大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
北朝鮮帰国事業の実態


北朝鮮を母国とする朝鮮総連の人達は、朝鮮半島の北部出身者だと勘違いしてはいませんか? 
実はほとんどの人が南部出身なのです。 貧困にあえぐ多くの人が、韓国政府による事実上の棄民政策と、左翼勢力の大量宣伝に乗せられて北朝鮮へ帰国していきました。
しかし北朝鮮の実態が「 地上の楽園」から「 この世の地獄」と明らかになっても、北を支持し続けざるをえませんでした。 ここに、この問題の複雑な所があります。
また、彼らの帰国( 日本人もいた )に少なからぬ影響を与えた日本のマスコミ・進歩的文化人は、世の指弾を受けねばならない時がいつか来ることでしょう。

在日コリアン1世のほとんどが朝鮮半島南部出身者で、北朝鮮支持者といえども朝鮮半島南部出身者である。
朝日新聞 2000年8月2日
 在日本朝鮮人総連合会( 朝鮮総聯 )は1日、記者会見を開き南北朝鮮閣僚級会議で合意された「 総連会員の在日朝鮮人の韓国訪問推進 」に歓迎を表し、今月15日の「 光復節 」にも訪問を実現することを目指して準備をはじめたことを明らかにした。 徐萬述・総連中央常任委第一副議長が会見し、
「 在日同胞の98パーセント以上が南出身者で、故郷への帰還や肉親との再会を果たせずにいた。 合意は南北会談の輝かしい結実。 みな感激と昂奮に包まれている 」
と合意を歓迎した。 また、会員から訪問の希望が殺到しており、可能なら、祖国解放記念日の8月15日に最初の訪問を実現するために準備に入ったことを明らかにした。


北朝鮮帰国事業の実態

朝鮮総連が鳴り物入りで展開した帰国事業。 『 教育も医療も無料の社会主義祖国 』『 地上の楽園・共和国 』とのうたい文句を額面どおりに信じて、九万数千人の在日朝鮮人( 日本人妻を含む )が北に帰った。


( 1 )北へ渡った南出身の貧しい人たち
「 朝鮮総連と収容所共和国 」 李英和 1999年 小学館文庫
 終戦当時、日本には二百数十万人以上の在日朝鮮人がいた。 そのほとんどは、終戦直後の引き揚げ事業や自力渡航で朝鮮半鳥に続々と帰還して行った。 遅い時期に日本に渡って来た者、あるいは強制連行で無理やり連れて来られた者。 これらの朝鮮人ほど帰国を急いだ。 地縁・血緑など祖国とのつながりが強く残っていたからである。 比較的早い時期の渡航朝鮮入は引き揚げようにも、祖国にはすでに住居もなければ、耕す田畑もなかった。 頼りにすべき親類縁者とは、長い年月の間にすっかり関係が希薄になっていた。 私の祖父母の場合は、後者のケースに該当する。

 おまけに大半の朝鮮人の故郷である韓国でコレラが大発生したり、米軍の軍政下で社会混乱が起きた。 さらに朝鮮戦争( 50〜53年 )の勃発が、帰るべき祖国を灰燼に帰してしまう。 様子眺めをしたり、帰るに帰れなくなった朝鮮人が日本に多数とどまった。 この60万人ほどが、現在の在日韓国・朝鮮人の基数となる。

 ところが、終戦から14年経った頃に突然、第二の引き揚げブームが起きた。 1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。 日・朝両国の赤十宇社の協定( 59年8月13日調印 )によるものだった。 一般に「 帰国事業 」と呼ばれるものである。 以後、3年問の中断期( 68〜70年 )をはさんで、84年までに果計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。 その中には、日本人配偶者とその子供も含まれる。 当時の日本は、いまと違って、父系血統主義を採っていた。 その国籍法によれば、厳密な意味での日本人は約6600人だった。 その内「 日本人妻 」と称される人たちが約1800人いる。 数は少ないが「 日本人夫 」もいた。

 この「 帰国事業 」は、いまから考えてみると、奇妙なものだった。 在日朝鮮人は、その98パーセントが「 南半分 」、つまり今の韓国出身である。 だから、厳密にいえば、北朝鮮は故郷ではない。 守るべき祖先の墓もなければ、頼るべき親類縁者もほとんどいない、「 異郷の地 」だった。 だのに、この人たちは北朝鮮へと「 帰った 」そのせいもあってか、韓国政府は、「 帰国事業 」という用語を使わない。 「 北送事業 」と呼んでいる。 「 帰国者 」も「 北送者 」と称する。 ともかく、歴史上でも稀に見る性格の「 大量移住 」だったことだけはまちがいない。

 それだけに、その背景や動機には、複雑なものがある。 この点で、帰国事業は大きくふたつの時期に区分できる。
68〜70年の中断期をはさんで、ちょうど前期と後期にわかれる。 大半は前期の帰国事業で「 北 」に渡った。 その帰国者たちの背景と動機は、次の三点に尽きる。 ( 1 )日本での生活難と将来への不安、( 2 )韓国政府による事実上の「 棄民政策 」、そしてなにより( 3 )北朝鮮政府による荒唐無稽な「 地上の楽園 」宣伝だった。 帰国者の動機は単純だった。 同時に、その単純さは、重苦しい現実を反映している。

 まっさきに挙げられるべき理由は「 貧困 」である。 高度経済成長の恩恵にあずかるまで、在日朝鮮人の生活は困窮をきわめた。 たしかに、1950年代は、日本人もそれはど豊かでなかった。 だが、在日朝鮮人の場合、差別が貧困にいっそう拍車をかけていた。 なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇用差別だった。 大手企業への就職などは夢のまた夢。 中小零細企業でも、正規採用ははとんど望めなかった。 パチンコ屋や飲食業の店員、臨時雇いの工員、そして日雇い労働者といったところだった。 おかげで、貧困にあえぐ世帯が多かった。 このあたりの事情は、被差別部落の場合と似通っている。 だが、在日朝鮮人は外国人だという点が決定的に違った。 法制度による差別を受けることになるからだ。
( 中略 )
 これで「 貧乏をするな 」と言うほうが無理というものだろう。 おかげで、在日朝鮮人の生活保護率も高かった。 私が生まれた54年末の数字を見てみよう。 当時、生活保護を受ける在日朝鮮人は約13万人だった。 実に、朝鮮人全体の約23パーセントにのぼる。 日本人の場合は2パーセントだった。

( 2 ) 左翼陣営が煽った北朝鮮帰国事業
「 朝鮮総連と収容所共和国 」 李英和 1999年 小学館文庫
 当時の日本共産党は、武装闘争のせいで、支待者を大きく失っていた。 そんな共産党にとって、元党員を含む在日朝鮮人の存在は大きかった。 家の軒先に選挙用のポスターを貼るにも在日朝鮮人はこころよく応じた。 共産党と労働党・朝鮮総連との友好協力関係は、77年頃まで続く。 日本政府は、治安維待の観点から、この左傾化した在日朝鮮人運動を嫌った。 そんなときに、北朝鮮政府と朝鮮総連の主導によって帰国事業が始められた。 日本政府にとって、「 渡りに船 」の出来事だった。 「 厄介者払い 」ができるからである。 帰国事業に対する日本政府の積極的姿勢。 そこには、こんな経済的、政治的な思惑が込められていた。

 なお、この積極的姿勢を指して、日本政府による「 民族浄化 」政策だった、と主張するむきもある。 だから、帰国者の悲惨な運命に日本政府と日本赤十字社が相応の責任を負うべきだという。 こんな奇論を、帰国事業を担当した朝鮮総連の元幹部が待ち出した。 韓国の一部言論機関も、さも大発見であるかのように、これを書き立てた。 見当違いもはなはだしい。 たしかに、帰国者が向かったのは「 南 」でなく、「 北 」だった。 日本政府も費用面で援助をした。

 だが、韓国政府が棄民政策をとらず、民団が帰国事業を実施していたら……。 日本政府は同じように援助しただろう。 行く先が「 南 」であれ「 北 」であれ、日本政府にとっては、どちらでもよかったからだ。 何でもかんでも日本政府のせいにすれぱよい、というものではない。 これを聞いて誰より驚くのは、北朝鮮当局であり、朝鮮総連だろう。 帰国事業は、北朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。 日本政府は何らの強制措置も採らなかった。 日本赤十字社は、帰国希望者に対し、「 自由意思 」によるものかどうかをチェックした。 韓国政府と民団が、帰国事業の実施に反対し、「 人道に反する 」と抗議活動を行っていたからだ。 このことに疑いをはさむ余地はない。

 実際、「 帰国要求運動 」はすさまじかった。 「 熱病 」のような勢いで日本全土の在日朝鮮人を覆った。 「 帰国熱 」の伝播は、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、用意周到に練リあげられたものだった.。 まずは、13回目の祖国解放記念日( 58年8月15日 )に合わせ、神奈川県で朝鮮総連が帰国希望の手紙を金日成首相( 当時 )に送った。 同県は韓徳銖( ハンドクス )議長のお膝元だった。 これを受けて、金日成は高らかに歓迎演説をする。 58年9月9日、10回目の北朝鮮建国記念日のことだ。 演説内容は、帰国の援助と帰国後の生活保障だった。 これで帰国熱に一気に火がついた。 帰国の早期実現を求める集会が、全国各地で開催される。 その回数は二千回以上にのぼった。

 北朝鮮の楽園ぶりを紹介する宣伝物が、在日朝鮮人家庭に洪水のように配られる。 地方自治体への請願活動も活発に行われた。 早期実現を求める自治体決議が続々と採択される。 その数は、46の都道府県、290の市区町村に及んだ。 日本の左翼・進歩的知識人やマスコミも、率先して帰国運動の援護射撃を引き受けた。 なかでも有名なのが、寺尾五郎氏の北朝鮮訪問記( 『 38度線の北 』新日本出版社 )である。 紙の銃口からは、「 人道主義 」と「 社会主義賛美 」の銃弾が、雨あられと撃ち出された。 北朝鮮政府は素早く、日本政府との交渉をまとめた。 熱病が冷め、集団催眠が醒めてしまわないうちに、トボリスク号とクリリオン号のソ連船二隻を配船した。 1959年12月14日、凍てつくような冬の日である。
( 中略 )
 背中を押されるようにして、約10万人が永住帰国した。 また、在日朝鮮人の家族として6000人余りの日本人も船上の人となった。 ところが、帰国者を待ち受けていた運命は… 「 温かい歓迎 」どころか、祖国の「 ひろい懐 」で、労働党と現地住民の“狭い心”にさいなまれた。 差別と監視の“洗礼”を受け、密告と粛清の対象とされた。 日本での朝鮮人差別から逃れたい。 日本では発揮できない知識や技術を祖国に役立てたい。 そんな純粋で崇高な思いは、完全に裏切られた。 帰国者の夢と希望は、北朝鮮当局の空約束によって、ものの見事に打ち砕かれる。 実態は、国家ぐるみの大々的な「 詐欺事件 」であり、「 殺人事件 」だった。 帰国者の居住地と職場は、労働党によって一方的に決定された。 本人の経験や能力、夢や希望とは、まったく無関係だった。

 また、「 日本出身者 」という埋由で、労働党への入党は難しかった。 70年代までは、庶民にとって党員への近道である人民軍への入隊も拒否された。 信用ならない連中だから、というわけだろう。 もっとも元日本共産党員は別扱いだったようだ。 党員証を持っていれぱ、自動的に労働党員になれた。 だが、元日本共産党員であることが、のちにかえって災いを招く結果となった。 粛清時に、“宗派分子”の汚名を着せる格好の口実とされたからだ。

 必然的に帰国者の生活は苦しくなる。 売り食いに次ぐ売り食いの末、とうとう日本からの“仕送り”で生き廷びるしかなくなった。 ほとんどの者は「 生き甲斐 」を失い、その日その日を、ただ生きるだけとなった。 もちろん、例外もいる。 一握りの朝鮮総連の大幹部の肉親がそうだ。 留学中、私はそんな人物に出全ったことがある。 朝鮮総連の韓徳銖議長の甥っ子だった。 彼は破格の待遇を受けていた。 私の留学先の社会科学院に勤める研究者だった。 だが、仕事もしなければ、勤務先にもほとんど顔を出さない。 それでいて、一般の帰国者とはかけ離れた生活ぶりだった。 金正日御用達の煙草( ロスマンズ )を吸っては、日本製の自家用車を乗り回す。 特別待遇と多額の仕送りのたまものである。

 なにより帰国者の気持ちを重くし、暗くさせたのは、日本出身者への厳然たる差別の存在だった。 地方の工場や拡山、農場に強制的に分散配置された帰国者たち。 この元在日朝鮮人は、“キポ”( 帰胞 )や“チェポ”( 在胞 )とさげすまれた。

( 3 ) 北へ帰国した親族は人質同然となった
「 朝鮮総連と収容所共和国 」 李英和 1999年 小学館文庫
 「 帰国事業 」は、労働党と朝鮮総連が展開した、60年代初頭にはじまる北朝鮮への大々的な帰還運動である。 以来、68〜70年の中断期間を挟んで、59年( 12月 )から84年までに約9万3000人が北朝鮮に永住帰国した。 これには、在日朝鮮人に同行した約6600人の日本人の配偶者や子供が含まれる( 内、日本人妻は約1800人 )。 この帰国事業は、いま考えれば奇妙なものであった。 上述のように在日韓国・朝鮮人の98パーセントは南出身である。 したがって北朝鮮に地縁や血縁はない。 終戦直後の46年の帰還希望調査でも、約98パーセントは現在の韓国を帰還地に選んだ( 厚生省調ベ )。 しかも60年代初めといえば、朝鮮戦争の荒廃から、北朝鮮がようやく復興しはじめた矢先である。 たしかに当時、民族差別による日本での生活難には厳しいものがあった。 だが、常識的に考えれば、北朝鮮での暮らし両きが良かろうはずのないことは容易に想像がつく。 それでも、60〜61年の2年間に全体の約7割が永住帰国した。

 在日朝鮮人が北朝鮮に渡ったのは、たぶんに政治的動機による。 日本社会での差別と蔑視への反発を下地にした社会主義への憧れである。 一方、在日朝鮮人を引き寄せたのも、労働党と朝鮮総連の政治的動機だった。 労働力と技術者不足の解消という側面もあったが、たぶんに政治宣伝の色彩が強かった。 実際、金日成は帰国事業を指して「 資本主義に対する社会主義体制の優越性の勝利 」と宣言した。 ここに悲劇がはじまる。 帰国者約十万人といえば、朝鮮籍と韓国籍を合わせた在日韓国・朝鮮人の全人口の6〜7人に1人に相当する。 単純計算すれば、身内の誰かが北朝鮮に帰国したことになる。 政治宣伝の熱病がおさまると、労働党は帰国者を厄介者扱いしはじめる。 資本主義思想の流入を恐れ、「 社会主義建設の否定的要素 」と規定した。 厳しい監視と差別に反発する帰国者は殺されるか、強制取容所に送られた。 生き残った者はすさまじい貧困にさらされた。

 こうして在日韓国・朝鮮人は、帰国した親族を見殺しにするか、仕送りをするかの選択を追られた。 多くは後者を採り、30年以上もせっせと仕送りを続けている。 帰国者は完全に「 人質 」となったのである。 70年代半ばに西側銀行団への借全返済が滞りはじめると、労働党は在日朝鮮人の親族訪問を解禁する( 79年 )。 83年に完全に利払いもできなくなるや、在日朝鮮人との合弁事業を発表する( 84年「 合営法 」制定 )。 いずれも帰国者を「 人質 」に、在日朝鮮人と有力商工人から、より大々的に金品を巻き上げる算段だった。 合弁会社への在日朝鮮人の投資は総額130億円( 92年現在 )にのぼるが、そのほんどは失敗に終わっている。

 最近では、仕送りをするのにも心配の種が増えた。 経済破綻で悪化した治安のため、仕送りのある帰国者が強盗に襲われ、一家皆殺しになる事件が起きるようになったからだ。 日本や韓国、それに朝鮮総連が送ったコメが党幹部に横取りされる。 それを闇市場で帰国者が仕送りの日本円で買って飢えをしのぐ。 そんな光景を親族訪問で目の当たりにして、「 これまでなにをしてきたのだろう 」と心の中で悲鳴をあげる。 仕送りに疲れ果て、帰国した親族の餓死と引き換えにしてでも、独裁者への経済支援を断ち切る在日朝鮮人が増えてきている。 こんな眼に遇わされても、在日朝鮮人は朝鮮総連にとどまらざるをえなかった。 「 社会主義祖国のために 」という労働党−朝鮮総連の決まり文句。 帰国者を人質にとられた在日朝鮮人にとって、これは文字通りの「 殺し文句 」と聞こえたからである。 一方、朝鮮総連の幹部たちは、帰国事業という取り返しのつかない大罪に恐れおののき、労働党との心中を決め込む。 これが朝鮮総連の組織内部での反抗を封じ込め、自浄能力を喪失せしめる最大の要因となった。

朝日新聞は北朝鮮帰国を煽った代表的マスコミです。
「 虚報の構造オオカミ少年の系譜 」 井沢元彦 1995年 小学館
 なぜ在日朝鮮人は、「 凍土の共和国 」へ続々と帰国していったのか。 それは朝日を中心とする大新聞が、盛んに「 北朝鮮よいとこ 」という虚報を流し、帰国熱をあおったからである。 たとえば、昭和35年( 1960 )2月26日付の朝日新聞朝刊では、「 希望者ふえる一方 」との大見出しで、

( 北朝鮮への )「 帰還希望者がふえたのはなんといっても『 完全就職、生活保障 』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。 各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。 ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、さらに『 明るい毎日の生活 』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ 」

 こんなことを、日本で最も「 信頼 」されている天下の大朝日が書いたのである。 しかも、これは特殊な例ではなく、この論調の記事は何度も書かれている。 こういう記事を読み、自らの迷いに「 フンギリ 」をつけ「 祖国 」に渡って行き、過酷な弾圧と労働で死んでいった人々も大勢いるはずである。 朝日は、一体こういう人々に、どう責任を取るつもりなのか。 これは誤報ではない。 明らかな虚報である。 というのは朝日は戦後一貫して、共産圏の国々の真の姿を決して伝えようとはしなかったからである。 そして、最も肝心なことは、こういう虚報が現在に至るまで一度も公式に訂正されたことはなく、しかも責任を取ってやめさせられた記者も一人もいない ことだ。
「 帰国船 -北朝鮮 凍土への旅立ち- 」 鄭箕海 1997 文春文庫
( 朝鮮総連が鳴り物入りで展開した帰国事業。 『 教育も医療も無料の社会主義祖国 』『 地上の楽園・共和国 』とのうたい文句を額面どおりに信じて、9万数千人の在日朝鮮人( 日本人妻を含む )が北に帰った。 本書の著者も希望に胸をふくらませて帰国したが、その34年後韓国に決死の亡命をした。 )

〜 日本の新聞の無責任報道を呪う 〜

 いつ頃のどの新聞だったか覚えていないが、帰国する前に読んだものだから1959年から60年初めの新聞である。 その記事の見出しは、わたしの記憶に間違いがないとすれば、
『 お金持ちの朝鮮、ドロボーのいない街 平壌 』
 北朝鮮では金日成首相の指導のもと、人民が一丸となって社会主義建設を進めている。 彼らの表情は生き生きとしており、その暮らしも日ごとに向上している。 ドロボーがいないためホテルには鍵をかける必要もないほどだ… という内容の記事である。 帰国する前、この類いの新聞記事をかなり目にした。

 『 北朝鮮訪問記 』のような本にも目を通した。 その立場からして北朝鮮をほめるだけの総聯の人々と違って、日本人は第三者なのだから客観的な目で北朝鮮の実状を見聞し、それを公正に伝えていると思った。 事実、わたしのような北朝鮮へ帰国したいという両親の意思と、帰りたくないという本音との間で揺れ続け、帰国することを迷い、ためらっていた者には、日本言論による北朝鮮報道が絶大な影響を与えた。 精神的にまだ幼かった17歳のわたしをして、それらの記事や訪問記などは、第三者である日本人の目にも、『 共和国( 北朝鮮 )は立派に映っている。 彼らが北朝鮮をお金持ちの国とまでいうのだから間違いないだろう 』と、信じ込ませるには十分すぎた。

 実際にもわたしは、それら読み物をむさぼるように読みあさって、最終的に帰国を決断したのである。 日本のジャーナリストや学者の書いたものを鵜みにするほうが間違っている、と言われればそれまでだが、それから長年北朝鮮で暮らしている間、わたしは日本の進歩的な言論人や知識人らの無責任さ、その罪深い所業を呪わずにいられなかった。 『 地獄への道は善意のジュータンで敷きつめられている 』という格言があるが、彼らこそまさに、この言葉を地でいき、結果的に善良な在日同胞、ことに総聯傘下の同胞、そして日本人妻たちを北朝鮮に追いやる犯罪的な帰国運動に手を貸したと言えるのではあるまいか。


 1959年12月14日に始まった「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」には多くの疑惑があるように思われる。 通常「裏切られた史観」で論ぜられているが、実際には、日本政府当局者の「在日朝鮮人の所払い」政策と北朝鮮の「労働力確保」政策がジョイントして進められたものであり、ここに何らかの暗黙の協定があった可能性がある。 かくて、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国者」は、関東軍のシベリア抑留同様にこの「歴史の非情さ」に翻弄されたのでは無かろうか。 ということは、今日の我々が為さねば為らぬこととして、これを強く推し進めた主体の善意に関わらずその裏にあったものを炙り出さねばならないのではなかろうか。
外務行政公開文書に見る帰国事業 川島高峰 ( 守る会・明治大学助教授 )
 2001年8月20日、私は情報公開法に基づき外務省に行政文書開示の請求を行った。 文書名は、「 北朝鮮関連領事事務 」( アジア局北東アジア課 1959年1月30日〜8月8日 )である。 その後、もう公開はないとすっかり諦めていた昨年9月のある晩、午後10時過ぎのことである。 外務省から近いうちに公開するとの連絡を受けた。 こうして、2003年10月、約2千ページに及ぶ文書が公開されるに至ったのである。

 しかし、「 領事事務 」といってもその庶務に関する文書であることもあり得る。 とにかく、歴史文書は現物を見るまではわからないものである。 実際、 外務省情報公開室で最初に対面した二つの綴り約1千ページは、1965年までの出航通知、申請者・乗船人数等に関する日朝間での電信文であり、 内容的に特に新しいものはなかった。

 相当に落胆し、内心、「 今回は空振り 」と、次の綴りを手にした時である。 「 閣議了解 」という文字が飛び込んできた。 夢中になってページをくくると「 極秘 」、「 機密指定解除 」の公印がある文書が次々と出てくるではないか。

 今回の資料から、
@1959年2月13日付の閣議了解「 在日朝鮮人中北鮮帰還希望者の取扱いに関する件 」 の決定過程、
A同了解から同年4月13日、 日朝両赤十字により行われたジュネーブ会談に至るまでの日朝間での交渉過程が解明されたと言える。
 逆に、カルカッタ協定成立過程の資料、さらに同協定成立後、12月14日に第1船クリリオン号・トボリスク号が新潟を出港するに至る間までに生じた様々な問題に関する資料が薄く、これは今回、請求したもの以外の文書に含まれるかもしれない。 今後、厚生労働省に対する開示請求も課題である。

 @については、従来、推測として言われていた「 追放政策 」の側面が、極めて明確に「 公文書 」で確認されたという点で大きな意義があったと言える。
 具体的には、「 極秘閣議了解に至るまでの内部事情 」において、在日朝鮮人の犯罪率が日本人の6倍であり「 生活保護を受けているものが、19000世帯81000名に及んでいる 」とし、その経費が年額17億円であることまでを明記 し、「 本人が希望するならば帰還させたいという声が中央、地方の一般与論となり与党内でも圧倒的となった 」と指摘された。
 この文書は「 閣議了解 」の付属文書であったが、当時の時点で非公表扱いとされていたものである。

 今回の報告は、既に国内では『 朝日新聞 』( 2004年5月18日、夕刊 )、『 民団新聞 』に報道され、韓国でも『 東亜日報 』をはじめ幾つかの新聞でも取り上げられたが、何れも@の問題に傾斜し、Aに関する言及が少なかった。

 今回、閣議了解に先立つこと2年前( 1957/5/13 )、日赤外事部長・井上益太郎氏が国際赤十字総裁に宛てた電文も公開された。 ここで井上氏は、北朝鮮への帰還事業が、日韓協議に極めて政治的に影響を及ぼすことを説明し、さらに、「 日本の警察当局より、もし赤十字委員会が来日して、朝鮮人が南北どちらへの帰還を希望するのかを調べ始めれば、民団系、総連系の住民の間で説得合戦が始まり、ついには社会的な混乱を引き起こすだろう、との助言を受けましたことを慎んでお知らせいたします。 このような混乱を避けるためには、個々人の意志は、公開することなく、秘密にしておくことが不可欠であります 」。

 井上は、たとえ秘密裏でも個々人の意志を確認しておくことが必要であることを指摘していたのである。
 さらに、ジュネーブ会談に向けた日朝交渉の最中に、井上が記した書簡も公開された。 日付は1959年3月24日とある。 井上は、帰国が諸個人の個別自費帰国なら意志の確認の必要はないが、「 意志確認のため国際委員会が介入して来なければやれないという唯一の理由 」は、それが「 集団帰国 」だからであると指摘していた。
 何故ならば、集団のリストを作成した時点で、全員の帰国意志が確定したと看做すことはできないからである。 「 帰国意志の自由 」とは、乗船の間際まで変わり得るものであり、それ故に、乗船直前の確認が最も重要であり、「 それ以前の段階は、それほど重要ではありません 」とまで述べていた。 つまり、「 帰国の条件( 安全度、時期、待遇等 )が確定した後でなければ、表示できない筈 」のものであり、それ故に、条件が曖昧な段階で単に希望者を募ったとしても、それは「 蓋然的意思表示又は解除条件付意思表示としか看做すことが出来ず 」、「 総連のリストのトリックは正にここにある 」と「 喝破 」した。 そこには明らかに蓋然的であれ日本にはいたくない、との意志の表れでもあることに対する配慮は薄かったと言えよう。 それでも、この段階で日赤として確認すべきこととして「 帰国条件を正しく理解しているか?( 殊に再び日本に来れないことを知っているか? ) 」と、帰国事業が一方通行であることの重大性を指摘していた。

 ここで重要な点はジュネーブ会談に至る日朝赤十字間での交渉で、日本側が一貫して個人の意志確認の手続きが必要であることを主張していたのに対し、北朝鮮側は、「 帰国意志を 確認 』し、また『 スクリーン 』するという主張には反対である。 これは在日朝鮮人の人権を侵害しその帰国の実現に人為的な障害をつくり出す不当なもの 」として、最後まで譲らなかった点である。 私は殊更に日赤の肩を持つ意図はないが、これらの資料を見ると帰還事業について日本政府と日赤の共謀による追放政策という面のみを強調することには無理があるように思う。

 そもそも、意志の確認は、当時国の赤十字が行うと著しく客観性を欠くということから、専らこれは国際赤十字の管轄すべき事柄と認識されていた。 つまり、日本赤十字が意志の確認作業をするということ事態が、逸脱行為なのである。 しかし、その後、国際赤十字による意志の確認作業は形骸化したと思われる。 仮にそれが行われていたとしても、今日、伝えられるところによると、その多くは日赤が行う業務ということを前提にした話が多い。
 本来であれば、国際赤十字のスタッフが乗船直前に個人、個人に対し面談して、意志確認を行うはずであった。 一体、この変貌は何によってもたらされたのか?それが日赤の変貌であったとするならば、なおのこと、ジュネーブ会談以前における井上の指摘は、日赤に重くのしかかる言葉となるだろう。

59年極秘外交文書明るみに 帰国事業 日本も総連を後押し
「 犯罪率高く、生活保護負担重い 」総連も財産持ち出し指示、帰国促す
 日本外務省に保管されていた1959年から始まった在日朝鮮人の北朝鮮への帰還、いわゆる帰国事業に関する極秘資料から、日本が同事業を人道の美名の下、実際には追放措置として後押ししていたことや、現在では「 帰国事業は日本赤十字社により行われた 」と強調する在日本朝鮮人総連合会( 朝鮮総連 )が、当時、全財産を総連を通じて祖国に持ち出すことを指示するなど組織として帰国を促していたことなどが明らかになった。 帰国事業に至る経緯の一端を裏付ける貴重な文書として注目されそうだ。

238世帯975人を乗せて清津に向け新潟港を出港する
  帰国船第1号( ソ連船トボリスク号ー1959年12月14日 )


 この極秘文書は、「 北朝鮮関連領事事務( アジア局北東アジア課 )1959年1月30日〜8月8日 」といい、明治大学の川島高峰助教授が2001年8月に情報公開法に基づいて外務省に開示請求を行い、昨年11月に同教授が入手したもの。 総数は約2000ページにおよび、特に帰国事業の意思決定で重要と思われる日本政府の閣議了解前後から帰国事業を話し合ったジュネーブ会談までの2カ月間に関する約550ページに、日本側の対応や朝鮮総連の姿勢をうかがわせる内容が記されている。
 帰国事業を決定づけた59年2月13日の閣議了解では、帰国問題を「 基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する 」としているが、「 閣議了解に至るまでの内部事情 」と題する文書には、日本政府の本音ともいえる事実上の追放の側面がでてくる。
 同文書( 1 )には、「 治安上も本問題の早期処理を必要とする段階になる 」としながら、「 在日朝鮮人は犯罪率が高く( 人口1000名に対し日本人の犯罪率は0.5名であるのに対し、在日朝鮮人の場合は3名で6倍 )、また生活保護を受けているものが1万9000世帯8万1000名に及んでいる等の事実から( これに要する経費年額17億円、うち国庫負担分約13億5000万円、地方負担分3億5000万円 )、本人が希望するならば帰還させたいという声が中央、地方の一般与論となり与党内でも圧倒的となった 」としている。
  また同文書( 2 )をみると、北朝鮮と国内左翼系政党などの攻撃をかわそうという当時の政治的な意図もうかがえる。 「 政府が( 帰還を )許可しなければ非人道の名目で政府をゆすぶらんとする政治的意図を蔵していたと観察されたし、また総連でも政府が帰還を認めないときには、帰還希望者に対する生活保護の強化を政府に迫る考えであろう 」としたうえで、「 政府としては帰還を認めることで彼等の政治的謀略を封じ、仮に帰還者が少数となっても、むしろこれにより北鮮( ママ )側の政治的意図が明瞭に暴露されるという利点もある 」としている。

日本人妻の国籍離脱や帰国者の拡大など指示

 一方、朝鮮総連が組織として帰国事業を積極的に推し進めていたことを示す資料が、59年4月に総連の中央帰国対策委員会が作成した「 帰国者に対する実務推進要綱 」。 ここには、帰国者を集団として組織する上でのこと細かい要領が示され、財産持ち出しに関しては「 祖国の富強な建設に供給することが自己の幸福をもたらす 」としながら、帰国者の一切の財産を祖国に持ち出し、持って行く品物の購入は総連の指示を通じて行うよう促している。 また帰国者集団は「 帰国者の拡大 」を目的の一つにすることも明記されている。 さらに同文書には、帰国者の日本人妻に関し、日本国籍を離脱して朝鮮国籍に編入するよう、帰国者に指示している。
 これらの内容は、当時、日本社会で差別に遭っていた在日朝鮮人たちの祖国帰還への熱い思いからでてきたものとも解釈できるが、結果的には、こうした事実上の組織動員が帰国者の拡大につながり、「 地上の楽園 」などと宣伝された内容とは全く異なる現実を前に帰国者の多くが絶望のどん底に突き落とされている。

不十分だった帰国の意思確認

 帰国の意思確認をめぐっては、今回開示された文書のなかに興味深い内容がある。 日本赤十字外事部長・井上益太郎氏が上司宛てに送った電文( 1957年3月24日 )には、帰国者の意思確認の重要さが指摘されており、帰国者は「 帰国条件を正しく理解しているか?( 殊に再び日本に来れないことを知っているか? ) 」など、帰国の意思確認を慎重に行う必要性を指摘し、中立的立場にある国際赤十字社が帰国者本人の意思確認を行ってから帰国者リストを作成すべきと主張している。 しかし実際には、最も重要な帰国の意思確認は十分になされなかった。
 川島助教授は、「 この文書でわかった日本側の問題点は、初めから帰国者の日本再入国はほとんど可能性がないことを承知していたことと社会の中の差別を改善するのではなく差別対象そのものを減少させることを選択したこと。 また北朝鮮と朝鮮総連の問題点は、帰国意思を民族集団の当然の意思とみなして集団帰国方式に固執したことだろう 」と述べている。