大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
武断政治


〔憲兵警察統治〕 国権を奪われた後、わが国は日本が植民地文配のため設置した朝鮮総督府によって、弾圧を受けるようになった。朝鮮総督は行政、司法、軍事のすべての権限を持っていた。武力で韓民族を弾圧するため、憲兵警察制を実施した。韓国人のすべての政治活動は禁止され、集会、結社の自由まで奪われた。その間活動してきた愛国啓蒙運動団体も解散させられた。また、皇城新聞や大韓毎日新聞など民族新聞の発行が禁じられ、多くの愛国者が逮捕されたり、命まで失ったりした。朝鮮総督府は、韓民族を脅かしたり、屈服させたりするために、一般官吏はもちろん、教員にまで制服を着用させ、刀まで着けさせた。 ( 韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より )

統監府・総督府は無法社会を法治国家にする為に統治初期には武断政治をおこなざるをえなかった。
「 朝鮮事情 」 シャルル・ダレ 1874年( 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫 )
「 両班( ヤンバン )は、自分たちのすべての特権については非常にうるさく、少しでも敬意を失するものがあれぱ、残忍な報復を下す。その一つの実話を次に引用しよう 」
「 みじめで、みすぼらしい風体をした一人の両班が、郡衙( 役所 )の近くを通っていた。そこへ、泥棒を捜していた4人の捕卒が行き会い、その外見にやや疑念を抱き、もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、ぶしつけな尋問をした。すると、両班は答えた。『 はい、そうです。私の家までついて来てくだされぱ、共犯者も教えますし、盗んだ品物を隠している場所も教えます 』 」 「 捕卒たちがついて行ったところ、この両斑は、家に帰り着くやいなや、召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕えさせ、さんざん殴りつけた。そのあと、そのうちの3人からは両目をえぐり取り、残る1人からは片方の目だけをえぐって、次のようにどなりつけて彼らを送り帰した。『 この野郎ども。わかったか。これからはよーく見て歩けっ。お前らが郡衙に帰れるように、目の玉1つだけ残してやったんだ 』 」

「 国民の歴史 」 西尾幹二 平成11年 扶桑社
当時の朝鮮は、両班、中人、常民、奴婢の厳然たる四つの身分制があった。両班の横暴には目に余るものがあり、下の階級の者に対し生殺与奪の権を持っていたとさえいわれる。

朝鮮民衆は日本統治時代になって、日本警察による両班取り締まりを大いに感謝したほどだったという。ただし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて今度は宿怨を晴らす恐ろしいシーンを展開し、『 後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる 』( 今村鞆『 歴史民俗朝鮮漫談 』昭和三年 )

「 朝鮮亡滅 」 ホーマー・ハルバート ( 「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993年 光文社より )
( 李朝期の司法について )
裁判は金次第でどうにでもなり、多額の金を提供するか、裁判官を畏怖させるほどの有力者を後ろ盾にもっていることを見せつけるかしたほうが、必ず有利な判決にありつけることが世間一般の常識になっている。この国では、富と官職とは、事実上は同義語である。

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998年 光文社
たとえば、統監府時代に、平理院首席補佐官として招聘された中村竹蔵の回顧によれば、当時の平理院院長、李允用は李完用( 韓国併合当時の大韓帝国政府の首相 )の兄で、宮廷からの信任が厚く、判事、検事の任免は、すべて院長の意思のままに行なわれ、司法制度は存在していなかったという。大きな案件も院長の指図を仰いで裁判しており、いったん判決を下した事件でも、勝手に「 特旨に依って減刑す 」と変更し、判決が官報の内容と異なることもしばしばあった。官廷と関係する人物には、死刑判決を下してもすぐに上からの命令で書き直され、「 特旨に依り死一等を減ず 」というありさまであった( 『 朝鮮に於ける司法制度近代化の足跡 』友邦協会 )。また、『 朝鮮事情 』( ダレ著、金容権訳・平凡社・東洋文庫 )は、両班は世界中で最も強力で傲慢な階級と述ベ、彼らが強奪に近い形で「 農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令( 知事 )は一人もいない 」と述べている。( 中略 )アーソン・グレブストの『 悲劇の朝鮮 』には、「 ( 李氏 )朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で、城塞( ソウル )の外で夜を過ごすことは大変危険だった。ソウルの外廓には人命を蝿の命ほどにも思わぬ山賊やならず者で溢れていた 」と記されている。李朝末期の司法は、拷問で自白させ、賄賂が横行していた。判決は賄賂の多少によって決められた。

「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年 ( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「 搾取 」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「 搾取 」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。

武断政治の象徴とされる反日義兵運動弾圧は、日本差別主義者による復古運動で、民衆の支持を得ないものであった。
「 立ち直れない韓国 」 黄文雄 1998年 光文社
憲兵は朝鮮半島の各地に駐在し、「 極悪非道 」弾圧をしたか

義兵運動が起こった直接の原因は、閔妃殺害事件( 1895年10月 )と断髪令( 同年11月 )の強行であったともいわれる。二つの事件は、少しずつ積み重ねられてきた反日感情が、儒生の義兵決起の呼びかけによって火がつき、燃え広がったという。いわゆる乙未義兵である。儒生の忠孝思想がその綱領となっている。すぐに平定された第一期の義兵運動の代表的人物らはすべて儒林の人たちである。乙未義兵は、反日抗争が大義名分で、儒林の保守的な前近代的思想に根差していたので、露館播遷、金弘集内閣の倒壊、断髪令の中止によって、尊皇壌夷の大義名分を喪って、終息してしまった。解散した義兵は「 火賊 」「 東匪 」「 活貧党 」に変身し、匪賊、義賊化して、農民革命に走った。反近代的な性格が強く、どちらかというと乙未義兵運動は、反日復古運動であった。

日露戦争以後の義兵は、ほとんどが「 倭寇討伐 」を唱える「 討倭 」義兵であった。朝鮮半島の民族運動に関しては、ごく少数の「 親日的走狗 」や「 韓奸 」の反動を例外として、全民族的な反日抗争としてよく強調されているが、朝鮮近代史を自らに都合よくつまみ食いしているだけである。ことに義兵運動に関しては、歴史叙述と数字に自己矛盾と思えるものがじつに多い。第一に統監府政治以後は、日本の憲兵警察が朝鮮半島の隅々までに駐在し、「 極悪非道 」な弾圧と虐殺を意のままにしていたとよく書かれている。しかし、朝鮮半島の憲兵警察の数字と行政区域をいくら照らし合わせてみても、隅々まで憲兵警察を駐在させることは不可能である。統監府時代から三・一独立運動に至るまで、朝鮮人と日本人を合わせた憲兵警察の総数は、初期の千人ほどから最高七千人まで、人数が年々増加していったとされてはいるが、各面( 村 )まで駐在させるには、数字的に不可能であった。併合当時の行政区は、13道12府、317郡4322面であった。

19世紀から20世紀中期までの東アジア大陸各地では、匪賊が極めて多く、ソウル以外の地方は、盗賊が跋扈し、たいへんに治安が悪かった。前述した憲兵警察の数でいえば、治安維持だけで精一杯であった。ましてや朝鮮半島の全民衆的抗争に対処するには、対露防衛の二個師団まで総動員しても、全民衆蜂起には絶対に勝てないというのが常識であった。全承学編『 韓国独立運動史 』によれば、16年間に及ぶ義兵総動員数が6万人、倭軍警察の死者127名、義兵側( 民衆を含む )の死傷者1万4500余名。『 高等警察要史 』( 総督府慶北警察局編 )の数字では、日本政府側の死者336人、義兵の死者1万7779人という数字となっている。日本軍の行動については、「 殺戮、放火、掠奪、暴行など、この世のものではない地獄図 」と書かれ、「 死者数千人 」の概数から「 死者三千人 」と、あちらこちらの義兵の死者数が書かれている。姜在彦の『 朝鮮の儒教と近代 』( 明石書店 )には、1907年8月から1909年末までの間に殺戮された義兵数が1万6700人、負傷者3万6770余名に達しているとしている。義兵の数から見ても、けっして劣勢ではなかったし、戦意も低くなかった。武器の不足と兵士としての訓練不足だけが事実であったのだろう。

しかし6万人以上の動員に加え、天の時、地の利、人の和の面から見ても、なぜ劣勢の日本軍警に対してはほとんど散発的狙撃しかできなかったのか。それは義兵の軍資金が人民から過度に徴収され、匪賊との区別がつかず、日本軍警に対する抗争というよりも、一進党員やいわゆる「 敵の走狗 」「 韓奸 」や「 政敵 」狩りが主要な攻撃目標で、いわゆる「 倭軍警 」に対する正面切っての戦闘はあまり行なわれなかったからであろう。たとえば『 韓国独立運動史 』に出ている「 倭軍警 」の死者127名に対し、「 敵の走狗 」が1250名という10倍の数字を見れば、朝鮮人同士の殺し合いとも捉えられる。このような数字から見ると、16年に及ぶ義兵闘争は、結果的には全民衆の共鳴と支持を得られずに、自然消滅したというのが、歴史の事実ではないかと判断できる。というのも、初期の乙未義兵は、ほとんどが烏合の衆であったから、反日抗争に勝てないのは無理もなかったのである。

しかし、1907年( 丁未 )以後の義兵は、関東義兵将李殷[+]の関東軍だけでも6000人といわれ、13道、48陣合わせて総勢1万人にものぼる。しかも高宗皇帝の譲位後、解散された新式教練を受けた軍人が多数参加し、新式武器も多数備わっていた。国権回復という大義名分もあった。義兵にも忠魂義胆があり、粉骨砕身の決意を持っていた。天の時、地の利、人の和から見て、全国の義兵を糾合して一挙に「 統監府 」を撃破することも可能ではあった。しかし、それが失敗し、四散したのは、衆望を集めた総大将の李麟栄が、進軍前夜、父親の訃報に接し、喪に駆けつけてしまったために、指揮権を放棄せざるをえなかったからだともいわれている。「 孝 」という私の大義が、民族という「 公 」の大義よりも大切であると、総大将も義士たちもみな認めている以上、「 義兵運動 」とはいったい何たるものであろうか。
( 中略 )
日本政府側では「 義兵運動 」について、たいてい「 匪賊 」として評定するのは、その生態と経緯からいけば、けっして歪曲ではない。いわゆる「 義兵 」は、正式な軍隊とは違って政府や巨大な「 反乱組織 」からの補給を得ることが難しい。数週間もたてば食糧が断たれてしまう。食糧が足りなくなって、農村を襲うという行為に出れば、農民から敬遠されるのは、ごく当たり前のことだからだ。住民の支持を得られなくなった義兵は、山間部に逃げ込むと、貧しい農村や集落では食糧を供出することができず、義兵が匪賊に変身して、村を略奪した。農山村を義兵の襲撃から守るには、逆に憲兵警察と手を組んで、「 討伐団 」を組織して村を守らなけれぱならなかった。それが義兵運動のたどった自己崩壊の運命であった。民族運動とは、また別次元の問題である。

義兵の反日抗争は、思想的には「 衛正斥邪 」の延長で、李朝への忠君愛国や復辟の色彩が強く、しかも義兵指導者には地方割拠、土匪化の傾向があったので、近代的な民衆民族運動として発展するまでには至らなかったのだ。義兵運動の指導者は、大部分が朱子学の名分理念に固執し、伝統的封建的身分秩序を維持しようとする儒林と王朝の高官たちであった。そのイデオロギーとは、衛正斥邪、近代文明を拒否する超保守的な身分秩序と華夷秩序を守ろうとするものにすぎない。
( 中略 )
衛正斥邪思想は、基本的には伝統的儒教思想の正統性と純粋性を守ろうとする両班・儒者たちの保守的イデオロギーであり、李朝防衛の義兵運動の思想として大衆を支持基盤として、反侵略、自主独立を掲げたという点から、朝鮮の保守主義的民族主義の原形と見るのが一般的である。しかし、東学運動も義兵運動も、時代背景が多少違っていても、排外的、反侵略的という点では、清国の義和団運動と同質的なもので、それは民族主義の原形というよりも、「 華夷思想 」の変形として、むしろ反「 民族主義的 」、あるいは非近代的国民主義的なものではないだろうか。

東学運動以後の義兵運動とほぼ同じ時期に、台湾でも「 義兵 」運動があった。その激しさは、日清戦争以上であった。数字だけを見ると、日清戦争当時の日本軍戦死者は、8395人、台湾領有の平定戦争の戦没者は、9592人と、単純比較では日清戦争を上回っている。だから、台湾から見た朝鮮半島の「 義兵運動 」といわれるものは、ただ一部の「 衛正斥邪 」論者が匪賊と手を組んだ反日運動にすぎなかった。大多数の朝鮮民衆は、むしろ「 日韓合邦 」を李朝の悪政からの解放として喜んでいたと見るのが、「 客観的 」分析として正しい歴史認識に近いのではないだろうか。

「 中国・韓国の歴史歪曲 」 黄文雄 1997年 光文社
朝鮮総督府の統治の中でもっとも非難されているのが、「 武断政治 」といわれる「 憲兵警察 」の統治であった。では、なぜ反乱の多い台湾は「 警察統治 」のみで、逆に反乱の少ない朝鮮が「 憲兵警察 」と二本立てとなったのか。それはフランスの憲兵と警察の治安制度を模倣した朝鮮統治の特殊治安方式である。匪賊の多い地区は憲兵で、都市と港湾は警察の駐在だけにした。実質的に、警察だけでは、朝鮮人警官の汚職が多いので、憲兵の監督が必要であった場合もある。しかし憲兵・警察二本立ての治安は、きわめて好成績を残しているのも事実である。明治41年10月から翌年の8月の初年度に、犯罪者3万4400人、780回もあった傷害事件が、5年後には45人、5回にまで激減したのだ。1902年の韓国官費日本留学生で、その後「 大韓新聞 」社長となった李人植が書いた新小説「 銀世界 」に、抗日義兵は強盗と書いている。もちろんそれは朝鮮人義兵に限らず、いかなる国のゲリラであろうと、どういう主義や思想の大義名分があろうと、正規軍とは違って、3日や1週間ぐらいたてば、物的補給がなくなり、すぐ強盗に変身するのは、歴史の鉄則である。朝鮮義兵もそうだった。農民からの支援はけっして「 民族 」という大義名分だけで支えられるものではない。だからむしろ農民にとって厄介な存在として、朝鮮半島以外にしか活躍の基礎をもたない。実際に治安に携わる憲兵警察の人数は、それほど多くはなかった。当時の朝鮮人口1300万人に対して、憲兵警察は、朝鮮人警察官4440名を入れて総数7712名にすぎなかった。今日の東京都総人口1200万人に対し、2万5000人の警官配備に比ぺると、3分の1以下である。人口600万人に対して警察官が3万人もいる香港と比ぺると、朝鮮総督府の「 憲兵警察 」政治とはいかなるものか、多言する必要もなかろう。統計数字を見るかぎり、1人平均の警官数は、朝鮮では台湾の約半分にすぎなかった。それは朝鮮人が、朝鮮総督府に従順であるというよりも、総督政治を理解していたとしてもよかろう。
「 武断政治 」をおこなったのは1919年まででそれ以後は「 文化政治 」とよばれる。

反日暴動を煽り裏面から支援していたのがアメリカ人のキリスト教宣教師達である。
「 歴史民俗朝鮮漫談 」 今村鞆 昭和三年 南山吟社
( 灰色文字は注 )

( 今村鞆は朝鮮統監府警察部長であった )
暴徒の話

自分の来鮮したのは、隆熙二年( 1908年 )の七月であつた、当時全鮮至る処、暴徒といふものが横行して居つて、官吏竝( ならび )に内地人の往来、郵便逓送等は、皆憲兵か警察か軍隊かの護衛付きであつた、京城の城壁外でも、二三里以外は、日本人の独歩行きは危険であり、山奥へ行くと、少くとも十人ないし二、三十人の、銃を携帯せる護衛官を必要とした。
(中略)
この暴徒の起りは、隆熙元年に兵権を日本に委任し、韓国の軍隊を解散した、解散式の日、京城の軍隊があばれ出したのを手初めとして、各地の鎮衛隊が、饗応して、全鮮蜂の巣を突いた如くに乱れた。是れは明かに、伊藤統監の手ぬかりであつた。解散兵の生活の保障さへすれば、如此( かくのごとく )ならなかつたのである。
(中略)
京城は、龍山に軍隊が居つたから、直ぐ片付いたが、地方は警備機関が手薄で容易に鎮定せず不安の気は全鮮に漲( みなぎ )つて居つた、元来この暴徒は軍隊の解散といふ一機会を、動機として偶発したものでなく、その前々から日本の保護干渉に慊( あきた )らざる(不満である)、不平の儒者志士といふ様なものが、事を図るべく機会を待って居つた所へ、ヘーグ事件に関し、李太王殿下当時の韓国皇帝陛下が譲位した事が、彼ら一味の悲憤の感情を激成し、加ふるに彼等から言へば、国の対面を害すべき即ち腰の物を取上げらるる、軍隊の解散となつたであるから、一層の悲憤を加へて、此の機会に武器を持つたる。解散兵と結びついて、一大勢力となつて爆発したのである。なほ新政の為めに従来横暴を逞( たくまし )ふして居つた、地方多数の両班といふものが、従前の如く無理が利かなくなつて、随( したがっ )て物質的の打撃を受くると共に、先祖代々保持し来つた、家門の尊栄を蹂躙せられた如く感じて、悉( ことごと )く新政を呪つて居つたから、彼等は一斉に此暴徒に共鳴し、陰に陽に声援した事が、暴徒の力を強大ならしめた原因である。

外国宣教師の或者等は、彼らに好意を寄せて、裏面より応援をした、当時国交上、教会堂および宣教師は、治外法権同様の待遇を受けて居つたのを奇貨として、教会を策源地とし、或は避難地とした、当局の内訓によりそれを如何ともする事の出来なかった事は、当時討伐官憲をして切歯扼腕せしめたものである。宣教師の或者等が、日本の保護政治に、妨害を加へたことは一通りではない、のみならず、日本の施政を悪し様に誣( し )ひて( 事実を曲げて言い立てる )、本国に報告し、外国における日本の声価を傷つくるべき悪宣伝に資料を供給した、かつて旧韓国時代の、絞首拷問等、甚だしく残酷を極めたる絵葉書が、市中に売られて居つたのを買取り、それを日本政府が行へるものとして、著書の中に挿入して、米国で発行し、日本の蛮行として一問題としたと云ふ如き悪辣なる事も行つた、この絵葉書はその為に、発売禁止となつた。

一体朝鮮の外教信者と云ふものは、昔の暴政が追ひ込んだものである、外教信徒となつて居れば、郡守でも、観察使でも、誅求も不法拘禁も出来なかつた。、もしも信徒がかくの如き目に逢ふた時は、黙つて居ない、地方官で埒があかなければ、京城の本部へ照会して、本部の宣教師が本国公使の手を経て大臣に迄持ち出すと云ふ訳で、教会は暴政の安全地帯であつた、それで以つて信徒が増加したものである、それが新政府の為に、その安全地帯の必要が無くなり、信徒が激減した、その腹立ちまぎれでも有るまいが、何等が人気取りの策を施して、退勢を挽回する必要に迫られて居つた時である、信徒が減ずれば、本国からの伝導費の減るのは当然の事で、彼らも心のカテのみでは活きられなかつたからである。当時の暴徒は、右に述べたる如き遠因、近因動機から起こつたもので…
(中略)
暴徒の団体数は、常時全鮮に五、六百もあり、一団の人数は、大きいのは三千人に及び、小さきものは五、六十人位であつた、段々と警察、憲兵、軍隊などの討伐機関の完備の為に、勢ひちぢまり、山間に追つめられ、敗者もしくは帰順したが、その影の絶滅するまでには、実に五年の歳月を要したのである。終りには、暴徒の中へは無頼漢が混入して、強盗団の如きものとなり、良民を虐げた、ある集団がある村に立入つた時には、必ず糧食金品の提供を命じ、もし命令に背くか、あるいは日本軍警に密報でもせば、村落を焼き人を殺した、又あるいは村落の寡婦悉( ことごと )くの出動を命じ、炊事洗濯裁縫ないし其他の用務を執らしめた、それが為に、旧来の慣習を破つて、寡婦を再婚せしめ、難を断つといふ風も行はれた。昔しの朝鮮には、火賊といふものがあつた、夜陰富豪の家を襲ひ、金銭の提供を命じ、肯かなければ火を放つた、地方の富豪が、大抵京城に住居したのは、火賊の難を避くる為めである、故に偶々( たまたま )地方に居る富豪は、砲士といふ鉄砲打ちの護衛兵を抱へておつた、この火賊の前歴者は、大抵暴徒に加はつた。

暴徒討伐の効を奏した事に付ては… 警察の方で、巡査隊といふ暴徒討伐専門のものを作り、指揮官の警部に、日本の将校上りの人を採用し、主として鮮人巡査を使つて、試ろみた処、討伐に非常なる効を奏した…

「 朝鮮総督府回顧談 」 渡辺豊日子 昭和59年 友邦協会
( 灰色文字は注 )

( 著者の渡辺豊日子( 男性 )は朝鮮総督府学務局長であった )
朝鮮におけるキリスト教学校について

当時、外国人は凡( すべ )て治外法権を持ち、その経営する学校も治外法権で、政府の干渉を受けずどんなことでも出来るというので、信者も宣教師に頼る、悪いことをしても宣教師に頼めば助かる、日本の昔の「 飛び込み寺 」のようにお寺に飛び込めば官憲の手は伸びないというので、キリスト教の我儘( わがまま )が甚だしかった。従って、宣教師たちは、宗教と教育を混同し、宗教を教育に利用して、信者を増やそうとしたため、彼らが朝鮮で施設した物で目に付くのは、病院と学校、特に学校であり、またその教育を受けた人は凡て排日で、アメリカ崇拝、日本反対という有様であった。

寺内総督もこの点に着目され、宗教と教育を区別し、宗教の儀式を学校で行うべからず、学校の課程の中に宗教を加えてはいけない等、厳重に取り締まられたものである。しかし、当時は警務総監部の勢力が盛んであったため、その系統の地方憲兵隊では宗教方面に相当の圧迫を加えたようであり、また一方彼らの方でも手入れされねばならぬ程の悪いことをやっていたとも思われる。ようするに、悪者を助けてやると信者が増える、総督政治に反対すると自分たちの勢力の大きさを地方人に示すことができる、というので、問わず語らずのなかに自ずと反政府の傾向が強くなっていた。
( 中略 )
朝鮮における外国人宣教師問題

先述のように朝鮮に来た外国人宣教師はほとんど米国人で、多くは貧乏人の子で神学校に入って教育を受け、資格をとって朝鮮に来る。そこで本国に向かって手柄を示すために、信者が増えたと報告するのが成績を上げる近道であり、無理をしてでも朝鮮人を自分たちに惹きつけようという政策が取られたようである。従って警務局の調べを見ても、主な独立運動家たちはすべて教会と連絡をもっていたし、彼らが配布した不穏文書の印刷道具もみな教会の地下室から出てくるという有様で、宣教師達と朝鮮の独立運動との間には、何等かの連絡があったことは否めない。また彼らは故意に、「 朝鮮の政治が悪い 」と電波に乗せ宣伝する有様で、例えばマッケンジーが書いた大正8年の水原事件の報告書の中に出てくる写真も、実は日露戦争の時に日本軍が、朝鮮人や中国人でロシヤの手先になった所謂( いわゆる )露探を銃殺した時のものであり、それをいかにも今度の水原事件の時にあったもののように麗々しく載せられていた。原さん( 原敬首相 )の挨拶の中にも、「 過去にあったことを以って、現在もやっているとアメリカでは宣伝している 」とあったが、そういう悪評が宣教師を通じて米国に伝わり、特に朝鮮では女性信者が多く、その女性たちの訴えが伝えられたものである。従って、それを受ける方も婦人が多く、もともと婦人はセンチメンタルであり、従って、「 日本の政治は怪しからぬ 」と非難する声が段々強くなっていた。それが積もり積もって、それでは果たしてそのように日本は朝鮮で暴政をふるっているのか調べる要があるとし、たしか大正の末、大学教授で社会学の大家であるブルンナーを派遣し調査させたことがあった。ブルンナーは、「 自分の見たところ、宣教師の報告が少し誤っていたようだ。少なくとも朝鮮に来ている宣教師は伝道のことのみに熱中し、朝鮮人の生活にはノータッチである。これではいけない、総督政治はなかなか行き届いている。お前達( 宣教師 )もこれらの点を考え直せ。人はパンのみで生きるものに非ずと言うが、先ずパンを与えよ 」と報告したとのことである。
( 中略 )
要するに外国で総督政治なり日本の外地行政について非難した人達は、外国人といってもアメリカ人であって、欧州の人は少なかったということは、今日、日本人として多いに考えてみる必要があるように思われる。従って、日米関係を悪くして開戦にまで持って行ったのは、勿論日本の軍部も悪かったが、朝鮮における米宣教師が多年に亘って、日本の政治の悪口を言ったことが、アメリカ人が日本を信用に足らずという考えを持つに至った一つの原因でなかったかと思われる。
上記の反日活動との伝統的関係は不明だが、現在の韓国や日本でも一部のキリスト教徒が反日運動に荷担している。

「 プロテスタント宣教師は金銭目的のため朝鮮に来る 」という証言
「 韓山紀行 」 山路愛山 1904年 ( 「 現代日本思想大系4ナショナリズム 」 1964年 筑摩書房より )
( 灰色文字は注 )

( 山路愛山は史論家で雑誌「 太陽 」を創刊。韓国旅行中の著者は釜山から仁川へ向かう船中で、日本語を話すスペイン系米国人からプロテスタント宣教師に対する批判を聞く。 )

此方(朝鮮)へやって来るプロテスタントの宣教師は金儲けに来るのです。月給が150ドルですから日本の300円になります。それですから相応に贅沢ができますし、金を貯めることもできます。つまり金がほしいから来るので、別段感心しない。カトリックの教師はそれに反対で、女房は持たずわずか月給16円で満足しなければならない。まことに感心です」 (明治37年5月7日 1904年