第二次日韓協約について;
条約と強制(5)武力的脅迫



a)武力的脅迫

(1) ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、十七、十八両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。

(2) 十七日夜、伊藤は参内に際し、長谷川韓国駐剳軍司令官、佐藤憲兵隊長を帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。『大韓季年史』によれば「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵・騎兵・憲兵与巡査及顧問官・輔佐員、連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫尺重重囲立、銃刀森列如鉄桶、内政府及宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難以形言」という。要するに王宮(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである。

(3) 十七日午前十一時、林公使は韓国各大臣を公使館に召集して予備会談を開いた後、「君臣間最後ノ議ヲ決スル」ため御前会議の開催を要求し、午後三時ごろ閣僚に同道して参内した。その際、護衛と称して逃亡を防止するための憲兵に「途中逃げ出さぬやうに監視」させた。事実上の拉致、連行である。

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上ではいろいろと述べているが、そのどれが条約の無効原因たる“武力的強迫”にあたるのか、よく分からない。(1)から(3)で共通しているのは、最後に「威圧」とか「制圧」とか「拉致、連行」とかそれらしい言葉を付け加えているだけで、どの行為が、誰に対する、どういった内容の武力敵強迫なのか具体的な一切説明がないのである。この程度で、強迫があったなどと論証しようとしているのであるから何ともお寒い限りではある。

まず、(1)の「ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、十七、十八両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した」件であるが、確かにこれは”示威・威圧”行為であるが、その本来の目的は”治安の維持”にあったのである。というのも、当時はもとよりそれ以前から、韓国では儒者等による騒擾が日常茶飯事と化していたからである。この点について、現地の林公使は以下のように桂臨時兼任外務大臣に打電している。

「.....唯韓国宮中並大官輩は疑惧の念を抱き、無頼の儒生等亦多少反抗を試むへきに付、其実行の方法に関して多少威圧を要することあるへきと思考するに付、予め御含を乞ふ。.....」
(『日本外交文書』、電信第362号、日本に依る韓国の外交関係引受け措置に対する各国公使及び韓国大官等の態度に関する件、明治38年9月28日)

上では「多少威圧を要することあるへき」と述べているが、その対象は勿論(条約交渉の相手ではなく)反抗を当然試みるであろう「無頼の儒生等」およびそれに連動する者である。
伊藤も、11月15日の高宗との内謁見で、「昨今儒生輩を扇動して上疏献白を為し秘密に反対運動を為さしめつつありとの事は、疾く我軍隊の探知したる所なり」と述べているのは拙稿『日本外交文書』で紹介したとおりである。
これら儒者等による外国排撃の騒擾は以前よりかなり盛んで、事あるごとに運動や暴動を起こして日本側を悩ませていたのであったが、ここでこの儒者等についてみてみよう。とはいっても一口に儒者等といっても、これについて詳しく述べようとすると、それだけで一冊の本になるので、日本側の認識・分析ということで、『日本外交文書』から儒者に関するものを拾ってみよう。
まずは、時がやや遡るが明治37年(日露戦争中)の『日本外交文書』の、以下のようなやり取りから。

「儒生の一派にして目下失意の地に在る連中、日本の対韓国政策は専ら利益壟断主義にありとの事を論議し鉄道、漁業、銀行券、及鬱陵島伐木等凡そ数条目を掲け日本排斥的檄文を作り内々配布せんとするやに承知せり。勿論是等の連中は其人格に於て一般に重きを措かれさるものなるに付深く顧慮するに足らすと雖も、現に此事当地新聞に掲載せられ多少物議を来す恐れあるを以て、本官は外部大臣に照会し其注意を促すと同時に法部大臣警務使に対し之か捜査処分を勧告し置けり」
(『日本外交文書』、電信549号、儒生一派の排日檄文に関する件、明治37年6月18日)

「第五四九号電報の儒生派の内容を探くりたるに、檄文を十三道に発せんとする外、同意味の通告文を当地駐在各国公使に送付する準備中にあり、且つ鉄道電線の破壊を企んとする等頗る不穏の意味を含み居れるに付、本官は本日韓帝に謁見の序を以て右儒生等の行動に対し厳重の取締方を奏請する心得なり。
玄界灘に於ける我輸送船の撃沈せられたる悲報は、宮中に出入りする雑輩にして我勢力の増加の為め失意の境遇に陥り居れる一派の利用する所となり、昨今宮中に於て諸般の政事改善に関する日本の忠告は内密に仏国公使に協議する必要を唱へ居れりとの報道あり。」
(『日本外交文書』、電信第551号、儒生派の排日行動に関する件、明治37年6月20日)

日露戦争中、日本軍は、これら儒者等による破壊活動に対しては軍律でもって厳しく対処している。特に電線は軍の死命を制しえるものでもあったので、破壊の実行者で処刑された者も少なくなかったようだ。
また、上で「昨今宮中に於て諸般の政事改善に関する日本の忠告は内密に仏国公使に協議する必要を唱へ居れりとの報道あり」とあるが、この頃、韓国宮中とフランスは相当に親密であったようである。例えば(拙稿『高宗』でも述べたが)この年の二月には高宗の仏国公使館への播遷が計画されており、その直前にはフランス兵が京城のフランス国公使館に入ったところであった。

「只今、清安君より急使を派し、左の情報をもたらせり。
宮中は物情不穏皇帝は俄に仏館に播遷の用意を整へらる。其れ李容翊、玄尚健等の計画に出つ。右の次第にて皇帝はいつ時局の発展如何によつて何時仏館に潜行せらる〃やも計られず云々。.....」
(『日本外交文書』、電信第104号、韓帝仏国公使館播遷に関する情報の件、明治37年2月8日)

以前の投稿(『高宗』)で、私は、この仏国播遷はフランスにより拒否されたのでは、と書いたが、ここまで準備が整っていたところをみると、韓仏間で相当突っ込んだ合意ができていたのではなかろうか(私の前言は、ここに訂正する)。日露戦争開戦以前、韓国は何回か「(永世ないしは局外)中立」を検討または実際に宣言したりもしているが、それにあたってフランスに密使を送るなどした他、当時、法律顧問としてフランス人のクレマジを雇ったりしている。実は、当時、儒者を中心として国際法が熱心に勉強されており、第二次日韓協約の無効説は、儒者等により締結直後に唱えられているが、この勉強の成果であったのであろう(これについては、後に触れる機会があろう)。そして、現在、韓国側が唱える無効説の実質というのは、実は、当時の説から全く進歩しておらず、これには私はちょっとビックリした。
当時、ヨーロッパ方面においてはフランスとロシアが同盟し、ロシアとイギリスが対立、従って形式上はイギリスとフランスは対立という構図になっており、その構図を極東に当てはめれば、日本とイギリスは同盟してロシアに対抗していたから、フランスと日本は対立関係にあったということになる。もちろんこれは単純な形式論であり、フランスとロシアの同盟の目的はあくまでドイツに対する警戒・復讐にあったのだから、フランスはイギリスを敵にまわすほどの意図はなかったのである(ドイツ包囲網というフランスの大戦略が破綻してしまうから)。
従って、フランスは韓国においては微妙な立場にあったと言え、日本と多少は対立するぐらいのことなら行動に制限はなかったであろうが(それはロシアの利益にも叶うのであるから)、イギリスと敵対しない程度に留めなければならなかったであろう。一方、韓国側にはそのような世界情勢というものをどこまで認識していたのか相当に疑わしく、とにかく利用できるものなら何でも利用してやろうというぐらいの魂胆であったろうが。
また、同時期に、再度の露館播遷の計画もあったというからちょっと驚いてしまう(『日本外交文書』、電信第86号、露国公使より韓帝の露館播遷を慫慂したる旨清安君より内報の件、明治37年1月25日発)。

一進会

儒生等の騒擾に話を戻すと、韓国宮中や政府はこれら儒生等にはかなり”寛大”であり、発砲や暴力事件を起こして日本側官憲に捕えられた連中を韓国当局が引き取っては放免していた(『日本外交文書』、電信第598号、排日檄文の張本人の処理の件、明治37年7月17日)。もっとも、これら儒者等を”扇動”していたのは、多くの場合、当の韓国宮中自身であったのであるから、当然といえば当然であるが。
引き続き林公使等の報告から、当時の状況をみてみよう。特に「一進会」についてのコメントがあり、これに対する日本側の捉え方がよく表れており、今後の参考にもなる。

「韓帝を中心とする宮中出入者か当政界の原動力たるの状況は、今に相変らす。時局以来韓帝は特に本使に気兼せられ、本使のなせる間接直接の忠言は常に之を肯首せられ、時々詔勅を以て施政改善に対し公明なる意見を発表せらるるも、只外面のみにて毫も之を実行せられんとはせす。政府大官中志量ある老成株は真面目に施政の刷新を企画しつつあるも、一も二もなく常に韓帝及ひ宮中出入者の為めに圧抑せられ、老成株以外に於ける所謂大官連は只専意韓帝の意を迎ふるを努めて他を顧みす。名望ある大官は本使の勧めあるも、韓帝は之を表面に同意せらるるのみにて多くは採用せらるるも単に虚位を与へらるるに過きすして、韓帝は近侍せる少壮輩若くは不評判なる大官連に繞囲せられて曖昧の間に時局を観望することを期せらるるに似たり。故に時局以来屡々公明なる詔勅の発表あるも、毫も人心を収攬するに至らす。去れは怨声は各部面を通して今に絶へさる次第に有之候。
政府以外に於て暗々勢力多少有する所謂儒生一派、東学党、及褓負商(北の狼注;以前に説明したホプサンのこと)の団体に就て之を見るに、儒生は士林とも云ひ其議論は士論として従前政治上に容喙せる例あるも、その他は何れも政治上の意味を有する団体にあらさりしか輓近政界腐敗と共に其等も漸次一種動力となり、韓帝若くは大官連の指嗾の下に政界の爪牙となる場合を認むること相成候。其実例を挙くれは、第一銀行券流通に反対せる儒生一派、及褓負商の如き荒蕪地案に対せる保安会の如き者に有之。何時にても韓帝の内意若くは大官の教唆により沸騰すへき性質を具備するに至りたるも、彼等自ら政府に反対せんとし躍起せるの例は甚た少く、韓帝若くは大官の教唆を得るに非されは活動し能はさるか如き観有之。而して其等の多くは従来日本の行動に反対する場合に於て其活動を認めたるも、嘗て日本に同情を寄するの挙を敢てしたることなし。時局の初に当り儒生或は褓負商等の一団を懐柔若くは団束したるは一に之か為めに有之候。
然るに輔安会は実に荒蕪地案物議に登ると同時に発生して、痛く悲観的感念を以て我提案に反対せり。当時本使は之か鎮圧を要求せるも、韓廷は進て鎮圧の途に出てす。之か為め或は治安を妨害するの掛念ありて、本使は駐剳軍の協議に同意し我れ自ら之を解散するの方法を執り軍事警察を当地に布くの端緒を開けり。続て起りしを一進会とす。
一進会の成立に関しては、本使は当初より重きを之に措かす、亦我軍の行動若くは我政策に妨害ありとも認めす。唯彼等は我公使館若くは軍の後援を有し居る歟の疑いを韓廷に抱かしむるは面白からすと認めたり。当初よりの状況を概略開陳せんに、一説には、過般神鞭知常氏に在りし李址鎔、閔泳煥、閔丙セキの徒は此際政治的意味に於て一団体の組織を企望したるやに有之候も、本使は彼等三名は斯の如き胆気を有するものとは認め居らす。蓋し我軍隊の通訳として本邦より軍隊に付随し来りたる宋秉シュンなるものは元来閔泳煥、閔丙セキ一味のものなりし故、此者の企画に成りしを以て前記三名か本会に関係したるやの説をなしたるものと思考せられ、而して宋秉シュンの計画は独立協会の残党其他の歓迎する所となりて、宋は其身司令部に出入し居るの便宜あるか為め暗に結社のことを以て当館及司令部間に遊説試み、而して其標榜は日韓議定書の意義に基き日韓の結合、韓国の施政改善に在りしかは司令部に於ても別に之に重きを措かす随て其結社を否認するの挙に出てさりしかは、彼等は之を以て恰も後援の極て有力なるを得たるか如く思意し、茲に其組織を了せるものと判断致候。
然るに一進会か結社の綱領を印刷せる主意書の中外に領布せらるるや、従来の虐政に悩苦せる人民は大に之に賛同し同時に右主意書は飛檄の如き誤解を地方人民に与へたるか為め、茲に各地に散在せる儒生の輩若くは東学党の響応する所となり、在京会員は之に景気を得て該会の状況漸く旺盛を呈するに至り。而して韓廷は其標榜せる主意書に対し非難の余地なきと東学党員の続々上京入会との風声に喫驚せるも、彼等か当館若くは司令部の間に何等かの默契あるか如き疑念を抱きたるか為め敢て何等の着手をも為さす束手只恐慌せるのみ。此間本官は事体漸く穏かならさるか如き状況ありと認め、一に司令部幕僚を招きて事態の意外の辺に奔逸せん掛念ある所以及帝国官憲か之か後援たるかの如き誤解を一般に与ふるは極めて不得策なる所以等に付深く考究する所ありて、其結果此際絶対に之を打破するの要を認めさるも少しにても治安を妨害するの恐あるに於ては猶予なく之を打破して毫も仮借する所なきことに決し、差当り其集会を差止め茲に一段落を告けることと相成りたるに、次て進歩会なる異名同体の結社を見るに至りしも、之とて軍事警察の取締の下に極めて秩序的に敢て埓外の奔逸をなす恐れなく、尚ほ地方に於て響応せる輩の如きも一時不穏の状況ある歟の如く狼狽せる地方官に依り報告せられしも、爾来当地に於ける其物の如く至て平穏に帰しつつ有之。
或は京城に於ける一進進歩両会の重立ちたる輩は、日本の默契の下に会の勢力を利用し機あらは猟官の下地を造らん希図なきを保せさるも、現下の処斯る希望を表はさす、又我取締の下に紛雑を起す程の状況も無之、外面に於ては多少宮中及政府の施政を牽制するの効果を収めつつあり。且つ地方にありて其影響は全く地方官の悪政に反抗するの機関たらしめんとの主意に外ならさるか如く、而して実際に於て著しく地方官の悪政を抑制するを得たるか如く、彼等か敢て不穏の行動をなささる者職として之に因ると認めらる。現に平安道の如きは輓近最も暴政に苦みたる地方なれは該会に入るもの著しく多く、彼等は誠意我軍の行動を助けんとし無賃にて人夫を供給せんと申出て聴れさる場合には其賃金を寄付せりと云ひ、又咸鏡道に在りても該会員は醵金して我軍に献金をなさんと申出たりと云ふ。
右の如く該会は我行動に便宜を与ふるの場合も有之候に付、治安を撹乱する恐れなき限りは之を打破するの要を認めさるのみならす、取締の如何によりては官吏の暴政を牽制するに於て帝国の威信を層進するの途とも相成可申。尤も少しにても為めに当地は勿論地方の安寧を妨害するに至るへき模様有之候半には、本使は駐剳軍と協議の上猶予なく鎮圧の方法を取るへく右に関して駐剳軍の方針は既に一定し且つ其筋へ報告済に有之候。尚ほ一進会処分に関し、当初本使と我軍憲との間に意見の扞格を生し居る歟の如き憶測をなし、此説の流布をなせし者も有之。当時本使も之を耳にしたるも畢竟事情を詳にせさるの推測とし敢て歯牙に掛けさりし次第に有之候へは、此辺及一進進歩会等に関しては御放念相成候様致度と存候。(後略)」
(『日本外交文書』、機密第一一四号、韓国政界の状況報告の件、明治37年11月26日)

林公使の報告からは、「一進会」の行動をそれなりに評価しつつも、治安を重視してかなり醒めた目でこの会を捉えているのが分かるであろう。というのも、この頃(日韓議定書締結時)から、儒者や反日官僚の意を受けた「共進会」や義兵などを中心とした一進会攻撃が始まっており、対して一進会側もこれらに反撃するなどして各地で騒擾が起こっており、そのような治安の悪化をこそ日本側は警戒していたからである。ただ、この時点ではそれら騒擾も未だ小規模かつ散発的であり全国的に波及するまでには至らなかったが、かといって完全に収まることはなく継続して”火種”として存在しており、決して楽観視できない状況だったのである。

一進会が創設されたのは明治37年(1904年)で、創設者は上にもあるように宋秉シュン(1858ー1925年)である。
宋は、もともとは閔族に使えており、1885年に金玉均一暗殺の密命を帯びて来日している。ところが逆に金玉均に共鳴し、日本と結んでの近代化の達成を夢見るようになる。帰国後は、”変節”の嫌疑で捕えられたが、許されて郡守や県監などを歴任している。日清戦争ののち日本に亡命し10年間の周遊の後、日露戦争の際に帰国し、日本の通訳をつとめ、この頃旧独立協会々員を中心んとして一進会を結成している(独立協会は、元々は外国に一切頼らず韓国自身の力による内政改革乃ち独立の維持を目指していたが、保守派・守旧派との闘争に破れて日本を頼るようになったということであろう)。1907年5月には李完用内閣の農商工部大臣として入閣、翌6月「ハーグ密使事件」の際に、高宗に対して「東京に赴いて謝罪せよ、さもなくば日本に宣戦せよ。」と迫ったのは宋である。
ちなみに李容九(1868ー1912年)であるが、もともとは東学党(1860年に崔済愚がはじめた民間宗教で、西学すなわちキリスト教と儒教を排し、東国すなわち朝鮮の学を打ち立てることを主張し、天下一如の平等社会の実現と現世利益を説いた。94年2月、日清戦争の遠因である東学党の乱を起こしている)の高弟の一人で、東学党の乱の際に捕えられたが処刑は免れた。日露開戦後、東学教徒の団体として進歩会を結成し、一進会と組織合同を行い、やがて一進会の会長に就任している。後に、日韓”併合”ならぬ日韓”合邦”を唱えるが、(伊藤博文の暗殺を契機に)日韓”併合”の形をとるに至ることになり、李は落胆のあまり病床についたという。

林公使は、上の「機密一一四号」の5日後には、小村外務大臣に宛て以下のような報告も行っている。

「貴電第三五八号一進会に対する御注意に関し、本官も亦兼て同様の観察と憂慮を抱き機を見て之か節制を加へんとし居りしか、今回共進会の不法行為より事起り政府も亦暴力を以て共進会及ひ一進会に当るに至り京城に白昼無秩序状態を演したるを以て、本官は司令官と協議の上直ちに我憲兵を以て秩序を回復し引続き各種の集会を制止し居る。尚既電の如く一定の規則を設けて今後の節制法を立つることに目下司令官と協議中なり。又一進会の標榜せる主義啻に我政策に合致するのみならず各地方人民の同情を得人民等が該会に賛同するは、即ち中央政府及地方官の虐政誅求を免かれ得る只一の手段と信し居るか故に、右様節制を加ふると同時に一進会を初め上下一般に虐政誅求の主動者と目せらるる内部大臣李容泰の罷免を行ふを以て時宜を得たるものとし、昨日同大臣の免官を内奏したり。
(中略)
一進会は、兼ねて機密一一四号信所報告の如く、我より勧告して一時其集会を中止せしめ居りたるに、政府の大官中殊に李容泰及許為(北の狼注;為は当て字で、実際は為の上に草冠がつく)等の一派は該会を根本的に解散せしめて更に陛下の信任を得ん為め今の共進会を組織して反対行動を採らしめたる為め再ひ一進会激昴せしめ、且つ最近義兵なるものを組織して地方一進会に当らしめ近来各地方に多少騒擾の生したるは全く之か為めなり。(後略)」
(『日本外交文書』電信第七九三号、一進会に対する抑制措置並に同会に関し精査報告の件(一)、明治37年12月31日発)

これを見ると、当時一進会は相当な勢力で地方に浸透し始めており、それに呼応するようにして反対勢力の活動も活発になっていたことが分かる。
しかし、一進会というのは、周知のようにかなりの勢力を有した”親日団体”ではあったが、実は、当時の日本の政治家、特に外交関係者の間ではあまり評判が良くなかったのである。
その理由の一つは、前の林公使の報告(「機密第一一四号」)にもあるように、そのあまりの日本側寄りの主張の裏には「日本の默契の下に会の勢力を利用し機あらは猟官の下地を造らん希図」があるのではないかという疑義を、日本側は当初捨てることができなかったからである。しかし、彼等(一進会)の本音は日本と結ぶこと自体にあったのではなく、それはあくまで手段に過ぎないのであり、例え日本の保護国・植民地となろうとも取り敢えずは(日本の援助のもと)韓国社会の”開花”を成し遂げ、引いては韓国の滅亡を阻止し、いつの日にか真の独立を達成するということにこそあったのである。ただし、李容九は後に”合邦論”を唱えたが。
理由の二つには、上述のとおり治安維持の問題である。別に一進会に限らず(また韓国に限った話でもないが)政治的過渡期におけるこの手の政治団体というのは多少とも暴力的であり”無頼漢”の集まりといっても過言ではなかったのであるが(儒者、ホプサン、東学党はもとより独立協会もそれの例外では決してなかった)、それらの団体が衝突して騒擾に至り、場合によっては全国に波及するといったような治安の混乱をこそ日本側は最も警戒していたのであった。また、特に一進会の「とりあえずは日本と結び、日本に協力する」という日本寄りの主張・立場は、強固な排外思想を有する儒者を始めとする民族派や宮中派の神経をいたく刺激したことは明白で、なおさら衝突の心配が高かったのであり、実際小規模とはいえ事件が頻発してきたところであった。
そして、翌明治38年10月頃(すなわち第二次日韓協約締結直前)の韓国社会の情勢を『小村外交史』から引用する。

「十一月二日伊藤枢密院議長は御前に召され、韓国皇室御慰問の思召を以て特派大使として差遣の旨御沙汰があつた。これより先き韓廷にあつては、晩近発表の日英新協約及び日露講和条約に於て、日本の韓国に対し必要と認める指導監理及保護を行うの権が明確に承認せられ、特に保護の文字が始めて公然条約の上に用いられたるを視、日本は韓国の位地に対し近く何等かの断乎たる措置に出るであろうと予想して揣摩憶説、上下疑惧の念を抱くの状であつた。韓帝その人の如きは、旧套の手段によりて一身の安固を許るに腐心し、或は外国播遷に逃幸し、まさに地方に蒙塵しようと画策しているかの疑さえあつた。剰さえ地方にあつては、いわゆる義兵なるもの宮廷の一角と相通じて排日の旗織を翻えそうとし、政府部内にあつても幾多の暗流ありて情勢渾沌として測定し難く、僅に我が公使館の厳密な督視と駐屯軍の圧力とにて外面の沈静を保ち、秩序の紊乱を防止するの状であつた。この時に方り林公使の来往あり、次で伊藤特派大使渡韓の報あり。流言蜚語粉々として起り、種々の運動その間に加わり、漢城政界の頓に動揺を呈したのは怪むに足らない。」
(『小村外交史』外務省編、原書房、720頁)

上にある「種々の運動その間に加わり」について少し説明すると、第二次日韓協約の締結交渉直前(伊藤大使到着の数日前)に、一進会は以下のような宣言書を公開し、韓国全土に檄を飛ばしていたのである。

「(前略)今韓日両国の関係を旧軆に回復せんとするは、幾んど死者を回甦せしめんとする者にして、其正否知るべきのみ。若し外邦の干渉を峻拒し独立の名実を完全ならしめんとせば、旧然蹶起其理由を万国に宣言すべし。然らずんば友邦の指導に順拠し、以て文明を進め、独立を維持して可なり。進んで旧然唱義の勇なく、退いて友邦に信頼するなく、徒に疑懼し群小奸細の巧言に惑ひ詐計を舞弄す。これ必ず交誼を傷け自ら亡国の禍を招くもの曷んぞ嘆惜に勝えんや。唯我唯一進会の主義綱領は皇室の尊厳、人民の安寧、国家の独立に存り矣。而して其所謂尊厳とは虚栄に非ず臣民の崇信なり、其安寧とは姑息に非ず永久の平和なり、其独立とは形式に非ず実躰なり。抑政務の大権皇帝陛下に属するは論を俟たず。然れども内治外交百般の施設自ら境界分域あり。臣僚をして分任せしむ、是所謂政府なり。政府は果して能く其職分を盡し、其責任を完する乎。悲哉、未だ曾て有らざる也。文武百僚濫に栄祿を窃み、甚しきは虐民営私を任となす。寧無政府の優れるに如かず。韓日両国の関係将来如何なる変態を生ずるやを知らずと雖、仮令外交の権を日本政府に委任し在外公使の召喚駐韓公使の撤退ありとして起る所の問題は何ぞ。之を論ずる者は曰く、独立の大権害せられ国家の軆面損傷と。或は倉皇奔走して亡国の歎を発するものあり。然れども是一を知つて二を知らず。前定日韓議定書中、既に外交の事大小となく日本政府推薦の顧問官に諮問す事を明記す。若し外交の事を挙げて日本政府に委任するも、其差果して幾何。其実軆は一のみ、只形式の変化に過ぎざるのみ。況んや派外公使の如き其命位虚飾のみ。寧ろ友邦政府に委任し其力に依りて国権を保維する、亦陛下大権の発進に外ならず。内治の事亦同じく先進顧問を擇び弊政を除去し、以て民徳を進むべし。
大日本皇帝陛下の慈仁聖徳は、夙に中外の瞻仰する所。其国民大道大義を重ずる、亦世界万国の共に認むる所なり。我若し披誠して之に接せば挙実之に応じ、彼奚ぞ独り無道を我に行はんや。噫事己に誤り、時己に晩し矣。孤疑逡巡するなく、且頼むべからざる国を頼み、遂ぐべからざる事を企て、徒に友邦の感情を添へ同盟の信義を傷くるときは、必ず測るべからざるの境に至り又自ら亡国の禍根を招く豈痛哭せざるべけんや。
鳴呼、我二千万同胞は、此多乱の時におよび世界の体勢を察し東洋の時局に鑑み我国の情景に観れば、復二辞なけん。即ち独立保護、領土維持は大日本皇帝詔勅を世界に公布せられたれば、更に疑ふを用ひず。我は一心同気信義を以て友邦に交り、誠意を以て同盟に対し其指導保護に依り、国家の独立、安寧、享福を永遠無窮に維持せん。ここに敢て宣言す。

     一進会々会長  李 容 九
              外 会 員」
(『朝鮮最近史』戸叶薫雄、楢崎観一、20ー21頁)

上は、内容の賛否は別にして、なかなかの名文ではなかろうか。また、上に限らず当時の韓国政治団体や新聞が書いた文章というのは、人の内面すなわち感情の吐露については極めて巧妙であり心を打つものがあるが、他方で、世界情勢に疎く、論理展開や将来に向けての具体的政策の提言といった現実面は曖昧模糊なものが多いという特徴がある。
上の宣言書にある現状認識や主張内容は、私にとっては極めて妥当なものに思えるが、あくまで日本人である私が現在という時代から当時の韓国情勢を眺めた上での話であり、当時の韓国人、特に頑迷な排外思想を有する儒者からすればそれこそ”自暴自棄”とでも映ったことであろう。そして、上の一進会の宣言書をみた(もともと外国、特に当時は日本の排斥を唱えていた)保守派や儒者等がどういう反応を示したかは、深く考えるまでもなかろう。

「一進会の宣言は、実に滔々数万言大局を論じ、時弊を刺し、国家民人を思ふの誠意字々句々に横溢するの慨ありしも、其大胆にして露骨なる所説は多数の人民より激列なる反対を受け、国粹保存、排日主義の皇城新聞等は毎日の紙上に於て痛切なる攻撃的論調を掲げ火上更に薪を架せしかば、一般反対派は一進会を目して日本に媚附し三千方里の領土を売り二千万の人民を奴隷にする魔党なりとなし、論難反対の気焔を高め、漢城の風雲転た急を告ぐるに至れり。」
(『朝鮮最近史』21ー22頁)

こういう事態を認識ないしは予想して、林公使は「無頼の儒生等亦多少反抗を試むへきに付、其実行の方法に関して多少威圧を要することあるへきと思考するに付、予め御含を乞ふ」と報告したのであり、それを受けて日本側は「京城駐屯の目的を以て輸送中の帝国軍隊を可成本件着手以前に悉皆入京せしむること」を決定し(明治38年10月27日、韓国保護権確立実行に関する閣議決定、第七項)、そして「ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、十七、十八両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧し」不測の事態が起きないようにしたのである。ここで、ちょっと注目すべきは、条約締結時にソウルに配置された軍隊というのは元々治安維持のため「京城駐屯の目的を以て輸送中の帝国軍隊」だったのであり、別にこの条約のために特に派遣された軍隊ではなかったということである。
本来ならこのような治安維持は韓国側の役割なのであるが、そもそも韓国にはそれをなすだけの実力がなく、従って日本が日韓議定書の規定に基づき治安維持のため軍隊を入京させたのである。逆に、韓国の治安が維持され騒擾・騒乱の懸念がなければ、日本は軍隊を入京させる必要は別になかったということである(もっとも韓国側に本来そのような統率力・治安維持能力が備わっていれば、そもそも第二次日韓協約などというものは必要なかったであろうが)。

国際法学者である坂本茂樹氏も、何ら根拠を示すことなく「日本側は困難が予想されるであろう条約交渉を有利に進めるためには、韓国側に対して軍事的圧力をかける必要があるとの認識から、『京城駐屯ノ目的ヲ以テ輸送中ノ帝国軍隊ヲ可成本件着手以前ニ悉皆入京セシムルコト』(第七号)との決定を行っていた。」(『日韓保護条約の効力ーー強制による条約の観点からーー』関西大学「法学論集」44巻4・5号、三二四[八八○]頁)などと短絡しているが、以上の説明で「ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、十七、十八両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した」ことが、条約締結・交渉とは直接の関係がなかったことが理解できるであろうし、ましてや武力による威嚇・脅迫でもって条約締結を予定していたわけではなかったことは明かなのである(この点は後述)。
ちなみに、配置された軍隊の規模であるが、『大韓季年史』には「騎兵七、八百、砲兵四、五千、歩兵二、三万」などと記してあるそうだが(『日韓協約と韓国併合』51頁より)、これでは師団レベルの規模であり過大な数字であろう。これの正確な規模は私は確認することができなかったが、「歩兵一大隊」という記載や、伊藤博文が訪韓する10日程前に韓国駐在中の軍隊が急遽移動したものであることを考えると、その規模は数百人程度、精々が一千人ぐらい(すなわち大隊規模)だったであろう。
もし、日本の軍隊が、韓国という国自体に対してであろうが、条約交渉の責任者に対してであろうが、”強迫”の意図を持っていたとすれば、交渉過程で例えば「この条約を拒否すれば、外の軍隊が黙っていないぞ!」といった言辞が一つぐらいあってもよさそうなものである。しかし、韓国側の資料をみてもさすがにそのような記録は一切なく、せいぜいがソウルに軍隊がいたという事実のみをもってして、条約締結交渉の際に武力による威嚇・強迫があったと強弁している程度である。しかしながら、そのような強弁は成り立たないのである。何故なら、上でみたように林公私と日本側のやりとりをみれば、日本軍駐屯の本来の目的は、そのような威嚇・強迫にあったのではなく、あくまで治安維持にあったとみるのが最も妥当であるからである。そして、この治安維持には、条約の締結がなった場合に怒った儒者等の攻撃から韓国閣僚の安全を保障するこも当然に含まれていたであろう。朴斉純外部大臣などは11月16日の林公使との会談で、もしこの案を承諾すれば国民の強硬なる反対を受けて暗殺されるかもしれないなどと述べているが、韓国における過去の出来事を振り返れば決して根拠のないことではなかったのである。実際、第二次日韓協約締結直後には、李完用の家が焼き打ちにあったり、これに賛成した閣僚は”五賊”とも”七賊”とも称され公然と”処刑宣告”を受けたのは有名な話である。実は、このようなことこそが、(朝鮮側や反日日本人たちが、条約の無効原因として現在もしきりに主張している)正に“個人の身体や財産”に対する脅迫の類、否それを通りこして暴行に他ならないのであるが。
日本の軍隊の送致の目的について、治安維持に敢えて付け加えるとすれば、高宗の外館播遷や閣僚の逃亡といった”無様”を防ぐことも念頭にあったであろう。実は、このこと(軍事力でもって条約を強要する計画はなかったということ)は、朝鮮側や反日日本人らがよく引用する以下の閣議決定をみても明かなのである。

「着手の上、到底韓国政府の同意を得る見込なき時は最後の手段として、一方韓国に向ては保護権を確立したる旨を通告し、列国に向て帝国政府か右の措置に出つるの已むを得さりし理由を説明し、併せて韓国と列国の条約を維持し、韓国に於ける列国商工業の利益は之を障害せさる旨を宣言すること」
(明治38年10月27日、韓国保護権確立実行に関する閣議決定、第八項)

もし、日本側に、派遣した軍隊でもって脅迫して条約を締結しようとの意図があったのであれば、それこそ朝鮮側が条約に調印するまで関係者を王宮に”監禁”せよといった決定・命令があってよさそうなものであるが、「到底韓国政府の同意を得る見込なき時」の措置は「保護権を確立したる旨を通告」することと明記されているのみである。
この部分について、例えば琴秉洞朝鮮大学校講師などは「つまり日本は、国王や首相や外相が反対しようと軍事力で押さえて、一方的に『保護国』にしたことを宣言する予定だったのである」(『日韓協約と韓国併合』44頁)と述べているが、日本は本当に”軍事力”で朝鮮側の反対を押さえて「保護国」としようとしたのであろうか? 実は、第二次日韓協約は日本軍による”脅迫”で締結したものであるという主張と、「軍事力で押さえて、一方的に『保護国』にしたことを宣言する予定だった」との言説は矛盾する点があるのであるが、それはそれとして、もし琴秉洞氏のいう通り(「国王や首相や外相が反対しようと軍事力で押さえ」る予定)だとすれば、あくまで韓国側が締結を拒否した場合、例えば王宮を完全に占領・包囲して条約に調印するまでそれを解かないと宣言するとか、ソウルを軍事占領するなどして韓国の外交権等を完全に掌握するということにでもなったであろうし(そもそも、日露戦争をようやく集結させた直後だというのに、そのような軍事的行動を始める余裕が日本にあったか大いに疑問だが)、そういう措置こそが正に軍事力で押さえた「最後の手段」としてふさわしいと言えるのである。しかし、「最後の手段」として上の閣議決定にあるのは、「韓国に向ては保護権を確立したる旨を通告」することのみであったのである。要するに、あくまで(軍事力の行使ではなく)外交的に解決するということである。
ちなみに、この一方的な「保護権の確立」の通告云々については、『小村外交史』(719頁)をみると以下のようにある。

「そして小村はその保護権設定の順序方法、殊に着手の上到底韓国政府の同意を得る見込なき場合に処すべき方策等に至る迄、案を具して桂の考慮に供した。桂は悉くこれを容れ、さらに元老の同意をも得たので、十月二十七日の閣議に於て愈々不日決行のことを取定め、即日上奏裁可を経た。」

もしソウルの軍事占領というようなことを意味していたとしたら、(いかに小村が”タカ派”かつ”膨張主義”でならしたとはいえ)そのようなことを小村等の外務省筋が独断で計画し、かくもスンナリと首相、元老、閣議、天皇の同意が得られたであろうか? まず考え難いであろう。当時はなんとか日露戦争を終結させた直後で(小村自身は、ソ連側の提案に反発してポーツマス条約の締結を拒否するよう日本政府に具申したが、日本政府は戦争継続能力無しとして、小村に命令して条約を締結させたところであった)多大な借金を抱えており、また、勢力が多少削がれていたとはいえ”穏健派”の伊藤博文は未だ〃健在であったのであり、しかも、その伊藤自身が特派大臣として韓国に向かうことになっていたのである(しかも、林権助の『わが70年を語る』にあるように、伊藤の派遣を最初に言い出したのは小村自身だったのである)。

・保護国論

実は、そのようなこと(ソウルの軍事占領といった軍事力で押さえること)はそもそも必要無かったのである。すなわち、韓国を”一方的”に保護国化するのに、なにも軍事力を使う必要なぞなく、外交処理のみで充分可能であったのである。そう考えられる理由を説明する前に、「保護国」というものについて、有賀長雄氏による分類と解説をみてみよう。有賀氏は保護国を四種に分類し、それぞれの内容、法理について以下のように述べている(以下は『保護国論』1ー5頁、175ー183頁からの抜粋・引用)。これは、11月15日の伊藤大使と高宗の会談を理解するのにも役立つものである。

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第一種保護国;
ここに一国あり。完全なる自主権を有し、其の文化の程度亦必らずしも列国に譲らずと雖、強国の間に介在し国力微弱にして、自ら其の独立を支持する力なしと仮構せんに、若し或る強国にて之を併呑せんか、該強国の勢力は一時に拡張し、為に均衡を破りて其の累を此近列国の関係に及ぼす患れあり、此の時に当たり特に此の弱国をして独立を維持せしむるを以て自国の利益とする一国は、外に在りて其の独立を護衛する地位に立ち、毫も該弱国の内政外政に干渉すること無くして、必要に応じ之を授く、是れ即ち欧州学者の称して護衛的保護国又は単純保護国と云ふ所の関係なり。
第一種保護国の関係は主権を完全に享有し且自ら之を行使する国と国との間に存立するものにして、其の内容は保護者たる国即ち能保護国より保護せられるゝ国即ち被保護国に向て内外に事あるとき兵力を以て保護を呈すへきことを永遠に約束するに在り。此の約束の形式如何は其の内容に関係すること無し、即ち中古封建時代に於ての如く保護者たる君主より発する所の保護状に基つくことあるへく、或はアフガン、モンテネグロの如く外交上の関係に依り自然に定まり、列国も既成の事実として之を承知することあるべし。
此の約束の結果として被保護国は其の主権の上に如何なる変更をも被らす、内政外政とも自国の意思に依り自国の能力を以て之を行へり、唯た軍事上に於て幾分の制限を被ることあるのみ、例へは軍隊の号令権を能保護国に譲り又は能保護国の軍隊を国内に駐屯せしむる等是れなり、又苟も其の保護者たる国の保護に依頼せんとする間は外交上に於て該国に反対し又は之に不利益なる方針を取り難き事情あり、然れとも此の如きは被保護国か能保護国に依頼して自国に強力を補足せんとするが為に自ら求めて其の行動に加ふる事実上の制限にして法律上の制限に非す。法理上よりすれは其の保護に依ることを断念するの決心を以て保護者たる国に反対する外交政略を取るは固より被保護国の自由なり。第一種の保護関係は此の外に於て被保護国並に能保護国の地位及之に対する第三国の地位に如何なる変化をも及ほすを無し。

第二種保護国;
ここに国あり、其の地域は世界交通の要路に当るを以て、之を文明国交の列に加へ、以て各国と通商交通に道を開かしむる要あり、然りと雖、欧米多数の国民と其の文明の系統を異にするが故に、或は国土を開放することを拒み、或は之と通商交通する上に於て国際上の責任を完ふする力に欠くる所ありとせんか、此の国に利害の関係最も多き強国は、之を導きて世界列国の伴侶に入らしめ、而して其の交際上に於ける責任を全ふせしむる為、姑く之に代りて主権に一部を行ふに至るべし、欧州の学者は此の種の保護国に対し種々の名称を加へたり、即ち後見的保護国、政治上保護国、真正保護国、国際保護国等是れなり。
第二種保護国の法理を説明せんと欲せは先つ主権を具有する能力と之を行使する能力との区別を明にせさるへからす、権利を完全に具有する者にして自ら之を行使するの能力を欠くをあり、例へは民法に於て未成年者及準禁治産者は戸主に属する権利を完全に具有するも自ら之を行使するの能力に欠くる所あるか如し、即ち第二種保護国の関係は主権を完全に具有し且自ら之を行使する国と、主権を完全に具有するも自ら之を行使する能力欠乏する国との間に存する者にして、其の内容は第一種保護の場合に於ける如く能保護国より被保護国に向て軍事上の保護を呈せんことを約するの外に、能保護国は被保護国に代り其の主権の一部分を行使せんことを約束するに在り。被保護国も完全なる自主の国なり、何となれは権利の主体としては総て自主の国に属する権利を完全に具有すれはなり、然れども其の権利の一部分を自ら行使するの能力欠乏し、列国に対して文明国交の義務を盡すこと能はさるか故に、特に其の国をして永く独立の地位を完ふせしむることに利害の関係を有する強国が、其の国の承認を経て之に代り主権の一部分を行使するなり。凡そ自主の国の具有する権利は外国に対するものと内国に対するものと二種あり、其の外国に対するものを自ら行使するの能力なきは其れ他国の力を以て之を補充する必要の由て起る所なり、故に第二種保護国の関係に於て被保護国は必す外交上の権利の行使を能保護国に委任せり、然れども内国に対する自主権に至りては必すしも自ら之を行使するの能力を欠くに非す、即ち内政の保護は第二種保護国の関係に於ける必然の要素に非さるなり。
第二種保護国の関係の形式は必す条約を須つものとす、何となれは一個人の間に於ける後見及保佐の関係は民法を以て其の内容を定めたれども、国と国との上に立ちて此の関係を定むるもの有るに非す、双方とも自主の国なるか故に、自由合意を以て保護の条件及実質を定むるの外なけれはなり。若し条約の成条を立てさるに於ては必す条約に均しき効力を有する他の形式を取らさるへからす、即ち長期の慣行に基つく所謂既成事実是れなり。ハイルボルン曰「二国間の保護関係は条約なくして継続せる慣行に依り成立するを得へきかとの問題は否定するの理由なきに似たり、若し二国間の交際か保護国の形式を取るに至り、此の形式か関係の二国に依り並みに第三国諸国に依り有効のものと認めらるゝときは、保護関係は事実上に於て存立せり。但し此の如きは稀れに起ることたるや論なし」と(保護国論 八四頁)英国のエジプト本部に対する保護関係は条約に依らずして既成事実に基つくと事実編に述べたるか如し。
此の関係の結果として能保護国は被保護国の権利を保護し、被保護国の利益の為に之を行使するの義務を生す、之に対して被保護国は能保護国が其の版圖内に於て主権を行使することを承諾する義務あり、而して第三諸国は其の被保護国に対する従来の権利に変更を被ること無しと雖、尚ほ且将来の国交上に於ては保護の関係を承認し之に依り其の被保護国に対する外交を処理せさるべからさるに至れり。

第三種保護国;
某の強国が文明の程度尚ほ低き一国を併合して其の利権を専にせんと欲するも、明明地に併呑するときは、或は反抗の恐れあり、或は第三諸国の情忌に因り外交上の粉議を醸成する恐れあるを以て、主権は既に全く之を其の強国に収めながら、姑く該弱国の君主をして君位の外形を保たしめ、其の余威に籍りて行政を行ひ、名くるに保護国の称を以てするとあり、ドイツの学者は之を称して行政上保護国と云へり。
第三種保護国は属国又は附傭国の別名なり、其の第一種及第二種と全く異なる所以は他なし、保護者たる国は完全なる国際法上の一国なるも被保護国は国際法上の一国として存立するものに非す、其の存立は全く保護者たる国の存立中に埋没し、従て保護者たる国の主権以外に特立する何等の主権を有せさること是れなり。此の種の被保護国に独立権なし、従て条約権も亦在せさるか故に、仮令実際に於て約文を作り、附するに保護条約の名を以てするも、其の実は一種の虚礼にして国際法に於て条約に属する一切の保障を欠くものなりとす。夫れ然り条約に基つく所なき関係は実力の関係に非さることを得す、即ち保護者たる国は実力を以て被保護国を征服し、又は圧迫して之を支配する便宜上より、其の単独意思を以て被保護国の従来の君主に許すに、姑く其の位に居り、其の下民に対する権威を保有することを以てするものなるのみ、従て之を許す条件の廃止変更は一に保護者たる国の自由に属す、即ち此の種の保護関係は其れ国際法に於て属国又に附傭国と謂へると全く同物にして殊さら別名を以て之を称呼するは畢竟一時の権宜に過きさるなり。国際法より見れは一国は如何なる形式を以て其の属国を支配するも全く自由に属するか故に此の種の保護制度を設けたる場合は唯た一国内政の現象として之を観るに止まり、保護者たる国と被保護国の間に如何なる権利義務の関係をも認むること無し。

第四種保護国;
某の強国にて海外未開の壌土を其の植民地と為さんと欲するもの、一時に拓展の措置を取らんとするときは、大に兵を動かし、多く費を投ずる要あるが故に、漸を追ひて蛮族を内附し、之に其の喜ぶ所の物品を与へて其の土地を譲らしめ、保護を承認せしむるに如かず、唯だ其の業の未だ成らざるに当り、他強国の占領する所と為らんことを恐る、乃ち先づ地図上に其の境界を画し、某強国の保護地として予め列国の承認若しくは黙認を経ることあり、此の如き保護地はアフリカ大陸に其の例甚だ多し、学者は皆、之を称して植民的保護国と云ふに一致せり。第四種保護国の法理は大体に於て第三国と同一にして、唯た異なる一点は他なし、第三種に在て被保護国は仮令国際法上の一国に非さるも事実上に於て旧来の歴史に依り君長あり、統一せる国民あるの体裁を為せるに反し、第四種に在りては未た事実上に於て国家の外形を成せるもの毫も存せす、唯た一定の土地に統一なき蛮族の群生するを見るのみなるに在り、又之を保護国と称するの意義も保護する国又は保護せらるゝ国と云へると異りて、其の地域に移住し、旅行する文明国人の身命財産を保護する事を本国政府の任務とする地域と云へる義に外ならさること前に述へたるが如し。此の種の保護国は是れ無主の地域に向て設定する所の関係にして、無主の地域は他の諸国も亦之を占領するの権利ある所なるか故に却て国際法上に於て保護設定の条件を定むる必要あり。即ち国際法に於ては単に第三諸国に向て某々地域を保護国と為したりと宣言するを以て足れりとせす、必す幾分か其の地域に向て主権行使の事実を発生せしむるを要す、既に此の事実あり、而して其の地域に向て他に先取の特権を占むる者あらさるときは即ち其の保護権は確立せるものと為すなり。欧州学者の論に依れは第四種保護国を設定するの国は始めより其の内地と同様に完全なる行政機関を保護地内に於て編制するの義務なきや明なりと雖、少なくとも警察上より其の地方の秩序を維持して身命財産の保全に備へ、並に将来に向て益々其の行政組織を精密にするの計画を立つる義務あり。

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ここで、第二次日韓協約との関連で注目すべきは「第二種保護国」と「第三種保護国」である。
日本が韓国に第二次日韓協約の締結を迫った意図は、韓国を第二種保護国の地位におこうとしたことにあると言えよう。第二種の保護とは「主権を備えた独立国ではあるが、その主権をマトモに行使するだけの実力がないので、他国(日本)がその主権の一部を代わって行使するものであり、その主権の一部には必ず外交権が含まれ、通常は条約によって、またはそれに匹敵する既成事実によってこの保護関係が成立するもの」である。
他方、日本が第二次日韓協約の締結交渉が決裂した場合に意図していた「韓国に向ては保護権を確立したる旨を通告」が、上のどれを意図していたかと言えば、第三種保護国に近いと言えよう。第三種の保護とは「被保護国は国際法上の一国すなわち独立国とは認められないような国に対して、条約による保証を欠くカタチで保護をなすもの」である。当時の韓国は、内政といい外交といい、その実態に照らして到底独立国とは言い難いことは、アメリカやイギリスが、また間接的ではあるがロシアが、そして当の韓国さえもが認めていたところである。小村らが意図していた措置とは、正にこれであったろうし、伊藤も「一方的な保護国宣言」というものが凡そ何を意味していたかぐらいは承知していたであろう。有賀氏の分類を当時の日韓関係に当てはめようとすると、条約の有無、内政の関与などの点で、必ずしもクリアーカットには適合しえない面もあるが、概ねこのように判断できる。
そして、有賀氏の分類による第一、二、三、四種保護国であるが、この数字は同時に保護の対象となる国の”等級”をも表わしていることが分かるであろう。すなわち第一種から第四種に向かって、国の独立権やそれを行使する実力がより劣っていること(すなわち主権国家としての等級)を意味しているのである。第一種は、軍事的な面を除いては通常の独立国とは変わるところはない一等国、第二種は、条約を前提として外交権、場合によっては内政を委任する二等国、第三種は、条約すなわち国際的な合意なしにそれらが掌握される三等国、第四種は、国際法上は一つの国家とさえ認められていない四等国なのである。
ここで、拙稿『日本外交文書』で紹介した伊藤大使の以下の言葉を思い出していただきたい。

「之を御承諾あるとも又或は御拒みあるとも御勝手たりと雖も、若し御拒み相成らんか帝国政府は已に決心する所あり。其結果は果して那辺に達すへきか。蓋し貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難なる境遇に坐し、一層不利益なる結果を覚悟せられさるへからす。」(11月15日、伊藤大使内謁見始末)

この部分については、朝鮮側や反日日本人らは例によって「暴言を吐き、威嚇した」(『日韓協約と韓国併合』、8頁)とか、「これはもう、ヤクザがもろ肌脱いで、イレズミを見せて凄んでいるの図とまったく変わらない」(同、46頁)などと皮相的な見方に終始しているが、上の保護国の分類に照らし合わせると、伊藤大使の意図がどの辺にあったかがよく理解できるのである。要するに、第二次日韓協約を締結すれば、韓国は第二種保護国すなわち二等国とはいえ独立国の地位に留まれるのであるが、拒否すれば(日本の一方的な宣言による)第三種保護国すなわち独立権のない三等国に転落してしまうということである。「貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難なる境遇に坐し、一層不利益なる結果を覚悟せられさるへからす」とはそういう意味であると理解できよう。そしてこれに付言すると、当時の韓国は実態としては正に三等国なのであるが、条約を締結すれば日本は二等国として遇する予定であるということである。そして、どちらを選ぶか、すなわち「之を御承諾あるとも又或は御拒みあるとも」基本的には韓国の「御勝手」であるということである。坂本茂樹氏もこの伊藤の言葉を「脅迫とも思える言辞」(『日韓保護条約の効力』325[881]頁)などと称しているが、上で伊藤は、「之を御承諾あるとも又或は御拒みあるとも御勝手たり」と断わった上で、韓国側が拒否した場合についての説明をしているのであるから、これは明かに「警告」の類である(これについては、次回投稿で詳述する)。
坂本茂樹氏は、また、この伊藤の言辞をとらえて以下のようにも述べている。

「倉知の記述に照らせば、国家代表者に対する強制というよりも、『若し国家か強暴脅迫等を受けたりとの理由に依り条約の効力を争ふことを得るものとなすときは、開戦を避くるか為めに結ひたる条約及ひ戦後に於ける講和の条約の如きは到底有効に締結することを得さる』との部分に該当するということになるであろうか。そうであれば、戦争に訴えることを禁止していなかった無差別戦争観が支配していた当時の国際法によって許容されていた行為となるように思われる。松原一雄は、『相手国が当方の主張に聴くかなければ戦争をするぞとて最後通牒をつきつける如きは、国家に対する威嚇強圧であって、普通国家機関たる人その者に対する強迫とは区別して扱はれる』と断じている。」
(『日韓保護条約の効力』344[900]頁)

坂本氏は、伊藤が開戦の”か”の字も述べていないのにも拘わらず、「貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難なる境遇に坐し、一層不利益なる結果を覚悟せられさるへからす」との言辞を”開戦の脅し”と短絡した上で、それでも国際法違反ではなかったと解釈しているが、上でも説明したように、この伊藤の言辞は、”開戦の脅し”ではなく、条約締結を拒否した場合に韓国が陥ることになる地位についての客観的情勢を述べたに過ぎないと解釈するのが妥当である(もっとも、開戦を意図していたとしても、それが国際法違反ではないのは、坂本氏も述べている通りであるが)。もし伊藤に開戦の意思があったのなら、伊藤の性格からいってこんな回りくどい言い方などしなかったであろうし、ましてやいくら伊藤といえども、彼一人の意思で開戦など決定できるはずがないのである。伊藤個人のこの言辞が開戦を意味してたとして、もし韓国が条約締結をあくまで拒否したとしたらどうなったであろうか? 「帝国政府は已に決心する所」すなわち日本政府の閣議決定は、(最後の手段は)開戦ではなく一方的宣言のみなのであるから、開戦で脅した伊藤の面目は丸潰れとなるが、そんなヘマを伊藤がうつはずがなかろう。

また、高宗は同会談で「必竟墺地利、匈牙利の関係と等しく、若くは最劣等国、例せは彼の列国か阿弗利加に対すると同一の地位に立つの感なきか」と心配しているのであるが、これに対する伊藤大使の「而して墺匈関係の如き已に匈牙利に皇帝なるものなし、而して墺国伴せて之を主宰す。日韓両帝国か各々其君主を有し其独立を維持するものと日を同して語るへからす。將又阿弗利加に至ては、殆と独立国として生存する国あることなし。是等を以て日韓関係の上に引用せられんとするか如きは、妄想も亦甚たしきものにして、比較、当を失するの極に非すや」との答えも、上で説明した保護国の分類という文脈を考慮すれば、その意図がよく理解できるであろう。すなわち、高宗は条約の締結による三、四等国への転落を心配したのに対して(もっとも、実質的には当時の韓国は三等国であったろうが)、伊藤はそれを言下に否定したということである。
また、11月16日に行われた「伊藤大使韓国各大臣及び元老大臣と談話」においても、権重顕農商工部大臣が「若し仮りに貴方提案を我方に於て容るるとせんか、我国の独立は名実共に失し、昔日清国の属邦たりし時代より今一層劣りたるものと為る恐れなき乎」と心配しているが、これも見当はずれなのである。「清国の属邦たりし時代より今一層劣りたるもの」とは、有賀氏の分類でいえば第四種保護国すなわち四等国ということになるが、もちろん日本にはそのような意図は毛頭ない。

以上で、日本が、如何なる青写真で第二次日韓協約交渉に臨んだかが理解できたであろう。繰り返すと、条約が締結されれば、韓国は第二種保護国として(独立国たる)二等国としての地位が保証されるのであるが、拒否すれば三等国の地位に転落するのである。後者すなわち第三種保護国とする場合、一方的な宣言(すなわち外交的処理)でことが足り、別にわざわざ武力なぞ行使する必要はなく、日本側にはそのつもりもなかったということである。

ちなみに、有賀氏の分類では、第三種保護の場合、保護国化の根拠は「征服」ないしは「圧迫」によるもので「国際法に於て条約に属する一切の保障を欠くものなり」としているが、実は日韓関係については、既に締結済みの第一次日韓協約があり、その規定(すなわち「国際法に於て条約に属する保障」)で充分に保護国化の目的は果たせるのである。以下にその条文を再掲する。

一 韓国政府は日本政府の推薦する日本人一名を財務顧問として韓国政府に傭聘し財務に関する事項は総て其意見を詢ひ施行すへし
一 韓国政府は日本政府の推薦する外国人一名を外交顧問として外部に傭聘し外交に関する要務は総て其意見を詢ひ施行しへし
一 韓国政府は外国との条約締結其他重要なる外交案件即外国人に対する特権譲与若くは契約等の処理に関しては予め日本政府と協議すへし

特に三番目の規定に注目して頂きたい。これによれば、韓国は、外国との間にいかなる条約・約束を結ぶ場合でも「予め日本政府と協議」しなければならないのである。これは言葉を換えると、日本の許可が必要であるということである。これは既に充分に「(第二種)保護国」の名に値する関係である。11月16日に行われた、林全権公使と朴斉純韓国外部大臣との交渉で、朴外部大臣は「該約定案に於ける実際の権力は事実上日本既に之を領せり」(拙稿『日本外交文書』の「韓国外交委託の協約締結の必要に付き韓国外部大臣と交渉の件」参照)と述べているのも同様の認識である。もっとも、林権助『わが70年を語る』にあるように、第一次日韓協約の規定は韓国側に無視され、その実効性は失われていたのであるが。しかし、これを厳密に運用すれば保護の目的は達せられるのである。小村のいう「着手の上到底韓国政府の同意を得る見込なき場合に処すべき方策」が、この規定を厳密・厳格に解釈・運用することをも予定していたのではなかったのか。そして、もし韓国が日本の許可なしに外国と条約(密約)を結ぼうものなら、特にそれが日本の利益を損なうようなものなら、今後は、日本はこの規定を根拠に条約違反として韓国側の責任を厳しく問うということになろう(実は、日露戦争中において韓国側がこの規定を守らず、例によって無茶な秘密外交を展開していたので、日本側が第二次日韓協約の締結に踏み切ったのである。この辺の事情は『わが70年を語る』を参照していただきたい)。その場合、他方で韓国以外の国に対しては、日本側の許可が無いいわば密約の類の取り決めは今後一切無効であることを宣言することになろう。というのも、当時においてはこのようなカタチで他国の保護国化を宣言すること、ないしはこのような関係の継続として事実上他国を完全な保護下に置くことは、別に珍しいことではなかったのである。小村等が、上の閣議決定第八条で念頭においていたことには、このような措置も含まれたいたと私は考えている。

いかな当時といえども、条約が拒否されたからといって、例えば首都を軍事占領して保護国化を宣言するといったことはさすがに相当にまずい措置であったのであり、アメリカあたりから一言二言あることが当然に予想されたであろう。そして、ロシアにしても、小村自身が交渉したポーツマス条約の会議録に記載された「日本国全権委員は日本国が将来韓国に於て執る(こ)とを必要と認むる措置にして同国の主権を侵害すへきものは韓国政府と合意の上之を執るへきことを茲に声明す」との決議をたてに日本を非難したであろうことは明白であろうし、その尻馬にフランスが乗ってくることもありえる。そうなれば日本の立場も当然に苦しいものとならざるを得なかったのである。小村や伊藤がそんな拙劣なことを考えていたとは到底思えない。
以上、「一方的宣言による韓国の保護国化」は、一方で第三種保護に属すると言えるが、他方で条約上の根拠を有するということになると第二種ということにもなり、クリアー・カットには分類しずらいものがある(有賀氏も、この分類が現存する保護国にクリアー・カットに適用できないと述べている)。もっとも、この措置が、第二種であろうが第三種であろうが、韓国の国際的な地位がそれ以前及び条約を拒否した場合に比べて低下することは間違いないところではあるが。
この第一次日韓協約を根拠にした保護国化宣言については、韓国側もあまり文句は言えなかったであろう。なにしろ、この条約は、(韓国が属国化されるのはないかとの)高宗の予想に反して穏やかな内容の規定であったので、高宗は特派大使の伊藤博文に感謝の意を繰り返して表明しており、なおかつ締結後即座に、法部大臣陸軍副将李址鎔を特派報聘大使として来日させ、天皇に感謝の意を表した新書を捧呈した程であったのだから。もっとも、高宗はその条約に違反することを再三命令したが。

話を海野氏の主張に戻すと、もし、海野氏が挙げたような日本軍のソウル駐留をもってして第二次日韓協約の無効要件であるとの主張を本気でなすのであれば、例えば、大東亜戦争終結後、アメリカ軍による日本の占領下、戦艦ミズーリー号でアメリカ兵に囲まれて降伏文書すなわち条約に署名・調印した重光葵の行為も無効ということになり、従って日本の降伏は無効ということになるが、そんなバカな主張をする者なぞ韓国人と言えどもまずいまい。なにしろ、日本の降伏が無効ということになれば、韓国・朝鮮の独立も無効ということになりかねないのであるから。
海野氏は、(2)で「要するに王宮(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである」などと述べているが、実際には日本軍は儒者らの騒擾に備えて主として城の周囲、またはそこを出入りする門で警備にあたったのである。”王宮内”を制圧したというのは、誇張に過ぎない。
また、海野氏は、(3)で「その際、護衛と称して逃亡を防止するための憲兵に『途中逃げ出さぬやうに監視』させた。事実上の拉致、連行である」などとも述べているが、公使館から宮中へ御前会議に向かったのは、別に日本側が強制したわけではなく、韓国閣僚が「事重大なるか故に君臣間最後の議を一決すること必要なりと主張せられたる結果、相携へて宮中に進」んだ結果、すなわち韓国閣僚が自発的にそうしたからなのである(もちろん、途中で逃亡を企てるなどという無責任な閣僚がいればそれを阻止したであろうが、そのような事態は生じなかったのである)。それを「拉致、連行」などと称してしまうようでは、海野氏は国語の初歩をもう一度勉強しなおす必要があるであろう。ちなみに「拉致」といえば、尹炳セキ氏などは、11月16日、高宗の提案に従い伊藤特使が会談のため韓国政府閣僚を宿舎に呼び寄せたことまでも「拉致」などと称しているのであるが(『日韓協約と韓国併合』110頁)、詐術もここまでくると殆ど病的であり論評にも値しない。

以上、海野氏が条約の無効原因として挙げた「武力的脅迫」などというものが、全てデタラメであることが理解できたであろう。条約締結の権限を有した代表者個人に対する脅迫・強迫どころか、国家に対する脅迫・強迫にさえなっていないのであるから。