大日本史番外編 「朝鮮の巻」
韓国併合までの歴史


『日本人は正しい歴史認識をしなければならない』 と韓国人や日本の左翼が言います。 しかしそれは彼らにとって都合のよい歴史観を押し付けることでしかありません。 例えば伊藤博文を暗殺した安重根という人物は、韓国の英雄であり日本の歴史教科書でも明治維新の元勲よりも大きく扱われています。 しかし北朝鮮での評価では、安重根は愚か者の代表になっているそうです。 『力もないのに伊藤博文の暗殺を計画し、暗殺そのものには偶然成功したものの後が続かず、自身は逮捕されて処刑されるのみならず、日朝( 韓 )併合の直接のきっかけを作ってしまい、歴史に大きな汚点を残した張本人である』 と言っているのですから、同民族であっても立場が違えば全く異なる評価をしているわけです。 このように事実は一つでも解釈は多様なのですから、彼らの押し付ける 『正しい歴史認識』 というのも疑ってみる必要があります。 そこでこのページでは、それを検証するために韓国人の主張と相反する資料を集めてみました。


この形式の見方

韓国人の主張

それに対する反論



西洋列強の接近から韓国併合までの歴史

  1840 英清間にアヘン戦争がおこる
1853 ペリー提督率いる米艦隊が開国を要求して日本に来航
1866 米商船、仏艦船が朝鮮に来航するも撃退される
1868 明治維新、新政府樹立を告げる国書を朝鮮に送るが受け取りを拒否される
1873 西郷隆盛らの征韓論おこる
1875 江華島事件がおこり日朝交戦となる
1876 日朝修好条規が締結され朝鮮が開国する
1882 守旧派の壬午軍乱おこる
1884 開化派による甲申政変おこる
1885 漢城条約・天津条約締結、イギリスが巨文島占領、朝露秘密協定が発覚する
1894 東学党の乱( 甲午農民戦争 )から日清戦争へ
1985
1896
1897 国号を大韓帝国と改める
1900 清国で義和団事件( 北清事変 )がおきロシアが満州に出兵
1904 日露戦争がおきる、日韓議定書・第一次日韓協約締結
1905
1907 ハーグ密使事件の責任をとり高宗皇帝退位、第三次日韓協約締結
1909 伊藤博文が暗殺される
1910 韓国併合


韓国から見た韓国併合に至る歴史

Link 「韓国の歴史」 と日本( 国定韓国高等学校歴史教科書 )より  --->   韓国併合までの歴史



~ 日本から見た韓国併合に至る歴史 ~

 19世紀の世界は弱肉強食の帝国主義時代で、国家がその時代の競争に負ければ、亡国か植民地に転落していったのは、近現代史の厳然たる史実である。( ⇒資料1 ) 19世紀中葉には東アジア諸国にも、強力な軍事力を背景にした欧米列強諸国が進出を始めており、大国の清でさえアヘン戦争( 1840年 )以後、分割や植民地化の危機にさらされていた。 日本はこの危機に直面して、いかに独立を保つかが国家目標となり、明治維新( 1868年 )を成し遂げて、富国強兵の近代国家造りに邁進していた。 しかし李氏朝鮮は世界の大勢を見誤り、鎖国を守り清の属国であり続ければ国家の存続を保てると考えていた。 そのため国王高宗の摂政として政権を担当した大院君は、衛正斥邪( 儒教を守り攘夷を行う )を唱えてキリスト教を邪教として弾圧し、8000人の信徒を虐殺( 1865年~ )して西洋列強を刺激したうえ、来航してきた外国船に攻撃を仕掛ては緊張状態を高めていた( 1866年~ )。 しかしそれは本格的な戦争に進展すると、敗北して植民地に転落しかねない危険なものだった。 また大院君の鎖国政策に伴って、両班支配層内部に朱子学の名分論を固守する攘夷主義者が台頭し衛正斥邪派が形成された。

 1868年日本は明治新政府樹立を告げる使節を朝鮮に送るが、国書の文面に天皇の皇という中国皇帝と同格の称号が使われているのは許されない、という理由で ( ⇒資料2 ) 国書の受け取りを拒絶された( 書契問題 )。 朝鮮は中国の属国という立場に忠実に従っていたのだ。 その後も国交と通商を求める交渉を続けたが、頑なに国を開こうとしない朝鮮に、日本は大きな危機感をもった。 早急に開国して近代化と富国強兵を推し進めなくては、遠からず欧米列強の支配下におかれることになってしまうからである。 そうなれば日本は脇腹に刃物を付きつけられたようなもので、隣国の日本は窮地に立たされることになるというのが、当時の共通認識であった。 そうした緊迫した世界認識の中で、武力をもってでも強引に朝鮮を開国させるべき、という考えがおきた。 1873年西郷隆盛らが征韓論を主張するが、この時は大久保利通らの内治優先論者によって退けられた。 大院君は対外的危機に対処するため王権の強化をはかったが、両班の特権に一部規制を加えたことから両班層の強い反発を受けることになった。 また、多額の費用がかかる景福宮再建の財源を捻出するため、多額の増税を行ったため経済が疲弊し、大院君の施政に対する民衆の不満が高まってきた。 王妃閔氏一族はこの機会をとらえて大院君を政権から追放した。 この政変によって大院君直系の官僚は政権から追われ、代わって閔氏一族の勢道政治が始まった( 1873年 )。 閔氏政権の下では大院君以来の宮殿の造営が続けられており、高宗国王と閔妃の浪費もあいまって財政は悪化の一途をたどり、数年のうちに兵士の俸給の支給にも困窮する事態に陥った。 また官職や科挙の及第を売買するなどして権力の腐敗が進んだ。

 日本政府はその後の国交樹立交渉も不調に終わったため方針を転換した。 アメリカの黒船が浦賀に来航して日本に開国を強要したのにならって、1875年軍艦雲揚号を江華島沖に送った。 江華島の守備兵が発砲したため交戦し、江華島を占領した( 江華島事件 )。 日本はこの機をとらえて、朝鮮に開国を強要した。 衛正斥邪派の崔益鉉は、華夷思想に基づいた強硬な開国反対論を国王に上疏したが、翌1876年両国間に 日朝修好条規( 江華島条約 )が締結されて朝鮮は鎖国を終了し開国した。 この条約の第一条は、朝鮮を 「自主ノ邦」 と規定して、独立国として扱っているが、これはそれまでの中国を中心とした国際秩序を破るものであった。 日本が朝鮮を独立国として扱ったのは、朝鮮を植民地化の危機にある中国の影響下から切り離して、親日政権をつくることを狙ったからであったが、この時点では、支配下に置くことは考えていなかった。 19世紀末期は帝国主義の全盛期で、日本は朝鮮半島がその帝国主義勢力の前進基地となることを恐れた。 朝鮮半島は日本にとって、大陸から日本列島の脇腹に突きつけられた短刀であったから、何よりも朝鮮半島の無害化をはかり、親日政権をつくる必要があった。 そこで日本は、朝鮮が他国の支配下に入ることがないように、朝鮮の近代化を助けて、しっかりとした独立国として育てようと図った。 閔氏政権に対し通商を拡大して近代的軍備を導入し、西洋の学問・技術を学んで殖産興業をはかる富国強兵の道を歩むことを勧め、視察団と留学生を受け入れた。 まだ軍事力の脆弱な日本が独立を守るためにも隣国朝鮮が安定して独立していることが、どうしても必要であった。

 開港後、日朝貿易は急速に拡大した。 日本からは主に綿製品が輸出され、朝鮮からは主に米が輸出された。 米の大量輸出は商人や地主・農民には利益をもたらしたが、国内における米の供給不足を引き起こして米価騰貴が深刻化した。 飯米購買者である都市民衆の生活が圧迫されて日本に対する不満が高まり、衛正斥邪派からも開化政策に対して反発が広がった。 閔氏政権は日本の協力のもと近代的軍隊である別技軍を新設し、日本人教官を招請して、教練を始めていたが、1882年7月、ソウルで旧式軍隊が反乱を起こした( 壬午軍乱 )。 反乱に火をつけた直接の理由は、政府高官が旧式軍隊に給与として支払われていた米の一部を横取りしたのに対して、兵士の怒りが爆発したものだった。 それに旧軍隊は、別技軍が装備と待遇の面で優遇されていたのに対しても憤っていた。 旧式軍隊の軍卒は、官庁や閔氏一族の屋敷を襲撃するとともに、開化反対を叫ぶ漢城( ソウル )の民衆も日本公使館を襲撃するなどして多数の日本人を殺害した。 また閔妃を攻撃の的にする一団も王宮に乱入して高官を殺害した。 このときに閔妃は、変装して王宮から脱出した。 壬午軍乱は、大院君が裏で煽動していたものだった。 閔氏政権が倒れ、大院君が再び政権を握った。

 日本は居留民保護のため軍艦4隻と兵士を朝鮮に派遣した。 政権を奪われた閔氏一派は清国に反乱鎮圧を要請した。 清国もただちに宗主国の責任として、軍艦6隻と3000人の兵を派遣した。 壬午軍乱は、清国軍によって鎮圧された。 大院君は閔妃の告発によって清国軍に捕らえられ、天津へ連行された。 国王高宗が、実父の大院君が強制連行されるのを認めたことからも分るように、清の朝鮮に対する宗主権と冊封秩序は、いささかも揺らいではいなかったのだ。 大院君一派はことごとく投獄され、閔氏政権が復活し、清国の庇護のもとにおかれた。 清国は軍隊をそのままソウルに駐留させ、政府に顧問を送り込んで、韓国の内政に細部にわたって干渉した。 8月日本は朝鮮との間に 済物浦条約 を結び、日本人被害者への見舞金支給と賠償支払い日本公使館への警備兵駐屯を取り決めた。 同じ頃アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国が、次々と朝鮮と修好通商条約を締結して進出をはかるようになった。 朝鮮の宗主国清は、列強諸国や日本が朝鮮に積極的に進出をはかっていることに対して、警戒心を強めるようになった。

 閔氏政権は、開化政策を進めるのにあたって日本式を採用していたが、日本が清国に対して有効に対抗できないでいるのを見ると、日本はたのむに足らずとみなして、清国に依存するようになった。 閔氏一派は清国に依存したから、事大党と呼ぱれるようになった。 清国は顧問を送り込んで、朝鮮との朝貢体制と華夷秩序の強化に努め、西洋列強の進出から自らの威信と権益を守ろうとした。 しかしそれは、朝鮮を清国から独立させて富国強兵の国とし、西洋列強の極東進出を阻止させる、という日本の政策とは合いいれないものであった。 朝鮮内部からも清が事大党を操縦して軍事も政治も左右する状態に反発して自主独立を主張し、近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ようとする開化党が行動をおこした。 それにはまず清国との封建的従属関係を断つことであり、そのためには朝鮮国内の事大党を排除することが必要であった。 1884年12月、福沢諭吉の後押しを受けた開化党の金玉均らがクーデターを起こし王宮を占領した。 閔妃を中心とする事大党政権を打倒して、開化党を中心とする新政府を組織した ( 甲申政変 )。 しかし閔氏政権の生き残りが清国軍に鎮圧を要請した結果、袁世凱の指揮する清軍に破れクーデターは三日天下に終わって失敗した。 この時多数の日本人が殺され、掠奪暴行の惨劇がひき起こされた。 開化党リーダ―の金玉均は日本へ亡命した。 開化独立推進勢力が清国と朝鮮守旧派によって無残に踏みにじられたことに福沢は失望し、時事新報紙上に「脱亜論」を公表し「我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と隣国に決別宣言をした。 福沢の従来の構想は「アジアの隣邦を誘掖( 手を取って指導する )して近代文明国家たらしめ、共に独立を全うして西力東漸( 西洋の侵略 )を防がねばならぬ」というものであった。 日本は近代化で先んじていたが、まだ西洋勢力に単独で対抗するだけの国力がなかったのである。

 翌1885年1月、日朝間で甲申政変での日本側の被害の賠償などを取り決めた漢城条約を結んだ。次いで4月、日清間でも甲申政変後の朝鮮問題に関する取り決め( 天津条約 )を結んだ。 伊藤博文と李鴻章が会談し、朝鮮からの両国軍の撤退と、重大事変などが発生した場合に、朝鮮に出兵する際の相互事前通告などを取り決めた。 同年1月、朝露秘密協定事件が起こった。 閔氏政権が、中国の宗主権強化政策が目にあまるようになったのに反発して、ロシア勢力を朝鮮に引き入れてバランスをとろうと秘かに折衝していたものであったが、清が途中で知るところになり、交渉が打ち切られた( 6月 )。 密約問題は朝鮮を英露の国際対立の中に巻き込んだ。 4月イギリスが、南下政策を見せ始めたロシアに対抗するため、東洋艦隊を用いて日本の対馬に近い巨文島を占領し( ~1887年2月 )、ロシア極東艦隊の航路を牽制するため、守備隊を常駐させて砲台を設置した。 6月にはベトナムがフランスの保護領となり、加速度的な西洋列強の進出は日本に深刻な衝撃を与えた。

 朝鮮駐在の袁世凱は李鴻章の戦略に基づいて清の宗主権強化に努めた。 袁は諸外国の公使と地位が異なり、国王代理といえる監国として朝鮮の実権を握っていた。 1886年6月国王が再び朝露秘密協定を結ぼうと謀った。 ロシアが朝鮮に軍事教官を派遣するのと引きかえに、ロシア海軍に北朝鮮東部に位置する永興湾の使用を許すというものだった。 袁は国王の廃位をも辞さずとの強硬な圧力を加えて、この企てを破棄させた。 朝鮮国王の即位・廃位の権限は清朝朝廷にあったのだ。 8月清国は拉致していた大院君を帰国させた。 国王と閔氏政権がロシアへの接近をはかるかたわら、清国から離れようとしたために、大院君をつかって親露勢力を牽制させるためだった。 このように清国は日清戦争に至るまで朝鮮の内政外交に強力な干渉を加えたのである。 1891年ロシアはシベリア鉄道の建設に着手したが、完成すればモスクワから極東まで鉄道網でつながり、ロシアの勢力が一挙に南下を目指すことは火を見るより明らかであり、日本はロシアに対する警戒をいっそう深めた。 朝鮮のなかでは、各派がさまざまな思惑から、清国、ロシア、日本をはじめとする外国勢力と結んで、勢力争いを繰り広げた。

 朝鮮の貿易は急速に拡大し日本向け輸出の大半は穀物であった。 朝鮮内では米価騰貴が深刻化し、飯米購買者である都市民衆の生活を圧迫していた。 このような状況下で、米騒動による民衆反乱を恐れた朝鮮政府は、穀物の外国搬出を禁止する「防穀令」を発したが、日本商人が前貸しによる穀物買い付けを行っていたため損害を受け、日朝の紛争に発展したが、朝鮮政府が賠償金を支払って解決した( 1893年 )。 日朝間で人的交流が進むなかで摩擦も深刻になってきた。 朝鮮人は華夷思想で日本人を侮蔑し、日本人の中には朝鮮人の性行をあざけって横柄な態度をとる者が現れ、人心を離反させるということもあった。 閔氏政権の政治路線は守旧派であり、支配体制を大きく変更することなく変革しようとはかった。 近代産業の導入は官営事業において試みたが成功は収められなかった。 これらの官営事業費用や外交費、軍隊の維持費、賠償金や借款の償還金が急増したことは、宮廷の浪費と共に国家財政不足を深刻化させた。 財源確保の安易な方策として悪化を鋳造したため、物価はたちまちのうちに暴騰した。 閔氏政権は財政破綻を繕うため外国に対し借款を重ねる一方、租税収奪を強化したため民衆の不満が高まった。 また両班官僚の腐敗が甚だしくなり、売官・売職は常態化し賄賂が横行した。 地方官がその地位を利用して買官に要した費用を埋め合わせたり、財産蓄積をはかることは一般的となり、民衆に対しては種々の名目による課税が加重されることになった。 こうした収奪の強化は国家・両班官僚と民衆との反目を加速させた。 そのため全国の多くの郡県において地方官の誅求と悪政に反抗する民乱が起きるようになった。

 1894年2月、東学党の乱( 甲午農民戦争 )が起こった。 東学農民軍は酷税の廃止、地方官や両班による不正の処罰、身分制度の打破、横暴な特権商人追放を要求として掲げた。 東学軍は閔氏政権に対する蜂起であったが、「斥倭洋倡義」( 日本・西洋勢力の駆逐 )も唱えた。 農民軍は政府軍を破って、全羅道の中心である全州を占領した。 政府は3000人あまりの官兵しか動員できず、武力で農民軍を鎮圧することができなかった。 そのため国王高宗と閔氏政府は、清国に鎮圧を要請した。 清国はこの要請を朝鮮において勢力を拡大する好機としてとらえ、清国軍が大挙して朝鮮に入った。 日本も天津条約に基づき日本人居留民保護のため朝鮮へ派兵した。 ところが農民軍が朝鮮政府の説得を受け入れて全州を撤退したため、朝鮮政府は両国軍に撤兵を要請した。 しかし日本政府は、閔氏政権が抜本的な内政改革を行なわなければ内乱が再発してしまうと主張し ( ⇒資料3 )、そのためにも改革を行なわなければ撤収しないと、あくまで内政改革を要求した。 しかし閔氏政権と宗主国の清国政府が応じないため、同年7月日本兵が京福宮を占拠して閔氏政権を退けるとともに、大院君を担ぎだし政権をとらせた( 甲午政変 )。 ついで日本海軍が朝鮮豊島沖で清国の軍艦と交戦し 日清戦争 が勃発した。 明治天皇の宣戦の詔勅には、「日本が朝鮮に秕政の釐革( ひせいのりかく=悪政の改革 )、治安の保持、自主独立を求めたのに対し、清国はこれを妨害し、自らの非望を遂げようとした」とある。 一方清国の宣戦布告は 「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年…」 と述べ、依然朝鮮が清の属国であることを主張した。 日本軍は遼東半島を占領するなど優勢に戦いを進めた。 その頃新政府によって日本が強力に指導した大改革が実施された( 甲午改革 )。 それは広範囲に及ぶもので、両班や白丁( 被差別民 )などの身分制度の廃止、人身売買の禁止と奴婢( 奴隷 )法の廃止、宮廷にはびこっていた宦官かんがんの廃止、科挙の廃止と近代的官制の採用、物納から金納へと代わる税制の近代化、悪貨が良貨を駆逐して混乱を極めていた貨幣制度の改革と財政改革、巫女シャーマンが行なっていた呪詛による病気治療の禁止と近代医療衛生制度の導入など、中世的世界から決別する革命的な改革で、開国以後も朝鮮人自らの手では行なえなかったことばかりだった。 しかし日本の軍事力を背景にした大胆な改革は、閔妃一派など守旧派から大きな反発を受けることになった。

 1895年2月日本海軍は北洋艦隊を敗走させ、日清戦争は日本の勝利によって終わり、4月伊藤博文と李鴻章が出席して 下関条約 が結ばれた。 その内容は、日本が遼東半島・台湾を獲得するとともに、第一条で清国が朝鮮を自主独立の国と認めると明記された。 これによって清国への朝貢は廃され、千数百年に及んで朝鮮を従属国の位置に貶め、自主独立を阻んできた元凶の中華秩序は崩壊した。 これは朝鮮の歴史で特筆大書すべき出来事であった。 しかし、日本が朝鮮半島と遼東半島において優位を占めることは、南下政策を進めるロシアの容認できることではなかった。 ロシアは、フランス、ドイツと組んで、日本が遼東半島を清国から奪ったことが、東洋の平和を乱すことになるといって、遼東半島を清国へ返還するように要求した。 日本の10倍の国家予算と軍事力を持つロシアに、日本は対抗できる力を持っていなかったので 三国干渉 に屈した( 5月 )。 閔妃をはじめとする守旧派は、日本がロシアを中心とする三ヵ国の要求に屈したのを見て、日本を侮るようになり、ロシアへ接近しその勢力を国内に自ら引き入れていった結果、開化派が退けられ日本の影響力が大きく後退した。 これにより開明的な甲午改革は、中途で挫折してしまった。 日本が自己犠牲まで払って清国と戦い、朝鮮を独立させたにもかかわらず、ロシアに事大しようとする政治姿勢に、日本人の対朝鮮不信感は著しく増大した。

 ロシアの朝鮮進出に危機感を持った日本の三浦梧楼公使は、朝鮮のロシア接近の元凶は、宮廷を牛耳っている閔妃にあるとして、大院君と共謀して1895年10月、日本軍の守備隊と朝鮮軍の訓練隊、武装した日本人壮士を宮中に侵入させて、 閔妃を殺害 した( 乙未事変 )。 日本はこの事件について列強諸国の非難を浴びたために、三浦以下関係者40数名を日本へ送還して裁判を行なわねばならなかった。 広島で行なわれた裁判では証拠不十分で免訴となり、朝鮮で行なわれた裁判では、李周會ら朝鮮人3人が死刑となってこの件は決着した。

 大院君が復権し、親露派を排除して開化派を中心とする親日内閣が組閣され、改革政策を復活させた。 しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で、11月金弘集内閣によって発令された断髪令は、反日・反開化の動きを武装闘争へと導く契機となった。 ( ⇒資料4 ) その頃の朝鮮人男性は、後頭部で髪を丸めたマゲを結っており、未婚男性は髪を腰まで伸ばしていた。 「身体髪膚しんたいはっぷこれを父母に受く。 敢えて毀傷きしょうせざるは孝のはじめなり」という儒教の教えにしたがって、髪を切ることを罪悪視していたのである( そのくせ、○ん○んを切って宦官になるのは構わないというのが理解できない )。 高宗国王は率先して髪を切り範を示したが、衛正斥邪を唱える儒者たちにとって断髪令は、小中華朝鮮の礼俗を捨て去り、夷狄( 野蛮人 )に堕するものと受けとられた。 翌1896年1月、在地両班の指導下に農民を組織した義兵が蜂起し、「尊中華攘夷狄」を唱えて開化派政権の打倒を目指す反乱を起こした。 蜂起は急速に拡大して開化派人士や日本人を殺害し地方都市を占領した。 金弘集政権は鎮圧のため政府軍を派遣したが、政府軍が大挙出動している隙をついて、守旧派の親露派官僚がロシアと謀ってクーデターを起こした。 国王高宗が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ( 露館播遷・2月 )。 ロシアは事前に公使舘の整備を名目として歩兵部隊を派遣しており、日本は手出しができなかった。 高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じた。 ソウルで暴動が起こり、領議政( 首相 )であった金弘集と二人の閣僚が群衆によって惨殺され、親日政権は崩壊した。 親露内閣が成立し、ロシア公使館が朝鮮の中心となった。 高宗はその後も1年余りにわたってロシア公使館に滞在し、すべての政治はロシアの掌中にあった。 日本人顧問や、日本人軍教官は全員が解任され、ロシア人顧問や、ロシア人軍教官と交替した。 内政面では甲午改革に逆行する動きが進んだ。

 高宗は1897年2月ロシア公使館を出て、国号を大韓帝国と改めるとともに、皇帝を称した( 10月 )。 財政難の政府は列強諸国に巨額の借金を申し込むとともに、鉄道敷設権、鉱山採掘権、森林伐採権を露、米、英、仏、独に次々と切り売りしていった。 それにもかかわらず国家財政は改善せず破産寸前に陥った。 このように亡国への道をたどる不安定な朝鮮半島での日ロの軍事衝突を予防し、勢力均衡を目的とする交渉が行なわれた。 1896年の山県・ロバノフ協定の交渉、2年後の駐韓公使スバイヤー提案、さらに1903年の小村・ローゼン会談において朝鮮半島を北緯38度線あるいは39度線を境に、それぞれを両国の勢力下に置くことが協議されたが実現には至らなかった。 しかしその後、第二次大戦でアメリカとソ連が38度線を境に朝鮮半島を南北に分割占領して、それぞれの傀儡政権をたてた。( ⇒資料5 )

 開化派は1896年7月独立協会を結成して義兵運動とは別の民族運動を展開し始めた。 政府に対し国家の自主独立を求め、ロシア人軍事・財政顧問の罷免を要求して成功したほか、迎恩門を取り壊して西洋風の独立門を建てた。 迎恩門は朝鮮国王が宗主国清の皇帝の使者を、屈辱的な三跪九叩頭さんききゅうこうとうの礼( 跪いて頭で地面を三度叩いて立ち上がる、この動作を三回繰り返す )をして出迎えた場所で、中華冊封体制の象徴的場所であった。 大衆運動に進出したが、巻き返しを図った守旧派の弾圧を受けて、1898年12月皇帝の命により会は解散させられ、協会幹部も逮捕投獄されてしまった。

 1898年3月ロシアは日本が三国干渉で返還した遼東半島の旅順を租借し、海軍基地を建設するとともに極東総督府を設置し、極東への軍事進出を加速させた。 さらに1899年から日本の対馬と目と鼻の先にあって、天然の良港である鎮海湾の土地買収を進めた。 ロシアの対日戦略意図は火を見るより明らかであり、ここに海軍基地を建設されては、日本ののど元に刃を突きつけられたも同然となるため、日本も競って鎮海湾周辺の土地買収を図り、これを阻止した。 日本はロシアとの軍事衝突が近いことをを意識し始めた。 ロシアは北清事変( 義和団事件・1900年 )を機に満州へ8万の大軍を送り、事変後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手しはじめた。 1902年2月、ロシアの南下政策によって中国・インド・中東で脅威にさらされていたイギリスと日英同盟を締結し、ロシアの進出を牽制した。 ロシアは1903年7月、満韓国境となっている鴨緑江の韓国側の河口にある竜岩浦の租借権を獲得し兵営を建設した。 8月、日露協商会議で日本はロシアに対し満州撤兵を要求するが、ロシアはこれを拒否して満州の占領を宣言し大兵力を送りこんだ。 日本は世界最大の陸軍国ロシアと対峙する臨戦態勢になり、国内は緊迫した空気につつまれた。

 1904年2月、日本軍が旅順港を攻撃することによって 日露戦争 が始まった。 韓国政府は日露開戦を目前にして、局外中立を宣言したが、すでに漢城ソウルを制圧していたロシアはこれを無視し、関係各国も承認しなかった。 日本が緒戦に勝利するや、韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。 これにより日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。 さらに8月第一次日韓協約を締結して、韓国政府に日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めさせ、いわゆる顧問政治の道を開いて内政改革を推し進めた。 戦争中反日義兵はさまざまな妨害活動を行ったが、韓国内には日本軍に積極的に協力する勢力もあり、公称百万人の会員を擁する一進会が鉄道建設・軍需物資の運搬に協力した。( ⇒資料6 ) 日露戦争は1905年1月旅順陥落、3月奉天会戦で勝利すると、5月には日本の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、9月にポーツマス条約を締結して日本の勝利に終わった。 条約によってロシアは、日本の韓国に対する 「指導保護及監理」 の権利を認めた。 その2ヵ月前に日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカは日本の韓国に対する宗主権を認めた。 ついでイギリスも日本の韓国支配を認めた。 これによって、日本の韓国に対する絶対的な優位が確立された。

 11、日本は伊藤博文前首相を特派大使としてソウルへ派遣し、第二次日韓協約( 日韓保護条約・乙巳保護条約 )を結んだ。 日本が韓国の外交権を握ることと、韓国に統監府を置くことを定め、事実上の保護国とした。 統監府は翌1906年2月に開設され、伊藤博文が初代の統監となった。 この時点では日本政府は韓国を併合しようという合邦積極派と、韓国を保護国として半独立国のまま置こうという合邦消極派に分かれていた。 合邦消極論者にとっては、当時韓国が破産状態で、欧米諸国に対して巨額の対外債務を負っていたのを、肩代わりするのを嫌ったのが理由となっていた。 しかし高宗が日韓保護条約を無視して、アメリカ大統領や ハーグの万国平和会議( 1907年6月 )( ⇒資料7 ) へ密使を送って排日工作を続けたことと、反日ゲリラである義兵闘争が全国に広まって治安が悪化していったことが、韓国直接統治に踏み切らせる大きな理由となっていく。 義兵の指導者は、追放された旧政府高官と封建的特権を剥奪された両班、西洋文明や日本に反感をいだく儒者たちで、衛正斥邪論に基づいて、日本勢力の駆逐と開化派政権の打倒を唱える韓国の近代化に背を向けた復古主義者たちだった。 7月ハーグ密使事件の責任をとって高宗皇帝は譲位し、自国の改革をなおざりにして権謀術数を弄することに終始した最高責任者は政治の舞台から退場した。 また第三次日韓協約が締結され、日本が司法権・官吏任免権を掌握して統監権限が強化された。

 1909年10月満州ハルピン駅前において、 伊藤博文が安重根によって暗殺 されたことが日韓併合を早める結果になった。 それまで伊藤は慎重論をとっていたのだ。 ( ⇒資料8 ) 日本人を激昂させた伊藤暗殺を機に、韓国内から日韓合邦を求める機運が高まってきた。 韓国はもはや国家の体を成していなかったのだ。 政治腐敗の巣になっていた宮廷、私利私欲に走る無能な官吏、農民を喰い物にする統治階級と愚昧な人民、儒教に毒された社会規範、これらの改革を目指した甲申政変、甲午改革、独立協会の活動などが、ことごとく守旧派に潰され、今なお攘夷復古主義者たちは、改革の停止と旧体制への復帰を主張して反日義兵闘争をやめなかった。 そのため国力は、ますます衰えて民族の前途は絶望的となり、残された道は日本と合邦するしかなくなった。 公称百万会員の韓国最大の政治団体一進会の李容九会長は、1909年12月 「韓日合邦建議書」 を韓国皇帝純宗に上奏し、同時に曾禰荒助統監、李完用首相にも提出して、韓日合邦を全国民に訴えた。 そして1910年8月22日、親日派のリーダーである李完用総理大臣によって、 「韓国併合ニ関スル条約」 の調印が行なわれ、8月29日公布実施された。( ⇒資料9 ) こうして韓国は日本に併合されたのである。

 明治天皇の 「韓国併合の詔」 には、『東洋の平和を永遠に維持し、日本の安全を将来にわたって保障する必要から、常に禍乱( 世の中の乱れ )の原因となっている韓国を、日本の保護下に置くことによって禍根を絶ち、平和を確保しようとした( 日韓保護条約 )。 それから4年が過ぎ、日本は鋭意韓国の施政の改善に努め、その成績には見るべきものがあったが、治安の保持ができないため国民は安堵することが出来ないでいる。 社会を安定させ民衆の福利を増進するためには、現在の体制を革新せざるを得ないことが明らかとなった。 この事態に鑑み、時勢の要求に応ずることもやむをえないと考え、韓国を日本に併合することにした』 旨が述べられています。