占領した。快進撃の背景には日本軍を解放軍として迎えた朝鮮民衆の支援もあったのだ。
( 中略 )
◇朝鮮半島南東部
慶尚道は日本軍の侵入をもっとも早く受けた地域である。役人・両班たちはその報を聞くやいなや、大半は民衆を放置し、安全な地域へ逃亡した… これまであらゆる圧迫を受けていた人々は、支配機構の崩壊で一気にさまざまな束縛から解き放たれ、力を失った役人や両班に公然と反抗した。例えば、『 陝川、草渓、固城、普州などでは、賊( 蜂起 )が発生し、彼らは昼間から政府の倉庫を襲撃し、穀物を奪った。これは逃亡した兵卒が、盗賊となった 』という記録もある。政府はこのような慶尚道の動きを、『 固城県令の金絢は赴任して7年になり、刑罰が大変過酷で人々の支持を失った。そこへ日本軍が侵入したので、反乱( 蜂起 )が四方に起こった 』と、日ごろの悪政のためとしている… また、宜寧では奴婢が自分の主人を殺害し、財物を掠奪したという事件も起こっていた。( 中略 )
◇朝鮮半島南西部
全羅道の蜂起の中心は軍兵だった。全羅道巡察使( 臨時軍司令官 )李洸は、首都防衛のため道都全州から兵を率いて出陣したが、途中、忠清道公州付近で首都陥落・国王の離京を知らされた。この報は軍団を一夜で自壊させてしまう。逃亡した軍兵たちは、『 赴戦を嫌い、乱を起こす。彼らは官舎、刑獄を襲い、放火と掠奪に奔走した 』とある。この風潮はすぐさま全羅道の各軍団に伝播し、潭陽、南原、求礼、順天などでも同様の行動が起こった。( 中略 )
◇朝鮮半島北部
咸鏡道の民衆蜂起は、他地方と異なりもっと積極的な目標をもっていた。日本軍の侵入が1592年6月に始まると、『 ( 道内 )各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず 』に快進撃したとある。さらに、人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使( 知事 )柳永立・兵使( 軍司令官 )李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまう。この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となった。なぜこのようなことが起こったのだろうか。北方のこの地方は道内出身者には科挙の受験資格がなく、租税・労役は他道にまして重く、流刑指定地であるなど、さまざまの差別を受けており、日本軍の侵略前から、咸鏡道内は一触即発の緊張状況だった。民衆は『 日本軍は新主を立て、国の政治を変えるといい、争って役人を縛り、日本軍を迎える 』と、新政治を日本軍に求め、日本軍の侵入を歓迎したのである。この蜂起には在地の土豪層も参加し、大蜂起へと発展した。
( 中略 )
日本軍への投降者も多く出た。日本軍の侵略が最も広範囲にわたった慶尚道では、投降者は両班から役人僧侶・軍兵・商人・農民そして奴婢など各層に及んだ。当時、もっとも劣悪な条件に置かれていたのが奴婢たちで、『 草渓の私奴婢、宇音同の父子4人は、戦初、洛東江から進軍してきた日本軍を境内に誘い、近隣の掃討の手助けをした。また、草渓府へ先導し、軍器・倉穀の隠し場所をことごとく教え、分け前にあずかった 』というように、日本軍の手先となって、積極的な協力者となった者もいた。日本軍の快進撃の背後には、現地の協力者がいたのであった。

「 日韓・歴史克服への道 」下條正男 平成11年 展転社
( 灰色文字は注 )

豊臣軍を嚮導した朝鮮の民衆

豊臣軍があれだけ早く漢城( 現ソウル )に到達できたのは、朝鮮の民衆が率先して豊臣軍を嚮導( 先に立って導くこと )したからであった。『 芝峯類説 』で李[目+卒]光が、「 倭賊、我が国人を以て嚮導とす。故に遠きとして到らざる無し 」と言い、そのため、かえって深山に難を避けた人々のほうが犠牲になったという。この時、朝鮮の民衆が嚮導に走ったのは、『 宣祖実録 』二十五年五月壬戌条で「 人心怨叛し、倭と同心 」するような社会的要因があったからである。16世紀末の朝鮮では、支配階級の両斑たちが党派争いに明け暮れ、私利私欲に趨( はし )る一部王族や高官等が百姓を酷使して、民衆は塗炭の苦しみを舐めていた。そのため朝鮮の民は、豊臣軍の「 私たちは君たちを殺さない、君たちの王が民を虐げたので、今この結果があるのだ 」という宣伝文句をそのまま受け入れ、「 倭も亦人なり。我ら何ぞ必ずしも家を棄て避けんや 」と、恐れる様子もなかった。したがって、秀吉軍がソウルに進駐しても「 京中の市民、安居して移ら 」なかったのである。そればかりか、朝鮮の王である宣祖が「 賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか 」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が含まれていた。事実、平壌の役の際、明軍は「 斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民 」と、朝鮮側に真偽を確かめるほどその数が多かったのである。そして、この時も倭寇と同様、「 仮倭 」が登場し、その害は日本人よりも甚だしかったと趙靖の『 黔澗集 』は伝え、金誠一も「 処処賊をなす者、倭奴幾ばくも無し。半ば是叛民。極めて寒心すべし 」と「 鶴峯集 」で述べている。

現在、ソウルにある景福宮や昌慶宮等を訪れると、その大部分の観光案内板には「 それらの建物は壬辰の乱の兵火で焼失した 」と書かれている。しかし、それらは秀吉の軍隊がソウルに入城する二日前には、すでに焼け落ちていた。兵火で王宮や官衙( 官庁 )が灰燼に帰したのは事実だが、火を掛けたのは朝鮮の人々であった。李廷馥の『 四留斎集 』や李恒福の『 白沙集 』等には、その時の状況が記録されている。それらによると、宣祖のソウル脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし、火を放ったのだ。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。李[シ+翼]はこれと同じことが高麗時代にも起こっていたと『 星湖[イ+塞]説 』で述べているが、虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映ったのであった。

この郡県の民の行動は、1950年( 昭和25年 )6月25日、北朝鮮が韓国に侵攻した時にも見られた。北朝鮮軍は自ら解放軍を名乗り、韓国の人々がそれに協力するという事態が各地で起きた。過去の歴史と同じ構図が再現されたわけだが、それらはいずれも韓国側の政治的混乱と貧富の差が招いたものである。しかし、戦況が変わり、国連軍の支援を受けた韓国側が北進を始めると、その立場が逆転した。自由を求めて北朝鮮から人々が逃げてくるのと入れ替わりに、北朝鮮軍に近かった人々は北に逃れていったからだ。その時々の状況で、民衆もその立場を変えていかざるを得なかったのだ。だが、これは個人にばかり責任を帰すべき問題ではない。そのような選択肢以外に生きる道がなかった、当時の状況こそが問題とされるべきだからである。

民心を失った豊臣軍

ところで、文禄の役の時も、朝鮮の民衆は同じ選択を迫られていた。秀吉の軍隊が京城( ソウル )に入城した時、その兵士の半ばは朝鮮の人々であったと『 征韓偉略 』は記しているが、明が参戦し、豊臣軍が後退し始めると様相は一変した。秋が過ぎて冬に入ると、豊臣軍にとって難民の存在は邪魔なばかりか、負担になっていった。自らの食糧問題も解決しなければならなかったからだ。その時、撤退する豊臣軍には、これら民衆が朝鮮側と内通するのではないかという疑心がつきまとっていた。それがやがて民衆を抛棄することになり、豊臣軍は民心を失うことになったのである。豊臣軍がソウルを去り、入れ代わりに宣祖が戻ってくると、城内の民衆は自分たちを置き去りにしたはずの宜祖に食糧を求めて群がり、食べ物を与えられると感涙するのであった。豊臣軍が義兵に苦しめられるのは、形勢が逆転してからのことである。

朝鮮の役で活躍した加藤清正( トラ退治の逸話は有名 )は、韓国人から豊臣秀吉、伊藤博文と並んで日本の三悪人とされているが、清正公を尊敬した朝鮮人もいたのである。
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
加藤清正に感謝状を贈った朝鮮の王子たち

加藤清正は「 南無妙法蓮華経 」の幟を掲げて戦った。日蓮宗への信仰は母親譲りのもので、勇将であるとともに、仏心篤い武将であった。彼が北朝鮮の会寧にまで攻めのぼった時、二人の朝鮮の王子を捕らえたが、礼を尽くして処遇した。 翌文禄二年、講和談判が開かれるに及んで、秀吉の命令で、両王子を釜山から首都・京城( 漢城 )まで護衛( 家臣・九鬼四郎兵衛 )をつけて送り還した。両王子は帰還するにあたって感謝状を清正に贈った。 この書状は今も紀州徳川家に残っている。清正の娘が徳川頼宣の夫人となった縁故から同家に伝えられたものである。それを要約すれば次の通りである。
  壬辰( 日本では文禄 )元年七月二十四日に捕らえられてから礼遇され、厚い保護を受け、 衣服糧食を与えられ、至れり尽くせりの待遇を受けた。このたび関白( 豊臣秀吉 ) 殿下に上申して釜山から京城に送り還された。その慈悲は仏のごとくである。 もし一行の者がこのことを忘れ、後日、日本及び清正公に対し、僅かでも背くようなことがあったら、人情を弁えぬ者であって、天地の神々もこれを知っているであろう。

 両王子は京城まで送り届けてくれた九鬼四郎兵衛にも感謝状を送り、その厚遇の恩は永久に忘れない、と述べている。このほか清正は両王子を一時、鍋島直茂に預けておいたことがある。そのため鍋島氏の歓待を謝した書状が二通、鍋島家にも伝えられている。その中にも、「神伝慈悲の道を貴官の中に見る 」という文言さえある。

清正廟が朝鮮にあった

両王子は京城に帰ってから、清正の恩を忘れないように、京城の南大門外に清正の廟を作った。そこには肖像画を掲げて生きながらの社とし、両王子は親しく祭文を読み上げたという。清正に感激したのは、両王子ばかりではなかった。禮曹司という職にあった五人の高官は、秀吉宛に長文の手紙を書いている。この文書は現在熊本の本妙寺に所蔵されているが全文は「日本人の博愛 」( 辻善之助編 )に載っている。( 中略 )要約すれば次ぎの通りである。
  清正は利欲を求めず、ただ正事に奔走した。朝鮮北部を席巻すること、勇猛果敢であって、その姿は神か人か、男子中の男子であった。会寧で両王子を捕らえた時は、辞を低くし、謙虚そのものであった。この姿に日本の風格を見る思いがした。両王子を釜山まで送るまでその態度は一貫していた。これこそ真の仁人であり、君子中の君子である。貴国の忠臣名将録に記録して明らかにすべきではないか。

これら一連の資料に接しておれば、加藤清正という勇将の一面を窺うことができる。清正が熊本人に今も「 セイショコサン( 清正公様 ) 」として慕われている理由も判るのである。

加藤清正を慕った朝鮮人たち

韓国で加藤清正といえば、残虐な許しがたい敵将として悪の権化のように語られている。ところが日本では、人気の高い武将なのである。「 朝鮮征伐 」では数々の武勲をたて、虎退治をした勇将として語り伝えられた。晩年は熊本城を造り、善政を布いた殿様として尊敬された。現在熊本県では、清正と呼び捨てにせず、「 清正公( せいしょこ ) 」と呼び、「 加藤神社 」に祀られている。

熊本市の本妙寺が清正公の菩提寺で、そこに清正の墓・浄池廟がある。その北側に大木土佐守兼能( 三千石の家老 )の墓がある。清正が死んだ時、土佐守兼能は殉死したからである。そして南側にあるのが、「 朝鮮人金宦墓 」である。ほかに清正に殉死したものは沢山いたが、金宦だけは特別にこのような大きな目立つ所に墓を建てた。「 金宦 」とは会計職のことで、本名は良甫鑑という。熊本では「 金宦さん 」と親しまれ、香華の絶えることがない。清正に連行された朝鮮人が、なぜこのように熊本人から慕われているのか。「 朝鮮史話 第一巻 」( 松田甲編、昭和二年刊 )の中に紹介された「 肥後國志 」「 続撰清正記 」に基づいて述べてみたい。

良甫鑑( 金宦 )は文禄の役の時、清正の軍門に降った。その後は案内役になって、日本軍に貢献した。もともと彼は気概を持った人物だったから、李氏朝鮮の国政紊乱や人心の腐敗に耐えられなかった。それに比べて日本軍は志操堅固で義烈の風があった。特に清正の温情の厚さに感謝して熊本まで付き従った。
「 李朝実録 」によると、朝鮮側に投降した日本軍兵士は『 数百をくだらず 』とあり、中でも有名なのは沙也可( さやか、後に改名して金忠善 )である。ところがその反対に日本側に投降して日本に協力した朝鮮人も多かったのである。熊本に住みついた金宦は、近習役として二百石を貰った。慶長十六年( 1611 )清正が亡くなると、彼は恩義に感じて殉死したのである。
( 中略 )
かつての敵国人でありながら、清正に対して「 名誉の殉死 」を遂げた金宦の葬儀は、清正と家老大木土佐守との合同葬の形で盛大にとり行なわれた。そして昭和四年から始められた加藤神社の神幸式には三つの神輿( みこし )が出る。第一の神輿が清正公、第二の神輿が土佐守兼能、第三の神輿が金宦で、三つの神輿は今も出ている。清正を慕ったのは、金宦ばかりではなかった。清正の遺骸を葬った本妙寺の第三代住職も、朝鮮から清正に従った帰化人であった。文禄二年、清正が慶尚道の普州城の攻略した時、両親を失った十三才の少年を見つけた。名前は「 余大男 」という。少年に敵の行方を聞いても答えず、筆紙を与えたところ、「 独上寒山石径斜 白雲生処有人家( 独リ寒山ニ上レバ石径斜ナリ、白雲生ズル処ニ人家有リ ) 」と書いた。清正はその筆勢と非凡さに感服して愛護し、熊本に同道すると、本人の亡き父母の菩提を弔わせる意味もあって、僧侶の道を歩ませた。九州きっての名刹本妙寺住職・日真上人に弟子入りさせ、身延山・久遠寺に学ばせた。彼が二十九才になると、本妙寺の第三代住職・日遙上人となり、地元では「 高麗上人 」と仰がれるようになった。( 中略 )彼は清正公の三回忌に、法華経八巻、六万九千余の文字を石に刻み、経塔を建てた。それ以来命日の前夜には、徹夜で六万九千余字を写経する行事が行なわれるようになった。これが「 頓写会( とんしゃえ ) 」の始まりであり、今も盛んである。

朝鮮人にとっては憎みても余りある敵将を、このように慕うようになったのは何故か。清正の魅力とは何か。勇猛をもって鳴る武将が、案外涙もろくて血も涙もあり、部下からは慕われるものである。ここに人間研究の面白さがあるのではないか。

村の鎮守の神様の〜♪ 今日はめでたい御祭日〜♪
加藤清正が朝鮮出兵の際に祈願をした神社の例大祭で使われる囃し言葉「 ボシタ 」が、
在日朝鮮・韓国人の申し入れで使用禁止になる。
Link 日本の祭り  --->  藤崎宮例大祭( 熊本市 )


文禄・慶長の役で日本に連れてこられた朝鮮人の数は、数万名とされているが、それらの帰国のために再開された朝鮮通信使( これを特に回答兼刷還使という )に従い帰国した者は、3500名を記録するに過ぎないのである。徳川幕府の態度は終始一貫して帰国の意思のある者の帰国は妨げないという態度であり、朝鮮人が多く存在していた各藩もおおむね協力的で、帰国は本人の意思次第であったが、刷還使の報告書には「 面会者は多いが帰国を願い出るものは少ない 」と記している。( 参考 中尾宏「 朝鮮通信使と壬辰倭乱 」 )
「 儒者姜○と日本 」 村上恒夫 辛基秀 1991年 明石書店( ○の漢字は[シ+亢] )
姜[シ+亢]( きょうこう )の足跡をたどる   村上恒夫

姜[シ+亢]の記録がある。「 以前に来たものはなかば倭人となってしまっており、帰国しようという考えもなく、私が身を挺して故国に帰ろうと諭しても、応じようともしない 」
( 中略 )
 中には日本で殺され、また病死した者もあったろうが、姜[シ+亢]が「 半ば倭人となり 」といっているように、日本になじんでしまった者が多くあったと考えられるのである。

隣国の、土佐長曽我部元親に捕らえられた朝鮮人の、その後の記録がある。( 中略 )長曽我部元親は、先の役のとき、秋月城主朴好仁ら380名の朝鮮人を捕虜として連れ帰った。城主といえば、戦国の習いとして厳しい刑があるはずのところ、この朴好仁は手厚く遇されている。その後山内一豊が入国した際には、その子元赫とともにお目見え仰せつけられ、後に唐人町と称する土地を与えられ、医者として働き、また豆腐製造なども始めている。その後、好仁は希望して朝鮮へ帰ったが、息子の元赫は土佐に留まり、秋月長左衛門と日本名を名乗り、しかも、山内一豊が遠州( 静岡県 )から連れてきた遠江という女を妻とし、その後も代々支配層から妻を迎え、子孫の中には士族になったもの、また大庄屋になった者も出ている。

またこの朝鮮の役は、別名「 陶器戦争 」ともいわれており、日本は朝鮮の焼き物の技術にあこがれていた。したがって、その技術を持っている者はすこぶる手厚い保護を受けている。そのほか鋳物、織物、印刷、料理などの技術を持っている者も、きわめて優遇されている。( 中略 )封建社会のもとでは、一部の特権階級は別として、一般庶民の生活は貧しかった。しかも、寒さの厳しい国である。気候の温暖な日本にあって( 捕虜の大半は関西に住んだ )、肥沃な土地を与えられて生活が保証され、日本語も少しずつ覚えると、帰国する気持ちが薄らいだのも無理からぬことではなかろうか。

秀吉の侵略と儒学者姜[シ+亢]   辛基秀

多くの強制連行者のうち、姜[シ+亢]のように帰国できた人は4000人を越えていない。陶工、医者、印刷工、石工、学者、農民、女性たちの居住地は唐人町と名づけられた。( 中略 )戦後37年、唐津にに到着した朝鮮通信使一行は、「 文禄・慶長の役 」で捕虜になった同胞が多いのを目撃している。『 名護屋から一息( 朝鮮の30里、12キロ )のある村に人家が数百戸あり、この村は高麗村といい、彼らは沙器を焼いて生業としている 』( 「 癸未東槎日記 」 )
( 中略 )
1636年の朝鮮通信使が帰国の途中、通訳官康遇聖は捕虜となった同胞の刷還( 調査して連れ帰る )に関する諭告( お触れ )をもって唐津に行ったが、帰国希望を申し出る者はなく、全員が腰を据えて製陶に励んでいたという。
帰国の費用が全て日本側( 対馬藩 )の負担でありながら朝鮮への帰国を望まなかった理由を刷還使は「 母国語を忘れてしまった年少で連れて来られた者、日本人と結婚している者、家族家産をなしている者など日本社会へ同化してきていることの他に、帰国後の生活不安を覚える人々がいた 」と記しているが、これは彼らの朝鮮での身分がおおいに関係しているものと思われるのである。

日本に連れて来られた捕虜たちは、なぜ故郷の朝鮮へ帰りたがらなかったのかというと、その身分と大いに関係があるのである。捕虜の多くは朝鮮へ帰っても奴隷( 奴婢 )の過酷な暮らしがまっているからである。日本で技能者として優遇されれば自然と日本に永住することになるのは当然なのである。
「 両班 」 宮嶋博史 1995年 中公新書
研究者によって見解が分かれるが、十六世紀には全人口の三割ないし五割近くを奴婢身分のものが占めていたとされる。したがって奴婢がきわめて大量に存在していたことになる。
( ※補足文:同書では、日本統治時代に京城帝大教授をつとめた四方博氏が慶尚道大邱の土地台帳を研究した結果を引用して、1690年大邱の奴婢人口は全体の43.1%であったと記している。 )

「 朝鮮幽囚記 」 ヘンドリック・ハメル ( 生田滋訳 1969年 平凡社東洋文庫 )
( 灰色文字は注 )

( ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き、1653〜66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた。 )

奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子どもは、女奴隷の主人に所属します。

( ハメルは朝鮮の奴隷の身分判定と所有権の帰属に関して正確な知識をもっていた。父母のどちらかが奴隷であればその子供も奴隷となるというのは「 一賤則賤 」の制度であり、奴隷同士の子供は女奴隷の主人のものになるというのは「 奴婢従母制 」である。 )

「 日韓・歴史克服への道 」下條正男 平成11年 展転社
賤民としての匠人

では、この技術に対する極端な認識の違いは、なにに由来するのであろうか。ここでは、技術者たちが置かれていた社会的な環境の違いを無視することはできない。近世日本の場合、職人は城下町や村々に住み、その地域の人々の需要に応えていた。それは一つの経済共同体の中で、一構成員としての役割を果たす職分を待たされていたためである。このことは、朝鮮時代の身分制度が「 両班、中人、常民、賤民 」と別れていた中で、匠人たちは賤民に近い位置にあったことを考慮すると、大きな違いであったことになる。日本の士農工商は、身分的な側面のほかに、職業的な役割を意味する職分の性格が強かった。ところが、朝鮮時代の匠人は、身分としては最下層の賤民に属し、上下関係の厳しい朝鮮社会にあって、歓迎される位置にはなかった。この事実が伝統的に製造現場に出ることを嫌う遠因となっている。

朝鮮時代を通じてその基本法典となった『 経国大典 』を見ると、匠人の社会的地位がよく分かる。それによると、匠人には、官に隷属するものと、民間でもの作りに従事した私工とがあった。その官に属す匠人のうち、中央官庁に付属するものを「 京工匠 」といい、地方の官衙に属したものを「 外工匠 」といった。そこでの彼らの職場環境は、16世紀の梁応鼎が「 発奮して指を断ち、強いてその役を避けんとす 」と『 松川先生遺集 』に記すように、自ら指を断ち、労働を忌避するほど悲惨な場合があった。これでは、もちろん労働意欲の湧き上がるはずもなかった。柳馨遠が「 能者は毎に苦役され、不能者は安逸にして害なし 」とするように、正直者は常に馬鹿を見ていたのである。この仕事をしてもしなくても待遇は同じという不公平な状況は、かつての社会主義社会でも指摘された労働現場とも類似し、彼ら匠人たちは労働の喜びに乏しかったのである。それは『 経国大典 』に「 京、外工匠、籍を成す 」とあるように、彼らは各官庁に登録されて隷属し、「 年六十を満ちて役を除 」かれる境遇にあったこととも関連していた。だから、60歳以前の匠人たちにとっての自由とは、労働の場からの逃亡の他にはなかったのである。

後年、文禄の役の際、日本軍がソウルに入城する二日ほど前に、まず最初に景福宮や奴婢等の文書を保管していた掌隷院等が焼き討ちされたのは、自由を求めた人々によって襲撃の対象にされたからである。彼らには外侵よりも、身分の解放のほうが先決であったのである。むしろ彼らは、内紛や外部からの侵攻を利用しようとしていたといえる。倭寇の時も文禄の役の時も、社会で最も虐げられた人々が常に嚮導役を果たしていた事実からも、それは言える。さらに、朝鮮時代の製造の現場では、平素から奴隷的な労働が行われ、失策には罰則が規定されていたこととも無関ではない。『 続大典 』で「 咨文の表紙麁造の匠人、初次杖八十、毎次一十を加え、杖一百に至りて止む 」と規定しているのはその一例で、技術の未熟な匠人たちには体罰が加えられたのである。これでは逃亡する匠人が続出し、各官衙の匠人が不足がちになるのも当たり前である。そして、その匠人の補充に際し、技術の伝習が十分に行われない時は、教える者も教えられる者も罰せられていた。これらの罰則規定は、朝鮮時代の終わり頃まで続くので、匠人に対する待遇はあまり変わっていなかったことが知れる。これでは「 百工の技芸、頑鈍せざる無し 」という朝鮮時代の技術風土に、大きな変化がなかったのも当然といえる。( 中略 )これでは技術は伝習されず、匠人たちもまた仕事に喜びを見出すことも少なく、できれば忌避したいと考えるのも当然であった。

朝鮮の奴婢( 奴隷 )には官庁に所属する公奴婢と両班など私人の所有になる私奴婢があった。公奴婢は役所で使役される者の他に手工業職人の匠人、遊興のための妓生( キーセン )がいた。私奴婢は農業などの生産労働の他に召使として雑役を行っていた。いずれも公私の所有者の財産であり、売買、贈与、相続の対象となった。奴婢の身分決定のための原則は、父母のどちらかが奴婢身分であればその子供も自動的に奴婢身分とされるということだ。朝鮮は男系血族社会であると同時に奴婢血族社会でもあったのである。奴婢の人生は悲惨であり、支配階級である両班の享楽な生活を奴婢が苛酷な労働で支えていたのである。ちなみに現在の韓国人も尊敬してやまない聖人と称される儒者の李栗谷( 5000ウォン札の人物 )・李退渓( 1000ウォン札の人物 )の生活も「 君子は労せず 」の言葉通りに奴隷( 奴婢 )の使役なくしては成り立たなかったのである。日本への連行者が、こんな社会制度の国には帰りたくなかったのは当然である。また、朝鮮の役で日本の人買い商人が現地入りし、朝鮮人を奴隷としてポルトガル人に売り渡したとされているが、その多くはもともと奴隷だったのである。

日本へ連れてこられた代表的朝鮮人として有田焼の陶祖李参平がいるが、ともすれば侵略戦争の犠牲者として悲劇の人物として扱われているが、日本軍に積極的に協力したことが表に出てくることはほとんどない。彼の行動もまたこの戦を民衆解放の好機ととらえてのものだったのだろうか。
日本へ連れてこられた代表的朝鮮人として有田焼の陶祖李参平がいるが、ともすれば侵略戦争の犠牲者として悲劇の人物として扱われているが、日本軍に積極的に協力したことが表に出てくることはほとんどない。彼の行動もまたこの戦を民衆解放の好機ととらえてのものだったのだろうか。
( 灰色文字は注 )

李参平が日本へ来たのは慶長の役( 豊臣秀吉の朝鮮出兵 )だった。鍋島藩( 現佐賀県 )の多久家に残る多久旧記によると、『 金ヶ江三兵衛と申す者、元来朝鮮人にて、往昔、日峯様朝鮮御帰陣の刻、三兵衛儀、彼の国にて御道御案内申し上げ…  』金ヶ江三兵衛とは李参平の日本名で、日峯様とは鍋島直茂の号である。李参平は南朝鮮の戦場で直茂の軍の道案内をして、身命をかけて忠節をつくした。直茂の軍が帰国の時、このまま朝鮮に残しておいては危害を加えられる恐れがあるので、配下の多久長門守安順に命じて連れ帰ったという。
( 中略 )
戦いに加わった諸将たちは、たくさんの陶工を国へ連れ帰っている。鍋島直茂、黒田長政、加藤清正、島津義弘、細川忠興、毛利輝元らである。諸将たちが陶工に目をつけたのは、当時の日本に焼き物ブームが起こっていたからである。千利休が茶の湯を大成したのも、この少し前であり、茶の湯に使う焼き物は武士や商人たちの間で争って求められた。名器は一国に匹敵するほどの高い価値を与えられていた。織田信長も秀吉も、部下の論功行賞に盛んに利用している。これが日本の焼き物の伝統的な価値基準となり、今日まで続いているのである。茶陶の法外な値段は、このような歴史がつくり上げていったものであろう。

佐賀県の有田焼、福岡県の高取焼、上野( あがの )焼、鹿児島県の薩摩焼、山口県の萩焼などが起こった。文禄・慶長の役を「 焼き物戦争 」という。当を得た呼び方だ。こう名付けたのは、陶芸研究家の故小野賢一郎氏である。「 九州は大陸文化の先進地ですが、こと陶器に関しては後進地です。 …釉薬のかかった本格的な陶器は、鎌倉中期に中国から朝鮮を経由しないで、ストレートに瀬戸( 愛知県 )へ入って来ている。朝鮮に近い九州が、どうして陶器の技術の導入が遅かったか、大きなナゾです。しかし文禄・慶長の役で、九州に窯が一挙に増え、名誉を挽回した。連れてきた陶工の数は、いろいろ説がありますが、鍋島藩だけで150人くらいとして、西日本一帯で、どうでしょう、千人いや七、八百というところでしょうなあ 」と佐賀市在住の美術評論家永竹威氏はいう。
朝鮮陶磁器の歴史には李参平のように名工と呼ばれる人物がいない。名品はあっても製作者の名前が後世に伝わらないからである。いかに陶工の地位が低かったか分る話である。

韓国人の主張に、秀吉軍の朝鮮侵略によって、それまで後進国であった日本が、先進国朝鮮の高度な文化と技術を略奪したことによって、その後の発展を遂げた、というのがある。しかし、その自称先進国の実態はと見れば、彼らが日本人に対して誇る代表的な商品である当時の陶磁器製品は、茶人好みの侘び寂びの素朴な物であって、華麗な絵付けなどは、その後の日本で高度に発展していったものなのである。また、彼らが世界に対して自慢する李舜臣提督が造った世界最初の鉄船などというものは、もともと存在しておらず後世の作り話( デッチアゲ )なのである。
「 日韓・歴史克服への道 」下條正男 平成11年 展転社
有田焼はなぜ全国に広まったのか

そのことは、文禄と慶長の役の際、日本に拉致され、または渡来した朝鮮の陶工たちが、何代にもわたって各藩の窯で陶磁器の生産に従事していた事実の中にも指摘することができる。本来なら陶工たちは朝鮮にいれば官に隷属した身分で、後世に名を残すこともなかった。しかし、市場経済的なシステムが稼働していた日本では、その流通機構の中で独自の位置を確保し続けることができた。だがそれは、日本に渡ってきた最初の朝鮮の陶工たちの技術的水準が、特別に高かったということを意味するものではない。むしろ当時の陶工たちの技術は、朴斉家が「 我国の瓷器、極めて麁( あら ) 」し、「 これを地に置けば、恒に○○( ゲツゴツ )してしばしば傾き、口哨( まが )て色悪し。名状すべからず 」と、口を極めてその粗悪ぶりを指弾しているように、決して高いものではなかった。それどころか、朝鮮時代の人々は、そういった陶磁器よりも金属器である鍮器( ちゅうき )を好んで用いていた。柳得恭が『 京都雑志 』の中で、「 器什 」は「 俗、鍮器を重んじ 」たとするように、実生活では鍮器が尊重され、陶磁器は軽く見られていたのである。その陶工たちの技術が日本で飛躍的に伸長するのは、陶磁器が流通経済に乗り、市場の原理の中で生産されていたからである。

鍋島藩の有田焼( 伊万里焼 )は朝鮮の陶工李参平によって始まり、17世紀の中頃、酒井田柿右衛門が上絵付( 赤絵 )の技法を確立させると、その商品価値は一躍高まった。その赤絵はまもなく長崎のオランダ商館を通じてヨーロッパに輸出されるようになり、欧州でも大きな関心を集めた。その後、ヨーロッパでは磁器の研究が始まり、18世紀に入ると、ドイッのマイセン窯では磁器の製造に成功して有田焼の写しが作られ、フランスのシャンティー窯、イギリスのチェルシー窯でも有田焼の写しが作られるようになる。もともと、赤絵のような色絵磁器の本家は中国であったが、そこでも有田焼の写しが作られるほど、柿右衛門式の赤絵は新機軸を開くものだった。そこで、鍋島藩では磁器を特産品とし、保護奨励政策を行ったが、これに類した動きは陶磁器を製造していた各藩でも見られた。

鎌倉時代から続く唐津焼も、文禄、慶長の役の際に、朝鮮の陶工によって青磁、白磁、鉄絵等の技術が伝えられて隆盛に向かい、歴代唐津城主も保護奨励したため繁栄した。この唐津焼は主に茶人たちに賞玩され、その生活雑器も大量に生産され消費されたことから、関西地域では陶磁器を「 唐津物 」と総称するまでになっている。これは東日本で、茶碗の類を「 瀬戸物 」と呼ぶのと同じである。いわば唐津焼や瀬戸焼は「 唐津物 」「 瀬戸物 」と言うように、商標が普通名詞となったのである。日本ではこのように、陶磁器も各藩の重要な特産品となって他藩に輸出され、各地で食器や茶器として消費されていたのである。

現在、長野県の須坂には、同地の豪商であった田中家が二百年間にわたって便用していた生活用品を展示する「 豪商の館 」があり、近くの松代には松代藩主代々の遺品を展示した「 真田館 」がある。いずれも江戸時代に使った生活道具がそのまま保管されているが、ここには大きな違いが見られる。商人の家では贅沢な有田焼が数多く使用され、大名の真田家では質素な食器を使っていたことだ。これは、商人の経済力がそれだけ大きかったことを示すと同時に、その購買力が陶磁器産業を支えた原動力の一つであったことを物語っている。山また山の信濃の国にある田中家に、どうやって肥前の国の有田焼が運ばれたのだろうか。考えてみると不思議だが、この一事からも、当時の日本の流通は全国津々浦々を網羅していたことが知られるのである。伊万里の港から積み出された有田焼は、船で一路、越後の国の直江津港に運ばれ、そこから信濃川を遡江して飯山に至り、さらに陸路須坂に運ばれ、田中家の食膳を飾っていたのである。有田から須坂までは、直線にしても千キロ近くはある。これは、近世日本の流通がそれだけ活発で、それを維持する需要が絶えなかったということを如実に示している。朴斉家が「 我国の瓷器、極めて麁( あら )し 」とした朝鮮の陶工たちの技術は、こうして日本の流通市場を背景として、新たに生まれ変わっていたのである。

李舜臣の鉄甲船の考証と鉄船の歴史
韓国人は、1592年の文禄・慶長の役において日本水軍に大打撃を与えた李舜臣の亀甲船( 本来の呼称は亀船 )は、世界最初の鉄の船・鉄甲船であると主張しています。しかし呆れたことに船体に鉄板を張った鉄甲船であると裏付ける史料は韓国にはないのです。近年に亀甲船を復元した韓国人金在瑾は著書「 亀船 」( 桜井健郎訳 )の中で「 李忠武公全書にそのことを示す字句が一つもないことから鉄甲船でない 」と明言しています。「 李忠武公全書 」( 忠武は李舜臣の諡号 )とは、1795年に編纂された李舜臣と亀甲船に関する第一級の史料です。

亀甲船の構造を簡単に説明すると、外見の最大の特徴は船体の上部が亀の甲羅のような形をしていて、その部分にびっしりと槍の先や刀を上向きに植え込んでいたことです。当時の軍船の武装では相手の船を沈没させることは困難であり、最終的には敵船に斬り込んで決着をつけるというのが海戦の実態でしたが、ハリネズミのような格好をしていた亀甲船には乗り移ることが困難であったため防御力に優れた軍船であったのです。1592年李舜臣は国王への報告書に次のように書いています。「 私は特別に亀船を造り、船首には龍頭を配備しそこから大砲を放射するようにし、背には鉄尖をさして、中からは外を見ることができるが、外からは中を見ることができず、そのように造れば数百隻の敵船中に突入しても砲撃するることができます 」「 敵が乗り移ろうとすれば剣と鉄に掛かり、近づこうとすると集中銃撃され、立ちはだかることはできない。大小の戦闘でこれで戦果を上げることが多かった 」と記しています。

「 鉄 」という漢字を漢和字典で調べると、「 金属の種類 」をあらわす意味の他に「 刃物または武器 」をあらわすと書かれています。つまり「 鉄甲船 」には、鉄板で装甲した船という意味と刃物で装甲した船という意味があるのです。李舜臣の軍船は刃物で装甲した船という意味の鉄甲船だったのであり、鉄板を張った鉄船ではなかったのである。しかし、仮に木造の亀甲船の一部に鉄板が張られていたとしても、そのようなものを鉄船と称してよいものなのだろうか。木造船体に鉄板を張った軍船ならば李舜臣より前に日本で織田信長の鉄甲船が存在していたのであるが、日本人はこの船を世界最初の鉄船と呼ぶことはない。

1576年大坂石山本願寺との合戦で織田信長の水軍は、木津川口海戦で毛利水軍に焙烙( ほうろく )火矢で攻撃され、ほとんどの船を焼き払われて惨敗を喫した。この戦訓から信長が1578年伊勢の九鬼嘉隆に建造させたのが、大筒( 大砲 )を装備し船体に防火・防弾を兼ねた鉄板を張ったの鉄甲船・大安宅( おおあたけ )船である。同年の第二次木津川口海戦では、毛利水軍の焙烙火矢は鉄張りの鉄甲船にまったく効果がなかった。鉄甲船に積まれた大砲の威力は凄まじく、毛利船団はなすすべもなく蹴散らされたのであった。鉄板張り軍船の優位性を見せつけた海戦であった。

金属張りの船ならばさらに画期的なものが、すぐ後の時代に日本で建造された。1631年三代将軍徳川家光の時代に、幕府の戦力を誇示するために建造された安宅( あたけ )丸である。これは未曾有の巨船で、推定排水量1700トン、全長62メートルで二人がかりの大櫓100挺立てという空前の規模であった。特筆すべきは矢倉を含む船全体を厚さ3ミリの銅板で覆っていたことで、30センチ厚の外板との組み合わせで鉄壁の防弾・防火能力を誇っていた。また、船底にまで張られた銅板は、、フナクイムシなどから防ぐ役割ももっており、これは西欧よりも一世紀早い船底銅板張り船の出現であった。また、日光東照宮なみだったという華麗な装飾ともあいまって、日本はじまって以来の最大最強にして華麗な戦艦であったが、維持費も莫大なものになり、その負担に困った幕府は1682年に解体してしまった。

世界の船舶史上で鉄で作られた最初の船とされているのは、1777年イギリスのヨークシャーで造られた河川用の小さな旅客船であったが、船材としての鉄は木造の船体を補強するためにそれ以前から用いられていた。1820( あるいは1821 )年には最初の全鉄製汽船アーロン・マンビーがイギリスで建造され旅客船として英仏間に就航し、1861年には軍艦としては世界最初の全鉄製船体のウォーリアがイギリスで進水している。ちなみに1853年幕末の日本にやって来たペリーの黒船は、鉄船であったように言われることもあるが、蒸気外輪を装備し黒い塗料を塗った木造の軍艦であった。

( 参考 石井謙治「 日本の船を復元する 」学習研究社、任正[火+赫]「 朝鮮の科学と技術 」明石書店、桜井健郎「 李舜臣提督と亀船 」 )