大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
三国人の不法行為




 石原都知事が三国人という言葉を発したため、差別語を使ったとマスコミに叩かれましたが、日本人でも戦勝国民でもないという三国人という言葉に悪いイメージを持たせたのは、戦後の在日コリアン自身にあったのです。

 彼らの所業は三国人という言葉とセットになってマスコミに封印されたようですが、おかしなことに日本の過去の悪事を発掘することに熱心な反日マスコミほど三国人の蛮行を封印しているのです。


まずは、戦後日本人の韓国( 朝鮮 )や韓国( 朝鮮 )人に対するイメージのおおまかな変化を把握するために、世論調査の結果を概観してみましょう。
「 韓国のイメージ 」鄭大均 1995年 中公新書
 表1は、楠弘閣が1939年と1949年に行った「 日本人学生 」の「 諸民族 」に対する好悪調査の結果を、鈴木二郎が整理したものである。 同調査は、戦前から戦後にかけての朝鮮人イメージの変化をうかがうことのできる貴重な資料であるが、印象的なのは、39年調査で、比較的好感度の高い集団として位置づけられていた朝鮮人が、49年調査では、最も好感度の低い集団に転落しているということである。

 なぜなのだろうか。 多分、重要なのは、日本人がかつて朝鮮人との間に共有していた運命共同性の消失と戦後の日本社会における在日朝鮮人の行為という二つの要因であろう。 「 内鮮一体 」や「 内鮮融和 」のスローガンが示すように、39年当時の日本人にとって、朝鮮は「 大日本帝国 」の版図の一部であり、32年満州国建国、37年日中戦争へと時局が推移する過程で、その国策的要請は高まっていた。

 敗戦後、こうした運命共同性が消失した時、朝鮮人に対する眺めが変化したのは当然のことであるが、好感度がかくも急激に下落したのは、終戦直後の在日朝鮮人の行為が日本人の心に植え付けた印象であろう。

( *終戦は1945年 )


三国人という言葉に、ならず者のイメージを植え付けたのは、日本人の弱り目につけ込んで、不法行為を行ったの朝鮮人自身にある。
「 韓国のイメージ 」鄭大均 1995年 中公新書
 連合国総司令部( GHQ )の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー( 朝鮮史 )は、『 日本における朝鮮少数民族 』( 原著1951年 )という論文で次のように記している。

 『 戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。 数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。 かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。 朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。 そのため、国内に非常な混乱をおこした。 』

「 一部在日朝鮮人の帰国問題 」 日本赤十字社発行
 ( 「 別冊宝島 朝鮮総聯の研究 」 1995年 宝島社より )
 朝鮮人の場合は、今までとは打って変わり、戦勝国民となり、治外法権が認められた。 それが彼等にとり、どんなに気持ち良かったかは想像に難くない。 単に精神面においてのみならず物質面においても、彼らは日本人が住むに家なく、着るに衣なく、飢餓にあえいでいる最中、その特権を利用してあらゆるボロ儲けをすることが出来た。
(  「 戦勝国民となり、治外法権が認められた 」は法的根拠がない  )

「 韓国・朝鮮と日本人 」 若槻泰雄 89年 原書房
 戦前から強かった日本人の在日朝鮮人への悪感情は、第二次大戦直後の経験によって更に強まった。 それは、日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちしおれていたとき、在日朝鮮人による犯罪、不法行為が続発したことであった。 もともと戦前から在日朝鮮人の犯罪率は日本人の平均の10倍前後に達し、朝鮮人の住む貧民窟が犯罪の巣であるかのように見なされていた。
(中略)

続発した不法行為

 総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%( 1949年 )、騒擾のごときは83%( 1948年 )、そして密造酒は全密造酒の30%近く( 1953,54年 )、ことに覚醒剤の販売量では全量の60〜70%を占めるという有様であった。 ( 1953,54年 )

公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の犯罪状況について『 法務研究 』に次のように書いてある。
 『 本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊( 朝連の自衛組織 )などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった・・・・・。 彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。 彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。 この時代は、特にその初期は右翼と称される民団、建青などによっても数々の不法行為が敢行されていた・・・・・ 』

騒擾( そうじょう=不平分子が集まり騒いで社会の秩序を乱すこと 『 騒擾罪 』 )
民団( 在日朝鮮居留民団→大韓民国居留民団 )、建青( 朝鮮建設促進青年同盟 )

朴在一氏も次のように書いている。
( 「 在日朝鮮人に関する総合調査研究 」新紀元社 1957年 )
 『 15〜59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人( 1949年 )であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙されたことになる。 外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。 このほかに道路交通法違反による検挙者1万9332人もいる。 それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう 』

 今日ではこのような事態は著しく改善されたが、それでも、全在留外国人の中における韓国・朝鮮人の犯罪の人口比は平均より幾分高いのを常としている。 一般犯罪のほかに、韓国人には、密入国者が多数にのぼるのが特徴である。 不法人国による年間数千名にもおよぶ検挙者は、一時、長崎県の大村収容所に収容して本国に退去強制となるわけだが、必死の思いで密入国した彼らの抵抗はすさまじく、大村収容所でのトラブルは絶えなかった。


戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか!
「 現代コリア 」5月号に「 『 三国人 』は本当に差別語か 」と言う記事があり、戦後、在日韓国・朝鮮人が日本で何をし、何と言ったかが報じられていました。 日本人として忘れてはならないことだと思いますので、要旨をご紹介いたします。
・・( 前略 )・・
 「 三国人 」なる言葉は第二次世界大戦終了後、連合国が1945年10月31日「 連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書 」により、朝鮮はそのいずれにも該当しないことから「 第三国 」( The Third Nations )と呼んだ。
・・( 中略 )・・
 なぜ日本人が、「 第三国人 」と言う言葉に蔑視、畏怖、時には「 敵意 」を込めて使ったのかである。 それは敗戦直後の在日韓国・朝鮮人の日本での言動と重大な関係があるからだ。

 現在の総聯の前身団体である「 在日朝鮮人連盟 」指導部は1946年初頭と推定されるが「 われわれは今まで、搾取と奴隷的な差別待遇を受けた。 日本の敗戦で開放された現在、われわれは連合国人であるから、敗戦国日本の法令に従う義務はない 」「 われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。 したがってわれわれは日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない 」「 戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない 」( 坪井汕二『 在日朝鮮人運動の概況 』 )と在日朝鮮人を「 連合国人 」と勝手に位置づけ、日本の法令に従う必要のないことを公然と主張し、その通り実行した。

 1945年9月10日に結成された在日朝鮮人連盟( 以下「 朝連 」と略す )中央準備会は、すぐ「 帰国同胞援助 」活動に入り、朝連が韓国などに帰国する在日朝鮮人に「 帰国証明 」を発行、列車・バスの無賃乗車、時には客車の中に「 朝鮮人専用 」と書き、日本人を乗車させないこともあった。 駅長を脅かし、発車した列車を呼び戻したりもした。
・・( 中略 )・・

 引きつづき、GHQ( 連合国総司令部 )は同年9月30日「 朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書 」で、朝連が「 地外法権的地位にないこと 」を明らかにした。 この覚書を見れば分かるように、朝連は、これまで「 治外法権 」を持っていたのである。
 当時、各地の朝連は、保安隊、自衛隊、警備隊、自治隊などを作り、独自の警察権力類似行為を行っていたりもしていた。
 また、「 朝連 」の名によって、集団強盗、略奪、殴打暴行、破壊、占拠監禁、人民裁判などが行われた。
・・( 中略 )・・

 当時日本を占領していたGHQは、200万人の在日朝鮮人を日本から朝鮮本国に帰国させることを基本方針としていた。 ところが韓国に帰国してみたが、政治・経済ともに不安・混乱を極め、生活不安などが重なり、その上コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。 日本にいれば「 連合国人 」「 解放国民 」としての「 自由 」があった。 いったん帰国した人達が日本に逆流しだした。
 1947年5月2日GHQの命令で「 外国人登録令 」が在日韓国・朝鮮人などに施行されたのは、日本への密入国、米などの不正受給防止の二つの目的があったのである。
 ・・( 中略 )・・

 このような具体的な在日韓国・朝鮮人と日本人の社会関係の中で、日本人が「 三国人 」なる言葉に特別な意味を込めて使用するようになったのである。 公然と社会秩序を乱し何事も暴力で解決しようとする在日韓国・朝鮮人の言動に、日本人が、「 三国人 」は恐いと考えることが「 民族差別 」というのだろうか。
・・( 以下略 )・・

 このように主張し、行動した人達が、今になって「 日本国籍を失ったのは自分たちの意志ではなかった 」とか、「 地方公務員に採用しないのは民族差別だ 」「 地方参政権を与えろ 」と要求している厚かましさには、あきれてものが言えません。


在日コリアンが闇市の商品買出しで列車の不正占有を行っていたことを証言。 当時は戦災による破壊で列車が不足していたうえ、戦後復興による需要増大で列車の運行が逼迫していた。 そのような状況下での横暴な行為である。
「 体験で語る解放後の在日朝鮮人運動 」 張錠寿、他 1989年 神戸学生青年センター出版部
 あの時代は、日本国内を汽車で行こうとすると汽車の乗車券を購入するのに証明が要ったんです。 隣組とか駐在所とか役場とかで貰って、汽車に乗って買い出しに行ったんですが、そんな時に台湾人が汽車でも「 中国人専用 」とチョークで書くんですね。 すると朝鮮人もまねて「 朝鮮人専用 」と書く。 そんなことをして買い出しに行ったりしていました。 買い出しは、新潟とか北陸、九州に行って米や芋やいろいろなもんを買って、専用車に積んで守らないかんわけです。

日本会議 宮城県本部 北斗星さんの投稿から <かっこ内は下線文字の読み>
 第三國人( 三国人 )の暴行

 表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算( つもり )であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々( たまたま )老人達が本件を論じて( い )た 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処( ここ )に記して御歴々の御参考に資せむとするものである

 終戦後の第三國人どもは本當( 本当 )に酷かった 軍の兵器を盗んで來た( 来た )らしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力( 実力 )犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた

 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷( 渋谷 )臺湾( 台湾 )人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いて( こまねいて )ゐた 戦勝國民は治外法権だったのである

 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩( PX )に接収され、其処( そこ )へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。 日本人は買へなかったが。

 斯うした( そうした )情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「 朝鮮進駐軍 」を僭称して堂々と闇商賣( 商売 )を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから( 流石に( さすがに )銃撃戦は挑まなかった模様 )

 當時( 当時 )は物不足で、賣る( 売る )方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから ( それ )で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い

 警察が襲撃されること頻り( しきり )で、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった

( 録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡( 連絡 )を遮断「 攻城戦 」に出た平警察署事件等、枚擧( 枚挙 )に暇有りませんでした )

 東京東部( すなはち大東京の中心地 )北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった

 當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて( ひいて )行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆( 気 )付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった

 斯うして( そうして )利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘( そのまま )下流へ賣りに來たのだらう

 斯くて( かくて )關東( 関東 )から、牛はゐなくなった

 家畜相手ならまだしも、人間に對して( 対して )も、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松( 浜松 )、大阪、神戸などが酷かった

 ( その )最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團( 集団 )暴行・傷害事件がある

 翁が軽井澤( 軽井沢 )の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「 朝鮮進駐軍 」が後から大勢、切符も買はず、鐵道( 鉄道 )員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、( この )車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた

 ( それ )で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち( たちまち )大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に( いかに )不出來な孫にせよ 孫共は( これ )を知らんのだらう

 直後に總理( 総理 )大臣に成る程の大物でも如斯( かくのごとし ) 況や( いわんや )庶民に於て( おいて )をや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊に( ことに )は、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災( り災 )者の土地だ

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如き( ごとき )に何が出來よう 或日( ある日 )、警察は何月何日を以て( もって )廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百( 万 )の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや

 堪りかねた( たまりかねた )警察が密かにやくざに頼み込み「 濱松大戦争 」になった訳だが、「 小戦争 」は日本中に頻發( 頻発 )した

 最後の頼みの綱は聯合國( 連合国 )軍であったが、遂に( ついに )は其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將( 中将 )が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く( ようやく )鎮圧した 我々は其火器の煌めき( きらめき )を間近に見た

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した( 発した )布告が、「 朝鮮人等は戦勝國民に非ず( あらず )、第三國人なり 」

と言ふ声名で、此ぞ「 第三國人 」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語な( はず )は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會( 対日理事会 )や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「 第三國人 」の語は、國際法に則って( のっとって )説いた技術的専門用語に過ぎない

 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實( 真実 )を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面目( まじめ )に報道する氣は無いのかの

 貴公、パソコン通信を遣って( やって )なさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか
上記引用文で述べられていた牛泥棒が福岡でもおきていた。 当時の農業は機械化以前で農耕には牛が使われており、現在でいえばトラクターを盗むようなもので、食糧増産が至上命題な時期だっただけに非常に悪質だ。

もうひとつ、北斗星さんの投稿を
第三國人發言に思ふ

1 第三國人なる語の沿革

 第三國人の乱暴狼藉に怒る宮城縣並全國の皆さん 今日は

   國の盛りに人となり 國衰えて老となる  佐藤春夫

 大日本帝國華やかなりし御代、朝鮮人を半島人、台湾人を本島人と呼びました 此は皆等しく日本人であるてふ前提の新呼称でしたが、終戦までは極く普通 の呼称でした 特に現地で愛用されたやうです

 現在、台湾の李登輝總統が本省人と外省人の對立を解消すへく、「 新台湾人 」なる呼称、概念を唱道して居られるのは、旧領台湾の遺臣=旧同胞とふ事情に鑑み、此大日本帝國の政策を眞似たものと見て良いと思ひます

 但し余所へは仰らないで下さい 小生が前回總統選で見た反李登輝パフォーマンスには、同氏が日本人と抱擁してゐる場面 が有りました

 日頃から外省人や大陸は、氏の片親が日本人だの何だのとデマを流し、其親日姿勢を、殆ど買弁呼はりして攻撃してゐますから、新台湾人なる重要政策が大日本帝國の政策を継承したものとされれば大問題になります 少くとも大陸は徹底的に非難するでせう

 話を戻します 終戦直後、在日朝鮮人は「 朝鮮進駐軍 」と自称し、勝手に腕章を付けて町で占領軍人として支那兵並に暴れ回りましたから、怒った本物の占領軍によって禁止されました

 次で彼等は、戦勝國民だと称へ、就中繁華街などでは町中が鳴りはためく程の乱暴を働きましたが、再び聯合國によって然らざる旨、きっぱり否定されました

 朝鮮に反日武装闘争などと言ふものは有りませんでした 近年になって有ったと称して居りますが、虚構です 少くとも朝鮮半島、日本領土内には非武装闘争すら殆ど有りませんでした 三一事件とやらは全くの例外でせすし、大した騒ぎでもありませんでした 小人数集まって練り歩いた程度です

 彼等がもし、一個小隊でも、一個分隊でも参陣してゐたなら、事態は全く違ってゐた筈です 國際社會の( 或は白人の )論理により、戦友と認められ、直ちに獨立を承認され、聯合國、聯合軍のうちに名誉ある地位 を占め、堂々と戦勝國に列したことでせう 佛蘭西のやうに

 朝鮮で、一旦大日本帝國朝鮮總督府が自主的に朝鮮側に委譲した統治権を、米占領軍が直ちに、断固として回収したのは、全く戦友と見られてゐなかったからです

( 第一次大戦後のヴェルサイユ條約で支那が自國内の獨逸権益を回復出來ず、日本によって継承されたのも同じ論理です 青島其他で在支獨逸軍を撃滅し、其権益を聯合軍側に回収したのは大日本帝國だったのですから、一滴の血も流さずに名目のみ聯合國に加はったに過ぎない支那の、旧獨逸権益全面 回復要求は虫の良い支那人根性と見られたのです )

 其後、第三國人といふ事になったやうです 第三國人とは、戦勝國にも戦敗國にも非ざる國の民にして然も中立國民ならざる、旧領住民の意で良いでせう 解放國民とふ言葉も有りました

 理屈は兎も角、第三國人の語感からは朝鮮人が聯想されます スイス人、チベット人等、文字通 りの中立國民は殆ど國内に居ませんでした

 支那人は戦勝國民でしたし、台湾人は親日的で、余り騒ぎを起しませんでした

( 終戦後、本島人が内地人上司の元へ駆け込み、我々が支那人にされてしまふといふのは本當ですかと号泣した類の話が澤山有りました 下町では今でも時々話題に出ます )

 如何なる名乗りであらうと、朝鮮人は大暴れしました はっきり申しますが、高齢の邦人女性が朝鮮人と結婚したのは全て強姦されたものと思って先づ間違ひ無く、だから誰もなれそめなどに触れません

 最も大々的に行はれた犯罪行為は、空襲で焼け野が原になった空地の不法占拠です 余りにも頻發するので、わざわざ刑法改正して「 不動産侵奪罪 」を新設したくらいです 現在駅前一等地で朝鮮人が営業してるパチンコ屋、焼肉屋は斯る來歴のものです

 闇市でも暴力沙汰多く、其仕入に至っては全く強盗でした 小生の生ひ立った東京下町から直ぐ北、埼玉 縣北葛飾郡三郷町辺の知人達は口を揃へて、深夜朝鮮人が牛小屋に侵入して屠殺解体して行った 怖いから寝た振りをして立ち去るのを待った、等々

 此でも警察は手が出せませんでした うっかり逮捕したりすると警察署が襲撃され、犯人も奪還されました( 富坂警察署事件 ) 酷い時はついでに警官が殺されました( 澁谷警察署事件 ) 殺されても殺され損でした 占領下でしたから

 其処でやくざの出番です 今でも古いやくざは警察に恩を着せた事を言ひますが、トラックで出動し、不逞鮮人をやっつけました 日頃やくざなど全く見下す人々まで喝采しました 警察が密かに通 じてゐる、との噂でした 小生もさうであったらうと思ってゐます 何しろやくざが警察署を護衛してゐましたから

 第三國人なる言葉に本來、差別的語感など有る筈が有りません 第三者の語に差別 の匂ひが無いやうに 其が良からぬ語感を伴ふのは、彼等の旧悪の所為です 差別 語とは笑止 語るに落ちるとは此事か

 以上、大筋は誤っては居らぬと思ひますが、細部は精確を期し難し

2 第三國人の語義

 駐日米大使が第三國人の語に不快感を表明しましたが、怪しからぬ話にて、窮極の内政干渉です 言葉も判らぬ 癖に、何たる傲慢無禮ぞ! 更迭を要求すへし

 米大使に限らず、我が新聞記者も若きに過ぎて、語感が判らないのだと推察致します

 我國戦後組織の常として、報道機關も年功序列のピラミッド式内部構造を持ち、年齢と共に管理職に就いて第一線を退いて行きますから、取材に駆け回る一線記者が極端に歳若なのです テレヴィの制作現場など、平均年齢二十代前半かと思はれる程です 米國には七十代の名物記者が大勢居るのですが‥‥ 此では報道の質に差が出るのも當然です

 第三國人なる語は、先に指摘せる如く、占領下に用ひられた用語です 當時、國際法上日本とふ國家は存在せず、日章旗は世界中に一流も翻ってゐない、掲揚すれば御用になる、てふ情け無い状況でした 政府も裁判所も議會も従來とは性格を一変し、敵占領軍の下に在って其間接統治に奉仕するに過ぎぬ 存在でした その頃の我が製品には MADE IN OCCUPIED JAPAN と記されてゐます

 したがって、我が官憲は、戦勝國民に對しては一切手出が出來ませんでした 抑も法権が及ばないのです 日本人に強盗強姦殺人放火を働いた戦勝國民が処罰される事も有りましたが、其は彼等の法に違反したかどで裁かれるに過ぎません 戦敗れるとはさうした事です 戦敗國民は悲しからずや

 ところで、両者の中間に、勝者でも敗者でもない、中間的存在がありました 其が第三國人です

 つまり當時、占領下日本に於る國籍別身分秩序には、

1位.戦勝國民 殆どが占領軍人を中心とする米國人

2位.第三國人 台湾人南洋群島人を含むか否か知らねど、揉めるのは何時も朝鮮人

3位.戦敗國民 日本人

とふ上下の序列が有ったのです( 中立國民は1と2の中間に居たと推察します )

 故に、甚だ遺憾ながら、第三國人は日本人より法的地位が上だったのです 彼等自身も其を怒号聯呼しつつ悪事を働いてゐました 占領軍に否定されてもなほ屡々戦勝國民を称しました

「 おまへら敗戦國民が、戦勝國民に何を謂ふか! 」

「 日本人の癖に第三國人に手を出すかっ! 」

と怒鳴って暴れ、没義道を重ねました

 だから差別用語な筈は無いのです 下が上を差別出來ますか? 左翼の論調は、斯る實態を無視せる虚説です

 なほ、豫備的抗弁として、特に付言致します

 我國の差別反對運動は新左翼系の運動で、其最終的に目指す所は、申すも憚り有る大逆無道の謀反、八逆の筆頭たるおぞましき大陰謀ですから、一切同調すへきではありません 差別 を推進する必要はありませんが、反對するには更に慎重でなければなりません

 細く申せば、

1.差別は自由である 原則として禁令無き放任行為 法的根拠無き事は強要出來ぬ  赤共が勝手に怪しからん許さんと吠えてゐるのみ 強要罪、威力業務妨害罪等で告訴對抗すへし

2.四民平等、一君萬民の 聖旨から、同胞間の差別は可能な範囲で廃するのが望ましい

3.然れども、憲法14條の平等原則も章名「 國民の権利義務 」から知れる通 り、日本國民の権利であって、外國人に適用されない 内外國人の峻別は、條理法から も慣習法からも成文法からも當然の結論である

 因って、他の案件で、仮に明白に差別となる事有っても、譲歩の必要は有りません 法と正義の名に於て、断固貫徹すへし 法は「 合理的差別 」を許容す 先方もさうしてゐますから遠慮は要りません 相互に同じ措置を講ずれば對等平等で差別 無し!

3 頑張れ!石原慎太郎

 世上、第三國人なる語が戦前から存在したかの如く言ふ人あれど、吾人は信ずる能はざる也

 第三國とふ言葉は有りました 條約交渉や國際紛争等で當事國以外を左様呼びました 人の語も、當然有りました でも、両語合体せる第三國人なる単語は存在しませんでした 愚生は「 貧乏 」な「 肥満児 」ですが、世に「 貧乏肥満児 」なる単語は有りません

 第三國人とふ語は、聯合國軍總司令部の造語( もしかしたら欧文には既に存在したのかも知れませんが、何れにせよ日本語に無かったのを、彼等が突如として持ち出して來た言葉です )で、

the third nationality が原語です 邦語の第三國人なる語は、其訳語に過ぎません 略して「 三國人 」とも云ひました

 其語義は既述の通り、旧領たる朝鮮( もしかすると台湾も )の人々を指します

 彼等はかつて日本人として戦争當事國民であったのですが、終戦後、日本國籍を失ひ、當事國民たる地位 を喪失しました 第一國人第二國人でなくなったのです

   でも、スイスやスウェーデン、チベットの如き中立國の民でもありません 其処で實務上の必要から持出した言葉です

 第三國人の精確な語義は、恐らく中立國民を除外した旧領住民、終戦後日本國籍を喪失した者、でありませう 中立國民なら、元々呼称も國際法上の立場も持ってゐますから、新たな手當の必要を生じません

 専門( 國際法や國際政治を中心に据えた官庁實務 )的に推測すると、台湾人が含まれたか否か疑問で、確認を要します

 何となれば、台湾人は中華民國籍に編入され戦勝國民に列したやうな記憶が有るに對し、朝鮮は暫く編入すへき國家すら無く( 南北両朝鮮の發足は後年 )、扱ひを同じうせざりしものと思はれるからですが、確信無き故、疑問を呈するに留め置きます

 抑も台湾人は親日的で、「 俺は第三國人だ、日本人の癖に手を出すか! 」と怒鳴って暴れたりは、あまりしませんでしたから、注目もされませんでしたな

( 一般の國語辞典は編者素人故宛にならざれど、第三國人の中に朝鮮人は必ず入るも台湾人を含ましむるや否やは諸書異れり金田一京助博士『 新明解國語辞典 』三省堂は「 敗戦後の一時期、在日朝鮮人・同中國人を指して言った語。 三國人 」とす國語學者は左様思ひつるとも、是過てり 支那人は戦勝國民、すなはち第一國人なりき昭和も遠くなりにけり )

 因って、第三國人とは普通、朝鮮人の意味です 占領下の日本警察が手を出せないのを良いことに、闇経済や禁制品賣買程度ならまだしも、利権を巡る殺傷事件や密輸と、好き放題の悪事を重ねてゐました

 とまれ、彼等は敗戦國日本の國籍を喪失したので、最早敗戦國民でなくなりました かと云って戦勝國( 聯合國 = 國聯原加盟國 )の國民ではないから戦勝國民でもない 中立國の國籍も無いから中立國民でもない

 進退窮まったGHQが、the third nationality と呼び、占領下の日本が否応無く「 第三國人 」と直訳させられた次第です。

 さて第三國人は圧倒的に朝鮮人のイメージでしたが、彼等自身はどうせなら戦勝國民に成り度く、大にさう自称したのです けれども、占領軍が怒って反復否定したので、太々しい名乗りは段々通 らなくなりました

 でも、最下層の敗戦國民より、中間層の第三國人の方が、當時は身分が上だったのですから、充分に「 出世 」だったと思ひます

 以上により、第三國人なる語は廣義の法律・専門用語であって、差別用語でも、日用語でもなかったと思ひます いきりたって騒ぐ人の多くは歳若く、問題の言葉を聞いた事も無く、よし有っても語感の判らない人です

 ただ、第三國人に關する話には碌な物が無く、強盗強姦殺人傷害誘拐恐喝窃盗放火不動産侵奪と凶事のみ多く、為に後年、一般 人の印象が悪くなったといふ事は有るかも知れません

 ポル・ポト派と云ふ呼称は蔑称でも差別用語でもありませんが、重なる悪事の為に今ではすっかり印象が悪くなりました 自業自得

 帰國早々、腹立たしい話を聞きました

 つい一昨日、知人たる老婦人が、東京の地下鐵人形町駅改札口付近で掏摸に遭ひ、運転免許証金融機關現金出入カード等の入った財布を盗られました 直ちに届出たところ、丁度近くの銀行で盗難カードで現金を残らず引き出す者有り、通 報で駆け付けた警官と職員が問ひ質さうとしましたが、支那人と覚しき亜細亜系外國人が辿々しい日本語で「 ダイジョウブナンデモナイ 」と叫んで逃げ出し、一旦は追ひ縋りましたが敵も然る者、交通 激しき大通りを命懸けで横切って走り去った為、遂に取り逃がしました 被害額は参百萬圓を遙かに超えますが、警察は、お金は最早戻らぬ 諦めよ、と断言した由 被害家族は物心両面とも大打撃を受け、婦人は、治まる御代を六拾年以上生きて來て盗難など身の回りに唯の一度も無かったのに、と落胆慚愧著しく、娘さんなどは、我家の蓄え一朝にして底を払へり、と泣き声でした

 石原知事の今次御發言を心から支持します

 ちっとも報道されませんが、氏は二月初頃、科學捜査研究所を視察した際、來日支那人犯罪組織が裏切り者の顔の皮を生きながら剥いで嬲り殺しにした皮無し頭部の復元作業を見て改めて驚愕され、いよいよ深く決するところ有りしものと察せられます

 さうして、我等日本人は此の世に斯くも惨虐なる殺人法が有るてふ事すら知らざりき、此を放置せんか悪事に免疫無き祖國は必ずや外國人犯罪の好餌となり、郷土は阿鼻叫喚の地獄と化さん 我知事として都庁を率ゐ、警察を統ぶ 何ぞ傍観するを得むや 凶悪犯罪断固駆逐すへし、我は都民を同胞を護らむ( 意訳 )、と宣言せられました

 大体従來の我法制は「 國際化 」を、我文化は不良外國人を想定して居らず、外國人の流入に到底對応出來ません 犯罪少く治安良好なる我國は、謂はば無菌状態で、強力な黴菌群の侵入に曝されつつあります

 朝鮮から掏摸が大勢來て刃を振って暴れるだの、支那人が出前の丼を盗んで廻っただけでは足らず日本中のスーパーマーケット( 殆ど無警戒 )で万引し、更に日本で出産して公的補助金を支給された上病院代踏み倒して逃げるだの、コインランドリーの洗濯機を担いで逃げたり、公衆電話を壊して硬貨を盗んだり、偽造カードで人や機械を騙し詐欺を働いたり、中南米密輸團が總理大臣に脅迫状寄越すだの、不逞鮮人が人間を袋詰めにして誘拐するだの、スリランカ人が邦人女性を強姦した擧句被害者に生きながら火を付けるだの、アラビア窃盗團、香港爆窃團、台湾マフィア( 外省人 )だの‥‥

 果ては外國人が参政権を要求し帰化人( 初代 )が首相の座を狙ふだの、全く豫想外の事態ばかりです

 早急に法制の大改革を行ひ、警鐘を鳴らさねば、我國は外國人犯罪者の草刈場となりませう 否、既になりつつあります

( 公平の為、激増する外國人犯罪の多くが「 來日 」に依る犯行であって、必ずしも「 在日 」に依るものでない事を付言致し置きます )

 今次發言も斯かる経緯を踏えた、治安對策の一環であったに違ひ有りません

 一身の非難、一家の災厄を省みず、唯ただ都民の安全のみを思ふて為せる誠意の發露であり、久しぶりに私利私欲無く責任に徹せる頼もしき政客を得た、と嬉しく思ひます

 東京都民として、石原慎太郎氏の如き知事を得たるを心から喜び、都民有志打ち揃ひて都庁前に整列し弐拾四年前の支援至らざりしを改めて叩頭謝罪してでも終身在任して戴き度し 今後此程の人材を得る事の再び有るへきや 太田道灌大岡忠相後藤新平以來の傑物と呼ぶも過言ならざる可し

 氏の上に畏くも内閣總理大臣の大命降下するに非ずんば、未來永劫離し度く無し

4 慎太郎強し! 眠られぬ夜の為に

 石原慎太郎知事は昭和初年生まれの六十歳代であり、畢竟、其年代の人として普通 の言語表現をとったに過ぎますまい

 愚生の周囲の人々も、例へば「 殺す 」を「 殺める 」、「 長男 」を「 家督 」、「 珍しい 」を「 好もしい 」、「 用務員 」を「 小使 」、「 ウェイター 」を「 給仕 」、「 猿 」を「 ましら 」と言ふ人は大勢居ます

 単に世代に因る言語表現の差に過ぎず、方言以上に、何等差し支へ無きものです

 余談ですが、中には「 二十歳以上の者 」を「 二十五歳以上の男子 」( 旧民法 )と言ひ、刑事訴訟法の専門書を繙いて「 此の本には豫審が出てゐない 」と怒ってゐる司法修習生までゐました( 旧刑訴 )

 内務省の廃止を知らない大臣秘書や、チベットの滅亡を知らない議員もゐます

 此処迄來るとチトまづいかも知れませんが、何、専門を外れれば皆そんなものです

 第三國人の語なんて知らなかった癖に知ったかぶりして怒号してゐる若者こそ、更にさらに困ったものです

 子曰く、知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす これ知るなり

 最後に、床屋政談を少々

人皆己の佳しと思ふ所を人に強ゐんとする心有り すなはち専制の心なり   大隈重信

 我等も心せねばなりますまいが、其にしても左翼の獨善には呆れ返ります

 共同通信社が勝手に發行した記者ハンドブックに

( 引用開始 )−−−−−

【差別語、不快用語】

▽人種、民族、地域など
第三国( 人 )→ 例えば日米交渉で両国以外の国という意味で使う「 第三国 」はよいが、戦争中に使われたような朝鮮人、中国人を意味する「 第三国( 人 ) 」は使わない。
『 ただし、差別の実態や歴史に言及する記事の中で、以上のような基本姿勢に反せず、表現上必要と判断される場合などには、差別 語そのものをカギカッコに入れるなどして引用することはあり得る 』

−−−−−( 引用終 )

とあります

 抑も此記載内容からして間違って居ります 既述の通り、戦後GHQが發明した新語にて戦争中には無かった言葉ですから( 一歩譲って「 第三國人 」なる語が稀に用ひられる事が有ったとしても、其は同音異義語です )

 が、正しくあらうとなからうと、一社或は一業界が私的に定めた基準に、部外者が拘束される筋合ではありません 傲慢也 我國官民は瓦版屋の指揮命令に服する謂れ無し

 ところで、左翼陣営が謝罪のみならで、野放図にも辞任迄要求してるゐる為、石原慎太郎氏が都知事辞任に追込まれるのを心配する向きも有るやうです

 御安心あれ 慎太郎は辞めやしますまい

 大臣が「 失言 」で首になるのは、

1.議院内閣制下の總理大臣は議會によって指名され、また首にされるので、絶對に議會の支持を要する

2.故に首相は大臣を罷免若しくは辞任で切り捨て、蜥蜴の尻尾切作戦で逃げ切りを図る

からです

 然るに知事は大統領制で、住民の直接選擧ですから、議會の支持が無くても其地位 は安泰です 其でも條例を通すには議會の支持が必要ですから、若し石原慎太郎氏が副知事であったなら、知事は議會對策の為に彼を切ったかも知れませんが、石原慎太郎氏御本人が知事なのですから

 大体、住民が直接選擧で圧倒的支持を示したばかりの御仁に對し、辞任要求とは笑止 民意を踏みにじる傲慢でしかありません

 人事権は有権者に有って、新聞屋や左翼に無し 人事権者たる有権者の決定せる所を、新聞屋が覆せるものではありません 民衆の敵!と一喝して遣りませう

 石原知事御自身、記者會見で、辞任、謝罪の意思有りやと問はれ、馬鹿なことを謂ふな!と一喝斥けてゐます

 大臣の場合と同じ感覚で左様な辞任の謝罪のと騒ぐのは、議院内閣制と大統領制、間接選擧と直接選擧の区別 無き無知蒙昧の徒に過ぎません

 以上は理論問題ですが、為念、現實政治に即した力學的検討を行って見ませう

 石原慎太郎氏は信念の人であり、且つ東京都知事として都民に對してのみ責任を負ひますから、外部の雑音には耳を貸しますまい

 地方自治法により都議會が不信任決議をすれば、氏は躊躇はず解散に打って出るでせう 夙に都議會は選擧を控え石原知事の人氣を懼れており、腰砕けに成ると思はれます

 其でも解散、選擧になり、且つ反石原派が勝てば、不信任再決議を以て知事を罷免出來ますが、其でも石原慎太郎氏の人氣から見て、再び知事選に打って出れば又また勝ち抜く可能性高く、うかうかすると前回以上の票を取り兼ねません 慎太郎人氣が衰へを見せぬ ばかりか、今次發言への支持率も極めて高いのですから 自民、民主、自由等、石原慎太郎氏と票を食ひ合ふ政党ほど深刻に懼れてゐます

 議席を賭けて抵抗しても、都議會反石原派には碌な運命が待って居りません

 以上は政府が自治体首長に對する罷免権を發動した場合でも同じです

 石原慎太郎氏は辞任もせねば罷免もされますまいが、萬々一、左様な事態がもたらされた時は、石原慎太郎と其巨大な支持者集團にとっていよいよ愉快な光景が現出されませう

 愉快極まる今宵の酒宴 中に益荒男美少年

 石原慎太郎氏を支持する皆さん 安心して大船に乗った氣で御覧下さい

「 興安丸 33年の航跡 」 森下研 昭和62年 新潮社( 灰色文字は補足 )
( 終戦から間もないこの時期、食料不足が極度に悪化していた )しかし金さえあれば食料は、上原( 駅員 )のいる博多港駅近く、わずか200メートルほどのところにも溢れていた。 石堂川の川口には引込み線の鉄橋があるが、そこから上流へかけ岸側の水の上に、バラックが連なっている。 小屋はいずれも川底に打ち込んだ杭の上に建てられていて、住むのは韓国人たちだ。 ここには、米はもちろん魚や缶詰など、当時の日本で手にいれることのできる食品は何でもあった。 上原たちが普通ではまず口にすることもできない牛肉さえ、ふんだんに、かつ安く売られている。 夜、どこからともなく引いてこられた牛が、翌朝までには解体され、角つきの頭などが小屋の中でぐつぐつ煮られていたりする。 牛は、たいていが近郊の農家から盗み出し、売られたものだが、この一角には警察官も容易に立ち入れない雰囲気があった。

( 朝鮮へ引き揚げる船に乗るために )敗戦とともに博多へ集まってきた韓国人たちは最初の頃、少しでも港近くにいたいと博多港駅を半ば占拠する形で船を待った。 彼らは駅舎の板壁をはがして煮炊きするなどの傍若無人ぶりだったが、上原たちはどうすることもできないでいた。 やがてアメリカ軍が進駐し、また引揚援護局が設けられるにしたがい、韓国人たちは近くの寺院などへ分宿するようになった。 そのうち、目はしのきいた者たちが川沿いに住みつき、一種の租界をつくって商売を始めたのである。 これが、興安丸( 引揚船 )がきたころの博多港界隈の状況だった。

 韓国人たちはまた、ブラックマーケットなどで稼いだ金を、独特の方法で持ち帰る者が多かった。 彼らの中には、古い自転車を担いで乗船する者がよくいた。 本来なら自転車は、小荷物として船倉に積まなければならない。 それより自転車などを肩にしてタラップを登れば、転落の危険がある。 ところが、そういって乗組員や立会いの警察官が制止しようとすると、誰もが、
『 おまえ、おれの財産を盗む気か 』
などと血相を変えてくってかかる。 それはじきに周囲の者たちに広がって騒ぎになり、かけつけたMP( 進駐軍憲兵 )が自動小銃を空にむけて威嚇射撃するまでおさまらない。 アメリカ軍の進駐以来、港や引き揚げ船にはMPが警備のため配置され、また乗船するようになっていた。 韓国人たちが古自転車にこだわるのには、訳があった。 操舵手の中野正助は戦前の関釜( 下関―釜山間の連絡船会社 )に入り19年に応召、復員してこの年から興安丸に再勤務を始めた。 博多港で韓国人たちの乗船整理をしていたとき、その一人が自転車を海に落とすのを目撃する。
『 船員さん、あの自転車を揚げてくれ! 』男は、半狂乱になって叫ぶ。
『 とても無理だ 』
中野が首を振ると、男はやにわにタラップから海へ飛び込みかける。 それをようやくなだめて話を聞くと、自転車のタイヤには、チューブの代りに紙幣がぎっしり巻き込んであったのだという。
( 日本引き揚げに際し、GHQにより一人当りの持ち帰り金額が千円までに制限されていた。 朝鮮引き揚げの日本人も同様で、莫大な資産が朝鮮のものになった。 )

「 秘伝少林寺拳法 」 宗道臣 光文社( 「 逆説のニッポン歴史観 」 井沢元彦 2000年 小学館より )
大きな駅に着いた時、大変なことが始まった。 第三国の連盟の腕章を巻いた、あまり風体のよくない若者が、窓から無理やりに乗り込んできた。 周囲の人たちを押し退け、突き飛ばして場所をとり、氷が溶けて水の流れ出る臭い魚の箱をたくさん積み込んだのである。 総勢七人のその連中はまったく言語道断で、座っている者を追い立てて、全員が座り込んだ。
( 中略 )
それから少しして連中の一人が、「 さあ、寝るとしようか 」と言って立ち上がった。 どうするのか見ていると、網棚の上の荷物を払い落とし始めた。 棚の上に寝るつもりである。 立っている人間の方を踏み台にして、棚に這い上がったその男は、まだ場所が十分でないのか、足元の荷物を蹴り落とした。 ところがその荷物が運悪く、子どもを抱いていた婦人の上に落ち、子どもに当たったので、火のついたように泣きだしてしまった。 それまで辛抱に辛抱を重ねていた私は、とうとう我慢できなくなり、つい無意識のうちに「 無茶をするな 」と大声で怒鳴ってしまった。


終戦後の三国人の所業を明らかにすると、コリア系団体と反日サヨクの執拗な抗議を受けることから、日本のマスコミではタブーとなってしまいました。 現在新しく三国人の実態を知ることができるのは、台湾人の書いた本しかないというのが情けない現実です。 この姿勢は現在も変わらず、マスコミとは?と考えさせられてしまいます。

「 台湾人と日本精神 」 蔡焜燦 2000年 日本教文社
( 台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた )

 昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『 敗けた! 』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。 無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。 しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。 無性に悔しかった。 それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。 日本人を殴って、『 戦勝国になったんだ 』と威張りちらす者もいれば、『 独立だ! 』と気勢を上げる輩もいる。 敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

 「 敗戦の詔勅 」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。 だが、このときは正直いって心が揺れた。 『 また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。  この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。 『 俺達はいったいどうなるのか…  』 『 我々は“中国”へ帰るみたいだ 』 『 それなら俺達も一等国の国民じゃないか…  』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

 そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。 もちろんこれで例の“本土決戦”の計画も自動的についえた。 しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。 そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。 『 朝鮮人は信用できない。 だから君たち台湾人が守ってほしい 』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

 昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
 昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
 苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。 そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。 新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。 ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。 私は終戦の日をもって“戦勝国民”になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で“敗戦”を思った。 少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

 心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。 また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。 座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『 なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い! 』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。 多勢に無勢、勝ち目はない。 こうなっては『 すみません、私の記憶違いでした 』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

 それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。 若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。 ただ黙って見ているしかなかったのである。
( 中略 )
 佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。 あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「 中華民国台湾青年隊 」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。 それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。 弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。 なんとなくいい気がしない。 とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。