大日本史番外編 「朝鮮の巻」
韓国併合までの歴史


「韓国の歴史」 と日本( 国定韓国高等学校歴史教科書より )

 近代社会の発展



Ⅵ-1-(1) 興宣大院君の政治

 専制王権の強化
 「外からは西洋勢力が中国と 日本 の門戸を開放させ、いまにも朝鮮に押し寄せてくる状況にあった。」( 時代背景の説明 )
 「大院君は失墜した王室の威信を回復するために、 壬辰倭乱 の時に焼失した景福宮を再建した。」

Ⅵ-1-(2) 開港と近代社会の開幕

 江華島条約と開港
 鎖国政策をとる大院君から閔氏一族へと政権が交代すると開放論が生まれてきた。
 「他方、 明治維新 以後、近代国家の体制を整え資本主義を急速に推し進めながら海外侵略を企てていた 日本 は、雲揚号事件を起こし朝鮮に門戸開放をせまった。その結果、ついに朝鮮は 日本 と江華島条約を結び門戸を開放することになった。
 江華島条約はわが国が外国と結んだ始めての近代的条約であったが、不平等な条約であった。江華島条約において朝鮮は自主国として 日本 と同等の権利をもつと規定されたが、それは朝鮮に対する清国の宗主権を否定することによって、 日本 の朝鮮侵略の道を開こうとしたのであった。そしてこの粂約では朝鮮の釜山のほかに二港の開港、 日本人 の自由な通商活動と朝鮮沿海の自由な測畳をとりきめていた。それは単純な通商交易の経済的目的とは、似て非なるものであって、政治的、軍事的拠点を狙った 日本 の侵略意図の現れにほかならなかった。
 さらに、開港場における 日本人 の犯罪は 日本 の領事が裁判するという領事裁判権、すなわち治外法権条項を設定することによって、朝鮮内に居住する 日本人 の不法行為に対する朝鮮の司法権を排除した。とくに、治外法権、海岸測量権は朝鮮の主権に対する侵害であった。このように 日本 はかつて 日本 みずからが開港を余儀なくされ、アメリカ、イギリスなどと結んだ不平等な関係をそのままわが国へ強要したのである。
 江華島条約に続いて、別途の措置がとられ、朝鮮国内における 日本人外交官 の旅行の自由、開港場での 日本人居留民 の居住地の設定と、 日本貨幣 の流通、そして 日本 の輸出入商品に対する非課税と穀物の無制限の輸出などが認められた。これによって朝鮮に対する 日本 の経済的侵略の足場が築かれた反面、朝鮮は国内産業に対する保護措置をほとんど講ずることができなくなった。」

 各国との条約締結
 「朝鮮は江華島条約で 日本 に門戸開放した後、西洋各国にも門戸を開放した。」かつて開港させることを失敗したアメリカは「朝鮮が 日本 と条約を結ぶと再び朝鮮との修交を求めて日本に斡旋を要請したが、またもや失敗した。」しかし、アメリカと連合すべきであるという主張もおき「結局、ロシアと 日本 を牽制し、朝鮮に対する宗主権を国際的に承認させようと機会をうかがっていた清国の斡旋で朝米修交通商条約が締結された。」
 その後朝鮮は西洋各国と外交関係を結んだ。

 近代社会への進展
 「朝鮮は 日本 と江華島条約を結び、西洋各国に門戸を開放することによって国際舞台に登場することになった。」これは近代社会へと発展する端緒となった。
 しかし、朝鮮の開港は列強の資本主義的膨張政策によって強要され、西洋近代文明の輸入は 日本 をはじめとする列強の侵略に付随したものであったので、朝鮮はこれら列強の侵略戦争の舞台となった。」

Ⅵ-1-(3) 開化政策の推進と反発

 開化政策の推進
 開化思想は国内の実学、国外は「清国で進行していた洋務運動と 日本 より提起されていた開化論の影響を受けた思想である。
 開化後、朝鮮政府は、第一次修信使とキムキスと第二次修信使のキムホンジブを 日本 に派遣することによって、 日本 の発展ぶりと世界情勢の変化を知り、開化の必要性をますます感じるようになった。」そこで、政府は開化政策を推進した。
 政府は統理機務衙を設置し開化政策を推進した。また軍事制度の改革をおこない五軍営を二営に統合し、「新式軍隊の養成のために別途に別技軍を創設し、 日本人教官 を採用して近代軍事訓練による士官候補生の養成に努めた。
 政府は開化政策を推進するために 日本 には紳士遊覧団を、清国には領選使を派遣した。紳士遊覧団は日本で約三ヶ月間、政府機関はもちろん、各種産業使節を視察した。 日本 の発展ぶりを直接見聞してきた紳士遊覧団一行は、各自の担当分野に関する報告書を提出し、開化政府推進の支えとなった。」
 領選使は清国で武器製造法および近代軍事訓練法を学ぶが、所期の成果をあげられずに一年だけで帰国した。

 衛正斥邪運動の展開
 開化政策と外侵に対する反発として衛正斥邪運動がおこった。外国との通商や開港、開化政策に対して反対した。「さらに、斥邪運動は一八九○年代以後には 日本 の侵略に抵抗する抗日義兵運動へと受け継がれていった。」
 衛正斥邪論者が開化政策に反対した理由は、西洋との交易では経済的破滅が不可避であることと、「いったん門戸を開放すれば、 日本 をはじめとする列強の侵略を防ぐことができなくなるからであった。」

 壬午軍乱の勃発
 「壬午軍乱は、閔氏政権が 日本人教官 を配して訓練させた新式軍隊の別技軍を優遇し、旧式軍隊を差別待遇したことに対する不満から爆発した。〔一八八二〕
 旧式軍人は大院君に援助を求め、政府高官の家を襲撃し、破壊する一方、 日本人教官 を殺害し 日本公使館 を襲撃した。そこに民衆が加わり、閔氏政権の高官を殺害した後、軍乱を避け逃走する 日本公使 一行を仁川まで追撃した。 壬午軍乱は大院君の再執権によってひとまずは鎮静化したが、これによって朝鮮をとりまく清・ 両国の新しい動きが生ずることになった。すなわち、 日本 は朝鮮内の 日本人居留民 保護を口実に軍隊派遣の動きをみせ、これに対し清国はすみやかに軍隊を朝鮮に派遣し、大院君を軍乱の責任者として清国に連れ去ることによって、 日本 の武力介入の口実をなくそうとした。しかし朝鮮は 日本 との間に済物浦条約を締結し、賠慣金を払い、 日本公使館 の警備兵駐屯を認めた。」
 その後清国は朝鮮に対して積極的に干渉していき、閔氏一派は政権を維持するために親清政策へと傾いていった。

Ⅵ-1-(4) 開化党の改革運動

 開化党の成立と活動
 開化派は政府の改革運動を推進したが、方法の異なる二つの流れがあった。ひとつは閔氏政権と組み清国を手本とする穏健開化派。もうひとつは清国の干渉、清国依存が開化の進まない理由であるとする「急進改革派または開化党とよばれる彼らは、清国の干渉を排し、自主独立を確立し、 日本明治維新 を手本にして急進的な改革を推進しようとした。」
 開化派の要人らは先覚者の指導を受け、「直接 日本 のめざましい発展ぶりをみて世界の大勢を把握することによって、近代的な国政改革が急務であることを痛感した。」
「壬午軍乱後にパクキュスが修信使として 日本 に派遣されたが、このときキムオッキュン、ソグァンポムらも同行した。」これら開花党要人はさまざまな改革を実践した。博文局の設置、「軍事と学術などを学ぶことができるように 日本 に留学生を派遣し、」郵便局を設置した。
 「しかし、開化党に対する 日本 の態度は冷ややかで、開化運動のための借款導入に失敗したので政治資金の調達が困難となった。」さらに、閔氏一派の親清守旧政策がひどくなり、開化運動は思うようにできなかった。

 甲申政変とその影響
 壬午軍乱以後、閔氏政権(親清守旧派)による開化派への弾圧が激しくなった。そこで、開化派は、清国とフランスがベトナム問題で戦争状態になり朝鮮駐屯清国軍の一部撤収に乗じて政変を企てた。「開化党はソウル駐在アメリカ公使館の支援を受けることには失敗したものの、 日本公使 の支援の約束をとりつけ政変を具体化していった。」開化党は守旧事大党の要人らを殺害し、開化党政府を樹立した後、一四か条の改革要綱を発表したが清国軍の介人によって甲申政変は三日天下に終わってしまった。
 「甲申政変後、朝鮮は補償金の支払い、公便館の新築費負担などを内容とする漢城条約締結を 日本 に強要された。他方、清・両国は朝鮮から清・両国軍の撒収と、将来朝鮮に派兵する場合には、相手国に前もって知らせることなどを内容とする天津条約を締結した。この条約によって 日本 は清国と対等に朝鮮への派兵権を得た。」
 甲申政変が清国の武力干渉により失敗した結果、開化勢力は淘汰され開化運動の流れは長く途絶えた。しかし中国に対する伝統的事大関係の清算と近代国家の樹立を目指した初めての政治運動であり、その歴史的意義は大きい。

Ⅵ-2-(1) 東学農民運動の展開

 農民層の動揺
 甲申政変以後「清国と 日本 間の侵略的対立はいっそう激化し、ロシアとイギリスまでが朝鮮問題で対立するに至った。」

 「朝鮮の農村経済は 日本 の経済浸透によって疲弊していった。開港以後、最も早く侵略の触手を伸ばしてきた 日本 の勢力は政治的な面では壬午軍乱と甲申政変を経てかなり弱まりはしたものの、経済的な面ではむしろ強化された。
 日本人商人 は、初めは清国の商人と同じように、主にイギリスの綿製品を安く仕入れ高く売りつける仲介貿易をしていたが、しだいに自国製品に代えていき莫大な利益を得た。当時、朝鮮の 日本 に対する輸出品は米穀が三○パーセント以上を占めていたが、日本政府 の政治的庇護を受けた 日本人商人 は、朝鮮農民が困窮する状況を利用して、立稲先売〔青田買い〕とか高利貸し手法によって穀物を買い占め暴利を得た。一八九○年代の初めには朝鮮の貿易において 日本 が輸出総額の九○バーセント以上、輸入総額の五○パーセント以上を占めるほどであった。
 このような 日本 の経済的侵略に抵抗して、」穀物の輸出を禁じる法令を出したが、「逆に 日本 の抗議を受け賠償金を支払うはめになるなどで何らの効果もなかった。こうして農村経済はますます疲弊し、農民の 日本 に対する敵愾心も大きくなっていった。」
 このように状況の中、農村知識人と農民の政治意識と社会意識は急成長し、社会変革の要求が高揚した。東学の人問平等思想と社会改革思想は、新しい社会への変化を渇望する農民の要求に合致し、従来の散発的で分散的な民乱形態の農民運動は、農民戦争の形へと変わっていった。

 東学農民軍の蜂起
 東学の勢いは拡大し、「腐敗官吏の粛清、 日本 と西洋勢力の駆逐を要求する政治的スローガンを掲げたので、ついに東学教団中心の宗教運動は農民運動へと転換していった。」

 東学農民運動の第三期に政府は東学農民軍の要求を清国の武力で鎮圧しようと、派兵を要請した。「清国軍が派遣されると、日本 も天津条約をたてに軍隊を派遣した。こうして 清日戦争 が起こるにいたった。
 第四期は、 清日戦争 において優勢にあった 日本 が朝鮮の内政干渉を強化したことに対し、憤激した大規模の東学農民軍が再び蜂起したのである。」
 東学農民軍は「官軍と 日本軍 を相手に激戦を展開したが、近代的な武器で武装した 日本軍 に破れて大きな犠牲を払い」農民運動は失敗に終わった。

 東学農民運動の性格
 「東学農民運動は反封建体制と反侵略的性格ゆえに、当時の執権勢力と 日本 侵略勢力の弾劾を同時に受け失敗に帰してしまったが、その影響は非常に大きかった。」

Ⅵ-2-(2) 近代的改革の推進

 甲後改革
 「東学農民運動を契機として、清・両国軍が朝鮮に入ってくることになったが、すでに政府と東学農民軍の間では全州和約が成立し、外国軍隊の朝鮮駐屯の名分は成立しなかった。このような状況で、 日本 は、東洋平和の脅威となる朝鮮の内乱を防ぐためには、朝鮮の内政改革が不可避であると主張するのであったが、その真のねらいは、 日本軍 の朝鮮駐屯の口実をつくりだし、」清国を駆逐し、「朝鮮に対する内政干渉によって経済的利権を奪い、朝鮮侵略の基盤を固めるところにあった。そのために 日本 は朝鮮に対する内政干渉を強力に押し進めてくるようになった。」
 朝鮮は甲申政変や東学農民運動の挫折により自力での近代的な改革に失敗したが、近代化改革の要求とその必要性は大きくなり、校正庁を設置し改革に着手した。
 「日本 側の内政改革要求と朝鮮側の自主的改革の主張が真っ向から対立するなかで、 日本 は軍隊を動員し景福宮を占領した。そうして閔氏政権を倒した後、大院君を摂政とする第一次キムホンジプ内閣を成立させ、軍国機務処を設置した。軍国機務処は超政府的な会議機開として、第一次改革の甲午改革を推進した。当時、 日本 は利権侵奪に力点を置き、改革内容に対しては傍観的な姿勢を保っていたので、改革は事実上、軍国機務処の議員の主導で推進された。
 ところが 日本清日戦争 で優勢であるとみるや、朝鮮に対する積極的な干渉政策をとりはじめた。この時、甲申政変の主謀者として亡命していたパクヨンヒャとソグァンボムが帰国し、改革に参与した。」

 乙未改革
 キムホンジプ・パクヨンヒャ連立内閣による「第二次改革は、 日本 が三国干渉によって力が弱まりつつあったので、」朝鮮主導でおこなわれたがパクヨンヒャが閔氏一派により失脚すると中断した。
 パクヨンヒャ失脚後、親露派と連立したキムホンジプ内閣が成立した「この時、明成皇后〔閔妃〕は親露派と結び、 日本 の侵略勢力を排除しようとしたが、これに対し 日本 の侵略者は明成皇后を弑殺するという乙未事変を引き起こした。」当時、第三次改革がすすめられたが、これに反発する儒生と農民は義兵として立ちあがった。親露派は国王をロシア公使館に移した(俄館播遷)がこれにより改革運動は中断した。

 甲午・乙未改革の意味
 「軍事面での改革は見るべきものはなかったが、これは 日本 が朝鮮の軍事的強大化や軍事改革を望まなかったからである。」
 「甲午、乙未改革は 日本帝国主義 によって強要された面もあったが、封建的伝統秩序を打ち破ろうとする、制度面における近代的改革であったことには違いない。さらには、朝鮮の開化人士と東学農民層の改革の意思が反映された、主体的な近代化への努力のたまものであった。」

Ⅵ-2-(3) 独立協会の活動と大韓帝国

 独立協会の創立と民衆啓蒙
 「俄館播遷によってキムホンジプの親日内閣が倒れ、親露政権が成立すると、 日本 の侵略勢力はひとまず牽制されることになった。」

Ⅵ-2-(4) 抗日義兵戦争の展開

 武力抗日運動の始まり
 「日帝 の侵略に対する最も積極的な民族抵抗は義兵戦争であった。
最初の 抗日 義兵は、東学農民運動が失敗した後、 日本侵略者 によって蹂躙された乙未事変と、親日内閣によって強行された断髪令をきっかけに全国各地で起きた。そのうちユインソク、イソウン、ホウイらの活躍が際立っていた。
 いわゆる乙未義兵は衛正斥邪思想をもった儒生が主導し、一般農民と東学農民軍の残党勢力が加わった。彼らは全国各地で軍事活動を拡大し、忠州をはじめとする地方の主要都市を攻撃し、 親日官吏日本人 を処断した。
 俄館播遷をきっかけに 親日政権 が倒れると断髪令が撤回され、国王の解散勧告詔勅が出された。これにより乙未義兵闘争はほぼ終息したが、その後乙巳条約を契機に再発した。」

 義兵闘争の拡大
 「露日戦争 をきっかけに、 日帝 は侵略を積極的に推進する一方で、乙巳条約の締結を発表した。これに対し、社会の各界各層から 日帝 の侵略を糾弾し、条約の廃棄を求める運動が燎原の火のように広がった。チョピョンセ、イサンソル、アンピョンチャンらは、乙巳条約に署名した大臣の処罰と、条約の廃棄を皇帝に要求する上疏運動を展開し、ミンヨンファンらは国家の消滅に悲憤し自決をもって乙巳条約に抗議をした。ナチョル、オギホらは五賊暗殺団を組織し、五賊〔乙巳条約を結んだ五人の大臣〕の家に放火したり、一進会を襲撃するなどして、売国奴の粛清をはかった。また、チャンジヨンは激烈な 抗日 言論を展間し、 日帝 を糾弾し民族的闘争を呼びかけた。
 このような民族の慣怒と抵抗を結集し、民族の近代的力量を養成することで、国権の回復をめざす愛国啓蒙運動が展開され、民族の生存権を死守しようとする救国闘争が力強く展開されていった。
 乙巳条約を契機に国家の存立が危うくなると知るや、再び蜂起した義兵らは、条約の廃棄と 親日内閣 の打倒を掲げ武装闘争を展開した。まずミンジョンシクは乙巳条約が締結されると官職を投げうって義兵になり、洪州城を占領し 日本軍 に立ち向かった。そしてチェイッキョンは義兵を率いスンチャンに入城し官軍と対峙するが、同属同士が殺し合うのはしのびないとして、戦いを中断し捕虜となったが、結局 日本軍 に連行された対馬で志を貫いて死んだ。」
 他方、平民出身の義兵将シンドルソクは、最大で三○○○人を超える義兵を集め活躍した。それまでの義兵将は大体儒生であったが、この時初めて平民出身の義兵将が現れ、義兵運動に新しい様相が現れたのであった。
 「高宗皇帝の強制退位と軍隊解散をきっかけに、義兵の救国運動はその規模と性格において義兵戦争へと発展していった〔一九○七〕。この時の義兵を丁未義兵と呼ぶが、侍衛隊の第一大隊長パクスンファンの自決を契機に、 日本軍 と市街戦を展間した解散軍人らがその後、義兵に合流することによって組織と武器が強化された。この時期の義兵組織と活動は全国各地に広がりをみせただけではなく、豆満江を越え間島と沿海州にまで達した。
 他方、全国の義兵部隊がソウル侵攻をめざし連合戦線を形成したこともあった。イイニョンとホウィが指揮する一万人以上の義兵連合部隊は、京畿道揚州に集結し、ソウル近郊まで進撃したが、 日本軍 の反撃にそれ以上前進できず撤収しだ。同時に、ソウル駐在の各国領事館に義兵を国際法上の交戦団体として承認するよう要請する文書を発送し、みずからが独立軍であることを位置づけた。ホンボムドとイボミュンが指揮する間島と沿海州一帯の義兵部隊が国内進行作戦を企て、義兵として活躍していたアンジュングンは満州のハルビン駅で、韓国侵略の元凶である 伊藤博文 を射殺した。
 このように苛烈に繰り広げられた義兵闘争は、その後 日本軍 のいわゆる「南韓大討伐」を境に大きく後退した。しかし多くの義兵は鴨緑江と豆満江を越え間島と沿梅州に移り行き、引き統き 日帝 と激しい戦いを繰り広げたが、一部の義兵は国内に残り山岳地帯において遊撃戦を展開した。」

 抗日義兵戦争の意義
 「義兵戦争は全国を活動舞台にして広範な社会階層を網羅したが、強大な 日本正規軍 を制圧することはできなかった。そして封建的支配秩序の維持に固執する両班儒生層の指導路線により、民族の結集が強化できなかった。それゆえ義兵戦争は所期の成果を得ることができなかった。また、列強の侵略競争が普遍化し、外交権を失い国際的に孤立状態にあるなかでの義兵戦争であったので、国際的支援も期待することができなかった。
 しかし義兵戦争は、執権層の腐敗と無能、そして外勢の侵略によって国家と民族が危機に瀕している時に起こった愛国運動の代表的な形態であり、民族の強靭な抵抗精神を表したという点において重要な意味がある。さらに、義兵戦争は 日帝 による保護国体制下では、国権回復のための武装闘争を導き、 日帝 の植民地体制下では、 抗日 武装独立戦争の基盤をつくることによって、 抗日 民族運動史の大きな根幹となった。のみならず義兵戦争は二○世紀の初頭、帝国主義列強による弱小国侵略が最もすさまじい時代にあって、 日帝 の侵略に立ち向かい熾烈な武装闘争を展開したという点において、世界の弱小民族の独立運動史でもはかり知れない意義をもつのである。」

Ⅵ-2-(5) 愛国啓蒙運動の展開

 愛国啓蒙運動の脈絡
 愛国啓蒙運動は甲申政変・独立協会運動等の開化自強派運動を継承した救国民族運動である。
 「独立協会が解散させられた後、守旧政権の圧政体制が強まり、列強のなかでも特に 日本 の利権侵害が激化していた時期にあっても、開化自強派の民族運動は続いていた。
 すなわち、輔安会は土地略奪をもくろむ 日本 の荒蕪地開墾権要求に、反対運動を展開してこれを阻止するのに成功したが、 日本 側の圧力で解散させられた。憲政研究会は国民の政治意識の高揚と立憲政体の樹立を目的に設立され、一進会の反民族的な行為を糾弾したがこれも解散させられてしまった。」

 韓末の愛国啓蒙運動
 開化自強系列の民族運動は、国権回復のための実力養成運動として展開された。
 大韓自強会は憲政研究会を母体として創立され、教育と産業を振興させ独立の基礎を築くことを目的とした。
 「大韓自強会は全国各地に支会を持ち、一五○○人以上の会員を擁したが、 日帝 がハーグ特使派遣を口実に高宗皇帝の退位を強要すると、激しい反対運動展開して強制的に解散させられてしまった。
 大韓協会は大韓自強会を継承し、教育の普及、産業の開発、民権の伸長、行政の改善などを綱領に掲げ、大韓自強会と同じように実力養成運動を展開した。しかし 日帝 の韓国支配権が一層強化されると、大韓協会の国権回復に対する意欲はすっかり衰え、国権回復運動の大きな流れは新民会へと移っていった。
 新民会は社会の各界各層の人士を網羅して組織された団体である。アンチャンホ、ヤンギタクらを指導者とする新民会は、国権の回復と共和政体の国民国家樹立を究極的な目標とし、表面的には文化的、経済的実力養成運動を展開しながら、その実、独立軍基地の建設による軍事力養成を企図していた。しかし新民会は 日帝 がでっちあげた一○五人事件によってその組織は瓦解させられてしまった。」
 また、西北学会、畿湖興学会は教育団体でありながら、実際は国権回復を目的に政治と教育を結び合わせた救国運動団体であった。
 「他方、『皇城新聞』、『大韓毎日申報』などの言論機関も、国民啓蒙と愛国心発揚に大きな役割を果たし、本格化する 日帝 の国権侵奪に抵抗した。とくに、『皇城新聞』は主筆チャンジヨンが乙巳条約に憤慨して書いた論説「是日也放声大哭」であまりに有名である。」

 愛国啓蒙運動の意義
 「民族の力量を養成し国権を回復する目的で展開された愛国啓蒙運動は、独立運動史上、大きな意味をもつ。
 まず第一に、民族独立運動の正しい理念を提示した。すなわち、国権回復と同時に近代的な国民国家の樹立を目標に掲げ、当時の民族的課題に忠実であり、近代史の発展方向に合致する民族運動の埋念を提示したということである。
 二番目に民族独立運動の正しい戦略を提示したことである。すなわち、新民会は国内での文化的、経済的実力養成に合わせ、国外での独立軍基地建設による軍事力養成を当面の目標としたがこれは適切な機会に 日帝 からの独立を戦いとる独立戦争論によっていたのである。
 三番目に、長期的な民族独立運動の基盤を築いた。すなわち、近代的民族教育をおこし、独立運動の人材を養成、近代的民族事業を振興し、民族独立運動の経済的基盤を準備しようとしたのである。
 しかし愛国啓蒙運動は 日帝 によって政治的、軍事的に隷属した保護国体制下で展開されたので 抗日 闘争においては限界をもっていた。」

Ⅵ-3-(1) 開港以後の列強の経済的侵略

 日本商人の貿易独占
 「外国の商品は開港前から中国を経由して国内に流入していたが、釜山、元山、仁川が開港すると、何らの制限もなく輸入されるようになった。このような外国商品は、まだ近代的生産段階に到達していなかった国内の産業界に深刻な打撃を与えた。
 開港初期には 日本人商人 の活動範囲が一○里〔四キロメートル〕以内に制限されており、朝鮮人商人を中立ちとする居留地貿易の形態であった。この時期の 日本人商人 は大部分が 対馬九州地方 出身者で、没落商人や不平武士層が多かった。彼らは一攫千金をねらう典型的な冒険商人であり、 日本 の領事裁判権、 日本貨幣 の使用権などを認めた不平等条約を背景に、 日本政府 の政策的な支援を受けつつ、略奪的な貿易活動を行なった。
 これら 日本人商人 は主にイギリスの綿織物を上海より買い入れて朝鮮に売り、朝鮮から貴金属などを搬出して行く中継貿易で莫大な利益を得た。しかし壬午軍乱以後は、清国の朝鮮に対する政治的影響力が強化され、清国の商人が大挙して進出し、朝鮮市場をめぐって 日本人商人 と熾烈な競争を繰り広げた。
 一八九○年を前後して、 日本人商人 は内陸へ進出し、農村にまで活動舞台を広げて行き、穀物の買い取りに主力を置いた。当時、資本主義発達の初期過程にあった 日本 は、農村の疲弊にともなう食糧不足を解決するために、朝鮮の穀物を大量に輸入することによって、朝鮮内の穀物価格を暴騰させ、都市の貧民層と貧農層に多大な打撃を与えた。それがために、咸鏡道と黄海道では穀物輸出を禁止する防穀令を出すこともあった。
 他方、外国商人の内陸進出によって、それまで輸人商品の内陸販売を担ってきた朝鮮人商人は大打撃を受け、ソウルの商人らは撤市することで外国商人の内陸進出に抗議をした。しかし 日本清日戦争 の勝利により、朝鮮人商人の反発と清国商人の競争をすべて退け、朝鮮市場を独占的に支配した。」

 帝国主義列強の経済侵略
 「清日戦争 後、朝鮮に対する列強の経済的侵略はより一層強化され、利権強奪、金融支配、借款強要など帝国主義的な経済侵略段階に入った。
 列強の利権強奪は俄館播遷の頃から表面化し、ロシアと 日本 をはじめとする列強は鉄道敷設権、鉱山採掘権、山林伐採権など重要な権利を奪っていった。
 外国金融機関の朝鮮進出は開港前後に始まった。 日本 の銀行は銀行業務のほかに税関業務、貨幣整理業務などを掌握し、 日本 の経済的侵略の尖兵的役割を果たした。とくに、 日本人 財政顧問の 目賀田種太郎 は貨幣整理を断行し、国内の中小商工業者に大きな打撃を与えた。
  日本 の朝鮮に対する借款提供も、その侵略政策が本格化するにつれ積極的に行なわれた。 清日戦争 後、朝鮮に対する内政干渉を始めた 日本 は、租税徴収権と海関税収入を担保に借款を強引に実現させ、露日戦争後には貨幣改革の名目で借款を強要した。 日本 の借款供与政策は大韓帝国を財政的に 日本 へ完全に隷属させようとするものであった。」

 日本の土地略奪
 「開港直後に 日本人商人 は開港場内の一部の土地を借用していただけであった。しかし彼らは活動範囲が開港場の外に拡大されると、穀物を買い入れるために、朝鮮農民に金を貸し付け、代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当に高利貸し的手法で奪い取ったりして、しだいに土地所有を拡大していった。 清日戦争 後、 日本 が朝鮮において強力な影響力をもつようになると、 日本 の大資本家が大挙して進出し、全州、群山、羅州一帯で大規模農場を経営するようになった。
 日本人 による大規模な土地略奪は 露日戦争 をきっかけに本格化した。 日本 は鉄道敷設と軍用地の確保という口実で土地略奪をほしいままにした。 日本 は京仁線と京釜線を敷設しながら、鉄道敷地のうち、国有地は無償で略奪し、私有地は朝鮮政府に所有者より買い取らせ無慣で提供させた。そして彼らは軍用地として必要な地城をほとんど制限なく無償で借地し、軍用地を口実に駐屯地周辺の土地を大量に略奪していった。また、朝鮮の荒蕪地開墾と駅屯土〔李朝時代に宿駅の財政をまかなうために与えられた土地〕の収用によっても土地略奪を企てた。
 国権が奪われた時期の 日本人 が朝鮮で所有していた土地はおよそ一億五○○○万坪に達した。このように 日本 が莫大な土地を略奪したのは、朝鮮の植民地化のための基礎作業であった。

Ⅵ-3-(2) 経済的救国運動の展開

 経済的侵奪阻上運動
 「外勢の経済的侵奪に対しさまざまな側面から抵抗運動が起こったが、その代表的なものとして防穀令の施行、独立協会の利権守護運動、輔安会などの荒蕪地開墾権反対運動、国債報償運動などをあげることができる。
 防穀令の施行は、 日本人商人 の農村市場浸透と過剰な穀物搬出を防ぐために下された借置であった。朝鮮では従来凶作になれば地方官の職権で防穀令を実施することができた。開港以後、穀物の 日本 流出が増大したために穀物価格が暴騰したが、そこへ凶作が重なったので、咸鏡道と黄海道の地方官は防穀令を発したのであった。しかしこれに対し 日本 が言いがかりをつけたことによって、防穀令は外交問題へと広がっていった。 日本側 は、防穀今を実施する一か月前に、地方官が 日本領事館 に通告しなければならないという「朝日通商章程」を口実に、朝鮮側に圧力をかけ、防穀令を撤回させた。さらに、日本人商人は防穀令によって損害をこうむったとして巨額の賠償全を要求し、結局朝鮮政府は 日本 に賠償金を支払うはめとなったのであった。
 他方、列強の利権強奪に抵抗して利権守護運動が起きた。すなわち、ロシアが 日本 の先例に従って貯炭所の設置のために絶影島の租借を要求してきたので、独立協会は万民共同会とともに 日本 の貯炭所撤去まで主張し、ついにロシアの要求を挫析させた。また、韓国の貨幣発行権と国庫出納権など各種の利権獲得を目的として、ソウルに設けられたロシアの韓露銀行も閉鎖させた。そして軍事基地設置のためのロシアの木浦、甑南浦付近の島の売却要求を阻止させ、フランスの鉱山採掘権要求も退けた。さらにアメリカ、ドイッなど列強が奪った鉄道、鉱山、山林に関する利権にも反対運動を展開した。このような独立協会の利権守護闘争によって、つかの間ではあったが列強の利権侵奪は鳴りをひそめた。
 また輔安会は 日帝 の荒蕪地開墾権に反対運動を起こし、 日帝 の土地略奪陰謀を粉砕した。すなわち、 日帝 が経済的侵奪を強化しながら 日本人 に荒蕪地の開墾権を渡すよう要求してきたので、国民は積極的な反対運動を展開した(一九○四)。一部の民間実業家と官吏は、農鉱会社を設立し、開墾は自分たちの手でするべきだと主張した。輔安会は連日街頭集会を開き、 日帝 の侵略的要求を糾弾する挙族的な反対運動を展開した。輔安会は国民的に支援され、ついに 日帝 の荒無地開墾権要求を撤回させた。
 また、借款供与による隷属化政策に抵抗し国債報償運動が起こった。 日帝 は統監府設置後、植民地施設を整備するために施設改善などの名目で韓国政府に巨額の借款を受け入れさせた。一九○七年までに受け人れさせた借款総額は、大韓帝国の一年分の予算とほぼ同じ一三○○万円に達した。これに対し国民の力で国債を返し、国権を守ろうとする国債報償運動が大邱から全国に広がった。国債報償期成会を中心に、各種の愛国啓蒙団体と言論機関が募金運動に加わった。募金のための禁煙運動も展開され、婦女子らはかんざしや指環まで供出して応えた。しかし 日帝統監府 の陰険な弾圧によって、この挙族的な経済的救国運動は挫析させられてしまった。」

 近代的商業貴本の成長
 「朝鮮後期の伝統社会の内部から資本主義的な要索が芽ぶいていたが、開花しないまま門戸開放となった。門戸開放後、外国資本主義の侵略に対する抵抗運動が起きる一方で、資本主義的近代経済を建設しようとする動きも続いた。開港前に一部形成されていた商業資本は、外国資本主義の侵略の前にさまざまに変貌していった。
 ソウルの市廛商人は特権商人として伝統的な商業体制を維持しようとしたが、外国商人の都市浸透後は、彼らとの抗争過程で近代的商人として成長していった。彼らは皇国中央総商会を組織し、独立協会と共に商権守護運動を展開、近代的生産工場の経営に投資をすることもあった。
 京江商人は開港後、政府の税穀運搬が 日本人 の蒸気船に独占され大きな打撃を受けると、彼らも蒸気船を購入し 日本人商人 に対抗しようとしたが、成功するには至らなかった。開城商人の人参栽培も 日本人 の略奪的な商業活動によって侵害された。
 土着の商人のなかで、客主〔李朝時代、商品の委託販売や売買の仲介、行商人の宿泊などを兼ねた宿、またはその主人〕と旅閣および褓負商は開港以後に活況を呈した。門戸開放直後は外国商人の活動範囲が開港場に限定されていたので、彼らは外国商品を開港場と内陸市場を結び、流通させることで利潤を得た。しかし外国商人の内陸商業が許可されると、これらの商人は大きな打撃を受けたが、資本の蓄積に成功した一部の商人は商会社を成立させた。
 開港以後に外国商人の浸透、貿易拡大過程での一定の商業資本の成長、そして開化思想家による外国会社制度の紹介により、数多くの商会社が設立された。一八八○年代初期より大同商会、長通会社などの商会社が出現し、甲午改革前の会社数が全国各地に四○余に達した。初期の会社は大部分が同業者組合的な性格の商会社であったが、次第に近代的な形態の株式会社も設立されていった。
 一八九○年後半期の大韓帝国時代には、政府の殖産興業政策に合わせて内国人の企業活動がますます活発になった。門戸開放以後、 日本 の資本家が朝鮮に進出し大規模の運輸会社を設立し、海上と隆上の運輸業を支配していった。これに対し国内の企業家は外国の蒸気船を購入して対抗しようとし、海運会社、鉄道会社、鉱業会社などを設立して、民族資本の基礎を同めようと努力した。」

 産業資本と金融資本
 開港後さまざまな制約を受けながらも、鍮器工業、治金工業、綿織物、タバコ、磁器などの会社、工場が設立され近代的産業資本がすこしづつ成長していった。
 「他方、開港直後より 日本 の金融機関が浸透し、 日本人商人 による高利貸し業が盛んになると、これに対抗するために自国資本で銀行を設立した。最初に設立された朝鮮銀行は、官僚資本が中心となった民間銀行として、国庫出納業務を代行し、地方に支店も置いたが、間もなく閉鎖した。続いて漢城銀行、天一銀行などの民間銀行が設立された。しかしこれらの銀行は一九○五年に 日帝 が実施した貨幣整埋事業を契機に衰退するか、自主牲を失って変質していき、韓国の金融は事実上 日帝 に奪われてしまう。
 このように門戸開放後、商業資本、産業資本、金融資本などさまざまな方面で展開された民族の近代的経済建設のための運動は、 日帝 の政治的圧力と経済的侵奪によって挫析してしまうのである。」

Ⅵ-3-(3) 開港以後の社会的変化

 平等社会への移行
 門戸開放以後、伝統的社会体制は近代的思想の伝来により大きく変化していった。改革の中で白丁、広大等の賎民身分の廃止、公私奴婢制度の廃止、人身売買の禁止、早婚の禁止、寡婦の再婚の自由、拷問と連座法の廃止をおこなった。
 「甲午改革と乙未改革は、 日本 の影響下にあり、彼らの侵略のための体制改編的な要素があることは否定しえない。しかしこの改革は、実際上朝鮮の開化官僚によって、甲申政変と東学農民運動の成果の上で推進されたものであり、これによって差別的な身分制度が廃止され、近代的な平等社会の根幹が準備されたのである。」

 社会意識の変化
 東学農民運動から甲申政変と甲午、乙未改革を経て独立協会運動で近代的な社会意識は民衆に定着していった。独立協会運動は愛国啓蒙運動へ受け継がれていった。「愛国啓蒙運動は、 日帝 の保護体制化にあったので積極的な政治闘争は展開できなかったが、」さまざまな運動を通じ民族の近代化意識と民族意識を高揚させた。

Ⅵ-4-(1) 近代文明の受容

 近代施設の導入
 「紳士遊覧団の 日本 派遣および領選使の清国派遣は近代的技術導入の重要な契機となった。」
 博文局により近代的印刷技術を用いて『漢城旬報』が発行された。
 通信施設も電信がソウル・仁川間に架設され、「その後は中国、 日本 と結ぶ国際通信網も敷設された。」電話もソウル市内に架設され、甲申政変で中断していた郵便事業も再開し、万国郵便組合にも加入した。
 「近代的交通施設としては鉄道は京仁線が最初に敷設されたが、これは外国人の手になるものであった。京釜線と京仁線は 露日戦争 中に、 日本 の軍事目的にそって敷設された。」他方、皇室とアメリカの合資会社により西大門と清涼里間に初めて電車が開通した。
 また医療や建築等の分野でも近代化、西洋化がなされた。

Ⅵ-4-(2) 近代教育と国学研究

 近代教育の発展
 近代教育は開化運動の一環として始まり、近代的な学問を教えた。また、アメリカから教師を招いた。甲午改革以後、各種の官立学校を建てた。他方、改新教の宣教師入国を契機に多くの私立学校が設立された。「これらの近代学校では近代的学問を教える一方、 日本 の侵略に抵抗する民族意識の覚醒に大きな役割を果たした。」

 国学研究の進展
 「乙巳条約以後、 日帝 の侵略から国権を回復しようとする国民の自覚は、国史と国語を研究し民族意識を高めようとする国学運動となって現れた。」
 国史分野において近代啓蒙史学を成立した。これは「わが国の歴史上外国の侵略に抵抗して勝利した英雄の伝記を書き、広く普及させることによって 日本 の侵略に直面している国民の士気をあおり、愛国心を呼び起こした。」また、外国の建国英雄、独立運動、革命運動の歴史等の翻訳紹介もおこなった。
 国語は、官立学校設立後に漢字とハングル混用体の教科書が出版された。また、漢字・ハングル混用体、純ハングルの新聞・書籍が発行され漢文体からの脱皮という画期的な文体改革をもたらした。
 このような状況の中、国語表記法の統一のため国語研究が飛躍的に発達した。
 「国学運動は 日帝 の保護国体制という、政治的困難な状況のもとで展開されただけに、学問的に限界を持つものであった。」しかし、当時の愛国啓蒙路運動の路線に沿い、社会一般に近代意識と民族意識を植えつけるのに大きく寄与した。

Ⅵ-4-(3) 文芸と宗教の新しい傾向

 宗教運動の変化
 宗教運動は改新教〔プロテスタント〕の受容以後活発となった。
 開港以後、民衆宗教に成長した東学は反体制・反侵略の運動を展開したが、運動の失敗により大打撃をうけた。「その後は、イヨングらの 親日派 が一進会をつくり東学組織を吸収しようとしたが、ソンピョンヒは東学を天道教と改称し東学の伝統を継承しながら民族宗教に発展させた。」
 儒教は時代の流れに逆行すると批判を受けたが、開明的儒者は儒教の改革を主張した。
 「開化期の仏教は朝鮮王朝時代の仏教抑圧政策から自由となったが、その後は統監府の圧力によって 日本仏教 に完全に隷属させられてしまった。」これに対し、ハンウンヨンらは仏教の自主性回復と近代化を目指した運動をした。
 他方、檀君神話を発展させた大(イに宗)教が創立された。これは、「保守性を帯びていたが、民族的立場を強調する宗教活動を広げ、とくに間島、沿海州などでの海外 抗日運動 と密接につながりながら成長していった。」