大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
三国人と土地占拠


戦後の混乱で他人の土地を不法占拠する三国人。 これは現在まで引き続く問題です。

「 在日韓国・朝鮮人に問う 」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房
 当研究所の創立者故古屋貞雄理事長が生前手掛けていた仕事のひとつに東京都池袋西口都有地払い下げの問題がある。 私がその仕事を引き継ぎ、現在もやっているが、これは旧豊島師範学校跡地を無断占拠し、商売をはじめたいわゆる敗戦直後のブラックマーケットの区画整理にともなう有名な( 都内の不動産業者で知らない人のいないほどの )都有地払い下げ事件である。

 私がこの事件に関与して20年になるが、調べていくうちに、マーケット内の朝連系朝鮮人の「活躍」を知ることができた。 ここで活躍したかなりの人達が、北朝鮮に帰国していったようである。 このマーケットの中は、治外法権だった。 警察権力の手は到底及ばなかった。 そこを取りしきっていたのが“ヤクザ”だが、ヤクザの中にも朝鮮人はいたし、そのヤクザ集団が、“チョウレン”と聞いただけで緊張し、身を震わすというほどの“実力”を持っていた。

 この池袋西口と似た場所が、都内の上野、新宿、新橋などにあった。 池袋西口でどのようなことが展開されたかは省略するが、結論だけを記せば、かつてそこに住んでいた日本人住民で、当時の朝鮮人を良く言う人は誰もいないというか、ほとんどの人が今でも敵意すら抱いている。

 このような一連の諸事実の積み重ねの中で、日本人が在日韓国・朝鮮人に対し、右に記したような事を抱いていったことは、日本人の偏見と差別のみで説明できるような単純なことではなかろう。

 当時、日本人に偏見や差別が、現在よりも比べようもなく多くあったのことは間違いないが、それをさらに裏付け補強する行動を繰り広げたのは、一部の在日韓国・朝鮮人たち自身ではないか。 1947年5月の外国人登録令の施行や、その後の指紋押捺制度の導入などは、このような政治的社会的背景の中から出てきたもので、日本政府や日本人の偏見や排外的な考えのみから生まれてきたものではないのである。

けん銃片手に「 戦争に負けたんやから、おまえの土地やない 」と押しかけるやつまでおった!

朝鮮人による土地占拠の経緯と実態
「 別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本 」 1984年 JICC出版局
朝鮮部落訪問記        石井靖彦

 下関港からほどない東神田町の一画にある大坪は、戦後ヤミの船でもいいからいっときでも早く故郷に帰ろうとした朝鮮人が、テント代りに仮住いするつもりで雨露をしのいだバラックが大きくなってできた部落だ。 刑務所のある所といわれていたこの地域に、日本人は寄り付かなかったが、朝鮮人は山すそを削り、空き地を利用して家を建て、日ゼニでも稼ぐつもりで豚を飼い、ニワトリを飼い、酒をつくった。 そして、当座の間だけでも子供たちに朝鮮の言葉と歴史を学ばせれば、故郷に帰っても慣れやすいと考えて、学校もつくった。 このようにして、46、7年頃には世帯300以上の部落が形成されたのだった。
( 中略 )
 「 水島の朝鮮部落 」、それは倉敷駅と水島コンビナートの中ほどに位置している。 緑町・春日町の一帯に住む200世帯前後の部落をさす。 日本の敗戦もおしせまった1944年、三菱重工水島航空機製作所のあった倉敷市水島には、2000人にのぼる朝鮮人が連行されて、地下工場を造るために防空壕作りを強制されていた。 今は朝鮮部落になっている緑町・春日町には、同時に、工場労働者のための社宅が建設されていた。 敗戦とともに地下工場建設も中断され、出来上がっていた社宅は行き場のない朝鮮人が占領する。 やがてただちに帰国することを取りやめた人たちが、舞鶴や下関から空いた“住宅”があるのを知って、親戚、知人を頼って集まってきたのだ。 最盛期には2500人以上の朝鮮人が共同の生活の場を作った。 共同の密造酒工場があり、自留地というべき菜園を市から獲得した。 さらに、全ての朝鮮人を生活保護世帯として認定させ、一括してお金、物品を市から受けて、朝鮮人は更に自主的に再配分した。 とはいっても日常的な働き口が見つからない大人たちは、酒づくりやブタ飼いなどで綱渡りの生活をしながらも、視点は本国に向いていた。 1959年12月に北朝鮮への帰国が始まると、1000人近くの人が帰っていった。

毎日新聞 夕刊( 大阪版 )平成12( 2000 )年10月21日
取り残された街 今世紀中に解決を  伊丹市が払い下げ協議へ
防音、下水道工事対象外 大阪空港隣接 在日コリアンら在住国有地不法占拠状態


 戦前に朝鮮半島から強制連行されて来た労働者が住み始めた兵庫県伊丹市中村地区。 空港に隣接し、現在も在日コリアンを中心に約300世帯が暮らすが、国の防音工事や下水道整備は一切行われないまま取り残されている。 大半が国有地で、国が「 不法占拠状態で対象外 」と判断しているためだ。 旅客機のごう音や浸水被害に悩まされる暮らしに、伊丹市は「 劣悪な生活環境を次世紀まで残すことはできない 」として、集団移転や国有地払い下げを視野に、国と本格的な協議に乗り出す方針を固めた。

 中村地区は同市東部にあり、大半の約3.3ヘクタールが運輸省の空港用地など国の所有地。 伊丹市史などによると、空港拡張工事が始まった1940年前後に、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮半島から多くの労働者が集められて寄宿舎などに居住。 戦後、その子孫や親類ら、全国各地から集まった在日コリアンたちが住み始めた。 現在、約300世帯約500人のうち、韓国・朝鮮籍の住民が約8割を占める。

 住民は早くから市や国に環境改善を要望。 約20年前から、電話や上水道が整備され始めた。 しかし、国が74年以降、空港周辺7市の約8万5000世帯の民家に無料で実施した防音工事は対象外で、現在も計画すらない。 滑走路から約200メートルしか離れていない家もあり、離着陸のごう音に悩まされ続けている。

 また、他の市内全域で整備された下水道も、同地区だけは国の同意が得られず、整備を進められない。 大雨の際は浸水被害も度々発生する。 一方、地区住民は住民税や家屋の固定資産税などを市に納めている。

同地区自治会理事で、在日2世のチュ・オンソプさん( 62 )は「 国有地に住んでいるのは事実で、複雑な気持ちがあるのも確かだが、歴史的な経過によるものだし、ここで生きていくしかない。 騒音や浸水被害をいつまでも放置されては困る 」と訴える。

 市は、年内には国と本格的な協議を始めたいとして、事務レベルで調整中。 浜田正義助役は「 伊丹が戦後ずっと抱えていた問題で、今世紀中に解決に向けて動きたい。 国や住民とも知恵を出し合いたい 」と話す。 一方、運輸省大阪航空局は「 短期間で答えが出る問題ではないが、どういう解決策が考えられるのか、市と話し合いたい 」としている。

ウトロは在日コリアンの土地トラブルで象徴的なものです。 下は在日の立場に立ったものです。
「 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識 」 仲尾宏 1997年 明石書店
 京都府宇治市に「 ウトロ 」と呼ばれている地区があります。 戦争中、ここに京都軍用飛行場が建設されようとしていました。 1940年に着工し日本国際航空工業( 日産車体工機の前身 )が事業を請け負っていました。 この飛行場建設は資材不足などで工事が遅れ、敗戦の日まで完成をみることがありませんでしたが、その建設工事におよそ1300人の朝鮮人労務者が働いていました。

 「 ウトロで飛行場の建設をすれば徴用を免れる、と聞いて移りました。 昭和16年です 」
 解放後は「 もちろん帰りたかった。 でもお金がありません。 向こうにも生活できる家や土地はありませんでした 」
( 中略 )
 解放後、仕事から放り出されたウトロの人々はウトロ周辺で仕事を探す一方、飯場を自力で修理、改修または増築して家族がなんとか住めるようにしてきました。
( 中略 )
 ところが87年3月に、土地は日産車体工機から西日本殖産の所有に帰していたのです。 西日本殖産はこのウトロの土地を第三者に転売しようとして、建物解体業者を使ってウトロの建物・住居の実力解体に取り掛かろうとしました。 そして住民に対して土地所有権に基づき総面積4400坪の建物収去土地明渡請求を京都地裁に提出しました。 1989年2月のことです。
 住民たちはこのときから強制立ち退きの恐怖とともに裁判所で被告の立場に立たされることになりました。

 「 悔しいのは、なぜ今ごろになって出て行けといわれるのか、ということ。 裁判所に呼ばれて、被告にされて、日本人が半分でもいたら、こんな仕打ちは出来ないはずです 」
「 ここは朝鮮人たちの命の土地や。 みんないっしょに苦しんできたんや。 守るためやったら、立ち退きさせようとする業者のブルドーザーの前でも座りこむわ 」

 ウトロの人々の怒りは爆発しました。 そして事態を知った日本人市民の支援活動が始まりました。 「 地上げ反対!ウトロを守る会 」が結成され、ウトロの問題は単に住民が土地売買紛争に巻き込まれたということではなく、日本の朝鮮侵略、植民地支配がなければ起きなかったこと、戦後、この支配と歴史の清算がいまだに行われず、政府や行政もこのことを放置してきたことに原因があることを宣言しました。

三国人の土地不法占拠の起源は朝鮮の「 土幕民 」にあった。
「 別冊一億人の昭和史 日本植民地史1朝鮮 」 1978年 毎日新聞社
白服を着た国 梅田正 ( 元平壌毎日新聞編集長 )

 李朝以後の郷土的細民として「 土幕民 」というのがあります。 旧来の身分的、階級的なものでなく人種的差異があるわけではないのです。 土幕民は、何らかの事情から生活に窮した細民( 貧民 )が、生活の便宜や職を求める便宜上とかで、京城、平壌、釜山その他都市周辺に集団的生活を営んでいるのです。 求める職業もほとんど技術を持っていないため、日雇人夫、擔軍( チゲといって、背負子を背負って小荷物の運搬を若干の賃金で行うもので、いわば街中の赤帽で街辻に屯して客を待っている )に従事し、細民中の最下層の悲惨な社会層を代表するもので、これらは公的機関の救済を待たねばならないのです。 もともと幕とは、家、小屋という語彙からきている特殊細民なのです。 彼らは公有私有の区別なく空き地に勝手に集団で掘っ立て小屋掛けする、つまり不法占拠集団なのであります