大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
ハングル・朝鮮史教育の禁止


〔日帝の民族抹殺政策〕 日帝は、わが国の物的、人的資源を略奪する一方、韓民族と民族文化を抹殺しようとする政策を実施した。すなわち、学校ではハングルの使用が禁上され、日本語の使用が強要された。韓国歴史の教育も禁上された。 ( 韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より )

この当時は外国の支配下に置かれたらどこの国も統治国の国語を強制されていた。中国の属国であった朝鮮の公文書は漢文であり、ハングル創製後も変わらなかった。それが日本の支配で日本文に置き換わったのであって、ハングルから日本文に代わったのではない。

李朝時代ハングルは蔑ろにされていた。
「 朝鮮とその隣邦 」 イザベラ・ビショップ 1897年( 「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社より )
朝鮮人は、自分に固有のハングル文字を軽蔑して、中国文字である漢字のみをただひたすら尊重するおかしな国民である。政府の公文書はもちろん、普通の手紙にも、会話の間にも努めて中国文を模倣して使用し国粋というべき語学上もっとも発達したハングルは婦人と子供と、下層階級が使用するものときめ込んでいる。

「 朝鮮の歴史と文化 」 姜在彦 1993年 明石書店
民衆や女性にも習いやすいこの文字を諺文(おんもん・俗文)としてさげすみ、漢字こそが真書であるといって尊重したのは朝鮮の儒者たちの悪弊ですが、そのような傾向は「 訓民正音 」( ハングルのこと )が制定された当初からありました。集賢殿副提学( 王立アカデミー副学長といったところ )崔万理らの反対上疏がそれです。そこには六つの反対理由があげられていますが、その基本は『 歴代の中国では、わが国をもって箕子(伝説的な箕子朝鮮を建国した中国渡来人)の遺風があり、文物礼楽が中華に比肩するといっているのに、いま別に諺文を作るのは、中国を捨てて夷狄(野蛮人)と同じくなる 』ことだというものでした。(中略)ハングルの受難はその後も続きました。酷かったのは、この文字が創制されてから50余年が過ぎた燕山君(在位1494〜1506 )の時のことです。彼は李朝第十代の国王ですが、暴君として悪名高く、その横暴を誹謗した文書がハングルで書かれていたために、それを教えることも学ぶことも禁止したのです。またハングル本およびハングルによる訳文も集めて焚書することを命じ、ハングルを使用した者も、それを告発しない者も、厳しく処罰しています。
大量の難解な漢字は、李朝の支配階級である両班の権威を民衆から守る防壁として、きわめて都合のよいものだった。

愚民政策社会を変えた日本人の教育熱
「 韓国人の『 反日 』台湾人の『 親日 』 」黄文雄 1999年 光文社
韓国人は、もともと日本人と同じように教育水準が高かったと考えている人が多い。しかし、それは大きな間違いである。日本は、江戸時代からすでに藩校や寺子屋がかなり発達し、大衆教育が普及していた。しかし、朝鮮半島は、書堂も学堂も普及していたと思われがちだが、そうではない。李朝時代には、漢文教育が主流で、ハングルは一顧だにされなかっただけでなく、禁止されていた。

両班以外の庶民の教育は反対されていた。そもそも漢字漢文は一知半解の文字体系で、漢学の大家はもっばらその文意の読解に、なぞなぞを解くようにその、生涯の全精力を費やしていた。ことに両班階級の場合は、わざと漢字を煩雑にして、庶民が読めないようにしていた。漢字が庶民や奴婢にかんたんに読まれたら、権威がなくなり、たまったものではないからだ。だから儒教文化圏は、韓国にかぎらず、その社会構造が基本的に愚民社会を前提にしている。科挙のための勉強が中心となり、読み書きできない人びとが多いのが定評である。

二十世紀に入ってから、辛亥革命以後の中国では、国民学校教育が提唱されたが、真っ向から反対するのが文人であった。彼らに言わせると、一般大衆まで教育を受けたら、農民も労働者も文字が読めるようになり、それこそ「 斯文掃地 」( 文化が地に捨てて掃いたものとなろう )と、こぞって反対していた。

朝鮮半島の書堂で教えられていたものは、漢字の読み書きだけであった。ハングルの使用が解禁されてから日は浅く、文章として体系化されていないので、漢字・ハングル混じりの文字体系を確立するには、百年単位の歳月をかけなければならない。それだけではない。農民も働き手の子どもが学校にとられるのを極力反対して、校長が父母を説得するのが大変であった。それは台湾でも同じであった。今世紀の初めごろ、朝鮮半島のみでなく、台湾でも教育を受けたとみられる学齢期の児童は数パーセントしかいなかった。

李朝朝鮮は、書院、学堂があったが、教育を受けられるものは、ごく少数でしかなかった。ことに女性は、小学校に入れただけでもエリート中のエリートであった。在日朝鮮人一世は、七〜八割が読み書きできなかったことについて、たとえば姜在彦の『 日本による朝鮮支配の40年 』( 朝日文庫73ページ )でも認められている。教育普及率の数字から比較してみても、日本の開国維新以後の日本、台湾、朝鮮半島、中国の教育普及の雁行現象は、一目瞭然である。

しかし、日本人が朝鮮で教育を普及させたことを認めたとしても、その教有の目的は、「 愚民教育 」にあると主張するものも少なくない。なんと非論理的な、ただの言いがかりであろうか。儒教文化圏の愚民政策社会に教育を普及させたのは、日本の教育熱であることを忘れてはならない。それは論理で論じられるものではなく、数字で語られなければならない問題でもある。

朝鮮語は、東北、西北、中都、西南、東方、済州島の六つの大方言区分に分かれ、李朝時代には、言語的にはけっして統一されてはいなかった。そこで、朝鮮総督府は、朝鮮語を体系化したのだ。両班は漢文・漢語を中心に、諺文( おんもん )、諺語を排斥、軽蔑していた。ソウル語を標準語として、漢字、ハングル混じりの文章を体系化したのは、統監政治以後の日本人言語学者と教育学者を中心とする専門家の努力によるものだ
日本が学校教育でハングル授業を強制したため朝鮮人の反感を買った。 (大爆笑:「 ヘソで茶を沸かす 」とは、こういう事を言うのだ )

朝鮮総督府の教育が、ハングルを普及させた
「 韓国 堕落の2000年史 」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
初めて民衆に八ングルを替及させたのは、日本だった

ハングルは李朝が滅びるまで、諺文( オンムン )と呼ばれて、女や子供のための文字として蔑まれていた。エリートである両班たちは慕華思想に凝り固まっていたので、漢文しか使わなかっった。ハングルは1443年に、李朝4代目の世宗王のときに考案された独自の文字であったにもかかわらず、その後、李朝を通じて、国字としての正統な地位が与えられることがなかった。これは日本がカナを公文書にも用いたのと、対照的であった。もしハングルが日本のカナと同じように使用されたとしたら、民族として自立的な意識を強めて、中国という妖怪を崇める慕華思想の呪縛から脱することができただろうが、そうならなかったのは残念なことである。日本の独特なカナは、日本の文化的独立を強める役割を果たした。

ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年の1911( 明治44 )年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本人教師は、月2円の加俸があった。当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。もっとも、昭和10年代に入ってから「 皇民化教育 」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。

「 醜い韓国人 <歴史検証編> 」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社

欧米諸国の植民地で、あれほど多くの学校を建立し、庶民にまで教育を受ける機会を与えたのは、例がありません。植民地の民衆に、あれほどの教育の恩恵を与えた国は、日本しかなかったと思います。日本が唱えた「 内鮮一体 」は、まったくの嘘ではなかった、と思いますよ。もっとも、韓国人のなかには、当時、日本が「 内鮮一体 」といいながら、多くの学校を建てたのは、「 愚民化政策 」のためだった、という人が多いんです。しかし、小、中学校から、高等専門学校や、京城帝国大学のどこにも、「 愚民化政策 」といえる点は見いだせませんし、韓国に渡った日本人が、自分たちの子供を同じ学校に入れたんですから、まさか、「 愚民化教育 」を受けさせたはずがなかったでしょう。小、中学校は、日本人と韓国人の子弟向けに分かれていたものの、同じ教課を学んだのだったし、私の田舎の小学校にも、日本人の子供たちが通っていましたよ。
加瀬 
日本は、台湾にも、韓国にも、多くの小学校をつくりました。それに、台湾も、韓国も、日本の一部であって、欧米のいうような植民地だという意識がなかったんですよ。心ない差別があったことは、事実です。しかし、「 一視同仁 」ということが強調されましたし、同胞という考えかたが、強かったんです。もっとも、こういった考えかたが行きすぎて、戦時色が濃くなった1930年代後半から、上から性急な「 皇民化運動 」を強いることになってしまったんですね。
韓国をとれば、日韓併合のときには、公立の普通学校( 小学校 )は、100校に満たなかった、総督府のもとで、まず3面に1校というと、3つの村ごとに1校建設することを計画し、1913年までに実現しています。当時の朝鮮には、ざっと2500の面( 村 )がありました。つぎに、一つの村に小学校一つをつくることを目標にしましたが、1936年に計画が完成しました。太平洋戦争が始まった翌年の1942年に、1面2校を自標として掲げました。そして、全土でおよそ5000校の小学校が、つくられました。

教育だけをとっても、日本は植民地時代の他の宗主国と、まったく違っていました。今日の韓国の近代国家としての基礎が、日本統治時代に築かれたことは、否定できません。これが、もし、ロシアの一共和国となっていたとしたら、いったい、どうなっていたでしょうか。かつての旧ソ連の辺境にあった共和国と変わらなかったことでしょう。
今の韓国の若者たちは、わが国の歴史も、ハングルも書堂で教えていた、と思っています。李朝時代の韓国は、中国をひたすら崇めて、自ら「 小中華と称していることを誇りとしていました。ハングルは、婦人や子供が使う字として、蔑まれていました。今日でこそ、「 ハングル 」は発音のまま読み書きができる、世界でもっとも合理的で、科学的な文字だといって、誇っていますが、ハングルは日韓併合以前は、公文書にも、祝祭祀文にも、まったく使われなかったんですよ。
加瀬
総督府は、このうえの中学校用の「 高等朝鮮語読本 』も、発行していました。これは、5巻です。私がこの教科書について、新聞に話したら、横浜市に住んでいるK氏から手紙を貰いました。K氏は日本人です。K氏は、昭和10年に全羅南道麗水邑の小学校に通学したが、「 ハングル 」の授業があったということでした。そして、昭和7年に韓国の小学校を卒業した。知人の当時の通信簿の写しを送ってくれました。それが、修身、算術、国語、歴史、地理から、職業まで全課目が「 甲 」なんですが、「 朝鮮語 」という欄だけに「 乙 」と記されていました。K氏は手紙のなかで、「 日本の教育は朝鮮語抹殺であったとの主張は、その教育政策を検証すれば、誤りであることはあきらかです。太平洋戦争下の緊迫した時代のみを取り上げるのは、誤っています 」と書いています。また、K氏からの便りによれば、教員を養成する女子師範学校では、太平洋戦争開戦後も、生徒にチマ、チョゴリをつくることを教えるための課目があった、ということです。

今日、韓国人が、全員、「 ハングル 」を読み書きできるようになったのは、日本統治時代に小学校で「 ハングル 」を教えたことから、始まっています。これは、客観的な事実であって、否定することはできませんよ。日韓併合以前には、「 ハングル 」があったにもかかわらず、「 常人 」( サンノム )の9割以上が、読み書きできませんでした。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
日本では、「 日帝三十六年 」の「 七奪 」の一つとして、朝鮮人の言葉を奪ったという批判がずっとまかり通っている。じつは南総督時代以後、非常時にさいしての「 国語( 日本語 」 )の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はなく、この見方は真っ赤な嘘である。日本帝国主義による対朝鮮教育侵略の特徴は、韓国民衆を徹底的に日本化、つまり「 愚民化政策 」に重点をおいて展開したとか、「 日帝三十六年 」の教育政策によって、戦後の韓国人は、どうしようもない状態に陥ったなどの見方も歴史歪曲である。朝鮮人から言語を奪った張本人であると批判されている南次郎総督でさえ、朝鮮人から朝鮮語廃止の建策に反対したのが、歴史的事実である。

たとえば、「 日本人以上の日本人 」といわれた玄永燮や、「 三・一独立運動 」で三十三人の民族代表の一人であった朴煕道は「 朝鮮語使用の全廃 」を主張していたとき、南総督は、むしろ極力反対してこう語っている。「 朝鮮語を廃止するのはよくない。可及的に国語を普及するのはいいのだが、この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることがしばしばあるくらいであるから、それはできない相談である 」( 林鐘国著『 親日派 』御茶の水書房 )
小学校教育の普及速度は、内地とあまり差がなかった。

「 韓国・朝鮮と日本人 」 若槻泰雄 1989年 原書房
総督府は朝鮮人の教育にはかなり力を入れ、朝鮮に近代学校制度を創設普及させたということができよう。ことに初等教育では着実に努力をつみ重ね、「 三面( 村 )一校 」「 一面一校 」というように順次目標をあげながら、寒村僻地にいたるまでくまなく普通学校( 小学校 )を設立した。統治開始後32年たった1942年には、朝鮮人推定学齢児童数の56%が就学するまでになった。日本内地が同じ水準に達したのは、明治政府が発足して25年後のことである。これらの数字は、日本政府が朝鮮における初等数育に対し、本国におけると同様の、もしくはそれに近い努力を傾注してきたことを示すものといえよう。1943年には、朝鮮統治多年の懸案であった初等教育の義務制が1946年から実施されることが決定した。総督府は戦時下の資材不足をおかして、学校、学級の一大拡充に乗り出し、1945年4月からは中等以上の学校に進学しないもののために、内地同様、青年学校も新設したのである。
植民地原住民の中でも、朝鮮人がいち早く近代世界に入ることができたのは、総督府の教育政策により、日本人が咀嚼( そしゃく )した西洋の学問・近代精神を消化したためである。

韓国併合後の朝鮮教育令では朝鮮語の授業は必須科目であったが、昭和13年の朝鮮教育令の全面的改正で、朝鮮語の授業を行うか行わないかは校長の判断に任されることになったが、朝鮮語の授業を行なわなくなったのは日本人校長の学校ではなく朝鮮人校長のいる学校の方であった。
「 日本と韓国 」 八木信雄 昭和53年 日韓文化出版社
( 著者の八木信雄氏は朝鮮総督府の官吏で、終戦時には全羅南道知事であった。 )
韓国語の取扱い


ところて、韓国語の取扱いはどうなっていたんだろう。僕が耳にしているところでは、学校では一切韓国語を教えなかったとかいうことだったが…。

一切教えなかったというのは間違いだが、南総督時代になってから、教育令の上ではそう言われかねない状態になったね。そもそも、併合( 明冶四十三年八月二十九日 )当時の韓国の学制では、普通教育機関として普通学校、高等学校、高等女学校があり、その教科目に“朝鮮語及漢文”とあって、韓国語を教えていたことはもちろんなんだが、併合の翌年八月、寺内正毅総督によって“朝鮮教育令”が制定された後も、韓国人のための普通教育機関である普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校ては“朝鮮語及漢文”を必須科目として残してあったんだよ。なお、そればかりじゃなく、日本人の子弟を教育する小学校、中学校、高等女学校でも、土地の情況により附設科目として“朝鮮語”の科目を設けることができるようになっていたんだよ。

日本人の子弟にも韓国語を教えるなんて、武断政治家の寺内にしてはとてもいい着眼じゃないか。

全くだよ。
次に、大正八年( 一九一九年 )の独立騒擾事件( 三・一運動 )の後に就任した斎藤実総督( 後、総理大臣 )は、韓国人の教育水準を日本人と同じ程度に引き上げることにして、大正十一年二月教育令の全面的改正を断行し、国語を常用せざる者( 韓国人を指す )のための普通教育機関の修業年限の延長を図ったわけだが、普通学校と女子高等普通学校では“朝鮮語”、高等普通学校では“朝鮮語及漢文”が必須科目として存置され、日本人の初等・中等学校についても従来通り、“朝鮮語”の科目を附設できるようになっていたんだよ。

普通学校と女子高等普通学校の教科目が“朝鮮語及漢文”がら“朝鮮語”に変ったのはどういうわけかな。

韓国は漢文化の国だからというので、最初は初等教育の普通学校でまで初歩の漢文を教えていたのだが、日本人子弟と同じ教育水準に引き上げるとなると、漢文まで教えていたのでは負担が重くなり過ぎるからだと思うよ。

なるほど、そういうわけか。

なお、これは学校の教科目のことではないが、総督府では大正九年に『 朝鮮語辞典 』の編纂を終って公刊しており、これから見ても韓国語を抹殺する意図はなかったことが分るんじゃないかね。それから、次の宇垣一成総督になると、昭和九年に新しく“簡易学校”というものを設けて、まだ普通学校の設置されていない僻陬( へきすう )地の児童を収容して、修身、国語、算術、農業と“朝鮮語”を必須科目とした農村向けの簡易な教育を実施することにしたんだよ。なお、これには、総督自身が発案し提唱した農村振興運動の実施に当り、その中に取り入れた家計簿の記帳に韓国語を役立たせようという狙いもあったようだね。ところが、問題は南総督になってからで、支那事変の勃発に伴って時局が重大化してきたから、大いに“内鮮一体化”を図らなければならないということで、昭和十三年三月、朝鮮教育令の全面的改正を断行し、韓国人の普通教育についても日本人同様に小学校令、中学校令、高等女学校令に依ることにしたんだよ。そして、朝鮮語は正科から外して附設科目にし、朝鮮語の授業を行うか行わないかは校長の判断に委せることに改め、且つ随意科目にして、生徒がその授業を受けても受けなくても勝手だというふうにすることができるという程度にまて大幅に格下げしてしまったわけだ。なお、日本内地の教育制度改正に追随して、昭和十六年三月、小学校は国民学校に変ったが、朝鮮語の取扱いについては従前通りだ。

それじや、朝鮮語をそんなに格下げしてしまった後の、韓国人学校での授業の実際はどんな状態だったんだろう。

それが非常に面白い問題でね。朝鮮語が正科から外されてしまったとたんに、各学校から一斉に消えてなくなってしまったかというと、実際は必ずしもそういうことにはならなかったんだ。それというのは、朝鮮語の科目を附設するかしないか、附設しても随意科目にするかしないかは校長の権限に委されており、その決定如何によるわけだが、校長としてほその決定に当って、生徒児童の父兄はもちろんのこと、学校所在地の住民一般の意向を全然無視するわけにはいかないというのが実情だったからなんだよ。父兄や住民の中には道会議員とか、邑会議員、面協議員とかいった公職者を初め色々な土地の有力者がいるわけで、この人たちは正面切って内鮮一体に反対しないにしても、朝鮮語の授業の廃止には内心強い反対意向を持っているわけだから、校長としては、これを無視し去るということは相当の決意を必要とすることだからね。

総督府の役人が机の上で決めることは簡単だろうが、実際の仕事をする者にとっては大変なことだからね。

これは、終戦時まて韓国人の通学する国民学校の校長をしていた韓国出身の吉野鎮雄氏から聞いた話なんだが、道( どう・ )によって多少の相違はあっただろうが、韓国人校長の場合はほとんど朝鮮語の授業を行わず、逆に日本人校長の場合はそのほとんどが週二時間宛教えていたというんだな。当時の韓国には六年制の国民学校のほかに四年制の国民学校もあり、六年制学校の校長十名か十一名の中一名、四年制学校の校長七、八名の中一名位の割合が韓国人校長だったから、朝鮮語を教えなかった国民学校は教えた学校の一割前後にしかならなかっただろうとも言っていたよ。

韓国人の校長こそ朝鮮語の授業をやりそうなものなのに、どうしてやらなかったんだろう。

僕もそれが不思議なので、吉野氏に聞いたところが、「 韓国人の教員で校長に選ばれるのには、よほど日本人の上司の点数がよくないと駄目なわけで、朝鮮語は教えずに日本語の教育に熱を入れることが、また、非常な点数稼ぎになったのだ 」という返辞だったよ。

それは、正に“内鮮一体悲喜劇”とも称すべきものだったね。それはそれとして、大部分の学校で朝鮮語の授業が行われていたというのに、どうして、学校では一切教えなかったなどという話になって伝わったんだろう。

それは、まず第一に、教育令の改正で朝鮮語を必須科目から外して附設科目、随意科目に大格下げしてしまったこと、そして幾分ながらその授業を廃止した学校があったことがそういう印象を与えたこと。第二に、総督府が「 日本精神の理解と内鮮一体の信念の体得には、国語即ち日本語教育に特に力を入れる必要がある 」として、その徹底方を指示した関係で、一年生を教育する場合は致し方ないとしても、その他の場合は韓国語でなく専ら日本語で教育するようになったこと。それに、生徒児童が校内で韓国語を使用することを禁じたりしたことなどが、そういう誤解を生むに至った原因じゃないかと思うよ。

韓国人にしてみれば、韓国語は、自分たちが祖先以来継承し、守り続けてきた民族の生命なのだから、これを軽々しく取り扱われたのではとても我慢できなかったろうし、それで話に尾鰭( おひれ )がついたり、針小棒大にもなったんだろうね。その辺の事情はよく分るような気がするよ。

南総督の掲げた“内鮮一体”という政策には、「 韓国人も日本人と全く同じ日本国民てあるという心からの誇りを持たせる 」という目的も含んでいたのだが、それは高次元の一視同仁政策によって初めてその可能性が考えられることてあり、日本式創氏をさせたり、韓国語を軽視して日本語使用のみを励行したりといった次元の低いやり方は、逆効果を招くことにはなっても、決していい効果は生まないわけだよ。その意味においては、父兄や土地の住民の声なき声に耳を傾けて、朝鮮語の科目を附設し、その授業を続行した日本人校長たちのあり方の方が、むしろ一視同仁の真の精神に添ったことになったと思うよ。
( 中略 )
それで思い出したのだが、僕がまだ警視で慶尚北道警察部の警務課長当時( 昭和五年五月から六年二月まで )のこと、大野謙一( 後、咸鏡北道知事・総督府学務局長、故人 )という警察部長がいて、僕に慶尚北道警察部独自の“朝鮮語奨励規程”と、その実施要綱を、何時何時( いついつ )までに作れというんだ。僕はたまたま風邪で熱を出して寝込んでしまったので、頭の中で草案を作りながら口述して家内に筆記させ、どうやら間に合せたことがあるんだよ。じつは4、5年前のことなんだが、ある会合の席上で、日本の教育者の一行が、韓国の教育者との交流のために彼地を訪問した際、「 日本の統治時代は、韓国語を使うと警察に引っ張って行かれたものだ 」という説明を受けたと聞かされて、全く憮然たる気持ちにならざるを得なかったよ。

それは、当時の警察に対して無実の罪を着せることになるわけだね。

それは、南総督が内鮮一体の旗印の下で国語( 日本語 )の常用を奨励し、国語を常用する家庭の入口には“国語常用の家”という標識をつけて賞揚したことがあるのだが、恐らくこの時代に若干あったことが、韓国統治なかんずく警察の作用に対する韓国人の反感で誇張された結果だと思うよ。

朝鮮語抹殺を提唱したのは朝鮮人
「 日韓共鳴ニ千年史 」 名越二荒之助 平成14年 明成社
日本統治時代に朝鮮語は抹殺され、日本語が強制されたと批判する声が強い。しかし実際は、そうすることを熱心に提唱した朝鮮人がいたのである。玄永燮( げんえいしょう、日本名天野道夫 )は、自分の著書『 朝鮮人の進むべき道 』の中に「 朝鮮語僕滅論 」を書いている。その一節――
〈朝鮮人は、朝鮮語を忘れてしまわなければならない。朝鮮人が日本語でものを考えた時こそ、朝鮮人が最も幸福になった時である。…われわれは頭のてっぺんから足の爪先まで日本人なのである。…学校で朝鮮語を教える必要は毫( ごう )もない。朝鮮人を不幸にしようとするならば、朝鮮語を永続させて、朝鮮的な低級な文化を与え、それ以上の発展を阻止することである〉
彼は日本人になりきるために、朝鮮語を使ってはいけないというのである。彼としては、「 日本人以上の日本人 」になることが目標であったし、「 完全に日本人化した朝鮮人から、宰相( 首相 )が生まれること 」が、彼の願いであった。この著書の反響はよく、売れ行きも前記したように爆発的であった。出版した年の昭和十三年七月八日、南次郎総督は朝鮮人の民意を聞くため、面接を行なった。その時招かれたのは玄永燮ら七人だったが、彼は総督に対して次のようなことを提唱した。
「 朝鮮人が完全な日本人になるためには、従来体験しない神道を通じ、また朝鮮語使用全廃を通じてでなければ、駄目だと思う 」( 毎日申報、昭和十三年七月九日 )
それを聞いて南総督は面食らった。総督はこの提案を退け、次のように答えた。「 朝鮮語を排斥することは、不可能なことだ。できるだけ国語( 日本語 )を普及するのはよいのだが、この国語普及運動が、まま朝鮮語廃止運動であるかのように誤解されることがあるが、これは正しくない 」( 毎日申報、昭和十三年七月九日 )前年の昭和十二年一月十二日の『 毎日申報 』に「 毎日コクゴ面 」が新設され、一部に日本語が使われるようになっていた。そして十三年の四月から使われる中学校の教科書は、すべて日本語で書かれるようになった。しかし総督としては、朝鮮語を廃止するのではなくて、日本語普及を念願していることを強調したかったのであろう。

その後、昭和十四年の一月、純日本語雑誌『 東洋之光 』が創刊された。発行者は朴煕道( 三・一独立運動で、独立宣言書に署名した三十三人のうちの一人 )で、彼は皇道文化樹立の先頭に立っていた。『 東洋之光 』発刊の目的は、「 内鮮一体の具現に対する日本精神昂揚の修養道場 」にすることであった。創刊号の「 巻頭言 」の一節――
〈此際( このさい )、半島二千万同胞の心底に日本精神を昂揚し、陛下の赤子として、皇国日本の公民として例外なく国体の尊厳を体得し、皇国日本の大使命を遵奉し、皇道の宣布、国威の宣揚に精進し、以て東洋の平和は勿論、八紘一宇の大理想を開いて、世界人類文化の発達とその康寧福祉増進に貢献することを期せねばならないと信じます〉
一つの文章の中に「 皇道 」や「 皇国 」が三回も出てくる徹底ぶりであった。いずれにしても当時、朝鮮人の間から「 内鮮一体 」のスローガンと共に、朝鮮語全廃の声を挙げ、それを実践に移した者がいたことは確かである
李朝時代、歴史といえば中国史のことであり、 朝鮮史は一顧だにされなかった。


「 韓国近代教育史 」 呉天錫 高麗書林( 「 近い国ほど、ゆがんで見える 」 林建彦 1982年 サイマル出版会より )
旧韓国時代( 李朝 )の教育は、徹頭徹尾、中国文化を内容としたものであり、教育の材料は全面的に中国的なもので、そこに出てくる逸話まで、晏子、諸葛亮および文天祥のような中国古代の人物に関するものばかりであった。教育を受ける国民が、自国に関わることを知らず、外国に関わるものだけに精通しており、それをまた自慢にしていた。

「 朝鮮事情 」 シャルル・ダレ1874年 ( 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫 )
「 しかし中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において三つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。読む本と言えば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても、朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である 」
( 中略 )
また朝鮮史については、「 資料不足のため、真実の、しかも体系だった朝鮮史を記述することは、たとえ不可能ではないにしても、困難なことである。漢文で書かれたさまざまな朝鮮史の本は、それらを一読した人によると、誇張された朗読用のテキストに使われるため、多かれ少なかれ想像上の事実の雑多な寄せ集めに過ぎないということである。朝鮮の学者たち自身も、これらの文献に何等の信用もおいておらず、また決して研究対象にする事なく、中国の歴史書だけを読むことにしている。時々朝鮮語で書かれた簡略な歴史本に出くわすこともあるが、それは婦女子の気晴らし用の真偽取り混ぜた奇譚集に過ぎない。学者達はといえば、それを開いて見ることさえ恥辱だと思っている( 中略 )したがって、朝鮮史についてある程度正確な知識は、主に日本や中国の文献を通してはじめて集め得るというわけである 」

朝鮮史研究は総督府から始まった。
「 立ち直れない韓国 」 黄文雄 1998年 光文社
日本人学者の朝鮮史研究は、どう歴史歪曲されたか

朝鮮の伝統文化の保存と尊重についての、朝鮮総督府の並々ならぬ努力は、けっして朝鮮歴代王朝以下ではない。日本人が朝鮮半島に侵入してくると、すぐ京城の書院を襲い、貴重な文化財を略奪して、日本国内に持ち帰り、歴史書を没収、焼却したと書かれているが、それはただの作文にすぎない。

総督府は、朝鮮の旧慣と古跡についてくまなく調査し、朝鮮文化研究について、多くの貴重な文化遣産を残している。総督府は旧慣民俗に関する調査の結果、膨大な書籍を刊行し、中枢院は、李朝時代の法典類を編纂刊行している。たとえば、1915年( 大正4年 )から1920年にかけて、『 朝鮮古跡図譜 』7冊と解説書5冊を会刊した。その後、1919年から11年間をかけて古跡を再調査し、12冊にのぼる『 古跡調査特別報告 』を刊行した。1925年6月に、勅令で「 朝鮮史編集会官制 」を公布し、独立官庁として「 朝鮮史編集会 」がつくられた。また総督府は1913年12月、「 朝鮮史編集委員会 」を設け、15年の歳月をかけて、計35巻、2万4000ぺージにのぼる巨著『 朝鮮史 』を刊行した。さらに20種、100冊にのぼる『 朝鮮史料叢刊 』、および『 朝鮮史料写真及びその解説 』を刊行した。日本人学者でつくった「 朝鮮古書刊行会 」や「 朝鮮研究会 」の手で、数多くの朝鮮史書が刊行されている。

しかし、朝鮮人学者によれば、それらは朝鮮統治を合理化し、朝鮮民族を劣等民族として歪曲するためにまとめられたものであり、史料蒐集の目的とは、朝鮮人の自国の歴史文化に対する自主研究を排除するための史料奪取で、大々的な史料蒐集と編史事業は、朝鮮支配に利用するためでもあるとも主張されている。朝鮮史研究の目的が、朝鮮民族の劣等性、後進性と日帝の朝鮮侵略の合法性を立証するための史料捏造、史料歪曲、皇民化遂行への利用をもくろむものであったとまで歪曲したり、曲解する必要はどうしてあるのだろうか。率直のところ、李朝末期にいたるまで、両班階層が学んだのは支那史だけであって、朝鮮史には一顧だにしなかった。朝鮮史を直視する歴史学者はいなかったのが史実であった