大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
朝鮮人渡日の原因となった
〜 朝鮮総督府の施策 〜





考証 : 朝鮮人渡日の原因となった朝鮮総督府の施策
 在日コリアン1世強制連行説を声高に唱えない人は、かわりに、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと言います。
 しかし本当のところは総督府の近代医療・衛生施策の成功で人口が爆発的に増え、その朝鮮の過剰人口が移民を促したのです。( 現在の韓国は世界有数の人口密度で戦後はアメリカへ移民し続けた )

朝鮮総督府は土地調査を行い近代国家の基礎となる土地所有権を確立した。
係争地では土地所有を認められる者と認められない者が出たが、日本人によって土地を奪われたというのは事実誤認である。

李朝時代の土地所有と利用状況
「 朝鮮 」 金達寿 1958 岩波新書
 元来朝鮮には土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、彼らは土地の管理をせずに収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせきりであり、しかも舎音が何段にも重なって中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。
日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認である。


「 NOといえる教科書 」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
井沢:さてこの時代になると韓国の教科書の記述は一方的で、これはある意味で予想されたことですが、中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。まず「 土地の侵奪 」という項です。要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。土地所有関係を近代的に整理するという理由をつけてのことだったけれども、しかしその登録方法がむずかしいのと、反日意識のため、登録しない農民が多かった。登録されない土地は持ち主がいないということになって、朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。
藤岡:それは歴史の歪曲です。どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、農民の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。封建社会においてはヨーロッパでもそうでしたけれど、近代的な意味での土地所有権というのは、はっきりしていないんです。実は何重にも権利が重なっているということがあります。日本の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、近代的な意味での土地所有権という慨念を確立したわけですが、日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。つまり朝鮮総督府の最大の功績の一つは、土地の所有権を認めたということです。つまり農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を公権力が保障したということなんですよ。これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。たしかにその過程でいろんな混乱はあったでしょうし、不平、不満も出たことでしょう。
井沢:たとえば権利が重層しているような場合ですね。両方が争って、どちらか一方に決まれば、もう一方の側としては、奪われたということになりますね。
藤岡:そういうことはあったとしても、全体として、この施策は明らかに朝鮮の近代化に役だったはずです。現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、持ち主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、その比率はごく微々たるものです。
山本有造氏の「 日本植民地経済史研究 」( 名古屋大学出版会刊 )によると、こうした理由で総督府に接収された上地は約12万町歩、また定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないために接収された土地は2万7000町歩で、合計14万7000町歩ということです。1922年( 大正11年 )の時点で朝鮮における全耕地面債は450万町歩ですから、土地調査により総督府が接収した土地は全耕地の3%ということになります。ちなみに同年の日本人農業者所有土地面積は17万5000町歩、東洋拓殖という国策会社の所有土地面債は8万町歩で、計25万5000町歩です。これも全耕地面積の5.7%にしかなりません。
井沢:それがこの教科書では、何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読めますね。韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。ここで引いた教育出版のものでは「 土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった 」、大阪書籍では「 韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて農民たちから多くの耕地を取り上げ 」と、韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。
井沢:なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。そもそも近代的な土地所有権の確立されていない国は、近代化できないんです。これは鉄則です。ものを作るにしても何にしても、まず土地の所有が確定してないとどうしようもありません。総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。中国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。もっとも、朝鮮政府でも1895年に、量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。このことは付け加えておいていいでしょう。
藤岡:黄文雄さんは、日本が行なった土地調査を「 総督統治の朝鮮に対する最大の功績の一つ 」といっています( 「 中国・韓国の歴史歪曲 」光文社刊 )。
「 中国・韓国の歴史歪曲」 黄文雄 1997 光文社
 たとえば、豊臣秀吉が天下統一後に行なった「 太閤検地 」は、歴史上の画期的なできごとであった。朝鮮総督府が行なった朝鮮の「 土地調査 」は、朝鮮史ではよく「 土地強奪 」とされているが、それはまったく次元の違う話である。近代国家としては、土地所有権の確定と、税制の確立は絶対に必要条件であるが、それは朝鮮総督府の税源の確保だけが目的ではなく、道路、鉄道、水力発電をはじめとするインフラ建設から近代農業の経営等々にも、正確な検地は絶対に必要であったのだ。
 近代国家の最低条件の一つとしては、まず明確な領土領域状況の把握からはじまる。朝鮮は2000年の歴史を持つというわりには、農地の単位が曖昧にして原始的であった。たとえば「 一斗落ち 」とか「 一日耕 」という田畑面積単位があっても、単位計算が不明確で、農民の土地所有権も確立していなかった。いつ国家に没収され、あるいは追い出されるかわからない。土地は、たいてい圧倒的少数の貴族が所有し、農民と所有者の間に幾層もの中間管理人が介在していた。
 だから度量衡の統一、地権の確立、人口調査、インフラ整備には、正確な土地調査が必要である。朝群総督府は、スタートと同時に土地の所有権、価格、地形地貌などの調査を開始し、1928年に完成をみた。正確な検地は、総督統治の朝鮮に対する最大の貢献の一つと数えるぺきであろう。
 結果的には、多くの隠し田が発見された。当初、約272万町歩の農地が、検地の後に433万町歩にもなった。
韓国人学者は「 土地の強奪 」と主張するが、国策会社の「 東洋拓殖 」が買い占めた耕地面積は、約4%にすぎなかった。半数以上の農民の土地所有権が確立されたことが、歴史的事実である。台湾での日本資本の製糖会社が買い占めた10%以上の土地に比べても、わずかであった。それでも台湾においては「 日帝の耕地強奪 」という話を耳にしたことはなかった。
李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。


「 図説 韓国の歴史 」 1988 金両基 河出書房新社
 晋州民乱( 1862年 )当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。剰余生産物の蓄積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知ることができる。
 朝鮮王朝末期の自作農が3〜4割で、小作農が6〜7割だったという農村調査報告は、このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。いわゆる三政紊乱( 田税・軍役・還穀の乱れ )により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。
( 中略 )
 乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。
朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。

在日コリアンは、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと主張していますが、当事者である在日1世の多くが土地調査事業が行なわれたことを知らないのです。 
「 アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書- 」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊
在日1世1106名のアンケート調査結果から
<土地調査事業の周知>
「 日帝が行なった『 土地調査事業 』をご存知ですか 」と尋ねたところ「 知っている 」「 聞いたことがある 」と答えた人は4分の1( 25.1% )であり、「 知らない 」と答えた人のほうがはるかに多い。
当人たちが知らない“土地調査事業”を渡日理由にしたというのは、後知恵だろう。( 笑 )‥‥という訳で『 土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきた 』という主張は、どうやら正しくないようです。

日本は朝鮮農業を近代化して農民( 大多数の国民 )の生活向上を実現した。 欧米型植民地経営とはまったく違うこの現実を見れば「 朝鮮を収奪した 」という言葉はあてはまらないはずだ。


悲惨な状態だった李朝時代の農業環境と朝鮮農民
李朝時代は農業土木が遅れていて自然任せの不安定な農業だった
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998 光文社
 朝鮮半島は、地形的には脊梁山脈が縦走しているので、日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、朝鮮海峡側に注ぐ河川には大河が多い。また、有史以来、大規模な治山、治水は、ほとんど行なわれておらず、自然のままで放置されていた。雨季はだいたい7、8月ごろで、台風の来襲も同時期に集中しているので、洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自然生態史をつくってきた。
 わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。日本の河川に比べて、流水量は二倍もあるのに対して、渇水期の流水量は、日本の河用の十分の一から二十分の一にすぎない。
 朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、ほとんど自然のままの状態で荒廃していた。李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わずかに都邑のみにおいて、堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。
 朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、あるいは河水を堰き止める石木や土でつくられた「 ボク( 上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、これを水路によって下流地方の平野に導水する )というものは、決して絶無ではなかった。はるか1500年前の新羅時代に有名なペタコル池( 堤 )という一大堰堤( 岸長1800歩 )があり、歴代王朝に堰堤の修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、山河がしだいに荒廃し、堰堤らしいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えることがなかった。
 李朝の歴史記録によれば、堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわれる。しかし水利関係者が、「 万石堤 」と称する貯水池以外は、ほとんどどこかに消え、荒れ果てている。農事潅漑はたいてい腕力による。流水の汲み上げに限る足踏み水車も、まれにしか見られなかった。天水に頼り、農業はきわめて原始的である。
河川堤防がなく、灌漑設備もないため耕作できない土地が広大にあった。

飢餓と疫病 “生き地獄”を生きた李朝朝鮮の農民たち
「 朝鮮 」 金達寿 1958 岩波新書
 農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉( 1671 )は飢えと疫病とによって死んだものは、前二者( 秀吉軍・モンゴル軍 )との戦争による死亡者よりも多く、飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
 こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病による死者5〜60万を数えたといわれ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998 光文社
“生き地獄”を生きた李朝朝鮮の農民たち
 フランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。
「 1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに は、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「 どこの道にも死体が転がっている 」と訴えた。しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。 」( 朝鮮事情・平凡社東洋文庫 )
 朝鮮農民の間には、古来から「 春窮、麦嶺越え難し 」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾( 長い間治らない病気 )と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
 朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。旱害、水害、風害、ひょう害、霜害、病虫害が、間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然である。そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農は大なり小なり、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。
李朝時代は、現在の北朝鮮のように“餓死者のでる国”だったのだ。


搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち
「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993 光文社
 地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、苛斂誅求( かれんちゅうきゅう )の政治を行こない、自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、苛政( 暴政 )にいっそう拍車がかけられた。
 そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。
 李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、「 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「 どうしてそれらの土地を耕さないのか 」ときいたところ、「 耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ 」という返事があった 」( 「 朝鮮の悲劇 」 F.A.マッケンジー )と書いている。
絶望の世界に生きていた朝鮮人。働いても自分すら養えないという、これほど理不尽な話はない。

日本統治によってまともになった農業環境と朝鮮農民
総督府により農業基盤整備が行われ、朝鮮人農民に多大な利益をもたらした
「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993 光文社
 日本は鉄道の敷設と、河川敷きの整備工事を並行して行なった。水防工事によって得られた農耕地は、日本人地主のものとなった。水防工事や水利工事は、韓国人農民にも多大な利益をもたらした。韓国人農民も水利組合をつくったおかげで安心して農耕ができるようになったから、損はいっさいなかった。全国的に護岸工事が行なわれた結果、耕地面積が飛躍的に増大した。
 李朝末期の韓国は、道路や、農地、山、河川、港湾など荒廃しきっていた。私たちの村では、鉄道建設工事と水防工事が、春窮季( チュングンキ )に行なわれたから、村人は大いに助かった。農村はこの時期、いつも食糧が底をつき、収入もなかった。
 李朝末期まで、民衆は官吏と地主と高利貸( トンノリ )によって責めたてられて、生き血を吸われていた。高利貸は立稲先売( イップトソンメ )といって、貧民から収穫を引き当てにして、高利で金や米を貸した。両班も長利米( チャンリサル )といって蔵に蓄えた米を高利で、常人に貸し付けた。日本時代になってから金融組合ができたので、農民は、安い金利で融資を受けることができるようになった。今日でも韓国では高利貸が横行して、貧しい人々の生き血を吸っているが、李朝時代に発しているものだ。

朝鮮農民の手本だった日本人農民( 労働が報われる時代がやってきた )
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998 光文社
 日本人の朝鮮半島に対する「 土地強奪 」間題としてよく批判されているのは、日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。日本人は両班( ヤンバン )ではあるまいし、法治国家の国民である。これほどの歴史歪曲があろうか。
 朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、せいぜい一割にすぎなかった仮に「 二束三文 」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。
( 中略 )
 移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着し、農民は生活が向上している。
 日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。開墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少なくなかった。
 たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。李完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、水田にもならない不毛の地であった。
 当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を強奪するよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行なう者が多かった。日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの農業革命をまき起こしている。
 農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない光景であった。当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。
 雨や雪の日の労働を忌み嫌い、冬季になると室内に蟄居( 家のなかに閉じこもり )して、無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に従事し、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であったそして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡った。
 そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、他人に顔を見せることを恥としていたが、婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。
 日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった、日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。
 「 土地の収奪・搾取 」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たしてきた。その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないのだろうか。 まことに遣憾である。

朝鮮農業近代化に尽力して感謝された日本人
「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993 光文社
 日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。
 日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監( サンカン )という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。
 私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。
 私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変( 日中戦争 )に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたびたび聴いた。名調子の演説が多かった。
(中略)
 あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「 夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります 」と熱弁を振るった。
 私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「 ケンジャンハンラサム 」( 立派な人だな )とつぶやいたり、「 ヨクシ、ヨクシ 」( なるほど、なるほど )と相槌を打った。
 また「 カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです 」といった話もあった。
 日韓併合以前の韓国の山々といえば、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。
 日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。
 それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人( ソチクイン )である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。
 日本人が所有していた農地は、独立後に、「 敵産 」( チョクサン )としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。
 私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「 べべーミ 」( 船が浮かぶような水田 )と呼んでいた。しかし、1911年( 明治四十四年 )、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「 ベベーミ 」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。
 母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。
 日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けば、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「 イルボンサラムン・キョンウカタルダ 」( 日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉 )という言葉がよく交わされた。
 それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「 アブチェビ 」( ゴマスリ )と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。

総督府の農業政策が成功して米の収穫が倍増
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998 光文社
朝鮮産米の生産性は、どれだけ向上したか
 日本の農務省による『 韓国土地農産調査報告 』によれぱ、1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。「 日帝36年 」の朝鮮統治で、米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。有史以来、年産1000万石以上を一度も超えたことのなかった朝鮮産米生産量は、昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。それは歴代総督が、食糧生産の充実と米殻生産性の向上に並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。
総督府による農業政策の成功で飢饉がなくなり餓死者がいなくなった事と、近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったうえ乳幼児死亡率の低下で人口が爆発的に増加していく。 ( なんと植民地36年で倍増 )

「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998 光文社
 伝染病問題は、朝鮮半島で飢饉以上に頻繁に発生した。飢饉に続いて、連鎖的に疫病が襲いかかった。もちろん、それは朝鮮半島に限らず、中国大陸においてもそうであった。朝鮮半島では、17世紀の中葉ごろから、平均2.6年に1回の割合で疫病が大流行した。趙珠氏の『 19世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識 』198ぺージ )によれば、17世紀の中葉ごろ〜19世紀の中葉の間に、年間10万人以上の死者を出した疫病が6回もあった。1749年の全国大疫病では、死者50万人以上とも記録されている。「 民乱 」や「 倭乱 」、「 胡乱 」といった戦争以上に、朝鮮半島の人命を奪ったのは、ほかならぬこの疫病の大流行であった。著名な自由主義者で、植民地論者の新渡戸稲造は、「 植民地経営の要は、衛生の改善にある 」という植民地論を展開したほどである。
 李朝は、天災と疫病のたび重なる発生をそのまま放置した。李朝末期となると、朝鮮の高官たちは、ほとんど政権争奪に明け暮れ、いわゆる「 三政紊乱 」‐−政治腐敗、官庁の綱紀紊乱、官吏の横暴が絶頂に達し、もはや治山、治水や疫病を退治する余力がなくなっていた。
日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。

「 醜い韓国人 」 朴泰赫 1993 光文社
当時の韓国を訪れた外国人は筆をそろえて、いかに不潔だったかに、驚いている。
 ビショップ夫人は「 ソウルは汚ないことと臭いことでは、世界一である 」と書いている。「 25万人の同市民は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動( しゅんどう )していると形容したほうがよいだろうか。その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。路傍には悪臭が芬々( ふんぷん )とする溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と、獰悪( どうあく )な犬とによって占領せられている 」
 「 市街の中心を西から東へ流れる下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている 」
 「 南山の中腹に日本公使館があるが、木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。その麓に日本人居留地があり、約五千人の日本人が小さな天地をつくっている。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい 」( 「 三十年前の朝鮮 」バード・ビショップ 1925年 )
「 炎は流れる 第3巻 」 大宅壮一 昭和39年 文藝春秋
統監府の外務部長として赴任した小松緑の書いたものによると、
 『 京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、そのそばの土溝( どぶ )には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路( わいろ )の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、通るたんびに命がちぢまるといっていたくらいだから、その非衛生的穢状が察せられるであろう 』
そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、
 『 やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか 』
 といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、小松の話がウソではないことを知り、さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、日系官吏のために官舎が建てられることになったという。
「 悲劇の朝鮮 」 アーソン・グレブスト 1912年( 高演義・河在龍訳 1989年 白帝社 )
 釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほどいいものではなかった。道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。日本のように人目を引く商店や、古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積もり、長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。あちこちに乾上った下水道があるが、そのべとべとした底ではいろんな汚物が腐りかけている。そしてその中で髪の毛の長い子供たちが遊んでいる。朝鮮の海辺の村落を通り抜け、車夫らは道がより広く比較的きれいな、日本風の市街地へ向かった……
総督府による近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったことと、乳幼児死亡率の低下で人口が大幅に増加していく。

韓国人と反日左翼は総督府の植民地経営の善政を一切認めないが、これは輝かしい成果の一つではないのか?
「 醜い韓国人 朴泰赫 」 1993 光文社
 日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕( ビョンマク )の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵( むしろ )をかけたうえで、厠( かわや )を焼き払った。厠は家の外につくられていた。
 日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。
 私が少年だったころには、通学路の途中に、道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、子ども心に恐ろしく思ったものだった。多いときには、80人近くの病人が収容されていた。
 それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死( ケクサ )と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。
 しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった
。私たちの村では病幕が、私が小学五年生になったときまであった。
「 歪められた朝鮮総督府 」 黄文雄 1998 光文社
 朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。
各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。
 朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。
朝鮮人人口の推移、急激な増加がみてとれ李朝時代と比べると倍増している。 総督府は農地開拓を進めて農業人口を増やしたが、それ以上に人口が増加した。

「 朝鮮総督府統計年報 」  朝鮮総督府編
年次 総数 ( 注 )年末常住人口・1944年は5月
1910 1312万8780人  ( 注 )初期の調査は精度が低いとされている
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人 ( この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた )
ココが重要です。
朝鮮人渡日の原因を強制連行と土地収奪に求めている反日連中は、人口の爆発的増加を無視しています。HPや関連書籍を読む時ぜひチェックしてみてください。


人口の増加は日本だと商業・工業の発展で吸収していったが、朝鮮の場合過剰人口は半島外に活路を求めた。北部の者は満州へ農業移民となり、南部の者は日本へ賃金労働者として移り住んだ。これが現在の在日コリアン1世である。



農家の過剰人口である土地を相続できない次男三男は、分家の手段として日本での労働・移住を選んだ
「 朝鮮経済の史的断章 」 近藤康男 昭和62年 農山漁村文化協会
朝鮮農村の人口流出メカニズム
 昭和15年日満農政研究会東京事務局の報告書『 朝鮮農村の人口排出機構 』は、南鮮の人口流出の実情を客観的に分析した価値高いもので、以下はその要約である。
( 中略 )
( 分家する場合 )零細農の次男以下の場合は、親から所有地を分譲されることのないのは言うまでもなく、結婚費用も出して貰えないので、大体10年近く朝鮮内で年雇生活をして得た貯蓄で結婚をし、雇い主などから若干の土地を借入れて独立するのが唯一の分家の方式であった。しかし用地難に加えて主従関係が昔のようでなくなったので、年雇から小作農に独立という途は狭き途となった。
 そこへ日本の労働市場の開放は小農の分家方式の新しいひとつとなった。……分家方式をとった日本への移住者も渡航当初は大部分が無配偶者であったが、それが結婚費用を稼いで妻を迎えたのである。……彼らは日本に分家の手段だけでなく定着の場所をも見つけているのである。これまでは、日本で多少の貯蓄をすれば故郷に帰って、結婚と分家をし、また土地を購入することを目標にもって海を渡ったものであるが、今やこのような夢はすてている。
 生活意識が高まるにつれて、朝鮮農村がその安住の地でなくなるのである。若い者は、日本へ出発の当初から、出稼ぎ心理というより、自由な社会生活を求める移住の気持ちが強く作用している。これは次男三男に限らず、夫や長男の場合においても、妻子を同行ないし呼び寄せたり、あるいは日本で結婚して定着する傾向が強くなっているのは否めない事実である。……日本へ渡航した者で昭和8年ごろから帰村者の減少傾向が著しい。これも同じく出稼ぎより移住へを示すものであろう。
日本でも生活意識の変化で、若者が農村の生活を嫌って都会へ流出していった。同じようなことが朝鮮でも起こったのであろう。

農家を相続できない次男三男が仕事を求めて日本に渡って来たというのは、在日1世の平均渡日年齢が19.1歳と非常に若いことからも推測できる
「 アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書- 」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊
在日1世1106名( ただし渡日時に満12歳未満の者は除く )のアンケート調査結果から。
 なお同調査によると男性の渡日理由第1位は“経済的理由”で女性の第1位は“結婚・親族との同居”となっている。
「 土地を奪われた農民が仕事を求めて日本にやってきた 」という主張が間違っているというのは、土地を所有していたと考えられる壮年層の渡日がほとんどないことからも推測できるのではないだろうか。( もっとも、この調査時点(1982年)で亡くなっているのかもしれないが )
朝鮮人の内地移住は、朝鮮では食べていけない貧困層の過剰人口が内地へ押し寄せてきたものである
「 新版 在日朝鮮人―歴史と現状 」 1991年 山田照美・朴鐘鳴編 明石書店
 法務研究報告書第43集―3「 在日朝鮮人処遇の推移と現状 」( 1955年刊 )では、朝鮮人の日本への移住の原因を次のように述べている。
 通常、民族の移動は、窮迫と誘引に原因し、その窮迫は食物の欠乏、または実際的に同一に帰するところの人口過剰の結果による。朝鮮人一般労働者の日本内地移住の原因もこれであり、具体的には、左の三点に帰する。
( イ )日本統治下において、朝鮮人人口が異常に増加したこと。
( ロ )その増加人口の主体をなした南朝鮮の農民の生活の窮迫がはなはだしく、耕地と切り離された農業労務者が多かったこと。
( ハ )当時の日本内地の経済社会がそれらを労働力として要求したこと。
そして、さらに同書は「 農村の過剰人口の流出は、朝鮮だけの現象ではなかった。日本内地の農村においても、その増加人口を養うことができず、働き盛りの者は、都市や鉱工業地帯に流入していた。朝鮮人の日本内地流入は、朝鮮を含めた日本国家内の一社会現象としての視野に包摂し得るものであるが、また、それと同日に談じ得ない特殊な民族社会の背景があった 」という。
 また、近年、日本の法務省入国管理局が編纂した「 出入国管理の回顧と展望―昭和55年度版 」(大蔵省印刷局、1981年刊 )でも、在日朝鮮人について、
大正中期以後になって、数多く我が国に移住するようになったが、その主な原因の一つは、朝鮮本土の人口増加であった。日本統治が開始された明治43年末に約1300万人であった朝鮮の人口は、終戦前には3000万人に近い数( 朝鮮本土に2500万人強、日本内地、満州、華北、ソ連などに400万人強 )に達していた。特に南朝鮮における農村の過剰人口が、鉱工業の未発達な朝鮮内では吸収されないために、低賃金労務者として日本内地に渡航することとなった。その移住は、初めは近距離のための出稼ぎ的な往来から、漸次、都市・工場・炭坑地帯に定住するようになり… と述べている。
反日コリアンは、朝鮮人が日本内地で働くことを余儀なくされたのは、総督府が朝鮮の商工業発展を抑圧していたから雇用場所がなかったためだと言うが、元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に産業化できるわけがない。日本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。

「 こんな「歴史」に誰がした 」渡部昇一・谷沢永一 平成9年 クレスト社
渡部:日清・日露戦争当時の朝鮮というのは、底知れぬ貧乏国でした。単に近代産業がないというレベルではありません。農業生産にしても、とうてい日本とは比べ物にならないものだった。「 春窮( しゅんきゅう ) 」という言葉があるくらいで、秋に収穫した米も春を迎えるころになると尽きてしまうというのが珍しくなかった。収奪なんてできるわけがない。
 また当然、商業なども発達していませんでした。日清戦争の後に、陸軍軍人であった柴五郎が朝鮮を旅行したときに驚いたのは、朝鮮には銀貨も紙幣もなくて、銅銭だけがあったということでした。つまり、当時の朝鮮には高額の貨幣が必要なかったのです。そして、その銅銭もシナから輪入した銭だった。
谷沢:日本で言うと、平安時代末期から鎌倉時代の状況です。つまり、コリアの経済は日本よりも800年遅れているわけです。
( 中略 )
李氏朝鮮においては商業は卑しいものだと思われていた。

「 朝鮮事情 」 シャルル・ダレ 1874( 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫 )
 朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。
 農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる・箒・綱・紐・ござ・それに必要な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。
 特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、徒弟期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀である。普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。たとえば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋と窯を作り、近隣の人のために雑器や土壷、時に大きな容器を作ったりするが、薪がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作業所などできはしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。したがって利潤はほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない
 朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは容易に結論づけることができる。自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取り引きが市で行われている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。
 朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だと思っている。もっとも一般的なのは5割・6割で、時には10割もの利子が要求される。
 商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。

日韓併合以前の李氏朝鮮時代は“中世”であったことを認識すべきだ。近代産業を興せる人材は一人もいなかった。