アジア諸国の女性に対する強制連行や強制売春といわれているものに、日本軍は当時の国策として加担したのか?



最近、日本において慰安婦問題について大論争が行われています。なぜなら、私たちの歴史教科書があまりにも自虐的な誇張があるからです。韓国や中国、欧米には日本に対する偏見があり、一部の人は日本の歴史教育は第二次世界大戦の事実に対する反省がなされていないと主張しています。しかし、この認識は正しくはありません。例えば、小学生を対象とした歴史教科書には、日本兵が中国人女性の乳房をえぐっている抗日中国人ゲリラのプロパガンダの写真が掲載されています。
このような過程を経て、ついに中学生を対象とした歴史教科書に次のような趣旨の記述が掲載されるようになりました。「(国民徴用令を理由に警察が朝鮮人労働者を連行した、という記述の後で)アジア諸国の女性もまた、慰安所に強制的に連行され、ひどい扱いを受けた。」

謝罪と反省は、社会における自己の適切な役割を模索する一過程ですが、日本の歴史教育には「謝罪」と「反省」の観点しかありません。日本の歴史教育には、国際社会における自国の適切な、現実的な「役割」という観点が全くないのです。その矛盾は、1991年の湾岸戦争以降ますます激しくなっていっています。

このHPは、慰安婦問題に関する論争を紹介するHPです。
論争の要旨は、

Ⅰ) 当時の日本の国策として慰安婦を本当に拉致したのか。(藤岡信勝教授)
Ⅱ) 日本軍は慰安所を設立するようにと多くの売春宿業者に要請した。しかし、一部の慰安所経営者は女性を拉致したり騙したりして売春を強制した。日本軍はその不法行為の事実を知っていたはずである。日本軍はその不法行為に対して責任がある。日本軍はこれらの不法行為を監督し取り締まる義務があったのだ。日本軍は、業者の不法行為を監督、取り締まっていたのであろうか。日本軍は業者の不法行為を意図的に放置したのではなかろうか。もし、そうであるのならその不法行為に対し、「不作為の罪」が日本軍並びに日本政府にあるのではないか(吉見義明教授)

私たち(日本ちゃちゃちゃ倶楽部)は、このHPにおいてこの二人の教授の説を検討してゆこうと思います。



(1)藤岡信勝教授説に対する日本ちゃちゃちゃ倶楽部の見解

藤岡信勝東大教授は、当時、日本政府の国策として、慰安婦が強制連行させられたのではないと主張しています。その理由は次の通りです。

Ⅰ) 当時、日本軍が国策として慰安婦を強制連行したと証明されうる日本軍並びに日本政府の書類が一切見受けられない。
Ⅱ) 韓国並びに他のアジア諸国において強制連行を目撃したという証言者が出てこない。
Ⅲ) 当時、国策としてアジア諸国の女性を強制連行したと証明されている元日本兵、憲兵の証言が皆無である。
Ⅳ) 当時、軍や政府が、女性を騙したり拉致した業者を調査し、取り締まっていたと証明されている日本軍や日本兵の多くの証拠が存在する。

日本ちゃちゃちゃ倶楽部は、藤岡信勝教授の説を支持しています。



Ⅰ)について

藤岡信勝教授の見解を否定している吉見義明中央大教授は、以前に、当時の日本政府の国策として日本軍が慰安婦を強制連行した証拠が存在すると主張していました。その証拠として、吉見教授は「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」(1938年3月4日)を挙げています。
その資料は、陸軍省兵務局兵務課起案とあります。

吉見義明教授はこの資料について、「慰安婦を業者が集める際、関係地方の警察や憲兵隊が、業者の慰安婦集めに協力した」と解釈しています。そして、「日本軍はそれゆえ、この『軍慰安所従業員婦等徴募に関する件』に従って、業者の慰安婦に対する強制連行に協力した。日本軍は業者と一緒になって拉致したり騙したりしたのだ。例えば、憲兵隊が中国のある村の女性たちを強制連行し、強制売春を強いたであろう山崎春男少佐の日記がある。「軍慰安所従業員婦等徴募の件」が、この中国における強制連行を引き起こしたのだ。よって、この強制連行は当時の日本の国策であった」と主張していました。

しかし、吉見教授の説明は、私たちがこの資料を読んだ限りでは歪められた説明だと思います。「軍慰安所従業員婦等徴募の件」の該当箇所を示します。
「・・(中略)・・不統制に募集し社会問題を惹起する虞れあるもの、或いは募集に任ずるものの人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調べを受くるものある等、注意を要するものすくなからざるに就いては、将来これらの募集に当たりては、派遣軍において統制し、之に任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たりては、関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す(「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」~陸支密大日記」1938年第10号所収 防衛庁防衛研究所図書館所蔵~

被害事実(詐欺、脅し、誘拐等)を、軍はきちんと認識して、「派遣軍において業者の選定を周到適切にし、遺漏なく、社会問題(前借金を盾にした身体拘束、詐欺、誘拐、強制売春等)が起きないように関係地方の警察や憲兵隊と連携したりして、派遣軍は配慮せよ。」という趣旨のものです。「業者の慰安婦集めに警察や憲兵隊が協力した」のではありません。社会問題が起きないように、まず派遣軍は、関係地方の警察と憲兵隊と連携し、業者を選定し監督していたのです。このだいだい「統制」という言葉が「自由に暮らしていた家庭から、日本の公権力によって強制連行によってなされた」と解釈出来るのでしょうか。 実際は、「関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮」と「前借金による拘束、詐欺、誘拐、脅し等が」を防止すべく業者を取り締まっていたことをこの通達は示しています。

次に、「山崎春男少佐の日記」の該当箇所を抜粋します。(従軍慰安婦資料集, 大月書店pp30.)
「第10軍参謀山崎正男少佐の日記(1937年12月18日付)には、湖州での軍慰安所設置の模様が生なましく記されている。先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す。最初四名なりしも本日より七名になりしと。未だ恐怖心ありし為、集まりも悪く『サービス』も不良なる由なるも、生命の安全なること、金銭を必ず支払うこと、酷使せざることが普及徹底すれば、逐次希望者も集まり来るべく、憲兵は百人位集まるべしと漏せり。・・・別に告知 を出したる訳でもなく、入口に標識を為したるにもあらざるに、兵は何処からか伝え聞きて大繁盛を呈し、動(やや)ともすれば酷使に陥り注意しありとのことなり。先行し来れる寺田中佐は素(もと)より自ら実験済みなるも、本日到着せる大阪少佐、仙頭大尉この話を聞き耐らなくなったと見えて、憲兵隊長と早速出掛けて行く。約一時間半にて帰り来る。・・・・概ね満足の体なり」このどこに、「慰安婦を憲兵が集めた」と書いてあるんでしょうか。単に、「憲兵は百人位集まるべしと漏せり」だけです。誰が集めたとは、この日記からは分かりません。分かることは、「憲兵が慰安所を設置した」ということだけです。軍が慰安所を設置して、業者が慰安婦を募集するという事例はいくらでもあることは忘れてはなりません。それに「希望者」という記述があり、「募集」という形式だったことがよく分かります。また「未だに恐怖心ありし」というのは未知に対する恐怖があったのでは、と思います。更に「生命の安全なること、金銭を必ず支払うこと、酷使せざることがが普及徹底すれば」といった記述から、慰安婦に対する暴行、酷使などに対して対策を取ろうという意志が読み取れることに注意してください。また「別に告知 を出したる訳でもなく、入口に標識を為したるにもあらざるに、兵は何処からか伝え聞きて」は、慰安婦の酷使を避けるために、教えなかったのではないでしょうか。

当時、日本軍が国策として慰安婦を強制連行したと証明されうる日本軍並びに日本政府の書類は一切見受けられません。もし、日本国家がした行為なら、その行為には必ず名称があり、その行為を示した書類が残っているはずです。発令者と受令者およびそれに関連する事務を取り扱う各方面の機関に文書や記録が残っていなくてはおかしい。もしかすると、これを読んでいる貴方は、この論理は、「ヒットラーがホローコストを命令した文書はない。よって、ヒットラーは多くのユダヤ人が大虐殺されたとことを知らなかったはずだ」というネオナチの論理と同じだと主張するかも知れません。しかし、慰安婦問題では、当時の日本の国策によって慰安婦が拉致されたのかという事実自体が追及されているに対し、ナチスのホローコストでは、その事実自体に反論の余地はありません。私たちは、明確に異なった次元のことを無理やり強引に結びつけることに躊躇しています。



Ⅱ)について

第二次世界大戦の戦前、戦中にかけて、多くの慰安婦が存在しました。板倉由明氏は、その総数は2万人から3万人と主張しています。また秦郁彦教授は、総数6万人から9万人と主張しています。そして、吉見義明教授は、総数8万人から20万人と主張しています。もし、日本軍暴力によって2万人から20万人の女性を拉致し、その村人たちを脅したら、この事実を知っている人ははるかに多く存在するはずです。この事実が真実なら、10万人から100万人の目撃者がいるはずでしょう。しかし、目撃者が存在しない。それはおかしいことです。たとえ、1000人の慰安婦が日本軍によって拉致されても、1万人くらいの目撃者がいるはずです。しかし、目撃者がいない。韓国を始めとする他のアジア諸国は、日本に従属しようとしている全体主義国家なのでしょうか。



Ⅲ)について

以前、日本に国家補償を求める研究者は、当時、日本の国策としてアジアの女性を連行したという元日本兵の2つの証言を取り上げていました。吉田清治証言と原善四郎参謀の証言です。

吉田清治氏の証言とは、「日本軍のリクルーターとして、1943年7月に日本海に浮かぶ済州島で、”女子勤労挺身隊”として多くの韓国人女性を拉致し、売春婦にした」というものです。しかし、秦郁彦教授が済州島に行き、島の多くの島民に訪ねたところ、島の誰もがその事実を知らなかったのです。例えば、85歳のチョン・オクタンさんは、「1943年と1944年には自分の村には約250世帯あったが、もし15人の女性が日本軍によって拉致されたら、大問題になったのは間違いないだろう。しかし、村では日本軍による拉致の事実はまったく存在しなかった」と言っています。 またキム・ポンオク氏(韓国の研究者)は次のように語っています。「長い間、私はこの問題を調査したが、私の調査の結果は、『この事実は真実ではない。この証言は軽薄で、商魂の入った産物である』である」
その調査後、しかし、秦教授は、吉田氏に証言は真実かどうなのか、と訪ねたところ、吉田清治氏は何も答えてきませんでした。なので、吉田氏は嘘をついていたと考えるのは妥当なものだと思えます。 その他にも、女子勤労挺身隊は、1943年9月13日以降に創設されたものであり、吉田氏が済州島に向かった1943年7月には、「挺身隊」という語句は、行政用語として存在していません。「挺身隊」として慰安婦を集めたという証言は唯一、この証言だけです。「挺身隊」として強制的に慰安婦を集めたというのは、この事実によって大きな疑問が残る次第です。

次に、原善四郎参謀の証言について検討したいと思います。原証言によれば、日本軍が対ソ連戦を準備していた1941年8月9日に、原氏は北支派遣軍に2万人の慰安婦が必要だ、と計算して、朝鮮総督府に向かい、総督府に短期間の間に慰安婦を集めるべしと要求したとあります。そして、原氏は、「総督府は慰安婦を道知事に割り当て、道知事は慰安婦を地元の有力者に割り当て、地元の有力者は村長に慰安婦を割り当てた」と証言しています。

千田夏光氏(慰安婦問題の研究家)は、原証言を聞き、「農村社会では、村長や警察は絶対的な発言力を持っていた。朝鮮の女性たちは幾ばくの不安を感じながらも、村長や警察がそういうふうにいうのだからと、疑問をまったく持っていなかった」と主張し、「この募集は半強制的なもの」と断定しています。

私たちは、原善四郎証言に疑問を持っています。原氏の同僚たちは、「原氏の担当が当時の事実と異なっている。原氏は慰安婦募集の担当ではない。実際は、原氏は教育の担当で、兵站の担当ではなかった」と証言しています。さらに、国民徴用令は、1941年には韓半島においては発動されてはいません。1944年9月になって、韓半島の住民にも国民徴用令が適用されるようになったのです。(しかし、国民徴用令はすでに韓半島内の軍属や大工場労働者については、1941年、1944年2月とそれぞれ適用されていましたが) この募集形態は、国民徴用令ではありません。この募集の形態は、法や規則ではなく、好意的協力の形態です。なので、国(政府)が法的に徴用をしたならば、国がその徴用を負担したでしょう。しかしながら、慰安婦徴用は国による財政的な支援(裏付け)はありませんでした。国は法的な根拠がない事柄に決して財政支出はできないからです。

手短に言うと、たとえ村長たちが朝鮮人女性たちをだましたとしても、まだ明らかにされるべき大きな疑問がたくさんあります。たとえば、だまされた女性たちは朝鮮のどこで召集されたのか、支那北東部のどこで召集されたのか、引率者として彼女たちの輸送にたずさわった人物はだれか、その旅費は誰が負担したのか、など。これらの点はまだはっきりしていません。韓半島の全ての募集と動員については、慰安婦の募集を除いて、官憲の誰が、どのような組織が、韓半島の住民を募集し訓練し、動員させていったのかということが証明されています。しかし、慰安婦の募集については、官憲、軍の誰が、どのような組織が募集し、訓練し、動員したという記録がいまだに見つかっていません。原善四郎証言は、証明されてはいません。もしこの原氏の証言が真実であれば、少なくとも慰安婦たちの交通費負担に関する反対があったはずではないでしょうか

(確かに、「支那渡航婦女の件伺」(1938年11月4日)によれば、南支那派遣軍が、内務省に400人の慰安婦を集めるように要求し、内務省は慰安婦を大阪、兵庫、京都、福岡、山口県知事に割り当てています。しかし、県と警察は、楼主(売春業者)を厳しく調査し、適切に楼主を選定しています。(これらの方法は原証言の募集の方法とは大きく異なる)
上杉聡氏(慰安婦問題の研究家)は、「日本軍は割り当てを満たすためにアジアの女性を拉致し騙すことを暗黙していた。さらには日本軍は口頭命令で、割り当てを満たすため、楼主にアジアの女性を拉致し騙すようにと指示していた」と主張しています。
しかし、警察は厳しく、軍の諒解や契約を語る楼主や、嘘や誇大な広告をうって慰安婦をあつめる楼主を取り締まっていました。(「南支那渡航婦女に関する取扱の件」(1938年11月8日)によれば) これらの募集は、「支那渡航婦女に関する取扱の件」(1938年2月23日)を基本としています。(この内容は以降に詳しく掲載)また、警察は楼主によって集められた女性に対して彼女らの仕事を説明し、彼女らの仕事は売春婦であると説明していたのです。そして、警察は、21歳以下の女性を取り締まり、楼主と慰安婦との契約(当時、ほとんどの慰安婦は軍ではなく楼主と契約を交わしていた)に介入し、例えば、慰安婦の楼主に対する大借金を規制したり、長期間にわたる契約を規制していました(「南支那渡航婦女に関する取扱の件」(1938年11月8日)による)



Ⅳ)について

以上の理由によって、慰安婦は当時の日本政府の国策で強制連行されたのではないと結論づけられると思います。しかし、日本軍によって拉致され、騙され、強制売春を強要された、と主張する多くの元慰安婦はいます。アジアの女性を拉致し、騙した日本兵の一部、楼主が、日本の法律、日本軍の規則を潜り抜けたものと私たちは断定します。軍が女性を拉致し騙した楼主を調査し取り締まった多くの日本軍と元日本兵の証拠が存在します。(これら日本軍の対策の詳しい点は、次の「2・日本政府と日本軍に不作為の罪があるのか」で説明します)私たちは日本政府と日本軍はどちらかというと国策として慰安婦を保護していたと考えています。
(確かに、慰安婦の一部には、20歳以下の女性もいました。しかし、第二次世界大戦時、世界のいたるところで20歳以下の多くの売春婦いましたし、現在でも多くの国に20歳以下の多くの売春婦がいます。慰安婦問題を批判する際、当時の常識などを理解し、肝に命じる必要がありると思います)


結論

私たちは、一部の悪質な楼主や日本兵によって拉致され騙された慰安婦に対しては、日本政府は法的責任がないように思います。日本軍の規則や日本の法律を潜り抜けた日本兵と楼主に、拉致され騙された元慰安婦に対して、法的責任があるように思います。しかし、彼らはすに死んでいるか、罰されています。日本軍は、法律や規則によって楼主を統制し、監督し、規制していました。法律があっても、一部の悪質な輩は法を首尾よく潜りぬけるということを知らなければなりません。例えば、数人の女性が悪人によって殺害されました。警察は殺人犯を追っていました。警察に、悪人によって殺害された女性に対する法的責任があるのでしょうか。


最後の質問:慰安婦のほとんどが、悪質な輩によって拉致され騙されていたのであろうか。

元慰安婦のうち、どのくらいの慰安婦が拉致された騙されたと主張しているのでしょうか。これが争点です。当時、悪質な輩によって慰安婦を拉致し騙したというような犯罪が横行したのでしょうか、それともまれなことであったのでしょうか。私たちは、本当に、悪質な輩によって拉致され騙された少数の元慰安婦は存在したと思います。しかし、拉致された騙されたと証言する元慰安婦の数は少ない上に、彼女らの証言は、ほとんどの慰安婦が悪質な輩によって拉致され騙されたと証明するのに十分な信用性がありません。

第一の問題は、元慰安婦の証言には、ほとんどの慰安婦が悪質な輩によって拉致され騙されたと証明するのに十分な信用性がないことです。
例えば、2人の元慰安婦、韓国のH.Kさん、0.Mさんは1991年、東京地裁でこう証言しています。H.Kさんは、「1939年、『金もうけが出来る』と養父に説得され中国へ。北京を経て鉄壁慎という小集落で養父と分かれて慰安所へ入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された」とし、0.Mさんは「顔見知りの朝鮮人から「食堂で働けば、お金が儲かる」と言われ、行ってみたら慰安所だったので「騙された」と夜も昼も泣きあかした」 と証言しています。しかし、1993年、韓国の市民団体の証言では、H.Kさんは「1941年、『金もうけが出来る』と養父に説得され中国へ。北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ、養父と別々にトラックに乗せられ、慰安所へ。処女を奪われた」と違う証言をし、0.Mさんも「『軍服を着た日本人』に連行された」と一転しています。さらにH.Kさんは、その後、来日した際、「『金もうけが出来る』と養父に説得され中国へ。中国語ができるので中共軍の密偵役もやったところ、スパイ容疑で捕らえられ、慰安所へ」と二転した証言を行い、0.Mさんも、日本で出版された『ビルマ戦線 盾師団の「慰安婦」だった私」では、「日本と朝鮮の憲兵、刑事に強制連行され慰安婦にさせられた」と二転しています。

日本政府に国家補償を求めるのなら、彼女らを拉致したのが軍なのかどうなのか、はとても重要な争点です。なぜ2年間のうちに彼女らは自分の証言を変更したのでしょうか。韓国の元慰安婦を支援する韓国のNGOがあります。そのNGOは、1993年に本を出版するために元慰安婦40人にインタービューをしています。私たちがその本を検討したところ、分かったことがあります。拉致を目撃した親戚、友人、近所の人の証言が全くないということです。本を書いた研究者は、韓国全土を訪れ元慰安婦と面談したと銘記しています。もし、そうなら、傍証を集める機会があったはずに違いありません。しかし、研究者は傍証をまったく集めていません。研究者は最初から傍証を集める気もなかったし、それを回避していたのでは、といぶかっています。
その他にも、私たちは、中国、インドネシア、フィリピン、マレーシア等の他の元慰安婦の証言を別の本で読み、検討をしてみました。典型的な慰安婦の証言は以下の通りです。
「日本軍の部隊が、自分の村に侵入してきた。私は反日ゲリラで、日本軍部隊に逮捕され、駐屯地の裏の廃屋やテント、洞窟に連れ込まれ厳しい尋問にあい、日本兵に強姦された」
このような証言をした女性は、慰安婦ではなく戦地強姦の被害者です。(当然、日本軍は陸軍刑法に「強姦罪」が設定されていました。日本軍は法を逸脱した日本兵の強姦を処罰し、取り締まっていたのです)駐屯地裏の洞窟やテント、廃屋は、慰安所なのでしょうか。

ところで、日本軍によって女性が拉致されたという目撃がないと私たちは言いました。しかし、一部の日本軍の部隊がインドネシアや中国の村長を脅していたのを聞いたポルトガル人と日本軍の軍医がいます。軍医によれば、一部の村長たちは、村に駐屯している現地の日本軍の一部の部隊に村娘を差し出し、一部の日本軍部隊がその村娘を強制的に慰安婦にしたというものです。

これらは、「軍慰安所従業婦等徴募の件」を逸脱し、破った一部の日本軍部隊の例です。当時、日本政府の方針は、「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」が基本となっていました。逸脱した一部の日本軍部隊が女性を連行し、強制売春を強いた時、日本軍当局はどうしたのでしょうか。例えば、1994年2月、インドネシアのスラマンにおいて、ある日本軍部隊と楼主が、65人のオランダ人女性を捕虜収容所から慰安所に連行し、売春を強制した事件がありました。2ヶ月後、インドネシアの日本軍当局はその事実を知るやいなや、この慰安所の閉鎖を、命令しました。なぜなら、日本軍当局は、「軍慰安所従業婦等徴募の件」に従っていたからです。(「関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す」より)日本軍当局は、65人のオランダ人女性が自発的に売春宿で働いておらず、それが日本軍当局の営業免許の前提条件を破ってもいると理由をあげ、この慰安所の営業免許を停止しました。
その前提条件とは、楼主は慰安婦として女性を雇った際、女性は(この「女性」は欧州人女性だけを特定したものではありません。なぜなら、「女性」は欧州人女性のことだけを意味しているわけではないからです)必ず自発的に仕事に就いていなければならないというものです。この措置は、日本軍当局のその前提条件による自浄作用で、国際法違反によって取られた措置ではありません。この措置は、理由として、軍当局の営業許可の前提条件逸脱を挙げています。この措置は、理由としては、国際法違反をまったく挙げていません。このインドネシアの拉致は、当時の日本軍の政策ではありません。

第二の問題は、当時のほとんどの慰安婦が悪い輩によって拉致され騙されたと証明するにも、元慰安婦の証言数が少ないということです。 韓国では164人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、フイリピンでは162人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、台湾では、32人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、中国では、11人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、北朝鮮では260人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、マレーシアでは8人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、インドネシアでは約100人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言しています。第二次世界大戦の戦中、戦前にかけて多くの慰安婦が存在しました。秦郁彦教授は総数を6万人から9万人だと主張しています。当時のすべての慰安婦のうち、拉致され騙され強制売春を強いられた慰安婦はどのくらいの割合になるでしょうか。

前記のことを考慮すると、わずか0.8% から1.2%ということになります。もちろん、多くの元慰安婦が死んだり、事情があったとしても、この数の割合は少なすぎます。それは、まさに、「たとえ政府が有効な対策で悪い輩を規制し、取り締まっても、一部の悪質な輩は対策を首尾よくどうしても潜り抜けてしまう」という状況です。当時の日本政府と日本軍は、悪質な楼主の不法行為を有効に規制し、取り締まっていたのです。
確かに、インドネシアで約22000人の女性が拉致され、騙された慰安婦だったと名乗り出ています。しかし、これらの元慰安婦たちの証言はとても信用性がありません。なぜなら、1995年、現地紙に韓国人元慰安婦訴訟を担当している弁護士の高木健一氏が広告をだし、拉致され騙された元慰安婦の人たちは200万円(インドネシアにおいて平均女性の40年分の年収)の日本の国家賠償が得られると言ったのです。以前には、騙された拉致されたと言い出す元慰安婦は全く存在しませんでした。インドネシア政府は、国民に、個人や組織の利益に躍らせられないように求めるという公表をしました.高木氏は、拉致され騙された元慰安婦数に、元日本兵の愛人や強姦の犠牲者が含まれていることを告白しました。高木氏は、インドネシアにおいて、約100人の元慰安婦が拉致され騙されたと訂正しています。

当時の日本の国策として、日本軍が慰安婦を拉致されたことを証明する日本軍、日本政府の証拠はありません。拉致され騙されたと証言する元慰安婦数は少なく、かつ、彼女らの証言は、当時のほとんどの慰安婦が悪い輩によって拉致され騙されたと証明するには、十分に信用性がありません。しかし、日本軍が女性を騙し拉致した悪い輩を取締り、規制したと証明している元日本兵、日本軍の証拠があります。当時日本政府は有効に慰安婦を保護していました。日本政府は、悪い輩によって拉致され騙された元慰安婦に対して、政治的責任はありません しかしながら、アメリカ合衆国が第二次世界大戦後沖縄占領中に米兵が引き起こした数々の婦女暴行や強姦事件にたいして道徳的に責任があるのと同じように、日本政府も拉致されたりだまされたりした慰安婦たちにたいして道徳上の責任はあるといえるかもしれません。



(2)日本政府と日本軍に不作為の罪があるのではなかろうか?(吉見義明教授説)

吉見義明教授は、当時の日本政府と日本軍には不作為の罪があると主張しています。そして、吉見教授は、日本政府は楼主によって騙され、拉致され、売春を強要された元慰安婦に国家補償せねばならないと主張しています。



吉見教授の理由は

Ⅰ) 日本軍は慰安所を設立するようにと多くの売春宿業者に要請した。しかし、一部の慰安所経営者は女性を拉致したり騙したりして売春を強制した。日本軍はその不法行為の事実を知っていたはずである。日本軍はその不法行為に対して責任がある。日本軍はこれらの不法行為を監督し取り締まる義務があったのだ。日本軍は、業者の不法行為を監督、取り締まっていたのであろうか。日本軍は業者の不法行為を意図的に放置したのではなかろうか。もし、そうであるのならその不法行為に対し、「不作為の罪」が日本軍並びに日本政府にあるのではないか
Ⅱ) 日本兵のための慰安所の一部には、21歳以下の多くの少女を売春婦として集めていた。これは、1925年の婦人・児童の売買禁止に関する国際条約の違反である。日本軍はその事実を知っていた。日本軍はその不法行為に責任がある。日本軍は、これらの不法行為を監督し、規制しなければならなかった。しかし、日本軍は、その不法行為を放置していた。日本軍と日本政府は、不作為の罪がある。
Ⅲ) 日本兵のための慰安所の一部において、慰安婦の一部は楼主によって売春を強要されていた。一部の慰安婦は、外出の自由がなく、廃業の自由もなく、帰国の自由もなく、接客拒否の自由もなかった。その上、一部の慰安婦は、一部の日本兵から暴力を受け、楼主から酷使された。日本軍はその事実を知っていた。日本軍はその不法行為に責任がある。日本軍は、これらの不法行為を監督し、規制しなければならなかった。しかし、日本軍は、その不法行為を放置していた。日本軍と日本政府は、不作為の罪がある。

日本ちゃちゃちゃ倶楽部は、吉見義明教授の見解は支持していません。



Ⅰ)について

旧日本帝国軍は、日本兵のための慰安所を設立するようにと多くの楼主に要請していました。慰安婦に対する楼主の不法行為に対して、どんな責任を日本政府は持っているのでしょうか。例えばそれは、雇用者は被雇用者の不法行為を防止しなければならないという監督と取締の義務のことではないでしょうか。
しかし、当時の日本軍、日本政府は楼主の不法行為を放置していたのではありません。日本軍と日本政府は、有効に、楼主の不法行為を監督し、取り締まっていたのです。私たちは、日本軍、日本政府に不作為の罪があったとは証明されていないと主張します。日本軍と日本政府は、不可抗力を理由に罪に問えません。どんなに有効な規則によって、悪い輩を監督し、取り締まっても、悪い輩の一部は、規則を首尾よく潜り抜けてしまいます。これは一種の不可抗力です。日本軍と日本政府は、有効に、楼主の不法行為を監督し、取り締まっていました。
日本軍の慰安所制度は、他の売春制度と比べてよりはるかに、拉致され騙され売春を強要された女性の比率が多かったということは証明されていません。なぜなら、当時のほとんどの慰安婦が悪い輩によって拉致され騙されたと証明するにも、元慰安婦の証言数が少ないということです。韓国では164人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、フイリピンでは162人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、台湾では、32人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、中国では、11人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、北朝鮮では260人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、マレーシアでは8人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言し、インドネシアでは約100人の元慰安婦が拉致された、騙されたと証言しています。

第二次世界大戦の戦中、戦前にかけて多くの慰安婦が存在しました。秦郁彦教授は総数を6万人から9万人だと主張しています。(秦教授は次のような方法で慰安婦の総数を算出しています。当時、日本軍は300万人の将兵がいました。第21軍司令部の戦時会報によれば、3万人を擁する第21軍に、1000人の慰安婦がいました。次に、金原節造氏が書いた「陸軍省業務日記」によれば、1939年4月に100人の将兵に1人の慰安婦の比率で、慰安婦の集団を輸入したとあります。さらに「漢口慰安所」(長沢健一著)によれば、漢口において、150人の将兵に1人の慰安婦の比率だったとあります。秦教授は、第21軍のケースと漢口のケースの真ん中を取り、慰安婦の総数を、50人の将兵に1人の慰安婦の比率で算出し、廃業と病気、死亡を考慮して1.0-1.5交代として算出しています)

確かに、たとえ政府が規則によって悪質な輩を監督し、取り締まっても、もし、当時、ほとんどの慰安婦が悪質な輩によって拉致され騙されたものだったら、日本政府に政治的な責任がありますが、(無意味な対策と読み取れる上に、「言い逃れ」の見せかけの姿勢と読み取れる)しかし、これは証明されていません。当時のすべての慰安婦のうち、拉致され騙され強制売春を強いられた慰安婦はどのくらいの割合になるでしょうか。

前記のことを考慮すると、わずか0.8% から1.2%ということになります。もちろん、多くの元慰安婦が死んだり、事情があったとしても、この数の割合は少なすぎます。それは、まさに、「たとえ政府が有効な対策で悪い輩を規制し、取り締まっても、一部の悪質な輩は対策を首尾よくどうしても潜り抜けてしまう」という状況です。一般的に言えば、世間に有効な対策の存在があっても、完全な対策というものは全く存在しません。当時の日本政府と日本軍は、悪質な楼主の不法行為を有効に規制し、取り締まっていたのです。

(確かに、インドネシアで約22000人の女性が拉致され、騙された慰安婦だったと名乗り出ています。しかし、これらの元慰安婦たちの証言はとても信用性がありません。なぜなら、1995年、現地紙に韓国人元慰安婦訴訟を担当している弁護士の高木健一氏が広告をだし、拉致され騙された元慰安婦の人たちは200万円(インドネシアにおいて平均女性の40年分の年収)の日本の国家賠償が得られると言ったのです。以前には、騙された拉致されたと言い出す元慰安婦は全く存在しませんでした。インドネシア政府は、国民に、個人や組織の利益に躍らせられないように求めるという公表をしました.高木氏は、拉致され騙された元慰安婦数に、元日本兵の愛人や戦地強姦の犠牲者が含まれていることを告白しました。高木氏は、インドネシアにおいて、約100人ほどの元慰安婦が拉致され騙されたと訂正しています。)

ここに、女性を騙し、拉致した悪質な輩を日本軍が取締り、規制していたと証明される元日本兵と日本軍の多くの証拠があります。

昭和13年2月23日付の「支那渡航婦女の取扱に関する件」という内務省警保局長から各庁府県の長官に出された通達があります。
壱、醜業(売淫)を目的とする婦女の渡航は、現在内地において娼妓その他事実上醜業を営んでいる満21歳以上でかつ花柳病その他伝染病疾患がない者で、北支、中支方向に向う者に限り、当分の間これを黙認することとし、外務次官通牒によって身分証明を発給すること」とあります。
別に売春業を目的に中国大陸に渡る女性たちを年齢や現在の職業等の条件を考えた上で奨励するのでもなく、「当分の間これを黙認するという姿勢だった事が読み取れます。
また、この後、弐から四まであり、要約すると「役所が女性たちに身分証明書を発行する時、彼女らに仕事の契約期間が満了したり、働かなくてともよい状態になったら早く帰国するように勧めること、この種の仕事に就く女性は本人が警察に出向いて身分証明書を作って貰うこと、警察は、その場合必ず女性の親か、または戸主の承認を得て身分証明書を出すこと」となります。
さらに、伍として「醜業を目的とする婦女に身分証明書を発給するときは、稼業契約その他各種の事情を調査し婦女売買または略取誘拐の事実がないように特に留意すること」と書いてあります。
売春の仕事に就かざるを得ない女性たちを、まかり間違っても本人の意志に反して売春に追い込んではならないといった思いとその具体的な対策が述べられてはないでしょうか。
そして、とどめに、六には「醜業を目的として渡航しようとする婦女、その他一般風俗に関する営業に従事することを目的として渡航する婦女の募集斡旋等に際して、軍の了解またはこれと連絡があるがのごとき言辞、その他軍に影響を及ぼすような言辞を用いる者は、総て厳重に取り締まること」とあります。
この通牒は日本人女性のみを対象にしたものだったのでしょうか。
違います。この通牒は、日本人女性、韓国人女性、台湾人女性を対象にしたものです。確かに、「現在内地においてにおいて娼妓その他事実上醜業を営んでいる」という記述があります。吉見義明教授は、「支那渡航婦女の取扱に関する件」は、日本本土において,娼妓その他事実上醜業を営んでいる女性を対象にしたもので、日本本土の女性だけが、慰安所で働くことを目的とした渡航の身分証明書を発行して貰えたのだ、と主張しています。
その通牒が出された後、しかし、韓半島や台湾の女性も、慰安所で働くことを目的とした渡航の身分証明書を発行して貰っています。例えば、昭和14年3月2日付の「渡支取締方の件ー支那事変に際し邦人の渡支制限並取締関係雑件、邦人渡支取締に関する拓務省報告(第1巻)において、台北州知事は、警務局長に対し「昭和14年1月中に「慰安所関係」として身分証明書並びに外国旅券発行発給を行った者として、南支方面に内地人59、朝鮮人8、本島人(台湾人)8、計75の記述」が報告されています。また、朝鮮総督府警保局長報告にも、同様に昭和16年7月から同年12月まで 「慰安所関係」として、北支方面に、日本人16人、朝鮮人274人と「旅券」を交付したという記述があります。原則的には、慰安所で働くことを目的とした渡航をする韓半島、台湾に住む女性は、慰安所で働くことを目的とした渡航の身分証明書を発行して貰えません。しかし、実際には、慰安所で働くことを目的とした渡航の身分証明書を韓半島や台湾に住む女性に発行したという同種の報告が多く存在します。もし、この通牒が日本人女性のみを対象にしていたのなら、慰安所で働くことを目的とした全ての渡航した韓半島や台湾に住む女性は、商業従事、兵士の看病、兵士の慰問などを目的とした渡航の身分証明書を発行されているでしょう。しかし、実際はそうではありませんでした。中国の戦線が拡大するにつれ、「支那渡航婦女の取扱に関する件」を韓半島や台湾に住む女性たちにも適用されたのです。よって、韓半島や台湾に住む女性は、慰安所で働くことを目的とした渡航の身分証明書を各地方の役所や各地方の知事から発行してもらっていたのです。「支那渡航婦女の取扱に関する件」は、日本人女性、韓国人女性、台湾人女性を対象にしたものです。
次に「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」(1938年3月4日)を挙げたいと思います。この通牒は、陸軍省兵務局兵務課起案とあります。
その内容とは、
「支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地においてこれが従業婦等を募集するに当たり、故(ことさら)に軍部諒解等の名義を利用し、為に軍部の威信を傷つけ、且つ一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、或いは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起する虞れあるもの、或いは募集に任ずるものの人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調べを受くるものある等、注意を要するものすくなからざるに就いては、将来これらの募集に当たりては、派遣軍において統制し、之に任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たりては、関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す」

ところで、吉見義明教授は、この通牒の「関係地方」とは、日本本土だけであり、韓半島や台湾は含まれていなかった、と主張しています。しかし、吉見氏の見解は正しくありません。なぜなら、当時、韓半島や台湾は、日本国の行政区域だっただからです。台湾における行政区域は、「州」と、韓半島では、「道」と日本政府から呼称されていました。そして韓半島や台湾には多くの警察や憲兵がいました。(例えば、朝鮮総督府は、警官を23000人、擁して治安維持にあたっていた)さらに、ここに、台湾に駐屯している日本軍の司令官が、陸軍大臣に送った「台電 第602号」(1942年5月12日)があります。

「陸密電第63号に関し「ボルネオ」行き慰安土人50名為し得る限り派遣方南方総軍より要求せるを陸密電第623号に基き憲兵調査選定せる左記経営者3名渡航認可あり度申請す。愛媛県・・・(業者個人名)、朝鮮全羅道・・・台北州・・・(後、省略)

この措置は、「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」に確かに対応しているものです。なぜなら、「派遣方南方総軍より要求せるを陸密電第623号に基き憲兵調査選定せる」(台電602号)は、「これらの募集に当たりては、派遣軍において統制し、之に任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たりては、関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す」(「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」)だからです。南方派遣軍が、台湾の憲兵隊と連携を密にして、社会問題を遺漏なき様に配慮して、周到適切にと、台湾の憲兵隊が調査選定しています。官僚の前例踏襲主義の性質や、この電報の存在の考慮すると、「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」は各地に、「陸密電第XX号」なりで広く伝達されていた可能性は極めて高いものです。
「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」の「関係地方」は、日本、韓半島、台湾を含みます。

しかし、吉見義明教授は依然、2つの新資料によって日本軍と日本政府には不作為の罪がある、と主張しています。
一つ目の資料は、「支那渡航婦女に関する件伺」です。南支那派遣軍が内務省に400人に慰安婦を集めるようにと依頼したものです。それを受けて、この資料は、1938年11月4日に作成され、1938年11月8日、「南支方面渡航婦女の取扱に関する件」という形で施行されています。
この資料において、次のような記述を吉見教授は指摘しています。
「六、本件渡航に付ては内務省及地方廳は之が婦女の募集及出港に関し便宜を供與するに止め、契約内容及現地に於ける婦女の保護は軍に於て充分注意すること」(「支那渡航婦女に関する件伺」)
吉見教授は、「この通牒は、昭和13年(1938年)2月23日付の『支那渡航婦女の取扱に関する件』を違反している。『支那渡航婦女の取扱に関する件』には、役所が女性たちに身分証明書を発行する時、彼女らに仕事の契約期間が満了したり、働かなくてともよい状態になったら早く帰国するように勧めること、この種の仕事に就く女性は本人が警察に出向いて身分証明書を作って貰うこと、警察は、その場合必ず女性の親か、または戸主の承認を得て身分証明書を出すこととあり、醜業を目的とする婦女に身分証明書を発給するときは、稼業契約その他各種の事情を調査し婦女売買または略取誘拐の事実がないように特に留意することとまで書いてある」と 主張しています。
吉見教授は、「軍の要請を受けた楼主によって集められた女性は、警察によって統制されることも、取り締まれることもなかった。なので、楼主はたくさんの女性を騙し、拉致したことだろう。日本政府は、慰安婦に対する不法行為に対する規制を放棄し、日本軍の慰安婦に関する増長を許した」と主張しています。そして、吉見教授の見解を受けて、上杉聡氏(慰安婦問題の研究家)は、「日本軍は割り当てを満たすためにアジアの女性を拉致し騙すことを暗黙していた。さらには日本軍は口頭命令で、割り当てを満たすため、楼主にアジアの女性を拉致し騙すようにと指示していた」と主張しています。
しかし、1938年11月8日に内務省が各知事に「南支方面渡航婦女の取扱に関する件」として送付した実際の通牒は、その記述、「六、本件渡航に付ては内務省及地方廳は之が婦女の募集及出港に関し便宜を供與するに止め、契約内容及現地に於ける婦女の保護は軍に於て充分注意すること」を 、「前項の外本年二月二十三日警保局長通牒(らーめん屋注:「支那渡航婦女の取扱に関する件」のこと)に依り取扱ふこと、引率者(抱主)と渡航婦女との締結する前借契約は可成短期間のものとし前借金は可成小額ならしむること、 醜業を目的とする渡航婦女の募集は営業許可を受けたる周旋人をして陰に之を為さしめ、其の希望婦女子に対しては必ず現地に於ては醜行に従事するものなることを説明せしむること、尚周旋料等は引率者(抱主)に於て負担せしむること」という内容に変更しています。
私たちは、日本政府は慰安婦に対して行なわれる不法行為に対し、規制を放棄することもなく、慰安婦に関して日本軍の増長を許してはいなかったと主張します。さらに、「日本軍の慰安婦に関する増長を許した」というのは正しくありません。

次に二つ目の資料とは、「南方方面占領地に対し慰安婦渡航方の件」(1942年1月10日)のことです。その通牒の内容とは、台湾総督府蜂谷照雄外事部長が、「南洋方面占領地に於いて軍側の要求により慰安所開設の為渡航せんとする者(従業員を含む)の取扱振りに関し何分のご指示相頻度し」と、支那渡航の「旅券発行」の例を受け継いで、適用するのかどうかと、東郷重徳外務大臣に尋ねたところ、「此の種渡航者に対しては軍の証明書に依り渡航せしめられたし」と返答したものです。
吉見教授は、「慰安婦は、旅券でなく、「軍の証明書」によって、南方へ渡航出来るようになった。なので、日本軍は楼主の不法行為を放置していた。それゆえ、日本政府と日本軍は南方に渡航した慰安婦の人権を保護しなかった。日本政府と日本軍に不作為の罪が存在する」と主張しています。
私たちは、「日本軍は楼主の不法行為を放置していた」というのは全く正しくないと主張します。なぜなら、南方に渡航する慰安婦に対して軍の証明書を日本軍が発行する際、日本軍はおなじみの通牒を基本においていたからです。
それは、「軍慰安所従業員婦等募集に関する件」(1938年3月4日)です。
「故(ことさら)に軍部諒解等の名義を利用し、為に軍部の威信を傷つけ、且つ一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、或いは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起する虞れあるもの、或いは募集に任ずるものの人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調べを受くるものある等、注意を要するものすくなからざるに就いては、将来これらの募集に当たりては、派遣軍において統制し、之に任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たりては、関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す」
そして、実際に、この通牒は、南方に渡航した慰安婦にも適用されました。
例えば、ここに「台電 第602号」(1942年5月12日)があります。
「陸密電第63号に関し「ボルネオ」行き慰安土人50名為し得る限り派遣方南方総軍より要求せるを陸密電第623号に基き憲兵調査選定せる左記経営者3名渡航認可あり度申請す。愛媛県・・・(業者個人名)、朝鮮全羅道・・・台北州・・・(後、省略)」 関係地方の警察と憲兵隊は、派遣軍と連携していました。そして、警察と憲兵隊は、楼主を適切に選ぶべく調査していました。警察と憲兵隊は、「社会問題上、遺漏なき様配慮」と、矛盾しないようにと、慰安婦を調査していたでしょう。このようにして、憲兵隊は陸軍省に、楼主の渡航許可を申請していたのです。
当時の日本政府と日本軍は、慰安婦が拉致され騙され売春を強要されないように保護していました。日本軍は有効に楼主の不法行為を監督し、規制していました。日本軍は楼主の不法行為を放置していません。日本軍と日本政府には、不作為の罪があったとは証明されていません。



Ⅱ)について

確かに、楼主の一部には、慰安婦として21歳以下の少女を集めていました。これは、「婦人・児童売買禁止の国際条約」(1925年)の違反です。しかし、第二次世界大戦中、いたるところに未成年の売春婦がいっぱい存在しました。今でさえ、未成年の売春婦はいっぱい存在しています。今も、過去もこの国際条約は、実効性に疑問が持たれています。日本政府は、この実効性がない国際条約によって責任を取らなければならないのでしょうか。
日本軍と日本政府は、楼主の不法行為を放置してはいませんでした。ここに、「外事警察執行要覧」があります。その一部に「五、警察署長渡支身分証明書下附の出願ありたるときは第12号様式に依る願書を徴し本人の身分、職業、渡航目的、期間、関係文書等を調査し・・・」「年齢12年以上20年未満の女子渡支せんとする場合は「青少年雇入制度令」及同関係法令の適用の有無に関し調査を為すこと」とあります。
また、渡支那人取締状況「支那渡航婦女の取扱に関する件」(内務省作成)にも「①醜業(売淫)を目的とする婦女の渡航は、現地内地において娼妓その他事実上醜業を営んでいる満21歳以上でかつ花柳病その他伝染病疾患がない者で、北支、中支方向に向う者に限り、当分の間これを黙認することとし、外務次官通牒によって身分証明を発給すること」とあります。
日本政府全体の方針として、「醜業を行わしむる為の婦女子売買取締に関する国際条約」の「未成年の売春業従事の禁止」にのっとり、違法未成年者慰安婦に対策をとっていたことを最後に強調します。



Ⅲ)について

確かに、日本兵のための慰安所の一部において、慰安婦の一部は楼主によって売春を強要されていました。一部の慰安婦は、外出の自由がなく、廃業の自由もなく、帰国の自由もなく、接客拒否の自由もありませんでした。その上、一部の慰安婦は、一部の日本兵から暴力を受け、楼主から酷使されました。
しかし、日本軍は、楼主のその不法行為を放置していたのでしょうか。
違います。日本軍は有効に監督し、取り締まっていました。私たちは項目ごとに、これらの不法行為について検討したいと思います。

(ア)慰安婦に対する直接の暴行を日本軍は監督し、取り締まっていた

日本軍は、慰安婦に対する直接の暴行をきちんと、取り締まっていました。以下のような慰安所規定が、各地域に多く見られています。
中国の常州駐屯内務規定には「営業者(=慰安婦の事。ラーメン屋、文脈より慰安婦と解釈)に対し粗暴の行為あるへからず」とあり、また、別の軍人倶楽部利用規定に「左の者は軍人倶楽部の利用を禁ず」と「他に迷惑を及ぼす恐れあるもの」と挙げています。そして、南方の、タクロバン慰安所規則には、「慰安婦及び経営者のいずれに対しても 暴力行為を働き、もしくは、強制を行ってはならない」とあり、最後に、「第一慰安所亜細亜会館慰安所規定」(フィリピン、イロイロ主張所)にも、「慰安婦及楼主に対し暴行脅迫行為なき事」とあります。その他にもこの種の、慰安婦に対する暴行を禁止する慰安所規定は多く、「森川部隊特殊慰安業務二関スル件」「後方施設に関する内規」など挙げられます。
陸相にあてた「陸支普大日記」9号(昭和17年5月3日)には、「酩酊して慰安所の板壁を壊したり経営者や慰安婦を罵倒したりしたした兵士が1か月の外出禁止となった」とあります。また、軍側も、「陸支普大日記第十三号」(昭和10月5日第三飛行師団司令部)によれば、慰安婦に暴行を働いた兵士が「身柄共軍法会議に送致の後7月27日懲役3年一等兵に降等の判決に処せらる」とありますし、「陸支普大日記・第9号(昭和16年12月中陸軍軍人軍属非行表)」(中支派遣憲兵隊司令部)によれば、「休業中の慰安婦に接客を要求拒否せらるるや同女を殴打暴行」した兵士らは憲兵隊に通報され、所属部隊において厳重にされたとあります。

(イ)慰安婦は接客の自由を保持していた

ここに、連合軍がビルマで朝鮮人慰安婦に対して尋問した結果を報告している「日本人捕虜尋問報告書 第49号」という資料があります。
その資料には、「慰安婦は,接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった」と触れられています。
また、軍医だった長沢健一氏は、「漢口慰安所」でこう記述しています。

  また、昭和14年、第34師団が漢口に上陸した。女たちは、この時とばかり稼ぐ。兵隊は行列して待ち・・順番に当たった兵隊が靴を脱ごうとすると女は‥‥「官物はそのまま、そのまま」‥‥兵隊は靴もゲートルもそのままで膝でいざって上がり込み、ズボン下ろして用を足し、終わるとズボン引き上げて出ていく。「ありがとうございました」‥‥主導権は、慰安婦にあって兵隊の方は、なけなしの銭を払って惨めな性を買うことが多かった。慰安婦たちは、洗浄に行く時間を惜しんで励み、軍医が検梅すると、女たちの大陰唇は充血し腫れていた。軍医は驚いて女たちに3日間の休業を命じたが‥‥彼女たちは、喜ぶどころか、軍医に抗議した。平常は、暇で、今は大部隊の通過を迎え、盆と正月が一緒に来たようなもので、この機会に稼がねば、ならぬのに3日もべんべんと遊ばされてはたまらないというのである。通常は30分1円の規定なのに、女たちは10分か15分で客を追い出し、2円50銭か、それ以上払わせていた。

そして、「陸支普大日記」9号(昭和17年5月3日)にも、「休みの慰安婦に接客を要求、拒否されて乱暴をした兵士が厳重説諭を受けた」とあります。客に対する拒否の権利が認められており、慰安婦本人の意志が、尊重されていた事が分かると思います。

(ウ)慰安婦には転業、廃業の自由があり、帰国の自由もあった。

連合軍によって作成された「日本軍隊における生活利便施設(ATIS調査報告 第120号)においては、こうまた、報告されています。要約すると、「接客婦は、原則として、契約期間終了時に再雇用される。雇用の継続を希望するものは、その旨をマニラ地区兵站担任将校に通知し、その承認を求めるものとする。医務当局が健康上の理由から、その業務の停止が適当と判断した、全ての慰安婦は、マニラの地区兵站担当将校に通知して、本国送還の措置をとる」となります。
自らの継続意志で、通知して届けでるという手続きが取られていたことがわかります。もちろん、自らその意志を通知しなければ、雇用は継続されません。意志を通知しないということで、終業・転業の自由があっただと言えるでしょう。また、健康に害することがあれば契約を基に継続して、続けさせることもなかったと読み取れます。そして、ちなみにこの報告には,「接客婦の廃業許可申請書」なるものを提出すれば、慰安婦は終業できたと書かれています。
次に、「陸支普大日記」9号(昭和17年5月3日)でも、日本兵が慰安婦に転職を求める場面において、「女給として奉公し速やかに慰安婦を廃業すべき旨を要求せしも即答なかりしをもって」などという記述があり、慰安婦が廃業できるものだったことを示唆しています。 また、前述のビルマでの朝鮮人慰安婦達に対する捕虜尋問でも「1943年後期に、軍は、借金返済し終わった一部の慰安婦に帰国を認め、その慰安婦達は、朝鮮に帰国した」という主旨を慰安婦は述べています。当時、日本において前借金は有効でした。しかし、楼主が慰安婦の前借金を盾に慰安婦の身体を拘束したり、廃業を拒否することは違法とされていました(1900年2月の大審院判決によれば)吉見教授は、楼主は前借金を盾に慰安婦の身体を拘束し、廃業の自由を拒否したと主張しています。しかし、吉見教授が証明したことは、「慰安婦に借金があった」ということだけです。吉見教授は、「楼主が前借金を盾に慰安婦の身体を拘束し、廃業の自由を拒否した」ということは証明していません。
しかし、上杉聡氏は、「『武漢兵站』(山田清吉著)によれば、漢口慰安所にいた三春という慰安婦は、戦場にまさに向かおうとしている将校から大金を貰ったとある。そして、『君の前借金を返すのに、このお金を返しなさい』とその将校が言ったが、三春は解放されなかった。なぜなら軍当局が前借金はすべて妓が自分の体で働いて返さなければならないという規則を作っていたからである。漢口の軍当局は、前借金を盾にして、慰安婦を身体拘束し、廃業を拒否した。これは違法だ」と主張しています。
私たちも、「武漢兵站」を読みました。私たちは、上杉聡氏は故意に三春に関する表現を歪めています。真の内容とは、こうです。

  霧雨が静かに舗道を濡らしている朝、三好楼の三春という妓が支那傘をさして兵站にやって来た。ジュツ(?)兵金としてお金を兵站に寄付したいと言う。聞けば2、3日前、これから前線へ追及するという若い将校さんが泊ったという話をする。三春は田舎くさい地味な娼妓であったが、根はやさしいのであろう、親切にもてなしてあげたという。彼女は添いふしていろいろ郷里のことや、身の上話なども聞いてあげたそうである。翌朝発ってゆく時、今度は生きて帰れない。前線ではお金を使うこともないから、君にこのお金を全部あげる前借を返すのに使ってほしい、と若い将校は言い、三春は、そんなことを言わないで、もう一度訪ねて来てくださいと膝にとりすがって思わず泣いてしまったと話した。結局その将校さんは、金を置いたまま、漢口へまた来る機会があったらきっと訪ねて来ると言って、笑って前線へ発って行ったと言う。
その金は儲備券でたしか2000円ぐらいだった。しかし、こうした、外から入ったまとまった金で前借を返すことは許されていない。前借金はすべて妓が自分の体で働いて返さなければならないのである。三春は「このお金は兵站に寄付しますから、何かに使ってください」という。
「その将校さんが帰って来るまで、主人にでも預かってもらってはどうだ」
とすすめてみたが、三春は自説をまげず、もしあの将校さんがもう一度来てくれたら、自分の身銭を切っても遊ばせてあげる、と真顔で言っていた。

この文章からでは、前借を盾に身体拘束をするような規則を、軍が作ったと断定出来ません。この文章は、誰によって「許されていない」のかがはっきりと書かれていないのです。そこで、山田清吉氏と同じ慰安所で働いていた(「武漢兵站」の該当箇所に「・・・漢口へまた来る機会があったら・・・」とあるでしょ。)長沢健一氏の著書「漢口慰安所」にこういう記述があります。

  娘を娼妓に売る際の証文は、大体つぎのような書式であった。はじめに借用証文、次の行に一、何千円也、ついでに右借用候也、右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也と書かれ、年、月、日、保護者氏名、当人の氏名を連署し、それぞれ押印してある。(ちなみに、この記述は、上杉氏が別のところで引用した箇所の直後・直前にある。ここを見落として、「軍がその規則を作ったのだ」と断定する上杉氏の見解には深い疑念が残る次第です)

業者が、前借を盾に身体拘束をするような規則を作ったのです。そして、三春の行動を見ると、彼女は、全く、そのお金で前借を返そうという意志表示をしていません。「前借を、そのお金で返す」という彼女の意志表示があれば、兵站は、業者がその意志を認めるように監督しなければなりません。(1900年2月、大審院が「前借金を盾に身体拘束を図るのは違法(しかし前借金は合法)」という見解を示したため。業者の証文の「右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也」は無効ということになる) しかし、彼女がそういう意思表示をしてない以上、兵站は監督出来ません。おそらく、業者と結んだ証文の記述は全て有効と思い込む慰安婦が多かったのでしょう。
しかし、他の場所の慰安所の規定にはこうあります。
「軍政規定集(芸妓、酌婦雇用契約規則)」(第3号、昭和18年11月11日・馬来軍政監部)には、「前借金及別借金は総て無利息とす」「居室、戸棚、衣類箪笥、消毒用器具」「寝具一式」「食費、灯火」「消毒薬品」「健康診断に要する費用」は「雇主の負担とす」「遊客其外より稼業婦に於て直接収受したる金品は全て稼業婦の収得とす」とありますし、「昭和11年中における在留邦人の特種婦女の状況及其の取締」(在上海総領事館警察署沿革誌に依る)には、「・・(前略)・・海軍側とも協調取締を厳にし且新規開業を許さざることとせり・・(中略)・・女給「ダンサー」又は他に転向せんとする者漸次増加の傾向にあり一方抱入については前借を認めず稼高の折半契約方を命令し居る・・・」とあります。
さらに、帰国の際も、「石兵団会報第58号」(昭和19年9月21日)によれば、「妓女等が那覇に時折帰り度き希望あり然るときは便あれば、証明書を委員に於て発行し自動貨車等を利用せしめられ度」と、慰安婦から郷里に時々帰りたいとの希望があった場合には、証明書を出して乗り物の便宜を図って、廃業を妨害することはなかったことが読み取れます。
最後に、「漢口慰安所」(長沢健一著)には「補充に来た慰安婦のうち一人が、偕行社に勤める約束で来たと抗議した結果、他の職業につかせたというようなことは確かにあった」とも述べています。
このように、業者が慰安婦を前借金で廃業出来ないように縛ることを軍は取り締まっていたことが分かります

(エ)慰安婦は外出の自由を持っていた

吉見教授は、慰安婦には外出の自由がなかったと主張しています。吉見教授は4つの証拠を挙げています。一つ目に、吉見教授は、「第一慰安所亜細亜会館慰安所規定(フィリピン・イロイロ)を挙げ、指定地域以外の無断外出を禁じ、「慰安婦散歩は毎日午前8時より午前10時まで」と制限している、とし、二つ目に、沖縄にいた山三四七五部隊の軍慰安所は月一回しか休みがなく、三つめに、フィリピンのマス バテ島では、土曜日の昼間だけしか休みが許されていなかった、とし、4つめに、「日本人捕虜尋問報告書 第49号」に、「都会では、買い物に出かける事が許された」という記述を持って、慰安所は、外出の自由なく、許可制であったと主張しています。
しかし、私たちは、慰安婦には外出の自由があったと主張します。私たちは5つの反論を挙げたいと思います。
一つ目に、当時、フィリピンにおいては抗日ゲリラが魍魎跋扈していました。イロイロに駐屯していた部隊は、慰安婦に対して、「監禁」の理由で指定地域以外の無断外出を禁じたのではなく、「警備上の理由」で、指定地域以外の無断外出を禁じたものと思います。このケースは例外です。
二つ目に、現地部隊は、風教上の理由を持って、指定地域以外の無断外出を禁じたものと思います。ここに、「石兵団会報58号(沖縄)1944年9月21日)には、社会道徳を理由(慰安所の近くに学校がある)に村人が要請してきたので、慰安婦に周りをみだりにブラブラしないように、場所をよく考慮するようにと指定地域以外の無断外出を禁じた、という記述があります。これもまた、例外です。私たちは、ほとんどの慰安婦には、外出の自由があったと主張します。
三つめに、吉見教授の主張は歪曲しています。例えば、吉見教授は、「フィリピンのマス バテ島では、土曜日の昼間だけしか休みが許されていなかった」と主張しています。しかし、私たちが「軍人倶楽部規定・マス バテ」を読んだところ、この資料の内容には、軍慰安所全体が、「毎週土曜日の昼間」、健康診断で休みなだけです。慰安婦個人の休日を表したものではありません。吉見教授は、軍慰安所全体の休みと慰安婦個人の休みを意図的に混同しています。
4つめに、「日本人捕虜尋問報告書 第49号」には、「将兵たちと一緒にスポーツ行事に参加、ピクニック、演芸会、夕食会し、都会では、買い物に出かける事が許された」と書いてあります。兵士たちの一部が勝手に集まっている私的な遊びに何の法的な強制力があるのでしょうか。(「どこかの一部隊の集まり」ってな感じでしょう。慰安所周辺の全ての部隊の軍人がある日、全員参加しているわけない)スポーツ行事やピクニック、演芸会、夕食会は軍の命令によって開かれたのではなく、個人の自発的な意思によって開かれたものです。私的な遊びに一緒にやって来るには、個人の自発的な意思が必要です。特に、外出の自由です。そして、実際、慰安婦は、「将兵たちと一緒にスポーツ行事に参加、ピクニック、演芸会、夕食会し」ていました。この資料から見る限り、慰安婦には外出の自由を持っていたと思います。
5つめに、ここに「セレベス民政部第二復員班員復員に関する件報告」の「売淫施設に関する調査報告」の「淫売婦の生活方法」があります。この資料には、「パレパレ警備隊監督下の慰安婦は、時間のみ接客し、他の行動は自由。毎週1日は衛生及び『ミシン』の教育で、日曜日は休日であった。また、第2軍司令部監督下の慰安婦は、同じく、時間のみ接客し、他の行動は自由。そして毎週2日間は休日。さらに民政部監督下の慰安婦は、行動自由、休養は各人の自由であった」とあります。慰安婦個人の休みはきちんとあったようです。

(オ)慰安所で働くことを女性に告げずに、無理矢理、海外に送り込んでいた一部の楼主を、日本軍は取り締まっていた。

例えば、「上海で軍人相手に女性に売春をさせていた業者が、 1932年の上海事変で駐屯する海軍軍人の 増加に伴い、『海軍指定慰安所』の名称のもとに営業の拡張を計画。知人と『醜業 (売春)を秘し、女給か女中として雇うように欺まんし、移送することを謀議』し 、知人の妻らに手伝わせ、長崎から15人の日本人女性を上海へ送ったが、警察に露見し、国外移送罪に問われた」ケースや、「日本が植民地統治時代の朝鮮で1921年、朝鮮高等法院(最高裁にあ たる)が、妻をだまして中国へ移送した朝鮮人男性に国外移送罪を適用した」ケースが見つかっています。
そして、ここに「支那渡航婦女の取扱に関する件」があります。この資料には、「この種の仕事に就く女性は本人が警察に出向いて身分証明書を作って貰うこと」「役所が女性たちに身分証明書を発行する時、彼女らに仕事の契約期間が満了したり、働かなくてともよい状態になったら早く帰国するように勧めること」「醜業を目的とする婦女に身分証明書を発給するときは、稼業契約その他各種の事情を調査し婦女売買または略取誘拐の事実がないように特に留意すること」とあります。
もし、慰安婦がこれらの手順を踏んでいれば、慰安婦は自分が売春婦になることを間違いなく知るはずです。(朝鮮や台湾でも、先述したように、「支那渡航婦女の取扱に関する件」は適用されていた。通牒が適用されていれば、韓半島や台湾出身の慰安婦もこの手順を踏んでいることは間違いない) ところで、日本政府は、一定の手続き(それは、「支那渡航婦女の取扱に関する件」、「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」)を踏んだ「旅券給付者」「軍の呼び寄せ証明書保持者」しか、正式な渡航と認めていませんでした。もし、慰安婦が楼主に騙され、逃げないようにと無理矢理、海外に船で送ってしまったら、その結果、慰安婦は、旅券も、軍の呼び寄せ証明書も持っていなかったということになり、それは無断渡航ということになります。しかし、無断渡航は、日本政府、軍に厳しく取締・監督を当時、行っていました。ここに「不良分子の渡支取締方に関する件」があります。その資料において、正式な旅券を持っていない者を船にのせるな、と触れられています。本人を会せず「旅券」「軍の証明書」を給付することは、手続き上不可能です。

(カ)日本軍は、故意に戦況が悪化している現地に慰安婦をわざと送り込み、帰国、転業、廃業の自由を奪ったわけではない

高木健一氏は、「日本軍は、故意に戦況が悪化している現地に慰安婦をわざと送り込み、帰国、転業、廃業の自由を奪った。なぜなら、連合軍が作成した『心理戦尋問報告第二号』に、『1943年6月、軍当局は借金を返し終えた慰安婦に対して帰国の手配をしたが、M739(先の「日本人捕虜尋問報告書 第49号」に出てくる楼主)のグループからは誰ひとりも、戦況悪化を理由に軍当局から帰国を許してもらえなかった。借金を返し終え、帰国を望んだM739のグループのある慰安婦は軍当局から説得され、留まることになった』と書いてある」という趣旨の発言しています。
しかし、私たちは、日本軍は、故意に戦況が悪化している現地に慰安婦をわざと送り込み、帰国、転業、廃業の自由を奪ったわけではないと主張します。
先にも挙げた「日本人捕虜尋問報告書 第49号」において、朝鮮人慰安婦たちは、戦況が悪化していない「1942年8月20日頃、楼主とやってきた」と証言しています。さらに、「ラバウルの慰安婦は、私が爆撃による危険を避けて立ち退く数ヶ月前に、遠くへ移された」というSOPAC(連合軍の一機関)の「捕虜尋問報告895号」があります。そして、同資料で、「慰安婦達は日本政府によってラバウルに派遣されたのでなく、日本軍によるラバウル占領以前から営業していた」と連合国の捕虜尋問にイトウ大佐、ヤノ少佐、オオイシ少尉、サトウ第一小隊長が答えています。
(補足) 敗戦時、日本軍は多くの慰安婦を、証拠隠滅のために殺害したという事実 は見つかっていない。
「日本軍の敗北が決定的になった時、現地では彼女達を防空壕にいれたまま、虐殺する事を計画し実際に行っている。後難を恐れたため証拠隠滅とした。」と金一勉氏は主張しています。しかし、終戦時に多くの慰安婦が、証拠隠滅の為に、殺された、という具体的な証拠を金一勉はあげておらず、出所不明の風説にすぎません。なお、「武漢兵站」(山田清吉著)や「漢口慰安所」(長沢健一著)など、他の多くの著作でも、「病死を除いた全ての慰安婦たちはきちんと故郷に帰っていった」という内容の記述がよく見られています。

(キ)日本軍の慰安所制度は、公娼制度と類似の制度である。

1955年まで、日本各地に、国家が認めた売春宿、「遊郭」という存在が数多くありました。日本政府は1955年まで公式に売春を認めていました。日本政府は、公娼制度という売春制度を設定していたのです。公娼制度には二つの大きな特徴を持っていました。一つめの特徴は、娼妓になることを望む女性は、本人自身が直接、警察署に出向いて娼妓名簿に入れてもらうことでした。二つ目の特徴は、遊郭で、娼妓になることを望む女性に警察が身分証明書を発行する際には、警察は彼女らの親の同意があるかどうか、確認し、親がいない場合には戸主に確認し、そして稼業契約その他各種の事情を調査し婦女売買または略取誘拐の事実がないように特に留意することでした。 日本軍の慰安所制度は、公娼制度と類似の制度です。
ここに、「武漢兵站」という慰安所担当係長だった山田清吉氏の手記にこうあります。

  慰安婦が、漢口に到着すると、業者とともに兵站慰安係に出頭させ、担当下士官が慰安婦の写真・戸籍謄本・誓約書・親の承諾書・警察の許可書・市町村発行の身分証明書を調べて身上調書(前歴、父兄住所、職業、家族構成、前借金額などを記入)を作り、賞罰、病歴、特徴を後で追加した」(山田清吉「武漢兵站」昭和18年)とあります。

また、マニラの「在マニラ認可飲食店、慰安所規則」(連合軍のATIS「文書」第17910号)によれば、その趣旨は、「開業許可者は、従業員(接客婦も含む)一覧三通、従業員の履歴書一通及び接客婦認可申請書三通を兵站担当将校に提出せよ」とあり、その従業員(接客婦も含む)一覧に「名前、リコーラン、生年月日、1926年9月30日、旧居住地、上海南京路、本籍、蘇州中正路、職業、公認売春婦、芸名、タツコ」等多数、実際にあります。公娼制と同じように、慰安婦制度も、公娼制の「娼妓名簿」に匹敵する「名簿」があったのです。
そして、「支那渡航婦女の取扱に関する件」(1938年2月23日)があります。その内容とは、

  「役所が女性たちに身分証明書を発行する時、彼女らに仕事の契約期間が満了したり、働かなくてともよい状態になったら早く帰国するように勧めること、この種の仕事に就く女性は本人が警察に出向いて身分証明書を作って貰うこと、警察は、その場合必ず女性の親か、または戸主の承認を得て身分証明書を出すこと」となります。 さらに⑤として「醜業を目的とする婦女に身分証明書を発給するときは、稼業契約その他各種の事情を調査し婦女売買または略取誘拐の事実がないように特に留意すること」と書いてあります。

慰安所制度も、公娼制度と同じく、親または戸主に確認し、稼業契約その他各種の事情を調査し、婦女売買または略取誘拐の事実がないようにしていたのです。慰安婦は段階を経て、慰安所で働くことを説明され確認されていったのは間違いありません。

(ク)日本軍は、慰安婦を酷使し、搾取する悪質な楼主を取り締まっていた。

ここに、「武漢兵站」(1943)という資料があります。この山田清吉慰安所担当係長によって書かれた資料に、このような記述があります。
「漢口に入城した売春業者は朝鮮人の女たちをまったくの奴隷状態で酷使収奪してたので、漢口兵站の監督下に置き内地人の女同様、借金制度に切換えた。前借金は平均6、7千円だったので1カ月4、5百円稼がせるようにし一年半くらいで借金を返し、それ以上働けば貯金もできて内地へ帰れるよう指導した」
また、「漢口慰安所」(1940)において長沢健一軍医は、
「兵站司令部は慰安所を管理する一方、慰安婦を業者の不当な搾取から保護する債務もあった。朝鮮人業者の中には、ひどい例もあった。 証文も何も書類らしきものは一切なく貧農の娘たちを人買い同然に買い集めて働かせて奴隷同然に使い捨てにする。これでは、死ぬまで自由を得る望みはないのだが女たち自身もそうした境涯に対する自覚は持ってないようだった。 藤沢軍医は業者が女に支払った金に雑費を加えて借用証を作らせ女たちが働きさえすれば借金を皆済し自由な身の上になれるようにした」と言及しています。
次に「昭和11年中における在留邦人の特種婦女の状況及其の取締」(在上海総領事館警察署沿革誌に依る)には、「・・(前略)・・海軍側とも協調取締を厳にし且新規開業を許さざることとせり・・(中略)・・女給「ダンサー」又は他に転向せんとする者漸次増加の傾向にあり一方抱入については前借を認めず稼高の折半契約方を命令し居る・・・」と悪質な楼主が、前借金で廃業出来ないように縛って、酷使し、搾取することを軍は取り締まっていたことが分かります。
また、「石兵団会報第74号(後方施設に就き)」(昭和19年10月)によれば、部隊ごとに「経営者と妓女との関係」の調査報告を求めており、取り分について七分、経営者は三分と定めていました。
さらに「軍政規定集(芸妓、酌婦雇用契約規則)」(第3号、昭和18年11月11日・馬来軍政監部)では、慰安婦雇用の際の「標準」が定められ、「前借金及別借金は総て無利息とす」とした上で、「居室、戸棚、衣類箪笥、消毒用器具」「寝具一式」「食費、灯火」「消毒薬品」「健康診断に要する費用」は「雇主の負担とす」とあります。さらに、雇主は慰安婦の「毎月稼高の100分3」を、彼女名義で「貯金」させ、慰安婦を廃業する際に「本人に交付する」と定め、「遊客其外より稼業婦に於て直接収受したる金品は全て稼業婦の収得とす」「稼業婦廃業したるときは雇主は稼業当日迄の稼高を清算すべし」「遊興費の不払は全て営業主の負担とす」と規定していました。
最後に、「日本軍隊における生活利便施設」(ATIS調査報告第120号)にも、「セレベス民政部第二復員班員復員に関する件報告」の「売淫施設に関する調査報告」にも同様の内容があります。日本軍は、慰安婦を酷使し、搾取する悪質な楼主を取り締まっていました。

(ケ)日本軍は慰安婦の性病予防対策を立てていた。

ここに、「戦時服務規定」(1938年5月25日)があります。この資料は、日本軍の教育総監部が起草したものです。この資料は、「性病に関しては積極的予防法を講ずるは勿論慰安所の衛生施設を完備するとともに軍所定以外の売春婦、土民等との接触は厳に之を根絶するを要す」と言及しています。そして、陸軍省医務局衛生課起案の「大東亜戦争関係将校の性病処置に関する件」(1942年6月18日)では、「派遣部隊における性病予防に就ては厳正適切なる指導に依り感染の機会を避けしむるとともに出動地における慰安所等の衛生管理に関し遺漏なきを期するものとす」とあります。
現地の軍当局は、これらの通牒に従っています。例えば、「日本人捕虜尋問報告書 第49号」にはこう書かれています。
「さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうから持ってくる場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りするように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、羅患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される」
そして、中国の常州駐屯間内務規定には、「毎週、月曜日及金曜日とし金曜日を定例検バイ日とす」とあります。また、「亜細亜会館、第一慰安所規定送付の件」(1942年11月22日)にも、「警備隊医官は衛生に関する監督指導を担任するものとす接客婦の検バイは毎週火曜日15時より行なう」とあります。例えば、検バイはこのような方法でした。「検バイ成績に関する件」(1942年9月29日)には、「名前/(省略)、年齢/25歳、可否/可、名前/(省略)、年齢17歳、可否/否、病名/淋病」とあります。
その上、「日本軍隊における生活利便施設」(ATIS調査報告第120号)では、こういう趣旨の報告がなされています。
「慰安婦は通常、指定された場所で週に一度軍医による検診を受けるものとする。これらの検診にともなう費用は経営者によって支弁されるものとする。軍医は、毎回検診後に健康状態について報告書を作成し、これに押印するものとする。健康検診において不適確または不適当との診断を受けた慰安婦は、加療期間における客の接待を禁止される。慰安所経営者は、性病予防具を用意し、接客婦にこれを活用させるものとする。慰安所経営者は消毒剤を容器に入れて、便所、その他の特定の場所に置く。施設は内外ともに格別に清潔に保ち、諸用品を備える。慰安所は必ず、寝具は清潔なものを使用し、頻繁に外気に当てて干し、室内の照明および新鮮な空気に格別の注意を払う。避妊具の使用を拒むものに対しては接客婦との接触を禁止する。接客婦は、生理期間において性交してはならないし、毎日入浴しなければならない」
さらに、ここに「マニラの慰安所に関する憲兵隊の報告」(1944年2月7日)があります。その内容とは、マニラの憲兵隊が慰安所の衛生検査を報告し、衛生規則を違反した楼主に警告しているものです。
例えば、
検診対象/慰安所
芸妓・酌婦の被検者数/80人
病人数/1人
施設/シャイニング・フラワーガーデン
経営者/花井キカタロウ
評価/
B, 各室の掃除・整頓は十分
B, 寝具の清潔度は十分
B, 待合室と廊下は明らかに掃除しているが、いま少しの努力が必要
A, 便所および洗面所の設備は格別に清潔。きわめて良好な状態にある

(コ)日本軍は、組織的に不法行為を監督し、取り締まっていた。

私たちは、多くの日本軍や日本政府の対策を取り上げました。しかし、「確かに、一部の日本軍当局は不法行為を監督し、取り締まっていた。しかし、日本軍全体としては不法行為を放置していたのではないか。よって、ほとんどの日本軍当局は不法行為を放棄していた。一般的に言えば、悪質な楼主によって、ほとんどの慰安婦は組織的に売春を強要されていたのだ。日本軍と日本政府の当局は、当時の日本軍と日本政府の不作為によって軍用性奴隷制度を作り上げたのだ」という反論があるかも知れません。
しかし、これは正しくありません。 I )で先述したように、当時のすべての慰安婦のうち、拉致され騙され強制売春を強いられた慰安婦はどのくらいの割合になるでしょうか。わずか0.8% から1.2%です。もちろん、多くの元慰安婦が死んだり、事情があったとしても、この数の割合は少なすぎます。
それは、まさに、「たとえ政府が有効な対策で悪い輩を規制し、取り締まっても、一部の悪質な輩は対策を首尾よくどうしても潜り抜けてしまう」という状況です。一般的に言えば、世間に有効な対策の存在があっても、完全な対策というものは全く存在しません。
当時の日本政府と日本軍は、全体の意思として悪質な楼主の不法行為を有効に規制し、取り締まっていたのです。個々の現地軍の監督・取締の元となった2つの資料が存在するのです。
一つめの資料は、「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」(1938年3月4日)です。この通牒の内容は、「・・(中略)・・不統制に募集し社会問題を惹起する虞れあるもの、或いは募集に任ずるものの人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調べを受くるものある等、注意を要するものすくなからざるに就いては、将来これらの募集に当たりては、派遣軍において統制し、之に任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たりては、関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す」
拉致されたり、売春を強要されたり、外出・廃業・帰国・接客拒否の自由を奪われたり、日本兵の暴行を受けたり、楼主から搾取されたりしている女性がいるとしたら、社会問題ということになります。これらの社会問題は、「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」によって監督され、取締られるものです。
なぜなら、「関係地方の憲兵及び警察当局との連携を密にして、もって軍の威信保持上、並びに社会問題上、遺漏なき様配慮相成度(あいなりたく)依命(めいにより)通牒す」とあるからです。この通牒は、陸軍省兵務局兵務課起案とあります。当時、国策としてこの資料を前例踏襲していたという極めて強い可能性があります。
二つ目に、陸軍省副官送達の「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」(1940年9月19日)年が挙げられます。
詳しく言うと、「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」の5に、このような主旨が載っています。
「事変地に於いては、慰安施設に関し周到なる考慮を払い、殺伐なる感情、及び劣情を緩和抑制する事が必要である。環境が、兵士の士気に大きく影響を与える。特に性的慰安所より受ける兵の精神的影響は最も率直で、深刻なので、この(=慰安施設)指導監督の適否は、士気の振興、軍紀の維持、犯罪・性病の予防に大影響を与える。この事を肝に命じよ」とあり、この対策の最後に「各般の事項に注意する事が必要である」としているのです。
この通牒は陸軍省から各部隊に送付されていました。確かに、この通牒は教育指導参考資料です。しかし、この資料は、「この通牒は軍の中でも、とても重要な項目である」と強調しています。一部の日本兵から暴行を受け、楼主から搾取を受けている慰安婦がいるとしたら、直接、犯罪の増加や軍紀の維持を引き起こします。さらに、他の不法行為(例えば、強制売春など)も、殺伐なる感情、及び劣情に直結しています。よって、現地の軍当局は、その通牒を受けて、厳しくこれらの不法行為を監督していたのです。
それゆえ、現地軍当局は、これらの不法行為を慰安所規定によって監督し、軍の中枢官僚によって起案された「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」や「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」を基本にしていました。日本軍は、悪質な楼主による不法行為を監督し取り締まっていたのです。当時の不作為によって、日本軍と日本政府は性奴隷制度を作ったわけではないのです。約1%以下の例外を持って全体像を語ってはならないと思います。
吉見教授は、「日本軍は、慰安婦を保護するための軍法をまったく起案していなかった。よって、日本軍全体として不法行為を放置していたと言っていますが、日本軍と日本政府は多くの通牒や規制を起案していました。吉見教授はなぜ、日本軍や日本政府によって起案された多くの通牒や規制を無視するのでしょうか。
たかが一つの大まかな通牒でも、前述の性病予防対策のように日本軍全体に徹底化されうるものです。また、吉見教授は、「慰安所を設定するように要請したのが問題」と言っていますが、日本軍は、「強制連行」や「騙し」などを指示してもいいから、慰安所を作れ、と要請したのではありません。日本軍は、「強制連行」や「騙し」などがないようにして、慰安所を作れ、と楼主に要請していました。

(サ)資料の信頼性

吉見教授は、「米軍が作成した『日本人捕虜尋問報告書 第49号』は信頼性がない。なぜなら、この資料には、『尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳ぐらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とにかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かにとりすました態度を見せるが、『女の手練手管を心得ている』。」と書いてあるからだ」と主張しています。
そして、吉見教授は、「慰安婦を尋問したアレックス・ヨリチ軍曹は、慰安婦に対して信用をあまり持っていない。ヨリチ軍曹は楼主の言い分を多く採用したに違いない。なぜなら、楼主は流暢に日本語が話せるが、朝鮮人慰安婦は少ししか日本語が話せないからだ」と言っています。
しかし、ヨリチ軍曹は、日本語が流暢に話せるからといって、楼主にもまったく信頼を持っていたわけではありません。なぜなら、『心理戦 尋問報告 49号』(東南アジア翻訳尋問センター)において、ヨリチ軍曹は、『M739(「日本人捕虜尋問報告書 第49号」に出てくる楼主)とその妻は義妹に料亭を委ねた上で・・・・1942年7月10日、買い受けた女性22名を引き連れ、703名の女性と90人ほどの日本人男女(はかならぬ彼と同じように人格低劣な連中)の一行でプサンを出航した』と尋問して報告しているからです。ヨリチ軍曹は、一方的に楼主の言い分を採用しているわけではありません。
さらに、西野留美子氏(慰安婦問題研究家)もまた、「『日本人捕虜尋問報告書 第49号』は信頼性がない。なぜなら、この資料は証言を検証する十分な時間が取られていないからだ。例えば、ヨリチ軍曹は、『慰安婦たちは、通常、個室のある二階立ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた』と書いており、二階立ての大規模家屋が慰安所であることを分かっていない」と主張しています。
しかし、西野氏の見解は正しくありません。なぜなら、この資料には証言を検証する十分な時間が取られていたからです。「日本人捕虜尋問報告書 第49号」には、こう書かれています。
尋問期間 1944年8月20日から9月10日
報告年月日 1944年10月1日
証言を検証するのに20日も、「日本人捕虜尋問報告書 第49号」に取られていたのです。「日本人捕虜尋問報告書 第49号」に、「それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ」と、西野氏が取り上げる文章のすぐ下に書かれており、ヨリチ軍曹は、二階立ての大規模家屋が慰安所であると認識しています。西野氏は故意にこの文章を見落としているのではないでしょうか。「日本人捕虜尋問報告書 第49号」は、公平で客観的な、信頼性のある資料です。

また、花房氏(慰安婦訴訟の支援者)は、「『セレベス民政部第二復員班員復員に関する件報告』の『売淫施設に関する調査報告』の『淫売婦の生活方法』には信頼性がない。なぜなら、「オランダ軍軍法会議検察官命に依る売淫施設調査の指令に基き」とある。戦犯逃れで虚偽の報告をした可能性が高い」と主張しています。
しかし、私たちはこの資料は信頼性があると思っています。なぜなら当時、連合軍は白人女性を拉致し、売春を強要した人物だけを裁いているからです。連合軍はわずかに2件しか裁いていません。一つめの事例は、スラマンのある日本軍部隊が楼主と結託して、捕虜収容所から65人のオランダ人女性を連行し、売春を強要した事例です。二つ目の事例は、パレンパンのある日本軍部隊が、捕虜になった豪州人女性を、慰安婦になるように脅迫した事例です。
連合軍が定義づけた、女性を拉致し、強制売春をするといった戦争犯罪は、人種差別のために、白人女性を拉致し、売春を強要した人物だけが対象になっていたと私たちは考えています。検察官に手渡した楼主はインドネシアにいる残留者でした。(彼らは、孤立し、行動の自由がなく、情報を得る自由がない「捕虜」ではない)現地で、その楼主は連合軍の戦争犯罪の内容を、噂や裁判から判断出来ました。スラマン(インドネシア)では、白人女性を拉致した楼主が、オランダ軍によって、拉致や強制売春で持って裁かれています。検察官に手渡したその楼主も、裁判を受けている楼主と同じインドネシアに住んでいるのです。
「セレベス民政部第二復員班員復員に関する件報告」の「売淫施設に関する調査報告」の「淫売婦の生活方法」の場合、この報告は、日本人女性を含めたアジア人女性を対象としています。インドネシアのその楼主には、戦犯逃れを図って、検察官に虚偽の報告をする動機がありません。
(確かに、田中利幸教授(慰安婦問題研究家)は、日本軍占領時に、日系アメリカ人がグアム島(アメリカ信託領)の現地人女性に対して強制売春を働いている事例を挙げています。しかし、この事例は、その人物が引き起こした米国旗侮辱事件とともに裁判にかけられています。この事例は、アメリカ人が、アメリカ国籍を持つ女性に強制売春を働いた事例です。同国人が同国人の犯罪を裁くのは当然で、次元が違います。この事例は、例外です)

結論

当時の日本軍、日本政府に不作為の罪があった、とは証明されていません。私たちは、日本政府に、一部の楼主によって騙され、拉致された元慰安婦に対する法的責任はないように思います。日本の法や日本軍の規則を潜り抜けた日本兵と楼主に、騙され、拉致された元慰安婦に対する法的責任があると思います。日本軍は、通牒や軍の規則によって組織的に楼主を監督し、取り締まっていました。法律があっても、一部の悪質な輩は法を首尾よく潜りぬけるという事実を知らなければなりません。例えば、数人の女性が悪人によって殺害されました。警察は殺人犯を追っていました。警察に、悪人によって殺害された女性に対する法的責任があるのでしょうか。一般的に言えば、世間に有効な対策の存在があっても、完全な対策というものは全く存在しません。
また、50年以上も経った日本軍と日本政府の不作為の罪が国家補償の対象となるのでしょうか。時効の観点で見れば、慰安婦問題はすでに解決ずみです。それとも、慰安婦問題は、「人道に対する罪」なのでしょうか。時効を超越する戦争犯罪は、「人道に対する罪」だけです。 ニュルンベルグ裁判条例第6条C項には、こうあります。
「戦前もしくは戦時中にすべての民間人に対して行われた殺人、殲滅、奴隷化、追放およびその他の非人道的行為、または犯行地の国内法に抵触すると否とに関わらず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行われた政治的、人種的、宗教的理由に基づく迫害行為」
日本政府は、一部の楼主によって騙され、拉致された元慰安婦に国家補償しなければならないのでしょうか。誰が慰安婦を奴隷化し、非人道的行為を働き、迫害を行なったのでしょうか。当時の国策として、日本軍並びに日本政府はアジアの女性たちの拉致や強制売春や騙しに加担してはいません。そして、当時、日本軍並びに日本政府に不作為があったとは証明されていません。
さらに、当時、多くの日本人女性がアジアの女性たちと一緒に慰安所で働いていましたし、日本軍並びに日本政府には軍当局は慰安婦を保護しなければならないという政治的理由がありました。そして実際に、日本軍並びに日本政府はほとんどの慰安婦の人権を守っていたのです。
当時、日本軍並びに日本政府には、慰安婦の強制売春に関する政治的、人種的、宗教的理由がまったく存在しません。
しかし、アメリカ合衆国が第二次世界大戦後沖縄占領中に米兵が引き起こした数々の婦女暴行や強姦事件にたいして道徳的に責任があるのと同じように、日本政府も一部の楼主によって拉致されたりだまされたりした慰安婦たちにたいして道徳上の責任はあるといえるかもしれません。
なぜなら、当時、日本が売春制度を認めていなければ、米軍が沖縄に駐屯していなければ、このような犠牲者はまったく存在しなかったはずだからです。
橋本龍太郎総理大臣は、日本政府に謝罪を求める拉致されたりだまされたりした慰安婦の方々に、「道義的責任を痛感している」という「お詫びの手紙」を送りました。私たちは、一部の楼主によって拉致されたりだまされたりした慰安婦たちに対して、日本はすでに十分に償っていると思います。
しかし、すでに十分に償っているかどうかは、事実関係こそが決めるものです。すでに十分に償っているかどうかと被害者が全ての責任の範囲を決めるという論理は、当り屋が泣いて喜ぶ論理と言えましょう。



(3)慰安婦制度は、日本軍にのみ存在したのでしょうか。

結論から言うと、違います。戦地の部隊に随行して将兵を慰安した女性は、古今東西を問わず、戦争と軍隊にはつきもので、日本軍だけの専有物ではありませんでした。

例えば、18世紀には、両角良彦著『反ナポレオン考』によると、
「当時にあっては、軍隊に女性の従軍を認めるのは各国に共通したことだった。イギリスでは正規の妻のほか、一個中隊につき6名の女性を公認したし、ボナパルトもイタリア前線で一個大隊に4名の女性を許している」と、あります。
また、第一次世界大戦においても、「世界性学全集」の第5巻「戦争と性」には、「西部の戦争舞台では、アミアン、アベユーユ、アーベル、ルーアンその他、前線の背後のすべてのフランス都市には連合国軍部隊のための特に設備が良くて繁盛している兵站娼家があった。・・(中略)・・顧客にはフランス兵の他に、他国民、主としてイギリス人の将校や兵隊もいた・・(中略)・・ドイツ側にも、兵站地域の大きな街には必ず兵隊用娼家と将校用娼家とがあった」という具合に、ドイツ・フランス・イギリス・ロシア等にも軍管理の専用慰安所があったとあります。

そして、第二次世界大戦の時でも、それはあまり変わらなかったようです。
ドイツ軍は、ザイトラー著「売春・同性愛・自己毀損-ドイツ衛生指導の諸問題 1939-45」によれば、軍管理の慰安所を占領地各地に置いたとあります。特に東方占領地(主にソ連)ではスターリンが売春を禁止していたので、新設する際には、慰安婦はしばしば強制徴用したとあります。
アメリカ軍についても、プラムフィールド報告書によれば、北アフリカ戦線で、打ち破ったイタリア軍の慰安所を引継ぎ、そのまま同じ軍管理の慰安所を続けたとありますし、米陸軍軍医部の第二次世界大戦史にも、1943年のシシリー島占領後、米軍はドイツ・イタリア軍が運営していた慰安所をシステムと人員ぐるみ引継ぎ、軍医とMPが規制したともあります。また、1942年、中国の昆明にシェンノートの航空隊用の軍管理の慰安所を設け、インド人売春婦を呼び寄せたともあります。(セオドア・ホワイト著「個人的冒険の回想・上・歴史の探求」より) 確かに、アメリカ軍は当時、自由恋愛方式を採用していました。ほとんどのアメリカ軍将兵は、慰安するために、ある一定期間、戦場の後方地帯で休養することが許されていました。しかし、その対策は、戦場での強姦事件防止より戦争神経症のための対策です。毒ガスや戦車、潜水艦が戦場に現れた第一次世界大戦の教訓の結果によるものです。米軍もまたすべての恐ろしい兵器を経験しました。他方、日本軍は当時、わずかに潜水艦を経験しただけです。日本兵は第一次世界大戦の戦争神経症を経験しませんでした。なので、米国の自由恋愛方式は、売春を根絶する政策ではありません。アメリカ兵が、ドルを持ち、気前のよさで売春婦の最も良い上客でした。
そして、現在でも、「『従軍慰安婦は日本軍だけか-アメリカ軍の場合」(佐藤和秀氏)によれば、「韓国の米軍基地・東豆川には、韓国人慰安婦・洋郎がおり、韓国の保健所で週一回の検診を受け、検査ずみの印を押した健康保健カードを掲示させ、米兵のための肉体の提供をさせている」とあります。さらに言うと、1945年8月27日から1946年2月まで、アメリカ軍は日本において、アメリカ兵の性欲を満たすためにRAAに統制よる慰安所を許していましたし、朝鮮戦争の際には、米軍はRRセンター(慰安所)を小倉、大阪、横浜に設立していました。
"AWM54,267/6/17, Part 6"という書類によれば、オーストラリア軍も、シリア、パレスチナ、トリポリに慰安所を設立していました(田中利幸「なぜ米軍は慰安所を無視したのか」世界・1996年10月)また、ソ連軍の場合にも「霧に消えた兵隊」鈴木省五郎著には、ソ連によって強制的に徴発されたユダヤ人、ポーランド人女性からなる巡回慰安婦が、駐屯地を回っていたと証言しています。さらには、中国軍においても、軍管理の慰安所があったようです。

「敗戦の翌年の2月、ソ連兵が日本軍の捕虜を連れて引き上げると、入れ代わりに国民党が共産軍と戦うために入ってきて、またしても戦争です。大勢の日本女性が殴られ、仕方なく妓女にされました。私は国民党軍の師団長に脅迫されてとらわれの身となり、乱暴されました。」 (「女たちの太平洋戦争Ⅰ」 朝日新聞社)

「列車は臨時停車し、そのたびに八路軍兵士が復員者の携帯している貴重品などを強奪する。・・・そして、彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、・・・連行されたところは元の天津で、『妓女戸』と呼ばれる慰安所であった。彼女たちはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた・」(富沢繁編「女たちの戦争よもやま物語」光人社)

「応城でのこと、一人の慰安婦が新四軍(中共軍)に拉致された。だが、運よく、日本憲兵隊で抑留していた新四軍の中隊長の妹と、その慰安婦を交換する交渉がまとまり、新溝かどこかの橋の上で相互に引き渡された。その折、慰安婦の話によると、向こう側でもやはり慰安婦をやらされたそうである。中共兵は行列を作って順番を待っているので一体、何人やらされるのかと勘定したが、30人ほど教えて面倒臭くなってよしたそうだ。中共兵は切符制なのに比べて、日本兵の場合はお金がないと遊べないから可哀想だと思ったという」(長沢健一著「漢口慰安所」)

そして、韓国軍はベトナム戦争において、米軍と同様に、現地の慰安婦を買い、ベトナム人との混血児がたくさん生まれています。

吉見教授は、1925年以降、「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」に触発された「廃娼」という国際社会の潮流に逆らい、国際条約に反する「強制売春」の温床となりかねない慰安所制度という国による売春制度を設けたことが問題だと指摘しています。 しかし、第二次世界大戦においても各国ともに慰安所を設けており、軍隊内の売春撲滅の潮流が、当時の国際社会にあったと認められないと思います。(確かに、アメリカは、第二次戦争の後半、軍医部の主唱で「道徳と健康に有害な売春を禁絶する政策を採用した」と宣言していますが実状は別で、公娼制下の欧州大陸ではドルを持つ気前のよい米兵は娼婦たちの「上客」でした)「軍隊」内の売春撲滅は、当時徹底した潮流ではなく、実効性はありません。
さらに吉見氏の論理に従えば、1955年の「売春禁止法」によって公娼制廃止がなされますが、それまで続いた公娼制度も問題だということになります。公娼にも、慰安婦にも国家補償せよ、という論理になります。BR>


(4)元慰安婦の証言に関する疑問

高木健一弁護士(慰安婦訴訟担当の弁護士)は、「藤岡教授は、慰安婦証言の細部をついて揚げ足を取ったうえで、すべてがなかったことにしようとする論理の飛躍があります」と語っていますが、そのような藤岡教授の見解はまったく知りません。高木氏の見解は、藤岡教授が慰安婦の存在を否定しているという言いがかりと同じものです。
藤岡教授はただ、「『従軍慰安婦』という言葉は正しくない。なぜなら、『従軍』とは軍属を意味するものであり、慰安婦は軍属ではない」と主張しているだけです。慰安婦訴訟の支援者、特に朝日新聞に、ネオナチと同じ極端な歴史修正主義者とレッテルをはられたのです。しかし、藤岡教授はネオナチと同じ極端な歴史修正主義者では決してありません。どちらかと言えば、慰安婦訴訟の支援者の方こそ、極端な反米活動家であり、極端なフェミニストです。例えば、鈴木裕子氏(慰安婦問題研究家)は、「米国政府は、日本政府が拉致され騙された元慰安婦に国家補償せねばならないように、沖縄で米兵によって強姦された女性にも国家補償しなければならない」と主張していますし、吉見教授も「『売春婦』『芸者』という言葉も、他の言葉、例えば『性的に搾取された女性』という言葉に言い換える必要がある」と主張しています。まるで、他の言葉に言い換えるというのは、PC(政治的に正しい言葉)を思い出します。
しかしながら、元慰安婦証言に対する疑問は、彼女らが国家補償を求める際、とても重要な事柄となっています。もし、これらの箇所が信頼性に欠けるとするなら、証言自体の信頼性も揺らぎます。典型的な元慰安婦の証言を項目に分けて検討してゆきたいと思います。



(典型例A)

「1938年3月、私が16歳の時、母が若い娘が兵隊に連行されているという噂を聞いた。ある日、私が畑で働いていたら、母がやってきて、『兵隊がやってきた。早く私の妹のところに逃げなさい』と言った。なので、私は徒歩で一時間くらい逃げたが、山道で憲兵1人と兵隊6人に捕まって、北支のオオテサンに連行された」

まず、当時の日本政府には、韓半島や台湾、他のアジア諸国から組織的に国策として女性を拉致してくる動機がありません。岡部直三郎、北支派遣軍参謀長は、一つの通牒を出しています。その通牒の内容とは「諸情報によるに、・・・強烈なる反日意識を激成せしめし原因は・・日本軍人の強姦事件が全般に伝播し・・・深刻なる反日感情を醸成せるに在りと言ふ・・軍人個人の行為を厳重取締るとともに、一面成るへく速に性的慰安の設備を整へ、設備のなきための不本意ら禁を侵す者無からしむるを緊要とす」というものです。
占領地域で日本兵による強姦事件が多発し、それが緊急性を帯びる問題であっても、慰安所を設立するために現地の女性を軍が拉致したら意味がなくなってしまいます。慰安所設立の目的は、日本兵による強姦事件に起因する反日感情を回避するものです。日本軍が現地女性を拉致し監禁することによって反日感情に火に油を注ぐことは全く意味がないことです。
ところで、もし、日本軍が韓半島や台湾の女性を当時の国策として拉致していたら、韓半島や台湾の住民は反日感情を理由に大暴動を起こしていたでしょう。もし、大暴動が起きれば、これは大問題になっていたことでしょう。例えば、当時、韓半島には2600万人の住民がいましたしかし、当時の韓半島にはわずか23000人の警察官と1927人の憲兵(1945)しかいませんでした。(「日本憲兵史」全国憲友会連合会)によれば)朝鮮の共産党ゲリラ(例えば金日成のゲリラ等)を促進させていたソビエト連邦が、大暴動が起きた際には軍事介入するかも知れません。またベトナム戦争のように朝鮮の共産党ゲリラを通して暴動を起こした住民にソビエト連邦は武器を手渡すかも知れません。もし、日本軍が、当時の国策として韓半島の女性を拉致すれば、暴動を起こす環境的条件が整ってしまいます。なぜなら、ほとんどの韓半島の住民が深刻な反日感情を抱き、独立運動家になっていたと考えられるからです。(しかし、実際は、韓国人の一部の人が独立運動家だっただけです) 韓半島の住民が一度、大暴動を引き起こせば、重大な防衛上の大問題となります。日本軍が女性を拉致することは、ソビエトの脅威と共産主義を促進させることとなります。さらに、韓半島の憲兵数は少なかったので、韓半島の女性を拉致してくる余裕は憲兵にはありませんでした。これと同じようなことを韓半島にいた元憲兵の人も証言しています。
しかし、「実際に戦中、戦前、韓半島から60万人の屈強な青年男子を強制連行した実績がある。暴動を日本政府が考慮していたというのは愚問だ」という反論があるかも知れません。しかし、その60万人というのは、総て強制連行によるものでしょうか。確かに、昭和14年9月以降、朝鮮から内地へ労務動員がなされています。しかし、全ての動員が、「強制連行」による動員ではありません。その動員形態は、
壱、自由募集による動員(昭和14年9月から17年まで)
l 弐、官斡旋・隊組織による動員(昭和17年2月から19年8月まで)
参、国民徴用令による動員(昭和19年9月以降)
でした。この場合、「強制連行」といってもいいのは、国民徴用令という法的強制力をもった「参」でしょう。国民徴用令は、昭和14年7月に施行されましたが、朝鮮では、その全面的な発動をさけ、昭和16年に軍用員関係に適用され、昭和19年2月に、朝鮮内の重要工場、事業場の現地徴用が行われ、同年9月以降に朝鮮から内地へ送り出される労務者にも一般徴用が実施されました。この「60万人」という数字には、「壱」の自由募集による動員や「弐」の官斡旋・隊組織による動員が多く含まれています。そして、この「60万人」の大部分は、期間が長かった「壱」の自由募集による動員に占められてはいないでしょうか。これでもって、「60万人を強制連行した実績があるから、当時、日本政府は、朝鮮内の「暴動」が起きることは考慮に入れてはなかった」というのは、誤りです。日本政府は、国民徴用令の実施を、内地に比べ遅く適用したことから分かるように、「朝鮮側の反発」を充分に考慮していた事が分かります。
さらに、「日本政府は、国民徴用令で多くの韓国人労働者を連行していた。当然、日本政府は韓国人女性を慰安所に連行していたのだろう」という反論があるかも知れません。しかし、それは正しくありません。日本政府は、国民徴用令でもって多くの日本人労働者を工場に連行していました。国民徴用令は、民族差別的な政策ではありません。その徴用令の適用範囲は、日本国籍を持っている人々でした。(当時、韓半島の人々は日本国籍を持っていました)そして、実際には日本政府は、日本人女性を慰安所に連行してはいません。よって、日本政府は、韓半島の女性を慰安所に連行してはいないでしょう。国民徴用令が民族差別的な政策であると証明されない限り、その反論は片手落ちです。(しかし、日本政府は当時、韓国の独立運動家を迫害する政治的政策はありましたが、拉致され騙された元慰安婦の全てが、韓国人独立運動家の娘だったのではありません)
当時、日本や韓半島、台湾や他のアジア諸国にはたくさんの貧乏な世帯が存在したので、貧乏な家族を持っている女性たちが、当時の大卒初任給10倍、兵士の収入の100倍も稼げる慰安婦収入に殺到したものと思います。さらに言えば、慰安婦の収入は、日本の娼妓よりもいい収入でした。下の統計を見てください。

戦前期の公娼関係統計(秦郁彦「昭和史の謎を追う(下)」より)
(当時の売春婦に関する諸々の警察統計に従い、秦教授がこの統計を作成した)

西暦 娼妓 芸妓 酌婦 カフェバー女給 貸座敷営業者 遊客
1927 50,800 80,086 111,032 - 11,383 22,270,000
1931 52,064 77,351 81,019 77,381 10,799 22,390,000
1937 47,217 79,868 85,699 111,284 9,238 31,820,000
1941 (内地) 32,294 69,077 68,439 66,802 7,588 27,520,000
(韓半島) 3,813 6,723 1,602 3,891 - -
1942 (東京) 4,145 12,031 - - 744 -
1943 (東京) 2,799 9,016 - - 416 -
1953 (東京) 245,000 - - - - -
(注1) 主として「昭和国勢総覧」下巻の「警察取締営業の状況」「興行場と遊郭」、朝鮮の統計は、「朝鮮総督府統計年報」、東京の統計は「警視庁史」より引用した。
(注2) 他に雇人が、約2、3万人いた。
(注3) 他に東京だけで少なくとも、1671(昭和17年)の私娼がいた。
(注4) 外務省統計によると、他に昭和10年現在で登録された海外在住の売春婦が13200人いた(うち81%が満州)
(注5) この他に東京の、玉の井、亀戸、横浜本牧の「チャブ屋」などに集まる私娼がいたし、カフェバー女給の大部分は娼婦予備軍と見なされていた。


ピーク時の公娼約24万人が、1937年には20万人、1941年には、17万人へと減少しています。遊客が約一定にかかわらず、です。かなりの部分が慰安婦に転身したのではないでしょうか。この動きから、多くの売春婦が慰安婦に転業したものと思います。
韓国人楼主は内地に進出出来ませんでした。しかし、1937年7月7日以降、韓国人楼主も派遣軍に慰安婦を供給出来るようになり、わが世の春を謳歌していたことでしょう。楼主は多くの慰安婦を抱えていたし、募集すれば、多くの慰安婦を確保出来たと思います。軍や憲兵の援助はまったく必要がなかったのです。
しかし、「当時の韓半島は伝統社会だったので、女性が金を稼ぐために自発的に売春婦になるはずがない」と反論するかも知れませんが、なぜ、当時の韓半島になぜ、3813人の娼妓、6723人の芸者、1602人の酌婦、3891人の カフェバー女給がいるのでしょうか。当時の韓半島の女性の一部には、金を稼ぐために自発的に売春婦になっていたというのは紛れもない歴史的事実です。

前田けいこ氏(慰安婦訴訟の支援者)は、「韓半島において、新聞紙上、慰安婦を募集する広告は2回しかない。そして、その内容も、「朝鮮総督府が楼主を集めるものだった」と主張しています。しかし、前田氏は広告の内容を歪めています。本当の内容は、「新ゴー宣・32章」にあるように、「許氏」(韓国人)という楼主が慰安婦を募集しているものです。そして、当時、韓半島の慰安婦募集の広告がわずか2回というのは、韓半島の女性の教育水準が低く、漢字だけに覆いつくされた広告が読めなかったというのがその理由のように思います。(しかし、彼女らも、易しい「平仮名」「片仮名」で構成された文章なら読めたものと思います。当時、日本は、韓半島の人々に強制的に日本語を教え、日本語を話すようにさせていました。韓半島の人々は少なくとも「平仮名」「片仮名」を知らなければ生活もままならなかったでしょう)漢字だけに覆いつくされた広告は、慰安婦を集めるのにほとんど何も役に立たなかったのです。だから、韓半島において、新聞紙上、慰安婦を募集する広告は2回しかなかったのです。
さらに、韓半島において、新聞紙上、慰安婦を募集する広告は2回しかなかった理由は、新聞に広告を載せるまでもなく、慰安婦募集に多くの希望者がすでに殺到していたからだと私たちは主張します。ただ、新聞紙上で慰安婦を募集する形態が、一般的でなかっただけです。募集自体が一般的であることが否定されたわけじゃないのです。なぜなら、新聞紙上で慰安婦を募集する形態が、一般的でなかった、ということだけを証明したに過ぎないからです。ところで、それらの広告は何だったのでしょうか。太平洋戦争末期、1944年に、それらの広告は新聞紙上に掲載されました。楼主が戦況悪化によって簡単に希望者を集めることが出来なくなり、仕方なく、新聞紙上に広告を掲載したものと思います。 しかし、1944年当時、第一の問題は戦備強化であり、日本軍は楼主と一緒にアジアの女性を拉致してくる余裕は全くなかったと重ねて、私たちは主張します。
金一勉氏(慰安婦問題研究家)は、「日本軍は国策として処女を集めるために韓半島の女性を騙し、拉致した。なぜなら、処女は性病を持っていないからだ。ここに、当時の日本軍軍医の麻生徹男が作成した報告がある。麻生は『一般的に売春婦の質は、売春婦の若さに比例する。ほとんどの日本人慰安婦は20歳以上で、其の中には40歳にもなろうとしている者さえおり、数年間、売春を業にしている。しかし、ほとんどの韓半島の慰安婦は若く、すれっからしではない』と報告している」と主張しています。
しかし、問題の本質が性病対策にあることを注意してください。処女を拉致してくるのと、医者が検診を行い避妊具を普及させるのとではどちらがより合理的で経済的で徹底的な解決になるのでしょうか。もし、処女でも性病持ちの男と性交すれば、その処女は性病に感染します。処女を拉致してくることは、まったく合理的で徹底的な解決ではありません。処女であることが売春婦の、性病予防のための必要条件ではありません。よって、日本軍は性病予防対策として韓半島の処女を拉致してくる動機はなかったと私たちは考えています。加えて、麻生氏は、その報告の中で、まったく民族根絶や意志に反して韓半島の女性を送れ、とは述べていません。
そして、ここに「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」(昭和19年6月27日)があります。その内容は、「未婚女子の徴用」を朝鮮(当時)の人々が誤解し、「挺身隊を慰安婦となす」かのような噂を「荒唐無稽なる流言」「悪質なる流言」とした上で、それらを取り締まるため、朝鮮総督府が警察官を増員したという通達です。日本政府が、当時、統治下の韓半島の住民の「反日」をひどく配慮していたことが分かります。
さらに言えば、慰安婦の場合、目撃者がまったく存在していません。この噂は嘘です。なぜなら、目撃者がいない以上、その噂は真実ではないからです。
吉見教授は、「『婦人・児童売買禁止に関する国際条約』には、植民地除外規定があった。韓半島や台湾は、国際条約の適用外であった。だから、日本軍は当時の国策として韓半島や台湾の女性を拉致し、騙したのだ」と言っています。しかし、日本軍は、「軍慰安所従業員婦徴募の件」を韓半島にも適用していました。そして、日本政府は、「支那渡航婦女に関する取扱の件」が韓半島にも適用していました。(朝鮮総督府警保局長報告によれば、多くの韓半島の女性が慰安婦として中国に渡航するという身分証明書を、朝鮮総督府によって発行してもらっています)
私たちは、典型例Aの慰安婦は、日本軍を装った悪質な楼主によって拉致されたのだ、と思っています。なぜなら、「故(ことさら)に軍部諒解等の名義を利用し、為に軍部の威信を傷つけ、且つ一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、或いは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起する虞れあるもの、或いは募集に任ずるものの人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調べを受くるものある等、注意を要するものすくなからざる」と、「軍慰安所従業員婦徴募の件」にあるからです。



(典型例B)

「1940年、学校で日本地図の刺繍の壁飾りを作り、背景に朝顔を描いたところ、警官がやってきて『なぜ日本の花である桜を描かないのだ』と警察に連行された。当時、父は満州へ行っていてほとんど帰らなかった。その警官は、この点を追及し、お前も父と同じ独立運動の思想を持っているのだろうと決め付けて拷問を加えた。あまりの酷さに失神し、気が付いたら福岡にいた。その後、福岡、神戸、大阪で慰安婦として終戦まで働いた」
吉見教授は、「当時、日本本土にはそんなに多くの慰安所は存在しなかった。なぜなら、日本本土は戦場ではなく、「遊郭」と呼ばれる売春宿が多数存在したからだ」と主張しています。吉見教授のその点には私たちも同意します。それでは、日本本土にはどのあたりに慰安所が存在したのでしょうか。私たちは項目に分けて、当時、日本本土にあった慰安所を検討してゆきたいと思います。

壱、大規模部隊の中継地点(日中戦争期、大東亜戦争末期)
もし、多くの師団が都市にやって来て、一時的に兵士に休養させるために駐屯したら、その都市の遊郭だけでは兵士の多くをうまく裁けません。大規模部隊の中継地点において一時的に慰安所があった可能性があります。しかし、私たちは明確に、ある一定の時期だ、と絞られると思っています。当時、多くの師団が移動した時期は、日中戦争期(1937-1938) と太平洋戦争初期(1941-1942)、日本本土防衛期(1945)でした。もし、多くの師団が常に日本本土を移動していたのなら、日本本土の中継地点に慰安所があったでしょう。しかし、それは正しくありません。ある一定の時期を除いて、多くの師団は、中国や東南アジアに移動してしまっています。需要自体が減少すれば、慰安所を設立している理由がなくなってしまいます。そして、この項目に当てはまる慰安所は、まだ発見されていません。

弐、遊郭などがある街から遠い場所(但し、長期間部隊を駐屯させている場合のみ)
「海軍航空工場と朝鮮人労働者と慰安婦」によれば、近所の抗議にも関わらず、1943年3月、木更津の海軍航空部隊によって慰安所が設立されたとあり、ほとんどの慰安婦は海軍の慰安婦として楼主によって、銚子の遊郭から集められた、とあります。木更津は東京から遠い都市です。しかし、この項目に当てはまる慰安所は、これだけしか確認されていません。

参、海軍部隊が駐屯していた場所
「第三魚雷艇隊戦時日誌」によれば、1944年7月、第三魚雷艇隊は釧路にあった遊郭を慰安所に変更させた、とあります。しかし、この項目に当てはまる慰安所は、これだけしか確認されていません。

四、動員された朝鮮人労働者が多数、働いていた工事現場
私たちは、1945年、松代大本営工事現場に慰安所があったらしいと聞いたことがあります。さらに、北九州の炭坑地帯にも、朝鮮人労働者のための売春宿が存在しました。

伍、1945年6月の「本土決戦方針」のもと、米軍の上陸地点と、日本軍に予想されていた場所
当然、多くの師団が駐屯していた沖縄や小笠原には慰安所が存在しました。さらに1945年6月の「本土決戦方針」によって、多くの師団が米軍の上陸地点と、日本軍に予想されていた場所に駐屯していました。その主な場所としては九十九里浜や南九州地域が挙げられます。 九十九里浜や南九州地域には慰安所があった可能性があります。近衛師団に所属した一等兵だった谷垣氏は、1945年5月、銚子、成東、茂原(九十九里浜の近く)に慰安所があった、と証言しています。しかし、谷垣氏の証言は信頼性に欠けます。次の項目で検討したいと思います。

六、「遊郭」があっても、諸般の事情により、遊郭を「軍慰安所指定」出来なかった場所(しかし、その要件として、壱、大部隊が駐屯していた弐、「作戦」の一中継地点だった、が挙げられる。そのことに注意) 遊郭が存在し、軍当局が遊郭を慰安所に変更したくとも、遊郭側の事情(伝統に反する、店の名前に傷がつき損をする、大事な遊女が消耗してしまう等)や、その遊郭が、大部隊の性病対策を十分に行なえない、また、大部隊の兵士の性欲を、遊郭では、十分に満たせないなどによって、都市の遊郭全てが遊郭を慰安所に変更することに反対したかも知れません。その結果、もしかすると、軍当局は遊郭がある都市に慰安所を設立したのかも知れません。しかし、それを証明することは、谷垣氏の証言に大きく掛かっています。銚子に遊郭があったにも関わらず、慰安所は存在したのでしょうか。
谷垣氏は、「憲兵になった時、軍当局に情報収集を命じられ、銚子、成東、茂原の8人の慰安婦を情報収集のため買収した。慰安婦と交渉した兵士の所属部隊名、陣地の建設状況、仕事や賃金問題など部隊のあらゆる情報を収集し、前もって8人の慰安婦に兵士から情報を得るために軍事用語や軍事上の基礎を教えた」と証言しています。
この情報収集の最も重要な目的は、敵の情報を収集することではなく、軍事機密が漏洩していないかどうかとチェックすることです。しかし、軍当局に、不特定多数の兵士を対象に、漠然としたこのような情報収集をする必要があったのか、と疑問に思っています。どちらかと言えば、当時、軍当局は、慰安婦に軍事用語や軍事上の基礎を教えることのほうが、兵士による軍事機密の漏洩よりも神経質になっていたと思います。谷垣氏の証言自体が信用性に足りません。なぜなら、このような情報収集をする原因が不明だからです。私たちは、銚子には慰安所はなかったと考えています。そして、この項目に当てはまる慰安所は、いまだに一つも発見されていません。

典型例Bの慰安婦が1940年に福岡で働いていた可能性はあるかも知れません。なぜなら当時、福岡に海軍部隊が存在したかも知れないからです。(しかし、秦教授が調査したところ、1940年、福岡には慰安所が存在していませんでした)しかし、「典型例Bの慰安婦が大阪や神戸の慰安所で働いている可能性はない。なぜなら、大阪も神戸も、海軍部隊が駐屯していた場所でもなく、動員された朝鮮人労働者が多数、働いていた工事現場でもなく、1945年6月の「本土決戦方針」のもと、米軍の上陸地点と、日本軍に予想されていた場所でもなく、遊郭などがある街から遠い場所(当時の大阪、神戸には遊郭が存在した)でもなく、当時の大規模部隊の中継地点でもないからです。彼女の証言が正しくないのなら、彼女は、芸者として、兵士が頻繁に通った福岡、神戸、大阪の遊郭で働いていたものと思います。
ところで、慰安婦訴訟の支援者は、「富山である朝鮮女性が慰安婦にされている。1944年、富山に慰安所があった」と主張していますが、そのような主張は正しくありません。 その慰安婦は、「彼(兵士)は、低い丘まで私を連れていった。日が暮れて、彼は私を強姦した。・・・(中略)・・・私は舌を噛んで自殺しようとしたが、その時、痛みがほとばしった。私が兵舎に着いた時、門には二人の歩哨がいた。そこは兵舎の裏のテントだった」と証言しています。 彼女は、慰安婦ではなく、強姦の被害者です。(当然、日本軍は陸軍刑法において「強姦罪」を設定していました。強姦事件が発覚すれば日本軍は、法を逸脱した強姦した兵士を厳しく取り締まっていました。)駐屯地裏のテントは、慰安所ではありません。その後の彼女の証言を見ると、強姦した部隊の移動の途中、松代大本営らしい場所で、強姦した兵士によって慰安所に売られています。富山で慰安婦になったのではなく、松代大本営?で、慰安婦になったのです。



(典型例C)

「1942年春、徴用通知を不満として、釜山のデパートにエレベータを見に行っての帰路に、釜山駅近くの路地で日本人と朝鮮人の二人の男に日本に稼ぎに行こうと勧誘され、半強制的に船に乗せられた。そして広島に連れて行かれ、数日後、軍輸送船によりラバウルに到着した」

金両基教授(日韓比較文化研究者)は、慰安婦証言の信憑性を裏付ける目撃者の傍証が一つも得られないことの理由として、「・・・(中略)・・・伝統のある社会で、初めから『遊郭に行くんだ』と言われて連れて行かれた人がいたら例外希有な人だと思います。証言者が現れなかったのは少しも不思議ではない。現れるほうが不思議なんです。私の知っている範囲では、慰安婦として連れて行かれた人は、最初は兵士たちの服の洗濯など身の回りの仕事をするのだといわれたのがほとんどです。『日本人捕虜尋問報告 第49号』には、『・・・(中略)・・・『慰安役務』に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この『役務』の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いの言葉は、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに楽な仕事と新天地-シンガポール-における新生活という将来性であった』とあります」と述べています。
要するに、業者が慰安婦に「いい働き口がある」と騙しているんでは、目撃者がいても、それが強制だったのかは分からないという主張です。 だから、目撃者が出て来ないというわけです。しかし、それは慰安所全体が、外出の自由がなく、親との連絡が一切取れないという前提が必要なように思います。実際は、以前にも触れたように外出の自由はありましたし、「漢口慰安所」や「従軍慰安婦・慶子」(千田夏光著)や元慰安婦の証言によれば、軍事郵便を利用して家族に送金していたくらいです。慰安婦は軍事郵便で彼女らの親と連絡を取ることが出来ました。女性から「慰安婦にされた」という手紙が親元に届けば、口コミでもの凄い勢いで噂が広まったでしょう。(当時、ほとんどの慰安婦は文章が書けないとしても、片言くらいなら書けたのではないか)家族もしくは近所の人たちから傍証の証言が一つはあってもいいじゃないでしょうか。
櫻井よしこ氏(薬害エイズ事件を明かした日本で最も有名なジャーナリスト)も、「たとえマスメデイアが極端に規制されていた世界であっても、口コミが伝達の重要な手段としてありました。自分の家族から、母親だったり娘だったり、女性が意思に反して連れて行かれた、何時の間にかいなくなっていた、これは日本の軍隊の慰安婦にさせられたに違いないということになれば、物凄い勢いで噂が広がっただろう」と言っています。
しかしながら、実は親こそが、目撃者でもあり、加担者のように思われる節があります。ビルマでの「日本人捕虜尋問報告 第49号 アメリカ戦時情報局心理作戦班」には、「これらの周旋業者が用いる誘いの言葉は、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機」とあり、また、「心理戦 尋問報告」にも、「M739は、朝鮮人未婚女性22人を買い受けたが、彼女らの両親に対する支払い額は、それぞれの性格、容貌、年齢に応じて300円から1000円であった」
伝統社会のため、親は娘を売って金を貰っても、娘に「遊郭に行く」ことを説明せず、結果的に娘を行かせるために周旋人に、 「いい働き口がある」と騙させたものと思います。具体例として、ノンフィクション小説『従軍慰安婦・慶子』にこういう記述があります。

「朝鮮人労働者を炭坑などの職場に斡旋し、うわまえをピンハネする”親方”が彼女の元に話を持ってきた。嘉穂の飯場で飯だきや洗濯をしていても月に5円50銭か、せいぜい7円。支那に行くと兵隊たちに同じことをするだけで千円の支度金と、月々に家に仕送りも出来るような銭が入る仕事がある。それに加え三食たっぷり食事が付き、着る物の心配もいらない。女らしい物を着せてやる・・・と言われ、この世間知らずな娘は、その場で決心をし、千円という大金をそっくりそのまま親に手渡した。話を聞き金を手渡された親は、いくら戦場とはいえ、そんなうまい話があるわけない。これは兵隊の慰みものにされるのだ・・・と、すぐわかったはずだが、貧乏ゆえに金を受け取ってしまい、何も言わずに娘を送り出してしまった。結局「だまされた」と思っているのは本人だけで、実のところ、親の暗黙の了解のもとに売られてしまったのだ。その千円を受け取った時の、父親の様子を金必連はこう語った。
『ハチメ腰ヌカシ、ピクリシタケト、シバラクシテ、涙ポロポロ出シテ泣イタヨ、泣イテ喜ンテクレタノヨ』それは喜びの涙ではなく、悲しみの涙だ。自分(慶子のこと)が親に売られて故郷の家を出るとき、母親が流した涙と同じだ・・・と、それを聞いた慶子は思った」

「詐欺にあった」と言っても、このような図式が考えられます。伝統意識が強い一部の親によって、これらの証言が成り立っていったわけです。
しかしなお、身売りしたケースは全てこのようなケースではないと思います。あくまでこの図式は、伝統意識が強い一部の親の場合です。 もし、娘が身売りを行なった親が全てそうであるのなら、「詐欺にあった」と主張する慰安婦はもっと多いはずです。慰安婦の総数を約6万人から9万人(秦郁彦教授説)とし、そのうちの朝鮮人慰安婦の割合を7割としします。仮に今、韓半島で、騙された訴えている慰安婦の総数を335とします。(韓国の慰安婦訴訟支援グループは、拉致されだまされた元慰安婦だと告白してきた慰安婦のうち、67%が騙されたものと公表しているので)このようなに求めると、すべての朝鮮人慰安婦のうち、「詐欺にあった」慰安婦の割合は、なんと0.5%から0.7%です。死んでしまったとか、事情が悪くてと言っても、この割合は少なすぎます。さらにその慰安婦の証言の信憑性にも疑問がありますし・・・。たいていの「身売り」は、日本の寒村における状態と同じものだったと思われます。親も本人も慰安婦になることは分かっていたのです。



(典型例D)

(ⅰ)「1939年、『金もうけが出来る』と養父に説得され中国へ。北京を経て鉄壁慎という小集落で養父と分かれて慰安所へ入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された」(1991年東京地裁)
「1941年、『金もうけが出来る』と養父に説得され中国へ。北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ、養父と別々にトラックに乗せられ、慰安所へ。処女を奪われた」(1993年、韓国の市民団体での証言)
「『金もうけが出来る』と養父に説得され中国へ。中国語ができるので中共軍の密偵役もやったところ、スパイ容疑で捕らえられ、慰安所へ」(1991年、来日時の市民団体での証言)

(ⅱ)「顔見知りの朝鮮人から『食堂で働けば、お金が儲かる』と言われ、行ってみたら慰安所だったので『騙された』と夜も昼も泣きあかした」 (1991年東京地裁)
「『軍服を着た日本人』に連行された」(1993年、韓国の市民団体での証言)
「日本と朝鮮の憲兵、刑事に強制連行され慰安婦にさせられた」(日本で出版された『ビルマ戦線 盾師団の「慰安婦」だった私」)

日本政府に国家補償を求めるのなら、彼女らを拉致したのが軍なのかどうなのか、はとても重要な争点です。なぜ2年間のうちに彼女らは自分の証言を変更したのでしょうか。韓国の元慰安婦を支援する韓国のNGOがあります。そのNGOは、1993年に本を出版するために元慰安婦40人にインタービューをしています。私たちがその本を検討したところ、分かったことがあります。拉致を目撃した親戚、友人、近所の人の証言が全くないということです。本を書いた研究者は、韓国全土を訪れ元慰安婦と面談したと銘記しています。もし、そうなら、傍証を集める機会があったはずに違いありません。しかし、研究者は傍証をまったく集めていません。研究者は最初から傍証を集める気もなかったし、それを回避していたのでは、といぶかっています。



(典型例E)

「憲兵と警官に強制連行され、44年の秋に5階建ての船に乗せられた。乗客もほとんどが女性で人数の多さに驚いた。船は沖縄、サイゴンなどあちこちに寄港し、サイゴンから陸路でビルマのラングーンに連行された」

1944年の秋といえば戦争末期。南方では補給路が絶たれて食料も医療物資も届かず、兵隊が飢えとマラリアでバタバタ死んでいた時です。そんな時に5階建ての巨大な船を慰安婦輸送を目的に悠々と航行させていたというのは疑問です。



(典型例F)

「1938年8月、警察による真鍮食器上納要求を拒否し創氏改名に反対したので、家族全員か警察に連行された。そこで軍慰安婦に志願した。」

真鍮上納も創氏改名も、1940年紀元節を期して行われたもので、時期がかなりずれています。私たちは朝鮮総督府の警官が、韓国の独立運動家に抑えるために、その娘に慰安婦になるように強要したということには、疑問を持っています。



(典型例G)

「軍人が、脱走しようとした女性の乳房をえぐり取り、刀で腹を裂き内臓を取り出して投げつけられた。それでも、脱走しようとして捕まったので、逆さづりにされ、焼きゴテを当てられ、銃の先で突き刺された」

ここまで残虐なことを日本軍にされていながら、この元慰安婦は慰安婦訴訟に参加していません。なぜ、本当のことなら、訴訟に参加しないのでしょうか。



(典型例H)

フィリピン人女性の証言

(ⅰ)「1942年、抗日人民軍のフク団に加入、アンヘレス地区で伝令や物資調達を担当、翌年4月組織の指示で男性ゲリラと行動中、日本軍の検問所で捕まり、駐屯地に監禁、強姦され続けた。44年1月、ゲリラ仲間が襲撃して奪還してくれた」

慰安婦訴訟支援者に顕著な点は、慰安婦と強姦の犠牲者を混同する点です。その証言を見ると、上部の軍本部の命令を受けたものではなく、末端組織の暴走でゲリラ討伐や内偵に「便乗」する形での虐待と読み取れます。フィリピンの第14軍は軍紀が乱れているとの定評がありました。42年5月2日の陸軍省会議で、大山法務局長が「南方軍の犯罪件数237件、支那事変に比べて少なし。第14軍には強姦多し。女が日本人向きなるを以てなり・・・厳重な取締で激減せり」と報告していますが、8月12日の会議では「南方の犯罪610件、強姦罪多し」とあり、効果が上がっていないことを自認しています。このような証言をする女性は、慰安婦ではなく強姦の犠牲者です。(当然、日本軍は陸軍刑法において「強姦罪」を設定していました。強姦事件が発覚すれば日本軍は、法を逸脱した強姦した兵士を厳しく取り締まっていました) さらに重ねて言えば、日本軍はソビエト軍のように組織的な強姦を兵士に勧めてはいませんでした。どちらかといえば、日本軍は組織的に兵士による強姦を取り締まっていました。(H-ⅰ)の女性は、強姦の犠牲者です。

(ⅱ)「中国山西省」の慰安婦証言
Aさん 「15歳の時、4人の日本兵が自宅よりロバで進圭社村の駐屯地近くの石洞に連行され、5ヶ月監禁され、赤ら顔の隊長以下に連日強姦され、傷害を受けた。母親が銀600両を差し出したが、効果がないので自殺」
Bさん 「15歳の時、3人の漢じんが来て村人を集め、日本人の「毛隊長」が3人の女性を選び、進圭社村の駐屯地近くの石洞に連行され、まず、漢じんが強姦し、隊長も強姦した」
Cさん 「20歳の時、10数人の漢じんが来てロバで連行、Aさんと同じ石洞に監禁。隊長以下に強姦され、傷害を受けた。夫が銀400と羊毛50頭分を持参し、7ヶ月後に釈放された」
Dさん 「19歳の頃、3、4人の日本兵が押し入り、進圭社村の駐屯地近くの石洞に連行され、毎日強姦された」
Eさん 「11歳の時から、抗日運動に参加していたが、15歳の1943年6月、日本軍に捕らえられ、進圭社村の石洞に連行、監禁され、赤ら顔の隊長らに「八路軍の情報を吐け」と輪姦され、傷害を受けた。同じ石洞にAさん、Cさんがいた」

見たところ、現場が石洞であり、ゲリラ討伐や内偵の「便乗」による虐待が認められ、末端組織の逸脱による「戦地強姦」のケースと思われます。また、A、C、Eさんの証言から1943年頃、同じ時期に被害にあったものと思えます。部隊が割り出せそうです。
そこで、秦郁彦教授が当時、進圭社に駐屯していた日本軍の部隊を割り出すと、該当部隊の元兵士らがこう証言しました。
「進圭社は対八路軍の最前哨ポストで、民心を失ったら通牒されてたちまち全滅する」
「I、T両中隊長やM(毛ではない)曹長は軍紀にやかましい人だった。3人とも赤ら顔ではなく、M曹長はむしろ青白い細身の男だった」
「石洞のようなものはなかった」
「いくら落ちぶれても、身の代金を取りたてるなど考えられない。分かれば銃殺ものです」
「日本軍をカサにきた不良中国人の仕業とも考えられる」
さらに、秦教授が慰安婦の利用状況について聞いてみると、旅団司令部のあった陽泉、大隊本部のあった孟県などには朝鮮人のいる慰安所があり、西煙鎮にはショートルと呼ばれた中国人の娼婦がいて、部隊の中国人通訳が「ピー屋」の経営を兼ねていたらしい、進圭社には、朝鮮人の巡回慰安婦が一、二回来たことがあるということでした。
彼女らは戦地強姦の犠牲者のように思われます。駐屯地裏の石洞やテントや廃屋は、「慰安所」ではありません。



最後に

ここに、興味深いインタビューがあります。
櫻井よしこ氏(薬害エイズ事件を明かした日本で最も有名なジャーナリスト)が、石原信雄元副官房長官に国策として慰安婦を拉致したと証明する日本軍並びに日本政府の証拠があるかどうか、聞きました。石原信雄元副官房長官は、「国策として慰安婦を拉致したと証明する日本軍並びに日本政府の書類はまったくない」と答えました。そして櫻井氏が、敗戦時、日本の官庁が役所に都合悪い書類を積み重ねて焼いていった事実を説明しました。
すると、石原氏はこう答えたのです。
「敗戦時、慰安婦問題はまったく認識されていなかったので、理論的に言えば、全ての慰安婦に関する証拠が消失しているとは考えられない。米軍が特に狙っていた証拠は、特別高等警察や政治思想犯に関する書類であった。朝鮮人労働者を炭坑に連行していったという一部の書類は焼かれたが、地方の役所や厚生省、労働省から、朝鮮人労働者を炭坑に連行していったという書類がいまだに発見されている。私は、慰安婦に関する強制連行や強制的な徴集を意味する一部分の書類だけを徹底的に処理することはありえないと思う」 櫻井氏は続けて、石原氏に、薬害エイズ訴訟の際に厚生省は重要な証拠を隠していたので、慰安婦の場合でも、関係省庁が証拠をかくし続けている可能性があるのでは、と訪ねました。
石原氏は、続けてこう答えました。「薬害エイズ訴訟の際には、総理大臣、厚生大臣が関係省庁に、その重要な書類を明かすように命じたところ、厚生省は、その重要な書類を隠しませんでした。もし、関係省庁が慰安婦に関する重要な証拠をかくしているなら、日本は国家と機能していないことになるだろう」 当初、厚生省は、薬害エイズ訴訟が起きた1989年から厚生省と被害者が和解に達する1995年に至るまで都合が悪い書類を隠していました。いくら弁護士が要求しても、厚生省はその重要な書類を明かしませんでした。しかし、菅直人厚生大臣が厚生省の官僚にその重要な証拠を明かすように命じたところ、すぐに、厚生省が薬品会社と一緒にエイズが入っている非加熱血液製剤を放置したことに加担したという多くの書類が明かされました。
慰安婦の場合、宮沢喜一首相が関係省庁の官僚に慰安婦に関する書類をかき集め明かすように命令していました。だから、石原氏は、関係省庁が慰安婦に関する重要な書類をかくしているのはありえないと主張しているのです。

崖ぷちに立った慰安婦訴訟支援者の一部は、「国策として日本軍が慰安婦を拉致した証拠はないが、国策として日本軍が慰安婦を拉致しなかったという証拠もない」と主張しています。その論理は、UFOや幽霊の存在を主張する人が、科学者に徹底的に反論された時に、再反論する論理、例えば、「UFOが来ていなかったという証拠はない」「幽霊が存在していない証拠はない」という論理と似通っています。
ところで、慰安婦はただの売春婦だったのでしょうか。
「慰安婦は、ただの売春婦だったのではない。慰安婦はとても重要な役割を果たした。慰安婦は軽蔑される存在ではなかった」と私たちは思います。
慰安所の楼主の妻はこう言っています。
「わたしは、この商売を本気でやっていましたよ。お国のために命をかけている兵隊さんのために、出来るだけ心を慰めてやりたいと思うてました。あの人たちは、セックスだけが目的だったんじゃないですよ。人間と人間のふれあいに飢えていたんですよ。慰安所は、心の安らぎの場だった。私は、そういう気持ちであの商売をやっていましたよ。その気持ちは、あの商売に対するわたしの使命感でした」
ほとんどの元日本兵は、「慰安婦の方々に慰めてもらった感謝を決して忘れてはいない。敗戦のために慰安婦の方々がせっかく稼いだ軍票が紙屑になってしまったことを可哀想に思う。もし、元慰安婦が老後に困っているようなら、それ相当の金額を送りたい」と考えています。私たちは、「ほとんどの慰安婦は性奴隷ではなかった」と思います。
しかし、日本人は、日本政府の謝罪を求めている元慰安婦は、彼女らの意思に反して売春を強要されたことを知らなければなりません。 アメリカ合衆国が第二次世界大戦後沖縄占領中に米兵が引き起こした数々の婦女暴行や強姦事件にたいして道徳的に責任があるのと同じように、日本政府も一部の楼主によって拉致されたり、だまされたりした慰安婦たちに対して道徳上の責任はあると言えるかもしれません。
なぜなら、当時、日本が売春制度を認めていなければ、米軍が沖縄に駐屯していなければ、このような犠牲者はまったく存在しなかったはずだからです。 橋本龍太郎総理大臣は、日本政府に謝罪を求める拉致されたりだまされたりした慰安婦の方々に、「道義的責任を痛感している」という「お詫びの手紙」を送りました。(しかし、「お詫び」の手紙の「軍の関与のもとで」という表現を訂正してもらいたいと思います。「悪質な輩を取り締まり、慰安婦を保護するという軍の関与の下で」が正しいと思います。「お詫びの手紙」は明確に訂正されるべきです。
民間基金であるアジア女性基金は、世間に寄付をアピールして、日本人に謝罪を求める元慰安婦に対し、「償い金」を支給しました。(しかし基金の、「慰安婦は当時の日本の国策によって拉致された」という見解には、私たちは反対です。
日本は、悪質な楼主によって騙され、拉致され、強制売春を受けた元慰安婦に対して、十分にすでに償ったものと私たちは思います。

( しかし、すでに十分に償っているかどうかは、事実関係こそが決めるものです。すでに十分に償っているかどうかと被害者が全ての責任の範囲を決めるという論理は、当り屋が泣いて喜ぶ論理と言えましょう)



(5)日本の歴史教育の問題点

人はなぜ、自身を反省しなくてはならないのでしょうか。私たちは、「謝罪」や「反省」は、社会における私たち自身の適切な役割を模索する一過程のように思います。もし、自身を反省することがまったくなければ、人は自分の役割を過大評価し、自分の意見を他者におしつけ、彼が勝手に考えた役割を他者におしつけようとするでしょう。
しかし、人は謝罪と反省だけしさえすればいいのでしょうか。違います。社会に生きる限り、人は社会における自身の適切な役割を模索しなければなりません。自身の適切な役割を模索しないようなら、その人はつまらぬ自己中心的な人間と呼べましょう。人は社会に対して何らかの自己の役割を果たした時、人は自身に「誇り」を持つことが出来るものだと思います。「誇り」は、決して悪いものではないのです。人が適切な「誇り」を持てば、人は社会における自身の適切な役割を果たすことが出来ます。「謝罪」と「反省」にかこつけ、自身に「誇り」を持たない人間は、自己中心的に違いないと断言します。「誇り」がない人間に、社会における私たち自身の適切な役割という前向きな態度があるわけないからです。「謝罪」と「反省」にかこつけて、結局、自身の適切な役割を模索していません。社会が、個人1人1人が、己の適切な役割を果たすことによって機能していることは忘れてはなりません。よく、「己の悪を隠して反省しないのは恥だ」という日本の武士の伝統を掲げる人がいますが、武士は、常に社会における己の役割を模索していました。己の役割を模索するという前提条件が存在するのです。「謝罪」「反省」にかこつけて、自身の適切な役割を模索しない甘えた媚びた姿勢は、それこそが「恥」でしょう。そして、それは国家にも当然当てはまるのです。
ところで、日本の歴史教育には「謝罪」と「反省」の観点しかありません。日本の歴史教育には、国際社会における自国の適切な、現実的な「役割」という観点が全くないのです。その矛盾は、1991年の湾岸戦争以降ますます激しくなっていっています。
藤岡教授は、次に挙げる文章を何度も何度も読み直したそうです。
「湾岸地域でアメリカを始めとする多国籍軍の兵士たちが生命を犠牲にするようになって以来、日本人の多くが深刻な精神的負い目を心のうちに抱え込んでしまった。いうまでもなく、多国籍軍の兵士たちが日本人も共有する価値と利益のために命を捧げているのに、日本人だけは平和憲法を盾に安全圏に身を置いたままだからである。つまり、そこでは、平和憲法を掲げて戦争で手を汚そうとしない者たちが、侵略阻止という大義のために現に戦場で生命を危険にさらしている者から、鋭く倫理性を問われているのである」(野田宣雄「湾岸から日本に放たれたミサイル」『文芸春秋』1991年3月)
藤岡教授は、「多くの憲法学者が平和憲法の第9条が世界の平和に貢献すると主張したが、周辺諸国の戦争を防止し、停止するには無力でかつ無関係である。日本の歴史平和教育は明らかにものごとを一方的に見ている。日本の歴史平和教育は、日本人自身の手で世界の平和を創り出そうという姿勢が欠落している」と、彼の著書、「汚辱の近現代史」で書いています。
日本人は、太平洋戦争から平和の大事さを学びました。しかし、湾岸戦争を通して、自由経済、民主主義、自由主義に基づく平和か、独裁主義、侵略政策を受忍する平和か、と、どちらを日本人は求めるのかと疑問を投げかけられています。
しかし、一部の日本人は、「戦前、日本軍は侵略したが、今でも、PKOに日本の自衛隊が参加している。日本はすでに、アジア諸国に対する平和の脅威として存在している」と誇張して主張します。湾岸戦争の矛盾に関わらず、日本の歴史平和教育は未だに国際社会における適切な現実的な自国の役割を模索していません。それどころか、日本の歴史平和教育は依然、国際社会における適切な現実的な自国の役割を模索せず、一国平和主義を守るために、より謝罪と反省の観点を強調しています。日本の戦前、戦中の事実が、1991年の湾岸戦争をあたりにして、一国平和主義を守るために誇張され歪められています。矛盾が強くなればなるほど、事実は一国平和主義を守るために誇張され歪められているのです。慰安婦問題は、一国平和主義を守るための一つの材料として提起されました。
PKOに参加して、カンボジアで地雷を除去し、道路を補修している日本の自衛隊のどこにアジア諸国に対する平和の脅威として存在しているのでしょうか。さらに言えば、半世紀の期間、日本人は民主主義の中で暮らしていました。日本の軍国主義が再び起きるというのは、日本人と人間の進歩を否定することです。そして、日本人は容易に騙されるというのなら、日本人を馬鹿扱いしています。
日本の歴史教育は、一部の日本人によって一国平和主義を守るために、故意に誇張され歪められた歴史的事実を検証し、国際社会における適切な現実的な自国の役割を模索することが求められると思います。
そこで、藤岡教授と彼の趣旨に賛同する多くの学校の先生たちが、中学生を対象とした「教科書が教えない歴史」を出版しました。
藤岡教授は、国際社会における適切な現実的な自国の役割を模索していると思います。藤岡教授は、「新しい歴史教科書を作る会」を発足させました。藤岡教授は、最近の歴史教育の改善を進めてゆくことでしょう。藤岡教授の試みは多くの無党派の人々に受け入れられています。(ちなみに、この文章を書いたらーめん屋二郎は、「新しい歴史教科書を作る会」の一会員です。

     (完)