大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
土地の侵奪


〔土地の侵奪〕 日帝の植民地支配下で、わが民族は、とくに経済的な収奪による大きな苦痛を強いられるようになった。この中でもっとも大きな被害を受けたのは、土地の侵奪だった。日帝は国権を奪った直後から、いわゆる土地調査事業という名目で、農民の土地を申告するように通達した。これは土地所有関係を近代的に整理するという口実で推進された。しかし申告手続きが複雑で困難だったことや、日帝に協調しようとしない反日感惰から、多くの農民は申告をしなかった。その結果、申告されない土地は地主がいない土地とされ、総督府の所有となった。また、従来の王室か公共機関に属していた多くの土地が総督府の所有になったし、全国的に分布していた門中の土地や村の共有地も大部分没収された。朝鮮総督府はこれらの農地を、日本人が経営する土地会社に払い下げたり、韓国へ来る日本人に安い値段で売り渡したりした。その結果、韓国の農民はさらに貧困になり、土地を奪われた農民は山奥へ人って、火田民( 焼き畑農耕民 )になったりした。新しい生活の基盤を探して満州など国外へ移住する者も増加した。 ( 韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より )

土地の侵奪は、李朝時代に両班によって行われてきた悪弊の一つであった。
「 韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実― 」 黄文雄 2002年 徳間書店
両班こそが土地強奪の犯人

「 日帝 」による朝鮮半島の土地強奪は、「 日帝七奪 」のひとつとして数えられている。よく言われる例は、日本人が小高い丘にのぼってあたりを見渡し、土地を指さして手当たりしだい良田を奪っていったという話だ。しかし、これはおそらく両班時代の「 土地強奪 」から連想して日本人に罪をなすりつけたものであろう。

ダレ神父は「 朝鮮事情 」( 1874年 )のなかで両班の土地強奪の実態を次のように述べている。『 両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令( 知事 )は一人もいない 』

戦後、日本人が韓半島で行ったといわれる土地強奪は、ほとんどがこの両班をモデルにしてでっちあげられた作り話である。そもそも、日本とは法治国家である。この大前提を、戦後の韓国知識人はどうやら忘れているようだ。

「 歴史民俗朝鮮漫談 」 今村鞆 昭和三年( 1928年 ) 南山吟社
回顧二十年前( 今村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。 )
新政の謳歌

従来官吏や両班やにイジメられて居つた良民は、日本官吏の配置と共に、特に新警察のために、保護を受けて、その恩恵に浴する事となつたから、その喜びは非常なものであつた。懸倒を解くとか、或は塗炭の苦より救ふといふ語があるが、実際に於て此の語に丁度ハマルものであつた。

鳥致院付近の村で殺人犯があつた、警察が往つた時には一部落逃亡して一人も居なかつた、元は殺人があれば、郡守(地方役人)が大勢の人を引き連れ、食ひ倒し、飲み倒し、かつ無辜( むこ( の民 ) )を捕へ、種々の誅求の種にしたからである、しかして其時、告示をして、旧来の如く人民に迷惑を及ぼさぬと諭して、安心して皆帰つた例がある。

或る処で農民が牛を盗まれ、その泥棒を警察署で捕へ、牛を被害者に還付せんとした時に、自分の牛に非ずとしてドーしても受取らなかつた。もし受取れば数倍の金を後々より取らるると信じたからである、トウトウ、牛を受取つても後より一文をも誅求せぬといふ証文を署長に書かしてようやく牛を受取つて往つた、しかして不思議がつて居た。

自分が出張中忠州付近で両班が農民の山の中へ、勝手に墓を作りその山を横占せんとし、紛擾をかもせる所へきかかり、その両班に、決して右の如き非行は相成らぬ旨を言渡した、その時一部落の人民は、五十人ばかりイクラ止めても喜んで送つて来た。

右の如き例は、枚挙に遑( いとま )の無い程あつた。また裁判の公平土地調査の為め、所有権を侵害される事の無くなつた事等は、民衆の大に喜んだ事であつた。

両班の動静

良民は新政を喜んだが、両班儒生の大多数は、新政に反対した。時勢を解した両班は、従前の行動を改めたが、中には民衆の無知に乗じ、依然として昔ながらの、横暴振を逞( たくまし )ふして居る者も多かつた。下民の身分を省みず、両班の前で喫煙したとか、馬で乗打をしたとか、いふ様な、良民が時勢に目醒めてする、従来の習俗に反する行為を咎め立てて、罵倒殴打する、等の事により、債務のカタに人や馬や財産を強収拉去する、なほ甚だしきは、土地の境界不明に乗じ、良民の土地を侵犯するといふ、慣行手段の悪事を公行して居たが、被害人民は、なほ十分に官庁を信頼せずして、申告しなかつた。この土地侵略の悪風は、土地調査事業完成の為根絶し、良民は該事業を、心から良制なりとして謳歌した。(中略) 一体に悪両班は、自己の悪事が出来なくなりし為め、新政を呪詛して居た。
総督府の土地調査事業によって土地所有権が確立し、農民の土地所有が保障されるようになった。それにより旧両班階級による不法な土地侵奪はなくなった。


李朝時代の土地所有と利用状況
「 朝鮮 」 金達寿 1958年 岩波新書
元来朝鮮には土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、彼らは土地の管理をせずに収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせきりであり、しかも舎音が何段にも重なって中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。

李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。
「 図説 韓国の歴史 」 1988 金両基 河出書房新社
晋州民乱( 1862年 )当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。剰余生産物の蓄積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知ることができる。

朝鮮王朝末期の自作農が3〜4割で、小作農が6〜7割だったという農村調査報告は、このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。いわゆる三政紊乱( 田税・軍役・還穀の乱れ )により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。
( 中略 )
乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。

「 日本による朝鮮支配の40年 」 1992 姜在彦 朝日文庫
1918年、つまり土地調査事業の終わった年の統計によれば、
 全農家の3.3%( 9万386戸 )が全耕地面積の50.4%を所有( 地主 )
 全農家の37.6%( 100万戸余り )が土地のない小作農
 全農家の39.3%( 104万戸余り )が自作兼小作農
 全農家の19.6%( 50万戸 )が自作農
というような農家構成があらわれています。

全農家の3.3%、戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているのです。これは農家というよりも地主です。農業経営にタッチせず、じっと座って小作料を得て生活する地主層なのです。もちろんこの3.3パーセントには朝鮮人、日本人を含みます。( 中略 )小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになっていたのです。ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。なぜ小作料が七割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、労働力を売る側に比べて買う側が少ない場合、売る側は安売りします。それと同じで、農村でも他に転業できるような近代産業が少ないため、土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、常に地主が有利な立場に立つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。
( 中略 )
農家全体の37.6%、戸数にして100万戸余りがまったく土地のない小作農です。100万戸となると、1家族を5人とみて500万人になります。当時、朝鮮の総人口は2000万人といわれていましたが、そのなかの500万人がまったく土地を持たず、地主の土地を借りて5割ないし7割の小作料を納めなくてはならなかったわけです。そのつぎは自作兼小作農です。つまり若干は自分の土地があるけれど、それでは足りないので、やはり地主の土地を借りなくてはならない。これが39.3パーセント戸数にして104万戸余りです。小作農と自作兼小作農を合わせると、全農家の77パーセントになります。

当時朝鮮にはまだ近代産業が発展していませんから、ほぼ8割ないし9割の人口が農村の土地にしがみついて生活していました。そしてそのなかの77パーセントが自分の土地を持たないか、もっていても少ないために地主の土地を耕しながら、収穫の半分ないし7割を収めていたのです。1920年の1戸あたりの平均耕地面積は1.61町歩( 水田0.57町歩、畑1.04町歩 )となっていますが、1町歩未満の農家が、実に全農家の66.97パーセント( うち0.5町歩未満が47.38パーセント )を占めています。つまり大多数の農家が零細農であるうえに小作農である、これでは人間が生きていること事態が奇蹟に近いのです。こういうところでは、地主はだいたい高利貸しを兼ねているわけです。ですから小作料プラス高利で二重に縛られた、そういう層が77パーセントいたというのが現実です。

結局77パーセントの小作農および自作兼小作農というのは過剰人口なのです。本当なら土地から離れて労働者になるべき人たちですが、朝鮮では農村の過剰人口を吸収するような近代産業の発展が遅かったから、いろいろな形でだぶついたのです。こういう過剰人口の存在は、まず第一に小作条件を非常に悪くします。小作農の立場は常に不利ですから、何とか土地を借りようと、地主のあらゆる要求をそのまま聞き入れなくてはならなかった。一つ例をあげましょう。日本の場合でも中国の場合でも、小作争議というのは、小作料があんまり高いから低くしろとか、借金を免除しろ、こういうのが普通です。ところが朝鮮の場合、小作争議の理由の部分は、これは想像もつかないことですが、地主による小作権移動に反対するということなのです。つまり、地主は小作農家が気にくわなければいつでも小作権を取り上げてほかにやってしまう。だから小作料が高いとか安いとかの問題以前に、小作権を確保するために血眼になったのです。土地にしがみつくしかほかに生活の方法がないものですから。これが朝鮮農民の小作争議の特徴です。
農業以外に産業がないと農民になるしかないため、人口増加によって小作人が増え小作人の割合が増加していく。また朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。

「 NOといえる教科書 」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
井沢
さてこの時代になると韓国の教科書の記述は一方的で、これはある意味で予想されたことですが、中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。まず「 土地の侵奪 」という項です。要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。土地所有関係を近代的に整理するという理由をつけてのことだったけれども、しかしその登録方法がむずかしいのと、反日意識のため、登録しない農民が多かった。登録されない土地は持ち主がいないということになって、朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。

藤岡
それは歴史の歪曲です。どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、農民の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。封建社会においてはヨーロッパでもそうでしたけれど、近代的な意味での土地所有権というのは、はっきりしていないんです。実は何重にも権利が重なっているということがあります。日本の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、近代的な意味での土地所有権という慨念を確立したわけですが、日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。つまり朝鮮総督府の最大の功績の一つは、土地の所有権を認めたということです。つまり農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を公権力が保障したということなんですよ。これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。たしかにその過程でいろんな混乱はあったでしょうし、不平、不満も出たことでしょう。

井沢
たとえば権利が重層しているような場合ですね。両方が争って、どちらか一方に決まれば、もう一方の側としては、奪われたということになりますね。

藤岡
そういうことはあったとしても、全体として、この施策は明らかに朝鮮の近代化に役だったはずです。現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、持ち主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、その比率はごく微々たるものです。
山本有造氏の「 日本植民地経済史研究 」( 名古屋大学出版会刊 )によると、こうした理由で総督府に接収された上地は約12万町歩、また定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないために接収された土地は2万7000町歩で、合計14万7000町歩ということです。1922年( 大正11年 )の時点で朝鮮における全耕地面債は450万町歩ですから、土地調査により総督府が接収した土地は全耕地の3%ということになります。ちなみに同年の日本人農業者所有土地面積は17万5000町歩、東洋拓殖という国策会社の所有土地面債は8万町歩で、計25万5000町歩です。これも全耕地面積の5.7%にしかなりません。

井沢
それがこの教科書では、何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読めますね。韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。ここで引いた教育出版のものでは「 土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった 」、大阪書籍では「 韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて農民たちから多くの耕地を取り上げ 」と、韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。

井沢
なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。そもそも近代的な土地所有権の確立されていない国は、近代化できないんです。これは鉄則です。ものを作るにしても何にしても、まず土地の所有が確定してないとどうしようもありません。総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。中国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。もっとも、朝鮮政府でも1895年に、量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。このことは付け加えておいていいでしょう。

「 韓国・朝鮮と日本人 」 若槻泰雄 1989年 原書房
ある国ある地域を植民地にした宗主国にとっては、土地に関する権利関係を整理することは最も重要な政策の一つである。というのは、前近代的な社会においては、土地所有権といった概念自体が確立しておらず、各種の伝統的利用権などが錯雑として存在しているからである。このような状態では、本国からの農民が土地を取得することは困難だ。農業移民に限らず、不動産が安全に取引されなければ、経済の発展は阻害されることになる。それに、これらの後進地域では、土地の面積も境界も定かでないことが多い。たとえば当時の朝鮮においては、田畑の面積は、『 一斗落ち 』( 一斗の種籾を播くほどの広さ )とか、『 一日耕 』( 農夫一人、牛一頭が一日間で耕すほどの広さ )といった単位ともいえないような単位を用いていた。これでは正確な課税もまた不可能となる。これらの問題を解決するためには土地台帳を整備することが必要であり、そのためにはまず土地調査事業を実施しなければならない。そこでいずれの宗主国も、その植民地に権力を確立すると、人口調査、度量衡の統一、貨幣の統一などとともに、最初の仕事として土地調査に着手するわけである。

( 中略 )
李朝末期には、土地の圧倒的部分は貴族によって所有され、彼らはソウルや地方都市に住み、完全に不在地主化していた。耕作農民と所有者の間には幾層にも中間的な管理人が介在し、小農は独立生産者というよりは農業労働者に近い状態で、彼らの下に隷属していたといわれる。そして耕す農民が土地を所有するという農民的土地所有権は確立しておらず、いつでも国家の収用により没収される不安な状態にあった。総督府の実施した土地調査事業は、少なくとも、農民の50%余りに土地所有権を確立したことも事実なのである。土地調査事業は、社会、経済の近代化のために絶対必要な施策であって、この事業自体を何か悪政のようにいうのは的を外れた批判といわねばならないだろう。

総督府は市街地、農地にひきつづき1918年、林野調査部を設け、林野の所有者の境界の調査も実施した。朝鮮の山林は、特別保護されている“封山・禁山”を除き、無主公山と称し自由伐採が許されていた。そのため山林は荒廃し、ことに、公私有の権利関係があいまいに混在しており、紛争や訴訟があとをたたなかったといわれる。村有地など公共の所有地は誰もが申告しない場合も多いから、そのような土地は無主地として国有財産に編入された。

日本においても明治維新後間もなく、同じ目的で土地調査事業が行なわれ、土地所有権を確定し、地券を交付した。その際、農民の伝統的耕作権が否定されたり、入会地など誰も申請しない土地が国有地に繰りこまれる事態が生じ、朝鮮の場合と同じような問題がおこった。日本全体の林野面積の70%近くが国有地となった一つの理由は、このような経緯から来ているのである。

日系第一の地主ともいうべき国策会社“東拓”( 東洋拓殖株式会社 )の所有耕地面積は、最大のときでも朝鮮の総耕地の4%にすぎなかった。(中略)東拓は朝鮮農民から土地を購入して、これを日本からの農業移民に分譲することをその主たる業務として発足したのであるが、日本移民の成績がかんばしくなかったこともあり、総督府は大正後半以降、同会社の土地買収を認めなくなった。(中略)また、農民に対し貸付を行ない、その元利の返済がないことを理由に担保の土地を奪ったとして非難される東拓の金利は、1933年には8%、1935年には6%と低下している。資本が不足している植民地では一般に金利が高いのが普通であって、インドでは月に20%といった金利さえ存在したことを考えると、東拓の金利は借り手にとって著しく有利なものといえよう