大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
強制連行


日帝は太平洋戦争を挑発した後、戦争遂行のために韓国の人的、物的資源収奪に狂奔した。( 中略 )わが国の青年は志願兵という名目で、また徴兵制と徴用令によって、日本、中国、サハリンなどに強制動員され命を失った。 ( 韓国高校歴史教科書1996年版より )

朝鮮人の強制連行( 徴用 )について日本の中学校教科書に書かれたものです。
「 国民の油断 」 西尾幹二・藤岡信勝 1996年 PHP研究所
次の教科書の記述を見てほしいのです。

[強制連行のようす]
町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたりしだい、役にたちそうな人はかたっぱしから、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というが、人さらいですよ。( 大阪書籍、260ぺ−ジ )

[朝鮮人強制連行]
警察官や役人が土足で家に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました。抵抗する者は木刀でなぐりつけ、泣きさけびながらトラックに追いすがる妻子を上からけりつけたともいわれます。( 東京書籍、264ぺージ )

[朝鮮・中国から強制連行された人々]
金大植さんは、1943年2月、家で寝ているところを警察官と役場の職員に徴用令状をつきつけられ、集結地まで手錠をかけられたまま、125名の朝鮮人同胞とともに日本に連行されてきた。( 教育出版、262ぺ−ジ )

すべてこういう調子です。
「 人さらい 」同然の連行、「 使い捨て 」さながらの酷使、それに堪えかねて逃亡する朝鮮人……しかし、そうした「 強制連行 」論は、あまりにも戦時動員や労務事情と違っている。

「 教科書が教えない歴史 (4) 」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社
「 1939年(昭和14年)から1945年までの間に約70万人もの朝鮮人の人々が強制連行によって日本につれてこられたとされています。 」
中学校の教科書では上のように強制連行という言葉を使っています。そして、いやがる人に暴行を加え、手錠をかけて無理矢理連れて行く様子を描いています。それが6年間続いたと教えているのですが、本当でしょうか。

1938年(昭和13年)に、日本の国会で国家総動員法(国民徴用令は1939年)が成立しました。この法律によって、15歳から45歳までの男子と、16歳から25歳までの女子を、国家は徴用できるようになりました。「徴兵」が兵士になる義務であるように、「徴用」とは、戦時に一定の労働に従事する義務のことです。多くの若者が出征し労働力不足が深刻になり、その穴を埋めるためにやむなくこの法律を作ったのです。
徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたから、進んでこれに応じました。

さて当時、法的には「日本国民」であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用されたのでしょうか。台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施行されませんでした。その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を「 募集 」することを許可しました。それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するので、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。制限を取り払ったので、多くの朝鮮人労働者が日本にやってきました
けれども、1942年(昭和17年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「 官斡旋 」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。例えば、ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めています。そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。正規に住居移転の手続きをして、食糧の配給も受けています。
朝鮮にも「 徴用 」令が施行されたのは、1944年(昭和19年)になってからでした。けれども、総督府では、なるべく<自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰則の流用を控えました。そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。

1944年11月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。
「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された 」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)
鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。

これは教科書が描き出す「強制連行」のイメージとはまったく異なっています。
朝鮮人労働者内地導入は3段階、初期は「 募集 」 ⇒ 中期は「 官斡旋 」 ⇒ 後期から「 徴用 」

コリアン・反日左翼は「 募集 」の段階から“強制連行”だとしているが、当時朝鮮から日本内地へは渡航制限をしていたにもかかわらず出稼ぎ者が密航してまで来ていたのだ。したがって“強制連行”などしなくても労働者は確保できたのである。
「 岩波講座 世界歴史19 移動と移民 」 水野直樹・他 1999年 岩波書店
1930年代後半、西日本で『 密航 』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『 内地人を仮称 』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。

戦前の新聞記事見出しより
『 四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入 』福岡日日 1938/1/30
『 福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名 』 福岡日日 1938/3/3
『 また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕 』 福岡日日 1938/3/3
『 密航鮮人四十名西戸崎に上陸( 粕屋郡志賀島村 ) 』福岡日日 1938/3/29
『 密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される( 遠賀郡水巻村 ) 』 福岡日日 1938/5/2
『 鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法 』 神戸新聞 1938/5/21
『 鮮人十五名が小倉へ密航( 小倉市 ) 』 福岡日日 1938/7/24
『 密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる( 宗像郡津屋崎町 ) 』 福岡日日 1938/8/26  
『 ・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ 』 中国 1938/9/1
『 密航鮮人丗一名一網打尽に( 宗像郡神湊町 ) 』 福岡日日 1938/12/17
『 津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す( 宗像郡津屋崎町 ) 』 福岡日日 1938/12/20  
『 又も密航鮮人/怪船行方を晦ます 』 福岡日日 1938/12/21
『 九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す( 宗像郡岬村 ) 』 福岡日日 1939/2/3
『 密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手 』 呉日日 1939/2/12
『 半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中 』 中国日報 1939/2/13
『 密航者丗八名八幡で捕はる( 八幡市 ) 』 福岡日日 1939/5/18
『 密航半島人遠賀へ十九名( 遠賀郡岡垣村 ) 』 福岡日日 1939/6/5
『 密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗( 兵庫 ) 』 神戸又新日報 1939/6/20 夕 
『 密航青年を半島へ送還( 兵庫協和会 ) 』 大阪毎日 1939/6/20 神版  
『 全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に 』 中国 1939/11/30
『 手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる 』 大阪毎日 1940/1/14 夕  

「 日韓誤解の深淵 」 西岡力 1992年 亜紀書房
また、いわゆる「 強制連行 」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「 官斡旋 」による道外募集( いわゆる強制連行の一部とされている )では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている( くわしくは広瀬貞三「 『 官斡旋 』と土建労働者 」、『 朝鮮史研究会論文集 』第29集参照 )。

また、1944年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90年に日本で出版した手記( 『 朝鮮人徴用工の手記 』河合出版 )の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「 女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった 」と書いている。

先述のように戦争のために国家総動員法による徴用には法的強制力があった。それにより韓国人が強制連行されたが、同様に大多数の日本人も「 強制連行 」されたというのが歴史の真実なのである。
“強制連行”と言い換えて別の意味を持たせようとするのは、悪質な反日プロパガンダである。


戦争末期に深刻化してきた内地の労働者不足を補うための朝鮮人労働者内地移入では一部に行過ぎがあったようで、強制連行を主張する韓国人の証言を読むと、農作業中などに無理矢理トラックに乗せられて日本内地へ送り出された、というのがあるが、それらを実行したのは内地人ではなく朝鮮人なのである。
「 朝鮮新話 」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
( 灰色文字は注 )

( 著者の鎌田澤( 沢 )一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、農村振興運動の推進に大いに貢献し、朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、セマウル運動( 新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの )の指導のために何度も韓国に招かれている。 )

もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面( 村 )とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但( ただ )総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。



「 朝鮮人強制連行 」という言葉を造語し世に広めたのは、朴慶植著「 朝鮮人強制連行の記録 」という本であるといわれているが、この中で強制連行があった証拠として、上記の鎌田沢一郎著「 朝鮮新話 」が引用されているが、傍線を引いた朝鮮人が暴走して実行したという部分はなんと無視されているのだ。両書を見比べていただきたい。

【 隠蔽・捏造・改竄は朝鮮唯一の文化なのだ! 】

鎌田澤( 沢 )一郎著「 朝鮮新話 」320ページ 朴慶植著「 朝鮮人強制連行の記録 」1965年未来社発行70ページ


引用書籍のページ
歴史教科書の一部には強制連行の実態として、『 田畑で働いていた朝鮮人をかたっぱしからトラックに乗せ日本内地に連れてきた 』などと書いているが、総督府の方針を曲解暴走して人さらい同然の行動を起こしたのは朝鮮人自身であったことを明記すべきだ


このような非道な行動を起こす朝鮮人の性格を警告している文章があるので紹介しよう。
李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあったホーマー・ハルバートは著書「 朝鮮亡滅 」( 「 醜い韓国人 」朴泰赫 1993年 光文社より )の中で、『 朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである 』と述べている。

韓国人が強制連行を問題とするなら、なぜこれが取り上げられないのか?
「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社
しかし韓国人が日本に対してだけ怒りを向けるのも、論理的ではない。太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿海州に30万人以上の韓国人が住んでいた。ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に日本に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で12万人が死んだ。だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である