大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
大東亜戦争と上海臨時政府


わが民族の光復( 解放 )は米国、英国、中国、ソ連など連合軍が勝利した結果でもあるが、わが民族が国内外でたゆみなく展開してきた独立闘争の結実だった。8・15光復はすべての民族が日帝の支配に対抗して闘争してきた結実であったため、多くの人びとの犠牲と献身は民族運動史の偉大な業績として残ることになった。 ( 韓国高校国史・下より )

朝鮮人は日本国民として大東亜戦争を戦った。
「 韓国人の歴史観 」 黒田勝弘 平成11年 文春新書
韓国の国定歴史教料書は、1945年8月15日の日本支配からの解放を次のように記述している。
「 われわれが光復(解放)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実であるということができる 」( 『 中学国史・下 』 )
「 わが民族の光復は米国、英国、中国、ソ連など連合軍が勝利した結果でもあるが、わが民族が国内外でたゆみなく展開してきた独立闘争の結実だった。8・15光復はすべての民族が日帝の支配に対抗して闘争してきた結実であったため、多くの人びとの犠牲と献身は民族運動史の偉大な業績として残ることになった 」( 『 高校国史・下 』 )
こうした記述からもわかるように、日本支配からの脱出、すなわち解放は連合軍の対日戦勝の結果でもあるが、それ以上に自らの独立・抵抗闘争の結果であると「 自力 」のほうに力点を置いている。

そして「 自力 」で解放を勝ち取ったはずなのに、1948年まで独立政府を樹立できなかったのは「 強大国の利害 」が介入したためだというのが、韓国における近・現代史の公式見解である。しかし日本支配からの解放を、連合軍の対日戦勝より自らの独立闘争の結果だとする歴史認識は客観的ではない。それは米ソ( 連合軍 )による分割進駐、軍政、そして前述のような「 建国 」の遅れなどから明らかである。連合国および国際社会はその「 自力 」を認定しなかったのである。したがって解放をめぐる韓国の歴史認識は主観的ということになる。
(中略)
韓国の歴史教科書の近・現代史で目を引くのは、日本支配に関し1940年代が一種の空白になっていることだ。もちろんまったく記述されていないわけではない。1941年、日本が太平洋戦争( 大東亜戦争 )に突入することによって、日本支配下の韓国( 朝鮮 )も戦時総動員体制に組み込まれた。その戦争に動員された様子についての記述が、中学、高校の歴史教科書とも1ぺージ足らず存在するが、きわめて簡単なものである。(中略)それには、いくつかの理由がある。最大の理由は、その「 抵抗史観 」にしたがえばこの時期には目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないためである。

解放後に「 金日成抗日革命神話 」を作り上げた北朝鮮においてすら、1940年代は空白の歴史になっている。韓国の公式史観が強調する上海亡命政権の流れをくむ「 光復軍 」が、重慶の蒋介石政権やそれを支援していた米軍の指導下にあったように、旧満州にいた金日成の「 人民革命軍 」も共産系の中国人の下で極東ソ運軍に組み入れられ、極東ソ連にいた。つまり海外でも独自の「 独立戦争 」は存在しなかったのである。そしてより大きな理由は、以上のこととメダルの裏表ということになるが、この時代こそ韓国人の日本に対する「 協力 」が最も進んだ時代であり、「 韓国の歴史 」としては本当は思い出したくも触れたくもない時期だったからである。教科書もいうように、この時代はまさに韓国人を日本人にしようとした時代であり、実際に韓国人の多く日本人になりつつあった。

これは当時を生きた韓国人の多くがそう証言している。とくに当時、少年だった韓国人たちは戦時体制下の教育で意識は90%以上、日本人だったといっている。筆者の知り合いの韓国人の証言によると、昭和19年の1944年春、留学先の東京から一時帰郷した時、ソウル( 当時は京城 )の韓国人街だった鍾路の映画館に入ったところ、ニュース映画で上映される日本軍の戦況に関するニュースに観客が熱狂する様子を見て驚いたという。彼によると当時の東京の映画館でさえこれほどではなかった。彼は「 韓国人もとうとう日本人になってしまったなあ 」と複雑な心境になったと語っている

韓国の歴史教科書には日本に対する「 協力 」の文字はいっさい登場しない。国定史観としての「 抵抗史観 」からすれば当然である。日本支配時代は「 韓国人の歴史 」としては抵抗あるのみであって、協力などあってはならない。あったとしても、それは見たくないし、しかもその協力はすべて強制によるものでなければならないのである。いわゆる従軍慰安婦問題で韓国側が「 強制 」にこだわるのも同じ背景である。誤解をおそれずに書けば、従軍慰安婦の本質もまた、戦時体制下の圧倒的な日本人化の流れの中での「 協力 」現象だったということができるだろう。しかし「 韓国人の歴史 」としては「 協力 」ではなく「 強制 」でなければならないのである。

歴史において最も重要なものは想像力の問題である。たとえぱ従軍慰安婦問題でも相手が日本軍( 将兵 )で日本軍の管理下というのは、当時の歴史状況からすればひょっとして悪というよりむしろ相対的には善という位置付けではなかったかというのが、歴史への想像力である。「 日本軍による保証 」はむしろ安心と安全の証しになったのではないかというわけだ。しかし現在の韓国の公式歴史解釈では韓国人従軍慰安婦と日本軍( 将兵 )は絶対的な敵対関係として、すべてが「 強制 」で語られている。「 韓国人の歴史 」ではそうならざるをえないだろう。それは理解できる。だから「 強制 」という言葉が付くことによってはじめて慰安掃問題は歴史教科書に登場した。しかし「 日本人の歴史 」としてはそれは「 協力 」であり、そうであるがゆえに前述したように「 感謝と慰労 」を語りたいのである。

韓国の歴史教科書も述べているように、日本の韓国( 朝鮮 )支配は最後には韓国人を日本人にしようとした。そして韓国人の日本人化は実際にかなり進んだ。「 光復軍 」や「 朝鮮人民革命軍 」に加わった韓国人よりはるかに多くの韓国人が日本軍に加わり、日本将兵として連合軍と戦った( この「 協力 」に戦後の日本は十分報いているとはいえないが )、したがって連合軍も前者より後者の韓国人を韓国人の多数派と見ただろう。連合軍が韓国を連合国に加えず、戦勝国として認定しなかった背景は、そうした現実、つまり抵抗より圧倒的な「 協力 」という現実を見たからかもしれない
世界の人々の目には、朝鮮民族は日本と一体となって、戦争に邁進していると見えたはずである。


大東亜戦争に共鳴し日本の勝利に歓喜した朝鮮の人々
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
聖戦完遂に熱狂した朝鮮の人々

昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した支那事変において日本軍が中国軍を打ち破り、連戦連勝するようになると、朝鮮民衆の対日感情はにわかに好転し始めたのです。2000年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国の軍隊をいとも簡単に打ち破る日本軍の強さに朝鮮人は驚き、そしてその驚きが尊敬に、尊敬は熱烈な愛国心( 日本への協力 )へと変わっていったのです。 

目に見える劇的な変化は、出征軍人の歓送迎でした。支那事変勃発後、7月12日から多くの兵士が入営出征を見たのですが、北支に出動する日本軍の部隊が続々と朝鮮半島を縦断して北上するに及び、見ず知らずの人々も町内、村内または一地方挙げて駅まで出てきて、これを送迎するようになったのです。誰誘うとはなしに、駅という駅は国旗の波と万歳の声で溢れるようになりました。もともと個人的には親切な人々が多い朝鮮民族ですから、駅での心のこもった湯茶接待、慰問品の受け渡しばかりでなく、出征兵士との間に涙と笑いの交歓が続きました。とくに京城駅( 現ソウル駅 )には、昭和12年9月中だけでも実に43万余人、1日平均1万4300人余りが詰めかけ、日本の兵士たちをいたく感激させたといいます。

朝鮮教科団体連合会編『 支那事変に現れたる朝鮮同胞の赤誠 』( 昭和12年10月発行 )というパンフレットには、そうした朝鮮人の愛国ぶりが他にも具体的に紹介されています。例えば、日本軍人の無事を祈る千人針が流行していることや、朝鮮神宮への参拝者が急増し、9月3日には同神宮でキリスト教徒の尹致昊を代表とする朝鮮の各界代表百数十名が発起人となって『 国威宣揚武運長久祈願祭 』が挙行されたことや、血書を書いての従軍志願者が何百という数にのぼり、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れて総督府を困惑させていること等々、大変な熱気なのです。興味深いことは、朝鮮の民衆ばかりでなく、それまで日本に対して冷ややかであった朝鮮の民族主義者や民族団体までが、手のひらを返したように積極的に愛国運動をはじめたことへの日本側の戸惑いが、そのパンフレットの端々ににじみでていることです。

日本政府が昭和13年( 1938 )4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、それまで独立運動を指導してきた崔麟らは、『 これによって半島の民衆も全的に日本国民になるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない 』と声明を発表し、かつて大正8年( 1919 )には2・8独立宣言を執筆した朝鮮を代表する大作家・李光洙が歌謡『 志願兵壮行歌 』を作詞するなど、3・1運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼びかけたのです。これに応えて、朝鮮人青年は続々と志願しました。年を追うごとに応募者が増え、昭和16年に至っては実に45倍の志願者が押し寄せたのです。その倍率に驚かされます。朝鮮は伝統ある儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要でした。青年の一時の血気だけでは志願するのは困難なお国柄です。この驚くべき倍率の影には、圧倒的な朝鮮人の支持があったと見なければならないと思います。

それにしてもなぜ、これほどの朝鮮人青年たちは日本軍に志願したのでしょうか。米英のアジア侵略を阻止し東洋平和を確立するという日本の国家目標の実現が、朝鮮の将来と同一線上にあることを朝鮮民衆が理解するようになっていたこともあると思います。また、支那事変以来、日本の陸軍士官学校を卒業した朝鮮人士官の活躍ぶりが報道され、青年たちの心を強く揺さぶっていたことが大きかったようです。また、現実的な動機もありました。志願兵に出て戻ってくれば、自動的に巡査や面事務所( 村役場 )の役人になれたのです。そうすれば、家族の暮らしも良くなります。当時の日本青年の多くがそうであったように、朝鮮の青年たちの多くも貧困のため進学を諦めざるを得ませんでした。そんな朝鮮の青年にとって、志願兵は自分の将来を切り開く一つの道でもあったのです。

「 朝鮮人BC級戦犯の記録 」 内海愛子 1982年 勁草書房
( 昭和17年、シンガポールで捕虜になった英国人が朝鮮の収容所に送られてきた )

“歓喜する群衆”
8月、朝鮮に約1000名の白人が到着した。この白人俘虜の与えた影響を、朝鮮軍参謀総長が、詳細に報告している。以下その報告書である。

英人俘虜収容に伴う一般民衆の反響
  (中略)俘虜輸送中の道中に於ける釜山、京城、仁川地方の観衆人員も、鮮人約12万、内地人約5万7千名の多数を算したり。俘虜を通し、目前に見る彼らの醜態と恬然たる態度を嘲笑し、斯かる国家観念に乏しき軍隊が、皇軍に敗るるは当然なりと、皇軍戦勝の事実を再確認し、米英崇拝思想を一掃せさるべからずと○す者、或いは、皇国臣民たるの幸福感と大東亜戦争完遂の決意を○す者多く、(中略)
( ○の漢字表示不可読み不明 )

朝鮮人の主なる言動
A  半島青年が皇軍の一員として俘虜の監視をしているのを見たとき、涙が出る程嬉しかった。之を知らない人々に『 見ろ、半島の青年が英国人俘虜の監視をしているではないか 』と、大声を挙げて知らしてやりたい衝動に駆られた。
B  基督教関係者は、英米人より指導を受けた関係上、排外思想が抜けきらなかったが、俘虜を見たとき日本人の誇りと日本基督教の確立をせねばなならぬと謂ふ強い示唆を受けた。
C  戦争には水を呑んでも敗けてはならぬ、俘虜を見て日本人の有り難さと誇りを自覚した。
D  われらを下等人として馬鹿にしていた英米人を、俘虜として見るとは夢の様だ。半島人も日本人としての誇りを感じ之で気持ちも一変した。
E  口笛なんか吹いて平気でいるのを見ても、国家観念に乏しいことが分る。全く、だらしがないものだ。
F  あの力のないひょろひょろした様子を見れば、日本軍に敗れるのも無理もない。
G  俘虜を目前に見て、戦争には必ず勝たねばならぬと感じた。彼らを嘲る前に我々はもっと頑張らねばならぬ。
H  今迄、新聞や映画で皇軍の戦果を見聞きしながら、多少の疑問を抱いたが、俘虜を見て、報道の嘘でないことが解った。
I  日本人たるの幸福を痛感せしむる為、朝鮮人全部に俘虜を見せてやりたい。
J  奴等の為に戦争が長引くのだから、死ぬ程働かせてやれ。
K  俘虜が憐れな有様に較べて、我々が呑気に暮らして行けるのも、全く兵隊さんのお陰だ。

朝鮮人のBC級戦犯は148人うち死刑23人。

大東亜戦争の意義に賛同して戦意高揚の演説をした朝鮮の文化人たち
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
◇申興雨 
「 祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤をいまこそ晴らさなければならない。一度決戦する以上、帝国行路の癌である敵性国家( 米英 )を粉砕し、…新東亜建設に邁進しなければならない 」( 昭和16年12月10日のソウルでの決戦報告大講演会から )

◇普成専門学校教授 張徳秀 
「 英米の圧迫と屈辱から東亜民族の解放を叫ぶ決戦を開始したのである。いまや東亜民族は圧迫と摂取を受けて骨しか残っていないが、いまやその骨で断固として決起し、仇敵英米を打倒しなければならない 」( 昭和16年12月10日のソウルでの決戦報告大講演会から )

◇朝鮮農民運動指導者 李晟煥( りせいかん )
「 貧欲の牙城、白人帝国主義の張本人米英をいまこそ撃滅せずしては、我等の子孫の発展を望むことはできない 」( 昭和16年12月14日の米英打倒大講演会から )

◇「 二・八独立宣言書 」執筆者で朝鮮文芸界の第一人者 李光洙( りこうしゅ )
「 私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れずこの聖業完遂に邁進する者であるからして、子々孫々の栄華を得るであろう 」( 昭和16年12月14日の米英打倒大講演会から )

「 米国と英国を撃て 」と / かしこくも大詔がくだされた / 十二月八日 陽がのぼるとき / 輝く昭和十六年 / ハワイ真珠湾に / 積悪を撃つ皇軍の最初の霹靂( へきれき ) / ウェストバージニアとオクラホマ / 太平洋米艦隊はついえた / ついで撃つ南洋の陸海空 / プリンスオブウェルズ英艦隊旗艦 / アングロサクソンの罪悪と運命を抱き / クアンタンの沖の海深く沈みゆく / アジアの聖域は元来 / 天孫民族が繁栄すべき基業 / アングロサクソンに踏みにじられて二百年 / わが君がいま光復を宣せられた ( 「 宣戦大詔 」昭和17年1月 )

◇詩人で戦後、韓国の国会議員になった 朱耀翰( しゅようかん )
「 正義人道の仮面を被り搾取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文案( 提唱者日本 )を挿入しようとしたとき、これに反対し削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。…しかし君等の悪運は最早尽きた。…一億同胞…なかんずく( 朝鮮 )半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならんことを誓っている 」( 昭和16年12月14日の米英打倒大講演会から )

「 大東亜戦争の目的は東亜10億の民を侵略の魔の手から救い、東亜の新秩序を建設し、東洋を東洋人の東洋にしようとすることである 」( 毎日申報1943年11月18日号から )

◇三・一独立宣言を起草した歴史家 崔南善
「 昔から、春秋に義戦はないといわれているが、…今度の戦争を義戦−聖戦といわずして何といえようか。…大東亜の建設、全人類の解放、主義と信念と理想を生かすための聖なる戦いに行くことは何と快心事であることか。…日本国民としての忠誠と朝鮮男児の意気を発揮して…一人残らず出陣することを願う次第である。 」( 東京での演説 毎日申報1943年11月20日号から )

ベルリン・オリンピックのマラソン競技で金メダルを取った孫基禎も、朝鮮人学徒の志願兵応募推進団体に参加して、勧誘活動に奔走している( 姜徳相著「 朝鮮人学徒出陣 」に記述あり、1997年岩波書店発行 )。オリンピック優勝を報道した民族系新聞の東亜日報が、孫選手の胸の日の丸を消した写真を掲載して、総督府から発刊停止処分を受けた事件は有名だが、本人は日本政府に協力的だったのは皮肉なことである。

志願兵の募集に殺到した朝鮮人青年たち
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は1938年、初めて志願兵制度を実施した。それは、日韓併合から29年目の、日中戦争の翌年であった。それには、予想外といえるほどの朝鮮人青年が殺到した。次の公式数字からも、その異常な盛況がうかがえる。

 
  募集者数 志願者数 倍率
1938年 406 2946 7.26
1939年 613 1万2528 20.43
1940年 3060 8万4443 28.00
1941年 3208 14万4743 45.12
1942年 4077 25万4273 62.37
1943年 6300 30万3294 48.14

1938年 陸軍特別志願兵制度はじまる
1943年 海軍特別志願兵制度はじまる
1943年 朝鮮人学徒特別志願兵制度はじまる ( 適格者6203名中4385名( 70% )が志願した )
1944年4月 朝鮮人に徴兵制度適用
徴兵制度により徴兵された軍人・軍属は24万2341人で、1943年の志願兵応募者数30万人よりも少ない

1943年の志願者30万人を現在の日本の人口に当てはめると150万人に相当する。驚くほど多い人数だ。

内地の朝鮮人も志願兵制度実施に燃え立つ
戦前の新聞記事見出しより
『 半島人が出征志願/国家を思ふ心に変りなし/“雑役夫にでも”と 』 神戸又新日報 1937/7/19
『 義勇兵志願など/半島人の赤誠/昨夜内鮮融和座談会 』 芸備日日 1937/7/31
『 半島青年が/血書の従軍志願/徳山憲兵分駐所へ 』 芸備日日 1937/8/2
『 半島、台湾人あげて“正義皇軍”に寄す熱情/従軍志願、献金相つぐ 』 神戸又新日報 1937/8/8
『 半島少女が陸軍志願 』 大阪毎日 1937/8/16
『 半島人血書/従軍志願/国民の愛国熱 』 芸備日日 1937/8/19 】
『 暴戻支那を一撃/半島出身運ちゃんも侠気、義勇兵を志願( 御影 ) 』 大阪朝日 1937/8/22
『 朝鮮人志願兵採用制度/熾烈な日本精神が反映! 』 大阪朝日 1938/1/16
『 僕にもあるぞ・大和魂/夢に描く軍服姿/神戸の半島少年が志願兵に/きのふ憲兵隊に出願 』 神戸新聞 1938/1/18
『 半島人に感激の渦/志願兵採用制度に揚る万歳/門司署管内在住者が 』 福岡日日 1938/1/18
『 ・半島人志願兵・へ/呉から第一声/熱烈な志願書を出す 』 呉新聞 1938/1/19
『 颯爽!三番打者/半島青年姫路で入隊の志願/御用帳下げて出頭 』 神戸新聞 1938/1/19
『 赤誠、奮起の半島青年/早くも第一線従軍志願を 』 中国日報 1938/1/19
『 憧れの日本兵に/志願兵制度の実施で/福山で最初の半島人 』 大阪朝日 1938/1/20
『 九人兄弟を代表/お国のため御奉公/模範半島人の洗濯屋外交員が神戸で最初の志願兵( 灘 ) 』 大阪毎日 1938/1/20
『 半島人志願兵西宮のトップ/烈々の文字連ねて 』 大阪毎日 1938/1/21 阪神
『 愈よ燃ゆる愛国熱/半島同胞の志願兵制度に申出で更に相踵ぐ/太刀洗でも中年半島人熱心に志願 』 福岡日日 1938/1/21
『 血書で志願/半島同胞にもこの意義/皇軍の忠誠を聞いて軍人志願 』 福岡日日 1938/1/22
『 半島の青年また兵役志願/祖国愛は同じ 』 大阪朝日 1938/1/25
『 歓び勇む半島同胞/一人前の兵隊さんになれるぞ/尼崎で志願兵制度のお祝ひ( 内鮮同愛会 ) 』 大阪朝日 1938/1/27
『 兵隊に憧れる/半島の青年達/逸早く志願書提出 』 大阪朝日 1938/1/29
『 志願兵制度を喜び/在京半島人一万円献金 』 福岡日日 1938/1/30 夕
『 熱血の半島青年/総督へ志願書/防府市兵事課が煮切らぬので/断然、直接に提出す 』 芸備日日 1938/2/1
『 広島で最初の半島人/現役志願申出る/材木店員の真面目な青年 』 芸備日日 1938/2/9
『 半島人の血書志願/滴る血潮で綴る祖国愛の熱文/一日も早く軍人に 』 神戸又新日報 1938/4/9 夕
『 胸に描く兵士/燃えたつ愛国の血潮/半島青年が呉鎮へ採用志願 』 中国日報 1938/7/3
『 半島の出身者が高く掲げる『 日の丸 』旗/志願兵制度実施に感激して国体の観念を普及 』 大阪毎日 1938/11/17 神版
『 新生田川遊園地に燦・尽忠愛国の旗/朝鮮人志願兵制度記念の成果/輝く半島人の赤心( 泗龍親睦会 ) 』 神戸新聞 1938/11/24
『 半島の志願兵/本社に来訪 』 大阪朝日 1939/11/9 夕
『 我ら君国に報ぜん/湊川神社に詣でて力強い誓詞/半島志願兵隊神戸へ 』 神戸新聞 1939/11/11
『 朝鮮出身青年の鑑/宿志叶って/志願兵合格 』 中国 1940/9/6
『 海鷲へ……半島の児が初志願/涙の手紙に溢る“干城の喜び” 』 大阪朝日 1943/5/18
『 米英撃滅陣へ続かん/半島同胞が三人揃うて現役志願 』 神戸新聞 1943/6/4
『 半島少年も陸鷲志願 』 大阪朝日 1943/7/8 夕
『 病床から海軍へ/半島青年が/至誠の志願 』 中国 1943/8/10
『 新卒業者にも道開く/鮮台学徒特別志願兵規則改正/一人残らず志願せよ 』 大阪毎日 1943/11/12
『 熱意揚る半島学徒/赤誠の志願相次ぐ 』 大阪朝日 1943/11/14
『 眼ざすは全員志願だ/あす半島学徒特別志願締切 』 大阪朝日 1943/11/19 夕
『 志願締切迫る/鮮、台の若人起て/神戸地方海軍人事部談 』 大阪毎日 1944/12/6 神版

徴兵制布告に感激する朝鮮人
朝日新聞 昭和17年5月10日号( 「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画から )
…昨年の大東亜戦争開始以後の朝鮮人の戦争完遂に関する熱意は、献金に、あるいはその他各種の銃後援護に強く表明され、内鮮一体の機運ますます強固なるものがあるので、政府は朝鮮同胞のこの報国の赤誠( 祖国に尽くそうというまごころ )に応え、朝鮮に徴兵制を施行し昭和19年度より実施し得る如く…決定した。

沸きあがる朝鮮同胞の赤誠にこたえて徴兵令が施行せられることになった、内鮮一如、火の玉となって聖戦を戦い抜けという愛国心に目覚めた朝鮮同胞の熱誠は支那事変以来、戦線に銃後の火柱と燃え美はしい数々の祖国愛、同胞愛の物語を聖戦に織りなしていた。…ところが朝鮮同胞には兵役法の適用がなかったので、朝鮮同胞の赤誠に応えることができなかったのだ。そこでこの熱意に応えるため、昭和13年4月3日から陸軍特別志願兵令が実施されて来たのであった。

朝日新聞 昭和17年5月15日号( 「 朝日新聞の戦争責任 」 安田将三・石橋孝太郎 1995年 大田出版から )
『 今こそ真に日本人 』朝鮮の徴兵制に血書の感謝状

半島(朝鮮半島)青年も昭和19年から晴れて皇軍兵士の栄誉が適えるように準備をすすめている旨9日情報局から発表されたが、この光栄に勇躍した朝鮮同胞からは早くも感謝の心を綴った手紙が、谷情報局総裁や井野拓相(拓務大臣)のもとに届けられ、中には血書したものもある。その2,3−−。

[その1] ただただ感謝します。何十万の半島青年のすべてが受けたであろうこの感激は、一体いかなる言葉でいい表したら良いのか分かりません。『 兵役は? 』と問われ、『 ない 』と答える苦しさ。内地の人の中には『 時期が早い 』と思う人があるかもしれませんが、自分に問い、友に問いしても決して遅くこそあれ、早くはありません。自分が運良く戦死したら靖国神社に行ける。この気持ちこそ半島青年の気持ちです。必ずや自分もお呼び出し願えるものと固く信じその日を待ち侘びてあます( 「 あます 」は原文のまま ) 半島の一青年
情報局御中 <これには『 感謝 』と書いた血書が同封されていた>

[その2] われわれ朝鮮人の一人一人が帝国の防人として内地人と同様大東亜戦争に参加してこそ真の内鮮一体といえましょう。ああこの日本帝国に生まれ合わした幸運。朝鮮人も祖国日本のため、米英撃滅に参加出来る喜びをお察しください。今こそ、靖国の英霊の仇を討って見せます。天皇陛下万歳、大日本帝国万歳。
松本元治郎(創氏改名者)
情報局総裁閣下
軍人・軍属として出征した朝鮮人は24万人にのぼり、そのうち2万2千余人が戦死した。合掌


◇ 1945年8月15日 終戦 ◇

敗戦を境に豹変した朝鮮人
「 台湾人と日本精神 」 蔡焜燦 2000年 日本教文社
( 台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた )

昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『 敗けた! 』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒 にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『 戦勝国になったんだ 』と威張りちらす者もいれば、『 独立だ! 』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「 敗戦の詔勅 」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。だが、このときは正直いって心が揺れた。『 また行くのか…  』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。 この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。『 俺達はいったいどうなるのか…  』 『 我々は“中国”へ帰るみたいだ 』 『 それなら俺達も一等国の国民じゃないか…  』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。『 朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい 』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって“戦勝国民”になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で“敗戦”を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。 座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『 なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い! 』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『 すみません、私の記憶違いでした 』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。 若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
( 中略 )
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。 あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「 中華民国台湾青年隊 」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

時の勝者に乗り換える朝鮮人。これも伝統の事大主義か。
「 石枕 (下巻) 」 張俊河 安宇植訳 1976年 サイマル出版会
( 著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。 )

ことのほか私たちを哀しませたのは、韓同志が、そのころ上海を拠点として日本軍の手先をつとめながら財をなしていた、孫という男の奸計にかかって日本の憲兵隊に逮捕されたことだった。韓同志はこの孫に、軍資金の調達を申し入れたのだ。孫は日時と場所を定めて、そこで会うことを約束したという。その日、約束の場所にはあらかじめ日本の憲兵たちが待ち受けていた。これが韓同志の逮捕に関する顛末の全てだった。その孫が、今もぬけぬけと、この国で大手を振って歩いていると聞くにおよんでは。

けれども、私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。日本軍が降伏する直前(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍( 韓国臨時政府の軍隊 )の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった

ありていに言って、臨時政府や光復軍が、その名称の大きさに比して機構や人員においてあまりにも弱体だったことは、否定しえない事実だった。指導者クラスの人材は曲がりなりにも存在したが、青年層の人材はまことに不足の状態にあった。そんなありさまだったから、過去の経歴を問わずに、独立運動家の名を手当たりしだいに分け与えたのだ。誰であろうと参加を希望しさえすれば、相手かまわず鄭重に迎え入れ、光復軍の帽子を一つずつ被せてやった。

当時、光復軍には三個支隊があった。(中略)第三支隊は学徒兵脱走者十数名を中心幹部とする最前線の部隊だった。最前線地域という条件のゆえに人員の確保は容易だったし、したがって兵力も150名に達していた。けれども、そのほとんどが光復軍に入隊してほんの一、二ヶ月の、新入隊員たちだった。

ところで、この三つの支隊が相互に反目し合う状態から、やがては覇権でも競うようになったことから、光復軍の精神におのずと背く結果をひき起こしたのだ。とりわけ上海、南京を舞台に活動していたある支隊のいわゆる学徒出身幹部どもの傍若無人な専断ぶりときたら、実に常軌を逸したものだった。

( 中略)
我が同胞たちの中でもいくぶん富裕な連中は、解放と同時に日本のスパイという意味の漢奸の烙印を捺され、大部分が中国の官憲によって投獄されたり、財産を没収されるありさまにあった。はなはだしくは、我が革命家をもって任じる例の支隊の隊員たちまでが、韓国人同胞を処刑に処したり、掠奪を繰り返すなどして同胞たちの感情を損ねるまでに及んでいた。かくも暗澹たる状態に置かれるようになったのは、一言で言って、例の支隊の独善と傲慢さのゆえであったといって言い過ぎることはない。彼らはあたかも、日本軍からの脱出がこうした独善と傲慢を目的としたものであるかのように振舞ったのだ。それは、脱出の動機を虚栄と功名心に求めたのと替わるところのない行動だった。

現在の韓国政府は、上海臨時政府の後継者だと称しているが、傘下の光復軍に従軍慰安婦の抱え主がいたというのは笑える。

上海臨時政府は亡命者集団で、いくつもの派閥に分れ内部権力党争を繰り返していた。
財政難であったということは、民衆の支持を得てはいなかったのではないのか?
戦前の新聞記事見出しより
『 労働争議と不逞鮮人何等の関係もない/上海仮政府は財政難に弱る 』 大阪朝日 1921/8/21 夕
『 鮮人学生から七千円を奪い上海へ向かったらしい不逞鮮人 』 大阪毎日 1921/9/29 夕
『 窃取した六千八百円は独立運動の費用?/川端署で逮捕した蒋徳夏( 朝鮮人銀行頭取の子息から現金を窃取 ) 』 京都日出 1921/10/11 夕
『 独立運動を画策し六千八百円を窃取した鮮人コック逮捕 京都市に潜伏中 …焙出の方法で…文通し盛に活動して居る 』 九州日報 1921/10/12 夕
『 独立運動の前科鮮人/九大生が父の金二千円を持出して姿を晦ます 』 神戸又新日報 1922/3/13
『 独立運動を企てた大学生行方を晦ます/父の金二千円を持ち出す 』 京城日報 1922/3/14
『 怪鮮人は春画を売って上海仮政府へ走らうとした不逞の徒 』 神戸新聞 1924/7/27
『 怪鮮人の行動/大阪の同志等と結んで上海仮政府の密偵及主義宣伝/旅費調達に裸体写真を 』 神戸又新日報 1924/7/27
『 大掏摸
( スリ )団/独立陰謀団とも気◆を通ず 』 京城日報 1924/12/8 夕
『 上海不逞団の名で富豪を恐喝す/鶴橋署で逮捕の鄭永斗 』 大阪朝日 1926/2/23
財政難の上海臨時政府関係者が犯罪をおかしてまで資金稼ぎ。しかもエロ写真とは…

「 お家の事情 」の歴史観
「 抗日史観 」を国家の「 背骨 」にせざるをえない韓国の「 お家の事情 」。
国際派日本人養成講座 -H13.05.20-
■1.中国への謝罪要求は?■

 1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「 そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない 」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切報道しなくなった。

 朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇である。

 日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むのが韓国の特異な歴史観である。この点を知らずに「 日本が心から謝らないから、いつまでも許してくれないのだ 」などと考えているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけである。

■2.日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった■

 韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんでいる。韓国の国定教科書「 中学国史・下 」では次のように書く。

 われわれが光復( JOG注:独立 )を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあるということができる。[1]

 確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「 大韓臨時政府 」は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続けるのみであった。

 そのために「 大韓臨時政府 」はアメリカにも中国にも承認されていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認められる可能性はあったろうが、それすらもなかった。

 終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝えられている。[2,p28]

 韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わたしは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった。

■3.2日間で下ろされた太極旗■

 それでは韓国の「 光復 」はいかにもたらされたのか? 昭和20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・政務総監は朝鮮語新聞「 中央日報 」社長・呂運享と会い、一切の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。

 呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「 朝鮮建国準備委員会 」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物には、民族の旗「 太極旗 」が翻った。

 しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しばらく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。

■4.蚊帳の外の「 朝鮮人民共和国 」■

 朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全土に「 朝鮮建国準備委員会 」の支部を作らせ、ソウルに1千名余りの代議員を集めて、「 朝鮮人民共和国 」の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを無視した。

 9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「 朝鮮人民共和国 」の代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。

 9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。

 ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていた。

■5.日本と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮■

 なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか? 一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備がある のか、という疑問があった。現実に「 光復 」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「 暗殺の神様 」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。

 もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満州国軍中尉だった。

 こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

 一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。[3]

「 ( 日帝は )戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した 」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

 アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって、戦争に邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立させたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞うはずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが2,30年の信託統治を考えたのも、十分理解できる。逆に、朝鮮総督府がアメリカの占領前に慌てて朝鮮を独立させようとしたのも、共に戦ってきた同胞としての信頼感があったからであろう。

■6.アメリカから与えられた独立■

 1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだした金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛成した。

 米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して、北では9月9日に「 朝鮮民主主義人民共和国 」が樹立された。

 結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監視下で選挙を行わせたという経緯による。「 光復 」はアメリカから与えられたものであって「 わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実 」と言うにたる歴史事実は見あたらない。

■7.反抗期を持てなかった韓国■

 韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的である。インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の協力のもと、イギリス軍から投降してきたインド兵を集めて、数万人規模の自由インド軍を創設し、日本軍とともにインド解放をめざすインパール作戦を敢行した。日本敗戦後、イギリスが自由インド軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で裁判にかけようとすると、インド全土で反英活動が展開され、数千人の死傷者を出したが、2年間の戦いの末、独立を勝ち得た。[a]

 インドネシアも、独立派指導者スカルノ、ハッタを中心に、日本軍の指導のもと、3万5千の将兵からなるインドネシア義勇軍を創設し、日本敗戦後はこれを中核として、再侵略しようとするオランダ軍と4年5ヶ月も戦い、80万人もの死者を出しながら、独立を勝ち取った。[b]

 インドも、インドネシアも、自ら独立を勝ち取ったという厳然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要はない。独立国としての自覚を持つには、一種の「 反抗期 」が必要であり、インドもインドネシアも十分な反攻期をもったからこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。

 それに対して韓国の場合には「 独立はアメリカから一旦は取り上げられ、数年後に与えられた 」では国家の体面として身も蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それに対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそれを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出して、国民に示す必要があるのである。いわば「 抗日 」を国家の「 背骨 」にしているのである。

 中国が朝鮮戦争に関して謝罪しなくとも、韓国マスコミが激高しないのは、国家の「 背骨 」に関係ないからである。また再び謝罪要求をしても、冒頭に紹介したように、にべもなく拒否されたら、かえって韓国政府のメンツを潰すことになる、という事情もある。

■8.敬意と慰霊と感謝と■

 韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「 お家の事情 」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「 国定史観 」を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわが国が受け入れなければならない理由はない。そのような事をしたら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づくべき歴史学の健全な発展を阻害することになる。

 わが国としては、あくまでも歴史事実に基づいた客観性のある史観を持たなければならない。そのためには次の3点がポイントとなる。

 第一に日本による朝鮮統治をどう評価するか。韓国でも日本統治時代の歴史事実に基づく研究が進んでおり、経済史分野では再評価派が研究者の3分の1を占め、国史分野でも動揺が起きつつある。[1,p73]

 現実に日本統治時代のGDP成長率は4.15%と当時の先進国を上回り、人口も2.4倍となるほどの高度成長をしていたという事実があるのだから、客観的な研究をすれば、再評価派が増えるのは当然なのである。この高度成長に関しては日本側の貢献もさることながら、韓民族の努力と能力への敬意が払われてもしかるべきだろう。[c]

 第二に大東亜戦争で日韓が一体となって戦った事実をどう受け止めるか。日本人が靖国神社を参拝する際には、そこに一緒に祀られている朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱への慰霊も忘れてはならない。

 第三に朝鮮戦争を日本としてどう評価するか。この戦争で韓国側が負けて、北朝鮮のようなテロ国家が今の何倍もの国家規模で玄界灘のすぐ対岸に存在していたら、わが国の平和と繁栄は重大な脅威を受けていただろう。韓国軍が42万人もの尊い犠牲を出しながらも、果敢に戦ってくれた事に対する感謝を日本側は持つべきではないか。[d]

 このような歴史事実を直視すれば、我々日本人が抱くべきは、韓民族に対する敬意と慰霊と感謝の情である。韓国側の「 抗日史観 」に対し、日本側が表では謝罪しつつ、裏では反撥するというのは、歴史事実に基づかない虚構の関係であり、そこからは真の相互理解も友好も育ち得ない。日本側は「 敬意と慰霊と感謝 」を表明し、韓国側も歴史事実に基づいた自信と誇りを確立する、というのが真の和解への道であろう。

( 文責:伊勢雅臣 )

韓国人による自国民批判
「 苦難の韓国民衆史 」 咸錫憲 1980年 新教出版社( 「 日本のイメージ 」 鄭大均 1998 中公新書 より )
( 著者の咸錫憲は戦後韓国民主化運動のシンボル的存在であった )

われわれがまず明らかにしなければならないことは、この解放が盗っ人のように不意に訪れたということだ。解放後の腹立たしいこと、醜いざまは一つやニつではないが、その中でもほんとうに腹立たしいのは、この解放を盗もうとするやつらが多いことだ。

彼らは、自分たちだけはこのことを早くからわかっていたと宣伝する。それは彼らがこの盗っ人のようにやってきた解放を、さも自分が送りこんだようにして盗もうとするためである。それは嘘だ。もし彼らがあらかじめわかっていたなら、それほど先見の明があったなら、どうして8月14日までへりくだって服従していたのか。その時一言でも予告して民衆を慰め、勇気をひきしめさせていたなら、いまになってことさら宣伝しなくても民衆は指導者としてお迎えしたことだろう。

そういうことはやめて率直になろう。君も僕もみな知らなかったのだ。みんな眠っていたのだ。神社参拝をしろといわれれば腰が折れんばかりに拝み、姓を改めろといわれると競い合って改め、時局講演といえばありったけの才能を傾けて語り、米・英を罵倒し、転向しろといわれれば実にアッサリ転向し、よく見られようと聖書も直し、教会も売り、信用が得られるとなると四つん這いになり、犬の鳴き声もしてみせた。

この国の志士・思想家・宗教家・教育者・知識人・文人に、また海外流浪何十年と格好はよいが、その実、互いに博士派・先生派・なになに系・なになに団と、ハワイやサンフランシスコではアメリカ人の召使いをしながら勢力争いをし、重慶・南京ではとうもろこし粥をもらって食いながら地位争いをしていた人たちが、なにをあらかじめわかっていたというのか。思想はなんの思想で、政治はなんの政治運動をしたというのか。この国が解放されるとあらかじめわかっていた人など一人もいないのだ。
戦後の韓国人・朝鮮人は、日本帝国主義の犠牲者だと自らを位置付け、大東亜戦争を積極的に協力した過去を隠蔽したまま日本の戦争責任・アジア侵略を糾弾している。これこそ『 歴史の歪曲 』ではないのか。