大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
密航


あまり語られることのない不法入国者( うまくいけば在日コリアン1世になれた? )
「 在日朝鮮人の生活世界 」 原尻英樹 平成元年 弘文堂
 サンフランシスコ講和条約発効以後大韓民国からの不法入国が在日朝鮮人の親戚を頼るなどの形をとって行なわれたが、その実数は把握できない。検挙された者の数のみを表7に示すが、密航に成功した者がどれだけいるか定かではない。

 成功したものは後になって特別在留という形で在留を許可されろケースもあるが、不法入国のままの者もいると思われる。

 隣国韓国から日本には実に容易に行けるので、密航の取り締まりは簡単にはいかない。夜の日本海には大小無数の漁船が浮かんでおり、海上保安庁の係官は挙動不審の船を彼らの勘でかぎ分け、その船のみを取り調べるという。

 しかしながら、密入国者が日本で生活を続けるためには彼らを援助する親戚・知人が必要であり、また日本語能力と関わって働く場所も限定されるので、密航者家族の生活は勿論のこと、単身者での生活も容易でないことが想像される。

 1945年 終戦
 1948年 大韓民国成立
 1948年 朝鮮民主主義人民共和国成立
 1950年 朝鮮戦争勃発
 1952年 サンフランシスコ平和条約発効
密入国者はかなりの人数にのぼるようだ。

朝日新聞 1955年8月18日( 「 世界 」 2000年10月号 戦後日本「 在日外国人 」の虚像と実像 原尻英樹より )
 65万人( 警視庁公安三課調べ )の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内( 1都8県 )では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという。
朝日新聞 1959年6月16日( 「 世界 」 2000年10月号 戦後日本「 在日外国人 」の虚像と実像 原尻英樹より )
 密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。
朝日新聞 天声人語 1959年12月15日
 韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。
産経新聞 昭和25年( 1950年 )6月28日( 水 )付朝刊
 『 終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる 』
asahi.com千葉 企画特集 [ このまちで 栄町讃歌 ]より
密航ではないかもしれないが千葉市の韓国・朝鮮人街栄町に住む韓国人の7割が不法残留者



「 コリアン世界の旅」 野村進 1996 講談社
 日本敗戦による「 解放 」の喜びもつかのま、済州島は大混乱の予兆をはらみつつあった。8月15日以降、日本本土のほか戦前の樺太や満州、南方などに徴用でとられたり移住したりしていた人たちが、一斉に帰郷してきたのである。15万人の島内人口は、あっというまに倍以上の30数万人に膨れ上がった。香川県ほどの広さの、痩せた火山島には、彼らを養う余地などどこにもなかった。食糧事情は、目に見えて悪化した。日本の植民地下では許されなかった買占めや売り惜しみが横行した。敗戦国・日本に見切りをつけて帰ってきたところが、故郷の窮状たるや日本どころではないではないか。やむなく日本にまた引き返していく人々が、皮肉なことに「 解放 」の翌年あたりから急増する。これに追い打ちを掛けるように、1948年から49年にかけて、済州島史上最悪の惨事が起きた。島全体が戦場と化して、虐殺と放火と強制移住に覆い尽くされた、いわゆる「 済州島4・3事件 」である。(島民3万人が殺された )
( 中略 )
 逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『 潜水艦組 』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『 潜水艦組の1人 』という50代のある男性は、日本人の『 常識 』とは逆のことを私に告げた。
『 済州島( 出身者 )だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ
 在日のほとんどは、強制連行で連れてこられた1世かその子孫ではないのか。
 『 いや強制連行で来て、今もいるという人は非常に少ないです。強制連行で来た人たちは、軍需工場なんかに徴用された人も、密航で働いた人も、戦後かなりの人が帰っているか亡くなっているんですよ 』

次の2点を明記しておきたい。
 ・強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後間もなく日本政府の計画送還で帰国していること。
 ・在日1世の大半は、戦前から日本に住みつづけているか、戦後、密航できたのかどちらかであるということ。
 これらは研究者の間ではすでに定説となっているのだが、日本人一般には正反対の言説が『 事実 』であるかのように漠然と信じ込まれてきたその最大の原因は日本のマスコミの認識不足だが、在日の特に知識人が往々にして『 私たちは無理やり連れてこられた 』といった言い方をしてきたことにも一因がある。 …だが『 無理やり連れてこられた 』といった表現には、明らかに強制連行のニュアンスがこめられている日本人側が在日についてあまりにも知らないことが問題なのは言うまでもないが、在日側もこうした表現をいわば“切り札”にして日本人との議論を断ち切ってしまう場合が、ままあったのではなかろうか
在日済州島人の「 不法入国 」から「 特別在留 」獲得まで −大阪を事例に−
高 鮮 徽( 鹿児島大学 )

 済州島人は、歴史的に日本への往来が非常に活発だった。現在も、あいかわらず活発に続けられている。

 その往来形態のなかには「 不法入国 」もいた。とりわけ、戦後「 不法入国( 密航 ) 」の出身地を明らかにした数字( 法務省発表 )をみても、1970年以降の「 不法入国 」の8割以上を済州島人が占めている。済州島人の「 不法入国 」は、それだけ日本との関係が深いということを物語っている。その意味で、大阪の入管にとって済州島人は特別な存在だったかも知れない。これは、入管も済州島人について勉強せざるを得ない状況を作り出したと考えられる。「 不法入国 」の済州島人への理解は、済州島人コミュニティの人々、入管・支援者順ではなかったのかと考える。入管が済州島人の「 不法入国 」事情を最も知っている。入管から見ても、「 不法入国 」者であれ、人間に変わりない。「 不法入国 」してまで、生きる場を求め、生活基盤を築いてきた努力を積極的な評価したものと捉えられる。おそらく、上記のような背景があり、「 出稼ぎ 」目的の「 不法入国 」の済州島人に「 特別在留 」が認められたものと見ている。もちろん、済州島人の「 不法入国 」の背景として、日本の植民地支配の影響を忘れてはならないしかし、済州島人の「 不法入国( 以下で密航 ) 」は植民地支配の影響のみに括られるものではない。

 済州島人の戦後密航は、大きく三つに分けられる。その一、戦前から日本で暮らしていた人々の「 家族結合 」目的。その二、戦争の「 避難民 」。その三、就労先を求めた「 出稼ぎ目的 」に分けられる。「 家族結合 」の密航は、終戦直後から長期に渡って続けられた( たとえば、ケース3 )。「 避難民 」は、済州島の四・三事件( 1945〜1955年 )と朝鮮戦争( 1950〜1953年 )によるものであった。入管は、「 昭和40年以降出稼ぎケースが主流 」と発表している。そして、1970年代半ばからは、大量の集団密航時代に入る。

 戦後、済州島人の「 不法入国( 密航 ) 」から「 特別在留 」獲得までを生活史より、簡略に紹介したい。

 ケース1,女性、1920年父は樺太へ出稼ぎ、1946( 28歳 )年、済州島で夫と死別後、6歳の娘を連れて密航( 鹿児島上陸 )。大阪の平野の石鹸工場で働き、同僚の済州島人男性と再婚。再婚の夫との間に一男三女生まれる。「 特在 」に関しては、とくに語られていない。しかし、密航時期が外国人登録をする以前であり、さらに夫が戦前より在日していたので、「 特在 」でなく、「 永住者 」になったと考えられる。

 ケース2,男性、1947( 23歳 )年、済州島で結婚、四・三事件関係の地下運動で罰金刑を受け、一時的避難のつもりで密航( 三崎上陸 )。翌年、親族が他人名義の外国人登録をしてくれる。1949年弟密航、親族が弟の名前の外国人登録をしてくれる。1950年済州島人女性と再婚。再婚の妻との間に二男三女生まれる。自主し「 特在 」、1977年( 密航から30年後 )。このケースも、密航が早期( 1951年サンフランシスコ条約、出入国管理令公布以前 )であり、永住者の夫、永住者の子( 5人 )の扶養の責任、潜在期間が30年と長期であったことで難しくなかった。「 特在 」をとって30年ぶりに帰郷果たす。

 ケース3,男性、1927年生後一ヶ月目に日本の船に乗っていた( 船員 )父台風で死亡。1929年( 3歳 )母( 海女 )の出稼ぎに連れられて、初来日( 鹿児島 )。1941年( 16歳 )東京の蒲田の鉄工所で働く帰郷。翌年は船乗りとして来日伊豆半島で働き帰郷。さらに、その翌年は南伊豆でかじめ採りをし、帰郷。結婚、長女誕生。1948年( 四・三事件、24歳 )釜山から日本へ密航者を運ぶ船員として密航( 南伊豆上陸 )、済州島では長男誕生。南伊豆で漁師、八丈島で難破( 1951年 )し、大阪へ。日雇いやトラックの助手をする。日本人女性と同棲始める。1953年対馬へ移住、日本人女性との間に日本の長男誕生。対馬から釜山や麗水間、ヤミ( 密航者と密貿易 )の運び屋。1955年( 30歳 )釜山で捕まる、韓国の長男初対面、対馬に戻る。1960年( 35歳 )対馬の仕事が減り、大阪の靴の仕事へ日本の三男誕生。1969年( 44歳 )日本人女性と別れる。自首し、1970年「 特在 」を取る。このケースの場合、戦前からの来日歴があることと、1948年密航( 早期 )として考慮されたと考えられる。日本人女性とは、事実婚であった。

 後に、済州島の長女が成人して密航( 1963年? )し、大阪で密航者同士の結婚( 1969年 )をするが、夫( 生野生まれ )が強制送還( 1975年 )。子供と長女が残る。夫再び密航( 1976年 )するが、長女とは事実上離婚。長女が逮捕で自費出国( 1977年 )され、子供は施設に預けられる。長女の元夫は、永住者の女性と同棲、子供生まれる( 1979年 )。長女も再び密航。長女の元夫や子供達は、住民運動の成果により1985年「 特在 」認められる。さらに、1983年、ケース3の母が年老いて、息子を頼って来日、「 超過滞在 」のまま、1995年大阪で亡くなる。

 ケース4,女性、1943年( 17歳 )結婚するが、夫は福岡へ行く。本人は、黄海道( 現在北朝鮮 )へでる。1945年、解放で南北分断により、帰郷。1946年夫と暮らし始める。1948年四・三事件に巻き込まれ、疎開先で長男出産、夫逮捕。1950年朝鮮戦争が始まり、夫木浦で銃殺。1952年病気により長男を夫の実家に預ける。再( 事実 )婚( 夫には妻が日本にいた )。1953年再婚夫日本へ密航。次男誕生。1955年( 29歳 )次男( 2歳 )と姑を連れて密航( 生野区 )、再婚夫は、東京で正妻と暮らす。ミシンの仕事始める。1962年、済州島男性と再々( 事実 )婚するが、暴力をふるうため、逃げる。三男出産。隠れてミシンの仕事をする。1966年済州島にいた長男密航。1969年( 43歳 )三男が小学校に入ったことで自主、1970年「 特在 」認められる( 長男の密航事実は隠す )。このケースの場合、潜在期間が長く、子供( 次男も日本で生まれたことにした )二人が日本で生まれている。さらに子供が二人とも学齢に達し、扶養の責任がある。潜在期間が長いにも関わらず、隠れて一人でミシンの仕事をしていたため、日本語が上達しておらず、指摘された。長男は、密航後、工場の住み込みで働く。女性と同棲し、子供生まれるが、別れる。子供は、母に預ける。長男自首し、「 特在 」認められる( 時期不明、潜在期間15年以上と推定 )。長男の子供も未登録のまま中学卒業する。未登録では高校の進学ができないため、手続き、「 特在 」認められる。面接当時( 1993年 )、高校二年生。

 以上4ケースを紹介した。済州島人にとって密航は、それほど特別なことではなかった。しかし、密航した人々は、密航後、その代価を支払うことになる。密航した本人が最も苦しめられる。密航すること自体はある意味、簡単だったかも知れない。しかし、日本での生活が長くなればなるほど、誠実に働き、日本で生活基盤を築き上げ、家族形成、定着度が高くなればなるほど「 非合法 」なための「 不自由 」が痛く、自分が生きる日本の法律を犯していることの重大さを知る。ここで、潜在期間が長いのは、その間特に問題なく暮らしたために、潜在のままいられたと解釈される。そして、長い潜在期間を耐え、その間の実績( 定着度、仕事の安定性、経済的能力、人物評価( それこそ「 善良性 」 )など )を評価し、「 特在 」を認めることで、「 不法入国 」が許されたものと考える。そのため、「 特在 」は、それぞれの努力が認められた結果、かちとったものである。

( 密航に関しては、高鮮徽『 20世紀の滞日済州島人ムその生活過程と意識 』1998年、明石書店、第3章、「 第三世代 」( 密航者 )の来日と定住をお読み下さい )


在日自らが語る密入国  『 トロク組とドンブリ組 』
「 在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え- 」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房

 在日朝鮮人を形成するのははたして<トロク組>だけだろうか。<トロク組>とは外国人“登録”証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人をさす。では、あえて<トロク組>とかっこでくくるからにはそれと対になるものがあると考えられはしないか。それこそが<ドンブリ組>にほかならない。密航船に乗って日本に“どんぶりこ”した朝鮮人を抜きに在日とはなにかと発問したところでそらぞらしさだけが残る。
( 中略 )
 では、次に<ドンブリ組>の実態論に移ってみることにしよう。一体に、<ドンブリ組>の大半が済州島出身ということは何を意味するのか。このことは済州島を故郷に持つ在日朝鮮人が大阪市( とりわけ生野区 )を中心に9万人にのぼることと無関係ではない。日常性のひだに裂けた暗闇から日帝時代<君が代丸( 大阪―済州島航路の客船 )>に乗船していち早く日本に「 金儲け( トンボリ ) 」しに来なければならなかった歴史性が浮上する。日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈し済州島の人間をして「 金儲け( トンボリ ) 」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市( とりわけ生野区 )を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。もっとも、<ドンブリ組>の密航目的は「 金儲け( トンボリ ) 」だけに限定されるものではない。「 金儲け( トンボリ ) 」を密航目的のその一つとして次にその他の目的を列挙してみる。

 そのふたつ。「 1948年4月、アメリカの強行による南朝鮮だけの単独選挙、単独政府樹立に反対して立ち上がった済州島4・3武装蜂起 」( 金石範「 在日の思想 」 )が動因で引き起こされた虐殺から逃れた「 難民、亡命者といった性質 」をもつ密航。このケースでは解放された祖国に帰ったものが多数ふくまれている。日本への逆流現象。金石範氏は「 現在の在日朝鮮人のあり方を規定したともいえるだろう 」( 「 在日の思想 」 )と指摘している。

 そのみっつ。アメリカのベトナム侵略が泥沼化したことで韓国政府がベトナム派兵を決定した1965年以降現れた「 徴兵忌避 」を目的とした密航。ほかに「 離散家族の再会・同居 」「 思想的に拘束を受けない日本の大学での勉学 」「 病気治療 」など。

 さて、「 法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる 」( 朝日新聞84年3月7日「 検証 」 )。生野区およびその周辺で育った在日朝鮮人の記憶にはなんらかの形で<ドンブリ組>の存在が影絵のようにゆらいでいるはずだ。ここではいくつかの記憶を発掘してみたい。( 後略、密航者の来日動機や生活の実態が4例記されている )
「 在日 」と密入国  元秀一  ( 灰色文字は注記 ) /TD>
 外国人登録証を所持している<トロク組>といえども不正な手段で入手した密入国者もいる。以下、佐藤勝己著「 在日韓国・朝鮮人に問う 」1991年亜紀書房発行から
 『 ゆうれい登録証が大量に存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれている… 敗戦直後日本から帰国した朝鮮人が再度日本に手続きなしで入国、それらの人に登録証が裏で売買された 』
産業経済新聞( 産経 )昭和25年( 1950年 )6月28日朝刊
‥‥‥( 不法 )入国した際の外国人登録証明は暴力と買収につきるといわれ、それがそのまま合法化する場合が多いようだ 』
朝鮮新報 やさしい法律相談 Q&A から
Q:『 本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります 』
A:『 実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「 尹( ユン ) 」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「 洪( ホン ) 」の氏を使用し、学校では「 尹 」の氏を使用しました 』

終戦の混乱に乗じて朝鮮のハンセン病患者が大量に密航していた。
昭和23年6月4日衆議院本会議での榊原亨の質問     ( 灰色文字は注 )
( 榊原亨議員は日本医師会副会長であった )

 私は、最近激増しつつあります癩( らい )患者の犯罪に対する処置並びに癩病( ハンセン病 )に対する救癩事業そのものにおいて、はなはだ遺憾の点多く、これが緊急の対策を要するものありと考えますので、以下諸点につき、法務総裁並びに厚生大臣の責任ある御答弁を要求する次第であります。

 元來癩病という病は、ほとんど不治のものでありまして、恐るべき傳染病であることは、今日一般に認められているところでございます。しかして、これら癩病をまつたく社会から根絶一掃するためには、完全なる治療法のなき今日としては、どうしても癩病の患者を一般社会から隔離收容して、その傳染源を断ち切るよりほかに途がないのであります。すなわち、これらの隔離收容せられました癩患者は、自分自身の病気を治すというよりも、むしろ私ども一般の健康な國民に癩病を傳染させないために、みずからを犠牲といたしまして、孤独な、さびしい生活をもつて一生を終るのでありまして、ここに救癩事業が数多い社会事業の中で最も重要な意義を有するという理由があるわけであります。私ども國民といたしましても、これら犠牲者が、その孤独の生活のうちにも何かしら温かい光明・希望を抱いて、安心して平和な生活ができるようにいたしますことは、國家の責任であり、また新しい憲法の精神よりいたしましても、あるいはまた人道上の見地よりいたしましても、最も大切なことであると信ずるものであります。

 しかるに、ここにはなはだ遺憾にたえないことは、近來、これら癩療養所内において、言語に絶する不道徳なる行為が公然と行われ、ときには、きわめて惡質なる犯罪さえも次第に増加しつつあるのでありまして、かつては平和な別天地であつたこれらの療養所の秩序はまつたく乱れ、善良な收容患者の不安・迷惑を増幅しておるばかりでなく、さらにこれら療養所が一般社会におけるところの犯罪の温床と化しつつある事実であります。
 しかして、これが原因のおもなるものは、現在わが國の癩病患者の犯罪者を收容すべき刑務所、あるいはこれに類する特殊なる施設が全然欠如しておることに起因するのであります。
 たとえば、ここに癩病患者の一犯罪者が檢察当局によつて捕えられますと、その者は癩病患者であるという理由から、一般犯罪者を收容する拘置所に收容することができないために、結局取調べもうやむやとなつて、あたかもはれ物にさわるがごとく、そのままただちに癩療養所に送致收容せらるるを常とするのであります。その際癩療養所といたしましても、はなはだ迷惑至極ではございますが、やむを得ずこれらの犯罪者を收容するのでございまするが、その犯罪者を入れる設備がないために、一般患者のおる病室に收容せざるを得ないのを常とするのであります。結局、いかなる犯罪を犯しましても、癩病患者である限り処罰または監禁されないということになつてしまうのであります。
 さらに驚くべきことは、癩患者の犯罪人と共犯でありますところの健康者の犯罪人がある場合は、結局取調べの煩雜さか避けるため、これも癩患者同様に癩療養所に送らるるという、まつたく常識をもつてしては判断することができない事実があるのであります。最近私の聞き及びました実例によりましても、殺人犯人が癩患者であるために、何ら刑法上の処罰を受けることなしに、そのまま癩療養所に收容されたばかりでなく、さらに、その共犯者である一健康人をも收容した事実があるのであります。
 これらの犯罪者が療養所に参りますると、自身自暴自棄のふるまいをなすばかりか、公然と、自分は殺人を行つてきたのであるが、何らの処罰を受けておらない、癩患者は、どうせ前途に希望がないのであるから、何をやつても差支えない、何をやつても処罰されないと公言いたしまして、他の善良なる患者を誘惑いたしまして、病室内において大がかりな賭博を始め、その他種々の忌わしい犯罪を犯して、平然として療養所内の秩序を乱し、まつたくの療養所内の暴君と化しつつあるが、これに対して療養所の当局も、まつたく手も足も出せぬという状態であります。かつて平和な理想郷であつたところのこれらの療養所は、今やまつたく百鬼横行のちまたと化しつつあるのであります。
 さらに寒心にたえないことは、これら犯罪者に限つて、必ず折を見て再び療養所を脱出して一般社会に潜入し、傳染の根源となるばかりか、凶惡犯罪の害毒を流すに至るのでありまして、今にしてこれが対策を講じなければ、その社会的害毒の及ぶところ、眞に膚にあわを生ずるものがあるのであります。

 さらに問題となりますのは朝鮮人患者のことであります。現在朝鮮人癩患者は、一療養所に約四、五百名くらい收容せられておるのでございまするが、戰前朝鮮の小鹿島にありました約六千名の癩病患者は、終戰と同時に日本人職員が引揚げたのを機会に、全部これが脱出をはかりまして、この脱出いたしました六千名の癩患者の大部分は、あらゆる手段を講じて、日本に向け多数密航してきたのであります。その一例を申しますると、兵庫縣の尼崎市におけるがごときものでありまして、これら朝鮮人患者は、日本において一團を組織いたしまして、不良なる日本人または朝鮮人と共謀いたしまして、いろいろ凶惡なる犯罪を犯しつつあるのであります。そして、彼らの一部が万一警察に捕われましても、前に申し上げた通り、何ら処罰を受けることなく、そのまま癩療養所に再び收容され、彼らはますます増長いたしまして、療養所内の秩序を乱し、勝手氣ままな生活をした後、折を見て再び三たび脱出するという順序を繰返しておるのでございまして、療養所は、この種犯罪者の安全なる温床となつておるのであります。これらの点につきましても何らか緊急の処置を講じなければ、單に一般社会への癩病の傳染の危險があるばかりでなしに、社会の安寧秩序の上から申しましても、実に重大なる事態に至ることを憂うるものであります。
( 後略 )

( 小鹿島とは朝鮮のハンセン病患者を隔離治療するため1916年半島南東部の小島に設けられた小鹿島慈恵病院( のちに小鹿島更生園 )のこと )
 ハンセン病問題をめぐるマスコミの報道では、患者たちを日本の人権侵害を糾弾する正義の闘士として位置付け、一部とはいえ悪人が暴れて深刻な問題になっていたことや朝鮮からの密航者が集団で犯罪を犯していたことは報道せず、国の強制隔離政策や施設の非人道的取り扱いのみを非難していた。自分たちのプロパガンダにマイナスとなるものは国民に知られたくないという隠蔽体質がここにもみられる。

朝鮮人の密航は戦後始まったのではなく内地への渡航制限をしていた戦前からあったのだ。
「 朝鮮人強制連行の記録 」 朴慶植 1965年 未来社
 1921〜30年の渡航、帰還、居住人口は上表の通りである。( 表省略 )しかしこの数字以外に、渡航阻止制度のため証明書なしに、いわゆる「 密航 」したため送還された者が相当多い。1925年10月〜1930年末に14万4839人の多きに上っている。

「 密航 」に関する当時の新聞記事の見出しのうち朝日新聞大阪版の一部を記します。
戦前朝鮮人関係新聞記事見出し( 亜細亜の歴史より )
『 鮮人内地密航/発見されて説諭 』 大阪朝日 1921/7/15
『 又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる 』 大阪朝日 1922/5/20
『 鮮人十名密航 』 大阪朝日 1922/7/2 夕
『 朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名 』 大阪朝日 1926/4/7
『 怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕 』 大阪朝日 1926/4/13
『 密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸 』 大阪朝日 1926/4/17
『 密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす 』 大阪朝日 1926/4/20
『 鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情 』 大阪朝日 1926/4/24
『 鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した 』 大阪朝日 1926/4/29
『 密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察 』 大阪朝日 1926/5/5
『 生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて 』 大阪朝日 1926/5/20
『 依然と困る密航者/釜山署の大弱 』 大阪朝日 1926/5/28
『 戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人 』 大阪朝日 1926/8/14
『 鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で 』 大阪朝日 1926/8/25
『 さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋( 水電工事にも ) 』 大阪朝日 1926/10/6
『 渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少 』 大阪朝日 1926/11/17
『 密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸( 豊浦郡川棚村 ) 』 大阪朝日 1927/3/3
『 夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見( 五十余名 ) 』 大阪朝日 1927/4/9
『 密航鮮人/十余名捕る( 田の浦海岸 ) 』 大阪朝日 1927/4/20
『 密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中 』 大阪朝日 1927/5/15
『 怪機船/密航鮮人の輸送を企つ 』 大阪朝日 1927/5/18
<以下略>

大量密航の記事
『 福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名 』 福岡日日 1938/3/3

日本人に土地を奪われた朝鮮人農民が仕事を求めてやむなく渡日したという通説に反する記事
『 密航鮮人逮捕/田地を売ってきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸( 門司 ) 』 門司新報 1937/3/11

Link 朝鮮近代史研究  --->  データベース戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索


韓国人の在日韓国人観

本国の韓国人が在日を見る目には厳しいものがある。
「 韓国人が身勝手に見える理由 」 中村欽哉 1996年 三交社     ( 灰色文字は補足 )
 ある韓国作家の在日韓国人観を伝えておこう。

 「 わたしは今日まで自分が生きることで精一杯でした。とても在日僑胞のことまで考えることかできませんでした。これが韓国の現実だと思います。しかし、在日韓国人は、総聯( 在日本朝鮮人総聯合会 )がいやなら民団( 在日本大韓民国居留民国 )、民団がいやなら中立、それがいやならカネもうけと自由に動いている。北であれ南であれ、本国にいる人にそんな自由はなかった。私たちがこういう人たちを信用できるでしょうか 」。

 次に在日韓国人が攻撃されるのは、出身身分だ。韓国人によれば「 朝鮮半島で食いつめて、裸同然で日本に行かなければならなかった、“キオッ( ハングルでKの音 )の字も知らない”( いろはのいも知らないに相当する )ような連中 」とか、「 朝鮮半島の南端の慶尚南道、全羅南道にいた貧農 」が、在日韓国人になったのだという。朝鮮半島で食いつめた、無学で無教養の貧乏人が、なんとか食いつなごうと日本に渡って、それが在日韓国人の大半だというのである。在日韓国人そのものをハナから蔑視しているのである。韓国人が在日韓国人を非難するときには、「 強制連行 」した悪夢のような日帝の存在も忘れてしまうらしい。さらに「 食いつめ 」者にした犯人である日帝による「 土地搾取 」も非難されない。しかし、在日韓国人は韓国でそうはいわれながらも、日本にたいしては、「 日帝によって、軍人として、また軍需工場や軍事施設現場の労働者として、朝鮮半島から強制的に犯罪者のように連行された人と、その二世、三世である 」と説明している。

日本人よりずっと品がない

 その「 貧農 」で「 食いつめ 」た「 キオッの字も知らない 」連中が、日本の経済復興とともにお金を稼ぎ、故国を訪問しだしたのである。韓国人には、「 パチンコ屋や食い物屋( 社会的評価が低い )のような商売をして、金をつくり、それを見せびらかさんばかり、昔の恨みをはらすかのように使いまくる 」ように見えたのであり、じっさいに在日韓国人が、「 団体旅行で、凱旋するかのように祖国へきて、礼ビラを切り、女は買うわ( キーセン観光か )、バクチはするわ 」したのである。在日韓国人は「 日本人よりずっと品がない 」と思われたのである。「 パチンコ屋や食い物屋のような商売 」を例にだすことで職業差別もしている。

 しかも、「 韓国国籍をもちながら祖国存亡の6・25動乱( 朝鮮戦争 )のとき、だれひとり馳せ参ずるものはなかった。だれひとりだよ。のみならず、日本に動乱ブーム( 朝鮮戦争の特需景気 )がおこり、君らはわれわれの犠牲のかげで巨利を博した。そして、母国に遊びにきては、これ見よがしに札ビラを切る。生命をはって祖国を守り、貧苦に耐えてきた同胞の目の前でだ。判るかね、君たち僑胞にたいするわれわれの気持ちが 」と、韓国人が語っているように、朝鮮戦争で苦境におちいっていたとき、在日韓国人は、戦争に参加することなく、お金もうけにいそしんでいたと、考えてるのである。

 朝鮮戦争のとき、在日韓国人は本当に、誰一人として駆けつけなかったのであろうか。駆けつけたという証言を紹介しておこう。
 「 大学生の時に、韓国で動乱が始まったわけです。朝鮮戦争と日本でいわれていますね。それで私は、韓国軍に志願兵として半島にわたったんですよ。在日僑胞志願兵として、最初の第一陣の百三十七名の一人だったんです。結局、日本からは六百人くらい志願でいったんですね。戦死したり、行方不明になったのが三分の一、日本にまた戻ったのが三分の一ですね。この手はその動乱の時に指をとばされたんですよ。名誉の負傷というやつですよ 」。
 しかし、事実かどうかの問題ではない。在日韓国人は「 母国の苦しみをネタに金をもうけた 」と多くの韓国人は思い込んでいる。
「 関釜連絡船 -海峡を渡った朝鮮人- 」1988年 金賛汀 朝日選書から要約
 貧しかった渡日朝鮮人
 1925年、山口県警察部特別高等課が関釜連絡船を利用して日本に上陸した朝鮮人労働者の所持金を調査したところ5円未満の所持金しかない者が、実に66.6パーセントであった。5円未満とは、関釜連絡船の往復運賃にも満たない金額である。さらにこの調査では、なんと無一文の渡航者が7.6パーセントもいたのである。日本語も満足に話せずお金も一銭もない貧乏な朝鮮人が、日本へ出稼ぎにやって来ていたのである。1926年、朝鮮慶尚道警察部が日本に出稼ぎに出た朝鮮人労働者の調査をしているが、男性労働者の1日の日給は平均して1円40銭であった。
「 日本による朝鮮支配の40年 」 1992年 姜在彦 朝日文庫
 文盲が多かった渡日朝鮮人
『 …生活水準がそういう状態ですから、当時の朝鮮では、子供を学校に行かせるというのは大変なことだったのです。 …ですから在日朝鮮人の一世たちは、ほぼ7〜8割が文盲です。そいう状況ですから、植民地時代を生きた朝鮮人の貧困が、無教育、非衛生、道徳的堕落というものと深くつながっているのです。日本人からみると、朝鮮人は「 民度 」が低いことになり、民族差別の一つの原因となるわけです。なんとなく薄汚くて、貧しくて… おのずから差別につながっていくわけです 』
祖国が存亡の危機にあった朝鮮戦争を傍観し平和な日本で生活していたことが、在日の本国人に対するコンプレックスになっているようだ。在日が本国で蔑まれても彼らに頭が上がらない理由が分る話である。また彼らが日本に居住している言い訳を、戦時中の強制連行や韓国併合後の土地調査事業で農地を追い出されて仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと、自らの意思によるものではなく半ば強制されたものであるとする他律的な来歴に執拗にこだわるのは、このことも大いに関係しているのだろう。祖国が存亡 それにしても、この韓国人と下記の日本人裁判官の在日に対する認識の違いには驚くばかり。


在日と強制連行に関する最高裁判所判事・園部逸夫氏の歴史認識です。

“大岡裁き”を気取っているのでしょうか?  冷徹に国益を考えてもらいたいものです。
産経新聞 平成12年9月22日     ( 灰色文字は注 )
 永住外国人の地方参政権問題で、『 立法措置を講ずれば憲法に違反しない 』とする平成7年2月の最高裁判決にかかわった前最高裁判事は、ある新聞( 朝日新聞・平成11年6月24日付 )に次のような回想録を寄せている。

『 在日の人達の中には、戦争中に強制連行され、帰りたくとも帰れない人が大勢いる。「 帰化すればいい 」という人もいるが、無理矢理日本に連れてこられた人達には厳しい言葉である 』

判決の中のこの部分は傍論であり、判例拘束性はないが、こうした歴史認識から導き出されたとしたら、それは間違っていると言わざるを得ない。

反日プロパガンダが最高裁判所にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか? いずれにせよ司法の由々しき事態だ。