大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
3・1運動の弾圧


〔3・1運動〕 日本の武断統治に反発し、1919年、大規模な3・1運動が起きた。日帝の警察と軍隊は、平和的な方法で独立万歳を唱えながらデモを行なう人々に対して、銃剣をもって過酷な弾圧を行なった。死傷者は2万名を超え、逮捕者は5万名にのぼった。 ( 韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より )。

「 韓国・中国歴史教科書を徹底批判する 」 勝岡寛次 2001年 小学館文庫
1919年に起こった3・1独立運動を韓国の教科書は、日本軍の残虐さだけを強調して書いている。だが、事実は「 平和的な方法で独立万方歳を唱え示威をする人々 」だけではなかったのである。全国的に及んだこのデモは、地方では暴徒化し、警察署・村役場・小学校等を襲い、放火,投石・破壊・暴行,惨殺を行って手がつけられないありさまとなったのだった。日本側は治安出動を強いられたのであって、決して韓国の教科書の言うように、「 無差別虐殺 」を行ったのではない

韓国の教科書の記す犠牲者の数も、問題である3・1運動の犠牲者数は今も正確なところは不明で、韓国の教科書が依拠したと思われる朴殷植『 朝鮮独立運動の血史 』では、死者7509名、負傷者1万5961名と記されている。しかし、著者の朴殷植は当時亡命していて韓国におらず、この本の中で「 今回の独立運動は…確実な実態調査を得ることは難しい。いわんや、海外にあって、ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであってみれぱ、その事実調査の困難さは推して知るべきであろう 」と断っている・総督府の調査では、死者553名・負傷者1409名であり、韓国側の主張とは10倍以上もの開きがある。( 名越二荒之助『 日韓2000年の真実 』 )

総督府の調査も完全なものとは言えないだろうが、著者が海外にあって「 新聞報道や個人の伝聞的報告 」だけで書かれた『 朝鮮独立運動の血史 』の数字だけを、何の疑いもなく教科書に褐げるのは公平さを欠く。しかも、韓国の教科書も本文では2万名と言い、コラムでは3万名以上と言っており、この事実一つをとっても、いかにいい加滅な数字を並べているかということが明らかである。

「 「 反日韓国 」に未来はない 」 呉善花 2001年 小学館文庫
3・1独立運動について、韓国の国史の教科書には、無差別の銃撃よって7509人が殺され、1万5961人が負傷させられたとあります。総督府の資料では死者553人、負傷者1409人と大きく異なります。また日本の教科書には5万人の死傷者が出たと書かれているものもあります。北朝鮮の人が書いたものでは、村に火をつけて村民もろとも焼き殺したことまであったとあります。

総督府の資料は村ごと月ごとの事実関係を示して集計されたものです。韓国の教科書のものは、上海にいた人たちが、新聞記事や伝聞を元に作った資料をまとめて翌年に出した書物( 朴殷植『 血史 』 )にある数字をそのまま引き写したものです。日本の教科書や北朝鮮の人の記述は何に基づいているのか不明でわかりません。

「 歴史を偽造する韓国 」 中川八洋 2002年 徳間書店
( 韓国の教科書は朴殷植の『 独立運動之血史 』の記述に基づいて、総督府による3・1事件の弾圧を糾弾している )

( 韓国の教科書では )監獄( 刑務所 )に収監された人数は「 5万人 」と、実際の6倍にしている。朝鮮全土に当時、刑務所は監獄8、分監12しかなかった。3・1事件で収監されたのは約8500名で、定員オーバーであった。「 5万人 」という人数の収監能力などは物理的に途方もない。入監者数については、朝鮮総督府が正確に把握しており、1919年5月10日現在、8437名であった。韓国の教科書は出鱈目な数字を書いている。

ホラー小説の類である『 独立運動之血史 』が何ら信憑性がないのは、次の記述一つだけで充分だろう。両手・両足を切断された人間が即死しない、そればかりか手がないのに自分で衣服を着ることができる、足がないのに自分で歩いて帰宅できる、というのである。また、手足を切られたあと3日間も食事を与えられずとも元気で官憲を罵倒しつづけたという。マンガでもここまでの描写はできない。つくり話もほどがある。『 血史 』の虚偽性は、議論以前である。

「 女子高等普通学校( 当時の女子中等学校の名称 )の廬永烈は、裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて廬永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも( 菰 )のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。…が質問して、「 お前はこれでもなお『 万歳 』を叫ぶつもりか 」と言った。彼女はこれに答えて、「 独立が達成できなければたとえ死んでもやめない 」と言った。…数日間も食事を与えないで、三日目にふたたび拷問を加えた。…やむをえず、衣服を抛( ほう )りかえしてよこし、きびしく警責を加えた後に釈放された。…… 」( 231〜2頁、212頁 )

また、『 血史 』は1919年3月の1ヶ月間で収監されたものは「 数十万人をかぞえ… 」( 212貢 )としているが、前述したように実際には1万人にもならない。そればかりか30頁ほど前の183頁では収監人数を「 4万7000名以下 」としていた。なぜなら、そこでは「 逮捕者4万6948名 」と記述しているからである。逮捕者からかなりの即時釈放者を引いた残りが収監者である以上、これ以下になるからである。このように、『 血史 』では、「 数十万人 」という212頁と、「 4万7000名以下 」という183頁の、収監者数が10倍も異なる。『 血史 』のはその時その時に思いつくままの捏造数字であるのは明らかだろう。

要は、『 血史 』の数字や描写を引用していたすべての研究書・専門書は、完全なる歴史歪曲、歴史偽造のそれであって、いっさいの学術的価値はない。ということは、この『 血史 』に基づく、在ソウルの「 歴史館 」は、「 ホラー映画 」と同類の、空想と妄想で創った「 東洋一のオバケ屋敷 」となる。真実を求めず歪曲と偽造の韓国とは、根本において「 文明以前 」であり、野蛮国である。『 血史 』のような品性も知性もない嘘だらけの作品を書く人物を数多く出したこと自体、韓国は国家として恥ずべきだろう。
中川氏は同書で朴殷植著『 独立運動之血史 』の嘘記述を数々暴いている。朝鮮人の主張・証言には嘘や誇張が多く、十分な検証が必要なことは多くの人に指摘されている。


「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府の時代には、反体制的な暴力抗争やテロリズムに対しては、断固として法律で裁き、極刑にしたことは事実である。しかし3・1独立運動をはじめ、民族主義運動、社会主義運動に対しては、大量検挙を行なったものの、実刑者はそれほど多くなく、処罰も案外と寛容であったことも事実である。

戦後の李承晩政権時代には、反体制学生運動弾圧や光州事件、さらに済州島の「 4・3事件 」のような「 虐殺 」といわれる歴史的事件が発生したが、「 日帝36年 」と比較して、文明的であるとはとても思えないのだ。少なくとも戦後、李承晩政権後の朝鮮戦争をへての10年間、あるいは15年間の韓国社会と比べると、日韓併合後の10年間、あるいは統監府統治からの15年間は、むしろ「 日帝 」時代のほうが、朝鮮の社会としては安定していた、と言うべきではあるまいか。戦後の李承晩政権は1960年、学生運動( 4・19革命 )で追われるまで、評判は芳しくなかった。たとえぱ、済州島の「 4・3事件 」における3万人虐殺は、すべてアメリカ軍政支配下で、アメリカ軍のせいにしたとしても、居昌事件( 1951年、市民700余人を共産ゲリラ容疑で虐殺 )では、国会調査委員会の調査では、各地方で虐殺された市民が8500余人と報告し、立法、司法、行政機関が合同で「 良民虐殺事件処理特別措置法 」まで制定した。また、国民防衛軍事件( 1951年 )では、10万人が虐殺され、100万人の第二国民兵を飢えと疫病に追い込んだ。さらに保導連盟事件では、韓国の『 ハンギョレ新聞 』や『 時事ジャーナル 』によると、30万人の虐穀があったと告発している。

たとえば、総督府時代以来の民族運動の指導者は戦後、呂運享、金九をはじめ、ほとんど暗殺や虐殺、連行、死刑の運命にあい、あまりにも悲劇的な死をとげているが、この事実をどう考えるのだろうか。そのような朝鮮半島の厳しい政治的現実は、総督府時代と比べて、どう説明するのであろうか。
総督府の弾圧は李朝の残酷支配や戦後独裁政権の大量虐殺と較べるとはるかにマシである。


「 中国・韓国の歴史歪曲 」 黄文雄 1997年 光文社
「 日帝三十六年 」の歴史は、たいてい抗日運動、独立闘争一色に塗られているが、けっしてそれだけではない。たとえば、朝鮮人の社会運動には、民族運動や社会主義運動とともに、親日派の社会運動もあった。「 日韓併合 」は、当時の国際情勢下で、一部の朝鮮人にとっては、やはり一つの夢であった。たとえば、李容九は、二代目の朝鮮統監につぎのように進言した。「 国防の堅固なるを世界万邦に輝かしめることは、いわゆる檀君、箕子四千年の不滅の大典を興し、新羅・高句麗三千里の江土を不変の土台の上に築くことでなくて何でありましょうか 」とまで主張している。かつての抗日東学軍の大将であり、一進会の指導者であった李容九は、憂国愛族の志士、愛国者か、それとも事大主義者で、外勢迎合の走狗、親日派=売国奴なのか、戦後にも論争があった。かつて東学軍抗日義兵として5万の東学軍を率いて、名声を博した李容九進歩会は、天道教の三世大道主孫秉煕の一進会とともに、合同一進会をつくって、以後、日韓合邦推進の主役となっている。

公称100万人の会員があった一進会が、日露戦争当時、無償奉仕で日本軍に協力したのは歴史的事実であって、抹殺することはできない。たとえばソウルから満鮮国境の新義州までの鉄道建設に、一進会員は15万人、軍用物資の運搬に25万人以上が協力したといわれる。