朝鮮における従軍慰安婦




 この問題に対する主張は、
 軍人相手の朝鮮人売春婦は存在した。しかし日本軍や国家が物理的強制力( 奴隷狩り )により慰安婦にした事実は存在しない。
 その根拠とは物理的な強制性( 奴隷狩り )が存在したと左翼マスコミや反日主義者、在日が主張した従軍慰安婦を巡る裁判では、7万~20万人も被害者がいたはず( ? )なのに、奴隷狩りの目撃証人が一人も出廷しなかった からです。

 なぜ目撃証人が出廷しなかったのか? その理由は従軍慰安婦に対する物理的強制性( いわゆる奴隷狩り )そのものが、日本と日本人の名誉を失墜させるために 仕組まれた作り話だった からです。

 奴隷狩りの体験談をマスコミに証言した男の虚偽と欺瞞に満ちた話や、反日左翼主義者に利用され従軍慰安婦裁判の原告に無理矢理させられた女性の物語を、先入観を捨てて冷静に判断 しながらお読み下さい。


[1] 吉田清治

 吉田清治という名前を聞いたことがありますか? 従軍慰安婦問題に少しでも関心があった人であれば、聞いたことがあるはずです。 かつては山口県労務報国会の 「動員部長」 として従軍慰安婦集めの奴隷狩りを済州島で彼自身おこなったと告白し、マスコミにも採り上げられて報道され、テレビにもたびたび出演しました。 それだけでなく 「朝鮮人慰安婦と日本人」 ( 昭和52年刊行 )及び 「私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行」 ( 昭和58年刊行 )の2冊の本を出版し、彼が強制連行した女性は950人に達する と述べました。 事件現場( ? )の済州島では無く、韓国本土を訪れていわゆる従軍慰安婦( ? )に土下座をして謝罪するなどしてマスコミの話題になり、一時は従軍慰安婦問題の 「キーマン、最重要人物」 となりました。


[2] 済州島の慰安婦奴隷狩り

 「私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行」 の中から、ただ一箇所、時と場所が特定できる済州島における昭和18年5月に205名の若い女性を、従軍慰安婦にする為に奴隷狩りをした際の記述を紹介します。
 私は直ちに部落内の狩り出しを命じた。 路地に沿って石塀を張りめぐらせた民家は戸が閉まっていて、木剣を持った兵隊が戸を開けて踏み込んで女を捜し始めた。 ( 労務報国会 )隊員や兵隊達は二人一組になって、泣き叫ぶ女を両側から囲んで、次々に路地へ引きずり出してきた。 若い女性ばかり八人捕らえていた。 ( 以下省略 )
 従軍慰安婦の奴隷狩りについて、加害者側の 生き証人の出現 に、朝日新聞は鬼の首でも取ったように喜びました。 そして、

1.平成2年( 1990年 )6月19日の朝刊の社会面の大見出しにして報道しました。
2.その後も平成3年5月22日。
3.同年10月10日。
4.平成4年1月23日( 夕刊、北畠論説委員のコラム 「窓」 のエッセー )。
5.同年5月24日。
 と吉田証言に基づく 「奴隷狩り」 を真実として5回も報道し、テレビ朝日にも出演させました。


[3] 現地調査で明らかにされた真実

 吉田の話に疑問を抱いた千葉大学の秦郁彦教授が済州島に赴き現地調査をした結果、彼の証言( 本に書き、テレビ、講演で話した内容 )は、全くの 「作り話」 であることが判明しました。

(1)地元済州新聞記者の証言
 済州新聞の許栄善記者が1989年( 平成元年 )8月14日付けの新聞に、吉田の本の内容を裏付け調査した結果を署名入りで記事を書きましたが、見出しは日帝 「済州島で慰安婦205名徴発」、住民達は 「ねつ造」、日本の恥知らずの商魂に憤慨 でした。
この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と論評していましたが、後日当該記者と面会した秦教授は 「なんでこんな作り話を本に書くのでしょうか?」 と質問され、答えに窮しました。 更に記事の中で

島内の城山里の住民のチョン・オク・タン( 85才の女性 )によれば、 「250軒しかないこの村で若い女性を15人も強制徴発したとすれば大事件ですが、その当時そんな事実は無かった」 と断言しました。
郷土史家の金泰玉氏も 「1983年( 昭和58年 )に日本語版が出てから、何年も追跡調査をした結果、事実ではないことを発見した」 と述べました。
(2)済州島憲兵分駐所長の証言
 かつて済州島の憲兵分駐所長として駐在した北原時雄准尉は、平成6年( 1994年 )9月17日に 「強制連行のウワサすらその当時は無かった」 と証言していました。

(3)地元民の証言
 秦教授自身、平成4年( 1992年 )3月に現地を訪れ、城山浦の老人クラブで、植民地当時4~5ヵ所あった貝ボタン工場の元組合員など、5人の老人と話し合って、吉田証言の虚構を確認しました。

(4)まぼろしの日記
 昭和18年5月 におこなった済州島における 「慰安婦狩りの命令書」 については、陸軍の西部軍管区司令部の中尉が持参したもので、 「家内の日記の中に命令書を書き写したものがあった」 と吉田は著作で述べていましたが、別の箇所では結婚したのは 昭和19年2月上旬 と書いてありました。 自分の結婚した時期を間違う者がいるでしょうか? 未だ結婚していない女房が、日記に書き写したことになります。 口から出まかせの 「作り話」 をした結果であり、唯一の物的証拠となる 「家内の日記」 なるものは、要求に応じず遂に誰にも見せませんでした。 もともと実在しない 「日記」 など、見せられるはずがありません。

(5)立場の異なる側からの見解
 日本軍 「従軍慰安婦」 を追っての著者で、慰安婦の強制連行 「あり派」 の西野留美子によれば、 「吉田証言の持つ意味は大きい。 だからこそ彼の話の裏付けを取ろうと追跡調査を試みた人はいる。 そしてその調査の結果は、 吉田証言は信憑性に欠ける というものであった」 ( 70頁参照 )

(6)吉田自身の言葉
 電話によるインタービューに答えて、

  「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」

平成8年( 1996年 )5月29日付の週間新潮
 彼は職業的 「詐話師」 で、従軍慰安婦集めの奴隷狩りをしたどころか、 長崎刑務所に昭和15年から17年6月まで2年間服役していた事実も判明 していて、内務省( 現、自治省 )の官吏に準じる県の労務報国会の動員部長に前科のある彼がなれるはずがなく、戦後は下関市の市会議員に 共産党 から立候補したが落選しました。 それまで彼を従軍慰安婦問題追求の柱に利用して来た左翼系支援者や、 朝日新聞 を初めとするマスコミも、証言のウソが次第に判明してからは利用価値を失い、今では彼等によって意図的に完全に無視されています。 しかし彼の話を基に日本をおとしめる目的で、代筆作家によって書かれた彼の本は、その後オーストラリア人の George Hicks が The Comfort Women ( 慰安婦 )を書く際に、種本としても利用されました。

 そして吉田の著書は今も全国の図書館の従軍慰安婦を扱う本棚に置かれたままで、事情を知らない人達に貸し出され読まれています。 納得できないのは 朝日新聞 の態度で、三菱自動車の 「車体の欠陥隠し」 を厳しく批判しながら、自社が5回に亘り事実に反した事柄を報道し、日本および日本人の国際的名誉を傷付けたにもかかわらず、その誤ちを隠蔽し謝罪せず、記事の訂正もしていません。

 吉田は後になって、秦教授から 「強制連行の件は小説でしたと声明を出しませんか?」 と勧められましたが、 「私にもプライドがあるし、そのままにしておきましょう」証言が真実か否かの点には触れずに、彼自身のプライドの問題にすり替えて 答えました。

[4] 慰安婦探しの韓国行脚

 日本や軍隊に従軍慰安婦の強制性の責任を是が非でも負わせようとする信仰心( ? )を持つ左翼の反日グループが、裁判の原告を求めて韓国に慰安婦探しの行脚に出かけました。 日本を誹謗中傷する為ならどんなウソでも平気でつく韓国 の主張では、7万~20万人も従軍慰安婦が存在したはずでしたが、見つからず苦労の末ようやく見つけたのが 金学順 という元日本兵相手に売春をしていた経歴を持つ女性でした。 嫌がる彼女に金銭を渡し日本に連れてきて、従軍慰安婦裁判の原告第1号に据えました。 ところが法廷で明らかにされた彼女の経歴は、

  [原告第1号の物語とは]

大正12年(1923年)に生まれた彼女は貧困のため小学校を4年で中退し、14才で養父にキーセン(公娼)に売られ、昭和14年(1939年)に19才で「金儲けができる」と言われて養父に連れられて中国に渡った。鉄壁鎮で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士の為の性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活し、二人の子供を得て終戦の翌年、韓国へ帰った。朝鮮戦争中に夫は事故で死亡し、子供も病死し、韓国中を転々としながら酒、たばこを飲むような生活を送った。身寄りの無い現在は政府から生活保護を受けている。人生の不幸は軍隊の慰安婦を強いられたことから始まったので、日本政府は謝罪すべきである。

以上を読んで彼女の人生には同情しますが、これがいわゆる強制連行されたと主張する、従軍慰安婦裁判の原告第1号だとは呆れ果てました。一体何に対して日本政府は、謝罪せよと言うのでしょうか?。貧乏な親に売られた娘が売春婦として生活し、後により多く金を稼ぐために「鞍替え」して、日本の軍人相手に売春をしただけの話です。このような例は朝鮮に限らず戦前の日本の農村に行けば、どこにでもあった話でした。日本人の女郎(売春婦)でも国内、海外で軍人を客にした者は、政府に責任があるので謝罪や補償をしろと言うのと、同じことです。

金学順の件について国や軍隊による物理的強制が、どこにも存在しなかったことは明白です。反日左翼主義者や一部のマスコミは、従軍慰安婦に対する「物理的強制が否定」されると、次には主張を変更して心理的強制があったと言うようになりました。好き好んで人類最古の職業である売春婦になる人は、滅多にいません。そこには程度の差こそあれ、日本の貧農の娘も、韓国の金学順も、売春婦になるには心理的強制があったであろうことは否定しません。しかし、

その責任は彼女達を金銭の為に売った親や、手数料を取って人身売買の斡旋仲介をした女衒(ぜげん)、金を払って女性の身柄を購入した売春宿の経営者だけにあり、雇用主の立場に無い日本の軍隊が負うべきものではありません。

さらに「心理的強制」について問題にするのであれば、最近(平成16年)韓国で有名人の兵役逃れが数多く発覚しましたが、喜んで兵役義務に服する者は滅多にいません。従って韓国、中国、北朝鮮における徴兵制度も「心理的強制」の産物であり、反日左翼主義者の理屈によれば人権侵害に該当するため、彼等はこれらの国の徴兵制度廃止を主張しなければなりません。それによって北朝鮮の110万、韓国の70万、中国における260万の兵力も志願兵だけとなり、必然的に兵力の大幅減少をもたらすので、東アジアの軍事的緊張が大幅に緩和され結構なことです。

[5] 売春は韓国の伝統産業

韓国の歴史をみれば新羅、高麗の頃から中国に、「貢女、貢ぎ物の女性」と称して宮廷慰安婦を献上してきました。売春は韓国にとって伝統的産業であり、昭和50年代まではソウルのシェラトン・ウオーカー・ヒルでは米軍兵士を相手に公然と政府が管理して売春をおこなわせていました。通用した貨幣は米軍の軍票だけで、韓国政府が売春婦に顔写真付きの売春許可証(ライセンス)を発行し、売春を管理したことは余りにも有名でした。外人相手のキーセン・パーテイ、売春なども、外貨獲得の為の有力な国策で、国際的にも悪評高い売春立国でした。日本では売春禁止法は昭和33年(1958年)に施行されましたが、韓国では日本に遅れること46年目にして今年(平成16年)から、ようやく売春取締法が施行されました。買春すると1年以下の懲役又は300万ウオン(30万円)の罰金だそうで、それを目当ての海外からの観光客が減ることが予想されますが、売春婦達はブローカーに300ウオン~400ウオン(30万円~40万円)の手数料を払い、日本の風俗店に流入する者が増加するので日本の当局も警戒しているとのことでした。韓国の中央日報の日本語版(平成16年10月11日付)によれば、

  韓国では売春女性2,800名が先月(平成16年9月)から施行された売春取締法に反対する集会を、首都ソウルの国会前で開いた。マスクや帽子で顔を隠した女性達は「私たちも職業女性だ、生計を維持する権利を保障しろ」、「売春を無条件に禁止せず、法で区域を定めて管理しろ」と要求した。

韓国の女性団体に依れば韓国では、売春宿、理髪店、マッサージ・パーラー、カラオケ・バーなどに数十万人の売春婦がいるとされ、韓国の性産業の規模は G D P (国内総生産額)の4%以上になり、統計によれば20才から30才までの韓国女性の4%が性産業に従事している。とのことでした。道理で多くの韓国人女性が来日しては不法滞在し、風俗産業に従事している理由も納得できました。

前述の如く戦前から朝鮮では売春が普遍的な職業、社会習慣であったため売春婦が多く、日本軍が物理的強制力で慰安婦狩りをする必要性など、全くありませんでした。

[6] 根拠は、証人、証拠のない本人の話だけ

いやしくも国家や日本民族に従軍慰安婦の「奴隷狩り、強制連行の汚名」を着せるには、本人の証言だけでなく、それを補うための客観的証拠が必要です。前述のように強制的に従軍慰安婦にさせられたと称する被害者が韓国に7万~20万人も存在したのであれば、強制連行の目撃者はその何倍もいたはずです。しかし現在に至るまで証人となるべき一人の目撃者も、裁判にはいないのです。日本からわざわざ裁判の原告探しに行きながら、その証言が内容的にも証拠上からも到底裁判に耐えられない原告第1号の金学順のような者ではなく、もっと「ましな原告」を探して来るべきでした。前述の秦教授が裁判の原告担当の高木弁護士にその旨を述べたところ、もっと「良い原告」を探している最中であると述べたそうです。裁判の目的が彼女達の為ではなく、それを政治目的に利用することにある証拠です。

平成4年(1992年)3月2日に参議院議員会館でこの問題の「日韓交流集会」が開かれましたが、赤旗に掲載された従軍慰安婦、沈美子(シム・ミジャン)の話によれば、(吉川春子著「従軍慰安婦」の20頁から引用)

  昭和15年(1940年)16才の時に、学校で担任の日本人の先生から日本地図を「刺繍、ししゅう」で埋めるようにいわれ提出した。数日後呼び出され警察の幹部から、日本の国花は桜なのに「朝顔」を「刺しゅう」しているのは思想が怪しいと言われ警察に連行された。宿直室でその警官に強姦され、抵抗すると報復に「焼きゴテ」で左の肩を焼いた。その傷は今も残っている。気を失って、気が付いたら福岡であった。そして従軍慰安婦にさせられた。

[7] 慰安婦物語の検証

(その1)関釜連絡船における警備状況
前述した「西野留美子の著書」には、大東亜戦争が始まってから下関警察署の警部(警備ではない)課長をしていた、特高警察官「石田操」にインタービューした際の話があります。(78頁参照)

  特高警察というのは思想警察。言動を観察したり持ち物を調べたりすることじゃった。とても厳しい時じゃったから、朝鮮から船で来る朝鮮人もよう調べましたよ。わしも船に乗ってね。持ち物検査もしよったです。どういう本をもっているか。マルクスの本をもってないか。爆弾みたいな物は持っていないか調べたわけです。船には、下関の特高だけでなく、朝鮮の釜山警察からも乗ってきおった。毎日船に乗っておった

(その2)失神時間の長さについて
現在釜山と下関の間を運航するフェリー2社の所要時間は、13時間半~14時間ですが、64年前にはより多くの時間が掛かっていたに違いありません。となるとその航海時間プラス、事件現場から釜山港までの移動時間と乗下船の時間、及び下船地の下関から福岡までの移動時間を加えた間(少なく見積もっても24時間以上)を、強姦されただけの被害者の女性は、ずっと気を失っていたことになりますが、そのようなことが常識で考えられますか?。今年(平成16年11月)に代表者で早稲田大学生の和田真一郎が懲役14年の実刑に処せられた、イベント・サークル「ス-パー・フリー」による女子大生集団強姦事件の場合でも、酒を飲まされた被害者達は、これほど長い間気を失ってはいませんでした。つまりシム・ミジャンの話には、「ウソがあった」ということです。

(その3)警戒、検査のすり抜け
更に警察官による前述の厳しい警戒の下で気絶したままの16才の女性を、下関と釜山の間を結ぶ「関釜(かんぷ)連絡船」の乗船時、船内、下船時の厳しい検査をすり抜けて、福岡に運ぶことなど到底不可能なことです。

以上のことから合理的に判断して彼女の話した内容が、「虚偽の作り話」であることは間違いありません。共産党のイデオロギーに染まった参議院議員の著者には、そのウソを見抜くことができず、全く疑問を感じなかったのでした。

この著書に限らず韓国における反日思想に影響を受けて、日本軍が駐屯したことがない地域からも従軍慰安婦と称する者が現れました。韓国人女性が「日本人からの依頼」で強制連行による売春の体験談(?)を語れば、内容についてウソか真実かの判断、検証もせず、子供のように無邪気に、無批判に信じ込む日本人が大勢いるのです。「物語の協力者」の多くは吉田清治の場合と同様に、それが事実であろうと無かろうと、政治目的の「宣伝」に利用しようとした反日左翼主義者たちです。

[8] 朝日のキャンペーン記事と宮沢訪韓

平成4年1月に宮沢首相が韓国を訪問するのに狙いを定めて、その5日前の平成4年(1992年)1月11日の朝刊から、朝日新聞は朝鮮人慰安婦のキャンペーン記事を掲載しました。見出しだけでも「慰安所、軍関与示す資料発見、民間任せ政府見解揺らぐ」、「部隊に設置指示、募集含め統制・参謀長名で、次官印も」、「<謝罪を><補償を>の声さらに」等々でした。このスクープと称するものの出所は防衛研修所図書館の「陸支密大日誌」で、30年前から公開されていて慰安婦関係の書類が含まれていたことも、軍が関与したことも、従軍慰安婦研究者の間では新発見でも無く周知の事実でした。

このキャンペーン記事は朝日の予想通り大反響をを呼び、日本国内や韓国のマスコミにも詳しく報道され、日本政府は慌てふためいて情報の確認、分析や反論もしないまま、宮沢首相は早々と3日後の記者会見で「軍の関与を認め、お詫びしたい」と発言する始末でした。その後訪韓した首相を待ち受けていたのは大勢の反日抗議デモで、天皇の人形が焼かれたり、名乗り出た元慰安婦が座りこむなど、反日デモが荒れ狂いました。毎日新聞ソウル支局の下川特派員によれば、

  宮沢首相が青瓦台(大統領官邸)の記者会見場で、卑屈な表情を浮かべている姿が記憶に生々しい、1時間15分の首脳会談で、宮沢首相は8回も謝罪と反省を繰り返した----。韓国の大統領主席補佐官は、韓国人記者たちに謝罪の回数まで披露した。こんな国際的に非礼な記者発表は見たことがない。

[9] 軍の関与の正体とは

朝日新聞が報じた資料とは陸軍省兵務課が作成し派遣軍などに通達した、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」と題するもので、

従業婦等の募集などに当たっては、派遣軍が統制し、
これに任ずる人物(慰安婦斡旋業者)の選定を周到適切にし、実施に当たっては関係地元の憲兵および警察当局との連携を密にして、軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏無きよう配慮せよ。

と指示したものであり、公娼制度下にあった当時としては常識的なものでした。内容については

1. 外地勤務の慰安婦を業者が募集する際に、悪質な斡旋業者が無知な婦女をだまして勧誘/応募させることの無いように、注意を喚起したものである。
2. 朝鮮人慰安婦に限ったものではない。
3. 強制連行を類推させるものではない。
4. まして軍が慰安事業の主体になっているわけではない。

それまでの政府の説明の中では、意味の紛らわしい、どのようにでも解釈できる「関与という言葉」を使い、慰安婦の「募集」についての関与を否定してきましたが、陸軍が現地軍(方面軍)に対して、斡旋業者を選定に際しての注意を喚起したに過ぎないのです。

[10] 事実よりも政治的決着を優先

宮沢総理が訪韓した際に、従軍慰安婦の件について謝罪することになった理由は

1. 吉田清治の嘘の証言。
2. 朝日新聞のセンセーショナルな世論誘導報道。
3. 慰安婦原告第1号である、金学順の証拠能力の無い証言。

でしたが上記について簡単な事実関係の調査もせずに、訪韓に際して日本側が謝罪をすれば、韓国側も今後問題としないであろうと、お得意のその場限りの甘い判断をした結果でした。更に平成5年(1993年)8月4日に公表された「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」と、関連した「河野洋平内閣官房長官談話」により、調査資料の上からは全く存在しない慰安婦に対する「強制」を、政府が公式に認め謝罪することになりました。なぜそうしたのか?。

宮沢内閣の「重大な判断の誤り」が日本民族にもたらしたものは、日本の名誉に将来にわたる「慰安婦の強制連行」という虚偽の汚点を残したことでした。

[11] 密約外交の代償、痛恨の河野談話

これについては「文芸春秋」の平成9年4月号にジャーナリストの桜井よしこが当時の関係者にインタービューした内容が載っています。

石原信雄(当時、官房副長官、事務方のトップ)の発言
第1次調査では募集の強制性は見つからず、韓国政府も当初はそれほどこの問題に積極的ではなかったため、これで収まると思った。(政府)の関与を認めただけでは決着しないと思った、(韓国に16人の従軍慰安婦の聞き取り調査に)行くと決めた時点で(強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた。韓国側の要求により、彼女達の名誉が回復されるということで、強制性を認めたんです。当時外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援団体が押し掛け、泣き叫ぶようなありさまだった。最後まで迷いました。あれは両国関係に配慮してそうしたわけです。真実よりも外交的判断を優先させて、慰安婦の証言だけで結論にもっていった。---批判は覚悟している。

河野洋平(当時、官房長官)の発言
  政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を狩り出したとする(強制を裏付ける)文書はなかった。けれども(慰安婦の身の上話を聞かされて)本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあった。
残念なことに河野という人物は昔からいわれているように、「四角いタマゴと女郎のホントの話」は存在しないということをご存知ないらしい。つまり「女郎(慰安婦)の身の上話」はウソで塗り固めたものであることを知らないらしい。女郎(慰安婦)は客から身売りされた理由を聞かれれることが多いので、予め3~5種類の身の上話を作っておき、農村出身の客には凶作で食う米が無いのでとか、商人の客には父親が事業に失敗して、などと相手に応じて哀れな身の上話をするのが常識でした。韓国での聞き取り調査ではお得意の強制連行の作り話を聞かされて、しかも裏付け調査も全くせずに、それを信じ込んだのが原因でした。

平林博(当時、内閣外政審議室長)の発言
(元慰安婦の)証言を得た上で、箇々の裏付け調査をしたことはない。事前に当方の意図するところを(韓国へ)通報した(打ち合わせした)ということが直前にあったと聞いている。(慰安婦)の募集段階で、官憲などが直接かかわることは無かった。軍や警察の服装に似た人がいたことから、慰安婦が政府の関与と受け取った場合があるかもしれない。

[12] 韓国が仕掛けた罠、交換条件

河野官房長官談話が出た平成5年8月4日は、すでに細川連立政権の誕生(8月6日成立)が決まっていました。その前に懸案事項を片づけておきたいという焦りが、土壇場の訪韓ヒャリング、河野談話となりました。韓国側から持ち出された慰安婦への補償はしなくてよい代わりに、「強制性」を認めるという「交換条件」は、去りゆく宮沢政権にとって魅力的でしたが、それは日本の将来に禍根を残す「深い落とし穴」でもありました。これは日本外交の大失敗、敗北であるといえます。

その後の慰安婦裁判では必ず、河野談話が原告側の主張を補強する証拠として提出され、平成10年4月27日の山口地裁下関支部での元慰安婦が起こした国家賠償を求める裁判の判決では、河野談話が強制連行の証拠と認定されただけでなく、被告である国の抗弁権をも制約する結果となりました。それだけでなく河野談話が国連のクマラスワミ報告(国連人権委員会、女性に対する暴力)にも強制連行が「事実として」引用されました。

前述の石原官房副長官の話
国家賠償の前提としての話であれば、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいて証拠を求めます。その当時は慰安婦の名誉をまもる為に韓国が「強制の存在」を要求していましたが、それを裏付ける資料が存在しなかったにもかかわらず、日本が認めれば問題が沈静化し解決すると期待していたのです。

[13] 軍隊と慰安婦の問題

米軍によるイタリア人慰安婦の性病検診
従軍慰安婦に関する訴訟では、原告側は国家組織として関与したのは日本だけとよく主張しますが、それは間違いです。歴史をたどれば遠征するフランスのナポレオン軍に同行した娘子軍(売春婦)の数は、兵士と同数はあろう。風紀の頽廃と性病は敵軍の砲火の10倍もの犠牲を作った、とナポレオンの陸軍大臣カルノーは本に書きました。ナポレオンの遠征によりヨーロッパ大陸では性病が蔓延しましたが、それがきっかけとなり1802年にフランスでは売春婦たちの登録と性病検診が義務付けられ公娼制度が発足しましたが、それが各国に広がり、イギリスではクリミヤ戦争(1853~1856年)を契機に公娼制が導入されました。

第二次大戦における各国政府や軍隊にとっての共通の悩みは、「性病による戦力の低下を防ぎつつ、いかにして若い兵士達へ適当な性の捌け口を与えるか」でした。

1. 米国、英国型
社会が私娼中心の段階にありしかも世論、特に祖国の女性の監視が厳しい状態のために、現地人女性に対する買春を黙認する形式を採りました。さらに婦人部隊の兵士(ピーク時には米国26万人、英国44万人)やナースに代替の役目が期待されました。

日本においても占領軍の指示に基づき日本の内務省が設置した R A A ( Recreation Amusement Association 、占領軍慰安協会)が高給で日本人売春女性(プロもアマも)を雇い入れ、米兵たちの要求に応えました。

R A A が最初に新聞に出した広告の文面は、「戦後処理・国家的緊急施設、新日本女性求む」でしたが応募者が殺到し、1,360名の売春女性が採用されました。新聞記者のマーク・ゲインが書いた「ニッポン日記」によれば、

R A A の本部には450名の事務員がおり、所属のダンサー(その大部分は淫売が副業)が2,000名、外人との性交渉にもいささかの「たじろぎ」も見せない売春に練達した職業女性が、350名に達するという状況だった。協会は東京だけでも33箇所の営業所を持っている。

と述べていました。

それでも新聞報道によれば、背の高い男、色の白い/黒い男たちによる強姦事件が多発し、米軍が積極的関与を控えた結果、兵士たちの性病感染者が増加しました。

2. 日本、ドイツ型
日本もドイツも平時から本国で公娼制度(管理売春制度、女郎屋)が定着していたので、戦地では監督役を警察から軍に肩代わりするだけで済みました。慰安所の数については昭和17年(1942年)現在で、日本が約4百箇所、ドイツも5百箇所と似たような規模で、開設の理由から管理運営の仕組みまで似ていました。

ドイツについては国防軍用だけでなく、アウシュビッツの囚人向けや、外国人強制労働者用にも慰安所がありましたが、目的は同性愛の排除、囚人の団結阻止、労働成績の向上でした。

3. ソ連型
日本軍に限らず戦争にはレイプの話はつきものですが、第二次大戦末期にソ連軍がドイツと満州、北朝鮮で、大規模なレイプを繰り広げた話はあまりにも有名です。戦時中に有名なユダヤ系の作家のイリア・エレンブルグは「ゲルマン女性は諸君の戦利品だ」という宣伝パンフレットを配り、兵士達のレイプを煽動したとされました。国や軍の幹部が半ば公然とレイプによる「復讐」を奨励したのはソ連軍だけかと思っていたら、ベトナム戦争(1970年)中のカンボジャ VS 南ベトナム、バングラデシュ独立戦争(1971年)でもおこなわれました。さらに旧ユーゴスラビアの内戦(1992年)では「民族浄化」を目的とする組織的レイプが起きて、国際裁判に掛けられようとしています。

ソ連についてはシベリアに抑留されていた元軍医の体験記を読むと、慰安婦の集団を専用列車に乗せてシベリア大陸にある軍の基地を巡回慰安するサービスがあるのだそうです。ある日彼が目撃したのは専用列車から降りた大勢の若いスラブ系慰安婦達が、駅前の広場で人目もはばからず脱糞、放尿をしてからトラックに乗せられて、近くの基地に商売に行ったのだそうです。日本人捕虜達は広場の汚物の掃除をさせられたと書いてありました。

終戦から6週間後の昭和20年(1945年)9月27日に大田(南朝鮮)の朝鮮軍司令部は、東京の陸軍参謀次長に宛てて次の要旨を打電しました。

  鉄原(ソウルの北80キロ)から脱出した日本人の報告によると、進駐して来たソ連軍は略奪ののち、9月1日に広島屋(遊郭街)に24人の邦人婦女を閉じこめ、連日のレイプで6人が死亡、他は10日頃にウラジオへ連行したらしい。また吉州でも250人の婦女がレイプされた後、殺されたという。他の都市も同様かと思われる。38度線より北とは連絡不能のゆえ、中央の外交手段で処置されたい。なお南朝鮮も米軍不在の地域は無政府状態で、邦人財産が奪われつつある。

[14] 巨額のカネを稼いだ慰安婦の実態

平成4年に韓国の元従軍慰安婦の文玉珠が起こした、「戦時郵便貯金の払い戻し請求訴訟」別名下関裁判というのをご存じですか?。彼女は戦時中にビルマで従軍慰安婦をして貯めた26,245円を郵便貯金にしていましたが、後にその中から5,000円を朝鮮の実家に送り、敗戦後の混乱の中で預金通帳を紛失してしまい、昭和40年に預金は失効しました。それを27年後の平成4年になって預金の払い戻しを国に要求したのです。勿論元慰安婦個人ができる裁判ではありません。そこには例によって元従軍慰安婦を「だし」に使い日本の威信失墜を図る反日左翼主義者たちが裁判の筋書きを書き、彼女はそれに原告として利用されただけでした。戦時中の大卒の初任給が100円から150円の時代に26,000円の貯金とは、その金があれば当時東京でも家が何軒も買えた大金でした。

裁判の過程で明らかにされたことは、彼女が僅か2年半の間にこのカネを稼いだということでした。つまり30か月で2万6千円を貯金したので、毎月870円も貯金したことになります。大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年)によれば、最下級の2等兵の月給は7円50銭で、下士官である軍曹が23円~30円、戦地手当を含めると約2倍になったので、当時の兵士の収入を平均すると月額30円程度でした。彼女はその30倍も稼いだわけです。それだけではありません、陸軍中将の年俸でも5,800円でしたから、彼女は在ビルマ日本軍最高指揮官よりも、多く稼いでいたことにになります

反日左翼主義者による従来からの主張によれば、強制連行され性的奴隷のはずの従軍慰安婦が、それ程の大金を貯金できる身分であったことが公の場で初めて明らかになりました。裁判によって朝鮮人慰安婦の実体が偏向マスコミや反日左翼の主張とは大きく異なっていたことが分かり、彼らにとって正に「ヤブ蛇」になりました。悔し紛れに彼女達には行動の自由が制限されていたと反論する者もいましたが、兵隊でも看護婦でも戦地では同じ様に行動制限がありました。例によって朝日新聞は裁判の過程で明らかになった、慰安婦が稼ぎ貯金した巨額の金額についての報道を一切しませんでした。偏向新聞の購読者は、朝日の主張に沿って洗脳されるのです。

米国、国立公文書館の慰安婦に関する資料
捕虜にした朝鮮人従軍慰安婦について米軍が聞き取り調査をした記録が、戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告書 No.49、ビルマ(1944年10月1日)に記載されています。

[募集] 1942年(昭和17年)5月、日本人の業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が慰安婦業務に応募し、200~300円の前払い報酬を受領した。
[日常生活] (原告の文玉珠も生活していた)ビルマのミートキーナにおいては、通常二階建ての大きな建物に住んでおり、一人一部屋を与えられていた。食事は経営者が用意したものであった。食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけでもなく、彼女らは金を多くもっていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣類、靴、タバコ、化粧品を買うことができた。 ビルマにいる間、彼女らは(日本軍)将兵と共にスポーツをして楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機(レコード・プレーヤー)を持っており、町に買い物に出ることを許されていた。
以上の事実からも反日左翼主義者や補償目当ての韓国人が主張した、従軍慰安婦について「籠の鳥」の生活や、強制連行されたとする主張はウソであったことが分かります。再度述べますがこれまでの強制連行の裁判では、7万~20万人も強制連行の被害者がいたと主張しながら、犯行を裏付ける証人となる目撃者が肉親を含めて、一人も現れませんでした。その理由とは強制連行はもともと存在しなかった、だから目撃証人が得られず、従って証人が出廷しなかったということです。
現在でも売春立国の韓国から日本のカネ目当てに、大勢の慰安婦が来日しては不法滞在、不法残留を続け、大卒初任給が20万円の日本で、毎月100万円以上稼ぐ者が大勢いるのも戦時中の従軍慰安婦と同様で、私には十分納得できます。
参考までに平成16年12月1日付読売新聞の記事によれば、韓国人不法残留者の数は、平成16年1月現在で46,425名で、その殆どが女性でした。

[15] 最高裁判決

平成16年11月29日の報道に依れば、戦時中に軍人、軍属、慰安婦として旧日本軍に連行され(?)、非人道的な扱いを受けたとして、韓国人やその遺族合計三十五人が、日本政府に対して一人当たり2千万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が二十九日、最高裁第二小法廷でありましたが、1審、2審に次いで最高裁も原告の訴えを却下し、原告(韓国人)側の敗訴が確定しました。この判決は至極当然のものであり、左翼主義者のイデオロギーに基づく政治目的と、強欲な韓国人の金銭目的の産物であるこの種の訴訟は、これで終了することでしょう。

昭和40年(1965年)に締結された「請求権及び日韓経済協定」によれば、第2条に対日請求権は「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と明記されていました。それによって韓国は当時の国家予算の50パーセントに相当する有償2億ドル、無償3億ドルの日本からの経済援助を受け取りましたが、一方日本政府も当時の乏しい外貨準備高の18億ドルの中から三分の一に近い5億ドルの援助をしたのでした。

示談成立後にもかかわらず韓国は、ことあるごとに謝罪やカネを要求し、日本は世界の旧植民地宗主国に例がない植民地支配に対する、謝罪や補償を繰り返してきましたが、イギリス、アメリカ、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの国を見習い、朝鮮半島に文明開化をもたらした歴史の事実を主張し、今からでも毅然とした態度をとるべきです。

[16] 歴史に対する評価方法

凶作にあえぐ東北地方では「娘を売っても、馬売るな」ともいわれていて、米などの生産に欠かせない馬は、娘よりも大事な地位にありました。農村では貧困が原因で娘の身売りが日常的におこなわれましたが、このまま村にいて一家が飢えるよりも、自分が親のために犠牲となり、白い飯が食べられる慰安婦になろうと決心した娘がいたと思います。その一方で娘は親の所有物と見なして、やむなく慰安婦に売った親が日本にも朝鮮にもいたはずです。

慰安婦の問題を論じる際に反日左翼主義者が朝鮮人従軍慰安婦の人権のみを主張し、日本人従軍慰安婦の人権や、更に韓国で平成16年(2004年)9月まで公認されていた売春制度について、売春の非倫理性を含めて非難せずにいるのは極めて片手落ちというものです。

歴史について善悪の判断、評価をする場合には、現在の価値観ではなく、その時代の法律、道徳、倫理観(人身売買による公娼制度の存在)、社会規範などを、基準にするのが正しい方法です。

これは植民地支配の歴史を論じる場合にも、当然当てはまりますが、従軍慰安婦問題という六十年以上前の事柄を、現代の法律、道徳、倫理観、人権感覚などで判断しようとす一部の日本人や多くの在日は、歴史を判断する際の基本原則に対する自らの無知や、浅薄な思考を、さらけ出すものです。

それはあたかも六十年まえの物価を、現在の貨幣価値そのままで判断し、高い安いを論じるような、愚かな行為と同じことです。

   ( 完 )