大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
日本の善政1
( 医療衛生の改善と人口増加 )





韓国の教科書に載らない日本の善政 その1
総督府による農業政策の成功で飢饉がなくなり餓死者がでなくなったことと、近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったうえ乳幼児死亡率の低下で人口が爆発的に増加していった。 ( なんと植民地36年で倍増 )

朝鮮半島では疫病が頻繁に流行し多くの死者がでた。
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
伝染病問題は、朝鮮半島で飢饉以上に頻繁に発生した。飢饉に続いて、連鎖的に疫病が襲いかかった。もちろん、それは朝鮮半島に限らず、中国大陸においてもそうであった。朝鮮半島では、17の中葉ごろから、平均2.6年に1回の割合で疫病が大流行した。趙珠氏の『 19世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識 』198ぺージ )によれば、17世紀の中葉ごろ〜19世紀の中葉の間に、年間10万人以上の死者を出した疫病が6回もあった。1749年の全国大疫病では、死者50万人以上とも記録されている。「 民乱 」や「 倭乱 」、「 胡乱 」といった戦争以上に、朝鮮半島の人命を奪ったのは、ほかならぬこの疫病の大流行であった。著名な自由主義者で、植民地論者の新渡戸稲造は、「 植民地経営の要は、衛生の改善にある 」という植民地論を展開したほどである。

李朝は、天災と疫病のたび重なる発生をそのまま放置した。李朝末期となると、朝鮮の高官たちは、ほとんど政権争奪に明け暮れ、いわゆる「 三政紊乱 」‐−政治腐敗、官庁の綱紀紊乱、官吏の横暴が絶頂に達し、もはや治山、治水や疫病を退治する余力がなくなっていた。

朝鮮人には衛生観念が無く日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。
「 韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実― 」 黄文雄 2002年 徳間書店
「 日帝 」以前のソウルは世界一不潔な都市

 …首都ソウルでさえ非常に不潔であった。当時の洋夷(西洋人)の目からみても、日本人からみても、日清戦争前のソウルは、世界一不潔な都市だったという。細井肇( 朝日新聞記者・自由討究社創立 )の「 漢城の風雲と名士 」( 「 政治史 」第77巻、ペリカン社、豚犬的生活5 )にある記述は比較的わかりやすいだろう。

『 韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花が場所も嫌わず狼藉と咲き乱れて居て、足の踏み場もなく潔癖者は一見その不潔と臭気に驚くのだ…。現に、この国の中央都会の地たる京城の如き、一名を真の帝都と緯号( あだな )されて居る程で、至る処人糞或いは牛馬糞を見ざる無で、紛々たる臭気は鼻を襲ひ眼を顰( ひそ )めぬ者とてはない。そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、排泄する糞尿を混じ、その水は一種の黄色を帯び、ドロドロとなって居るなど、実に眼もあてられぬ光景で、洗濯などに遣って居る。なんと鼻持ちならぬ咄( はなし )ではないか。毎年夏期になると伝染病が流行し、その伝染病に罹( かか )る患者の多くは韓人で、非常なる大流行を極め何千人を驚かすは珍しくない…… 』

氏は、京城の糞は煙管( キセル )、虱( しらみ )、妓生( キ−セン )、虎、豚、蝿などとともに、韓国の七大名物として取り上げている。また、韓国の首都ソウルでもこの有り様なのだから「 世界一の糞の国 」だと称し、その糞を処理するのは犬と豚であるとも言っている。

「 在日朝鮮人―歴史・現状・展望 」 朴鐘鳴編 1995年 明石書店
日清戦争に従軍して朝鮮に渡った兵士の一人は次のように記している。『  …さらに驚きは、聞きしに勝る不潔である。道路は塵糞にておおわれ、不潔の大王をもって自ら任ずる豚先生、子分を引き連れ、人間どもを横目で睨みつつ、道路を横行する。臭気鼻をつき、嘔吐をもよおすなり…  』 
( 浜本利三郎著・地主愛子編「 日清戦争従軍秘録 」青春出版社1972年 )

「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社
当時の韓国を訪れた外国人は筆をそろえて、いかに不潔だったかに、驚いている。

ビショップ夫人は「 ソウルは汚ないことと臭いことでは、世界一である 」と書いている。『 25万人の同市民は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動( しゅんどう )していると形容したほうがよいだろうか。その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。路傍には悪臭が芬々( ふんぷん )とする溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と、獰悪( どうあく )な犬とによって占領せられている 』

『 市街の中心を西から東へ流れる下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている 』

『 南山の中腹に日本公使館があるが、木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。その麓に日本人居留地があり、約五千人の日本人が小さな天地をつくっている。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい 』
( 「 三十年前の朝鮮 」バード・ビショップ 1925年 )

「 炎は流れる 第3巻 」 大宅壮一 昭和39年 文藝春秋
統監府の外務部長として赴任した小松緑の書いたものによると、
『 京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、そのそばの土溝( どぶ )には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路( わいろ )の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、通るたんびに命がちぢまるといっていたくらいだから、その非衛生的穢状が察せられるであろう 』
そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、
『 やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか 』
といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、小松の話がウソではないことを知り、さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、日系官吏のために官舎が建てられることになったという。

「 悲劇の朝鮮 」アーソン・グレブスト( 高演義・河在龍訳 1989年 白帝社 )
釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほどいいものではなかった。道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。日本のように人目を引く商店や、古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積もり、長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。あちこちに乾上った下水道があるが、そのべとべとした底ではいろんな汚物が腐りかけている。そしてその中で髪の毛の長い子供たちが遊んでいる。朝鮮の海辺の村落を通り抜け、車夫らは道がより広く比較的きれいな、日本風の市街地へ向かった……


総督府が医療衛生の改善に取り組む前の李氏朝鮮時代がいかにヒドイ状態であったかを韓国人は知るべきである
( ※注意 気の弱い人や、食事前には読まないで下さい )
「 最近朝鮮事情 」 荒川五郎著  明治39年( 1906年 ) 清水書店
( 灰色文字は注 )

( 本書は衆議院議員で中国新聞社主筆でもあった著者の朝鮮視察記 )

五、六人以上朝鮮人がいるうちには必ず一、二人は痘痕( あばた=天然痘が治った後、顔などに残る窪みのこと )の者がある、これは衛生の思想の無い明らかな証拠で、天然痘が流行しても種痘をしてこれを予防するなどの考えも無ければ、またその道も開けていない、だから今どき日本の内地には痘痕面( あばたづら )の人はメッタに見られないけれども、朝鮮では至る所にこれを見ることができる、しかし今では種痘も漸次広まりつつあるそうである。朝鮮は概して飲料水がよくない上に、朝鮮人の無頓着なることは、雨が降って河川が赤濁っておっても、これを濾( こ )して用いるなどの考えは、更に無い、そこで赤痢じゃの、腸チフスなどの病気がとかく発生しやすい。
( 中略 )
朝鮮人の不潔ときたら随分ヒドイ、てんで清潔とか衛生とかいう考えはないから、いかに不潔な家でも、いかに不潔な所でも一向平気で、濁った水でも構わないどころか、小便や大便の汁が混じって居っても、さらに頓着せずにこれを飲む、実に味噌も糞も朝鮮人には一所である。といえば朝鮮に行かない人には、極端の言いようのように思われるかも知れないが、事実その通りで、一例をあぐれば、家を造るに、壁土の中に馬糞などを混ぜて喜んでこれを塗る、その訳は馬糞を混ぜると壁が堅くなって泥が落ちにくいというている。さらに驚くべく信じ難い程であるのは、朝鮮人は小便で顔を洗い、気目がよくなるというて居る、また小便は腎虚や肺結核や解熱等に有効じゃというてこれを用い、また強壮剤じゃというて無病の者でも飲んでいる、いよいよ病気が重くて生きられまいという時は、大便を食べさすということも聞いている、なんと驚かしいことではないか。塵や芥( ごみ )がばらけておろうが、物が腐って臭かろうが、食物に蝿などがたかって汚しても、更になんとも思わないで、年中風呂に入るの、湯をつかうのということは無い。夏など穴のような家の中はもちろん蒸し暑いものであるから、たいていは家の外に露宿をする、その頭元には糞や小便が流れており、悪臭はふんぷんとして鼻をつく程でも、朝鮮人には感じが無いらしい。

日本の者が朝鮮に入り、朝鮮人家の間に雑居し、または朝鮮内地を旅行して朝鮮人の家に泊まると、一番に困るのは家の不潔であるのと、一種の臭気を吐き気を催すほどであるうえに、南京虫がやって来るので、実に快く眠ることができないからである。また小便壷はたいてい室の中に置いてあって、大人でも小児でも、客の前であろうが、誰が居っても構わず、、ジャ〜と小便する、またその小便器を口の側に持って寄せて唾を吐き込む、彼らは久しい慣習で、別になんとも思わぬらしいが、日本人の目から見ればいかにも見苦しい、たまったものではない。これが田舎になると一層ヒドいのはいうまでもないが、しかし田舎のみではない、京城でも割合に不潔でないのは大路位のみで、少し折れて小路に入ると、その臭気は鼻をおおっていなくては通れない程で、塵や芥が道の上に散り乱れており、家々の便所から大小便は勝手に流れ出でつつある、そこらあたりを朝鮮の小児らは平気でガヤガヤと戯れ遊んでいる。
( 中略 )
一度長雨が降ると、泥まった水は不潔物と一所になって道の上でも脛の方までもくる程みなぎって、室内の道具などただよわしてもこれを洗うのなんのということは更にない。婦人がポチャポチャ衣物の洗濯をしているので、行って見れば濁り黒んで、小便水やら雨水やら更に見分けはつかない中にセッセと、揉んだり打ったり、汗水たらしてやっている。
( 中略 )
また朝鮮の食事が心地悪いのは、釜の萬用である、飯を炊いたり、汁を煮たりするその釜で、汚れた衣服も煮る、時としては不潔物などがついている事があっても平気でこれを煮るのである、潔不潔の観念の無い朝鮮人には平気でも、日本人には実にたまらぬことである。
( 中略 )
朝鮮人は病気とかその他吉凶禍福の事など多くは皆迷信に支配せられて、医薬よりも祈祷、勤勉よりも祈願、戒慎( 自己批判・反省 )よりも呪詛という有様で、為に身を損ない身代を失い困難に陥るものはドレだけか分らない。病気にかかるとたいてい死霊生霊、その他狐等のつき物の為に、その崇( たた )りでこのようになるのであるからというて、巫女( みこ )を招いて祈祷をしてもらう者が多い、巫女の他に、男子で修験者のような者もいる。この風は下つ方ばかりではなく、王様の宮中でも今日まだこの弊風がある、去る明治三十五年の夏、北清地方からコレラが伝わって来かかったので、その時宮内府顧問であって米国人のサンズが勧めて、勅令をもって警務庁に臨時衛生院というものを設けこれを予防しようとしたのに、宮中ではかえって巫女を集めて悪疫退治じゃと称えて、しきりに祈祷をやっていた。また人民もこれになろうて、国中八方から、名高い巫女を呼び寄せ、一の大祈祷会をするという有様で、文明的の予防法には耳を傾ける者が無いから、折角の臨時衛生院もなんの活動もすることが出来なかった。

不衛生な環境であったため疫病がたびたび流行したが、医学の立ち遅れていた朝鮮では、病気治療や伝染病予防は迷信にすがるしかなかった。
「 韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実― 」 黄文雄 2002年 徳間書店
韓国の医療史や疫病史を見ると、たいていは巫女( シャーマン )をはじめさまざまな信じられない迷信によって治療を行っていた。グレブストの『 悲劇の朝鮮 』のなかに、いくつかの治療法が書かれている。たとえば、牛糞を塗る。ヒマワリの種を湯がいて食べる。患者がモモの種を二つに割り、一方に「 日 」の字、もう一方に「 月 」の字を書いてハチミツで再びくっつけて一気に飲み込む。小さな蛙を3匹生きたまま丸飲みする( 腹痛に即効 )。重症の場合は、煮たカササギを1羽、あるいは焼いた犬の足を4本食べるといい。あるいは、茄でた熱い海藻を腹のまわりに巻く。じっくり沸かしたお湯に40歳の女性の髪の毛を入れて飲む。ガマガエルを地面に仰向けにし、その腹を3度叩いて地中に埋め、また掘り出してから紐でしっかり縛ってから火で焼いて粉にして水で飲む、など。こういった民間療法は、数千年来ほとんど変わっていなかった。

ところが、大韓帝国の最後の皇太子( 純宗 )の妃・純明皇后は、こういった民間療法の医者にかかって死んでしまった。皇太子妃ははじめ、腹が腫れた病気にかかり、女医たちに診てもらったところ、「 ご懐妊 」との診断であった。女医たちは高宗からご褒美をもらったが、間もなく大変なことになると察知して逃げてしまった。妊娠ではないとわかった高宗も、あわてて韓国一の名医に診てもらい、妃の腹に悪霊( 鬼 )がすみついたと信じ、城門の戸板をはがして煎じて妃に飲ませたものだった。その数日後、妃はあえなく逝去した。韓国最高の名医でさえ、この有り様である。韓国の医療衛生状況が、いかなるものだったかが窺い知れるだろう。

「 白凡逸史 -金九自叙伝- 」 梶村秀樹訳 1973年 平凡社東洋文庫
( 金九は独立運動家で、上海にあった大韓民国臨時政府の主席であった。 )

父の子供の頃の別名は「 孝子 」だった。それは、祖母が亡くなる時父が自分の左手の薬指を小刀で切ってお祖母様の口に血を注ぎ入れられたところ、いったんよみがえられ、三日間生き延びられたことからきているという。
( 中略 )
わたしは、以前祖母の亡くなられる時、父上が「 断指 」をなさったことを思い出し、わたしもせめて「 断指 」でもして、一刻でも父の命を延ばしたいと思った。だが、わたしが「 断指 」するのをごらんになれば母上が心を痛められるだろうと思うと、それもできず、その代わりに自分の腿( もも )の肉を一切れ切り取り、血は器にとって父の口に流し込み、肉は火にくべて、「 薬です 」と言って父上に差し上げた。それでも目立った効験がないので、血と肉の量がまだ足りないのだろうと思って、私は再び小刀をとり、前のものよりもっと大きく肉を切り取ろうとした。ざくっと切りこんではみたが、切り取ろうとするととても痛く、傷口がついただけで切り取ることはできなかった。「 断指 」や「 割胯( 腿を割きとること ) 」は孝子のすることで、私のような不孝者にはそれもできないのだ 』と、自らを欺いたのだった。

「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
この街道沿いでも村々のそばには、村人をコレラなどの伝染病から守るという、先が二股になった柱が立っていた。その日ある四つ辻を通ったとき、ねずみ捕りのような穴を数ヵ所あけた細くて小さな丸木が道に転がっていた。穴のひとつは木の栓でふさいである。簡単に見落としてしまいそうな木切れなのに、馬夫は用心深くそれをまたいで通り、馬にも踏ませない。栓をした穴にはどこかの家に病をもたらした鬼神が、ムダンつまり呪術師の魔術で閉じこめられている! 通行人はこの丸木をまたいで通るのが正しい。日暮れとともに丸木は土に埋められる。

Link 村山智順所蔵写真選  --->  李朝時代の迷信と民間療法の記録写真

日本統治で近代医療衛生制度が確立される。
「 醜い韓国人 朴泰赫 」 1993年 光文社
日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕( ビョンマク )の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵( むしろ )をかけたうえで、厠( かわや )を焼き払った。厠は家の外につくられていた。

日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。

私が少年だったころには、通学路の途中に、道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、子ども心に恐ろしく思ったものだった。多いときには、80人近くの病人が収容されていた。

それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死( ケクサ )と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。

しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった。私たちの村では病幕が、私が小学5年生になったときまであった。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。

各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。

朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。

朝鮮人は疫病死と餓死の恐怖から解放された。
朝鮮人人口の推移、急激な増加がみてとれ李朝時代と比べると倍増している。総督府による医療衛生制度の導入と食糧増産政策によって、これだけの人口が養えるようになったのである。 韓国人と反日左翼は総督府の植民地経営の善政を一切認めないが、これは輝かしい成果の一つではないのか?
 
「 朝鮮総督府統計年報 」  朝鮮総督府編
年次 年末常住人口・( 注 )1944年は5月
1910( 日韓併合年 ) 1312万8780人  ( 注 )初期の調査は精度が低いとされている
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人( この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた )


2001年小泉内閣は、日本のハンセン病患者に対し強制隔離など非人道的取り扱いがあったことを謝罪し補償金を支給した。しかし朝鮮のハンセン病政策は、自分たちの処遇改善を総督府に要求して勝ち取った結果なのである。
「 ソウルに刻まれた日本 」 鄭雲鉉 武井一訳 1999年 桐書房
(日本統治時代)歴史はただ一度だけ、総督府の前でデモ事件があったことを記録している。

今は治療術がよくて問題はないのだが、その当時、「 ハンセン病 」は「 天の制裁( 天刑 ) 」と呼ばれていた。彼らは家族から捨てられ、当局にとっても蔑視の対象でしかなかった。彼らはどんな形であろうとも保護を必要とすることと、同時に周囲の関心を喚起させる必要を感じたあまり、植民地時代に「 デモ 」という形で意思表示を強行したのであった。

1932年、朝鮮全域から集まった「 ハンセン病 」患者600名の行進者は、光州から歩いて12日で京城に到着した。警察も憲兵も、ハンセン病患者ということで彼らを怖がって彼らの行進を阻止できなかったのだ。行進は崔興[+]牧師が指導した。結局、総督府当局はハンセン病患者の代表、崔牧師と宇垣総督の単独面談をとりもって事態を収拾した。旧朝鮮皇室と、日本の皇室、そして朝鮮内の有志が寄付金を寄託し、その金で小鹿島の療養施設を拡大し、この事件を契機にハンセン病患者の治療政策を新たに考究したという。