大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
創氏改名と皇民化政策


1940年総督府は日本人に同化させようと、「 皇国臣民化 」の名のもとに朝鮮固有の姓名を廃止し、日本式名前に変えさせられる「 創氏改名 」の暴挙を行った。これは、天皇の臣民となることを強制するものである。

朝鮮は男系血族社会で、血統を誇りにし「 異姓養わず、同姓娶( めと )らず 」という儒教の教えを厳守していた。それゆえ姓が違うと養子にできないし同姓同士では結婚もできなかった。そのため父親の分からない子供や捨て子は悲惨なことになる。
民族時報 第849号(98.4.11)
論説 末世的な「 幼児売買 」の実態を見る

 未婚女性や極貧者が出産した赤ん坊が、産婦人科や助産婦、両親などを通してガム売りなどの「 同情請い 」組織に売られている。東亜日報( 三月二十七日付 )によれば、「 同情請い 」の組織員らは、買ってきた幼児を彼らの戸籍に実子のように載せたあと、成長してこれ以上は「 同情請い 」ができなくなるまで働きに出させる。金で買った赤ん坊を「 同情請い 」に育てて、物請いを強要する事例は次のとおりだ。

 @極貧者の夫婦から三百万ウォンで買った生後一年十か月の幼児を「 同情請い 」に出す( 地下鉄の乗客の同情心を引くために、六歳の子どもに誕生をすぎたばかりの幼児を背負わせてガムを売らせる。どちらも買ってきた子ども )。

 A地下鉄終電の午前零時までガムを売らせ、全部売るまで寝させない。地下鉄の連絡通路には、子どもの脱走を監視する屈強な男を配置する。子どもが登校するときにも、逃げ出さないように学校まで組織員がついてきて監視する。脱走して捕まると気絶するまで殴られる。

 BソウルのN産婦人科は、未婚女性が生んだ赤ん坊を一人当たり百万―三百万ウォンで「 同情請い 」組織に売った。妊娠八、九か月になる未婚女性が中絶手術にくると、赤ん坊を産ませた後に保育器で一か月ほど育て、( 「 同情請い 」組織などの )赤ん坊をほしがる人に売る。

 C「 同情請い 」組織員らは、病院などで買った赤ん坊を同じ組織員らに一日三万―五万ウォンで貸し出す。

 D数億の豪邸を持っている「 同情請い 」組織員らが、ガム売り児童の一人一人から一日の売り上げの五十万ウォンを奪い取る。

 このような実態を政府は知らなかったのか。歴代大統領はだれもが「 社会正義 」を守ると主張してきた。しかし歴代政権が行ってきたのは、「 海外養子縁組 」という名の組織的な幼児輸出を放置してきたことだ。文民大統領を自認した金泳三氏も、就任辞で「 正義が大河のように流れる社会をつくる 」と語ったが、やはり放置してきたのだ。この結果、金泳三政権が世界一流国家への仲間入りだと大騒ぎして加盟した経済協力開発機構( OECD )の国のなかで、わが国は「 世界第一位の幼児輸出国 」として、児童人権侵害国家のらく印を押されている。

 ひと言で言って末世だ。どうして儒教の国の韓国がこんな状況になってしまったのか。ソウルの都心で、堂々と幼児を売り買いする「 人間市場 」が開かれるほどに堕落したのか。金のためならば何をしても良いという、拝金主義がのさばる社会に未来があるのか。人間生命の番人である病院が、幼い生命を売り買いする「 奴隷商人 」に化ける背理。自分の子どものような幼児をガム売りに育てた後に、成長すれば廃棄処分する背理が日常化する社会は終末を早めるだけだ。

 キーセン観光を助長してでも外貨を稼がなければならないと騒いだ朴正煕ファッショ政権以後、価値観の転倒現象が甚だしくなった。政治指導者が国家権力を利用し、女性を外国の観光客に売り渡しても「 キーセン観光が愛国行為 」だと言い放った社会雰囲気のもとで、人身売買―幼児売買の芽が育ったのだ。

 そして全斗煥自身が民衆虐殺の国事犯であるにもかかわらず、社会を浄化させると言いながら「 三清教育隊 」を作り、何のかかわりもない前科者だけをいじめることによって、「 犯罪に対する不感症 」が増幅された。「 政治やくざ 」の全斗煥が路地裏のやくざをムチ打つ有様になっては、道徳不感症が深まらざるをえなかった。キーセンを横に抱いて酒宴をしていた朴正煕が腹心の銃で殺され、全斗煥・盧泰愚が巨額の秘密資金を作った罪で投獄された状況で、国民の価値観がしっかりと確立されるはずがない。「 一二・一二クーデター 」の主犯の盧泰愚は「 犯罪との戦争 」を繰り広げると言いながら、実際には公安政局を作って在野人士を弾圧した。

 このように指導層が進んで法を破り、金で権力を買う( 不正選挙 )風土のなかで、「 未婚女性の幼児売買・搾取 」という非人間的な犯罪が生まれたのだ。指導層が金力と権力を動員して政治的犯罪を起こしても許されるために、社会的な犯罪に対する道徳的審判の正当性が消えていく。国会議員が議事堂の中で博打( ばくち )をやっているために、博打犯罪がなくならない。このような意味で、「 未婚女性の幼児 」犯罪の間接的な責任は、政治家にもあるということができる。

 道徳政治を打ち出した新政権にとって、政治改革に劣らず重要なことは社会改革である。未婚女性が捨てた赤ん坊を売り買いし、虐待する犯罪の温床地帯をなくす運動が、必ず必要である。世紀末的な人身売買、中世紀のような児童搾取を放置して、二十一世紀を迎えることはできない。

 ( 全東秀記者 )


(毎日新聞-全文)2003年5月31日(土)21時44分
創氏改名を考える  「 <創氏改名>朝鮮の人たちが望んだ 」 麻生自民党政調会長

 自民党の麻生太郎政調会長は31日、東京都内で講演し、日韓併合時代に日本政府が朝鮮の人々を日本名に変えさせた「 創氏改名 」について、「 朝鮮の人たちが『 名字をくれ 』と言ったのがそもそもの始まりだ 」などと語った。創氏改名に関しては、96年、自民党の橋本龍太郎首相( 当時 )が「多くの韓国の方々の心を傷つけた 」と謝罪している。このため、国内外から批判を集める可能性がある。

 発言は、歴史認識に関する会場からの質問に答えたもの。麻生氏は「 当時、朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと、名前の所に『 金 』とか( 朝鮮名が )書いてあった。それを見た満州の人たちが『 朝鮮人だな 』と言って仕事がしにくかった。だから名字をくれ、と言ったのがそもそもの始まりだ 」と発言。さらに、「 ハングル文字は日本人が教えた。義務教育制度も日本がやった。正しいことは歴史的事実として認めた方がいい 」とも語った。

 創氏改名は、朝鮮の皇民化政策の一環として実施された。しかし、日本との経済交流の中では、日本名を名乗った方が都合が良かったなどの理由から、強要されたものではなかったとの主張も従来ある。

[毎日新聞5月31日] ( 2003-05-31-23:06 )【鬼木浩文】
( 引用開始 )

<韓国>麻生太郎氏の「 創氏改名 」発言に遺憾表明 外交通商省 (毎日新聞-全文)2003年6月1日(日)20時26分
 【ソウル澤田克己】韓国外交通商省報道官は1日、自民党の麻生太郎政調会長が「 創氏改名は朝鮮の人たちが望んで始まった 」という趣旨の発言をしたことについて、「 深い遺憾 」を表明する論評を発表した。
 報道官は「 韓日両国間の友好協力の雰囲気が高まり、なおかつ韓国大統領の訪日を前にした時点で、日本の与党・自民党の責任ある政治家が誤った歴史観に基づいて時代に逆行する発言をしたことは、失望させられ、嘆かわしいことだ 」と述べた。
 報道官はさらに「 わが国政府は、正しい歴史認識なしには真の韓日関係発展は難しいと改めて強調し、麻生政調会長の謝罪と思慮深い行動を求める 」と語った。
[毎日新聞6月1日] ( 2003-06-01-20:26 )

( 引用終了 )

創氏改名は、日本人風の氏に変更することを強制するものではなかった。
「 NOといえる教科書 」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
井沢
創氏改名をとっても、韓国人にとっては大屈辱で憤激の種だったわけですけれども、日本にしてみればある意味で「 親切 」なんです。日本人と同じ待遇にするということですからね。もし本当に差別したければ、名前ですぐ区別がつくほうがいい。日本人と韓国人は外見では区別がつかないのですから。

藤岡
そうですね。むしろ基本的には要求に応えて認めたという性格が強いんですね。

井沢
仕事の上での不利益や不便を避けるためや、他のいろいろな理由で、当時も、日本名を希望する人が、実際にいたわけですね。

藤岡
ですから、そういう声が強くなって、希望するなら日本人式に姓を名乗ってもいいよということを、日本政府が認めたのが、1940年( 昭和15年 )です。具体的には2月11日付「 朝鮮人氏名に関する件 」という通達でした。当初はけっして強制ではなかった。そればかりか当時の朝鮮総督だった南次郎も強制してはならないと訓令を発しているほどです。ところが地方の末端官僚が創氏改名者の数を増やそうと競争したために、事実上“強制”に近い形になった。これは愚かなことですよ。それとは対照的に、同じ日に同様の通達が出された台湾では、創氏改名者は2パーセントにとどまっています。

井沢
まあ役人が成績をあげるために強制するわけですよね。

藤岡
ですから強制に見えてしまうわけですが、法的な強制力があったわけではない。あえていえば、しつこい勧誘といったらいいでしょうか。しかも点数稼ぎ競争した地方の面長( 日本でいう村長 )、郡主は原則として朝鮮人だったんですから、日本人のせいばかりとはいえません。

井沢
そこのところを、まだ日本でも認識してない人が多い。

藤岡
朝鮮ではこの通達の半年後には、79パーセントの人が改名の届け出をしているわけですが、逆にいえば強制でなかった証拠に、改名していない人もたくさんいたわけです。もっとも有名なところで陸軍中将として戦犯とされた洪思翊という人がいます。また数人の道知事は朝鮮名のままで、何ら差別を受けていません。ですから、名前を奪ったという言い方、いわゆる侵奪という言い方、これはやはり歴史の事実に反することです


Link 議論は第一次資料である当該法令の規定や公文書の記述に拠って論じられなければならない。
  --->  
創氏改名は、強制力があったか / なかったか


創氏改名制度以前に、通称として日本名を名乗る朝鮮人が少なからずいた。また満州の朝鮮人は、中国人からの圧迫を、日本人の威を借りてかわす目的で創氏改名を要求した。
「 歴史民俗朝鮮漫談 」 今村鞆 昭和三年( 1928 ) 南山吟社
回顧二十年前( 今村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。 )

当時表面的ではあるが、鮮人が日本に同化の意を表はす為めに、吉田権次郎( 本名権丙吉 )、伊藤彬( 本名李胄彬 )、吉野柳之助( 本名柳学文 )といふ様に、日本人名を付ける事が流行した。その中伊藤( 統監と同姓 )といふ姓が一番多かつた。此等は民籍が出来て後にも、民籍へ日本名で登録されてあつた。或る時、会計が間違へて朝鮮人官吏へ、日本人額の旅費を払ひ渡し。それが問題になつて、爾来日本名を付することを禁止した。寺内総督の時( 1910〜1916年 )である。

「 在日朝鮮人の生活状態 」 大阪府学務部社会課 昭和九年( 1934 )
( 「 近代民衆の記録10 ―在日朝鮮人― 」 昭和53年 小沢有作編 新人物往来社より )
1.本調査は大阪市内に一戸を構へて居住する朝鮮人の生活並に生計状態を戸別に調査したものであつて、1万1835世帯の調査の結果を収録したものである。
1.本調査は社会事業主事長部英三を主任とし、臨時採用の調査員50名に朝鮮人通訳者20名を加へて昭和7年6月より同年12月末まで7ケ月に亘り実地調査を施行したものである。
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(世帯主の)内地名の有無
世帯主の中種々の便宜の為に本名の他に内地名を有つてゐる者は748人あつて総数の6.31%に当り、、残り93.69%に当る1万1088人は内地名を有つてゐない。

◇家族の内地名の有無
家族人員4万3786の中世帯主1万1835人を除いた3万1951人に就てみると、その中通称として内地名を有するものは1877人あつて5.87%に当り、有してゐないものは2万9959人あつて93.77%に当つてゐる。

「 韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実― 」 黄文雄 2002年 徳間書店
創氏改名のきっかけとなった理由のひとつに、満州へ移住した朝鮮人からの要求や嘆願があったことは、あまり知られていない。満州はもともと清国を開いた満州人の祖国であり、清朝時代には漢人( 中国人 )の入植が禁じられていた。19世紀未には入植が解禁されたが、その少し前から満鮮国境にいた朝鮮農民は、じょじょに入植をはじめていた。それがもっとも多かったのは間島地方( 現在の吉林省延辺朝鮮族自治州 )である。入植解禁前に漢人はすでに満州に入って盗伐や盗墾を行っていたが、朝鮮人は盗伐者たちに雇われて働き、だんだんと定着農民となっていった。朝鮮人の多くが水田、漢人の多くは旱田耕作という棲み分けはあったが、しばしば衝突もあった。もっとも大きな衝突は「 万宝山事件 」( 1931年 )であり、それをきっかけに韓国人はソウルをはじめとする大都市の支那人へ報復虐殺を行った。

日韓合邦当時、満州には約150万の朝鮮人がいた。彼らは絶えず漢人から圧迫され、搾取され、農奴に近い生活を強いられていた。やがて朝鮮人狩りが起こる。朝鮮人をもっとも嫌ったの張作霖で、「 満州には朝鮮人をひとりも入れさせない 」と息巻いていたほどである。この朝鮮人迫害は、漢人・韓人たちの満州資源争奪の争いを助長した。このような歴史背景下で、朝鮮人にとって唯一の救いは、当時五強のひとつであった大日本帝国の臣民となることだった。唯一、中国人に対抗できる切り札であったため、朝鮮人たちはすすんで創氏改名を強く要求したのである。日本こそが、朝鮮人にとって合邦国家の民族の誇りであり、中国人の跋扈に対抗できるただひとつの勢力だったのだ。だから満州事変( 1931年 )以後、関東軍( 満州に駐屯した日本陸軍部隊 )が関東州( 遼東半島にあった日本の租借地 )から北上してきたのをもっとも喜んだのは朝鮮人だった。彼らはいたるところで日章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、日本人として集まって日本国民としての誇りと意識を強くもっていた。日本国民になれば、漢人にいじめられることもない。満州事変以後は、農民だけでなく、反日ゲリラもつぎつぎと武器を棄て日本側へと転向したのだ。

満州国建国当初、協和会に参加していた朝鮮人名士のひとり趙悦は、「 民族協和運動の進展と朝鮮民族、五族協和の理想実現 」という一文を、「 大満蒙新聞 」と「 全満朝鮮人民連合会会報 」( 16号、1933年8月 )に載せた。そのなかで「 在満州の各民族は支那国民党の国家主義的扇動によって、激しく対立し、各民族の軋轢( あつれき )は日増しに増大している。ことに朝鮮民族に対する圧迫や迫害は言語道断であった 」と指摘している。在満の150万人の朝鮮人にとって、「 創氏改名 」は迫害を避ける唯一の方法であり、ワラをもつかむ心情だったことだろう。よって、皇軍( 関東軍 )の北満への出動は、在満朝鮮人にとって積極的な救済保護であり、兵匪、満州軍閥の圧迫からの解放だと見るべきだ。満州事変後、朝鮮人の間で、日本国籍を有し「 日本帝国の臣民 」として、その権利と義務を果たすべきだとの議論が起こったという事実もある。そして、「 帝国臣民 」になりたいという声が高くなり、漢人の差別に逆襲するために「 創氏改名 」を強く要求した。

しかし、「 創氏改名 」を遂げた過激な一部の朝鮮人が、漢人( 支那人 )ヘの報復のため満州で跋扈したことから、日本人は「 日本鬼子 」、朝鮮人は「 二鬼子 」と呼ばれ、嫌韓感情が高まっていった。在満朝鮮人の「 帝国臣民 」としての法的地位要求に対して、当時の朝鮮総督府外事課長の田中武男は、次のような警告をしている。「 在満鮮人が、日本国民たる特権のみをふりかざして驕慢な態度に出、自重を欠き謙譲を失い、不遜暴慢をもって本来の満州国人やその他との間に紛争を引き起こし、ためにその非難忌避の対象となること甚だ多き 」韓国人は一度優越意識に浸ると、その自信はどこまでも増長するようだ。

朝鮮総督府の発行した創氏改名の解説書。日本名への強制の意図はなかったことが分かる。
「 氏制度の解説 ―氏とは何か氏は如何にして定めるか― 」 昭和15年( 1940 ) 朝鮮総督府法務局発行
◇第二 氏制度創設の理由

1、半島人の要望
内鮮人( 内地人と朝鮮人 )は歴史的に論証されておるがごとく同祖同根の血縁を有するのですから、精神も形も全く一つに融け合はねばならぬ運命を負ふているのです。今現に本来の一つの姿に還らんとしております。そのような時期に際して、半島人の一部に法律上内地人式に氏を称へ得るやうに途を拓いてもらひたいという要望が起こって来たのです。つまり通称として内地人式の氏名を称へておったのでは肝心な場合には名乗れないから、何処へ出ても堂々と内地人式の氏名が称へられるようにしてもらひたいという訳です。そのような要望は最初支那その他外国及び内地に存在している半島人から起こったのですが、それはもっとも至極な要望といふべきです。帝国臣民が帝国臣民にふさはしい氏名を名乗りたいというのですから、これを拒否する理由は毛頭ありません。‥‥( 中略 )‥‥半島人が内地人式の氏を称え得るやうにするが為には、朝鮮には元来氏そのものの制度がないのですから、どうしても氏の制度を定めねばならないのです。

◇第三 氏の制度が布( し )かれても姓は存続する
氏と姓の性質が全然異なることは前に述べた通りであります。判りよくいへば姓の外に新たに氏の制度が布かれただけの事で、姓の制度には全然影響がありません。つまり姓がなくなる事もなければ姓が変はる事もありません。姓の制度が氏の制度に代はるだとか、氏の創設は改姓だといふものは、何も知らない人のいふ事です。

◇第四 内地人式の氏を設けることが強制されているのではない
このたび氏の制度が布かれたのですから何人も必ず氏を設けねばなりませんが、( もっとも、後に説明するやうに従来の姓を氏に用ふる人は放って置いてよい( 役所に出向いて手続きしなくてもよいということ) )必ず内地人式の氏を設けねばばらないことはありません。後に述べるやうな制限外では各自の好む所に従って氏を定め得るのです。内地人式の氏を設けるやうに、強制されているのだと解している人があれば、それは誤解です

氏名と姓名の違いを理解しましょう。

日本人の名前=氏+名、 朝鮮人の名前=姓+名。

朝鮮人の『 姓 』は男親系統の血族集団を示すものなので生涯不変の苗字であり、朝鮮人一家は夫婦別姓・母子別姓であった。そこで、家族共通の苗字『 氏 』を名乗るように、新たに氏を創ったことが『 創氏 』で改姓・廃姓ではない。その証拠に戸籍簿には「 姓及本貫 」の記載欄もある。つまり、朝鮮人の名前=(姓)+氏+名、となったのだ。よって、韓国人の主張する『 創氏改名で名前を奪われた 』というのはデタラメである。

現在では氏名と姓名は同義語になっているが本来区別されたものである。
従来の朝鮮の姓をそのまま氏にも用いることを「 法定創氏 」といい( 昌徳宮李王垠殿下・朴春琴衆議院議員・洪思翊陸軍中将など )、日本人式の氏にした場合を「 設定創氏 」という。
「 改名 」制度とは日本人式の氏をつけた場合、従来の下の名が新しい氏と釣り合わない場合に、改名もできるようにした制度で、任意であったので改名手数料をとられた。( 例、作家李光洙の場合、→香山光洙→香山光郎 )

在日コリアン1世の創氏改名・日本語使用・神社参拝の実施状況。創氏改名をしたというのは、日本人風の氏を選んだ「 設定創氏 」と思われる。
「 アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書- 」
1988年 在日本大韓民国青年会中央本部刊
終戦以前に渡日した在日1世( ただし、渡日時に満12歳未満の者は除く )1106名のアンケート調査結果から

平均渡日年齢19.1才
それぞれの項目とも「 しなかった 」という者が大なり小なり存在することから、役所・学校による強制は、韓国人の主張するような酷いものは例外的なものではなかったかと思われる。

「 姓氏 」差別をした李氏朝鮮時代
「 立ち直れない韓国 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は、「 創氏改名 」政策を行ない、いかにも朝鮮人が生命以上に大切にしている先祖代々の「 姓氏 」を奪ったと、朝鮮近現代史家は厳しく批判する。「 創氏改名 」には、絶対反対した人びとが存在したことも事実であろう。しかし、反対した人びとは、なぜ「 姓氏 」差別をした李朝史を直視しないのであろう。
朝鮮半島では有史以来、李朝末期に至るまで、最下級の「 賎民 」に姓氏をつけることさえ許さなかった。そのため白丁( 被差別民 )の子孫たちは、李朝末期、あるいは内憂外患の社会混乱期に乗じて適当な姓氏をつけ、あるいは祖先の墓に従一品等の碑を建てたり、詞堂、祭室までつくる者も出たりしたのだ。しかし、新しい姓氏をつける場合でも、馬脚が露われるのを恐れて、なるべく分家、分流の多い金海金氏とか、全州李氏などを利用したといわれる。
姓氏を持たなかった者は、白丁奴( パクジョンノム )や火賊奴( ファジョクノム )と呼ぱれ、虐待、蔑視された。
韓国人は族譜を大事にし祖先を敬うが、肝心の名前は忘れられている (笑 )

「 逆説の日本史1 古代黎明編 」 井沢元彦 1993年 小学館
なぜ韓国人の姓は『 金 』や『 李 』のように全部『 中国風 』なのだろうか?つまり日本の『 山本 』や『 田中 』のように、『 山の本 』や『 田んぼの中 』といったような、土着の言語を基調にした姓がないのか? 実はあったのだ。

  『 韓国も昔は今と違って中国式の姓名ではなかったようで、これは中国の記録や日本の記録を見るとわかります 』
『 どんな名ですか 』
『 日本に来た技術者はといえば、画部・因斬羅我( えかきべ・いすらが )とか医博士・奈率王有りょう陀( くすし・なりつおうゆうりょうだ )とかいった名前でしたな。また有名な医師に、允恭( いんぎょう )天皇3年(414年)に、天皇の病を癒すために新羅から招聘された金波鎮漢記武( こんぱちんかんきむ )がいます 』
『 フーム。すると韓国も中国式の朴( パク )さんや金( キム )さんじゃなかったんですか 』
( 「 日本人とは何か 」 山本七平 PHP 研究所より )

今では、山本氏が実例として挙げているような名はすべて姿を消し、ほとんどが中国風の一字姓になっている。 どうしてなのか? 合理的に考えれば答えは一つしかない。古代のある時期に、韓国人は伝統の姓をすべて捨てて『 中国式 』に改めたということだろう。ところが、このことは韓国の歴史書に記録されていない。そこで、私は韓国の知識人や学者に会うたびに、それはいつあったことなのかと質問する。ところが、まともに答えてもらったことがない。それどころか、『 そんなことは有り得ない 』と ‥‥(中略)‥‥

日本は白村江の戦で、唐・新羅連合軍に破れるのだが、そのとき日本に亡命した百済人の名を見れば、それがわかる。鬼室集斯( きしつしゅうし )、憶礼福留( おくらいふくる )、木素貴子( もくそきし )、各那晋首( かくなしんす )……金さん、鄭さんは一人もいない。

中国式に創氏改名
「 立ち直れない韓国 」 黄文雄 1998年 光文社
李光洙は創氏改名に関しても、「 我々在来の姓名は、支那を崇拝していた祖先の遺物 」であると指摘している。古代朝鮮人の名は、永郎、述郎、初郎、伊宗、黒歯が多かった。昔の地名も徐羅伐、達久火、斉次巴衣であった。そうした地名や人名を支那風に統一したのはわずか600〜700年前のことだと、氏は喝破している。
そもそも600年前には、朝鮮人はまだハングルを創っていなかったので、漢字漢文ばかりを借用したことはやむをえないだろう。だから、伝統的な人名と地名をことごとく絶やして、支那風の人名と地名をそっくり借用し、人名でも地名でも、いったい支那なのか、朝鮮なのかわからなくなってしまうのだ。

モンゴル式に創氏改名
「 韓国へ、怒りと悲しみ 」 豊田有恒 1996年 文藝春秋社
モンゴル人が建てた元朝は、高麗を支配下において、あれこれと干渉してきた。司令官を駐屯させて、王家の世子( 世継ぎの王子 )を人質として、元に差し出させた。この世子がのちの忠烈王である。忠烈王の帰国にあたって元の世祖フビライは娘と結婚させた。つまり、高麗王は、元の大汗( 皇帝 )の婿となったわけである。以後、歴代の王は、元の支配のもとに、有名無実となり、その後の王は、蒙古名を名乗ることとなった。忠宣王はイジリブカ、忠肅王はアラトトシリ、忠惠王はプダシリというふうに、改名させられてしまった。また、モンゴル風に、弁髪を強いられ、衣服も蒙古風にさせられたという。
こういう強制は、のちの清朝の時にも行なわれている。韓半島の歴代王朝が、臣属している中国そのものが、異民族に蹂躙されてしまう。そうなると、これまで、中国の王朝の意を迎えるため、すぺてに中国式に徹底してやってきたことが、無に帰してしまうのである。韓民族は、パニックに陥ってしまう。胡服弁髪を強制されることになり、中国に義理立てしてきた価値観が、蒙古なり、満州なり、そして日本なりという、これまで、韓民族が蔑視してきた民族のものに、切り換えられてしまう歴史である。創氏改名は、日本人の専売特許ではなかった。歴史上、何度も、そういう目に遭ってきた民族なのである

問題です。次の人物の業績を答えなさい。金顕中、金成柱、金ユーラ、安応七、岩田周策、木下昌蔵、金光淳( かねみつじゅん )、権禧老  ……初めて見る名前が多いと思うが、実は朝鮮近現代の有名人の本名または別名なのである。
( 解答は以下を読んでください )

 自分たちの名前に誇りを持つ韓国人は、創氏改名で名前を無理矢理変えさせられたと怒り非難するが、それとは無関係に複数の名前を使い分ける民族の英雄や愛国者を彼らはどう思っているのだろうか。更に不可解なのは、たかだか100年前の王妃の実名がよく分らないというのである。
「 わたしの自叙伝 -日本へのメッセージ- 」 金大中著 構成・訳NHK取材班 1995年 日本放送出版協会
( 灰色文字は注 )

木浦商業の二年生の時には忘れもしないあの「 創氏改名 」がありました。朝鮮人( 訳文のママ )にとって、「 姓 」とは生命にかわるほど大切なものなのに、それを朝鮮総督府の命令により強制的に変えさせられたのです。

日本では姓を変えるのは珍しいことではありません。女性の場合は結婚すれば変わりますし、男の場合でも婿養子に行けば変わります。朝鮮人の場合は全然違います。朝鮮人の「 姓 」は先祖代々受け継いできた神聖なものなのです。私の家は昔から荷衣島( 金大中氏出身地 )にいるのではなく、本土から移住してきたようですが、そういう家やその属する「 族 」の歴史は、その一族の「 族譜 」に書かれて、どの家でも大切に保管しています。( 中略 )

その族譜に記された私の名前は「 大中 」ではなく「 顕中 」なのです。戸籍は「 金大中 」として届けてありますが、「 族譜 」の上では「 金顕中 」です。朝鮮人の場合、正式には五行思想に基づいた名前を決めなければなりません。そのために、「 族譜 」に記される正式の名前と戸籍に届ける名前が違う場合が時々あるのです。五行思想とは「 宇宙の万物は木火土金水の五要素から成る 」との古代中国の考え方です。朝鮮人の名前の一字はこの五つの要素のいずれかが含まれていることが必要でした。私の「 顕 」は火を表しています。

五行思想の「 木は火を生み、火は土になる 」との考えから、親が「 木 」なら、子供は「 火 」でなければならない。その孫は「 土 」でなければならない、と定められています。その考えに則って、私の父は雲「 植 」つまり「 木 」ですので、私は先にも申しましたように「 顕 」中で火、私の長男は「 培 」で土といった具合です。長男の名前の弘一も戸籍上の名で族譜の上の名前ではないのです。

私の一族の金海金氏は、北は新義州( 中国国境付近 )から西は荷衣島まで散らばっています。顔も見たことのない同士ですが、名前を聞けば「 あなたは火だから、私の伯父にあたる 」と分る。このように姓は先祖からいただいた。朝鮮人が生きていく上で大切なものなのに、それを日本の総督府は一枚の通達だけで改めさせたのです。( 創氏は新たに「 氏 」が追加されたということで、「 本貫 」の「 金海金 」等は従来通り戸籍に記されており改名は任意であった。 )

ときどき日本人から創氏改名の時、どういう名前にしたのですか、と聞かれます。相手は軽い気持ちで聞くのでしょうが、私はそのとき「 お答えしたくない 」と、いつも返事してきました。あまりにも屈辱を感じるからです。朝鮮人にとって姓とはそういうものなのです。( こののち学生時代の日本人恩師に再会した時「 先生、豊田です 」と日本語で挨拶したことが反金大中派に暴露された。( 反日感情の強い韓国では、こんなことでもイメージダウンになる )

「 閔妃暗殺 」 角田房子 1988年 新潮社
( 灰色文字は注 )

「 閔妃 」( びんひ=ミンビ )とは、当然ながら王妃となった後の名で、明成皇后とは死後に贈られた称号である。私は彼女のフルネームを探したが、簡単にわかると思ったその名前はついにわからずじまいであった。資料はどれも「 閔致禄( 閔妃の実父 )女 」と書いてあるだけで、韓国の学者、研究者にたずねても誰も知らなかった。「 閔妃のファースト・ネームは? 」という私の質問は、韓国ではおかしなものであったらしい。ソウル滞在中の私は、作家鄭飛石の長篇小説「 閔妃 」に、この王妃の名前を「 紫英 」と書いてある――と教えられた。ハングル文字だけで書かれた小説なので私には全く読めないが、この名前は著者の創作であろうと思っていた。だが、「 いや、私が勝手につけた名前ではありません 」と鄭飛石は語った。「 今は故人となった歴史研究家が『 これが閔妃の名前だ 』と教えてくれたのが頭に残っていて、小説を書くときそのまま使ったのです。さあ、根拠は知りませんが、私はこれを本名と信じております 」 「 紫英 」とはいかにも閔妃にふさわしい美しい名前だが、資料の裏づけなしに私がこれを本名として使うわけにはいかない。

朝鮮では、現代の韓国も同じだが、男も女も生まれた時に、父系によってさかのぼる氏族の一員として位置づけられ、女は結婚しても父の姓のままで生涯変更されることはない。この「 父系血族社会 」では王妃も例外ではなく、「 金妃 」「 韓妃 」というように実父の姓だけで記録され、名前は伝わらない。これが他の国の有名な女性なら、閔妃より古い時代でも、頼朝の妻は政子、ルイ16世の妃はマリー・アントワネットと、調べるまでもなく名前がわかるのだが、韓国ではそうはいかない。李氏朝鮮王朝の歴史を見ると、「 閔妃 」と呼ばれた王妃は4人である。前述の二人と本篇の主人公である高宗の妃、さらにその実子の第27代の王純宗の妃も、閔氏一族の出である。しかしいま「 閔妃 」といえば、波瀾万丈の生涯を送って非業の死を遂げた高宗の妃だけを指す呼ぴ名となっている。

「 創氏改名 」 宮田節子、金英達、梁泰昊 1992年 明石書店
( 灰色文字は注 )

宮田
 …特に創氏をする場合に、届出しないと、戸主の姓をもって氏となすという事ですから、当然奥さんなんか全部姓と違う氏がついてしまうわけですね。私が韓国からいらした先生方に何回もそのことをうかがっても、いや、女房なんかそういうふうに呼ばないから、そんなもの関係ないというわけですよ。
( 中略 )
宮田
朝鮮では、女性の場合はほとんど本名で呼ばないから。

だから、関係ないということですね。
宮田
誰々の娘だとか誰々のお母さんだとかいう表現をするのでしょう。

韓国から来ている先生に聞いたのですが、韓国のテレビドラマでも、自分の母親宛てに本名で書いた手紙が来た時に、母親がこんな人知らんと、手紙を郵便局に返したというのです。後で考えたら、そう言えば、あれは自分の名前だったというようなドラマがあるそうなんです。だから、韓国では今でもそういう状況もありうる。
宮田
それから、宅号で呼ぶといいますよね。どこの出身だとかね。だから、創氏改名など全然関係ないというわけですね。日本が戸籍を勝手にどういじろうと、我々は我々なんだから、やれというのだったら、やっておきましょうというふうなものがあったのではないでしょうか。

( 朝鮮の家系図である族譜では女は軽視されていて、族譜に載るのは人の妻になった場合だけ、それも「 ○家(実家の姓)の女 」と名無しで記載されるに過ぎない。これは李王家の場合も同じで、閔妃の実名が不明になったのはこういった事情による。)

「 北朝鮮50年史 -金日成王朝の夢と現実- 」 金学俊著 李英・訳 1997年 朝日新聞社
金日成は1912年4月15日に平壌近郊の平安南道大同郡高平面南里、現在の万景台の農家で生まれた。12年は大韓帝国が滅亡して2年後のことである。父親の金亨稷は1894年に生まれた。金日成が生まれた時18歳。全州金氏の流れにに属し、祖先をたどれば全羅道にいたる。金日成の曽祖父は李朝末期の大院君の大同江での米国商船シャーマン号事件で反米運動を指導し、祖父も抗日運動の先頭に立ったというのがこの数十年にわたる北朝鮮の一貫した主張だが、この主張はどんな資料によっても裏付けられていない。

金日成の母は康磐石といった。夫より2歳年上で1892年に生まれた。1909年、金亨稷は15歳のときに17歳の康磐石と結婚し、長男・金成柱を生んだ。後の金日成である。 …金日成の母方も抗日独立運動の指導的家柄だと北朝鮮は主張する。北朝鮮の官製史学は、近代朝鮮民族の反帝・反米・反日闘争のすべてが金日成一族から開始されたという歴史の歪曲に専念し、金日成の革命的家族化を試みてきたからである。
( 中略 )
ここで金日成という名前について考えてみよう。第三節でみたように、彼の本名は成柱である。これについては北朝鮮も公式に認めている。北朝鮮の官製伝記作家によれば、20年代後半にある同志が、『 彼( 金成柱 )はわが民族の星とならん 』と激励し、金一星( キムイルソン )という名を与えた。ところが他の同志が『 星とはなんだ、太陽となれ 』と述べ、金日成( キムイルソン )という名を付けたという。「 太陽となれ 」は漢字にあてれば「 日成 」となる。

一方では、成柱ではなく聖柱( ソンジュ・成も聖もハングル表記は同じ )だったと主張する学者は、前記のエピソードを全て捏造だという。1910年代以降、満州とシベリア一帯で神出鬼没の活躍をみせた抗日闘士がいた。彼は「 金日成将軍 」と呼ばれ、その名声は朝鮮国内にまでとどろいていたという。金聖柱は遊撃隊の活躍をはじめると、この名前を盗用し、更にそれらしく脚色するために、もとの名は金成柱だったと偽装したというのである。
( 中略 )
金日成はこのころ、遊撃隊員の一人でともに極東ロシアへ脱出してきた金貞淑( キムジョンスク )( 後に、金正淑( キムジョンスク ) )と結婚している。金貞淑は七歳年下で咸鏡北道会寧の貧農の家に生まれた。幼いころに孤児となり、長じて金日成遊撃隊に参加し、食事から裁縫、洗濯などの下働きを引き受けた。金日成の命を助けてこともあった。彼女は42年2月16日ウラジオストック近くのボロシルロプ野営、一名「 B野営 」で長男を生んだ。金正日である。彼はソ連名でユーラと名付けられた。金貞淑は1944年に二番目の息子を生んだ。ソ連名でシューラと名付けられたが、47年に平壌で水遊びをしていて溺死した。

「 金正日の北朝鮮 」 徐大粛著 安倍誠・有田伸訳 1999年 岩波ブックレット
金正日は、金日成と彼の本妻金貞淑との間に産まれた二男一女の長男として、1942年2月16日誕生した。金日成は、1941年3月、日本の討伐軍に追われて満州からソ連沿海州へと向かい、祖国が解放される1945年までソ連に留まっていたのであるが、金正日も、ソ連沿海州のハバロフスク南方にあるブヤーツクという森林地帯で生まれている。北朝鮮では、金正日は朝鮮の白頭山中にある遊撃隊の密営で産まれたとされているが、これは事実ではない。金日成と金貞淑は、1942年当時、白頭山にではなく沿海州にいたのであり、また、金正日をソ連で出産したため、彼の名前を「 ユーラ 」と名づけたのである。金正日は、北朝鮮に戻り、中学校に通うようになるまで、「 金ユーラ 」として通っていた。また、彼の弟もソ連で生まれ、「 シューラ 」と名づけられた。シューラは、平壌に戻った後、ソ連人将校の息子と水遊びをしていて溺死している。

「 安重根と伊藤博文 」 中野泰男 平成八年 恒文社
( 灰色文字は注 )

( 伊藤博文暗殺事件の )第1回公判・2月7日午前9時に開廷した法廷は… 真鍋裁判官はまず4人の被告に『 氏名年齢身分職業住所本籍地および出生地 』を尋ね、安重根( アン・ジュングン )は『 氏名は安応七( アン・ウンチル )、年齢は31歳、身分は――、職業は無職、住所は不定( ウラジオストック付近 )、本籍地は韓国平安道鎮南浦、出生地は黄海道海州 』と答え… 「 安応七 」の名についての判官の質問に対して、『 本国では安重根といっていましたが、今から3年前に安応七と名乗り、近頃では、もっぱら安応七といっています 』と答えた。

◇2月21日、高宗( 国王 )は世子( 世継ぎの王子 )とともにロシア公使館に庇護を求めた。親ロ派のクーデターによって金弘集は倒れ… 親日政権から親ロ政権へと流れが変わる中で… 閔一族の復権を背にして閔泳駿が安家の財産を狙って圧迫を加えてきた。安一族は対抗することができず、フランス人の天主教( カトリック )教会に隠れて数ヵ月を過ごし、フランス人の助けを受けて、閔氏との事件を無事に解決することができた。この天主教教会で数ヵ月を過ごした安重根は、ウィレム神父の説教を聞き、バイブル( 聖書 )を読み始め、真理であると感じて入信して洗礼を受け、イエスの福音を伝道することになった。 …天主教の信者が清渓洞の住民たちに広がる中で… 1897年1月10日に安父子を含めて36人が洗礼をうけた。父泰勲はペトロ、安重根はトーマ( 多黙 )の洗礼名を受けた。

「 韓国人が身勝手に見える理由 」 中村欽哉 1996年 三交社
( 灰色文字は注 )

韓国人の在日韓国人( 韓国では在日僑胞と呼ぶ )差別を取りあげてみよう。‥‥( 中略 )‥‥次に多いのは、「 日本で通名として日本名を名乗り、民族名を隠して暮らすとは、民族の誇りを捨てた奴らだ。韓国人としては認めがたい 」との非難である。韓国人は歴史的にみても、「 命よりも名前を汚すことを恐れた 」民族といわれているように、親や一族から与えられた姓名は大切にしてきた。たとえば、「 在日韓国人が日本名を名乗っていることだね。これは誇り高い本国の人たちには許せない行為なんだよ。日本にいるときは日本人になりすましているくせに、韓国にくると韓国人であると、使い分けをしているのがなんともたまらなく嫌なんだ。その点アメリカに行ったチェーミ・キョッポ( 在美僑胞、美は米国の略称 )は、チャーリー・キムとかベティー・パクとか苗字( 姓の名 )は保っているからまだ許せる 」というレポートや…

しかし、と私は思う。明治時代に日本に亡命してきた朝鮮人は、ほとんどが日本式通名をもち、日本名を使っていた。日本を頼ってクーデターを起こし( 甲申政変 )、近代化を成しとげようとして失敗した金玉均は、亡命中は岩田周策と名乗っていた。金玉均はまた岩田三平、岩田三和という名前でも署名している。三平、三和の三は、朝鮮、中国、日本の三国を意味し、東洋三国の平和を祈念していたからだという。1932年( 昭和7年 )1月8日、東京の桜田門で昭和天皇の馬車に爆弾を投げつけた独立運動家の李奉昌( 韓国では義士とされ尊敬を受けている )は、日本で働いていたときは木下昌蔵と名乗っていた。日本人になりすましていたほうが、待遇がよかったためだという。作家の金達寿だって、金光淳という日本名をもっていた。金達寿によれば、朝鮮語では「 キムグワンスン 」、日本語では「 かねみつじゅん 」、どちらにも使えるようにつけたという。金達寿はその他にも大沢達雄、金山忠太郎という通称を使用していた。もちろん朝鮮総督府が、朝鮮人に日本式な氏名に変えることを強制した「 創氏改名 」以前の話である。

( 他にも金弘集内閣の内部( 内務 )大臣であった朴泳孝は山崎永春を名乗り、皇太子( のちの昭和天皇 )暗殺の爆弾テロ未遂で無期刑を受けた朴烈の本名は朴準植であった。 )

「 韓国ナマ中継 」 鈴木宙明 2002年 講談社
( 灰色文字は注 )

( 「 金嬉老事件 」:1968年、日頃から対立していた暴力団員2名を射殺した金嬉老は、静岡県寸又峡の温泉旅館に人質を取って立てこもり、殺人の深層には民族差別があると自己弁護しマスコミに訴えた。金嬉老は日本社会の被害者だと主張する文化人グループが裁判を支援したが、1975年最高裁で無期懲役が確定。1999年韓国渡航を条件に刑務所を仮釈放された。韓国では「 民族差別に抗した英雄 」ということで凱旋帰国であった。 )
先日の金嬉老氏の仮釈放と韓国への出国に関して、どれほど日本の報道やワイドショーが取上げたか知りませんが、韓国でのマスコミ報道はかなりの量でした。わたしが関心を持ったのは、金の姓で馴染んでいた(?)嬉老氏が、今回のスポットライトの中では、權嬉老と「 權( クォン ) 」の姓で登場したことです( 權は権の旧字、権老と表記しているサイトも多い )。「 なぜだ? 」です。あの日帝時代の創氏改名にさかのぼってヒントを探すまでもなく、この国の人が二つの姓の間を行き来するということへの戸惑いです。己の本源的アイデンティティにかかわる大問題だと思えるのに、です。

11日放送の韓国MBSのスペシャル番組「 權嬉老 」で、こまめに取材した関係者へのインタビューを見ていて思わず名前のメモをたくさん取りました。
釜山にいる叔母( 父の妹 )の姓名が、權ソソン( 87歳 )
昨年11月に亡くなった母親の名は、朴得淑
本人の名が、金嬉老( 71歳 )のちに權嬉老
静岡県掛川市に住む妹の名は、權豊子( 68歳 )
同じく弟の名は、金岡やすお( 60歳 )と金岡くにお( 55歳 )
亡き母のお骨が納められたのは、「 金岡家の墓 」でした。

ここから私なりの仮説を立てました( ご参考までに、朝鮮民族の夫婦は、結婚後も妻は婚前の姓をそのまま姓とし、二人の間の子供は男女ともに父の姓を名乗ります )。

1.弟さんたちは帰化して、金さんから金岡さんになったのであろう。
2.亡母が入った金岡家のお墓は、夫( 金のちに金岡 )の墓であろう。
3.ヒロと豊子が今名乗っている權は、生みの父の姓であろう。
4.亡母は初め權さんと結婚し男女二児、その後、金さんと再婚し下の男子二児をもうけたのであろう。
5.母の再婚後、ヒロはなんらかの理由で( 事件当時も )、新しい父の姓「 金 」を使っていたのであろう。
6.ヒロは入所中いつからか本来の姓である「 權 」( 実父の姓 )に戻したのであろう。

こんな仮説を周りの人に問いかけてみたりしました( 中略 )正解は、読み過ごしていた朝鮮日報クリッピングの中にありました。「 当局はヒロの入国と住民登録証交付にあたり、ヒロの生父である權命述の姓と本籍の使用を認めた。3歳で父を亡くし、5歳の時の母の再婚により義父の姓になったヒロは66年ぶりに生父の姓に戻れたのだ 」という解説記事でした。( '99.9.14 )
( 金嬉老は、この他に近藤安弘、清水安弘、金岡安弘など七つの名前を持っていた。 )

意外と新しい族譜の歴史。ちなみに族譜には「 氏 」の記載はなく、総督府が族譜を焚書したこともない。「 創氏改名 」を行ったからといって朝鮮の血族制度の否定につながるものではないのである。
「 朝鮮の歴史と文化 」 姜在彦 1993年 明石書店
「 族譜 」の話

党争と関連して、日本人にはなかなか理解しにくいようですけれども、「 族譜 」にふれておきましょう。この族譜は「 本貫 」と深いかかわりがあります。朝鮮では姓が一般化したのは高麗時代だといわれていますが、それに伴って同じ姓を名乗る者のなかにも異族のものが交じってきます。そこで姓を同じくするばかりでなく、本貫をも同じくする同姓同本のものだけを血縁集団として、同姓同本の異族と区別する必要が生じたのです。たとえば現在最も人口の多い姓は金氏ですが、その本貫はいろいろ分かれていて、たとえば本貫を慶州とする慶州金氏と、金海を本貫とする金海金氏とは異族なのです。本貫というのは、簡単にいえばそれぞれの氏族の始祖の出生地、またはその氏族が子々孫々にわたって定住してきた居住地です。また族譜というのは、同姓同本の血縁集団である宗族や、それから分派した家系の系譜を記録したものといえます。

ところで氏族の淵源を古い時代にさかのぼって、有名な歴史上の人物を始祖とする場合が多いのですが、それがどれほどの科学的根拠をもつかは、かなり疑わしい点が多いようです。というのは、族譜がいつ頃はじまったかについての研究によれば、現在知られている限りでは、1562年につくられた文化柳氏の「 嘉靖譜 」( 嘉靖は明の世宗の年号 )が最も古いとされているからです。それが一般化するのは李朝中期の宣祖のとき以降といわれます。

看過できないのは、これが士林派が勲旧派に対抗して中央政界に進出し、党派争いが激しくなる時期と一致することです。すなわち党争が門閥間の対立に発展するにしたがって、一族の結束を固めるためのものとして族譜が登場してきた、ということなのです。

「 韓国歳時記 」 2000年 金渙 明石書店
族譜とは、同族の系統を父系を中心に記録した本です。同族の始祖から族譜編纂当時の子孫までの系譜を記録しています。ここにいう同族とは、本貫と姓を同じくし、同族意識を持った男系親族をいいます。
(中略)
韓国の族譜はいつ頃から作られたかといいますと、「 家牒 」「 家乗 」など、その家の歴史的な事実を記録した文書は、高麗王朝18代毅宗( 1147-1170 )のとき、金寛毅が編纂した高麗王室の系図「 王代実録 」がその始まりです。しかし、同本同姓の広範囲で体系的な族譜は、1423年( 世宗5 )刊行された文化柳氏の「 永楽譜 」が最初で、これは現存していません。最近に至って、1476年( 成宗7 )に刊行された安東権氏の「 成化譜 」が、現存する最初の族譜であることが確認されました。族譜は15世紀に初めて出現しましたが、すべての氏族が同じ時期に族譜を刊行したのではありません。氏族によっては16世紀、17世紀、18世紀、19世紀、あるいは20世紀に初めて族譜を刊行しました。

皇民化推進に積極的に関わっていた朝鮮人
「 日韓共鳴ニ千年史 」 名越二荒之助 平成14年 明成社
( 灰色文字は注 )

皇民化を推進したのは誰だったのか  

「 皇国臣民の誓詞 」を書いた李覚鐘
日本の朝鮮統治は「 内鮮一体 」「 皇民化( 日本人化 ) 」というスローガンのもとに、朝鮮の民族文化を抹殺したとよく非難されます。この悪名高い「 皇民化 」政策を本格的に導入したのは第七代朝鮮総督・南次郎大将です。昭和十一年( 一九三六 )八月に朝鮮に着任した彼がその時に掲げた「 朝鮮統治の五大指針 」は、( 1 )国体明徴( 日本の国柄を明らかにして自覚すること )、( 2 )鮮満一如( 朝鮮人、満洲人と日本人は一つ )、( 3 )教学振作、( 4 )農工併進、( 5 )庶政刷新、の五項目でした。全文をここで紹介する余裕はありませんが、この中に「 内鮮一体 」とか「 皇民化 」とかの文言はありませんでした。実はこの文言を案出したのは、李覚鐘という朝鮮人なのです。彼は才能ある人物だったのか、左翼から転向した人たちを集めて白岳会を結成し、大同民友会の顧問となりました。その頃、「 内鮮一体 」「 皇民化 」「 思想先導 」等のスローガンを案出しました。さらに彼は総督府学務局の嘱託の頃、現在では悪名高い「 皇国臣民の誓詞 」を作ったのです。それを初代の社会教育課長の金大羽( 朝鮮人・後に全羅北道や慶尚南道の知事となる )に示し、金課長を通じて南総督に建議し、総督は昭和十二年( 一九三七 )十月二日に決裁しました。

「 誓詞 」は次のような三ヵ条からなっていました。
( 児童用 )
一、私共は大日本帝国の臣民であります
二、私共は互に心を合せて、天皇陛下に忠義を尽します
三、私共は忍苦鍛練して、立派な強い国民となります
( 学生・一般用 )
一、我等は皇国臣民なり 忠誠以て君国に報ぜん
二、我等皇国臣民は 互いに信愛協力し 以て団結を固くせん
三、我等皇国臣民は 忍苦鍛錬力を養ひ、以て皇道を宣揚せん

それ以来この誓詞は、学校や社会団体で行事の度ごとに斉唱され、皇国臣民としての自覚が鼓吹されたのです。