大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
植民地支配の総論




アメリカ人による日本の朝鮮統治の評価
「 日本・アメリカ人にとっての鏡 」 ヘレン・ミアズ 1948年( 「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社より )
「 1894年7月29日に、韓国におけるわが代表であったシル氏は、次のように書いている。『 日本は韓国に対して非常に親切に行動したいと思っているように見える。日本は断乎、中国の統治権の軸を解き放って、弱小な隣国を援け、その独立国としての立場を強化することのみを希望しているように見える。即ち日本は、韓国国民に平和と繁栄と開化をもたらすような諸改革の実行を支援しようとしている。この動機は知識層の韓国官吏の多くを喜ばせているし、また、アメリカでも不賛成なことはなかろうと私は思う 』 ( 中略 ) 」

「 今日、日本による朝鮮『 隷属化 』を非難するのにあたって、われわれは朝鮮において日本政府は、例外的なぐらいにひどい植民地統治をやったという。しかし、病院、学校、朝鮮人の政治への参与( 地方行政の場合 )、通信、産業の発達、資源の開発など、通常『 進歩的 』発達の標準として認容されている基準から判断すれば、日本の記録は、通常の植民地母国の標準、いや、はるかにそれに、立ち勝っていた。今日、日本の朝鮮統治を非難する者はその根拠を、日本の主要な目的が朝鮮大衆の福祉よりも、日本自身の国家の安全の確保と経済的財政的福祉にあった、ということに置くのだ。しかし、そのような状態は、すべての西ヨーロッパ植民地母国によって、当然なことと容認されているのである 」

「 朝鮮において悪かったことは、日本の統治ではない。植民地制度そのものであった。1894年当時、アメリカ人のシル氏が日本の改革計画に賛同して、『 国民に平和と繁栄と啓発をもたらすもの 』と評価したとき、おそらく氏はこの人道主義的な言葉をまじめに書いたことだろう。日本人は、朝鮮国民の『 指導 』の責任が日本にあるとする理由を説明するのにあたって、朝鮮のように長年の虐政でひどく痛めつけられた国民には、『 独立 』などは不可能であるといった。おそらく日本人はそのとき、今日、われわれが同様なことを口にしているのと同程度に、真剣なことだったろう 」

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。統監府以前の朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学( せきがく )ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、地方の古老にも接して今昔を比較し、天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。朝鮮総督府は人さらい、草賊( 盗賊 )暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった。

「 朝鮮新話 」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
( 灰色文字は注 )

( 著者の鎌田澤( 沢 )一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、農村振興運動の推進に大いに貢献し、朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、セマウル運動( 新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの )の指導のために何度も韓国に招かれている。 )

カイロ会談やヤルタ秘密協定に於て、台湾や朝鮮は日本の領土から離れては行つたが…( 中略 )永年の施政の歩み方が、スペイン、ポルトガル、オランダ等にその端を発する西欧式植民政策のごとき、搾取弾圧にあらずして培養と融和にあつたことをこの機会に於て事実を基礎とし、数字の上に於て、科学的に認めるべきであると思ふのだ。( 中略 )生蕃( 国家に服属しようとしない台湾原住民 )とマラリア蚊の棲む南海の小島台湾に、蕃民の宥和宣撫に成功して、治安を確立し、電源を開発して生産を起し、二期作の進歩的米作技術によつて、莫大な米を増産するに至り、尨大( ぼうだい )な砂糖産業を起して、一億に近い人口の砂糖自給を完成し、樟脳、薬品その他の輸出物資の科学的造成に成功、現住島民の生活水準を著しく高め、往年の瘴癘( しょうれい=熱病や皮膚病 )悪疾の小島変じて宝島となり、遂には蒋介石並びにその尨大なる国民軍を養ひ得、中国共産党垂涎の的になつてゐる台湾は、トルーマンの「 後進国の未開発地を開拓して生産を起し、当該住民の生活水準を上げて人類の福祉を増進すること 」を半世紀の昔からすでに日本が実践して来てゐることの実証になるのだ。台湾所属の決定がもし住民の自由意思による投票となるならば、恐らくはその八割五分が日本へ投票するであらうと心ある台湾人が言つてゐることは決して故なしとしないのである。

朝鮮は歴史的立場が根本から異なる為に、決して台湾に於ける本島人( 台湾人 )の如き感情をもつことは出来ないであらう。しかし事態を公平に認める良心をもつ人々は、併合前のあの混乱と貧窶( ひんる=貧苦のためにやつれること )な状態とに比して日華事変勃発前までの平和と繁栄とが、如何に朝鮮民族の生活を高度に上げたかを認めるに吝( やぶさ )かでないであらう。昭和七年国際連盟のリットン調査団一行が、京城を訪れて宇垣総督と会見したが、そのとき一行中のアメリカ代表マッコイ少将は、初対面の宇垣総督の手を握るやいなや、左の感想を洩らして挨拶に代へたのである。

「 自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧( は )ぢている。何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、相変らず匪賊( 盗賊 )が横行し、産業も振るはず、赭土( あかつち )色の禿山の下で、民衆は懶惰( らんだ )の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた。然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜々( しし )として耕作に従事し平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏( まと )い、治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、満州に比べて実に隔世の観がしたのである。これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直にお歓びすると同時に、今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう 」とその言を著者はその席で聞いてゐたのである。団長のリットンは英国人であるから苦い顔をして、ぢつと見てゐたが、由来率直なアメリカ人気質として、そんなことにはお構ひなく正直に述べて笑つてゐた。マッコイ将軍はその後陸軍をやめ、極最近までアメリカにおける極東委員会の委員長をしてゐたのは、そのころの満州や朝鮮の調査経歴の為であらうと思はれる。

マッコイ将軍の言葉の中の、まづ治安が確立し、見渡す山河が青くなつたのは寺内( 総督 )の武断政治と植林政策の為であり、水田耕作が拡大されて、もとの海中にまで稲が稔るに至つたのは、斉藤( 総督 )・下岡の産米増殖企劃( きかく=企画 )であり、そのころ急に工業地の煙突から活発な煙を吐くに至つた事実は宇垣( 総督 )産業開発政策の為であつた。併合当時僅か八百四十万石の生産に過ぎなかつた米が、やがて二千五百万石を算するに至り、毎年平均八百万石を日本内地へ移出し、その代金で朝鮮の人々は安価で豊富な衣料、金物、雑貨その他の生活物資を整えることが出来た。又新工場が次々と設立されて行つたから、世界一の自然増加をもつ人口をも吸収することが出来て行つたのである。

人口の自然増加の比率は、そのころ日本が世界一であつたが、その本土よりも朝鮮の方がやや高率であり、併合時一千三百万の人口が、終戦当時三千万近くに殖えてゐた。だから、日本にとつて人口問題の解決は、朝鮮は全然その対象にはならなかつたのである。何故かならば日本人が朝鮮に住んでゐる数と、朝鮮人が日本に入国してゐた数とは、つねに匹敵し、時に朝鮮人の方が優勢であつたからである。人口の急激な増加は、未開国に平和と産業を与へ、衛生施設が上昇したときに起る現象であることは、今更言ふまでもあるまい。その培養経済政策による生産の上昇は平均して二百倍に達し、鉱工品の如きは物によつて五百倍、五千倍に達し、全くの無から有を生む尨大( ぼうだい )な生産品も現はれて来た。

ただ学校の数はいつの時代にも足りなかつた。由来朝鮮人は古い文化をもつことを誇りとする民族だけに、教育についてはつねに熱心であつた。平和と安定がつづいたために勃然として教育熱が起こつて来たが、予算の関係と、高等遊民の問題とがからまつて、下は小学校から上大学に至るまで、その拡張が朝鮮人の希望する様に出来なかつたことは気の毒であつた。教育の為なら金はいくらでも出すといふ民風であつたから、私立学校を許せばまだまだいくらでも学校の拡張は出来たであらうが、私学が民族主義と共産主義の温床となることを恐れて、之を極度に制限した。従つて根本的には培養と融和、一視同仁でありながら、文化政治の基本となるべき学校問題で差別をつけ大学の入学比率を設けたり、小学校の校舎や教師が足らず折角の向学熱を押へる様な結果になつて了( おわ )つたのだ。但( ただ )歴代総督の教育方針は、まづ義務教育を一日も早く完成し、徹底的に文盲退治をやり、その上高等教育を完全平等の域に進めるつもりで、差別をしたり制限を設ける意図は全然なかつたが、辛うじて補給金で賄つて来た予算の関係で漸進主義で行くより外に途がなかつたのだ。

歳入の基礎となるべき税金は、日本人に重く、朝鮮人に軽かつた。昭和十二年度において内地における国民一人あたりの課税額平均六円三十五銭八厘であつたとき、朝鮮人のそれは、只の八十八銭五厘であつた。又先進国が植民地における唯一の大衆課税であつた人頭税と塩税はとらず、朝鮮人は本土の日本人よりも一俵一円五銭安い塩を嘗めることが出来てゐた。だから併合以来つねに朝鮮総督府の予算は赤字つづきで、大体毎年平均一千三百万円位づつの補給金を出さなければ均衡予算とはならなかつたのだ。時に三千万円以上の補給金を出したことも珍しくなかつた。随つて国家予算に於て十数億、民間投資に於いて五十億を本国から持出してゐた。かくて朝鮮の経済社会は、容易に資本主義の初期にすら達し得ず、未だ搾取の対象にさえなつていなかった。それは資本主義の前提である封建社会をもたなかつたからである。

かかる段階に於いて終戦を迎へたのであつたが、国家財政の面と民間投資と民衆課税の実際から判断し、日本の植民政策は搾取にあらずして、未だ培養過程にあつたと言ふことは出来るとともに、その教育政策の如きも財政上最高の比率は出してもせいぜい一面一校の完成位で、朝鮮人の最も希望する教育方針が漸進主義となつて了つたが、それにしてもソ連や中国、印度、仏印( 現ベトナム地域 )、ビルマ、タイ、蘭印( 現インドネシア地域 )等東欧や東南アジア諸国に比ぶれば、朝鮮の普通教育は、その就学率に於いても又文盲退治に於ても遥かに進歩してゐたといふことは出来るのである。教育は漸進主義であつたが、一般の文化水準は急速に上昇した。何分五千年の歴史を誇り、アジアの先進国を以て任ずる朝鮮民族である。与ふるに平和と生活の安定を以てすれば、文化を向上させる能力は充分にもつ素質はある。その本来の素質を発揮させることが出来て三十五年間にその文化水準は非常に高まり、国際人としても次第にひけをとらぬ状態となりつつあつたのだ。

さらに昔日の満州と同じく匪賊横行の朝鮮が、白頭山麓の山の中でも、人跡未踏の小島に行つてもつねに枕を高うして眠ることが出来、戸締りの必要も、夜警の必要もなかつた時代が顕現し、李朝時代の惨酷な刑政に比し、一応人権の自由が尊ばれ、ほつと安心して真面目に働ける時代が続いたことを回顧するとき、愚かな総督もあり、失政百出の不満も勿論あるが、大局より見て、日本の統治と朝鮮民衆の生活の関連性は、決して搾取弾圧の連続ではなく、培養と融和のゆとりある史的段階をもち共存共栄の実を挙げて、マッコイ将軍の語るがごとく、東洋の驚異が顕現してゐたことは、間違ひのない事実だ。今次の動乱( 朝鮮戦争 )によつて、地上の建設物、文化施設等の多くのものが壊滅したとは言へ、残る有形無形の潜在力は、大きい復興の基底となつて、その力を発揮すべく、尚今後虚心坦懐な協力によつて、生ずる生産の復興と、貿易の振興は、必ずや日韓経済繁栄の素を作り、三十五年間の共苦労は、決して無駄でなかつたことを、両国民が自然に覚る日が遠からず来るであらう。

「 日本と韓国 」 八木信雄 昭和53年 日韓文化出版社
( 灰色文字は注 )

( 著者の八木信雄氏は朝鮮総督府の官吏で終戦時には全羅南道の知事であった。 )
総督政治に対する外国人の評価


( 上記の鎌田沢一郎著「 朝鮮新話 」から宇垣総督と会見したマッコイ少将の談話をを引用している )マッコイ少将の言葉の中に「 貴国の植民政策が妥当であって 」という個所があったようだが、外国人にしてみれば、韓国の統治は植民地主義で相当ひどいことが行われていると思っていたのに、実際に目分の眼で見てみたら、全く予想外の立派な統治が行われていたということで、そんないい評価になったんじゃないかな。


その点、僕も同感だね。僕が全羅南道知事として終戦を迎えた際、この道( どう )に進駐してきた米軍首席軍政官のリール・W・リーズ少佐( イリノイ州在住の応召弁護士 )が、僕に向ってこんな感想を漏らしたことがあるんだよ。
「 自分は沖縄方面から来たのだが、こちらに来るまでは、日本の統治下における韓国の現状は実に悲惨なものだと聞かされていた。ところが、実際の姿は聞いていたのとは違って、道路交通網は普及し、しかも鉄道は自分の国と同じく広軌である。水利灌漑施設の行き届いていること、学校校舎の立派なことなど、全く驚きに耐えない 」というふうにね。これは、今まで総督政冶に関与していた敗戦日本国人の知事に向かって、韓国の解放を齎( もたら )した戦勝米軍軍政官が漏らした言葉だから、本人の目に映じ心に思ったことを極めて率直に吐露したものと断言して差支えないと思うんだ。

日本は朝鮮近代化のために多額の税金を投入し、その収支は赤字であった。
「 教科書が教えない歴史( 4 ) 」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社
大正時代に、石橋湛山というジャーナリストが調べたところ、日本国民1人当たりの国家予算の支出は10円45銭であり、植民地1人当たりの国家予算の支出は9円46銭でした。両者の間にはほとんど差がありません。両者の経済格差を考えると、日本は植民地に大変な国家予算をつぎ込んだことになります。それに対し、植民地から得られる収益は支出をはるかに下回りました。つまり、日本は台湾や朝鮮から経済的利益を得ていたとはいえないのです。むしろ、日本人は植民地を本国並の水準に引き上げようと懸命に努力をしました。これは、ヨーロッパ諸国が植民地から大量の富を収奪したのと大違いです。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮の財政を支えつづけていた日本の補充金と公債
朝鮮総督府時代の朝鮮半島経営については、今日よくいわれているような「 日帝36年 」の植民地収奪というよりも、日本人の税金を注ぎ込むことによって、朝鮮半島の財政をずっと支えてきたというのが歴史的事実である。朝鮮総督府は、朝鮮人を圧迫したり、搾取したり、収奪したりというよりも、税金を注ぎ込み、近代国家として育てようと奮い立っていたのである

朝鮮総督府財政を支える財源については、朝鮮国内の税金などの取入だけでは足らず、その一部は公債によって支えられていた。その公債の98%は、日本の金融市場からのものであった。朝鮮の公債は、予算上の歳入不足を補填するいわゆる赤字公債ではなく、原則として事業公債に限定され、殖産興業に投資する公債であり、産業資金ともいえる。この公債によって土地、資源の開発、殖産興業が進展した。朝鮮半島は、海外からの借金によって国民経済を支えるという経済構造が、終戦後、半世紀以上たって、OECDに加盟した今日に至っても、ほとんど変わってない。明治44年には、借金、公債が国家予算に占める割合は22%であった。昭和5年には、公債の割合が6%まで低下したものの、昭和20には18.4%となった。
( 中略 )日本政府からの財政補充金には、たとえぱ製鉄奨励金、増炭奨励金などもあり、朝鮮半島はおんぶにだっこを続けていた。各種補充金は、昭和19年までに一般経費の補充金として4億3000万円程度に達していた。それは朝鮮半島が貧しく、自力で開発ができず、外債に頼らざるをえなかったからであるが、今日に至っても、その構造はまったく変わりがないのではないだろうか。
鴨緑江、豆満江の架橋13ヵ所の予算は、じつは満州国から出たのであった。
今日までの「 日帝36年 」に対する批判は、ほとんど朝鮮総督府が民度・民力の向上に懸命な努力を続けてきた歴史的事実に触れることなく、ひたすら日本人と朝鮮人との物質的な強弱の格差、支配者と被支配者の関係のみを取り上げることを目的としている。それはきわめて歪んでおり、歴史歪曲ともいえる。朝鮮半島は、統監府時代から「 保護国 」として日本に保護されながら、総督府時代に入りいっそう過保護にされつづけたのであって、財政面のみならず、政治、経済、文化のあらゆる面にわたってそうであった。「 日帝36年 」とは、植民地搾取という見方とは逆に、日本国民からの“支援”で支えられてきたのだ。併合以来、年に千数百万円から二千万円の一般経費補充金が、朝鮮総督府特別会計に補填されつづけ、財政運営を支えてきた。それは総督府の財政関係担当者が日夜奔走し、機会のあるたびに帝国議会や大蔵省に働きかけた賜物である。その補充金は、ほとんどが朝鮮半島の産業と国土開発、民生安定と福祉向上に注ぎ込まれており、今日のODA援助以上のものである。

「 立ち直れない韓国 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は今日、「 日帝三十六年 」支配の象徴であり、いわゆる「 日帝 」の「 七奪( 国王、主権、土地、資源、国語、人命、姓名を奪ったこと ) 」の先頭に立ったと批判され、また、朝鮮近現代史研究といえば韓国、朝鮮人がその「 日帝 」といかに英雄的な戦いをしてきたか、という叙述ばかりとなっている。さらに、朝鮮総督府は、評価すべきものは一つもなく、「 搾取 」「 迫害 」「 抑圧 」「 弾圧 」「 虐殺 」だけを行なったという批判もある。朝鮮近現代史学者は、たとえば法治国家を目指した司法制度も、朝鮮半島土地調査も、治山・治水事業も、鉄道・道路建設も、朝鮮米増産計画も、ハングル教育政策も直視していないのだ。

朝鮮総督府が全精魂を注ぎ、その目標としてきたものは、「 朝鮮半島の近代化 」であった。朝鮮総督府の土地調査事業も、産米増殖計画も、農山漁村振興運動も、北朝鮮開拓などもすべて近代化推進のシンボルであった。朝鮮総督府が李朝末期の体制と弊風、少なくとも土地制度、租税制度の改正、財政の破綻、官僚腐敗などの病巣を手術し、ことに階級的身分制度――身分差別の撤廃、公私奴婢の廃止、解放、女性再婚の自由保障、笞刑( むちうち刑 )の廃止、一族まで罪を被る罪人縁坐法の廃止など、法治社会の確立と個人の独立、人格の尊重、などなどは、どの一つを取り上げても、朝鮮総督府の開発独裁が必要であった。

両班に代表される朝鮮の伝統文化は、勤労を蔑視し、無為徒食で怠惰な生活をもって聖人君子の道と考え、それを民族性にまでするに至った。この伝統文化を根絶しなければ、朝鮮半島の近代化は不可能に近かった。だから、朝鮮総督府は、「 弊風 」と見なされる伝統文化を否定して、新しい体制に立て直すことこそが、新しい時代に生き抜くためになくてはならぬ方法だとした。

日本人は、李朝社会に「 近代化 」を教えたのだ。「 近代化 」という言葉が適切でないなら、「 西洋の衝撃 」といってもよいであろう。明治維新以後の日本の「 近代化 」は、日本列島から朝鮮半島を経由して、大陸まで到達したのだ。ありし日の日本人にとっては、それはむしろ天命であり、いわゆるその時代の使命感であった。「 善意の悪政 」や「 悪意の善政 」などといわれようと、その「 同化主義 」とは、文明開化時代の一つの理想であり、それを天命として国家、民族の興起とともに、近隣にも無理やりに押し売りしようとした。しかし、私はそれをおせっかいだとは見ない。仮りにそれが相手の意思を尊重していなかった「 強制 」であったにしても、私は非難しない。そういう時代だったのであり、場合によってはそれが必要だったからである。

朝鮮近代史を語る場合には、普遍的な論理ではなく、一つ一つ個別な史実から論議していかなければならない。少なくとも日本列島と朝鮮半島の問題に関しては、時間のスパンをもっと引き延ばして、李朝朝鮮時代から分断後の朝鮮半島の歴史に至るまでの間で「 日帝三十六年 」を振り返らなければならない。
朝鮮の歴史を知れば知るほど朝鮮人自身での近代文明化と独立は絶望的であったことが分る。当時の朝鮮人の中でそれを自覚していた者たちが民族の将来を日本に託して日韓併合を望み、日本もそれに応えて朝鮮の近代化に尽力したことを韓国人は知るべきである。


日朝交渉において植民地時代の謝罪と賠償を行うことが当然であるかのごとくマスコミが報じているが、戦後の早い時期、まだ朝鮮の併合前後の状況をよく理解していた人たちが存命であった時代は、韓国・朝鮮人の主張する謝罪と賠償など妄言以外の何物でもなかったのである。
「 親日派のための弁明 」 金完燮  荒木和博・荒木信子訳 2002年 草思社
( 灰色文字は注 )

対韓請求権と対日請求権
日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、朝鮮には60万の日本人が居住しており、日本にはおよそ200万人の朝鮮人が暮らしていた。朝鮮半島の38度線を境に北側にはソ連軍が、南にはアメリカ軍が進駐し日本軍を武装解除させ、占領地帯として軍政をはじめた。この過程で米軍は、1945年12月19日に「 米軍政法令第33号=帰属財産処理法 」を制定し、韓国内にある日本の財産をすべてアメリカ軍政庁に帰属させ、日本人はその財産を没収したのち日本に追放した。北朝鮮でもおなじ措置がとられた。日本人は故郷を離れて10年、長くは30年以上苦労して基盤を築いた朝鮮半島から、日本出身という理由だけで無一文の乞食となって追い出された。日本は敗戦国であり、このような措置に抗議できるはずもなく、1951年に日本の独立を決定したサンフランシスコ講和条約でも、これについてなにひとつ抗議できなかった。アメリカ軍政庁とソ連占領軍によって押収された日本人の財産は、政権の樹立とともに韓国政府と北朝鮮政府に委譲され、韓国ではこの財産に敵産( 敵の財産 )という名前をつけて権力者が分けあった( 敵産払下げ )。

敗戦後、朝鮮半島にいた日本人は長い歳月をかけて築きあげた財産を奪われて日本に追放されただけでなく、朝鮮人に殺害されることさえあった。国そのものを喪失し、アメリカ軍の統治を受けていた日本はこうした犯罪行為にたいして、ひと言も抗弁できず、1952年にふたたび主権を回復したのち、ひとつふたつと資料を取集し、ようやく実態を把握できた。これはいってみれば35年間財産をわけずに暮らしでいた夫婦が別れることになったのと似ている。朝鮮が日本から独立するにあたっては、取り決めるべき点を公正に話しあって合意に達する過程が必要だった。だが残念ながら日本は発言を封じられた状態だったので、一方的に日本側に不利な結果になったといえる。その後、国交樹立のため韓日会談が開かれたとき、韓国側ではこうした日本の立場に配慮し、日本人殺害と財産剥奪にたいしては謝罪するかあるいは最低限、遺憾の意を表明しなければならなかった。そして私たちを朝鮮王朝の圧政から解放し、多額の資金と人材を投入し文明開化させてくれたことにたいして、公式に感謝の気持ちを伝えなければならなかった。そのあとで日本人が納得できる誤ちを指摘し、また韓国人の誤ちも認めて、たがいに信頼を築き理解しあってこそまともな交渉が可能なのだ。しかし韓国側はこれまで自分たちの誤ちをまったく認めず、朝鮮の文明開化と近代化にたいする日本の貢献と成果を無視したままだ。むしろ朝鮮が被害者だと一方的な主張を述べたてるだけであり、こういう状態では韓日関係の緊張が緩和することを期侍するのは容易ではない。

日本政府はアメリカ軍政下にあった1949年から、朝鮮、台湾、サハリンなど、奪われた領土の財政処理問題を調べはじめた。この過程で専門家である鈴木武雄東大教授を呼んで意見を聞いたが、鈴木教授の見解は日本の立場を公式に代弁するに足るものとして内外で多くの理解を得て論議を呼んだ。その概略ははつぎのとおりだ。

  日本の朝鮮統治が欧米強国の植民統治にも勝って朝鮮人を奴隷的に搾取し、その幸福を蹂躙したといふ論告に対しては正当な抗弁の余地があると私は信ずるのである。否、強いて言ふことを許されるならば、事志( ことこころざし )と違つた多くの失敗もあるが、日本の朝鮮統治は、理想としては、所謂( いわゆる )植民地支配を指向したものではなかつたのである。( 鈴木武雄「 朝鮮統治の性格と実績――反省と反批判 」大蔵省管理局付属在外財産調査会『 日本人の海外活動に関する歴史的調査( 朝鮮編( 下 ) ) 』第11分冊所収 )
第一次世界大戦前夜、20世紀初頭の世界情勢並に世界思潮とその時までおかれて来た朝鮮の状態――即ち如何なる意味においても完全な独立国として自立する力を有( ママ )たなかつた朝鮮の状態を顧みるとき、これは必ずしも日本のみが責めらるべき貪婪( どんらん・欲が深いなる膨張政策とは言ひ得ないであらう。( 同前 )
朝鮮の経済がこのようなミゼラブル( みじめで貧弱 )な状態から、併合後僅か三十数年の間に今日見るやうな一大発展を遂げるに至つたことは慥( たし )かに日本の指導の結果であると言ふも過言ではない。( 同前 )
以上によつて明らかな如く、朝鮮財政が臨軍費の一部を負担したことを以つて財政面における朝鮮の搾取を結論することは些( いささ )か早計である。否、財政面においては、朝鮮に対する日本よりの援助は差引プラスであることが注目せられねばならぬ。( 同前 )( 以上、原文はすべて旧字 )

先ず指摘したい点は、日本のこれらの地域に対する施政は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでないことである。逆にこれら地域は日本領有となつた当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト( 低開発 )な地域であつて、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもつぱら日本側の貢献によるものであることは、すでに公平な世界の識者――原住民をも含めて――の認識するところである。そして日本がこれら地域を開発するに当たつては、年々国庫よりローカル・バヂェット( 地方予算 )に対し多額の補助金をあたえ、又現地人には蓄積資本のない関係上、多額の公債及び社債を累次内地において募集して資金を注入し、更に多数の内地会社が、自己の施設を現地に設けたものであつて、一言にしていえば日本のこれら地域の統治は「 持ち出し 」になつていたといえる。
……次にこれらの地域において長年にわたつて平和的な生業を営んでいた日本国民は全部放逐され、日本資産は公有財産のみならず彼らの努力により平和裏に蓄積された私有財産までがすでに事実上剥奪されており、平和条約においてそれが確認されるのではないかと思われる点である。割譲地の居住民及び私有財産にたいするかかる苛酷な措置は全く国際慣例上、異例のことに属する。
……これらの地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、世界各国とも久しく日本領として承認していたものであつて、日本としてはこれら地域の放棄には異存がないが、過去におけるこれら地域の取得、保有をもつて国際的犯罪視し、懲罰的な意図を背景として、これら地域の分離に関する諸問題解決の指導原則とされることは、承服し得ないところである。( 外務省平和条約問題研究幹事会「 割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述 」国立国会図書館憲政資料室所蔵『 対日平和条約関係準備研究関係第五巻 』所収、1949年 )

鈴木教授の発言は論理性があり、敗戦国である日本の鬱屈した立場をひとつひとつよく指摘している。荒地と変わらない未開な土地を譲り受け、長いあいだ情熱をそそぎ、教育をほどこし、社会体制を整備し、莫大な金を投資して社会間接資本を構築した。それなのに感謝の言葉もないどころか、犯罪だと非難されているのだから、日本人の立場としては憤慨せざるをえない。鈴木教授の発言は、敗戦後、日本政府の立場が初めて内外に知られる契機となったが、いまだに韓国ではこれを「 鈴木妄言 」と呼んで非難している。

「 韓国・北朝鮮に謝罪は不要 」桜魂より
北朝鮮の国章

 1947年末、金日成は共和国憲法、国旗、国章を定めることにした。その後1948年1月になって画家たちが仕事をしている庁舎を訪ねた金日成は「 国章には労働階級を核心とする労農同盟に基づく広範な人民大衆の統一団結と強力な現代的な工業と先進的な農業の発展展望がはっきりと描かれなければならない 」と述べ、さらに数日後には、国旗の白の円のなかには赤い五角星を描くようにしたのであった。

 国旗図案が完成し、国章図案も完成段階にいたったころ、「 反党反革命宗派分子らの策動が執拗 」で「 国章に李朝時代の王宮である景福宮を描かねばならない 」と主張したとされる。金日成はこうした「 反党不純分子らの妨害 」を一蹴し「 富強繁栄する新朝鮮の未来を示す発電所を描かねばならない 」と指示したのであった。こうして北朝鮮の国旗と国章が世に登場したのであった。

 共和国の国章は、「 朝鮮民主主義人民共和国 」と記した赤い帯をまいた稲穂の楕円形の枠の中に壮大な水力発電所を配し、その上に革命の聖山である白頭山と、さん然と輝く赤い五角星がある。国章の上部の星と光は、共和国が受け継いだ革命伝統と朝鮮人民の明るい未来を象徴している。水力発電所は、強力な重工業を軸とする自立的な近代工業と労働者階級を象徴しており、稲穂は発達した農業と労働者階級の同盟者である農民を象徴している。

 この水力発電こそ、日本が北朝鮮に残した最大の遺産であり、当時の北朝鮮にはまだ新規に計画し、着工するだけの力はなかった。この事実から、北朝鮮は日本が北朝鮮に何の貢献もしなかったとは言えない筈である。

日韓関係の近現代史 自由主義史観研究会理事 杉本幹夫
韓国・北朝鮮に謝罪は不要

日本は韓国・朝鮮の植民地支配についてまず謝るべきだと主張する人の論拠として
 一、日本の植民地支配は世界一苛酷なものであった。
 二、日本の植民地支配には何一つ良いことが無かった。
 三、韓国の発展に日本が寄与したとしても、「 我々が頼んだわけではない 」
の三点があることを指摘した。

 そこで一点目を「 日本の統治はそれ程苛酷なものであったのか 」と言うことと、日本の失敗の二点に分け、更に国際比較を示し、私の結論を記す。

一、日本の統治はそれ程苛酷なものであったのか

この問題については、韓国の歴史学会が如何に事実を歪曲し、日本の学会も又、それに追従しているか、呆れる他ない。この根本原因は、戦時プロパガンダであるカイロ宣言を金科玉条としていることにある。このカイロ宣言の元となった「 三・一独立運動時のアメリカ・中国での反日プロパガンダが如何に今日に影響しているか 」に驚かされる。

まず歴史の歪曲の第一は、併合前の朝鮮の実態についての認識がないことである。この反省なくして再度の亡国は防げない。歴史を学ぶ目的は、歴史に学び、過去の失敗を繰り返さないことである。その意味から見て、当時の惨状を隠蔽することなく、正しく伝えることが、重要だと考える。

二点目は歴史事実の歪曲である。土地調査で農地の四〇%を不当に略奪されたとしているが、実際は三%に過ぎない。又三・一独立運動での被害者数を単なる風評をもとに積算し、総督府発表の一〇倍以上の数値を上げていることである。総督府の統計が信用でないとしても、せめて両論併記すべきではなかろうか。又移民の原因等、一時期の事を全期間の如く記述する不当な表現は辞めるべきである。

 三点目は一九三〇年代後半以降の記述で、日本の貢献を全く認めていない。もし日本の貢献がなかったなら、今日の韓国の発展はなかった。その何よりの証拠は李承晩時代の停滞である。日本の統治が終わってから、経済の成長は止まったのである。又創氏改名等日本人の強制のように主張しているが、皇民化の大合唱の中、マインドコントロールされた朝鮮人地方官僚による強制と考えた方が、自然だと言うことである。この点は私の推論に過ぎないが、今日の教科書問題で見られる如く、反対意見を許さない国民性から考え、まず間違いないと信じる。

二、日本の失敗

しかし日本の政策に失敗がなかったかとなると、やはり多くの失敗が指摘できる。

 まず一点目は朝鮮人の参政権の問題である。併合当時の朝鮮人の識字率、インフラの未整備等を考えると、税収が望めないのに要求だけは厳しい朝鮮に、参政権を与えなかった当時の日本政府の考えも理解できる。しかし終戦直前に参政権を与えたが、人口比から見ると、内地に比べ議員定数は極めて少ない。この程度の参政権なら、当初から与えても良かったのではなかろうか。この事によりキリスト教と天道教を敵に回してしまった。

 この点、伊藤、曽祢両統監の死亡が悔やまれる。特に伊藤博文は人の意見を良く聞く人であり、日本国議会制度を作り、政友会を結成した人である。西北学会の鄭雲復会長も、伊藤に〈吾人は国会議員になり、東京に出て議会に列席する事になるべきや〉と手紙を書いている。*1歴史にイフはないと言われるが、伊藤が暗殺されなかったら、どのようにしたか興味深い。

又皇民化があれだけ進んだ南総督時代に改善すべきではなかったろうか。斉藤総督の二回目の地方制度改善からほぼ一〇年経っている。私は義勇兵の募集、労働動員の見返りに参政権の拡大をすべきだったと思う。

 朝鮮人に対するいじめ、差別の問題では、当時の社会の成熟度から見ても、国際的に人種差別が当然の時代に、国際レベル以上の事を要求するのは無理と思う。しかし、それでも尚、今少しいじめを止めるような指導ができなかったかの問題が残る。

 次ぎに土地の略奪問題である。土地調査により、農地を国有にしたことが問題なのでなく、それに伴い朝鮮人の小作権を奪い、日本人に払い下げたことが問題であった。この事により三三万人の農民が土地を奪われ、三・一独立運動の一因となった。

併合直後の問題点として、憲兵警察を治安の確立後も残したことが指摘できる。憲兵と警察の問題は台湾統治で、警察を中心にすべきだとの結論が出たテーマである。又学校の先生にまでサーベルを付けさせた事といい、寺内総督の上から押さえつける政策はまずかった。寺内総督の治世のまずかった点を修正すべき長谷川総督は軍事専門で、内政には無能力の人であった事も問題であるが、そのような人を総督にしたのは首相となった寺内総督である。この時期の問題点はすべて寺内総督に起因する。

 創氏改名・官斡旋による労働力の配分で、総督府の強制が非難されるが、これはむしろ朝鮮マスコミによる皇民化の大合唱の中で、マインドコントロールされた、朝鮮人地方官僚によるものと考えた方が自然であろう。しかし戦時兵役や徴用工の間に多くの犠牲者を出したことは事実であり、これらの人には、敗戦でやむを得なかったと言え、深く哀悼の意を表する。

更に併合前の問題として、多数の不良邦人が、不正を働き、朝鮮人を苦しめた事は、日本人のイメージを大きく傷つけた。これを取り締まるべき領事警察までが、彼らと同調して不正を働いたことは、返す返すも残念であり、外務省の独善・無能が非難されてしかるべきであろう。又これは下司の勘ぐりに過ぎないが、細川首相の謝罪発言は、この時期に朝鮮に進出した細川家に、日本人の悪行の数々が言い伝えられていたことにも、原因があるのでは無かろうか。

三、日本の貢献

『 朝鮮独立運動の血史 』の中で、『 チャイナプレス 』のナサニェル・ペファー特派員が「 当時の朝鮮は庶民の貧窮は甚だしく、その支配は極度に腐敗し、寄生的で、没落の運命は火を見るより明らかだった 」と書いている*2。その朝鮮で、「 人間としてのあるべき姿 」や、「 働くすべ 」を教え、人治主義から法治主義に転換するなど、社会構造を近代化したことは、何よりも日本の貢献であり、世界に誇って良い。

台湾では海南島との比較で、台湾の経済発展に対する日本の貢献を認めている。恐らく韓国も日本が統治しなければ、中国やシベリア並の生活水準に留まっていただろう。宇垣総督が指摘したように、日本の韓国併合は軍事上の理由であった。その為に朝鮮人の生活水準の向上に全力をあげ、朝鮮の産業革命を引き起こしたのである。一九三〇年代後半から四〇年代前半の生活水準の向上は、色々な統計データで明らかであり、その結果、日鮮一体のムードは急激に盛り上がったのである。

 更に日韓基本条約締結、それ以降のODAによる経済貢献も無視できないはずである。

四、「 我々が頼んだわけではない 」

 次ぎに日本の経済発展に対する貢献を認める人も、「 そんなことは日本が勝手にしたことであり、韓国側から頼んだことではない 」とか「 豊かになることが幸せとは限らない 」と言われる。しかし飢えに苦しむアフリカ諸国の子供達を見て幸せだと思う人がいるだろうか。病気になれば祈祷師に頼るだけの国民が幸せとは私には到底思えない。縄文時代が幸せだったという人は、飢えと病の苦しさを知らない人たちである。

 韓国併合までの過程を見ると、多くの人たちが、日本を頼って内政改革を行い、生活の向上をしようとした。しかし確かに国を滅ぼしてまで、内政の改革、生活の向上を願った人は殆どいなかったと思う。しかし自分が努力せず、足の引っ張り合いをしていては、助ける方も嫌になるだけである。又助ける方も、全く慈善事業で他国を助けるほど豊かではなかった。日本は朝鮮が自立して、親日的なロシアとの緩衝地帯になることを望んだ。だけど朝鮮は日本の期待に添えなかった。

 私はこの経過を企業の合従連衡と合わせて考えることが分かりやすいと考えている。赤字で倒産寸前の会社があった。しかしその会社の立地条件が良い為、三社が何とか自分の味方に付けようとした。
そして遂には戦争までしたのである。

 一方その会社の社長は、従業員のことは全く考えず、自分自身のわがままや、その時々の都合で、相手の会社との信義を破った。賃金の不払いも何ヶ月も続いた。心ある役員は会社の改革を目指し、ある人はA社に、ある人はB社に協力を要請した。しかし最終的に頼れるところは日本しかなくなったのである。

 一般に他の会社から救済を求められた時、まず最初は資本を融資し、顧問を派遣し、できるだけその会社の自主性を尊重しながら、再建を図る。しかし再建がうまく進まないと、次第に干渉を強め、最終的に完全に被救済会社を支配下に置き、二、三〇年たつと完全に一体化する。正に韓国併合はこれと同じ経過をたどったのである。大手の会社同志の合併の場合、会社が完全に一体化するのは、新入社員が経営の実権を持つ約三〇年後と言われる。国の場合は五〇年はかかるだろう。残念ながら朝鮮を完全に一体化するには一〇年強足りなかった。

五、国際比較

 又第五章第三節で明らかにした如く、東南アジア諸国に対する列強の統治との比較で、日本の統治が最も優れていた。欧米人は自らを優等民族と定義し、東洋人を一段下の民族と定義した。この事は色々な政策に反映している。それに対し、日本は人種差別の撤廃を要求した。この要求は近年ようやくアメリカで実現し、肌の色が違っても同じアメリカ人として、アメリカの発展に努力している。これは日本が目指した民族が違っても、同じ日本帝国の一員として日本帝国の発展に協力するとの理念に他ならない。

 更に戦後これらの国が独立するに当たり、接収した私有財産のみならず、公債等・国の借金の肩代わりもしているのである。それに対し、日本は逆に経済協力金を支払っているのである。

以上を総合し、私は「 日本は韓国・北朝鮮に一切謝罪する必要はない 」と主張する。それと共に民族自決という誤りを認め、五族協和、八紘一宇の世界を目指すべき事を主張する。

六、日韓親善のために

最後に日韓親善のために、このような議論は有害無益との意見がある。しかし「 相手の主張は間違っているが、親善のために妥協しよう 」との姿勢では、真の親善に結びつくであろうか。歴史を学ぶ目的は歴史に学ぶことである。そのような姿勢から学べることは、「 あの国はむちゃくちゃなことを主張するから、なろべくつきあわない方が良い 」と言うことではなかろうか。真の親善のためには、お互い主張すべき事は主張し、「 この点はこちらが間違いであった。しかしこの点はそちらが間違っていた。この点については立場・見解の相違 」と冷静に評価できる時代を築く事ではなかろうか。

われわれ現代人が歴史を論じる時は、感情を排した公平で客観的な立場で批評すべきで、韓国人や反日左翼のように『 日本の植民地支配は人類史上最悪の搾取だった 』と一方的に断罪してはならない。下記のリンク先は生活者の立場から植民地台湾を語ったもので、その内容は韓国人の主張とまったく異なっており、日本人にとって驚き以外のなにものでもない。
Link 中華週報のHP  --->  日本人に知らせたい もうひとつの台湾史

もう一つの植民地・台湾の歴史教科書を読むことで、韓国の歴史教科書がいかに偏向した記述をしているかが理解できます。
Link 中華週報のHP  --->  教科書『 認識台湾 』(歴史篇)を読む