大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
ソウル南大門付近の変遷を見る


1910  韓国併合、総督府設置、土地調査事業はじまる( 〜18 )
1912  清朝滅亡し中華民国成立
1914  第一次世界大戦勃発
1918  日本で米騒動、ウィルソン民族自決を提唱
1919  三・一事件おきる、文化政治開始
1920  産米増殖計画はじまる
1923  関東大震災で朝鮮人殺される
1929  世界恐慌はじまる
1931  満州事変勃発
1932  満州国建国
1933  農村振興運動はじまる
1937  盧溝橋事件おこる
1938  陸軍特別志願兵制度実施
1939  日本企業による労働者募集はじまる
   第二次世界大戦はじまる
1940  創氏改名実施
1941  真珠湾を攻撃し日米開戦
1942  官斡旋による労働者募集を行う>
1944  国民徴用令を朝鮮に適用>
1945  日本敗戦で朝鮮解放
1948  大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立
1950  朝鮮戦争おきる
1965  日韓基本条約調印

序、ソウル南大門付近の変遷から日本の朝鮮統治をみる

日本の朝鮮統治を検証するには、現代の価値観から日本統治時代を非難するのではなく、当時の時代背景を考慮して、李朝時代から日本統治時代になって何がどう変わったかを批評すべきだ。その意味で南大門は、ソウルのランドマーク的建造物なので写真が数多く残っており視覚的な比較に適している。

1897年、イザベラ・バード「 朝鮮紀行 」から
ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。

「 映像が語る「 日韓併合 」史 」 辛基秀 1987年 労働経済社
撮影年度は不明であるが、江華島条約で朝鮮が開国したのが1876年だからそれ以降であろう。首都ソウルは市内が城壁で囲まれた囲郭都市で、南大門はソウル四大門の一つで20万都市の正門であった。王宮へ向かう大通りに沿って粗末な藁葺き屋根の家が建ち並び、衰退した国力を物語るような町並みが広がっていた。

それでは、一挙に南大門関連の写真をならべます。

南大門・1880年代

南大門・1880年代
大通り( 中心街 )1。

南大門・1880年代
大通り( 中心街 )2。

南大門・1897年
城門の前は商人の店。

南大門・1900年前後

南大門・1904年ごろ
日露開戦にあたって日本軍が南大門からソウルへ入城する光景。

南大門・1920年代?

南大門・1920年代?
南大門外から南大門を望む。

南大門・1930年代?( 1 )

南大門・1930年代?( 2 )

南大門・1930年
南大門通黄金町交差点付近
日本統治時代になって発展したのは一目瞭然
路面電車の線路が見える

南大門・1950年

南大門・1951年

南大門・1995年

南大門・2008年2月11日放火により崩壊
見事に焼け落ちた「 国宝第1号 」の崇礼門
元々日本が勝手に決めた国宝であり、日本統治時代の烙印であるとして、韓国国内の一部には「 国宝第1号 」を朝鮮の文化的な「 独立宣言 」である訓民正音等に変えるべきであるとの意見もある。
崩壊した南大門前で記念撮影する韓国警察官
右から2人目は“Vサイン”を出す寸前。 シャッターがあと1秒遅ければ…
焼失直後の崇礼門と集まる人々

写真で比較すると発展の度合いが一目瞭然であるが、写真では住民の生活の雰囲気まではなかなか伝わってこない。そこで李朝時代と日本統治時代の紀行文から時代の雰囲気を感じていただきたい。
「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
首都の第一印象( 李氏朝鮮時代 )

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「 地べた 」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「 小間物 」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。

商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい。
( 中略 )
南山の美しい丘からはソウルの全景が眺められる。周囲の山々は松の木立が点在するものの、大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。こういった山々の取り囲む盆地の中に20万の人々がひしめきあっている。城内は大半が藁ぶきの低い茶色の屋根の海で、林も広場もなく、単調きわまりない。この茶色の海から突き出ているいるのが城門の反り返った二重屋根と灰色花崗岩の王宮の石塀で、その中にさまざまな殿舎の大きな屋根がある。東の城門から西の城門へと広い通りが市街を貫き、この通りから南の城門へともう一本の通りが走っている。中央の大通りからはさらに幅95ヤードの広い道路が王宮へと向かっている。常にじゃま物のないようきれいに片付けられているのはこの通りだけで、ほかの街路は屋台店が両側に並び、通行用には狭い道幅しか残っていない… しかし何百本とある、もっと狭くてしかもその幅が軒やどぶで狭められている路地では、人間どうしがすれ違うがやっとだ。何マイルも続く土壁と深い軒、どろどろとした緑色の溝、黒ずんだ排気口の間には、男性の住民と荷物の運搬人以外、動くものはあまりない。どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。

昼間水をくんだり洗濯したりする女性の多くは下女で、全員が下層階級の人々である。朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。8時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。私が到着したのもそんな時間帯であり、まっ暗な通りにあるのは、もっぱらちょうちん片手の召使いをお供にした女性の姿だけという異様な光景であった。ただし、盲人、官僚、外国人の従僕、そして処方箋を持って薬屋へおもむく者はこの取り決めから除外される。投獄を免れるためにこういった肩書をかたる場合は多く、長い棒を手に入れて盲人のふりをする者もままある。12時にもう一度鐘が鳴ると、女たちは家にもどり、男たちはまた自由に外出できる。ある地位の高い女牲は、昼間のソウルの通りを一度も見たことがないと私に語った。

夜間の静けさはきわめて印象的である。鼻歌ひとつ、咳ひとつ聞こえず、ひそとも人の気配がない。通りに面していて、なおかつ明かりのともった窓というのがほとんどないので、暗さも徹底して暗い。静寂を破って届く《大釣鐘》のゴーンという低い音には、不吉ともいえる響きがある。
白人が優越感で東洋人を見下しているのではないか、と感じられた方は同じ著者がほぼ同時期に日本を訪れ、「 日本奥地紀行 」( 平凡社東洋文庫 )を書いているので読み比べるとよい。「 朝鮮紀行 」とは反対に日本を過賞しており、偏見でもって「 朝鮮紀行 」を書いたのではないことが分かる。しかし文明開化後の日本と朝鮮を比較するのは不公平なので、幕末の日本を記した「 ペルリ提督日本遠征記 」と比較してみよう。

ペリーの見た幕末の日本。1854年ペリーは黒船で二度目の来航をし、神奈川で日米和親条約を調印して下田、函館の開港をとりつけ、帰路両港を訪問した。以下はペリーの観察した日本の工業の将来展望、女性の地位、庶民の生活水準、都市の印象、教育水準を記したものである。
「 ペリー艦隊大航海記 」 大江志乃夫 1994年 立風書房
ペリーは日本をつぶさに観察し、その遠征航海の公式報告書を編纂し… 「 ペルリ提督日本遠征記 」( 岩波文庫全四巻 )として邦訳されている。「 遠征記 」は、日本を観察した結論として、『 人民の発明力をもっと自由に発達させるならば日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう 』 『 日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう 』と予言している。もし、その豊かさと限りない発展の可能性についてペリーが揺らぐことのない信頼を寄せていた故国アメリカに対する、最大の競争者として立ち現れた140年後の日本を見たならば、彼はどのような感想をもらしたであろうか。ペリーは帰国した後も、『 あまり年を経ずして、日本が東洋( トルコ以東のアジア地域 )のなかで最も重要な国家の一つに数え挙げられるようになる 』ことに『 疑う余地がない 』と指摘した。
( 中略 )
4月10日、ペリーは旗艦を下田に回航させる前に数人の仕官を従えて上陸し、幕府役人の案内で神奈川郊外を視察した。

ペリーたちはある町で「 町長 」の自宅に招かれ、酒と茶菓の接待にあずかった。「 町長 」の妻と妹が給仕にあたったが… こうした女たちの態度と行動にペリーたちは好感を抱いたようである。「 遠征記 」は日本の女性の地位について次のように書きとめている。『 日本の社会には、他の東洋諸国民にまさる日本人民の美点を明らかにしている一特質がある。それは女性が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されていないことである。日本の母、妻、および娘は、中国の女のように家畜でもなく…  一夫多妻制の存在しないという事実は、日本人があらゆる東洋諸国民のうちで最も道徳的であり、洗練されている国民であるという優れた特性をあらわす著しい特徴である。この恥ずべき習慣のないことは、単に婦人の優れた性質のうちに現れているばかりでなく、家庭の道徳がおおいに一般化しているという当然の結果のなかにも現れている。 …日本婦人の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、どちらかといえば美しく、立ち居振舞いはおおいに活発であり、自主的である。それは彼女らが比較的高い尊敬を受けているために生ずる品位の自覚から来るものである。日常相互の友人同士、家族同士の交際には、女も加わるのであって、互いの訪問、茶の会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている 』
( 中略 )
この日の視察で得た他のことも記しているが、そこでは、『 下流の人民は例外なしに、豊かに満足しており、過労もしていないようだった。貧乏人のいる様子も見えたが、乞食のいる証拠はなかった。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くのところと同じく、女たちが耕作労働に従事しているのもしばしば見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示していた。最下層の階級さえも、気持ちのよい服装をまとい、簡素な木綿の衣服を着ていた。 …あらゆる階級の人々はきわめて鄭重で、外国人について知りたがり屋だが、決して図々しくでしゃばりはしない。 …彼らの習慣は彼ら自身の間では社交的で、しばしば互いに親しい交わりをむすんでいる 』と描写している。

4月18日、ペリーは旗艦ポーハタン号とミシシッピ号の二隻の蒸気船を率いて下田に入港した。

『 下田の町は小じんまりと建設されていて、規則正しくできている。 …街路の幅は約20フィートで、一部分には砕石が敷かれており、一部分は舗装されている。下田は進歩した開化の様相を呈していて、同町の建設者が同地の清潔と健康に留意した点は、我々が誇りにする合衆国の進歩した清潔と健康さよりはるかに進んでいる。濠があるばかりでなく下水もあって汚水や汚物は直接に海に流すか、または町の間を通っている小川に流し込む 』と、清潔と健康に留意した町づくりを称賛している。

ペリーは5月13日下田を出港し、5月17日函館の港に投錨した。

函館の街路は互いに直角に交差するよう整然と建設され、道幅も広く、排水をよくするために砕石が敷かれ、両側に排水溝があり、排水はこの溝から下水渠をとおって海に排出される。『 函館はあらゆる日本町と同じように著しく清潔で、街路は排水に適するようにつくられ、たえず水を撒いたり掃いたりしていつでもさっぱりと健康によい状態に保たれている 』
( 中略 )
教育については、下田でも函館でも、書物は店頭で見うけられ、『 明らかにおおいに需要されるものであった 』として次のように述べている。『 人民が一般に読み方を教えられていて、見聞を得ることに熱心だからである。教育は同帝国いたるところに普及しており、また日本の婦人は中国の婦人とは異なって男と同じく知識が進歩しているし、女性独特の芸事にも熟達しているばかりでなく、日本固有の文字によく通じていることもしばしばである。アメリカ人の接触した日本の上流階級は、自国のことをよく知っていたばかりでなく、他の国々の地理、物質的進歩および当代の歴史についても何事かを知っていた 』

当時すでにペリーらが日本から受けた印象は、鎖国下の日本が他のアジア諸国とはかなり違った文化的・社会的発展を遂げつつある国であり、近代欧米文化に適応する能力と文化水準を十分にもち、いずれは欧米先進諸国の競争者の仲間入りをする可能性を秘めた国である、ということであった。
ペリーは的確な観察眼で、日本はいずれ欧米諸国並みの工業国家になると予想し、事実そうなった。ペリーがもし李氏朝鮮を訪れていたならどう評価しただろうか。

では、朝鮮の女性はどうだったか?イギリス人旅行家( 女性 )の見た李氏朝鮮時代の女性。李氏朝鮮時代の女性は、異常なまでに男性と隔離され家に閉じこもっていた。
「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年 ( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
朝鮮の女性の地位

朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からはおよそほど遠い。着ているものは汚れ放題で、夜遅くまで休みなく洗濯をするのは自分たちでも、きれいな衣服を着るのは男の専売特許と言わんばかりである。どこの小川のほとりでも平らな石の上にしやがんでいる洗濯女がいて、洗濯物を水につけたり、固くしぼって石の上に置きへらでたたいたり、灰汁にひたしたりしている。洗濯物は天日にさらされて白くなり、また薄く糊づけされるが、その前に木の捧に巻いて「 洗濯棒( 砧=きぬた ) 」で長時間たたくので、なんでもない白もめんがくたびれた白い繻子( しゅす=サテン )のようなつやを帯び、まぶしいほどのその白さはマルコによる福音書の変容の章にある衣服についてのことば、「 それはこの世の布さらしではできないほどの白さであった 」をいつもわたしに思い出させる。このように白服を着ることは女性に重労働を課し、綿入れの白服を着る冬はとくにそれがひどい。
( 中略 )
朝鮮女性の地位の現状を推しはかるのはじつにむずかしい。完全に蟄居するのが上流階級では厳然としたルールなのである。女性には専用の敷地と住まいがあり、男性用の住まいの窓はその方向に開いてはいけないことになっている。客も訪ねた家の女性についてはいっさい言及してはならない。元気かどうか尋ねるなどもってのほかで、女性はいないと考えるのが礼儀なのである。女性は教育を受けず、どの階級においてもきわめて下位に見なされている。朝鮮人男性は女性とは当然男性より劣ったものだという、ある種一元的な哲学を持っている。学校時代に『 童蒙先習 』、『 十八史略 』、『 小学 』でこういった見方を植えつけられ、おとなの男たちとつきあうようになると、それがますます強化されるわけである。

女性の蟄居は500年前、社会腐敗がひどかった時代に家族を保護するために現王朝が導入した。それがおそらく今日までずっとつづいてきたのは、ある朝鮮人がヒーバー・ジョーンズ氏に率直に語っているように、男が自分の妻を信頼しないからではなく、都市社会と上流階級の風紀が想像を絶するほどに乱れ、男どうしが信頼し合えなかったからである。かくして下層階級をのぞき、女性は老いも若きもすぺてが法よりもつよいカを持つしきたりにより、家の奥に隠されている。夜間にしかるべく身を覆って出かけるか、どうしてもという場合にぴったりと扉や窓を閉ざした輿( こし )に乗って旅行したり人を訪ねたりするのが、中流以上の朝鮮女牲にとっては唯一の「 外出 」で、下層階級の女性が外出するのはもっぱら働くためである。暗殺された王妃( 閔妃 )はわたしが朝鮮国内を旅行していることをそれとなく指して、自身は朝鮮のどこも見たことがなく、ソウルすらコドゥン( 国王の行幸 )で通るところ以外なにも知らないと語っていた。

ダレ神父( 「 朝鮮教会史序論 」の著者 )によれば、故意と偶然のいかんによらず、よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助けだそうとはしなかった。その理由は、どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった、そんな女性は助けるに値しないというのである!

法律も女性の住まいまでは及ばない。自分の妻の部屋に隠れている貴人は謀叛罪の場合をのぞき捕えることができない。また家の屋根を直す際には、隣家の女性が目に触れないともかぎらないので、あらかじめ近所に修理する旨を知らせなければならない。7歳で男女はべつべつになり、女の子は厳しく奥にこもらされて結婚前は父親と兄弟以外、また結婚後は実家と嫁ぎ先の親族以外、男性にはまったく会えなくなる。女の子は極貧層でもみごとに隠れており、朝鮮をある程度広く旅行したわたしでも、6歳以上とおぼしき少女には、女性の住まいで物憂げにうろうろしている少女たちを除き、一人も出会ったことがない。したがって。若い女性の存在が社会にあたえる華やぎはこの国にはないのである。

とはいえ、女たちがこのシステムのもとでくよくよしたり、西洋人女性が享受しているような自由を求めたりしているかというと、まったくそんなことはない。蟄居は何世紀もつづいている慣習なのである。自由という概念は危険で、当の女性たちは自分たちは貴重な財産だからしっかり守られているのだと考えているのではなかろうか。ある聡明な女性に自由に外出できる西洋の慣習をどう思うか執拗に尋ねたところ、「 あなた方はご主人からあまり大切にされていないと思う 」が答えであった!
( 中略 )
上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、読み書きのできる朝鮮女性は1000人にひとりと推定されている。概して中国から入ってきた考え方のようであるが、鬼神に関する民間信仰、男性が受ける教育、文盲、法的権利のなさ、慣習の根づよさが重なって、開化国でありながらも女性の地位を末開国並みに低くしてしまっている。
( 中略 )
朝鮮人には家はあっても家庭はないのである。夫は別個に暮らし、社交や家の外の関心事といった共通のきずながない。夫の遊興の仲間や相手は同性の友人知人や妓生( キーセン )で、その夫婦関係はある朝鮮紳士がわたしに語った「 娶( めと )るのは妻、惚れているのは妾 」という簡潔なことばに要約される。

イザベラ・バードが朝鮮を訪れた20年後、日本統治下の朝鮮では女学生がデモ行進を行えるまでに解放されていた。( 笑 ) 儒教体制の李朝支配下では想像すらできなかったことである。日本の朝鮮統治は女性の社会進出や地位向上に大きな貢献をしたといえるだろう。日本統治時代になって明るくモダンになったソウル。特に女性を比較していただきたい。まさに隔世の感がある。
「 京城ローカル・春の巻 」 1938年 京城ローカル社 ( 「 ソウル都市物語 」 川村湊 2000年 平凡社新書より )
街の表情( 京城 )三越前から

カールもあざやかなモガ( モダンガール )が足をのばしてぺーブメントを踏む、水々しい高島田を真白い顔に乗せてゲイシャガールが人力車に乗つて悠々と行く、チマをスカート風にきりつとさせて、ハイヒールの朝鮮の娘さんが颯爽と行く、白いツルマキを着込んだオモニーがゐる支那人がゐる、アメリカ人がゆくそしてまた、彼氏彼女がゐる。まこと本町は流れる人の波に明けて暮れる。あの狭い、ウナギの寝床みたいな街といふなかれ、大阪なら心斎橋通りといつた感じではないか。先づ本町をブラブラしやうといふ者は、定石に従へば電車も自動車も鮮銀と三越と郵便局とに囲まれた広場に降りる、この辺りは京城のセンターである。ビルディングがずらりと南大門通りの街をつくつて、近代的文化都市らしい香ひを発散、南大門方面から来た電車は、黄金町から東大門行と鍾路から東大門行とがチャンポンにチンチンいはせる、北へは長谷川町が大平通りに抜ける。( 中略 )「 デパート 」といふ言葉は現代人の感覚に快い響きを伝へて魅惑的である。数百といふ美しい結婚適齢期のショップガールが、明るい照明の売り場に水々しいフルーツのやうな新鮮さで溌剌と商品の渦の中を泳いでゐる。丘のやうに積まれ、手際よく飾られた商品のモードがそれぞれ媚態的ポーズで演じ出すデモンストレーション…

少なくとも、ソウルが日本時代になって発展したのは、誰も否定することはできない。 で、↓

曰く、 日帝の植民地支配は、人類史上最悪の搾取だった。
曰く、 世界でもっとも残虐な極悪非道の日帝植民地統治。
曰く、 日帝は韓国人の集団奴隷化を狙った植民地支配を行った。
曰く、 日本は朝鮮その他のアジア人民の血の海からはい上がった悪の帝国である。
曰く、 日帝がアジア人民に行った犯罪行為について言えば、それはどのような最新のコンピューターを総動員しても計算できない途方もないものである。

 わ、笑うなぁ〜 彼らは本気( マジ )なんだから。
 さて、上記の韓国( 朝鮮 )人の主張に対して、『 日本は植民地時代に朝鮮( 韓国 )に対して良いこともした 』と少しでも反論を呈すれば、袋叩きにあう状況がマスコミによってつくられていることから、大多数のマスコミも反日左翼や韓国( 朝鮮 )人と同じ歴史認識だと考えられます。
 しかし、彼らの主張を検証してみると、日本の行為を全面否定するためか、話のすり替えや誇張・でっちあげを少なからず行っていることが分ります。つまり“日本は極悪非道な植民地支配国であった”という結論が最初からあり、それに合わせて歪んだ見方を一方的に述べているのです。
 それでは、“日帝の悪”とされるものを李氏朝鮮時代の状況をおり込みながら個別に検証していきます。