大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
鉄道・道路の建設


総督府の鉄道・道路・港湾の建設は、朝鮮人の生活向上のために行ったのではなく、その目的は、物資の大量輸送を可能にして経済的収奪を強化することであり、中国大陸侵略を画策する日帝の兵站基地にするためでもあった。

李朝時代の劣悪な道路・交通状況
「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、ならしてない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、7月はじめの雨で流されてしまう。そして10月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。首都に中心をおく《六大道路》ですら、橋はふつう渡るまえにまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の川床に丸石をばらまいたもの以外のなにものでもなく、最良の場合でも、冬場のソウル・済物浦( ソウルの外港 )間のように、ぬかるみの深さが1フィートから3フィートにおよぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、わたしも広くたどったが、朝鮮の発展の大きな障害のひとつである。
( 中略 )
( 朝鮮東部の都市元山へ向かう幹線道路を行く )道路が広くなると、その中央には固まった泥の山がつづき、両側には同じく固まった泥がうねになっている。道路が狭まれば、これはたんなる田んぼの畦道にすぎない。橋はとりわけ劣悪である。あまりに老朽化しているので、馬夫たちが馬を歩かせたがらず、どの川もじかに渡ったほどである。それでもこの道路は、わたしの踏破した三ヵ所がすべて悪路だったにもかかわらず、東海岸と西海岸からの貨物が行き来する第一級の幹線道路なのである。

「 朝鮮の政治社会 」 グレゴリー・ヘンダーソン 鈴木沙雄・大塚喬重訳 1973年 サイマル出版会
英字新聞「 コリアン・リポジトリィ 」( 1892年4月 )は平壌と大邱にはそれぞれ7万5千人が住んでいた( ソウルに次ぐ人口)ことを報じているが、ちょうどこの時期に大邱( テグ、慶尚北道中心都市 )に住みついた宣教師アダムス一家は、彼らの輸入した自転車が、悪路のため思うように乗りまわせなかったことを記している。

「 鎖国の汎パラダイム 」 金容雲 1984年 サイマル出版会
『 港には桟橋がなく、人の背におぶさって陸にあがるほかない。馬は跳び下りるため足を折ることが往々にしてある 』( 朴斉家「 北学議 」 )この文の内容から察すると、李朝の末頃に至っても、港はほとんど原始状態であったことを示している。1854年、当時の香港総督が本国の外相に送った手紙には次のような部分がある。『 ……韓国は非常に衰退し悲惨な状態にある。……通信は極悪、航行可能な河川はごく限られている 』

「 アリラン峠の旅人たち ―聞き書朝鮮民衆の世界― 」 安宇植訳編 1982年 平凡社
( 灰色文字は注 )

( 李氏朝鮮では道路が整備されず交通網が発達しなかった。そのため物資運搬のための荷車も運行できず、物資はもっぱら褓負商( ほふしょう )と呼ばれている行商人たちがチゲという背負子で運んでいた。それはあまりにも過酷な仕事であった。 )
ある旅行者はこの、歩行にかかわるこの国の交通事情について次のように書いている。
都会の周辺を脱け出すともう、まったく道路の体裁は整っていない。ほとんどが山野の自然の状態のままにおかれ、人々に踏まれて自ずと作られた道路であるため、道幅がすこぶる狭く、かろうじて牛馬を通すことができる程度しかない。いわんや河川の状態を見るにいよいよ不便で、橋梁の架設された所がきわめて稀なため、やむをえず狭いどぶ川を素足になって渡らねばならない。広いどぶ川には不安定ながらも飛び石伝いの橋や、渡し舟があってどうやら素足になることを免れる、といったていたらくである。ひとたび夏の長雨にでくわせば、河川は氾濫し、泥水が丘陵を覆い尽くし、波は矢のごとく広がっていく。これはとりもなおさず、山村の荒廃したことに起因するもので、そんな時に河川を渡ることは到底不可能なため、旅人は虚しく堤防で右往左往し、水のひく日を待ちわびるほかない。
( 中略 )
彼ら( 褓負商 )はしばしば、山奥で虎に襲われて食い殺されたり、堀に落ちて死んだりした…  ( 褓負商だった )尹求礼老人には左足の小指から3本は跡形もなく。右足は親指しかの残っていない。つまり左右合わせて3本というわけである。けれども歩くことには熟達していたから、今でも薪をたっぷり担いで運び出すそうである。足の指は、冬場にしばしば凍てついた雪の道を歩いたうえ、満足に凍傷の治療が施せないため、一本また一本ともげてしまうのが普通だと語る。( 朝鮮の冬はソウルあたりでも河川が凍結するほど厳しい。褓負商は厳冬期だからといって仕事を休めるわけではないのである。 )
仮に、この状況を総督府が放置したままであったならば、現代韓国人は総督府の施策を非難するであろう。韓国人の主張は、いちゃもんレベルの話だ。


鉄道の開通を単なる交通問題と片付けてはならない。その影響は新時代の象徴として、朝鮮に社会変革をもたらしたほどなのである。
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
李朝時代の朝鮮半島は、そもそも交通、流通が未発達な社会であった。それも朝鮮の国家安全を守る鎖国攻策の一つであった。『 朝鮮交通史 』によれば、主要幹線街道においてさえ、辛うじて人馬を通しうる個所も少なくなく、河川には橋梁の架設がなく、徒歩または渡し船に頼った。道路事情が悪いため、旅行は徒歩、カゴまたは駄馬により、貨物の輪送もかついだり、駄馬によるほかなく、駅站の後を受けてできた郵逓局の逓送も駄馬及び歩行の両方法を用いた。だから大量貨物の遠距離輪送はほとんど不可能であった。

朝鮮半島での日本の鉄道建設は、「 朝鮮人の抵抗を抑え込み、大陸侵略の橋頭堡 」とするためとか、「 台湾での鉄道建設は南方侵略の南進基地 」云々という進歩的知識人の告発は多い。日帝が朝鮮半島で道路建設を行なった真の目的とは、日本軍の移動と穀物収奪、運搬、そして警備が主眼であった、という見方もある。あるいは交通網の拡充は、大陸侵略のための軍事的施設、植民地収奪を強行するためにつくられたものといわれる。いわく、鉄道は中国大陸侵略への「 幹線 」であり、建設された第一級国道は軍用道路である云々。日本人の鉄道建設への狂卉は、それは軍事的考えや軍主導の下で進行されたものとよく指摘されるが、それはそのとおりであろう。列強諸国の時代では、鉄道はただの「 産業開発 」目的というよりも、多元的な目的を持つことが当然だったわけで、どの国家もそうであり、シベリア鉄道でもそうであった。

しかし、朝鮮半島では東西南北に貫通する鉄道の出現によって、政治上、軍事上、社会上だけでなく、人文地理的にも大きな変化が起こっていた。それは今までの村社会に閉じ込められている自給自足の原始的社会から脱却し、産業の発達、単一市場の形成だけではない。日本から新しい、先進的な技術、資本( ヒト、モノ、カネ )、さらに情報の流入があった。近代社会として成長した人的交流と物的流通によって、国土観も変わり、朝鮮人相互の紐帯を強固にし、朝鮮人に一つの民族としての自覚をも与えたのである
朝鮮半島がアジアで第二の交通網整備地域となったのは歴史的事実である。


李氏朝鮮の社会資本は無きに等しかった。
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
中央集権体制国家の中華帝国にならって、さらに極端な中央集権体制を敷いていた「 小中華 」は、すべての国富をソウルに一極集中し、牢固たる村国家をつくったものの、国富のシンボルであるはずのソウルは、決して「 栄華の都 」ではなかった。いかに時代の流れに取り残されていたのか、数多くの記録が残されている。

統監府時代に、京城控訴院判事として韓国政府に招耽された山口貞昌氏の回顧( 明治四十一年六月 )によれば、赴任した当時、「 道路は狭隘で、しかも糞尿は至る処道端に満ちて居るという有様でした。井戸水は混濁していて風呂に入れば茶色の湯で、かえって体が汚れる様な感を催し、飲料水は石油の空罐一ぱい何銭で買って使用するという状態で、電燈は未だ一般に普及せず、我々の借家にはその設備がなくランプを使っておりましたが、冬になると寒気が烈しいので、石油が凍ってだんだんと光が薄暗くなり、仕事ができないほどでありました 」( 『 朝鮮における司法制度近代化の足跡 』友邦協会編 )だという。

朝鮮総督府は、そのような社会に上下水道をつくり、道路をつくり、近代都市をつくりあげたのだった。もっと知らなければならないのは、朝鮮の都市計画は、総督府の予算からではなく、すべて日本の国家予算で施行したものであったことである。