大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
元寇と倭寇


元寇は、後年の倭寇や秀吉の朝鮮出兵の遠因となった
「 韓国・中国歴史教科書を徹底批判する 」 勝岡寛次 2001 小学館文庫
元寇は、元と高麗の連合軍によって構成されていた。したがって、韓国( 高麗 )は秀吉の朝鮮出兵の三百年も前に、立派に( ? )日本を侵略していたことになる。さてこの元寇について、韓国の教科書はどう書いているか。

  『 元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。元はこうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。元は日本征伐のため、高麗に征東行省という役所を置いた。征東行省は、日本遠征が失敗した後には元と高麗との公共連絡機関として運営された。 』

たったこれだけである。後述するが、秀吉の朝鮮出兵には何ぺージも費やす韓国の教科書が、自ら日本を侵略した行為についてはわずか数行の記述で済ませている。しかも、なんと高麗は元に「 強要 」されて、仕方なく日本に「 遠征 」したのだそうである。これも大嘘である。『 高麗史 』によれぱ、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めたことによる。( 下條正男『 日韓・歴史克服への道 』 )

しかも高麗軍は日本で何をしたか。最初に侵略を受けた壱岐・対馬の二島では、住民は男はことごとく殺され、女は手に穴をあけられて数珠( じゅず )つなぎの捕虜にされた。二百人の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された。今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「 モッコ( 蒙古の訛り )来るぞ 」とあやす言い方が全国各地に残っているが、元寇から七百年を経過した今なお、日本人の蒙古・高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのである。当時の日本人の恐怖は、想像するだに余りある。

実は後年の倭寇も秀吉の朝鮮出兵も、この元寇と無関係ではない。李朝後期に安鼎福が書いた『 東史細目 』では、倭寇の原因が元寇にあったとし、李[+]の書いた『 星湖[+]説 』では、秀吉の朝鮮出兵も究極の原因は元寇にあったとしている由である。 ( 下條正男、『 日韓・歴史克服への道 』 )

倭寇や「 壬辰倭乱 」( 秀吉の朝鮮出兵 )は大々的に書き立てる韓国の教科書が、元寇については他人事のように頬被りをして責任逃れをし、たった数行で片づけている。

さて、次はその倭寇であるが、韓国の教科書ではどう書いているか。

  『 倭寇は、対馬島を根拠地とする日本の海賊で、早くから海岸地方に侵入し、掠奪行為をしていた。恭愍王( きょうびんおう )代には倭寇に江華島まで掠奪され、開京が脅かされるほどであった。これにより租税の海上運送ができず、国家財政が苦しくなり、海岸から遠くはなれた内陸まで倭寇が侵入して、大きな被害をこうむるようになった。高麗は倭寇をおさえるために日本と外交交渉も行ったが効果をあげられず、結局武力で討伐した。崔茂宣( チェムソン )は火砲をつくって鎮浦の戦いで倭船を焼きはらい、崔瑩( チエヨン )と李成桂はそれぞれ鴻山と荒山などで倭寇を大いにうち破った。つづいて朴○( パクウイ )は戦艦100隻を率いて倭寇の巣窟である対馬島を征伐し、その気勢をくじいた。( 中略 )高麗未に大きな騒乱をおこした倭寇は、朝鮮初期にもわが国の海岸に侵入して略奪をやめなかった。そこで世宗のとき、李従茂などが200隻の艦隊を率いて倭寇の討伐に向かい、対馬島を征伐した。 』

こういう記述である。倭寇は「 対馬島を根拠地とする日本の海賊 」と書いているが、朝鮮に「 三島倭寇 」という言葉がある通り、倭寇の根拠地は対馬・壱岐・松浦それに博多等、いずれも元寇の際、高麗軍の直接の被害をうけた地域の住民であった。倭寇の記録として、残っている最初のものは高宗10( 1223 )年である。元寇の余燼いまだ収まらぬ対馬や壱岐の島で、残虐な高麗軍により親を奪われ、子を奪われ、辛うじて難を逃れた住民が、高麗に深い恨みを抱くに至ったのは、むしろ人間の情として自然ではないが。それに、対馬は土地が狭く、耕作には適さない。太古の昔から日本や朝鮮との交易で生計を立てていた。高麗に交易を阻まれ、生計の道を断たれた結果として、対馬の民は朝鮮の海岸を襲うようになったのである。当時の高麗は、元寇に先立つモンゴルの侵略により、数十万の男女が捕虜となり、あるいは虐殺され、非常に国家自体が弱体化していた。その弱みが一層倭寇の行動を刺激し、誘発したことも事実である( 田中健夫『 倭寇と勘合貿易 』 )。

もう一つ、韓国の教科書が全く無視して書かない重要なことがある。倭寇は日本人だけではなかった。『 世宗実録 』28( 1446 )年の記事によれば、倭寇のうち日本人は一、二割に過ぎず、ほかは日本人に成りすました朝鮮半島の民であった。高麗時代の末期には、軍隊や官吏は統治能力を喪失して、治安を維持できない無政府状態にあった。人々は、「 倭寇を仮りて露命をつなぐ以外に、生きる術がなかった 」のである( 下條正男、前掲書 )。こういうところにも、自分に都合の悪い事実は書かないという、韓国の教科書の悪い癖が表れている。これも、「 過去が暗いからといって隠し 」ている、韓国の教科書の一例であろう。

扶桑社の『 新しい歴史教科書 』は、倭寇について次のように書いている。『 倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国大陸の沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには、日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていた。 』

簡潔な記述だが、間違いではない。ところが、韓国はこれに異を唱え、『 倭寇の発生原因に関する説明が欠落 』 『 倭寇=日本人 』という既存の歴史認識を払拭させるため倭寇に朝鮮人と中国人を含めて記述 」と言ってきた。おかしな要求である。発生原因など、韓国の教科書を見てもどこにも書いてありはしない。発生原因など書いたら、それこそ高麗の日本侵略と高麗自身の弱体化に原因があるということになり、韓国自身、天に唾する結果になるのではないか。それに、「 日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていた 」のは「 既存の歴央認識 」の「 払拭 」などではなく、朝鮮の史書自体が認めていることではないか( なお、後期倭寇には中国人が多く含まれていた。これについては後述 )。韓国の修正要求は、メチャクチャである。

倭寇の主体は日本人に成りすました朝鮮人と中国人だった。
「 国史大辞典 第十四巻 」 平成5年 吉川弘文館
【14-15世紀の倭寇】
『 倭寇 』という固定概念が成立するのは、1350年以後で、行動の地域は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京( 開城 )の付近にも出没し、さらに内陸部の奥地にまで姿を現わすようになった。規模も次第に大きくなり、400〜500艘の船団、1000〜3000の歩卒、千数百の騎馬隊を擁する集団も出現した。

この時期の倭寇の構成員には( 1 )日本人のみの場合、( 2 )日本人と朝鮮人の連合、( 3 )朝鮮人のみの場合が考えられる。
( 1 )の日本人のみの場合、朝鮮に『 三島の倭寇 』という言葉があり、対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民と推定される。( 中略 )

( 2 )・( 3 )の存在については、1446年( 世宗28年 )判中枢院事李順蒙が、その上書の中で『 臣聞く、前期( 高麗朝 )の季、倭人は一、二に過ぎずして、本国( 高麗 )の民仮に倭服を着して党をなし、乱を作すと 』と書いているのが注目される。倭寇のうち日本人は10〜20%にすぎなかったというのである。高麗人で倭寇と連合したのは水尺・才人とよばれた賎民と、土地制度紊乱の犠牲となって逃散流亡を余儀なくされた農民や下級官吏とである。

【16世紀の倭寇】
明では海禁政策をとり、人民が海上に出ることを禁じ、自由に海外と交易することを許さなかった。しかし、国内経済の発展は海禁の維持を困難にし、浙江・福建・広東などの地方では海禁を犯して海上密貿易に従事するものが急増した。( 中略 )中国ではかかる密貿易者群を一括して倭寇とよんだ。( 中略 )十六世紀の倭寇の特色は、構成員の大部分が中国人で占められていたことである。真倭といわれた日本人は10〜20%、偽倭・仮倭・装倭とよばれた中国人が主力であった。
「 倭寇 」という名辞は、もともと中国・朝鮮に起源があり、日本で発生したものではない。明治以来、その実態が本格的に解明されないまま、日本史上の名辞に取りいれられ、一般に流布してしまった。( 中村栄孝著「 日本と朝鮮 」より )
倭寇=日本人という歴史認識を払拭させるためにも別の名称にすべきだ。