日本人に知らせたい
もうひとつの台湾史
許 文龍・奇美實業董事長(談)
《(株)国際評論社 LA INTERNATIONAL7月号より転載》




 ここに、一つの台湾史がある。

 世界一のABS樹脂製造会社、奇美實業の許文龍会長が、人民の立場から日本統治下の台湾を語ったものだ。その内容は、日本人にとって、驚き以外のなにものでもない。

 自宅で取材に応じてくれた許会長は、「日本人と台湾の若者に今伝えなければ、この台湾史は永遠に埋もれてしまう」と、かつて台湾総督を務めた後藤新平の胸像を日本人社会にプレゼントした真意を明かしてくれた。

 小さな日用雑貨の製造工場を、世界の奇美實業に育てた辣腕経営者−その反面、自ら集めた数万点の美術コレクションを「奇美博物館」に集め無料で開放する、意外な一面を見せる。 今年、七十歳。李登輝総統からの信頼も厚い許会長が奇美實業の社員に対して語った「台湾史」を引用する。

オランダ統治

 日本人の台湾統治以前の事情を語る前に、台湾の歴史を回顧する。台湾の歴史はオランダ人時代、鄭成功時代、清朝時代、日本統治時代、国民党政府時代に分けられる。

 歴史上の記述は、見る角度によって異なる見解を示す。過去われわれが学校で習う歴史は権力者の立場から見た歴史である。すなわち歴史を書いたのは当時の権力者であるからだ。

 一般的に歴史は国家、民族の事情を強調し、人民の事情にはめったに触れない。

 事実上国家の版図がいかに大きく、民族が強盛でも、必ずしも人民が幸福であるとは限らない。往々にして国土の拡張は人民が戦争で流血して得たものであるが、歴史はその戦争の惨禍には触れない。

 荘子が言うには国家は大きいものである必要はない。

 民族という言葉は、往々にして権力者の専制独裁の道具にされる。例えば「民族のために国を救え」式のスローガンは私個人の見方では人を欺くものである。会長の私が会議席上で、同僚に、われわれはこの会社のために一生懸命に働こう! と言っても、いわゆる工場のため、会社のために一生懸命に働く事の本当の意義は、会社が発展すると同時に、従業員の所得も増える前提が必要である。

 一般的にわれわれの知る強盛国家の歴史でも、当時の人民の生活状況に触れない。一例をあげれば、南宋時代の岳飛は民族の英雄と崇められる。彼は主戦派であった。秦檜は奸臣で、皇帝に岳飛が謀叛するとざん言して、斬罪に処された。

 しかし客観的な史料によれば、南宋時代は、経済は破産一歩手前にあり、戦争の負担に堪えない情況だった。美人か宝物の貢物をし、土地を割譲してでも、蛮族と講和するのが上策である。当時の人民も平和を好み戦争を嫌がったので、岳飛の忠君愛国を強調した主戦派は正しいかどうかも怪しい。

 私個人は「忠」という言葉に感心しない。果たしてだれに忠を尽くすのか、一個人が自分に忠でないのに家庭引いては国家に忠であるわけはない。誰でも自分が一番重要であり、次に家庭とわれわれの周囲の順序の筈である。しかし殆どの書籍は国家、民族至上を謳歌する。

 幸いにも台湾は今李登輝総統時代で、われわれもこの様な見解を言えるが、過去であれば問題になり、思想犯にも成りかねない。

 事実上台湾で口で愛国を叫びつつ、ポケットにグリーンカード(米国の永久居留証)を持ち、いざというときには米国に逃げようと考えている人が大勢いる。

 この様な観点から歴史を見れば、オランダ人の台湾統治時代の功績も少なくない、と私は考えている。異民族であっても、台湾人から金を儲けるためには、若干の建設と制度の確立が必要である。

 また、いかに多く金儲けしても個人の生命の安全保障がなければ何にもならない。台湾でも二、三年前社会治安が悪化した時には、一部分の金持ちは国外に移住を考慮していた。 オランダ人統治時代、一般民衆は割に良い治安下にあり、また遵守する制度もあった。すなわち、初めて系統的に台湾を統治したのは、オランダ人であった。

 台湾の水牛はオランダ人が外地から輸入したものである。その他の農耕用具、甘薯の苗種も取り入れた。したがって製糖業はオランダ人が始めたと言える。

 当時台湾には平埔族の蕃人が多く、政府と彼らの契約は「新港語」と言う蕃語で書かれ、今でも延平郡王祠の民族文物館に展覧されている。オランダ人は治安問題を重視し、新制度、新技術を確立した。

 当時建設のために徴税もしたが、外国と台湾の交易には一〇%課税した。話によれば、日本人はこの課税に反対して紛争が絶えず、徳川幕府の鎖国まで続いた。

 鄭成功の父鄭芝龍とボスの顔思斉などはこの一〇%の課税を甘受して貿易をおこなった。彼らはオランダ人と共存の態度を取ったことになる。 オランダ人は台湾で三角貿易をおこなった。すなわち台湾の産物を日本に輸出し、日本の産物を台湾か大陸に販売した。台湾から産物を本国に輸出することはなかった。

 オランダ人の統治期間、台湾人は、初めて制度のある平和な日々が過ごせた。過去のように土匪の掠奪と新権力者の侵入を恐れる事がなくなった。大方の歴史書籍には、オランダ人が、台湾にこの様な貢献をした事の記述はない。

鄭成功の来台

 オランダ人の後に鄭成功時代が来る。鄭成功は民族の英雄と言われるが、果たしてその境遇はどうだったか。天下雑誌出版の「発現台湾」一書の記述では、異族を駆遂し「反清復明」を志した、忠孝兼備の典型的人物とされている。鄭成功来台の目的は国民党の来台と同じく、「光復大陸」(大陸に光栄ある復帰をする)にある。人民の幸福とか生活レベルの向上とかは二次的な事である。

 われわれが学生時代によく「反攻大陸して三民主義で中国を統一せよ」とスローガンを叫ばされた。われわれは台湾人であるのに何で大陸を取り返すのか理由が良く分からない。もちろん台湾人も中華民族には間違いないがすでに長期台湾に居住している。

 シンガポールでそこの人民にわれわれは同じ中国人だと言うと、相手は必ず彼らはシンガポール人と訂正する。米国で英国から移民した人に英国人かと聞くと必ず、英国人ではなく米国人だと答える。

 鄭成功時代をオランダ人統治と比較評論するには、私は勉強不足で、更に深く研究する必要がある。

 当時彼は二万五千人の兵を引率して台湾を占領した。彼の最終目的は「復明」にあり、如何に台湾を良く経営するかという事ではない。原住民にとって彼らは武器を持った外来の侵略者である。原住民の土地を取り上げたり、追い出したりした事も推測に難くない。丁度国民党政府が台湾を接収した時の状況に似ていると思う。

 歴史は見る立場と角度によって異なる記述になる。学校でわれわれは、鄭成功を民族の英雄、と教えられているが、果たして事実か私は疑問に思っている。

 連雅堂著作の「台湾通史」によれば、台湾を経営したのは陳永華で、私の読んだ資料でも彼はすこぶる経営手腕があり、また良く一般人民を保護し、多少基礎建設もやった。陳永華は孔子廟の前向かいの小路の中の廟に祀られている。

 清朝時代の劉銘傳は、最近の書籍では、台湾近代化の父と賛美されている。

 彼は、台湾を全中国の模範省にする目標で、政治をおこなった。思想も新しく、全中国で最初の鉄道を台湾に建設した。したがって劉銘傳は一種の例外である。 清朝時代の統治は点だけで面にも及ばない。都市の城だけ固守して、人民大衆の事情には構わない。

 私の母の話では日本統治前の清朝時代には、飢餓に遭遇すれば農民は群れを成して城内に「(てへん+争)椪」(強奪)に行く、すなわち土匪になる。したがって城門は夜間閉めなければならない。

 今でも「宋江陣」が廟の祭りにねり歩くが、当時「宋江陣」は各廟の自衛隊的存在で、廟が指揮中心となり、政府保護の補完的自己防衛をしていた。 当時人民の安全は保障されず、基礎建設の道路、港湾、衛生施設などは殆どない状況であった。

 日本統治が始まる

 日清戦争後、清朝は台湾を日本に割譲して講和条約を結んだ。

 日本軍が台湾に上陸するや、清朝官吏の劉永福と丘逢甲などは、人民を顧みず率先して大陸に逃げ帰った。この様な心掛けの官吏が台湾を経営できるわけはない。

 台湾が近代化し世界各国と肩をならべられるようになったのは、日本人が台湾に上陸した後の事である。もちろん日本人が台湾人の幸福のために、あるいは全然無目的で台湾を経営し近代化したのではない。その目的は第一に日本自身の利益であり、第二に国際的イメージ確保の考慮にある。

 当時世界列強のオランダ、英国、フランス、ドイツ、米国は全部すでに植民地を持っていた。

 日本の台湾経営の着眼点は経済上の利益であり、また軍事上台湾を将来南進の基地にする事である。さらに最初の植民地能力を示したかった。したがって台湾に一流の人材を派遣した。

 話はそれるが、台湾が終戦後中国に接収された時の状況を回顧すると、台湾に来た六十二軍の兵士は、雨傘をさし鍋釜を天秤棒に担ぎ、台湾人のわれわれが想像した軍隊とは全然違う、土匪軍に近い外観で、この様な軍隊は飢えれば土匪になるに違いない。

 辜振甫の父、辜顯栄は日本軍の台北城入城を案内して、中国人から「漢奸」と非難されているが私個人はそうは思わない。

 当時日本軍が一刻も早く台北城に入らないと、人民は必ずもっと悲惨な目にあう。清朝が派遣していた雇傭兵は、本質的に土匪と言ってもよい。

 外部の人が新しい土地に来て現地人を理由もなく殺す事はないが、内部の人の強盗的行為はもっと恐い。辜氏はこの危機を察して緊急に、日本軍の入城を促した。当時の台北市民にとって辜氏は「功労者」と言うべきである。

 もちろん彼がただ台北の治安のためにしたとは思わない。何か将来特別な権益を得るのを期待したかも知れない。

 日本が残した功績

 さて、日本人は台湾でどういう仕事をしたか。先ず日本の台湾接収に抵抗したのは劉永福でも丘逢甲でもない。

 一群の無名の台湾人であった。日本軍は圧倒的に強く、台湾に無血上陸し、順調に台北に入城したので、一週間の内に全島を簡単に接収出来ると考えたが、頑強な台湾人の抵抗に遭遇した。

 私の読んだ、日本人の書いた「台湾研究」にも、日本人は、武器を持たない悪条件の台湾人が日本軍と激戦し、長期間も抵抗したのには驚異を感じた。

 われわれの祖先は非常に勇敢だったのだ。

 台湾に派遣された近衛師団長の北白川宮能久親王は皇族であるが、佳里付近で台湾人に暗殺されたという噂がある程、台湾人の抵抗力は大きかった。上陸後全島が平定されるのに数年かかった。

 日本も統治初期は強硬手段をとり、無差別殺人はしなかったが、抵抗する者は殺した。

 第一代から第七代までは軍人総督を任命したが、その後は文官総督で、大東亜戦時にまた第十七代から武官総督に戻った。

 中華民国政府が台湾を接収した時にも軍人・陳儀が長官となり、その次の魏道明以外は長期間軍人が台湾省主席になっていた。

 私は軍人に良い印象を持たない。なぜならが軍人は盡忠(尽忠)を本分とするので、外部の世論あるいは意見を考慮せず、上官に絶対服従し、殺人でもなんでもする。したがって軍人が執政するのは良くない。

 中国の歴史でも原則的には軍人を政治に参与させない。

 例えば、岳飛の時代、辺境に駐屯する軍隊と将軍が強大になれば、皇帝はこの軍隊が何時王朝と皇帝に謀叛するかと脅威を感じ、絶えず対策を考える。 岳飛は誰に殺されたか未だ不明だが、日本人の歴史研究家によれば、彼は当時の皇帝に殺されたと言っている。

 また仮に皇帝にこの意向があれば秦檜が皇帝に迎合して、無実の罪をきせる事も有り得る。されば皇帝は永久に仁慈の君主、権力者は永遠に偉大であり得る。 したがって秦檜は歴史で論じられる様な悪人でもなく、実は皇帝が岳飛を殺したかも知れない。

 第四代兒玉総督時代に後藤新平が民政長官に就任、彼は医師で、日本でも一流の人材である。ドイツ留学の医学博士で、近代的頭脳を持った人である。

 最初に彼は徹底的な台湾の調査に着手した。土地(地籍調査)、人口、資源などの綿密な調査資料は、戦後国民党政府が台湾を接収した時に驚嘆した程である。 後藤新平はこの資料を根拠として開発計画を立てた。

 政府の財政困難のため、彼は三菱、三井などの財閥に台湾への投資を誘致し、また台湾銀行を設置して資金の供給をさせた。

 すなわち、彼は夙に政府の人力に限度を感じて、商人に台湾の経営を任せた事になる。

 今台湾でも、重要建設に民間会社を参加させる政策があるが、同じ思考方法である。当時の台湾では三井が一番勢力があった。

 製糖事業も民間の資金と技術を導入した。交通とかのインフラ建設にも大量に資金を長期投資した。日本本国政府が悲鳴をあげた程である。彼が着手した台湾産業の近代化には、今日でも存在する農業試験所、水産試験所、林業試験所などの設置がある。

 当時の台湾人は非常に哀れな境遇にいた。平均寿命は三十歳未満でマラリヤ、赤痢、チフスなどの病気が流行した。日本台湾派遣軍の病死者は、戦死者の数倍という状況である。後藤新平は徹底的に台湾の衛生環境と医療の改善をした。阿片に対して漸禁策をとり、阿片専売制度からの収益を台湾衛生事業施設の経費にあてた。 昭和十年頃、台南病院、伝染病病院、肺病病院、精神病病院、癩病院などの施設があった。国民所得が低く、国家税収も少ない環境下に以上の施設を作ったのだ。

 また、現在の台南市政府(市役所)、中山公園、遊泳池、あるいはすでに取り壊された博物館、歴史館、図書館は全部戦前に建設したものである。 したがって日本台湾統治の五十年間、戦争末期の十年を除けば四十年の期間、台湾が治安衛生の悪い清朝時代から一転していわゆる「夜不閉戸」の治安の良い社会になったのは、人民にとって非常な一大事である。

医療と教育を推進

 仮にわれわれが家を一歩出て誰かに加害されるのであれば、いかに多くの財産を持っていても幸福であるはずはない。

 すなわち、安全の保障がないのと等しい。目下われわれは未だ安全を失っていないので、その有り難さを感じない。仮にわれわれがイスラエルに居住し、何時アラブ人の攻撃を受けるか予測できない時には、切実に安全保障の重要性を痛感するに違いない。土匪の掠奪が日常的に発生する社会からコソ泥、土匪のない、夜は戸締まりしなくても良い環境になったのは確かに大変な事である。

当時の民衆は、病気に罹れば神仏に祈るか、漢方医に診てもらうほかない。私の母もよく仏像を家に迎えて礼拝したもので、仏が一番頼りになると思っていたのだろう。

 日本人は台湾で病院を建て、近代化の教育をした。私の印象では流行病のはやる季節には民衆に予防策を施し、学童には毎年一、二回蛔蟲駆除薬を飲ました。日本政府がこの様な施政をしなくても誰も異議はない。

 例えばマレーシア、インドネシアの道路とかの基礎建設は立派であるが、それらは植民地に住む英国人、オランダ人享受のためにある。当時の台湾の衛生方面の施設はこれらの国々と比べても最高のレベルにあった。

 確かに日本人は自分の利益のために、また全世界の人々に見せるために、台湾統治に心を碎き色々と立派な仕事を台湾でした。

 一般的に、政府の一番割に合わない投資は衛生、医療と教育であろう。投資した資金が効果としてでるのに二十年、三十年もかかる。

 正直に言って、私個人も日本教育を受けなければ今日の知識はない。日本語が分かるから日本人の著書も読めるし、また、諸君が「中国近代史」を読んでいる時、私は外国人の書いた「中国近代史」を日訳書で読んで、もっと客観的にわれわれの境遇を理解できる。

 日本人は義務教育を重視し、私の知る限りでは学校に行けない非識字者のために夜間の補習所で教育していた。おそらく、諸列国の植民地の中で最も徹底的に教育をおこなったのは日本人だろう。

五十年先を見たダム計画

 英国、スペインなどの国々は、日本の様に植民地で教育を普及させ、長期的な投資をしていない。私は日本人は非常に良心的な仕事をしたと思っている。

 衛生医療方面で言えば、英国人の居住地区は上・下水道設備を完備し衛生も良いが、一歩その地区を離れると格段の差がある。おそらく現地人を人と見なさず、その生死に無関心だと思う。

 日本人が台湾でおこなった施政は全面的で、山の上の辺鄙な所にも衛生所があった。

 農作物の改良および水利方面でも相当な貢献があった。度々私が言及している嘉南平野は、元々大多数は「看天田」で、天から雨が降って初めて耕作できる。降雨に頼らないで耕作できるのは川辺の一部分の土地だけだ。

 日本人は烏山頭ダムを設計建設した。当時は現在の様な建設機械はなく、全く人力に頼ったから大工事である。この工事の責任者は八田与一という若い土木技師であった。烏山頭ダムと同時に現在の曽文渓ダムをも計画設計していた。当時すでに、五十年後烏山頭ダムが淤浅したら、新しいダムが必要になると予測していたのだ。曽文渓ダムは終戦後建設されたが、その計画は日本人が五十年前に作成したものである。

 一番感心するのは下流の水路である。ダムよりもむしろ全部の農田に通じる灌漑用の水路が大工事である。当時台湾にセメントはなく日本から輸入していた。人々が鍬で溝を掘りレベルを測量し、十一年の歳月をかけて、ついに網の目のようにはりめぐらされた偉大な嘉南大(土+川)を完成した。

 諸君の歴史の教科書はこれに触れているか? おそらく教科書では日本は台湾人を搾取し、終戦後祖国に復帰して、初めて台湾人は幸福になったと自画礼賛しているだろう。

 昨年六月に私は会社の幹部会議で、われわれは大陸の市場に、当時の嘉南大(土+川)の水路の様に、販売ルートを一年以内に作ろうと語った。

 過去奇美と中国大陸の商売は、官庁が奇美より一括購買して配給していた。大陸の経済自由化につれて、各消費者が自由に購買すれば販売の流通経路が自由になる。水路の様に経費と時間をかけても完成すべきだ。

目下わが社は大陸に年間約五十万トン販売しているが、この水路が完備すれば将来販売量が百万トンになっても同様に利用できる。また、全世界の製品もこの経路を使用できる。 私見としては、当時この水路がなければダムの機能も発揮できないし、その後に建設した曽文渓ダムは烏山頭ダムの五倍以上の規模であるが、この水路を利用して充分間に合っている。おそらく諸君が祖父になっても、この水路は存在し機能を果たしていると思う。諸君も機会があってダムと水路を見てくれば、七十数年前に日本人が建設した工事がいかに偉大だったか分かると思う。当時嘉南大(土+川)は、アジア最大の水利灌漑工事であった。

歴史の持つ二面性

 われわれが歴史を読むときは、公平で客観的な立場で批評すべきで、決して教科書通りの「日本人は台湾人を搾取した」と単方向的思考法であってはならない。

 私の子供がかつて国産戦争映画「梅花」を見て、感激で涙を流し、私に言うには彼が将来大人になったら、絶対に日本人を容赦しないと。この様な非常に偏った教育は恐ろしい事だと思う。

 日本人の行為についてはわれわれはよく南京大虐殺を例に出すが、果たして国民党はどれだけ共産党員を殺したか? 共産党も国民党員をどれだけ大勢殺したか映画には出てこない。歴史的観点から言えば、異民族間の殺戮は珍しくないが、同一民族間の内乱と相互惨殺は言語道断な事でもちろん教科書には記載しない。

 台湾の「二・二八事件」で多数の人が無実の罪で殺されたが、教科書あるいは教室では絶対に触れない。いかに教育が重要であるかと反省させられる。

 もちろん私は日本人が凡て何でも良いとは言わない。他人がよく今日の奇美が急成長したのは、中国社会の環境のお陰だと言うが、私はそうは思わない。

 日本人統治時代官庁の工事は日本人の会社がとり、台湾人は請け負う資格がなかった。今日の台湾国内環境も似たりよったりである。政府の工事は栄民工程処が独占的に請負し、国民党と特別関係のある人だけにセメント製造業を許可する。すなわち現在でもセメントは寡占事業で、数社の同業の談合で輸出し、国内のセメント売値を吊り上げる。食用の小麦も大量物資輸入規定法があって既得権益者を保護している。

上海幇(上海グループあるいは上海マフィア)は、台湾に来て紡績業と製粉業に投資したが、既得権益確保のために政府を動かして、紡績業を許可制にして設立を制限し、綿の輸入も割当制度にした。

 すなわち、製粉、紡績の既得権益を持つ上海幇を保護したのだ。奇美は創立から今日まで政治力を持たないので、前述の様な事業を経営しない事にしている。中国国民党との関係が良いと仕事がし易いが、私はその党の中央委員でもないのでその力はない。日本統治下の台湾人は、国外から原料を輸入して、加工輸出する事もできた。

 今回想すると、戦時物資が欠乏していた一九四〇年代、日本人は台湾人よりも悪い境遇にいた。すなわち台湾の人々は田舎とか闇市から物資を獲得できたが、日本人は遵法精神が強く、闇買いしないで空腹を我慢した。

 権力は日本人の手にあり、金持ちの日本人が物を買えないのに、農民の多い台湾人は闇値段で物資を買えた。物資欠乏時代に日本の政策は相当に公平で台湾人だけが飢餓に瀕する事はなかった。

 台湾の特権階級を対象にした栄民総合病院も、最近やっと外来者に開放したが、昔はその病院で医療を受けるのは困難だった。所詮特権のある人のために建てた病院で、毎年政府が巨額の予算を組んで大量の財政補助をしている。

 日本領台湾時代の台南病院はもちろん日本人も台湾人も一視同仁で、患者はだれでも入院医療を受けられる。人によっては、奇美の発展は良い時代にあったためと言うが、奇美は絶対に特権を持たなかった。

 別の例を引けば、台南に謝水龍の経営する金龍記商店があった。足袋を売っていたが後にアクリル板も生産し、奇美と激烈な競争をしたので、外部の人は「双龍相闘」と形容した。 彼の足袋商売は徹底的な値段競争で、そのためにある日本人の同業者が資金につまり自殺した。当時も現在と同様、市場の自由競争があった証拠である。

 終戦前の台湾の平均国民所得は約九十米ドルで、日本国が百ドル、中国大陸はおそらく三十ドルにも及ばない。日本統治で台湾の国民所得が増加したが、仮に台湾が継続して清朝に統治されていたらどうなっただろうか。

 中央集権的な中国政府の辺鄙地統治は、三流の人材を派遣し、苛税を課するだけだろう。台湾人の幸福な生活などは第二義的なことである。 派遣官吏は請負制度で、年間どれだけ税金を取れるかが関心事で、人民の生活状況は顧みない。したがって日本統治がなければ、台湾人の生活はもっと悪かったと私は思う。

肯定ばかりはできない

 日本の良い事ばかり言ったが、もちろん日本人にも問題はあった。

 日中戦争期に日本は異民族の台湾人の反乱を恐れ、皇民化政策を強制した。また、日本式に改姓名することや、日本語常用、日本服着用、神社参拝、神棚奉斎を奨励し、廟の◆童(霊媒)などを禁止した。

 台湾領有初期は、日本は台湾の旧慣、文化を保存する政策をとった。逆に大陸の中国人は台湾接収後、日本人の残した文物を破壊した。非常に偏狭な民族と思う。

 文物は朝代あるいは国家に拘わらず、歴史の証拠であり、大事に保存すべきである。諸君はもはや、日本人の建てた神社などの建物は見られない。かえってわれわれの廟寺は残っている。戦争末期になっても日本人は廟寺を取り壊さなかった。ただ◆童の様な迷信行為を禁止した。

「正しい歴史」とは

 一般人民の立場から言えば、前述の事実から日本統治に公平な評価をすべきと思う。

 今日は「奇美の歴史」を語るのに「台湾の歴史」に話がそれたが、台湾の基礎はほとんど日本統治時代に建設したもので、われわれはその上に追加建設したと言ってもよい。当時の日本人に感謝し、彼らを公平に認識すべきである。

 台湾の「二・二八事件」の死者の名誉回復をするが如く、日本統治時代のさまざまな施政についても頭から日本が悪いと否定するのではなく、改めて正しい評価をすべきと思う。また、この機会に、中国人と同民族である台湾人に対する統治についても回顧反省し、公平に評価すべきである。

 台湾人民が比較的自由に言論発表ができるようになったのは、李登輝総統時代になってからである。過去、今日のごとき話をすれば、調査局が必ず私を召喚調査するだろう。

 李総統がわが社を幾度も訪問したからほめるのではなく、歴代の総統で彼が最も言論の自由を尊重した。彼は私利私欲の無い人で、台湾を民主法治の国家に建設しようと革新を進めている。

 私は台湾の将来については楽観的である。

 多数の台湾人がグリーンカード(米国居住権)を持っているが、私はすこしも興味がない。

 なぜならば、台湾は非常に安全である。最近の改革で軍人の勢力は後退し政情も正常化しつつある。将来の歴史家は私のこの見解を証明してくれるだろう。

 私は、諸君が歴史に興味を持つよう希望する。歴史は非常に興味深い物で、見る角度によって異なる叙景ができる。ある歴史家がかつて言ったように、そこにある三本の樹木が、見る角度によっては一本に見えたり、あるいは三本に見えたりする。歴史とはこのようなものだ。

( 完 )