大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
経済活動の抑圧


〔産業の侵奪〕 日帝は、韓国の土地を略奪すると同持に韓民族の産業活動を制約し、さまざまな手段で資源を略奪した。これは韓国を、日本の経済発展に必要な商品市場と原料供給地にして、彼らの国家利益を増やすためだった。日帝の産業侵奪政策に韓民族の経済活動は制限され、民族産業もその発展が抑圧され、沈滞するしかなかった。とくに、電気と鉄道などの事業は、朝鮮総督府と日本の大企業が握り、彼らの利益を増やすのに利用された。 ( 韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より )

植民地に本格的な工業を興したのは日本だけである。
「 韓国人の歴史観 」 黒田勝弘 平成11年 文春新書
韓国で「 植民地近代化論 」あるいは「 侵略と開発 」論を主導してきた学者に、安秉直・ソウル大経済学部教授がいる。安教授は研究者として、日本支配時代の功罪は実証的研究によって冷静に認識されるべきだとの立場から、「 これまで韓国内で常識とされてきた歴史観の見直しが必要である 」と述べている( 『 SAPIO 』1995年12月20日号 )。安教授によると「 植民地時代の朝鮮では農業経済が安定し工業生産力が拡充するなど、多くの発展があった。それは自生的なものでなく日本の植民地開発による部分が大きい。たとえばGDP( 国内総生産 )は1912年から37年までの平均で4.15%の成長だった。これは当時の先進国の成長率を上回っていた。それは植民地化の過程で日本が持ち込んだ貨幣制度、土地調査などの近代的な諸制度、そして港湾、鉄道、道路、電信、銀行などのインフラストラクチャーの拡大によるものだった 」という。そして日本の植民地支配の開発的側面を過小評価してはならないといい、「 従来のような独立連動勢力を特権化する歴史観は、反日感情への過大な配慮のため常にそういう傾向があった。その弊害として韓国の世論が歴史の事実から目をそらすことになり、植民地支配下において韓国人自身がどれほどの発展潜在力をもっていたのかとか、現代史における韓国経済の発展が近代史とどれほどの関連性を持っていたのかなど、客観的な研究と判断の余地をなくしてしまった 」と批判している。
植民地時代までさかのぼらなくても、戦後から今日に至るまで、韓国はずっと海外からの巨額な投資や融資に頼ってきた。植民地朝鮮に投下した国土改造・殖産興業の巨額投資は、朝鮮・韓民族の自力更生の力をはるかに超えたものであることを知るべきである。

元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に近代化できるわけがない。日本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。
「 こんな「歴史」に誰がした 」渡部昇一・谷沢永一 平成9年 クレスト社
渡部
日清・日露戦争当時の朝鮮というのは、底知れぬ貧乏国でした。単に近代産業がないというレベルではありません。農業生産にしても、とうてい日本とは比べ物にならないものだった。「 春窮( しゅんきゅう ) 」という言葉があるくらいで、秋に収穫した米も春を迎えるころになると尽きてしまうというのが珍しくなかった。収奪なんてできるわけがない。
また当然、商業なども発達していませんでした。日清戦争の後に、陸軍軍人であった柴五郎が朝鮮を旅行したときに驚いたのは、朝鮮には銀貨も紙幣もなくて、銅銭だけがあったということでした。つまり、当時の朝鮮には高額の貨幣が必要なかったのです。そして、その銅銭もシナから輪入した銭だった。

谷沢
日本で言うと、平安時代末期から鎌倉時代の状況です。つまり、コリアの経済は日本よりも800年遅れているわけです。(中略)李氏朝鮮においては商業は卑しいものだと思われていた。

「 朝鮮事情 」 シャルル・ダレ 1874年 ( 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫 )
朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる・箒・綱・紐・ござ・それに必要な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。

特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、徒弟期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀である。普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。たとえば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋と窯を作り、近隣の人のために雑器や土壷、時に大きな容器を作ったりするが、薪がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作業所などできはしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。したがって利潤はほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない

朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは容易に結論づけることができる。自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取り引きが市で行われている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。

朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だと思っている。もっとも一般的なのは5割・6割で、時には10割もの利子が要求される。商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。

李朝末の商業の発展段階を窺い知ることのできる旅行記。著者は、『 この国では商業という概念が行商人の商いに限られている 』と低調な商業活動を記している。
「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 講談社学術文庫 1998年 )
(   )は注記

( 李朝末、日清戦争の頃の朝鮮旅行記漢江という川を舟で旅した話ほか。 )
通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭( 注*日本の寛永通宝のような貨幣 )以外になかった。この貸幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なけれぱないでまたそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである! わたしが旅行の前半に雇った舟はバラスト( 注*舟を安定させるために船底に積む重し )が穴あき銭で、わたしは円の銀貨をつめたかぱんを持ち、自分の運のよさをあてにすることにした。そして今回の旅では、それもまんざら役に立たないわけでもなかったのである。
(中略)
銀を穴あき銭に両替しようとしたが、いつも金庫は空っぽだといわれ、誰も銀など信用してくれないか、そもそも銀というものを知らないかで、必需品がなにも買えなかった。さいわい人口1850人の村マギョに着いたときは市の日で、行商人がいそいそと銀35円を1円対3000枚のレートで穴あき銭に替えてくれた。穴あき銭を舟まで運ぶには6人の人手が必要で、舟はまた重たい荷を積むことになった。 ( 注*1枚3.75gの中国銭と同じと仮定すると両替した35円分の銭10万5千枚は394kgにもなる!!( 爆笑 ) 1円銀貨35枚では0.94kgである )
(中略)
ある大きな村でわたしたちは週に一度立つ市に出くわした。地域の交易について調べてみるのは毎度のことで、調査の結果、通常の意味での「 交易 」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。このような状態は朝鮮南部、とくに全羅道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して「 交易 」は存在しない。

このような状況をつくった原因は、朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運ぺないほど貨幣の価値が低下していること、清(シナ)西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しないことである。
(中略)
首都ソウルにおいてすら、最大の商業施設も商店というレベルには達していない。朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである

儒教は商人や職人を卑しい職業とみなしたため、李朝も商業や殖産を軽んじ、経済は停滞した。
「 世界の都市物語7 ソウル 」 姜在彦 1992年 文藝春秋
そもそも朝鮮の両班政治のもとで産業政策は農本主義であって、商業というのは末業として賎視され、その発展をできるだけ抑制する抑末思想が支配していた。( 末=まつ=大切でないもの、つまらないもの、の意 )商業というのは末利をうるための詐術によって儒教的な醇風美俗を大いに乱すというのが、抑末思想の理屈である。だから正当な商業利潤さえいかがわしい詐術による末利といい、そういう末利をかせぐ商人たちを「 謀利之輩 」といって賎称していた。したがってそういう末業を家業とする商人たちが誇りをもって子々孫々にそれを伝えるよりも、売官買職などあらゆる機会をとらえ、手段をつくしてでも両班身分への強い上昇志向を持たざるをえなかった。このことは匠人( チャンイン・手工業者 )の場合も同じであって、チャンインが訛ったャギは蔑視語になった。両班政治のもとで匠人は、「 身良役賎 」といわれた。身分は良人( 常民 )であるが、その家業は賎しいということになる。技術軽視である。もともと農業というのは、天候に左右され、したがって天意に逆らうことには限界がある。ところが商と匠は、そういう自然的制約を受けず、自分の計算と技能による独立自尊的な生業である。とりわけ儒教の抑末思想は、商と匠の活動の障害になりこそすれ、プラスにはならない。

李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では「 君子は労せず 」と教えており、額に汗して働く者を卑しんだ。そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。労働を卑しむ社会は停滞するほかない。
「 悲劇の朝鮮 」アーソン・グレブスト 1912年( 高演義・河在龍訳 1989年 白帝社 )
朝鮮の学者( 両班 )は、誰かうるさい人の目に労働と映りうることなら、できる限りそれから遠ざかろうとします。衣服を自分の手で着てはいけないし、タバコの火も自分で点けてはいけません。そばに手伝ってくれる者がいない場合は別にして馬の鞍に自力でのぼるべきでなく、また荒馬から落ちたとしても、誰かがやってきて抱き起こすまでは地面にそのまま倒れていなければならないのです。両班は個人的な商売はやらないのですが、その訳は商売というものがまさに労働であり礼に反するからです。

「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。

「 韓国人、大反省 」 1993年 金容雲 徳間書店
李朝末期に韓国を訪れた西洋人がテニスをしている姿を見て、時の皇帝高宗が、「なんと哀れなることよ、この暑い日に汗を流して体を動かすとは。下人にさせればよいものを・・・・ 』と言ったというエピソードがある。また、李朝時代の絵画には、むしろの上に横たわって長いキセルを口にくわえた両班が、稲穂を片付けて働く農夫の姿をぼんやり眺めている場面がよく見られる。このように労働を徹底して軽視した指導者たちの導く国のありさまはたやすく想像がつく。

「 朝鮮事情 」 シャルル・ダレ1874年 ( 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫 )
( 両班は )現在、この国の大きな災厄になっている。なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢であり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。彼らはいつも借金で首がまわらず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働に従事することも最後まで拒絶し通したものであった。何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、彼らは労働することを拒むのである。

「 30年前の朝鮮 」 バード・ビショップ 1925年( 「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社より )
読者は朝鮮人の無気力、怠惰、居候( いそうろう )根性、貧しさをつぶさに観察されたことになるが、このために朝鮮の独立はきわめて困難で、将来を望むことが難しい。
( 中略 )
朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は、国民が挙げて独立独行の精神に欠けていることである。健康な体格を持ちながら、親族知己に少し富裕な人があればその家に居候して、終日何一つの仕事もせずに暮らしている。
( 中略 )
居候も朝鮮人の居候根性は徹底したものである。京城市内の高官、裕福な人の家には、屈強な大の男が相当の教育がありながら数十人となく寄食している。三度三度の飯も食わしてもらえぱ、煙草一服も人のものを吹かしている。見苦しい話だ。
このような両班支配のもとでは産業の発展など到底不可能である。両班は極端に肉体労働を蔑み、殆ど働かなかったので、手足として使役する奴婢( 奴隷 )を必要とした。 李氏朝鮮の国力衰退の根源は、牢固たる階級差別制度にあった。 総督府は両班や奴婢などの身分差別を禁止して朝鮮人の意識改革をおこない、近代国家の「 国民 」を創出した。