大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
神社参拝の強制


1935年総督府は学生に神社参拝を強制し、キリスト教の立場から神社参拝を拒否する学校の生徒、父兄に対して弾圧をおこなった。

日本人だけではなく朝鮮人にも信仰されていた朝鮮半島の神社
「 日韓共鳴ニ千年史 」 名越二荒之助 平成14年 明成社
( 灰色文字は注 )

日本人は海外に住みつくと、どこでも神社を創建してきました。 …本書では朝鮮の場合を問題としているので、それに限ってとりあげると、日本が朝鮮に神社を建てたのは、今から320年も前のことです。対馬領主の宗義真が、釜山に「 竜頭山神社 」を創建しました。日韓通商船の安全祈願のために、金刀比羅宮を奉斎したのが始まりです… これが海外拓殖神社の先達であり、当時の居留邦人の信仰の拠り所となりました。
( 中略 )
日韓併合とともに日本と朝鮮の交流は一層活発となり、朝鮮に移り住む日本人の数も急増した。移住した日本人たちは、心のより所として神社( 祠 )を建立したため、大正時代の末にはほぼ朝鮮の主要地域全てに神社が建立されることになった。朝鮮神職会発行『 朝鮮内神社一覧 』( 昭和12年7月現在 )によると、12年当時、朝鮮全土に創立された神社は56社、神祠は301、神職75人となっている… 興味深いのは氏子戸数で、昭和12年現在で、「 京城神社 」は日本人が約2万7千戸であるのに対して朝鮮人が約10万2千戸、「 大邱神社 」も日本人が約6千戸で、朝鮮人は1万6千戸となっている。大正五年創建の「 仁川神社 」でも日本の氏子3千戸に対して、朝鮮人氏子は1万4千戸である。朝鮮の氏子戸数の方がほぼ倍から4倍も多くなっている。昭和12年と言えば、「 内鮮一体 」の掛け声のもと神社参拝が奨励されていた南次郎総督の時代であり、且つ日本人と朝鮮人の人口比なども斟酌( しんしゃく )してこのデータを見る必要があるだろうが、当時、朝鮮の各神社が圧倒的に朝鮮の氏子によって支えられていたことは事実である。しかし、残念ながら戦後の混乱の中で、これら神社はすべて破壊されてしまった。( 江崎道朗 )
( 中略 )
内鮮融和の背景
ここに昭和16年5月10日に、「 財団法人・中央協和会 」から発行した『 内鮮一体随想録 』というパンフレットがあります。独協大学の中村燦教授から借りたものですが、この文章は香山光郎( 本名は李光洙、二・八独立宣言を執筆した作家 )が書いています。この本は内鮮一体を実現することの意義を朝鮮人の立場から縷々述べたものですが、日本人の「 やらせ 」だとたちまち反発されるかも知れません。それはともかく当時このような発想があったことは事実なのですから、貴重な歴史的資科として読んで下さい。

  〈日本人とは日本精神を所有し、且つこれを実践するものを指す。我が帝国( 日本のこと )は、昔もさうであつたが、今後一層血統国家であつてはならない。たまたま内鮮( 日本内地と朝鮮のこと )は血統に於ても、少くとも全人口の三分の一の混血率を持つてゐるさうで、一体となり一つの国民を形造るのにまことに好都合であることはいふまでもないが、大東亜共栄圏建設のためには、寧ろ血統が邪魔になる場合さへあり得る。況( ま )して八紘一宇の大理想を以つて、全人類を包容せんとするに於てをやである。しからば如何なるものが、皇民であり、日本人であるか。それは天皇を仰ぎ奉つて日本の肇国の理想たる八紘一宇を理想とする人民であるべきである。であるから朝鮮人が皇民たるには、皇道を学ばねばならない。皇道を学ばずして皇民たることは出来ない。言換へれば、朝鮮人はもともとから日本人であつた内地人と同じ気持で、天皇を仰ぎまつり、同じ気持で神社に参拝し、同じ気持で、銃を取らねばならない。その間毫厘( 毫釐?ゴウリ=ほんのわずかであること )の隙があつても一体ではないからである。〉

この文章を読んで、「 異民族をこうまで言わしめた日本の政策を憎む 」とか、「 筆者の李光洙は保身のために、赤い舌を出しながら書いた 」と、批判することは簡単です。しかしあの頃は、このような発想が自然に受けとめられていたのです。朝鮮人の中にも李光洙のように日本化することに努力したり、日本人以上に日本人になった朝鮮人も多かったのです。

キリスト教を大弾圧したのは李氏朝鮮のほうである。
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
たとえぱ、同じ宗教問題の南次郎総督の神社参詣強制と、大院君の異教徒虐殺とは、まったくその次元が違うとはいえ、その弾圧を比較するとどうなるだろうか。李朝は19世紀に入ってから、カソリック教徒への激しい弾圧を続けた。たとえぱ1801年の「 辛酉教獄 」で、清国人宜教師の周文謨をはじめ 300余名を処刑 した。1839年の「 己亥教獄 」では、アンベールら3人のフランス人宜教師をはじめ 200余人を処刑、1846年の「 丙午教獄 」では、金大建ら 20余人を処刑 した。1866年の「 丙寅邪獄 」では、ブルマーをはじめとする9人のフランス人宜教師と南鐘三ら 数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑 した。また1865年からの3年間、 約8000余人のカソリック教徒を処刑 という弾圧政策をとった。片岡次雄の『 李朝滅亡 』( 新潮社 )によれば、この後の6年間、漢城府では 1000人以上の力ソリック教徒が殺害され、全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監 された。

「 閔妃暗殺 」 角田房子 1988年 新潮社
大院君(高宗国王の父で摂政)は1866年初め、天主教( カトリック )大弾圧を決行するに至る。
(中略)
まず4人の外国人宣教師が刑場にひき出された。彼らは獄中で受けた拷問のため衰弱しきっていたが、流暢な朝鮮語で『 一般信徒に寛大な処置を 』と訴え、最後の祈りをささげて、従容と刑を受けた。その刑は、二台の牛車で体を左右に引き裂かれるむごたらしいものであった。
(中略)
弾圧はほぼ6ヶ月にわたり、国内のあらゆる地域で続けられた。大院君の腹心である捕盗大将李景夏が持ち前の残虐性を発揮し、5家族を一単位として連帯責任をとらせ、密告を奨励した。また、一家眷族、近親一族を殲滅する“絶種断族の刑”が実行されたのは、朝鮮王朝五百年を通じてこの時だけであったと伝えられている。“丙寅教難”と呼ばれるこの天主教大弾圧で、信者とその家族三万二千人のうち、八千人が殉教したという。この時期の大院君は捕盗大将李景夏を励まし、世界のキリスト教受難史の中でも最大の規模の一つといわれる大弾圧を徹底的に遂行した