大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
農民層の没落


1920年から始まった「 産米増殖計画 」は米の単作増産のための水利施設、開墾、干拓などは農民に租税、水税、小作料の増加をもたらし、農民の破綻没落をもたらした。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮産米の生産性は、どれだけ向上したか
日本の農務省による『 韓国土地農産調査報告 』によれぱ、1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。「 日帝36年 」の朝鮮統治で、米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。有史以来、年産1000万石以上を一度も超えたことのなかった朝鮮産米生産量は、昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。それは歴代総督が、食糧生産の充実と米穀生産性の向上に並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。朝鮮産米の対日輸出は、日本内地の食糧不足の救援に大きな役割を果たしたことは事実であったが、もう一方では日本農民の競争者となり、国内の米価低落に拍車をかけ、内地の農家に脅成と圧迫を与えた。とくに昭和5、6年の恐慌以後、いわゆる外地米統制問題として浮上し、朝鮮総督府と日本政府との間の対立をもたらしたほど発展していた。しかしながら、朝鮮近代史では、対日輸出による米価の高騰、日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、買弁化を強要されたとか、農民は正確な米穀の相場を知らないまま米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされたので、詐欺同然であるとか、さらに日本商人の高利貸的取奪が強められた……という記述も多い。いかなる時代でも米穀商人の「 収奪 」は存在するかもしれないが、朝鮮総督府の米穀保護政策は、決して現在の日本農水省の米穀保護政策に劣ることはない。たとえぱ、米価の決定と米作農に対する生産奨励補助金の交付などは、どう考えるべきだろうか。1941年の米価設定では、生産者の手取り価格は、1石で50円となるのに対し、消費者価格は43円に据え置きである。この差額は政府負担となった。43年には政府の標準買入れ価格は44円、奨励金などを算入して1石当たり62円50銭にまで引き上げられた。だが、標準売渡し価格は、43円であった。
日本によるわずか36年の植民地統治で米の生産量が倍増した。 彼らの誇る朝鮮半万年の歴史とは何だったのだろうか。


搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち
「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社
地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、苛斂誅求( かれんちゅうきゅう )の政治を行こない、自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、苛政( 暴政 )にいっそう拍車がかけられた。そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。

李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、「 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「 どうしてそれらの土地を耕さないのか 」ときいたところ、「 耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ 」という返事があった 」( 「 朝鮮の悲劇 」 F.A.マッケンジー )と書いている。

「 韓山紀行 」 山路愛山 ( 「 近現代史のなかの日本と朝鮮 」 山田昭次、高崎宗司 1991年 東京書籍より )
( 釜山にて )僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるものにして餒ゆれば( うゆれば=食糧がなくなって腹がへる )すなわち起って労働に従事し、わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき汚穢( おわい )なる家に蟄居し、その固陋( ころう )の風習を守りて少しも改むることを知らずという。僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。( 明治37(1904)年5月5日 )
朝鮮の発展はインフラの整備だけで成し遂げれるものではなかった。 怠惰な民族性を改め勤勉な労働精神を涵養しなければ朝鮮の発展はなかった。


朝鮮農民の手本となった日本農業移民
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
日本人の朝鮮半島に対する「 土地強奪 」間題としてよく批判されているのは、日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。日本人は両班( ヤンバン )ではあるまいし、法治国家の国民である。これほどの歴史歪曲があろうか。朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、せいぜい一割にすぎなかった仮に「 二束三文 」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。
( 中略 )
移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着し、農民は生活が向上している。

日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。開墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少なくなかった。たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。李完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、水田にもならない不毛の地であった。当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を強奪するよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行なう者が多かった。

日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの農業革命をまき起こしている。農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない光景であった。当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。雨や雪の日の労働を忌み嫌い、冬季になると室内に蟄居( 家のなかに閉じこもり )して、無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に従事し、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であった。そして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡った。そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、他人に顔を見せることを恥としていたが、婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。

日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった。日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。「 土地の収奪・搾取 」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たしてきた。その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないのだろうか。まことに遣憾である。

「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監( サンカン )という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変( 日中戦争 )に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。

(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「 夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります 」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「 ケンジャンハンラサム 」( 立派な人だな )とつぶやいたり、「 ヨクシ、ヨクシ 」( なるほど、なるほど )と相槌を打った。

また「 カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです 」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人( ソチクイン )である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「 敵産 」( チョクサン )としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「 べべーミ 」( 船が浮かぶような水田 )と呼んでいた。しかし、1911年( 明治四十四年 )、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「 ベベーミ 」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「 イルボンサラムン・キョンウカタルダ 」( 日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉 )という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「 アブチェビ 」( ゴマスリ )と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
李朝時代の朝鮮農民は、あたかも「 自然法則 」に弄ばれるように、4、5年に1回、巨大な旱魃、あるいは水害に襲われるので、農業はきわめて不安定であり、農民は自然災害に対しても無抵抗であった。政治に対してもそうであった。すべての民衆はこの人力をはるかに超える恒常的自然災害に対しては、いかんともしがたい天命として甘受しつづけてきた。そこから生まれたのが民族全体の諦観( あきらめ )であろう。農業というのは、自然の恩恵によって成り立っているもので、ある程度、自然に左右されやすい。しかし人力によって、その自然の猛威を克服しないかぎり、農業は成り立たないし、進歩発展も不可能である。農業がきわめて不安定、不確実であることを歴史的事実として体得した農民は、資本の再投下にほとんど関心がなく、先祖代々からもっぱら安易な略奪農法に明け暮れていた。それが李朝時代の社会経済発展の停滞を招き、自主独立の精神を喪失させるに至った歴史社会的背景であったともいわれる。朝鮮の歴史も、そのような農業基盤のうえに成り立っていた。

新渡戸稲造( 1862〜1933、農政学者、教育者 )が見た「 枯死国朝鮮 」とは、自然の枯死だけでなく、民族まで枯死に瀕していることを語っていたのであろうか。李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。統監府以前の朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学( せきがく )ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、地方の古老にも接して今昔を比較し、天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。朝鮮総督府は人さらい、草賊( 盗賊 )暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった

1930年からの3年間、中国西北部の大飢饉では、餓死者1000万人、1942年にはベンガルの飢饉で餓死者150万人が出た。20世紀前半になっても、アジア大陸各地を相変わらず飢饉が襲い続けた。しかし、朝鮮半島は、大旱魃に襲われたことがあったものの、飢饉はもはや過去のものとなったのである。

李朝時代の脆弱な農業基盤
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島は、地形的には脊梁山脈が縦走しているので、日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、朝鮮海峡側に注ぐ河川には大河が多い。また、有史以来、大規模な治山、治水は、ほとんど行なわれておらず、自然のままで放置されていた。雨季はだいたい7、8月ごろで、台風の来襲も同時期に集中しているので、洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自然生態史をつくってきた。

わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。日本の河川に比べて、流水量は二倍もあるのに対して、渇水期の流水量は、日本の河用の十分の一から二十分の一にすぎない。

朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、ほとんど自然のままの状態で荒廃していた。李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わずかに都邑のみにおいて、堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。

朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、あるいは河水を堰き止める石木や土でつくられた「 ボク( 上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、これを水路によって下流地方の平野に導水する )というものは、決して絶無ではなかった。はるか1500年前の新羅時代に有名なペタコル池(堤)という一大堰堤( 岸長1800歩 )があり、歴代王朝に堰堤の修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、山河がしだいに荒廃し、堰堤らしいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えることがなかった。

李朝の歴史記録によれば、堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわれる。しかし水利関係者が、「 万石堤 」と称する貯水池以外は、ほとんどどこかに消え、荒れ果てている。農事潅漑はたいてい腕力による。流水の汲み上げに限る足踏み水車も、まれにしか見られなかった。天水に頼り、農業はきわめて原始的である。
稲作を基本とする国では治水こそが繁栄の礎であるはずなのだが‥‥‥‥‥