大日本史番外編 「朝鮮の巻」
共産党と暴動事件


 多くの暴動事件に積極的に関与していた在日朝鮮人。 戦後日本に居残った朝鮮人の中に共産党系の者が多数いた。
「韓国・北朝鮮総覧1984」 1983年 原書房

 ( 戦後間もない時期、朝鮮人半島引き揚げ者が次第に減少していったことについて )

 この原因について篠崎氏は 「朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、コレラ病流行、これらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があったこと」 などをあげている。

 さらに日本赤十字社では 「その大部分は日本共産党が扇動したものである。 日本共産党は戦時中完全に弾圧されていたが、連合軍の進駐とともに解放され、当時の社会事情を利用して急激にその勢力を増していった。 1946年2月、金天海日本共産党中央委員( 在日朝鮮人 )は、その機関誌 「前衛」 第1号に、“在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ” という指令を載せ、日本政府が引き揚げの努力をしている最中にこれに反対する態度をとった。」( 一部在日朝鮮人の帰国問題 )と、その引揚げ者減少の理由を指摘している。
 金天海は在日朝鮮人のカリスマ的指導者で彼の影響はすこぶる大きかった。 宮崎学著 「不逞者」 に登場、日本共産党の尖兵として騒擾そうじょう事件を起こす。


 当時、共産党は一国一党の時代で在日朝鮮人が多数参加していた。
「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」
  姜在彦 1989年 神戸学生青年センター出版部


 ( 1951年1月に非合法的に結成された民戦に対する日本共産党の指導方針が出され )
 在日朝鮮人は日本の中の少数民族であり、日本革命の同盟軍であるとされたわけです。 したがって、日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できないとされたわけです。 だから 我々は、日本共産党員として、まさに日本の革命をやることが、朝鮮の革命と在日同胞の地位向上に寄与することになるんだと考えたわけです。
( 中略 )
 この時の在日朝鮮人の運動について書いたものに、鄭東文氏の 「転換期に立つ朝鮮人運動」 ( 日本共産党関西地方委員会、1949年10月 )があります。 この鄭東文という人は、共産党の民族対策部の人で、中央委員会のメンバーの一人でした。 「転換期に立つ朝鮮人運動」 は、少数民族は独自の中央組織を持つ必要はない、各地域の組織に属して日本の組織と連帯し、日本の革命を遂行すべきだ、と言うようなことを述べています。 だから実際、朝連( 在日本朝鮮人連盟 )が解散させられたのち、皆地域の朝鮮人協会であるとか、学校のPTAにはいれ、ということが言われていました。 そしてPTAを革命化せよ、地域を革命化せよ、という、読み方によっては、朝連解散を喜んでいるようにも取れる方針でした。 だから、少数民族の組織というものはすべて末端の組織において 日本人と連帯しながら、まず第一に日本革命を遂行するのに大一義的目標をおくべきだ、というものでした。

 他方、民戦( 在日本朝鮮統一民主戦線 )は次第に公然化してきます。 そして、非公然組織として祖国防衛委員会( 祖防委 )、その傘下に祖国防衛隊( 祖防隊 )が作られました。 当時の在日朝鮮人の組織の中ではこの祖防隊が中核的な役割を果たし、民戦はこの中核を包むオブラートのような組織でした。

 祖防委は、( 1 )日本が朝鮮戦争の基地になっており、戦争で使われる米軍兵器を修理していたことから、それを中止させ、しかも輸送を阻止する実力行動を行う。 ( 2 )親子爆弾( 北朝鮮に向けて殺戮兵器として使われた爆弾 )が大阪、特に在日朝鮮人の零細企業でたくさん造られていたことから、これを阻止する、というような中核的なことをしておりました。 このような在日朝鮮人の動きがあった一方で、1951年10月、日本共産党は第五次全国協議会を開き、軍事方針を決定することになります。 これにより、朝鮮人の祖防委と日本共産党中核自衛隊で、パルチザン闘争を準備することとなります。

 それ以降、大阪では吹田事件、東京では宮城前の血のメーデー事件が起こることになります。 デモ隊が流れ込んで宮城前を血に染めたこの事件ではかなりの人が負傷したり、逮捕されたりしました。 今でもあの時の写真を見てごらんなさい。 先頭に共和国( 朝鮮民主主義人民共和国 )の旗が翻っています。 警官隊の壁を実力突破する先頭に立ったのは朝鮮人なんです。 それから名古屋の大須事件ですね。 これらはみな、先ほどの方針から出ているわけです。 みんな本気でパルチザン闘争をやるつもりだったわけです。 最近、宮本顕治氏が言ったところによれば、 「中国共産党がこれを強制した」 というわけですね。 中国共産党によれば、革命後まだ間もない時期であったので、アメリカの力が中国に集中するのを防ぐために、アジア各国の共産党にあえてこのような闘争を要求して、その力を分散させようとしたのでしょう。 当時アジアの共産党は、中国革命を守るのが国際主義的義務と言われていましたから。 そこで日本も本気でやろうとしたわけです。


 暴動は彼ら自身が認めています。
「韓国・朝鮮人と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房

「朝連」 と日本共産党

 一般犯罪のほかに、在日朝鮮人に対する日本人の嫌悪感、警戒感を強めさせたものに、北鮮系の活発な政治運動がある。 在日朝鮮人は終戦の秋10月、 「在日朝鮮人連盟」 という自治団体を結成した。 この団体は、当時在日朝鮮人社会の最大の問題であった本国への引揚げを主とし、日本人、朝鮮人間の摩擦防止、同胞の福利厚生などを目的としたもので、当初は社会事業団体的性格をおびたものであったという。 しかし、徳田球一、金天海らの日本共産党幹部らの政治犯がいっせいに出獄してこれを指導するにおよび、 「朝連」 は急速に民族主義運動、さらには革命的、暴力的傾向に傾斜していった。 もともと、朝鮮独立運動と日本共産党との関係は戦前から深いものがあった。 労働者の解放、植民地の解放、そしてその連帯をモットーとする国際共産主義運動は、第二次大戦後各国植民地の独立運動に多くの実例を見るように、植民地解放運動に甚大な影響力をもっていた。 日本共産党の綱領にも 「( 日本のすべての )植民地の完全独立」 がうたわれていた。 日本の革命と朝鮮の独立は一体のものと理論づけられていたのである。

 「朝連」 の左傾に反対するものは、これを離脱して、この年11月、 「朝鮮建設促進青年同盟」 を結成した。 翌46年11月には 「在日朝鮮居留民団」 と改称し、今日の、在日本大韓民国居留民団へと発展した。 しかし当初は 「民団」 の勢力は徴々たるもので、 「朝連」 は在日朝鮮人の7~80%を占め、強力な活動を展開した。 だが暴力的不法事件を続発させたため、 「暴力主義団体」 として、1949年9月には 「団体等規制令」 によって解散させられ、金天海はじめ主要幹部は公職追放処分となって表面から姿を消した。
 組織の基盤を失なった左翼系在日朝鮮人は1950年6月、折から勃発した朝鮮戦争を契機に、 「祖国防衛中央委員会」 と、その戦闘的実動部隊として 「祖国防衛隊」 を各地に設け、翌1951年1月には 「在日朝鮮統一民主戦線」( 略称 「民戦」 )を結成した。 「民戦」 は日本共産党の完全な指導下に、 「反米」 「反吉田内閣」 「反再軍備」 の三反戦術を唱導し、その綱領自体にも 「日本の主権打倒」 をかかげたのである。 1951~52年の日本共産党の極左武力闘争では、 「民戦」 = 在日朝鮮人は常にその突撃隊の役割を果たしたといわれる。
 『法務研究』 にのった森田芳夫氏の論稿によると、1952年だけで北鮮系の日本警察に対する不法行為は134件にのぼり、当時 「日本の国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まった」 のである。

騒動の自認

 だが朝総連系の朝鮮人はこれらの騒擾そうじょう事件、反日運動を、日本の警察のデッチアゲと反論する。 そこで彼らの機関紙( 誌 )の中から、暴動騒乱を彼ら自ら立証する、いくつかの記事の 「見出し」 などを掲げておこう。
「新朝鮮」 ( 祖国防衛中央委員会の機関誌から )
弾薬輸送列車を妨害
軍需工場基地に果敢な工作 西日本全域で祖防闘争激発 竹槍で6里のデモ ( 1952.3.30 )
神奈川で税務署、軍倉庫を焼打ち!! ( 1952.4.15 )
某町では、警察署長に先制攻撃をかけ、警察署の机を、持っていた斧でたたきながら…… 婦人たちも米原駅公安室に押しかけて公安官のネクタイを締め上げながら、「お前達が強制追放列車を送り、武器輸送を護衛するけだもの野郎だ……」 と吊るし上げた。 ( 1952.5.20 )
( 警官は )吊るし上げられ、コソコソと逃げ出した。 これをみた一同胞青年は、「逃がしてたまるか」 と4町も追いかけ、奴らをどぶの中に突き落とし、上から馬乗りになってコテンコテンに叩きのばした。 一方、同胞は夜、約50名が本署に押しかけ…… ( 1952.7.5 )
火炎ビン飛ぶ中で大村収容所を再攻撃
所長の顔は傷だらけ 目黒婦人実力で愛国者奪還 ( 1952.7.15 )
雨をついて枚方兵器廠に進出 2000トンプレスを爆破 ( 1952.7.20 )
武闘の果て

 このような武装闘争の連続は1954年にはいると様変りした。 前年3月のスターリンの死以後、朝鮮戦争の休戦、ジュネーブ会議の開催とつづき、国際共産主義運動は、その過激な革命主義の矛を一時収めたからである。 日本共産党も運動路線を変更し、 「日本と朝鮮の国交正常化を実現し得る新組織をつくれ」 という非公然通達を流した。 この結果、民戦は解散し、翌1955年には 「在日朝鮮人総連合」 が結成され、この組織は、いわゆる 「朝総連」 として今日も続いている。 そして 朝鮮民主主義人民共和国の方針により、 「朝総連」 は 「日本に存在する朝鮮公民として節度を堅持し、日本の内政には一切干渉しない」 との方針を確立して、その運動もひとまず沈静化するにいたった。 これまで、日本の内政に干渉してきたことを自認したわけである。

 「日本の中の三十八度線」 の著者李瑜煥氏は、この武装闘争について次のように述べている。

 当時頻発した日共系暴力事件の前衛、尖兵として犠牲に供せられ、前科ものとして在日朝鮮人の犯罪率を高め、経済的に貧困化し青年学徒で勉学を中途で放棄しなければならなくなったものは無数で、その犠牲はあまりにも大きかった。 そればかりではなく、今日の日本人の対韓国・朝鮮人観に、暴力的で粗暴だというイメージを植えつける大きな要因にもなっている。
( 中略 )
 「朝総連」 は、戦後の日本のほとんどの騒擾事件において共産党とともに主役を演じ、団体等規制令で解散させられた 「朝連」 の後継者であることは誰の目にも明らかである。 現に 「総連」 の議長韓徳銖氏は 「朝連」 の有力幹部であったという。 朝鮮人は、自分たちだけが半世紀ばかり昔の日本人の悪虐な行為を忘れないつもりでいるかもしれないが、多くの日本人も、少なくとも日本政府は、わずか30年前、朝鮮人が日本国家を転覆する意図をもって暴動をおこし、革命を呼号した ことを忘れてはいない のである。 朝総連系の主張していることには、それだけをとりあげれば一応もっともといえることも皆無ではない。 しかし国際関係において彼らが置かれている立場、そして彼らがしてきたことを考えれば、彼らの議論は大部分その基礎を失うであろう。
 これらの所業が在日朝鮮人の日本企業就職問題に悪影響を及ぼした。


 暴動の実態 …… 吹田騒乱事件の場合
「戦後事件史」 昭和57年 警察文化協会刊

 吹田騒乱事件( 昭和27年6月24日 )朝鮮動乱二周年の 「前夜祭」 といわれた大阪府学連主催の 「伊丹基地粉砕、反戦、独立の夕」 は午後8時から豊中市の阪大北校グラウンドに北鮮共、学生、自由労組など約1000名が集って開かれ、集会は気勢をあげて終わったが夜がふけるとともにデモ隊は吹田市を中心に各所に分散出没し、出動した800名の警官を悩ませた。

 デモ隊は阪急石橋駅に押しかけて “人民列車” を運転させて乗りこみ、吹田操車場になだれ込んで、警官から奪ったピストルを発射したり、派出所を襲って破壊したり、火炎ビンや硫酸を投げつけるなど暴行を働き、警官もピストルで応ずるなど双方に負傷者を出した。 大阪警視庁はデモ隊60名を逮捕した。 負傷者は警官側が42名( 内重傷6名 )デモ隊は11名( 内重傷6名 )をだした。
 本来は戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった 「三国人」 にマイナスイメージが付着したのは、彼らが数多くの暴動事件を続発させたことに原因があります。 これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」 「解放人民として生きていくために不可避なこと」 というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。
 彼らは事あるごとに 「歴史認識の共有」 なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。

内海愛子【 恵泉女学園大学教授 】

 「『鮮人』 『半島人』 などと差別されてきた人々が 『解放国民』 となり、戦後の混乱の中で精力的に活動 し出したとき、かつての植民地意識から抜けきれない日本人が反感や憎悪からこの言葉( 引用者注:三国人 )を使ってきた」
出典元:2000年4月12日『朝日新聞朝刊』より

 「戦後の混乱の中での精力的な活動」 というと、あたかも合法的活動( 商売等 )を活発に行ったかのように聞こえますが、実際には下記のような行為もしております。 犯罪行為に対して、非難することが 「差別」 でしょうか。

梶村秀樹【 神奈川大学教授:故人 】

 「( 引用者注:不法行為は )事実何ほどかあったことだろうが、決して 「不法」 ないし無原則・無軌道と単純にきめつけられることではなく、解放人民として生きていくために不可避なことであったと理解されるべきである。」
出典元:梶村秀樹著作集刊行委員会編集委員会編『在日朝鮮人論』( 1993年 )

ここで触れられている 「不法行為」 の詳細は下記のような行為です。 果たして 「解放人民として生きていくために不可避なこと」 と言えるでしょうか。


左翼系在日朝鮮人騒乱史

大阿仁村事件( 1945年10月22日 )
 秋田県北秋田郡阿仁合町( 現在の秋田県北秋田 郡阿仁町 )の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町( 現在の秋田県北秋田郡阿仁町 )の集 落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
 午後1時になると約40名の 朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

生田警察署襲撃事件( 1945年12月24日、1946年1月9日 )
 兵庫県生田警察署 では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
 その後1945年12月24日午後9時、 「岡 山の刑事を出せ!」 と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。 岡山県の 捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。 急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収 拾させることができた。
 また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

直江津駅リンチ殺人事件( 1945年12月29日 )
 信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。 彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、 「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」 と詰め寄ったが、日本人乗客が 「窓から乗り込むという方法はない」 と反駁したので、 「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」 と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
 朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
 なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが 「鉄道公安官」 制度である。
 【このような事例は全国各地で続発しています。 】

富坂警察署襲撃事件( 1946年1月3日 )
 1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。 1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。 そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

長崎警察署襲撃事件( 1946年5月13日 )
 1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。 朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた( うち1名は死亡 )。 捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

富山駅前派出所襲撃事件( 1946年8月5日 )
 1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。 そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
 この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。 ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった 「自治隊出張所( 引用者注:朝連の自治隊の 「交番」 のこと )」 を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

坂町事件( 1946年9月22日 )
 羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。 警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
 同日午後、坂町・金屋両駐在所から 「ヤミ米を運搬している」 という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。 そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。 さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

新潟日報社襲撃事件( 1946年9月26日~29日 )
 1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。 読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。 29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

首相官邸デモ事件( 1946年12月20日 )
 宮城前広場( 現在の皇居前広場 )において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。 このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。 このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。 彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

尾花沢派出所襲撃事件( 1947年10月20日 )
 1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、 『尾花沢派出所』 の表札を外して一旦逃走した。
 その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。 そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。 警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

阪神教育事件( 1948年4月23日~25日 )
 1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。 大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、
 3月15日に閉鎖勧告を行った。 しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
 1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。 朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。 大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
 神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。 会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。 そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。 また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
 しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に 「非常事態宣言」 を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。 検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

評定河原事件( 1948年10月11日~12日 )
 1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟( 民青 )の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

宇部事件( 1948年12月9日 )
 宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

益田事件( 1949年1月25日 )
 島根県美濃郡益田町( 現在の島根県益田市 )の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。 翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

枝川事件( 1949年4月6~13日 )
 東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
 その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

高田ドブロク事件( 1949年4月7日~11日 )
 新潟県中頚城郡新井町( 現在の新潟県新井市 )と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
 その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市( 現在の新潟県上越市 )の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
 翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
 11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。 警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

本郷村事件( 1949年6月2日~11日 )
 福井県大飯郡本郷村( 現在の福井県大飯郡大飯町 )の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が 「我々を差別扱いする」 と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。 その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

下関事件( 1949年8月20日 )
 1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。 このため市内は一時大混乱になった。
 下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

台東会館事件( 1950年3月20日 )
 1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
 東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、 「台東会館防衛闘争委員会」 を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

連島町事件( 1950年8月15日 )
 岡山県浅口郡連島町( 現在の岡山県倉敷市 )で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。 この事件で警察官15名が負傷した。

第二神戸事件( 1950年11月20~27日 )
 11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。 24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。 27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。 神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。
 【 「第一神戸事件」 は 「阪神教育事件」 を指す 】

四日市事件( 1951年1月23日 )
 旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。 そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。 警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。

王子事件( 1951年3月7日 )
 1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校( 現在の東京朝鮮中高級学校 )を捜索し、多数の印刷物を押収した。
 3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮人( うち朝鮮学校生徒1100名 )が同校で 「真相発表大会」 を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。 このとき8名が検挙された。

神奈川事件( 1951年6月13日 )
 横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。 これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
 運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

下里村役場事件( 1951年10月22日 )
 兵庫県加西郡下里村( 現在の兵庫県加西市 )において、朝鮮人約200名が、 「生活保護」 「強制送還反対」 の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。

福岡事件( 1951年11月21日 )
 「強制追放反対」 を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。 その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。 警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

東成警察署催涙ガス投擲事件( 1951年12月1日 )
 1951年11月10日、泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。 乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。
ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

半田・一宮事件( 1951年12月3日~11日 )
 1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。 一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。
 そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
 12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。 また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。 他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

軍需品製造工場襲撃事件( 1951年12月16日 )
 上記の東成警察署で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場( 民団系 )を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

日野事件( 1951年12月18日 )
 朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、 「強制送還反対」 のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。 警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。 これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。 35名が検挙された。

木造地区警察署襲撃事件( 1952年2月21日~23日 )
 1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮人2名を逮捕したが、朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。
 23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

姫路事件( 1952年2月28日 )
 兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。 また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5~30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。 捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

八坂神社事件( 1952年3月1日 )
 三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。 一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。 この事件で6名が検挙された。

宇治事件( 1952年3月13日 )
 1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、表戸などの器物を破壊し、 「殺すぞ」 の暴言を吐いて逃走した。
 そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区( 朝鮮人集落 )を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。
 また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

多奈川町事件( 1952年3月26日~30日 )
 大阪府泉南郡多奈川町( 現在の大阪府泉南郡岬町 )において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。 その後の捜査の結果27名を検挙した。

田川事件( 1952年4月19日 )
 1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。 国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。
 ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。 警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。 午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。
 21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

岡山事件( 1952年4月24日~5月30日 )
 阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、 「プロムアセトン( 催涙ガス )」 入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
 5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
 11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。 その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

血のメーデー事件( 1952年5月1日 )
 第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において 「人民広場( 引用者注:皇居前広場のこと )に押しかけろ」 を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。 乱闘中に、3000~5000名の旧朝連系( 在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊 )を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。 この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。

上郡事件( 1952年5月8日 )
 4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村( 現在の兵庫県赤穂郡上郡町 )で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に 「スパイ」 と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
 その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。 その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。

大村収容所脱走企図事件( 1952年5月12日~25日、11月9日~12日 )
 1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。 これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。 そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
 その後、11月9日~12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。

広島地裁事件( 1952年5月13日 )
 駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。

高田派出所襲撃事件( 1952年5月26日 )
 5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。 そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。 警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。 そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のけがを負わせた。
 他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。 最終的に朝鮮人31名が検挙された。

奈良警察官宅襲撃事件( 1952年5月31日 )
 奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

万来町事件( 1952年5月31日~6月5日 )
 山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。 1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
 6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
 6月5日になると、宇部市万来町( 現在の宇部市新町9丁目 )にある 「朝鮮人解放救援会山口県本部」 が 「民主愛国青年同盟」 の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。 その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。 その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。 警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。

島津三条工場事件( 1952年6月10日 )
 1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
 同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。

醒ヶ井村事件( 1952年6月13日 )
 警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村( 現在の滋賀県坂田郡米原町 )で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。

葺合・長田事件( 1952年6月24日 )
 6月24日に神戸市葺合区( 現在の神戸市中央区 )の東神小学校に約50名の朝鮮人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。 これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
 一方、長田区では、朝鮮人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。

吹田・枚方事件( 1952年6月24日~25日 )
 6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。 そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。 また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
 一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。 これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義( 旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役 )宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。 逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。 この事件での検挙者は113名であった。

新宿駅事件( 1952年6月25日 )
 国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。 そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。 また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

大須事件( 1952年7月7日 )
 大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。 岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。 そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。 夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。 その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。 名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名( その内朝連系145名 )を検挙した。

舞鶴事件( 1952年7月8日 )
 6月25日、朝鮮人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。
 7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。 双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。 同日午後5時ごろ、朝鮮人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち 「逮捕者を返せ」 と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。

五所川原税務署襲撃事件( 1952年11月19日~26日 )
 1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。 そのとき、激しく妨害したので、朝鮮人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
 これに対して朝鮮人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。


 朝鮮総連が、公安警察に監視されたり、公安調査庁の 「調査対象団体」 に指定されているのは、過去にこれだけの 「実績」 があったからです。


 三国人集団の過激な暴動に対して警察の力では治安の維持ができなかった。 そのことが強力な武装を持つ警察予備隊創設の要因となるのである。
「戦後政治の証言」 宮澤喜一 1991年第1刷 読売新聞社( 灰色文字は注 )

 ( 昭和25年 )6月25日、( 翌年のサンフランシスコ講和条約につながる )講和交渉の前途を大きく左右した朝鮮戦争が起こる。 そして、戦争が始まってまもなくの7月8日、マッカーサーは吉田首相宛ての書翰で警察予備隊( 自衛隊の前身 )の創設を指令した。 その目的は国内の治安維持であったが、日本の防衛問題に一歩を進めるものであったことは確かである。 それまで国内の治安は米軍と、丸腰に近い日本の警察があたってきたのだが、第三国人の横暴などには警察も手が出せず、そのつど米軍をわずらわせていた。 このため、あるていどの装備を持った治安力がほしいと考えていた日本人は少なくなかったのである。