大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
独立運動家の弾圧と拷問


「 別冊一億人の昭和史 日本植民地史1朝鮮 」 1978年 毎日新聞社より

李氏朝鮮時代の牢屋( 動物園ではない )


首枷をした囚人たち( 首の部分だけ穴の開いた板を着装している )


笞刑( ちけい )を受ける囚人( ムチを振り上げている場面で囚人は臀部むき出し )


チュリの刑を受ける囚人( 両脚の間に二本の棒を差し込んでいる )


李氏朝鮮の拷問道具一式。


朝鮮唯一の文化遺産


独立記念館の展示物で、拷問を行なっているロウ人形は日本人ではなく、朝鮮人が朝鮮人を拷問している場面だったのだ。
「 日韓2000年の真実 」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
これらの報告を読んでいると( 注:同書の中で上記のグレブストの本の拷問場面を引用している )、思い出すのは韓国の天安市にある「 民族独立記念館 」のことです。この記念館でもっともショッキングなのは、日本の警官が朝鮮人を拷問している蝋人形の場面です。暗黒の中で光線に照らし出された拷問の模様は、5場面に及びます。私の連れていった学生達は、『 見ておれない、まるでホラー・ビデオだ。日本人はこんな残虐なことをしていたのか 』と言います。修学旅行にやってきた韓国の小・中学生たちは、その前で日本人への憎しみをかきたてます。私は眺めながら、もっと深刻なことを考えていました。こういう拷問のやり方の中に、ここに紹介した外国人の報告の描写とダブる所があると気づいたのです。当時日本は、朝鮮人を憲兵や警察の補助員として使っていました。直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人が当っていたのです。だから拷問を行なっているのは朝鮮人であるところに、悲劇の深刻性があったのです
( 中略 )
日本が韓国の警察制度の近代化に乗り出したのは、1910年になってからでした。警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しました。一般に韓国民衆を弾圧するためと即断されがちですが無差別に行われる韓国官憲の横暴や拷問を防ぎ、「 義兵 」などと称して行なわれていた山賊まがいのことや、親日派韓国人へのテロ、襲撃を防ぐためには、断固たる措置が必要であったのです。しかし日本人は語学ができず、民情にも疎いので憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。当時、日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人で、いずれも韓国人の方が多かったのです。ところがこの補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らすものが多く、悪弊を直すのに困りました。今村鞆著『 歴史民俗朝鮮漫談 』( 昭和3年 )には、『 朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員( 補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳 )の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる 』と述べています。
戦時中の松代大本営の工事を非難している朝鮮人が、リンチにあってチュリの拷問を受けた者がいると証言しているが、チュリの拷問などというものは日本にはなく朝鮮人しか知らないはずだ。朝鮮人同士の争いで起こったか、あるいは嘘を言っているのかもしれない。


総督府は、李朝時代の裁判の不正義を正し、野蛮な刑罰を廃止するとともに、監獄の改善を行った。
「 歴史を偽造する韓国 」 中川八洋 2002年 徳間書店
*韓国併合は1910年

日本型「 司法 」への中傷と誹謗

近代司法制度がすでに確立していた日本にとって、李氏朝鮮を引き継ぐ「 旧韓国 」の司法は「 近代以前 」というより「 文明以前 」であった。スウェーデンのジャーナリスト( アーソン・グレブスト )が1904年に朝鮮国内を旅行取材した『 悲劇の朝鮮 』は、監獄内を自分の眼で見たときの笞刑( ちけい・ムチ打ち刑 )執行の光景と拷問死刑の光景を記録しているので、この「 文明以前 」がよくわかる。拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の問にはさみ死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く、次に腕と肋骨を折る、最後に絹紐で首を絞める、というものであった。死刑執行の前に、わざわざ残酷にも全身の骨を砕いたり折るという拷問など、当時の日本では信じられないことであった。が、そのような野蛮な残虐性が朝鮮であった。

マッケンジーの『 朝鮮の悲劇 』( 原著1908年 )も次のように記しでいる。死刑囚でない単なる禁固刑のものも、監獄の都合で殺すのが朝鮮の実情であった。「 監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された 」

しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。例えば、朝鮮総督府が定めた1912年の朝鮮笞刑令が「 朝鮮人に限り之を適用す 」( 第13条 )であることをもって、朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、それは「 旧韓国 」の『 刑法大全 』( 1905年〉にも定められている。しかも『 刑法大全 』は杖刑を廃止し、そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。

朝鮮が日本国に併合された以上、日本国の刑法が等しく適用されねばならず、『 刑法大全 』は無効となった。だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。しかし、日本は3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる、朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して、つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、あるいは数円ですら罰金を払うとなれば僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。懲役や罰金を見逃す便法であった。このため、朝鮮笞刑令第4条は、「 罰金1円を笞1、懲役1日を笞1 」に換算する旨を明記した。当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。それほど高額な1円が笞1で済むのである。すなわち、朝鮮笞刑令とは「 大岡裁き 」で、刑罰を温情的に軽滅する定めであった。また、「 笞刑令施行規則 」( 1912年 )の第1条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。

また、笞の長さは1尺8寸( 55cm )、厚みは2分5厘( 7.6mm )となった( 「 施行規則第11条 」 )。痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。それ以前の朝鮮の笞は長さは3尺5寸( 106cm )、厚みは2分7厘( 8.2mm )であった。日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。しかし、この笞刑令をもって、「 朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧 」の法律であったなどと、荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。あるいは、「 反日 」的言動をなした者を弾圧するために、この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。( 朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された)

朝鮮人の残虐性は、日本人にはとても正視できない。文化の相違であろう。例えば、死刑に際して面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする( シャルル・ダレ「 朝鮮事情 」 )。福澤諭吉を始め日本に多くの知人をもっていた、金玉均が1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌4月、朝鮮政府はその遣体に対して首を刎ね、四肢を切断して、胴体を漢江に棄て、頭や四肢を京畿道の竹山に捨てたという。日本が定めた笞刑令( 1920年に廃止 )を中傷し歪曲する暇があるなら、残忍な刑罰や不法・不正だらけであった朝鮮司法について、ありのままの正しい歴史を明らかにすべきであろう。

監獄( 刑務所 )の文明化

朝鮮の刑務所( 監獄 )の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。食事はおかずなしの雑穀のみであった。さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に殺害して「 処理 」していた。日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、清潔で近代的な京城監獄( のち西大門刑務所と名称変更 )は、朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。

国分三亥( こくぶさんがい、1908年に「 旧韓国 」の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長 )は、朝鮮には司法はなく行政( 警察 )の一部であったと、次のように回想している。
『 監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。( 1908年になって )日韓協約の趣旨に基いて( 旧韓国政府は )司法機関を創設して監獄は司法部に所管を移され…たけれども、……( 京城の )鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、……獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました 』( 「 朝鮮における司法制度近代化の足跡 」友邦協会 )

柿原琢郎( 1920〜22年の総督府監獄課長 )は、上記と同じ座談会で、平壌地裁次席検事として実際に訪れた( 韓国併合直前の )平壌の監獄を、次のように思い出している。
『 狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めてゐました。1坪に15、6人も押込むありさまで、在監者( は同時に横臥睡眠をとれないので1日に )3、4回交替にて横臥せしめた。作業上の設備も被服交換の準備なく、…終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした 』( 「 朝鮮における司法制度近代化の足跡 」友邦協会 )

しかし、日本の努力で1910年末にはすべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を3分の1の「 約5人以内 」に下げたのである。そして、1913年頃には、それが「 約2.9人 」まで大改善された( 「 朝鮮における司法制度近代化の足跡 」友邦協会 )。「 畳2枚に3名 」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、1919年からの新しい総督( 斎藤実 )のもとで230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。

ついでに、朝鮮併合直前の朝鮮の裁判所の実情を、旧韓国政府の首席「 法務補佐官 」であった中村竹蔵が拷問のことを回想しているので紹介しておきたい。裁判所すら拷問するのが、朝鮮の実情であった。中村竹蔵は1907年に平理院( 「 旧韓国 」の最高裁判所 )に配属となり、ここですら拷問が実施されているのを目撃したのである。
『 平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、たびたび院長( 李允用。李完用の兄 )に対して之を廃止するよう厳重に要求すると、…院長は午後遅くなって出勤するようになつた。……私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り、… 』( 「 朝鮮における司法制度近代化の足跡 」友邦協会 )

当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。島村忠次郎( 1907年、水原の京畿道地方裁判所の「 法務補佐官 」 )は回想する。
『 私の在職中の出来事で大きなものと思ふのは拷問禁止のことであります。私は着任後しばしば拷問を行ふのを目撃しました、……その禁止方を伊藤博文総監に具申しついにそれが法令となつて表われた 』( 「 朝鮮における司法制度近代化の足跡 」友邦協会 )

朝鮮日報 記事入力 : 2001/03/06 19:34
日本の高校生が「 西大門刑務所歴史館 」を見学

 「それって本当ですか」
 6日午後、ソウル・西大門(ソデムン)区にある「西大門刑務所歴史館」を訪れた日本・東京の正則高校2年生321人は、「それって本当ですか」を連発していた。同校の英語教師、坂下浩一さん(32)が「3・1独立運動の先頭に立った柳ェ順(ユ・グァンスン)烈士は残酷な拷問と栄養失調で亡くなった‘韓国のジャンヌ・ダルク’で、この地下独房で殉国した」と説明すると、皆ショックを受けたような表情だった。「君なら独立運動をしていたと思うか」という先生の質問に宮内慶一郎君(17)は首を横に振った。
 歴史館の地下にある、日本の警察が韓国の独立運動家の爪の先を木の針で刺し、両腕を上に結んで殴打するマネキンを展示してある拷問室を目の当たりにすると、生徒たちは立ちすくんでいた。川口悠君(17)は「学校で韓国の独立運動について習ったことはあるが、ここまで残酷な拷問があったことは知らなかった」と話した。
 この高校の生徒が西大門刑務所と提岩(ジェアム)里教会など日帝の蛮行が行われた現場を初めて訪れたのは94年のこと。「被害者でなく加害者として戦争を顧みるべきだ」という社会科教師の近津経史さんの提案によるもの。
 当時、個人的に韓国を訪問した近津さんが西大門刑務所での『 近くて近い人の言葉 』という本を出しだ享均(チョ・ヒョンギュン/73)氏との出会いを通じて日帝の蛮行について聞いてから、次の世代のための「韓日の過去の歴史に対する教育」の必要性を鈴木昭夫校長に提案し、鈴木校長がこれを快諾したという。正則高校の生徒たちは毎年3月、「韓国平和学習旅行団」という名前の行事を行っている。
 同校の321人は元従軍慰安婦の女性が共同生活をしている京畿(キョンギ)道・広州(クァンジュ)の「ナヌムの家」、提岩里教会などを訪問した後、11日帰国の途に着く。

金成R(キム・ソンヒョン)記者
日本の高校生が見学してショックを受けたのは、総督府時代の文明化した刑務所である。彼らが李朝時代のおぞましい監獄風景や、戦後韓国で行なわれた残酷な拷問の説明を受けていたら、別の感想を持ったに違いない。


戦後韓国の拷問は日本統治時代よりも酷いものだった。
「 醜い韓国人 <歴史検証編> 」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社
加瀬
( 第二次大戦後の )南朝鮮過渡政府のときから、警察が恐怖政治を行なっていた。混乱期だったということから、理解することもできますが、日本統治時代よりも、ひどいものでした。ヘンダーソンは先の著書( 『 韓国渦巻きの政治 』 )のなかで、1947年なかばに南朝鮮で7000人の政治犯を含む、2万2000人が投獄されていたが、「 日本時代の2倍近くに当たる 」といい、また、1950年の韓国財務部の発表を引用して、全国21ヵ所にある刑務所に、5万8000人が収監されているが、「 国会の調査によれば、このうち50〜80%が国家保安法違反によって捕らえれた者である 」と、述べています。
そして、「 拷問――腎臓を殴打する、水漬け、電気ショック( 「 電話 」と呼ばれる )、親指を縛って、身体を天井から吊るす( 「 飛行機 」 )、唐辛子を無理やりに大量に食べさせる 」ことが、ひろく行なわれていた、と書いている。また、警察の腐敗が目にあまり、1948年には警察官の賄賂収入が、給料の「 50倍から80倍に当たった 」と、述べています。


私は拷問を受けた人々を取材したことがありますが,唐辛子を無理やりに食べさせるなんてことはできませんよ。これは、まず、人の顔を濡れた布で覆ってから、唐辛子を溶いた真っ赤な湯を、ヤカンから目や、鼻腔に、流し込むんです。コチュゴモンという拷問です。「 電話 」は、昔の手動式電話がありますね。陰陽の電流を流した線を、被疑者の指につないで、電話器の取っ手をまわすんですよ。これも、効きますよ。


拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風

 天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。 そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアッピールしている。
 又ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『 朝鮮の悲劇 』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難しているている。 その一部を左記に示す。

 地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。 彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。 部屋には明かりもなく通風窓もなかった。 ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。 彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。 そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。 手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。 1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。 多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。 男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。 私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。 それは難しい作業であった。 彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。 彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。 そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。

 しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。

 朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。

 「許されている拷問が、未だ数多く残っている。 次に主要なものを挙げてみよう。 ( 詳細省略 )
1.棍杖( 長さ1.6〜2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の杖で殴る )
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折( 3種類ある。 その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る )
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖( 木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問 )

 つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。

 1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「 裁判所構成法 」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。 伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。 第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。

 この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。 我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。 それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。 赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。 *1

 監獄の改善もこの時期に始まった。 それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。 又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。 入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。 *2

 朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。 朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「 朝鮮笞刑令 」として正式に採用された。 この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。 1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。 執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師( 米人 )の強い要望により廃止された。 *3

 次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。

 シャルル・ダレ 「 ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。 殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。 証人の中には被害者の父親もいた。 一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、『 こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ 』」と言った。 守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。 」

 マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。 「 第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。 この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。 大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。 2人の大臣( 前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人 )が街路に引きずり出され残忍きわまる方法で殺害された。 その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。 群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。 1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって『 さあ!奴らを食おうではないか 』と叫んだ。 」

 日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。 その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。 伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。 この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。 当然日本の民衆は激高した。 前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。 しかし日本は彼を「 義士 」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。 さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。 *4

 朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。 *5

脚注
*1『法政 2000年6月号』「法政大学の歴史31 韓国統監府に於ける法政大学出身の法務補 佐官」巻末
*2『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第2分冊』169−171頁
*3『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第2分冊』150−151頁
*4『斉藤実伝』日韓2000年の真実
*5『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第2分冊』132−142頁