大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
朝鮮総連の抗議活動


マスコミが恐れる朝鮮総連の抗議活動の実態
「 朝鮮総連と収容所共和国 」 李英和 1999年 小学館文庫
◇ 暴力装置と化した朝鮮総連

『 李英和を出せ 』 『 李英和を殺せ 』――こう叫びながら、私をめがけて数十名の屈強な若者が次々に突進してくる。 百人近い集団が、「 救え!北朝鮮の民衆緊急行動ネットワーク 」( RENK )の大阪集会を襲った。 襲撃の主は、金日成父子を支持する一団だった。 近畿一円を中心に、東京からも動員された朝鮮総連のメンバーたちである。 この日は、彼らが敬愛してやまない故金日成主席の82回目の誕生日だった。

1994年4月15日(金) この日、北朝鮮では風変わりな“プレゼント”が金日成のもとに届けられた。 中国からの「 誕生祝い 」である。 いつもは象牙細工など装飾品なのに、この年に限ってちがった。 米1万トン、肉10トン、食用油5トンが届けられた。 深刻な食料危機に直面する金日成の北朝鮮。 それにふさわしい“友邦”の心遣いだった。 日本では朝鮮総連が大々的な祝賀行事を催し、社会党を中心に国会議員が朝鮮総連本部をお祝いに訪れる。
「 北朝鮮民主化支援・全国集会 ― 特派員と留学生が語る“素顔の北朝鮮” 」 ― わたしたちRENKも、こんな素敵な誕生プレゼントを用意した。 のちに「 RENK事件 」と称されるこの日の出来事。 これが金日成主席を激怒させ、北朝鮮の労働党中枢を震撼させる大事件になろうとは… 。
(中略)
集会予定時刻の一時間以上前から、会場周辺は異様な雰囲気に包まれていた。 朝鮮総連のメンバーが、隊伍を組んで続々と集まってくる。 会場設営のためにRENKのメンバーが到着するや、朝鮮総連の一団が主催者の制止を振り切って会場に乱入する。 主催者を小突き回し、備品をひっくり返すなど、乱暴狼籍の限りをはたらいた。 その模様を取材していた報道陣も異常な取材妨害を受けた。 小突かれたり、胸ぐらを掴まれて会場外に放り出される。 あるいは撮影済みのフィルムを奪われ、テレビカメラを壊される。 あまりの熾烈さに、10社以上の新聞社・テレビ局の取材陣も茫然自失、顔面蒼白だった。

結局、会場を暴力的に不法占拠され、予定していた屋内集会はできなかった。 仕方なく会場前の公園に場所を移し、緊急の抗議集会をもった。 日が陰り薄暗くなる7時頃、朝鮮総連の波状攻撃は激しさを増した。 朝鮮総連の蛮行に抗議する2台のハンドマイクは、即座に引きちぎられ、無残に壊された。 北朝鮮民主化を訴えるRENKの横断幕は破られ、奪い去られた。 それどころか、ドサクサまぎれにRENKメンパーのリュックサックを開けて金品を強奪するという、前代未聞の暴挙を働いた。 悲鳴と怒号が渦巻き、大阪城近くの会場周辺は修羅場と化した。 (中略)

ただならぬ事態に驚いた大阪府警は、200名ほどの機動隊員を緊急動員した。 だが、「 時すでに遅し 」。 到着した頃には、現場の混乱状態は、すでに手がつけられなくなっていた。 “体育連盟”を中心にした朝鮮総連の突撃隊は、警察官を押し倒し、警備の壁を突き破って襲いかかる。 私は服を破かれ、髪の毛を引っ張られて、1時間ばかりモミクチャにされた。 仕方なく予定のデモ行進に出発しようとしたが、デモの隊列に朝鮮総連の一団が突撃を繰り返す。

主要な攻撃目標になっている私は結局、機動隊の装甲車に乗せられ、大混乱の現場を「 脱出 」した。 事態収拾のためと、身辺保護のためだった。  …『 頭を下げろ! 』 装甲車に乗った指揮官は私にこう命令する。 朝鮮総連が配置している乗用者の追跡を避けるためだった。 床に伏せながら、言い知れぬ怒りと同時に、1ヵ月ほど前のある出来事が私の脳裏をよぎった。 『 東京の集会は大変だったろう。 名古屋の集会はツブす。 大阪の集会は絶対に開かせない。 事前にツブしてしまう。 』3月3日、場所は、在日韓国・朝鮮人が密集して住む大阪・生野区近くの焼肉レストランだった。 薄笑いを浮かべながら、朝鮮総連の幹部(大阪府本部監査委員長)は、私にそう言い放った。 4月15日の集会を中止するよう、私に強要する席上での暴言である。
(中略)
「 脅迫しない 」との約束だったが、私のグラスにビールを注ぎながら出てくる言葉は、まぎれもなく脅迫だった。
『 4月15日には150人は動員して集会をツブす。 なかには気の荒い者もいるから、どんな事態が起きるか分からないぞ。 5年や6年のムショ暮らしなど平気な若者がゴロゴロいるからな 』
こんな脅迫を自慢気に語る朝鮮総連幹部を目の前にして、「 憤り 」よりも「 哀れ 」を感した。 この一言が、金父子政権‐朝鮮総連の本質を端的に言いあらわしている。

いまどき、民主主義と人権に“一文の値打ち”も見いださない。 むしろ、それを暴力で破壊することに喜びを感ずる。 それで給料を貫っているのだから、「 この世に羨むものはない 」と言うべきなのだろうか。 こんな「 地上の楽園 」の住人による「 自慢話 」はさらに続く。
『 そんなことをすれば、警察の介入を招くし、朝鮮総連の評判も地に落ちることになる。 暴力で歴史の流れは正められませんよ 』
こう忠告する私に監察委員長は平然と答えて言う。
『 少々のことがあっても、日本の新聞は取り上げないし、警察も動かない。 そういうことになってるんだ 』
国会議員とのコネや、定期的なマスコミ人への酒食の提供、さらにはマスコミへの圧力……。 日頃のこんな「 努力 」を指しての発言、自信なのだろう。


いつしか朝鮮総連は、自らを外交待権のある「 大使館 」「 領事館 」と考えるようになった。 一連の蛮行を陰で支えたのは、この「 錯覚 」であり、「 思いあがり 」だった。 実際、93年6月3日のRENK( 救え!北朝鮮の民衆緊急行動ネットワーク )結成集会の翌日、朝鮮総連大阪府本部は、「 組織部 」の名称でこんな「 指令書 」を出した。 「 昨日、<李英和>は、我が首領と共和国をけなすために何やら集会なるものを開き、反共和国宣伝を騒がしく繰り広げた。 これと時を届じくして、毎日新聞は、李英和をそそのかして反共謀略記事を再ぴ掲載した。 <中略>強力な抗議闘争を展開しなければならない 」私への抗議電話の集中と、毎日新聞の不買運動が指令の具体的内容である。 ちなみに「 毎日新聞社に対する抗議活動内容要旨 」と題する公式文書が、大阪府警の強制捜査でも押収されている。 ここまでされても、北朝鮮の人権間題になると、日本の大新聞は完全に腰が引けるようだ。 そんな卑屈な態度が朝鮮総連を勇気づけてきた。 実際、北朝鮮帰国者の問題を訴える集会は、これまで妨害続きだった。
(中略)
4月25日、大阪府警が朝鮮総連大阪府本部など、計8ヵ所を家宅捜索した。 容疑は、RENK集会に対する「 威力業務妨害 」だった。 1955年に朝鮮総連が結成されて以来の出来事である。 朝鮮総連は、証拠隠滅など、事前に何らの「 対策 」も講じていなかった。 あれだけ大暴れしておきながら、不思議な話である。 完全に「 治外法権 」を決め込んでいたのだろう。 おかげで、百枚近くのフロッピーディスクをはじめ、大量の「 証拠品 」を押取されてしまったようだ。 そこには指令書や計画書など、襲撃事件の組織性・計画性を示す証拠が山と含まれていた。

この点についてはのちに触れることになる。 ともかく、真相を一番よく知るのは、朝鮮総連自身のはずだ。 ところが、朝鮮総連は、同事件について、「 無関係 」との立場を取り続けている。 実際、大阪府警と東警察署に対し、1ヵ月近くの間、連日数千人規模の抗議デモをかけた。 北朝鮮外務省( 外交部 )も、すぐさま非難声明を出し、日本政府に謝罪を求めている。 北朝鮮政府−朝鮮総連のキャンぺーンはすさまじかった。 朝鮮労働党と「 友党関孫 」にある社会党( 当時 )の国会議員、親北系の日本の知識人・文化人を根こそぎ動員している。 (中略)

◇ 日本ジャーナリズムの罪と罰

北朝鮮関連書籍はどれも売れている。 日本の庶民にとって、隣人の生活ぶりが大きな関心事となっている証拠である。 しかし、そんな庶民の関心事については、論戦どころか、事実も大新聞で報道されることがめったにない。 いまや最大の謎は、“地上の楽園”の実態から、北朝鮮の民主化・人権問題に対する大マスコミの“奇妙な沈黙”に移りつつある。 報道としての“死を招く沈黙”の埋由は、二つに大別できる。

ひとつは、差別問題と同様、北朝鮮の民主化・人権問題を、大マスコミが基本的に“タブー視”している点にある。 「 何か書くとゴチャゴチャと朝鮮総連がうるさいから……どこの新聞社にも、こういう“リアリスト”の記者がいる。 とくに、取材の第一線から外れたデスクに「 触らぬ神にたたりなし 」の傾向が強い。 実際、朝鮮総連による組織的な抗議活動はすさまじい。 北朝鮮や朝鮮総連に不都合な報道をしたメディアは集中攻撃を浴ぴてきた。 それでも第一線の記者は、勇気をだして記事を上げる。 だが、デスクが「 塩漬け 」にしてしまう。 前述の「 RENK襲撃事件 」では、その傾向が如実に現れた。 同事件に関する新聞各紙の扱いは小さかった。 大阪府警による朝鮮総連大阪府本部への家宅捜素、およぴ同事件への朝鮮総連の組織的で計画的な関与の証拠押収という「 史上初、空前絶後 」の出来事。 これについても同様だった。 もちろん、第一線記者は熱心に取材する。 私への取材も「 夜討ち朝駆け 」状態だった。 ところが、問題の核心に触れる記事はついに出なかった

このあたりの事情を某新聞社の記者はこう語る。
日本の警察が朝鮮総連の事務所を家宅捜索したのは、戦後初めてのことだ。 それだけの大事件だった。 しかし、こんな点がある。 朝鮮総連は日本のマスコミの圧力団体だ。 彼らに不利な記事が出れぱ、巧妙に圧力を掛けてくる。 だから慎重になるほかない。 マスコミが朝鮮総連関連の記事を載せる原則は、必ず朝鮮総連のコメントを受けてから書くということだ。 したがって、朝鮮総連がコメントを拒否すれぱ、記事を書かない場合が多い

同記者は結局、デスクから「 この事件はソフトに扱え 」と注文を付けられた。 十分な証拠を確保して記事化しても、デスクから「 保留 」の指示が下りる。 抗議する同記者に、デスクはこう答えたという。
『 この記事を載せて、数百人の朝鮮総連が会社を取り囲んでデモでもすれば、どうするんだ 』
同記者によれば、当時、どの新聞社も似たようなものだったという。
『 困難は避けて通るのが日本人の特性だ 』と同記者は付け加える。 私は朝鮮人だから、よくわからないし、わかりたくもない。

他方で、かつての冷戦構造、あるいは55年体制の“左側”にいて、いまだに社全主義幻想にすがりつく時代錯誤な編集委員がいる新聞社もある。 VIP待遇で北朝鮮に招待され、行く先々は事前に準備万端のヤラセ視察。 『 北朝鮮は素晴らしい。 街にゴミひとつない。 完成された社会主義だ 』……帰ってきて、こんな“ヨタ話”を平気でしては、若い記者をあきれさせる。 いくら抗議が嫌で怖くても、重要な問題だと考えれば記事化する。 それが大新聞だと私は信じたい

総連に屈する国税・マスコミ・官庁・政治家
「 朝鮮総連工作員 」 張龍雲 1999年 小学館文庫
国税対策で暴れる

1967年、大阪国税局資料調査課は商工会会員の経営する遊技施設全店に対して一斉に税務調査を強行してきた。 この調査は明らかに朝鮮総連つぶしの政治目的を持っていた。 対応をひとつ間違えると、ただちに査察へと移行する、商工会始まって以来の一大事であった。 この事件には朝鮮総連本部が大衆動員をかけ、連日大阪国税局に押し寄せた。 国税局は機動隊に要請を出し、私たちとにらみ合うこととなり、単なる税金問題が在日朝鮮人弾圧という高度な政治問題に発展していったのである。 国税局員たちは、私たちの政治攻勢に色を失った。 彼らはこんな一大事に発展するとは予想していなかったようだった。 そのうえ彼らが朝銀の調査に入ろうとすると、朝銀は調査、その他帳簿類の提出を全部拒否したため、彼らの資料捕捉率は50パーセントにも及ばなかった。 さらに国税調査の対象者たちに緘口令( かんこうれい )を敷き、国税局員が彼らと接触を図ることも私たちが拒否し、あくまで商工会が代理交渉を行うことを譲らなかった。 国税局も、商工会の抵抗がこれほど激しいものとは予測していなかったであろう。

しかし、私たちはこの調査を、生活権を根底から奪い取るもの、と解釈したのである。 金銭問題をはるかに超え、まさに「 生存権確保 」の闘いとなっていた。 闘いは納税を終えるまで約2年間続き、その間私は国税局に合計48回も足を運んだ。 国税局との闘いは徹頭徹尾政治交渉に明け暮れ、在日朝鮮人の歴史的発生原因と差別の現状を強く主張することに終始した。 ここで妥協してしまえば、その後の税務交渉へ重大な影響を残し、ひいては商工会の存亡にかかわる問題だったので、商工会の同胞たちもよく働いた。 その結果、商工会、朝鮮総連の組織の団結力は強化され、私たち活動家たちは強い使命感を会員たちに与えていった。 商工会は以前にましてより強力で、同胞たちに信頼される組織に変貌していったのである。

「 日本外交はなぜ朝鮮半島に弱いのか 」 佐藤勝巳 2002年 草思社/FONT>
日本が暴力に屈した日    ( 灰色文字は注 )

( 上記「 朝鮮総連工作員 」の記述と同時期の話 )
朝銀をめぐって最初のトラブルが起きたのは1967( 昭和42 )年のことである。 東京在住の総聯商工人で、のちに暴力団員に殺された具次龍氏の脱税容疑で、国税当局は氏の取引先である朝銀の前身、同和信用組合( 台東区上野 )に資料の提出をもとめた。 同和信組はこれを拒否した。 国税局は強制捜査をおこなうことにした。 ところが同和信組はシャッターをおろし捜査を実力で阻止した。 国税局は機動隊をともなって、バーナーでシャッターを焼き切り、強制捜査を実施した。 これを契機に総聯は、全国の総聯系在日朝鮮人多住地域の税務署に「 抗議行動 」をかけた。 各地の税務署で業務妨害が発生した。 このとき日本政府は、国家公務員たる税務署員にたいする公務執行妨害でこれを取り締まろうとしなかった。 国税局と具次龍氏との脱税に関する和解は1976( 昭和51 )年に成立した。

その後、先に紹介した国税庁と朝鮮商工会との税金に関する「 合意 」なるものが交わされた。 すなわち社会党の故高沢寅男衆議院議員の部屋で、氏を仲介者として国税庁と朝鮮商工会幹部の話し合いがおこなわれたのである。 「 現代コリア研究所 」はそのときの出席者の名簿をもっている。 この具次龍氏の事件以来、総聯は気に入らないことが起きると行政官庁やマスメディアなどに「 抗議 」という名の「 暴力 」を公然とふるうようになった。 私は1967年の「 抗議行動 」を、第二次世界大戦後、日本が総聯の暴力に届した恥ずべき日と記録している。 ここに紹介したような事例は、いまにいたるまで、あちこちでみられる。 1985( 昭和60 )年12月、関東国税局は東京都北区在住の総聯商工人を脱税容疑で強制捜査した。 すると、関東国税局にはもっとも多い日で1日600名の「 抗議 」が来た。 少ないときで100名である。 国税局の業務は麻痺状態に陥った。 局内では「 上はなにをしているのか。 仕事にならない 」という声がでた。 警視庁からは「 年末の忙しいときに国税はなにをやっているのか 」という不満の声が聞かれたという。

国税局ぱかりではない。 大韓航空機を爆破した金賢姫が、ソウルで初めて記者会見したとき、私はテレビ朝日の夕方の番組に解説者として出演した。 キャスターから「 金賢姫は北の人間ですか 」と問われたので「 間違いないものと思う 」と私は答えた。 その直後からフロアがざわつきはじめた。 放送が終わってフロアにおりると責任者が飛んできて「 先生、大丈夫ですか 」という。
「 なにがですか 」
「 先生の発言にたいして抗議の電話が殺到して、局の電話線がパンクしそうです 」
まもなく私はフジテレビに出演して同様のことを話した。 そのときは総聯の抗議団がテレビ局に来たという。 まだある。 当時私は、日本テレビにもよく出演していた。 あるとき日本テレビの記者が総聯へ取材をしにいくと「 あんな男( つまり私のこと )を使っていると総聯に出入り禁止にする 」といわれたという。 私はそのことを記者から直接聞いた。 あのころは私が出演する番組には抗議の電話を集中してかけていたようだ。 テレビ局は解説者のいっていることの可否ではなく、抗議に対応する煩わしさから、私のようなコメンテーターを敬遠することになる。 かくして総聯は気に入らない人間の発言をテレビ界から追放することができる。 私は公安当局者をはじめいろいろな人から「 身辺に気をつけてください 」といわれた。 これは日本人が総聯の直接間接の「 暴力 」をいかに怖がっているかの証拠である。 だが、総聯を支持する在日朝鮮人はいまや赤ん坊も含めて十万人いない。 日本人の人口は一億二千万だ。 いつまでも総聯を怖がっていれば、「 暴力 」をちらつかせることによって、十万人が一億二千万人の言論を支配できるということになる。 これは日本にとってきわめて深刻な問題ではないか。

卑屈な態度はどこからくるのか

日本のマスメディアの韓国・北朝鮮、あるいは在日韓国人・朝鮮人に関する報道をみていると、じつに奇異な印象を受ける。 とくにテレビのキャスターなど、北朝鮮の報道になると腫れものにでも触るように、おそるおそる緊張して話しているのがよくわかる。 北朝鮮のあとにつづけて「 朝鮮民主主義人民共和国 」と必ずいうし、書く。 公共の電波を使って北朝鮮のみをフルネームで呼んでいる。 それならどうして韓国を「 大韓民国 」、中国を「 中華人民共和国 」、米国を「 アメリカ合衆国 」といわないのか。 書かないのか。 おそらく放送原稿を書いている人たちも変だと思っているにちがいない。 あるいはまた、自国民を拉致した金正日政権にコメを118万トンも無償援助し、四半世紀たつというのに拉致された人たちの生死さえも掴めないでいる。 こんな国など、地球上にひとつもないのではなかろうか。 韓国にたいする過去の植民地支配の後始末は、1965( 昭和40 )年、日韓基本条約および諸協定で解決している。 そのときから30年以上もたっているのに、なおも謝罪だ、補償だ、はたまた教科書の中身がけしからんといい、日本の首相が靖国神社に参拝するのは軍国主義の復活だとクレームをつける。 それにたいしてわが国政府は毅然たる態度でのぞむのではなく、首相がソウルや北京に釈明に赴く。 このあまりにも卑屈な態度はいったいなにに由来するのか。 心ある国民の不満はいまや極限状況に達している。 この章ではその原因について考えてみる。

総聯の抗議が怖い

卑屈にならざるをえないひとつの理由は、総聯からの「 抗議 」という暴力が怖いから、または鬱陶しいから、ということがある。 それはまた、日本がいかに暴力に弱いかということの証明でもある。 1980年代末ごろのことである。 外務省アジア局は北朝鮮に抑留されている「 第18富士山丸 」釈放のために頭を悩ませていた。 当時、審議官だった元駐中国大使の谷野作太郎氏から「 なにかよい解決策はないだろうか 」と問われた私は、こう答えた。 「 簡単です。 『 第18富士山丸 』を返さないなら、北朝鮮を訪問する在日朝鮮人に再入国許可をださないといえば、すぐに解決すると思います 」在日外国人が日本国外に出国するのは自由であるが、ふたたび日本に戻る場合は、事前に法務大臣の入国許可を必要とするのである。 谷野審議官はこれを聞いて「 朝鮮総聯が抗議に来ませんか 」といった。 「 来ると思います。 しかし向こうが『 人権侵害だ 』といったら、『 第18富士山丸の日本人にも人権がある。 みなさんが北朝鮮を訪問したいなら、北朝鮮政府に第18富士山丸を釈放するよう要請してください 』といったらいいでしょう 」
「 デモが来るでしょうね。 外務大臣や首相がデモに耐えられるかどうか…… 」審議官は語尾を濁した。 このやりとりをわかりやすくいえば、デモが怖いから人質をとり返すための制裁措置がとれないということである

第2章で、関東国税局が総聯商工人を脱税容疑で強制捜査したとき、総聯の抗議団が関東国税局に押しよせたことを書いた。 その直後、私は所用があって法務省入国管理局の幹部と会った。 用件がすんだあと私は、この一件にたいする国税当局と警察の弱腰ぷりを批判した。 「 行政官庁はみな総聯を怖がっている。 強い姿勢でのぞめといっても無埋ですよ 」幹部はそういって、私の意見に賛同しなかった。 前にも述べたが、総聯が自分たちの気に人らないことを書く報道機関に抗議に行くことは広く知られた事実である。 朝銀幹部の逮捕報道にたいして、いまだに『 朝日新聞 』に抗議に行っていると聞く。 こうして、1社でも抗議を受けると、他の報道機関まで自己規制をはじめる。 たとえば北朝鮮に批判的な人間に原稿を依頼するさい、「 刺激的な表現は避けてください 」とつけ加えるといったことになる。

私自身の体験を書く。 大韓航空機爆破事件についての私のコメントにたいしてテレビ局に抗議が殺到したことはすでに述べた。 総聯は私を過大評価しているとしか思えないのだが、端的にいって民放テレビ局は視聴率を稼ぐのが第一で、ことの是非は二の次だ。 スポンサーの意向も大きいだろう。 ましてや電話がパンク寸前ともなれば、本来の仕事ができない。 社員の身の安全だって心配だ。 となるとテレビ局は、私のように物議をかもす人間は敬遠し、「 毒にも薬にもならない 」大学教授を使うことになる。 かくして自分の気に入らない者を、多大な影響力をもつテレビで発言させない、という総聯の目的は達成されるわけである。
マスコミの本質を端的に著していますネ。

「 わが朝鮮総連の罪と罰 」 韓光煕著 野村旗守取材構成 2002年 文藝春秋
(著者の韓光煕氏は元朝鮮総連中央本部財政局副局長 )

少年が高校3年の秋、事件が起きた。 宇都宮のデパートでたしか「 アメリカインディアン民芸品展 」というような催しがあった。 銀製の装飾品や刺繍などを中心にした展覧会だったが、そのなかでもひときわ豪奢な銀の首飾りが、展覧会の途中で忽然とどこかへ消えたのだ。 疑われたのが、展覧会にやってきてその首飾りにしきりに興味を示した金少年だったというわけだ。 少年の母親から県本部に電話があったのは、午前中だった。 前日の夕方、警察が家に来て、金を引っぱっていったまま帰してくれないという。 すわ一大事と、私と梁俊沢は警察に顔の利く鄭という商工人に電話して応援を頼み、市内の警察署に駆けつけた。 午前10時か11時くらいであったと思う。 受付の女性警官が「 別室へどうぞ 」と言うのを振り切り、
「 いますぐここへ署長を呼べ! 」と、まず梁が一喝した。
あいにく、署長は留守とかで、課長だか誰だかが出てきたが、私たちは衆人環視のなか、相手に口を挟む余地を与えないほどの勢いで矢継ぎ早にまくし立てた。
「 少年がやったという証拠でもあるのか! 」
「 目撃者はいるのか! 」
「 朝鮮人だというだけで犯人扱いか! 」
「 民族差別だ! 」
私たちは全員で激しく机を叩いて喚き散らした。 そこにいた全員が呆気にとられてこちらを見ている。 これは我々朝鮮総連の悪い癖である。 日本の当局と交渉するにあたっては、何かにつけて「 民族差別 」だの「 過去の歴史 」だのを持ち出してことさら猛々しく振る舞い、理不尽な要求でものませようとする。 そうすると、敗戦によって贖罪意識を植えつけられている日本人は決まっておとなしくなってしまうのだ。 この方法はたいていうまくいった。 しかしこのときに関して言えば、事実、金少年は冤罪であった。 その日の午後、宇都宮駅のトイレから紛失したはずの銀の首飾りが出てきた。

朝鮮総連関係者が告発メール!
チマチョゴリ事件は我々の自作自演だ
26日、東日本地方在住の朝鮮総連関係者を名乗る呉永達( 仮名 )氏 から、衝撃のメールが届いた。
呉氏は、マスコミの反北報道に間接的原因があるとされた言われた「 チマ・チョゴリ事件 」が、すべて「 自作自演だった 」と書き、どのようにして行われたかを詳しく述べている。
メールの掲載は、呉氏の了解のもと、いかなる第三者にも氏名・住所等、身分や地位にかかわることを一切公表せず、匿名とする( 呉逹 )住所をぼかす( 東日本地方 )、謝礼はいらない、ことを条件に掲載させていただいた。 なお、呉氏の身元に危険が及ばないよう、まるごと文章を削除した個所がある。 呉氏には前もってこの原稿の文書をメール送信し、許諾していただいたことを読者の方々にご了承いただく。 以下は、呉氏の手記である。
新亜出版社 貴中

貴下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。 私は、総連の内幕をマスコミに流している者であります。 何卒、編集部様が参考にされますようお願い申し上げます。

反共和国的な番組がテレビで流れた場合、総連では威信をかけて、徹底的な抗議攻勢をしている。 上から、全国の総連道府県本支部のトップに連絡が行き、各本支部は、電話連絡網によって、関係者、友好連帯組織のすべての関係者にテレビ局へ抗議電話を一斉にかけるように仕向けている。 電話をパンク寸前に追い込み、「 傷つけられた 」「 不愉快だ 」「 日本は昔こんなに悪いことをした 」「 関東大震災のデマで殺された 」「 罪の意識はないのか 」「 謝罪せよ 」「 訂正せよ 」と続けて抗議する。 前は「 殺す 」「 許さない 」「 スタッフの皆さんはお体にご注意 」とやっていたが、警察が「 脅迫罪・強要罪 」とほざいたので、最近の戦術は、かつての経験に基き、我々がどれだけ被害者ぶりを演出し、泣き喚いたりして同情を呼ぶか、である。

新聞社の場合は、雑誌が発売されてからすぐに行動を起こさず、中央で検討し、決定に基づいて道府県本部単位、支部単位に働きかけを行い、集団で抗議におしかけ、総連傘下職員を総動員して、新聞社なら本支社・通信部まで、同時多発的ゲリラ戦法( これをパルチザン戦法と呼ぶ )で圧力をかけて、真実に基づいた共和国記事を無理矢理、「 まちがいでした 」と言わせて謝罪させる。 内容を全面的、3分の2以上、部分的に撤回させねばならない。 「 我々は被害者だ 」「 謝罪せよ 」。 この言葉に、日本人たちは、知識人であればあるほど、謙虚な態度になってくれる。 他の利権を漁る時にも効果的で、我々が「 被害者 」であることを強調する戦法は、全国の総連本支部単位の常套手段になっている。 報道の「 デマ 」によって、これだけの同胞がひどい目に遭っていますよ、を強調するため、自作自演の被害者をつくり、あたかも日本人が再びわが民族に危害を加えたように捏造し、マスコミに報道さす。 自作自演のためには、被害者役( 子供は特に世間の同情を呼ぶ )とよごれ役( 我々が金を払って雇う )を決めて、できるだけ人々に注目されやすい目立った場所( 警察関係者がいない場所 )で実行する。 よごれ者役は裏おもてを知っているが、被害者の少女や家族は何も知らない。 日本人がやったと思い、わが総連の団結力は強固なものになる。 日本人がチマ・チョゴリを切りつけるわけがない。 日本人は過去のことに弱い。 我々はそこにつけこむ。 相手より多い人数で集団抗議すれば、誰だって圧倒される。 総連で真相を知っているのはごくわずかだ。 離脱した者さえ本当のことを言えない。 鳥越俊太郎など、テレビでしきりに「 チマチョゴリ事件の再発防止 」を訴えて反共和国番組の解説をしているが、正真正銘のバカと笑われている。

( 了 )

1998年6月3日 呉 永達 拝

朝鮮総連と報道マスコミが密接な関係であることを窺わせる記事。
NHK・民放キー局の報道局長が揃って金正日を祝福。
東京で金正日総書記推戴の祝賀宴/30カ国700人が参加(朝鮮新報1997.10.28)
 金正日総書記推戴の祝賀宴が23日、東京・千代田区の朝鮮会館で行われ、在日同胞、日本各界人士、駐日大使をはじめ各国の大使館員ら700余人が参加し、許宗萬責任副議長が祝賀の挨拶をした。

    ◇   ◇

 祝賀宴には、総聯中央の韓徳銖議長と許宗萬責任副議長、朴在魯副議長兼朝鮮新報社会長、徐萬述、権淳徽、崔秉祚、呉亨鎮、金守埴副議長、「秉斗副議長兼総聯東京都本部委員長、李沂碩事務総局長をはじめ、各局長、関東地方の総聯本部委員長、中央団体、事業体の責任活動家らと同胞商工人らが参加した。

 中国、ベトナムの大使をはじめ、キューバ、カンボジア、ロシア、タイ、インドネシア、マレーシア、英国など30カ国の駐日大使館員らと、米国、英国、フランス、オーストラリアなど各国の駐日特派員らも参加した。

 また、自民党、社民党、新党さきがけ、新進党、民主党、新社会党など各政党代表と国会議員をはじめ日本の政界、経済界、言論界などの著名な人士と日朝連帯組織と親善友好団体の代表らが参加し、金正日総書記推戴を祝う雰囲気に包まれた。

 許宗萬責任副議長が祝賀の挨拶をし、在日同胞は、祖国の人民とともに金正日総書記の推戴という新しい歴史的時代を迎え、大きな感激と喜びにわきたち、未来に対する確信に満ちあふれていると述べた。 また、新しい時代を迎え、共和国の対外関係においても、新たな局面が開かれ、朝・日関係も両国人民の指向と念願にそって改善されるだろうとしながら、今後も引き続き朝鮮総聯と在日同胞の愛国活動に支持と声援を送ってくれるよう求めた。

 祝賀宴に参加した主な日本の各界人士は次の通り。

 土井たか子・社民党党首、伊藤茂・社民党幹事長、野中広務・自民党幹事長代理、中山太郎・自民党外交調査会会長、林義郎・元蔵相、堂本暁子・新党さきがけ議員団座長、鳩山由紀夫・民主党幹事長、石井一・新進党幹事長代理、久保亘・民主改革連合最高顧問、矢田部理・新社会党委員長、谷洋一、久野統一郎、馳浩、上原康助、大脇雅子、田英夫、清水澄子、中西績介、海江田万里、大畠章宏、肥田美代子、金田誠一、山元勉、梶原敬義、伊東忠治、山崎力、鈴木正孝、坂上富男、武田邦太郎、細川律夫、常田享詳の諸氏をはじめとする国会議員、鈴木二郎・日朝国交正常化促進国民フォーラム代表委員、三潴信邦・筑波大学名誉教授、前田哲男・東京国際大学教授、森田三男・創価大学教授、田辺誠・「 AFM 」代表、津和慶子・日本婦人会議議長、尾上健一・チュチェ思想国際研究所事務局長、若林X・朝鮮統一支持日本委員会事務局長、竪山利文・元連合会長、多々良純・日朝文化交流協会副理事長、花輪不二男・チュチェ思想研究会全国連絡協議会事務局長、中小路清雄・日朝学術教育交流協会会長、近藤龍夫・朝日イブニングニュース社長、滋野武・NHK報道局長、石川一彦・日本テレビ報道局長、三辺吉彦・TBS報道局長、早川洋・テレビ朝日報道局長、渡辺一彦・テレビ東京報道局長( 順不同 )

朝鮮総連の顔色をうかがう大マスコミ。 朝銀破綻問題・不正送金・政治献金疑惑すべて闇の中‥‥‥‥‥


外国の手先となったマスコミ・政治家の実例
国際派日本人養成講座 平成10年6月20日 2,681部発行
■目次■
1.中国の友人
2.一人だけ北京に残った朝日特派員
3.「 歴史の証人 」は何を報道したか
4.「 中国の友人 」による社内検閲
5.国外追放への対応方法
6.女性工作員疑惑

1.中国の友人

 中国はその数千年の動乱の歴史を通じて、我々日本人には想像もできないような凄まじい外交術を発達させてきた。 その一つに、国際社会で「 中国の友人 」と呼ばれているものがある。

 たとえば、中国がある国の将来性ある政治家なり、ジャーナリストなりに−仮にA氏と呼ぼう−狙いをつけたとする。 A氏は中国に招待され、VIPとして「 熱烈歓迎 」を受ける。 鼻高々で帰国したA氏は、以後、「 何か中国に頼みたいことがあったら、自分に任せなさい、私には中国政府要人との太いパイプがあるから 」、と触れ回る。 実際にいくつかそういう実績を上げると、A氏は中国とのコネをバックに出世していく。

 A氏が実力者となると、今度は中国の方がいろいろ要求を出してくる。 経済援助を増やして欲しい、とか、反台湾政策をとれ、等々である。 A氏は自分の地位を守るためには、中国の意向に従わざるをえなくなる。

 マスコミでの「 中国の友人 」の実例に登場願おう。 朝日新聞の秋岡家栄記者である。

2.一人だけ北京に残った朝日特派員

 昭和40年に日中交換記者協定が実現し、朝日、毎日、読売、産経など9社が北京に特派員を派遣した。 翌41年11月、文化大革命が勃発すると、漢字の読める日本人記者団は壁新聞から情報を得て大活躍をした。 中国政府はこれを「 外国反動分子による反中国宣伝 」と非難し、日本人特派員を次々と追放し始めた。

 たとえば、42年9月には、毎日や産経が毛沢東の顔写真代わりに似顔絵を使った事を理由に追放され、43年6月には日経の鮫島特派員がスパイ容疑で逮捕・拘留される、という具合である。 こうして45年9月には、北京に残るのは、朝日の秋岡特派員だけになってしまった。

 毎日、産経が追放された時、9社で抗議と追放理由の詳細な説明を求める共同声明を出そうということになったが、朝日新聞が脱退までちらつかせて強硬に反対した。 [*1,p34]

 当時の朝日新聞社の広岡社長は、「 中国文化大革命という歴史の証人として、わが社だけでも踏みとどまるべきである。 そのためには向こうのディメリットな部分が多少あっても目をつぶって、メリットのある部分を書くこともやむを得ない 」という趣旨の発言を社内でもしていたと伝えられている。 [*1,p64]

3.「 歴史の証人 」は何を報道したか

 「 歴史の証人 」として北京に一人残った秋岡特派員はどのような報道をしたか。

 46年、中国共産党副主席林彪は、クーデターを計画し、毛沢東主席が上海から北京に帰る列車を爆破しようとした。 しかしこれが事前に露見し、9月12日、北戴空港からソ連に国外脱出を図ったが、モンゴルで搭乗機が墜落し、全員死亡した。 中国当局はこれをひた隠しにした。 [*2,p179]

 秋岡特派員は、11月中旬に、ある筋から事件の実際を教えられたが、「 絶対に口外しない 」という約束をさせられたため、いっさい記事を書こうともせず、本社にすらこの情報を送らなかった。 [*1,p69]

 しかし、10月1日の国慶節パレードが当然中止され、人民日報にも、林彪の名が現れなくなったので、何か重大な政変があったのではないか、との観測が世界中にひろまった。 産経は11月2日付け外報トップで、「 ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因 」という記事を掲載した。 [*2,p180]

 秋岡特派員は、パレードが中止になったのは、「 新しい祝賀形式に変わったのではないか 」(46.9.27)と述べ、林彪失脚のうわさにも「 しかし、これだけの事実をもって党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い 」(46.12.4)と報じた。 さらに翌年2月10日には、一面トップで「 林氏 失脚後も健在 」 とまで報道している。

 中国政府が林彪事件の真相を公にしたのは、7月末に訪中したフランスの外相らに毛沢東が直接語ったのが最初である。 秋岡特派員はようやく8月1日付け朝刊で、「 これが林彪事件の真相 」と発表した。 見事な中国政府のスポークスマンぶりであった。 朝日のみ北京特派員を残した成果は、産経より遅れること8ヶ月も林彪事件の真相が意図的に読者に伏せられたということであった。

4.「 中国の友人 」による社内検閲

 帰国した秋岡記者は、広岡社長の威光と、中国とのコネをバックに、さらに本格的な「 活躍 」を続ける。

 昭和48年4月に、「 文革( 文化大革命 )で失脚したケ小平が、副総理として復活した 」というニュースが世界を駆けめぐった。 週刊朝日編集部では、これを文革の重大な転回点ではないか、と考え、中国問題の専門家中嶋嶺雄氏らの対談記事を4月28日号に掲載した。 中嶋氏は早い段階から、文革を中国政府内の権力闘争であると喝破していた人物である。

 帰国早々にこの記事を見た見た秋岡氏は、編集部にこう言った。

 この記事の内容が正しいかどうかは問わない。 ただこのなかにある中嶋・竹内対談の『 ケ小平復権は脱文章の象徴か 』とのタイトルを見れば、中国側は激怒してわが社の特派員を追放する強硬措置に出る恐れがある。

 この前、朝日ジャーナルが問題になったときも、北京の新聞司の担当者は件の号を私の目の前で机に叩きつけた。 中国は文革報道に極めて神経を尖らせているから、今度の週刊朝日の記事にも黙ってはいないだろう。 何とか善後処置を取る必要がある。

 編集部がなかなか折れないと知るや、秋岡氏は編集長を別の場所に呼びだして、「 今のような事をやっていると、編集長の地位も危なくなるぞ 」と露骨に脅かした。 [*1,p42]

 中嶋氏はその鋭い文革分析で、中国側に睨まれており、氏を登場させた事自体が問題にされたようだ。 事件は結局、秋岡氏を通じて、中国代表部に遺憾の意を表明する事で決着した模様である。

 当時は、中国代表部の意向を代弁していると自称する、いわゆる「 秋岡感触 」という不文律が罷り通っていて、中国代表部の意向が直接秋岡氏に伝わり、朝日新聞社がそれに従うという風潮が生まれていたことは間違いない。 [*1,p45]

 中国代表部は、こうして日本国内で数百万人が読む新聞に内部から検閲を加えていたわけである。 その恐るべき政略には脱帽せざるをえない。

 こうして、後に胡耀邦党総書記が、「 死者2千万 」と総括した文革の実態は我が国にはほとんど知らされなく、ムード的な親中国意識が我が国を支配してきたのである。 [*3,p220] 突出した対中政府援助もこの成果の一つであろう。 [4]

5.国外追放への対応方法

 外国の特派員を、国外追放で脅すというのはソ連もよく使った手である。 昭和42年から、5年間、朝日新聞のモスクワ特派員だった木村明生氏は、冷静で客観的な報道ぶりから、ついには在日ソ連大使館のブロンニコフ一等書記官( 実はKGB中佐 )が、しばしば朝日新聞を訪れ、「 木村の送ってくる記事は反ソ的だ。 朝日新聞が自ら更迭しないなら国外追放の処置をとる 」と恫喝した。

 木村氏がモスクワに着任する前、外務省からは、「 もしソ連当局から国外追放処分を受けるようなことをがあれば、報復としてプラウダ特派員を追放するから、しっかりやって下さい 」とまで言われていたのだが、朝日新聞は社内人事の形で、木村氏を更迭処理したため、外務省としても打つ手がなくなってしまった。

 帰国した木村氏は閑職に追いやられ、以後10年間、朝日新聞紙上には1行の記事も書かせてもらえなかったという。 [*1,p213]

 朝日とは対照的な態度を示したのが、ロンドン・タイムズであった。 ソ連の反体制運動内に強力な情報源を持ち、数々の特ダネをものしたボナビア特派員が国外追放されると、社長自らロンドンの空者も派遣せず、半年後にはソ連の方から頭を下げて、特派員派遣を要請した。 [*1,p214]

 朝日の態度は中国の場合と同じだが、さすがに権謀術数、数千年の歴史を持つ中国のやり方は、ソ連とは格が違う。 ソ連は「 反ソ 」 記事を書く記者を追放しただけだが、中国は「 親中 」記事を書き、社内検閲までしてくれる「 友人 」を確保しているのである。

6.女性工作員疑惑

 最近、橋本首相が中国女性工作員と交際があったという疑いが表面化し、国会でも西村慎吾議員が問いただした。 月刊誌「 諸君 」は、相手の女性は日本から無償の援助を引き出す任務を与えられた中国の厚生官僚であり、実際に彼女の工作によって中国に病院を建設する目的で26億円のODAが拠出された、との疑惑を報道している。 [*5]

 女性を使って外国の要人をコントロールするのは、これまた権謀術数の定石で、昭和38年には、イギリスのプロヒューモ陸軍大臣の関係したコールガールがソ連大使館幹部とのつながりがあったことが分かり、辞任。 西ドイツのブラント首相も、個人秘書が東側のスパイだとスクープされて辞任している。 いづれも、どのような実害があったかは関係なく、その疑いを持たれただけで、辞任している。 この手の工作員から自国の国益を守るためには、疑いがあっただけで、当の政治家を辞任させるというのが、国際常識である。

 クリントン大統領の女性スキャンダルには大きな紙面をさく日本の新聞各紙は、産経を除いて、この件については、不思議な沈黙を続けたままである。 日本政府からマスコミ各社まで、「 中国の友人 」があちこちで暗躍しているのだろうか。

*1朝日新聞血風録、稲垣武、文春文庫、平成8年
朝日新聞の中で、身を持って偏向報道と戦った著者の感動的な生き様。
*2朝日新聞の「 戦後 」責任、片岡正巳、展転社、平成10年
*3「 悪魔祓い 」の戦後史、稲垣武、文春文庫、平成9年
*4JOG(4) 中国の軍事力増強に貢献する日本の経済援助
*5諸君、平成10年6月号、7月号