大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
会社設立の制限


朝鮮総督府は会社令を公布し、会社の設立のときは朝鮮総督の許可がなければならなくなった。これは韓国人の企業活動を抑制するための措置だった。( 中略 )1910年に会社令を制定し、韓国人の会社設立を抑制した。そのため、日本人会社の成長が韓国人会社を上回った。1911年と1917年を比較すると、韓国人の資本金は17パーセントから12.7パーセントに下がったのに比べ、日本人の資本金は32パーセントから83.2パーセントに上がった。( 中略 )日帝は会社令を許可制から申告制に変えた、そのため、日本の財閥の資本が浸透し、日本人が経営する会社が設立され、韓国の産業と韓国人の経済生活は、日本人によって支配されるようになった。 ( 韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より )

併合当時は鉱山経営などで第三国の資本がかなりあり、それが買収などで日本人の資本と置き換わって日本人資本比率が上昇したという面もある。
「 韓国・朝鮮と日本人 」 若槻泰雄 1989年 原書房
朝鮮総督府は株式会社を届出制でなく許可制としたが、これは民族資本の活動を抑圧し、日本資本の進出を容易にしたものとして非難されている。これは民族資本の活動を抑圧し、日本資本の進出を容易にしたものと非難されている。そのような結果をもたらしたことは事実であろうが、この措置は朝鮮人の経済活動の抑圧のみを目的としたものとは思われない。

他人の資本を広く集め、しかもその出資者は、事実上その経営に関与できない株式会社は、社会、経済の発展していない所ではしばしば詐欺目的のため設立され、あるいはそういう結果におちいることが少なくない。総督府が許可主義をとった理由として『 株式会社の健全な発展を期するため 』と述べているのは、詐欺目的の乱立により、朝鮮民衆が被害を受ける恐れがあることと、株式会社制度そのものが、信頼を失うことを心配したことにもよろう。植民地統治は、その社会は未開であり原住民の知識水準は低いというのが前提であるから、植民地統治の初期において、みだりに株式会社を作らせないという方針はそれなりに合理性をもっているのである。

明治初年、日本も株式会社制度を導入した際、当初は免許主義をとっており、1899年の商法制定の折、準則主義、すなわち用件が整っておれば誰でも設立することができるようになった。朝鮮でも統治開始10年後の1920年、許可主義は届出主義となり、経済活動の可能性は法律上は平等化されている。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
事実上、農耕民族の朝鮮人は、株式会社組織という伝統も理解も理念もなかった。今日にいたっても株式会社というより家族会社が主流である。他人といっしよに会社をつくらないだけでなく、つくってもすぐ騒動が持ち上がり空中分解してしまうのであった。当時、財政顧間として農工銀行の株式を整理した関係者によれば、当時の朝鮮人のほとんどが株式会社とは何たるかを知らなかったし、民族資本云々という話どころではない社会なのだという。株式は募集ではなく、各地方の面長( 村長 )がそれぞれの地方有力者に債券を割り当てて会社をつくったぐらいで、当時の朝鮮社会では他人といっしょに会社をつくるなどということはもってのほか であり、朝鮮人で独自の事業計画を立てて、会社令によって申請した人は一人もいなかった。( 『 日本統治下における朝鮮の法制 』友邦協会 )

「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
さまざまな政策を実行するための財源として、日本政府は併合直後から毎年1000万円から1900万円の補充金を一般会計から朝鮮総督府特別会計に補給し続けた。

日本は産業振興にも力を入れ、併合後20年にして、工業製品出荷額は約16倍になった。工業の種類も軽工業中心から重化学工業中心へと徐々に移行し、昭和15年には工業生産額のうち重化学工業の占める比率は57.8%にも達した。こうした産業を興すためには資本( 資金 )が必要であるが、官民とも疲弊していた朝鮮側はその資本をほとんど準備できなかった。必然的に産業資本は90%までが日本本土からの投資であり、朝鮮民族資本の蓄積によるものは僅か10%にも至らなかった。企業はボランティア団体ではないため、出資者にその利益が廻される。このため、日本は本土の大会社を進出させて朝鮮から経済的搾取を行なったと批判されるのだが、それではどうしたらよかったのか。日本が資本を投下せず産業を興さなければよかったのか。

どちらにせよ、農業振興や産業育成などによって朝鮮の人々の生活水準は徐々に上がり、大正9年には法人所得税をはじめて徴収できるまでになったのである。( 併合時の韓国の国民経済は破綻しており、朝鮮人から税金を取ることもままならぬ状態にあった。このため日本は併合後、10年間所得税を免除した。 )このように日本からの多額の投資・援助や指導によって、朝鮮は飛躍的に近代化し、国民生活も僅かずつながらも豊かになった。

李朝時代の状況を知れば、朝鮮人が株式会社制度に信用を置かなかった理由が分かり、総督府の統制下に置いた理由が理解できる。
「 朝鮮事情 」 シャルル・ダレ1874年 ( 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫 )
朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。 その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで笞( むち )打たれる。 両班のなかでもっとも正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、 それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。 しかも、この強盗行為を阻止できる守令( 郡県の長官 )は、一人もいない。

「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年 ( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎりムチで打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。
これは搾取などという手ぬるいものではない。ならず者によるカツアゲだ。株式会社設立の許可制度の背景にはこういう社会状況があった。